燕の軌跡

猫絵師

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お散歩

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多少問題はあったが、パウル様は無事回復されたので、アインホーン城に戻ることになった。

パウル様はカナルに残してきた愛馬の到着を待って、城に帰る事になっていた。

「久しいな、フィクス」

パウル様は、到着した愛馬を撫でて可愛がっていた。

堂々たる白馬は鬣と同じ色の銀色の尾を振りながら、子馬のように主人との再会を喜んでいた。

「乗って帰るとか仰らないでくださいよ?

そんなことをすれば、侯爵夫人からお叱りを受けます」

バルテル卿がパウル様と愛馬の再会に水を差した。

「すまんな、フィクス。あの怖い顔の男がダメだと言っている」

パウル様を乗せれると思っていた馬は、不機嫌そうに鼻を鳴らして地面を蹴飛ばしていた。

「私を悪者にするのは止めて下さい。

フィクスシュテルン号はただでさえ扱いが難しいんですから…」

「そこが可愛いでは無いか?」

「閣下は可愛いでしょうが、世話する方は大変なんです」とバルテル卿は不機嫌に答えた。

「気難しいんですか?」とバルテル卿に訊ねると、卿は困ったようなため息を吐いて答えた。

「良い馬ではあるのですが、非常に気位が高いのです。

相手を見ると言うか…その…格下と思う相手の言うことは全く聞きません。世話をするのも一苦労です。

ここまで連れてくるのだって、苦労したんですよ…」

「そりゃ…賢そうな馬ですね…」

「えぇ…アイリス号を見習って欲しいですよ…」とボヤきながら、バルテル卿はまた思い出したようにため息を吐いた。

どうやらものすごく面倒くさい馬のようだ。

アダムに世話を頼むかと思ったが、面倒になるのも困る。

「馬房に入れられるのが嫌いなので、裏の馬場をお借りします」と言って、バルテル卿がパウル様から馬を預かろうとした。

「ブルル…」

不機嫌な馬は歯を鳴らしてバルテル卿を牽制していた。本当にヤバそうな馬だ…

というか、バルテル卿を目の敵にしている気が…

「だ、大丈夫ですか?」

「お気になさらず。いつもの事です。

私が閣下から引き離すので、フィクスシュテルン号は私が気に入らないんです。

でも、私にやり返すと主に叱られると知っているので、余程でない限り些細な抵抗しかしません」

「そう言うな。しばらく私が構ってないから少し気が立っているだけだろう?

フィクス、馬場まで連れて行ってやろう」

馬はパウル様の言葉を理解して、バルテル卿に向かって歯を鳴らすのを止めた。

めちゃくちゃ分かりやすいな…

アイリスは誰が世話しても従順で大人しい。アーサーの躾が良かったんだと改めて思った。

「アダムに馬場を空けておくように伝えます」と言って、先に馬場に走った。

馬場にはアイリスとリリー親子の姿があった。

「アダム、掃除中悪いが、馬場を空けてくれないか?」

「何かありましたか?」

「パウル様のフィクスシュテルン号を入れておきたいんだ。

どうやら気難しいらしい。下手に繋いでおくと機嫌を悪くするらしいんだ」

「なるほど」と頷くと、アダムは掃除の手を止めて、馬を片付けに向かった。

アダムはまずリリーとザラを呼ぶと、馬房に連れて行った。

「アイリス。お前も戻ってこい」

こちらの様子を伺っていたアイリスを呼ぶと、彼女は素直に言うことを聞いた。

「よしよし。お前は素直な良い女だな」と褒めて、馬場から連れ出そうとしていると、「アイリス号がいたのか?」とパウル様の声がして振り返った。

「相変わらず、卿には勿体ないくらいの良い馬だな。私が欲しいくらいだ」とパウル様はアイリスを褒めた。

「そりゃ、オークランドでも屈指の名門貴族のお坊ちゃまから取り上げた馬なんで」と自慢にならない事を言っていると、傍らでフィクスシュテルン号がアイリスに顔を寄せた。

「おや?珍しいな?

