燕の軌跡

猫絵師

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イザード王国

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またオークランドからの催促か…

「公爵閣下、いかが致しましょうか?」と手紙を届けた文官はオロオロと返事を求めた。

全く、貴族にとって婚姻関係とは面倒なものだ…

「《国王陛下と臣下の説得に時間を頂きたい》とでも返しておけ」

「前回もそのように申し上げたではございませんか?

あまりお返事を先延ばしにすれば、オークランドの怒りを買うことになるのでは?」

「ならば、《イザード王国はフィーア王国に宣戦布告して、オークランド王国の要求通りに海軍を動かす》と返事をするつもりか?

我が国はオークランドと友好関係であるが、フィーアの敵国では無い。

ましてや、我が国はオークランドの友好国であって隷属国では無い対等な立場だ。

フィーアが我が国にとって害とならない以上、この戦争に乗る大義はない」

随分と舐められたものだ。

確かに我が国はオークランドに比べれば小国だ。

オークランドが本気で潰しに来ればひとたまりもないだろう。

しかしそれはオークランドにとっても諸刃の剣だ。

我が国は海路、陸路からの自由貿易にて多大な利益を上げている独立した海洋国家だ。関税を廃止し、自由な交易を重視することで、各国からの物流を仲介する役割を担っている。

我が国が無くなれば、陸海問わずに困る国は少なくない。

イザード王国を滅ぼせば、他の友好国からの信用を失墜させることは明白だ。それはオークランド王国にとって悪手である。

「オークランド国王には、《エヴァレット公爵》の名で返事をせよ。間違っても陛下のお名前で返事するでないぞ?

日和見な返事でも、《塩》と《砂糖》を付けてやれば良かろう。

今は戦続きで喉から手が出るほど欲しいものだろうからな」

私の返事を確認して、文官は渋々自分の仕事に戻って行った。

面倒くさい義兄を持つと厄介なものだ…

うんざりしながら、窓辺に寄って外を覗き込んだ。

執務室の窓からは、敷地内の離れが見える。

新たに迎えた妻のために用意した家だ。

彼女は、こんな禿げて肥えた爺には勿体ないほど美しい女性だった。

年甲斐もなく、本気で彼女に恋をした。

その身に起きた不幸から笑顔を失ったとしても、彼女の美しさは紛れもない本物だ。

悲しげに儚く微笑む姿さえ、私の目には月光の輝きの様に映る。

彼女の笑顔を引き出そうと何度も試みたが、全て失敗に終わった。

オフィーリアの本当に欲しいものは、私には用意出来なかったからだ。

ドレスも宝石も、愛らしい子犬さえも、彼女は受け取らなかった。

『私が欲しいものは一つだけです』と頑なに贈り物を断る姿は健気で、彼女の願いを叶えたいという思いに駆られた。

結局、彼女からの信頼を得るのに、半年もの時間を費やした。

『私の息子を…ヴィヴィアンを取り返してください』

彼女はどれほどの勇気をだして私に哀願したのだろうか?

もし、私がそのことを彼女の兄に告げれば、事態は彼女にとって最悪なものになったであろう。

しかし、彼女は私に信頼を寄せて、この話を私にしたのだ…

オークランドの戦の混乱に乗じて、ランチェスター公子の行方を探させたが、二つの結論に至った。

《ランチェスター公子はルフトゥキャピタルの王城にて幽閉されている》

《ランチェスター公子は既に国外に亡命している》

どちらが正しいかは定かではない。

もしかすると、既に亡き者にされている可能性だってある。

それでも私は彼女の夫となるために、彼女の願いを諦める訳にはいかなかった。

「旦那様」と呼ぶ声に、窓から視線を外した。

振り向いた私に、執務室を訪ねてきた侍医が「散歩の時間です」と告げた。

贅沢三昧を続けた結果、死神に取り憑かれてしまったので、死神を引き離すためにやむなく運動しなければならない。

以前はうんざりする時間だったが、今では貴重な時間となっている。

屋敷の庭をオフィーリアと歩くだけの時間だ。

中庭に向かうと、侍女を連れたオフィーリアの姿があった。

彼女は凛とした表情を崩さずに、私に最低限の礼を尽くしてお辞儀をした。

「待たせたな、オフィーリア。さぁ、参ろう」

彼女は表情を変えずに頷いて、私の隣に並んで歩いた。

屋敷をゆっくりと歩いて、敷地内の池の前まで来て休憩した。

少しの運動でも私にとっては苦役だ。

汗が溢れて息が上がった。

中庭のベンチに腰を下ろして休んだ。

「公爵様に何か飲み物を」と彼女は侍女に命じて、飲み物を取りに行かせた。

二人きりになって、用心深い彼女はようやく口を開いた。

「あの子はまだ見つかりませんか?」

彼女の関心事はそれだけなのだろう。そして私の存在も…

「探しておる。待たれよ」

私の言葉に、オフィーリアは黙って目を伏せた。その顔からは落胆が滲んでいた。

おおよそ夫婦らしからぬやり取りに、まだ彼女は心を開いてないのだと思い知らされる。

花のかんばせは損なわれたまま萎れてゆくのだろうか?

「オフィーリアよ。私はできる限りの手を用いてランチェスター公子を探しておる。

其方の兄に悟られぬよう、慎重に動いているのだ。どうしても時間はかかる」

「存じております…

それでも…こうしてる間にも、あの子は…」

「私も人の親だ。我が子を思う気持ちは分かる」と言葉を詰まらせる彼女を慰めた。

両手を強く握って俯くオフィーリアの姿は痛々しい。

何とか彼女の気を紛らわせるものはないかと思案したが、それも徒労に終わった。

彼女との沈黙に割って入るように、飲み物を持って侍女が戻ってきた。

この話は終いだ…

用意された紅茶を飲んで席を立った。

黙って彼女と並んで同じ道を戻るだけだ。

彼女と離れで別れる時に、事務的な通達をした。

「オフィーリア。国王陛下主催の新年会のドレスを用意しなさい。宝飾品も好きなものを買い求めよ。

もし望むなら、護衛を連れて外に出る事も許可する」

私の言葉に、彼女は無言で完璧なお辞儀をして離れに戻って行った。彼女は最後まで冷たい表情を崩すことは無かった。

「奥方様を甘やかしすぎでは?」

私の護衛を担当するペラム卿が眉を寄せて、彼女の背を睨んでいた。

「仮にも、この国の王に最も近い存在である公爵閣下に、あのような無礼な態度…いくらオークランドの王族とはいえ許せませぬ」

「良いのだ。彼女は公的な場では完璧な淑女だ。あれ以上の貴婦人はおらん」

惚れたのは私の方だ。

彼女の我儘を許すのは、惚れた弱みというやつだ。

それに、彼女は心こそ開かないが、見た目も所作も完璧な淑女であるのは紛れもない事実だ。

全てが自由になる立場でありながら、自由にできない彼女にこれほどまで心を惹かれるのは美しいからだけではないだろう。

彼女の笑顔を見たいという、それだけのために、危険を犯して、巨額の私財を投じた。

果たして、彼女の心を溶かすのに、どれほどの対価が必要だろうか?

愛とは難しいものだ、と自嘲するように一人で笑った。

✩.*˚

「イザード王国ですか?」

「左様」と私に話を振った相手は生真面目な様子で頷いて返した。

彼はフィーア王国の重鎮で、《東海侯》として名の知れたハンブルク侯爵家当主だ。

彼はわざわざヴォルガシュタットの南部侯の別荘を訪ねてきた。

《東海侯》は、その名の通り、フィーアの東側に広がる大洋に面した土地を守護する役目を担っている。

フィーア王国の海軍は、実質彼の指揮下にあると言っても過言ではない。

ハンブルク侯爵家は、フィーアの領海を守るという重要な役目と共に、海上貿易の責任者でもある。

「来年…いや、もう今年の春からだな。

フィーア王国への砂糖の供給を減らすとの通達を寄越してきた。

オークランドとの戦で、取引上の不信と、天候不順による砂糖の不足が主な言い訳のようだが、それだけではなかろう」

「それは、急な話ではありませんか?