フィクスの方から挨拶するなんて…」

「美人に弱いんですかね?」と笑って冗談を言って、アイリスの手綱を引いた。

厩舎に引いて行こうとすると、フィクスシュテルン号はアイリスに着いてこようとした。

「フィクスはアイリス号を気に入ったようだな」

「あいにく、《発情期フケ》なら過ぎてますよ。

どうしてもって言うなら、来年の春まで待って下さい」

「アイリス号との子なら良い馬が産まれそうだな」とパウル様は楽しそうに笑った。

「オークランドの名馬とフィーアの悍馬を交配させたらどうなるのか興味がある」

「許可ならアーサーに取って下さい。

アイリスは生娘なんで」

「なるほど。オークランドでは《清らかな乙女は矢に当たらない》という迷信があったな」

「らしいですね。まぁ、当たる時は当たると思いますが…」

「オークランド騎士にとっては重要な条件だ。

フィーアの南部では、突撃を恐れない強健な馬の方が人気があるな。

まぁ、善し悪しだ…

フィクス。いい加減、私が恥ずかしいからアイリス号のお尻を追いかけるのはやめてくれ」

グイグイと引っ張っていこうとする馬の手綱を引いて、パウル様は苦く笑った。

美女を追うのを叱られて、馬は不満げに嘶いて頭を上下に振っていた。

アイリスは追いかけられなくなったので、落ち着いたようだ。俺の肩に顔を寄せて、甘えるようにモソモソと服を食んでいた。

そりゃ、気もないのに男に尻を追いかけられるのは嫌だろう。

執拗い男の顔面に蹴りを入れなかっただけ偉い。

アイリスをアダムに預けて、フィクスシュテルン号を馬場に放した。

「さて、帰る前に孫娘の顔を見ていくか…」

そう言って、パウル様はバルテル卿を伴って屋敷に足を向けた。

「アダム、後いいか?」

「かしこまりました。お世話致します」

アダムの返事を確認して、早足でパウル様たちの後を追った。

「今回はロンメル家にも迷惑をかけた。後日何かしら礼をさせてもらう。

私の身勝手で多くの人間に迷惑をかけた…」

今回の件はさすがのパウル様も反省したらしい。

パウル様の傍らで怖い顔をしていたバルテル卿も黙って頷いていた。

「しかし…帰るのが怖いな…

久しぶりにガブリエラから叱られそうだ…」

「そりゃ、それだけの事をしましたからね…」

「全く、私まで連座です。かくなる上は、夫人からしっかりお叱り頂かねば」

バルテル卿は容赦なくパウル様を責めた。珍しく、今回の件は腹に据えかねているらしい。

「バルテル、お前は私の心配はしてくれないのか?」

「生憎、今回の件は自業自得というものです。

他人まで巻き込んで…いい加減、自分の立場を弁えて下さい」

バルテル卿の言葉に、ぐうの音も出ないパウル様は黙って肩を竦めて見せた。

パウル様は屋敷に戻ると、名残惜しそうに孫娘を抱いてお別れをしていた。

「そういえば、フィーの縁談を幾つか預かっている」とパウル様は嫌な話に話題を持ち出した。

「新年会でテレーゼを見て、皆フィーに期待しているようだ。

ワーグナー公や、他の大貴族がこぞって立候補していてな…

かなり豪華な面々だったぞ」

「フィーはまだ2歳ですよ…」

「まぁ、良家の子女ならありえない話でもない。

とりあえず、流産の件があったから喪中として保留にしているが、これからフィリーネも大変そうだな」

「なんとも皮肉ですな…」

俺としては笑えない話だ…

テレーゼのいない時にこの話をしたのは彼女を気遣っての事だろう。

「テレーゼには負担になるだろうから聞かせたくなくてな…

まぁ、卿も焦ることは無い。今後のことはゆっくり考えれば良い」

そう言いながら、パウル様はフィーを可愛がっていた。

「おじいちゃま、おさんぽ」

「そうか。お散歩が好きか?

レディのお誘いを断る訳にはいかないな」

「無理しないでくださいよ」

「フィリーネのお散歩に付き合うくらいの体力ならある」と答えて、パウル様はフィーを抱っこしたまま玄関に向かった。

玄関に着くと、ちょうど学校から戻ったばかりのテレーゼと鉢合わせた。

「忘れ物か?」

「いえ、そろそろお帰りになるお時間かと思いましたので、お見送りに戻りました」

笑顔で答えたテレーゼは、パウル様の腕に抱かれたフィーに声をかけた。

「おじいちゃまが元気になって良かったわね、フィー」

「おさんぽすりゅの」とフィーは歯を見せて笑った。

「あら、良いわね。私もご一緒してもよろしいですか?」

「私はフィーのエスコートをさせてもらう。

ロンメル男爵、娘のエスコートは任せたぞ」

パウル様はそう言ってフィーと先に歩いて行った。

「エスコートですって」とテレーゼがクスクスと笑って、白い手を俺に差し出した。

やれやれ、気の抜けない散歩になりそうだ。

彼女の手を取って、一緒にパウル様の背を追った。

フィーの言う散歩とは、庭を一周するだけの簡単なものだ。

途中でアーサーの花や、アダムの畑を荒らすイタズラも含まれるが、まぁ、ご愛嬌だ。

アーサーからは花束を貰って、アダムからは野菜をくすねてくる。後者ならもれなく泥んこになって帰ってくる。

被害者の二人は、オークランドの御伽噺にちなんで、イタズラをする幼女を《金色のタヌキ》と呼んでいた。

腹ぺこのタヌキがイタズラをするが、餌を与えたら高価なお礼をするようになるというお話らしい。

何をするのか見ていると、《タヌキ》はあちこちで葉っぱや花弁を毟りながら歩いていた。

留守中の蛮行に、帰ってきたらアーサーが苦笑いしそうだ。

彼はカナルに手紙を届けに行っていて、俺が侯爵を城まで送るからと、アイリスを譲ってくれた。

フィーは庭をチョロチョロと走り回っていたが、緑の絨毯を見つけると、クローバーの前で足を止めた。

彼女はしばらく微動だにもせずに、じっとクローバーを見詰めていたが、四つん這いになって、小さな手で緑の絨毯を毟った。

「おじいちゃまにあげりゅよ」と言って、フィーが差し出したのは四葉だ。

「おや?よく見つけたね。ありがとう」

孫娘のプレゼントにパウル様は喜んでいた。

「すごいわ、フィー。私は全然見つけられないのに…」

テレーゼは少し羨ましそうにフィーを褒めていた。フィーは褒められて得意げだ。

「お前はくれるあてがあるだろう?」とテレーゼに言って、パウル様はフィーを抱き上げた。

愛らしいキラキラした子供の笑い声が庭で煌めいた。

孫を抱いてあやしながら、パウル様は自分に言い聞かせるように呟いた。

「何一つオークランドなどにくれてやるものか…

南部を預かる身として、まだ私が倒れる訳にはいかんな」

「おじいちゃま?」

「あぁ…お前にはまだ分からない話だな。

そろそろ用意も済んだ頃だろう。シュタインシュタットに帰るとするか」

パウル様はそう言って、テレーゼにフィーを返した。

俺も用意しなければ…

そう思ってテレーゼに声をかけようとした時、遠くから聞こえた子供の声に振り向いた。

「旦那様ー!」「早く来てぇ!」と走ってきたのはケヴィンとルドだ。何故か二人とも涙目で慌てている。

「何だよ、二人とも?侯爵様の前だぞ。行儀よく…」

「大変!大変なの!」とわんわん泣きながらルドが訴えた。

普段はわきまえているはずのケヴィンさえ、慌てていて何を言ってるのか分からない。

「馬が暴れて!どうしよう?!言う事聞かなくて、とにかく来て下さい!」

「アルマがダメーってしてるの!女の子のお部屋入っちゃう!」

「は?」なんの事だ?