南国からの砂糖の供給が減らされるとなれば問題ですね…」

「全くだ。大方オークランドからの嫌がらせだろう。あの国の宰相の新妻はオークランドの王女だったからな…」

ハンブルク侯爵は苦々しく私見を述べた。

フィーアの自国での砂糖の原料の栽培は僅かで、ほとんどは輸入に頼っている。

戦時下でも、陸でしか接していないオークランドとの戦火は、海洋においてはその影響はほとんどないはずだ。おそらく、ハンブルク侯爵の見立ては正しいだろう。

「ヴェルフェル侯爵の弟君の勧め通り、砂糖の契約を年間でしておいて良かった。

とりあえず、春までは制限の猶予があるし、国庫にも余剰分として在庫が残っている。

早急な値上げには至らないだろう」

侯爵はそう言って、カールに感謝していた。

リューデル商会は儲かってるようだな…

「またリューデル伯爵に今後の方針についてアドバイスを頂きたかったのだが…」

「弟には私から伝えましょう」とカールへの伝言を預かった。

それにしても由々しき問題だ。

無理をして新年会に参加してよかった。

戻ったらカールと相談の上、何らかの対策を講じなくては…

東海侯と自領やカナルの情勢などの話をしていると、ラーチシュタットから到着したアレクが合流した。

東海侯はアレクと挨拶を交わすと、話を切り上げて去って行った。

まだアレクに聞かせるような話でないと判断したようだ。若者の間で噂になるのは避けたかったと見える。

話を邪魔したようになってしまったアレクは、居心地悪そうに私に詫びた。

「お邪魔して申し訳ありません。ハンブルク侯爵閣下は何と?」

「世間話だ。気にするな」と濁して、アレクの佇まいを確認した。

まぁ、悪くないな…

新年会の前に、新たに用意させた礼服を確認した。

「どうだ?新しい礼服は?」

「些か派手ではないかと…

今年の流行はこれですか?」とアレクは苦笑いで試しに袖を通した礼服に視線を落とした。

去年同じ意匠の礼服を着て出席していた男は文句ダラダラだったな…

「若いのだから、そのくらい派手でも構わないだろう?よく似合ってると思うぞ」

「では、父上もいかがですか?」

アレクはそう言って、肩にかかったカーテンのようなマントを摘んでみせた。

いかにも邪魔そうで無駄な見た目の礼服は、私の好きな意匠ではない。

「私は年相応だ。

お前はまず顔を覚えてもらうことだな」

「ずるくありませんか?」

「ふふ。大人とはそういうものだ。

そういえば、ロンメル男爵が礼服を着用した折、スーが喜んでいたな」

「スーが?」と息子は親友の名前に反応した。

「うむ。ロンメル男爵に『カーテンみたいだ』と言って茶化していた」

「…それは…悪口では?」

「同じ服を着させられた、と後で手紙でスーに愚痴を言うといい」と笑うと、息子は苦笑いで「返事が楽しみです」と答えた。

✩.*˚

今年は新年会の参加がなくて助かった…

今年の新年はテレーゼとフィーを愛でることから始められそうだ。

何故かドライファッハからの親戚の強襲にあったが、それはそれでまぁ、良いだろう。