「とにかく来て!」と揃ってわめきたてる子供たちに手を引かれて裏に行かれた。

「げっ!」

目の前の光景に正直な悲鳴が漏れた。

牝馬用の厩舎の前には、翼を広げて威嚇する飛竜と、馬場を抜け出して、何としても牝馬の厩舎に入ろうとしている白馬の姿があった。

「旦那様…」

間に挟まれてるアダムは困り果てていた…

そりゃそうだ、侯爵の愛馬に何かあったら一大事だし、かと言ってアイリスや他の牝馬の厩舎に入れる訳にはいかない。

アダムの足元には、アルマの餌の生ゴミが散乱していた。

アルマはアイリスたちを守ろうとしている訳ではなく、自分の餌を取られると思ったみたいだ。

「…なんというか…すまんな」

気になって後を追ってきたであろうパウル様が、目の前の状況を見て、気まずそうに謝罪した。

「フィクス!牝ならお前の群れがあるだろう?

さぁ、馬場に戻るんだ!」

へー…そう?馬の分際で嫁さん何人いるんだよ?

それを差し置いて、別の美人に猛アプローチとは感心しねぇな…

あれ?なんか聞いたことのあるような…

「全く…」いつの間にか立っていたバルテル卿が、苦い顔で侯爵に冷ややかな視線を送っていた。

彼の「そっくりですな」と言う一言に、納得して手を打ち合わせたのは言うまでもない。

✩.*˚

ロンメルの屋敷で休んで、翌朝、イザークとカナルに戻った。

オークランドは動いていない。《鷹の目》の動向も分からずに、フィーア側も動けずにいた。

何も変わってないことに胸をなでおろして、戻ったと伝えるためにスーの姿を探した。

「おう、おかえり」

煙草を持つ手を掲げて、カミルは俺たちを招いた。

「オークランドに全く動きがなくてな。気味が悪いもんだ…

スーならあの伯爵に呼ばれて出てったぜ。エインズワースも一緒だ」

「ふーん…」イザークは興味無さそうに鼻を鳴らした。

「それより探し物は見つかったかい?」と訊かれて、「あぁ」と頷いた。

「すまん。迷惑をかけた」

「いいさ。お前か上の空じゃ心許ないからな。

見つかって良かったよ」

カミルはそう言って笑うと、持っていた煙草を口に運んだ。

口に溜め込んだ煙を吐き出すと、彼は「ちょっと付き合えよ」と俺を誘った。

「何?俺は?」

「お前は《待て》だよ」と、カミルは着いてこようとしたイザークを牽制して、「来な」と俺を呼んだ。

穴を開けたことで説教か小言かと思ったが、カミルは煙草を咥えながら酒保の所まで歩いて行った。

「煙草くれ。

あぁ、あと何か甘いもんあるか?」

カミルは買い物を済ますと、煙草を抜き取ったあとの包み紙を俺に押し付けた。

「何だ?」包みを広げると、中に干したイチジクが幾つか入っていた。

カミルはキザに笑って、イチジクを渡した理由を「妹に」とした。

「スーから聞いたよ。あいつスゲェ心配してたぞ。お前を連れ回した『自分のせいだ』って」

俺が勝手に失くしただけだ…しかも言えないような事で…

後ろめたさで返事を用意出来ずに、「あぁ」と中途半端な相槌を返した。

そんな俺の反応に、カミルは口元に苦笑いを浮かべた。

「やっぱり回りくどいのは良くねぇよな。

ディルク、スーとなんかあったか?」

「何も…」

「じゃぁ、お前に避けられてるってのはスーの思い違いか?」

カミルの指摘にまた言葉が止まった。

露骨すぎたか?そんなふうに思ったが、俺の違和感にカミルも気付いていた。

「気まずくなるような事があったのか?