フリッツの娘のエマとは初めましてだ。

嫁さんに似たからなかなか可愛い。髪の毛はフリッツから貰ったみたいで、どことなく、もう1人の《エマ》の面影があった。

人見知りはしていたが、すぐに同じくらいの子供たちと仲良くなったようだ。

そして、今回の訪問で、知らない間に親戚が増えていた。

「ジビラおめでとう」

テレーゼはジビラの手を握って彼女の幸せを喜んでいた。

彼女の傍らには若い男の姿があった。

「良かったじゃねぇか?」と親友を肘で突いた。

「まぁな」と答える男は少し寂しそうだ。

「まぁ、本人たちで決めたんだ。

大御所も反対しなかったし、あの坊ちゃんも腕のいい真面目な職人だ。粗探ししたところで何も出ねぇよ」

フリッツはそう言いながら履いていた靴を見せた。

しっかりとした造りの洒落た靴だ。

「いい仕事をする」とフリッツは娘の婿になる男を褒めた。

茶色い革靴は丈夫そうで、意匠も洒落ている。

小汚い傭兵だった男の見てくれは少しマシになって、団長というのも板についてきた。

「お前も作ってもらえ」と、フリッツは俺の肩を掴んで、息子になる男のところに押して行った。

「おめでとう」と姪っ子を祝福した。

ジビラは嬉しそうに「ありがとうございます」と答えて、夫になる男の袖を引いた。

「フィデリオ・コンフォートです」とオドオドした様子で挨拶した男は、どうにも頼りなさそうに見えた。

「俺の可愛い姪っ子だ。大事にしろよ?」

「も、もちろんです!」

今にも倒れてしまいそうなくらい繊細そうな青年は、俺の差し出した手を強く握って答えた。

「そんなにビビるなよ」と笑うと、傍らでフリッツが苦笑いした。

「ビッテンフェルトに挨拶に来た時、こいつ俺の顔を見てぶっ倒れたんだぞ。捕って食いやしねぇってのに小心者だ」

「もう!それはお父様が怖い顔してたせいですよ」とジビラがフリッツを叱った。

フィデリオは引き攣った顔で乾いた笑いを漏らした。どうやら事実らしい。

「まぁ、逃げずに来たのは評価してやるよ」とフリッツは意地悪く娘の婿さんを虐めていた。

「フリッツの靴見せてもらったが、なかなかいい仕事するな。

俺のも頼めるか?」

「も、もちろんです!僕なんかでよろしいのですか?!」

「あら。それなら私もお揃いで欲しいです」とテレーゼも笑顔で催促した。

「沢山歩いも疲れない靴が欲しいです。走りやすいともっといいです」

テレーゼらしい注文だ。

真面目そうな青年は、靴の話になると少しだけ饒舌になった。

仕事熱心な奴は嫌いじゃない。傭兵には向かないが、なかなか見所のある奴だ。

お揃いでフィーの分まで依頼した。

「ご依頼ありがとうございます、叔父様」とジビラも嬉しそうに礼を言った。

「僕にとっては一番大きな仕事になりそうです。

できる限り良いものを作りたいと思います」

「ロンメル男爵と夫人のご依頼ですもの。私たちにとって良いスタートになりそうですわ」

若い二人はそう言って笑顔を共有した。

「そういえば、兄貴の方はどうしたんだ?留守番か?」

「あぁ、ブルーノか?

あいつも来たがってたがな。ビッテンフェルトが全員留守にするわけにいかないから、俺の代わりに留守番だ。

ヨナタンもいるし、問題無いだろうさ」

「帰ったらいじけてるかも知れないぜ」と返すと、親友は「違いねぇ」と豪快に笑った。

久しぶりに会ったが、やっぱりフリッツはフリッツのままだ。それに何となく安心を覚えた。

「ワルター様。明日ジビラとお出かけしてもよろしいでしょうか?」とテレーゼが俺に訊ねた。

「子供たちにジビラを紹介したいのです」

「いいんじゃないか?ガキども喜ぶだろうよ」

ジビラの作った紙芝居は子供たちに大人気だ。本人に会ったらきっと喜ぶだろう。

「旦那様ぁ」

ルドがやってきて、外に行っていいかお伺いに来た。

「お邪魔します。

旦那様、フィリーネ様お外に行きたいって。エマ様も一緒にいい?」

ルドの姿を見て、フリッツは屈んで懐かしい仲間の面影のある子供に絡んだ。

「おっ!お前 《ルド》か?デカくなったな!」

熊みたいな大男に勝手に抱えられて、懐っこいルドも悲鳴を上げた。

「なんだ、あいつにそっくりだな!」

「子猫じゃねぇんだ、下ろしてやれよ」

フリッツに解放されて、ルドはすぐに俺の後ろに隠れた。子猫みたいに警戒してる。

「エマの親父さんだ。見た目はあれだが怖くねぇよ」

「…こんにちは」とビビりながらルドが挨拶した。

「おう。あいつと違って礼儀正しいじゃねぇか?」とフリッツもご満悦だ。

「外に行くならちゃんと暖かい格好して、誰かに着いてきてもらえよ?」

「うん」と頷いて、ルドは俺の影を離れて子供たちの元に戻った。

「お前のところの乳母はどうした?」とフリッツが訊ねた。

「これだ」とジェスチャーで教えると、フリッツも「あぁ」と頷いた。

トゥルンバルトのところには《雲雀》が来たらしい。

しばらく乳母はお休みだ。

「いいな、子供が増える。

うちはこれ以上増えないからな。エマも同じくらいの遊び相手ができて嬉しいだろうよ」

「何言ってんだ?増えるだろ?」と笑って、フリッツの娘夫婦を示した。

「お前も《お祖父ちゃん》って呼ばれるんだぜ」とフリッツの幸せを茶化した。

苦笑いで応えたフリッツは、「早すぎだ」と言っていたが、《お祖父ちゃん》と呼ばれるのも時間の問題だ。

まぁ、そうなったらそうなったで可愛がるんだろう?

ルドがケヴィンを呼んできて、子供たちは手を繋いで仲良く中庭に出て行った。

甲高い笑い声が窓の向こうから届いた。

「あら、楽しそう」とテレーゼも窓辺に寄って子供たちの様子を見て笑っていた。

「寒いのに元気ですね。エマも楽しそう」

「私も仲間に入れてもらおうかしら?」

ジビラとテレーゼはクスクス笑いながらそんなことを言っていた。

テレーゼに手招きされて、彼女の隣に並んで、窓の外を覗いた。

ん?何やってんだ?

こっちにお尻を向けていたと思ったら、フィーは何かを手に振り返った。

あー…やりやがったな、タヌキ娘…

紫の菊の花を根っこごと引っこ抜いて握ってる。

「豪快な嬢ちゃんだな」とフリッツに言われるなんて相当だ。

それをどうするのか見ていると、フィーは引っこ抜いた花を手に、子供たちのところに戻って花を配り始めた。

花を貰ったエマは嬉しそうにはにかんで、フィーとハグしていた。

お揃いの花を握って、庭で遊ぶ子供たちを窓辺から見守った。

✩.*˚

北風に舞い上がった紙切れがヨナタンの足に纏わり付いた。

彼は舌打ちして、纏わり付いた紙を足で振り払おうとしていた。

寒いから手を使うのが億劫なのだろう。

紙切れは余程彼を気に入ったのか、足を振っただけでは取れなかった。

「取るよ」と言って彼に手を貸した。

新聞のように細かい文字が並んだ紙切れを、ヨナタンから引き剥がした。

ちょっとした好奇心で少し目を通して、その行動を後悔した。

「何だ?ゴシップ記事か?」

僕の手から紙切れを攫って、ヨナタンも記事に目を通して眉を寄せた。

「アルド、こんなの気にするな」と彼は言ったが、記事の内容は僕に関係ある事だ…

《ランチェスター公子》は未だ行方不明で、様々な憶測を呼んでいるらしい。

ヨナタンは紙切れを丸めて道に捨てると、寒くて引っ込めていた手を僕に向かって差し出した。

「ほら、飯食って帰るぞ」

「うん」と頷いて彼の手を握った。

ポケットに隠れていた硬い手のひらは温かかった。その温もりに、さざ波立った心は穏やかに凪いだ。

「いつもので良いだろ?」

店に着くと、ヨナタンは馴染みの給仕に安い定食を二人分頼んだ。

今日も寒い北風に当たって身体が冷えていた。温かい食事なら文句はない。

温められたワインを飲みながら食事を待った。

「あいつら良いもん食ってるんだろうな」

ヨナタンの言う《あいつら》とは団長たちの事だろう。

留守番で置いていかれたブルーノ様は、つまらなそうにため息を吐いていた。

「僕にはこれがご馳走です」

「よく言うぜ。もっと良いもん知ってるだろ?」とヨナタンは彼らしく皮肉っぽい言葉で返した。

「底辺も知ってますよ」と返すと、彼は小さく笑って「そうだったな」と頷いて、話題を変えた。

「明日、俺はブルーノに着いて新年の挨拶回りだ。

新年の挨拶ってのは面倒だが、商売には必要だからな。

明日は一人で留守番できるか?」

「僕は小さい子じゃないですよ。留守番くらいできます」

「悪いな。終わったらすぐ戻る」と彼は約束してくれた。彼は約束は守る人だ。

「じゃあお腹空かせて待ってますね」

「いつもよりは良いもの食わしてやるよ」とヨナタンはもう一つ約束を増やした。

普段は贅沢しない彼が約束してくれたから、それなりに期待して良いだろう。

向かい合って暖かい食事を口に運んでいると、ヨナタンの視線が他に向けられているのに気がついた。

「ヨナ?」

何だろう?