スーの癇癪なんていつもの事だろ?殴られたくらいでお前が拗ねるとは思えねぇよ。問題はそれじゃねぇだろ?」

「あんたお節介だな」

「まぁ、スーはガキだしよ。ほっとけねぇだろ?

それに、お前がいないと、俺の負担が増えるんだ。

正直、そっちの方がいただけねぇな」

ヘラヘラと笑いながらカミルはまた煙草を咥えた。

「ここだけの話、そろそろ親父さんも限界だ…

俺もいつまでもお前らの世話してやれねぇんだよ」

「爺さん具合悪いのか?」

「いや…歳なだけさ」とカミルは寂しげに答えた。

あの爺さんは元気そうだが、確か70超えてるはずだ…

カミルの心配にも頷ける。

「まぁ、だから、お前に出ていかれると困るのさ…

スーも頼りにしてたお前がへそ曲げると思ってなかったから、それなりに凹んでんだ。

許せないなら、理由だけでも教えてやれよ」

カミルは俺に話すように促したが、それでも話せるわけが無い…

話したくない俺と、聞く気でいるカミルの間で嫌な沈黙が続いた。

無駄な時間を物語るように、煙草が数本灰になって、地面に屍を晒した。

「…言わねぇんだな」

急に響いたカミルの声は残念そうに聞こえた。

煙を含まない吐息は、落胆を滲ませていた。

「まぁ…なんだ…

お前が自分で消化できるんならそれでいいんだけどよ…俺の立場としては、お前に団長の守は任せらんねぇな」

「…外すのか?」

「まぁ、スーが受け入れるんならな…

下手したら俺もあいつと殴り合いの喧嘩だ。勝てる気しねぇや…」

「あんたも大変だな…」と彼に同情した。

「そう思うなら代わってくれよ?