彼の視線の先を追おうとすると、ヨナタンは手を伸ばしてそれを阻んだ。

彼は少し怒っているような顔で何かを睨んでいた。

「…飯食ったらすぐ出よう」

「う、うん」

何だろう?何かあったのかな?

彼の視線の先も、理由も確認できないまま、急いで食事を済ませて店を出た。

表に出ると、外は雪がチラついていた。

ヨナタンは相変わらず不機嫌そうな顔のまま、僕に外套のフードを被せると、肩を抱いて早足で歩いた。

何かから逃げるような彼の姿に違和感を覚えた。

ヨナタンは家の前を通り過ぎて、宿屋に入った。

彼は宿屋の主人のお爺さんを呼ぶと、少し話をしてから、僕の背を押して宿屋の裏口から外に出た。

地元の人しか知らなそうな、暗い路地を通って表の通りに出ると、ヨナタンはようやく僕に向かって口を開いた。

「もう大丈夫だ」と言って彼は僕の頭を撫でた。

ヨナタンの顔はもう怒っていなかった。

「何かあったんですか?」

「俺の考えすぎかもしれないが、やたらこちらをチラチラ見てくる奴がいた…

同時に席を立ったし、薄気味悪いからいてやった」

ヨナタンはそう言って、僕の肩を抱き寄せた。彼の手は冷たく凍えていた。

その冷たい手が何よりも心強く感じた。

「ありがとう、ヨナ」

「寒かったな。帰ろう」とヨナタンは僕の背を押した。

今度は北風から逃げるように、二人で暮らすあの小さな部屋に帰った。

✩.*˚

「ごめんください」

宿屋に足を踏み入れると、すぐに出てきた宿屋の主人に、「満室だよ」と拒まれた。

宿に泊まるのが目的ではないが、何も無く追い返されるのも都合が悪い。

「さっきの二人で満室?」と食い下がると、宿屋の主人は肩を竦めて答えた。

「まぁ、そんなとこだ。他の宿屋をおすすめするよ」

「困ったな。物置でもいいから泊めてくれないか?」

「あいにく荷物でいっぱいでね。人様を泊めるような隙間もないのさ。悪いね」

歳のいった宿屋の主人は私を追い返したいらしい。何を口実にしても通してくれそうにない。

仕方なく他の手を使うことにした。

「子供を探してる。親戚の子だ。

さっき入って行った子にそっくりなんだ。確かめたい。少し顔を見るだけでいい」

情に訴えたが、宿屋の主人は少し眉を顰めただけで、首を縦に振ることは無かった。

宿屋の主人に頼み込んでいると、奥から柄の悪い連中が出てきた。

「よぉ、親父さん。揉めてんのか?」

「つまみ出すかい?」

「騒ぎになるのは御免だよ」と宿屋の主人は男たちに答えた。

用心棒か?

騒ぎになるのは私も望むところじゃない…

「うちも宿屋なんでね。お客さんに迷惑かけられないのさ。

さっきの子供なら嫌そうにもしてなかったよ。

一応商売してるから、そのくらい分かるつもりだよ。あんたの気のせいだろ?」

宿屋の主人はそう言って、紙切れに何か書いて私に渡した。

「そこなら空いてるだろうさ。少し離れてるけど、今日はそこにお泊まりよ」

親切に宿を紹介してくれたらしい。

柄の悪い用心棒の目もある。ここで揉めて騒ぎになれば依頼主にも迷惑がかかる。

「親切にどうも」と礼を言って、宿屋を後にした。

食えない主人だ…

仕方ない、しばらく様子を見よう…

宿屋を振り返って建物を見上げた。

何処にいる?ランチェスター公子…

懐から似顔絵を出して眺めた。

さっきの少年はよく似てた。この似顔絵より、少し成長していたのが、さらに現実味を帯びた。

北風に攫われそうになって、似顔絵をまた懐に忍ばせた。

寒いな…

身体を縮めて、冷たい風から身を守れる宿に向かった。
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