俺は親父さんの守でいっぱいいっぱいなんだよ」

カミルは冗談っぽく言いながら笑っていたが、ため息は隠せていなかった。

彼は靴の先で掘り起こした穴に、煙草の吸殻を集めて埋葬した。

「話したくなったら聞いてやるよ」と言って、彼は俺に背中を向けた。

「悪いな」

「いいさ。無理に聞いて俺まで気まずくなるのはごめんだ。

まぁ、ちょっと凹んだけどな。

もっと信用されてると思ってたからよ。俺が思ってたほどでもないらしい」

おどけたように竦めて見せた肩は、来た時より下がっている気がした。彼の気遣いを無下にしたことで、少しだけ後悔の気持ちが湧いた…

「あんたは良い奴だよ」

カミルは良い奴だ。出会った時からそれは分かっていたし、今でもそう思っている。

兄貴肌で面倒見も良い。彼を慕っている奴は多い。俺もカミルは頼りにしていた。

「カミル、あんたマジで惚れた奴いるか?」

探るつもりでそんな馬鹿なことを口にした。

振り返った彼は、思った通りの反応を見せた。

そりゃ、そうだよな…そういう顔にもなる…

その反応に、身勝手な苛立ちを覚えた。

「そんなつもりじゃなかったのに、気づいちまった…なぁ、そんな時、あんたならどうする?」

隠していた言葉が溢れた。

答えなんてあるはずない。そんな事分かっている…

それでも腹に溜め込んだ悪い物を吐き出して、少しでも軽くなりたいと思ってしまう、身勝手な自分がいた。

「…なるほどな」とカミルは何か納得したように呟いて、黙って指先で俺に着いてくるように合図した。

人気のない場所に移動すると、彼は背中を木に預けて、腕を組んで俺に語りかけた。

「ここなら邪魔もないだろ?腹割って話そうや?」

「…あぁ」

「先ず断っておくがな、俺だってスーのことを何でも知ってるわけじゃねぇよ。

だからどうしても確認したいことは本人に訊け、いいな?」

「何の話だ?」

「今からお前のために、胸糞悪い話をするってこった」

カミルはそう言って、嫌々といったていで話を始めた。

「あいつの《秘密》聞いてるか?」とカミルは俺に訊ねた。

「《ハーフエルフ》で希少な存在ってのは聞いてる」と正直に答えた。

「他には?」とカミルはさらに俺から聞き出そうとした。その話を促す姿に、まだ何かあるのかと勘ぐった。

「『捕まったら変態に売られる』ってのは聞いた…

昔、危ない目に遭ったとか…

もし誰かに捕まりそうになったら『殺せ』って言われたことがある」

「そうか…まぁ、そこまで知ってんなら話は早ぇな…」

カミルは重苦しいため息を吐き出して、スーが隠していた、俺の知らないスーの話を始めた。

「お前がさ、スーに無理やりするとは思っちゃいなけどよ…あいつ、その件で昔、心も身体もボロボロになってんだ…

エルフ専門の奴隷商に捕まって、変な洗脳まがいの事されて、野郎共に犯された挙句に、《兄貴》って慕ってた奴を亡くしてんだ…

そんなことある前は、今みたいに尖ってなかったし、素直で可愛いガキだったよ」

カミルは淡々とした口調で話を続けた。

「でもな、あいつは偉いんだぜ。

そんなことあったのに、死んだ兄貴とロンメルの旦那のために、時間はかかったが戻ってきた…

あいつがお前らの前で尖ってんのも、口が悪いのも、舐められるのが怖いんだ。

あいつは何も忘れちゃいないのさ…まだ、心のどこかでビビってんだ…」

スーのうなされている姿を見ているだけに、その言葉は、俺を諦めさせるための方便には聞こえなかった。

あれからも、何度か青い顔したスーに、『あれやってくれ』と子供だましのおまじないを頼まれた。

スーの悪夢の正体はこれか…

胸糞悪い話だ…

スーの不幸を知って、怒りに震えた。

カミルもやりきれない表情でため息を吐いた。

「お前がさ、スーの悪い所を補ってんのは俺も知ってるよ。スーだってお前を頼りにしてるしな…

だからお前がそんなふうにスーを見てたなんて気付かなかったよ…」

「俺だってついこの間自覚したんだ…

気まずいなんてもんじゃねぇよ…」

隠さなくなった俺に、カミルは苦く笑って頷いた。

「確かにな…

でもまあ、スーに気付かれる前に聞けてよかったよ」

「俺は全然良くねぇよ…何も解決してねぇだろ?」

「まぁ、確かに」と無責任に笑って、カミルは背中を預けていた木から離れた。

「しかしな、他人のそんなのは《犬も食わねぇ》って言うんだ。結局のところ、お前がどうしたら納得できるかだろ?

スーの隣にいるだけでいいってんなら、目ェ瞑ってやるよ。でも、それ以上の関係を欲しがるなら、俺もお節介を焼かなきゃならねぇな…」

「俺だって分かんねぇよ…

だいたい、自分でも今の自分が気持ち悪いって思ってんだ」

「そりゃ難儀だな。ご愁傷様」苦く笑いながらも、カミルは他人事だ。

「まぁ、お前らがギスギスしてる理由が分かってよかったよ。

気まずいかもしれんが、スーに悪意があるってわけじゃないんなら、とりあえず引きはがす必要も無さそうだ。

なんなら、お前は死に物狂いでスーの事守ってやるだろ?それなら文句ねぇよ」

「なんかあったらどうすんだ?」

「ないない。お前はそういう男さ」

俺の気持ちなど知らないくせに、カミルは簡単に否定して見せた。

「俺だって色々見てきてんだ。お前は良い奴だよ」

カミルはそう言って、すれ違いざまに俺の肩に手を置いて立ち去った。

人気のない場所に一人残って、何も珍しくない地面を見詰めていた。

戻る気にもならずに、煙草を吸おうとポケットに手を入れた。

カサカサと乾いた音の包み紙が触れた。

干して甘さの強くなったイチジクは、《妹に》と貰ったものだ。

一つ拝借して煙草の代わりに口に運んだ。

干からびたイチジクは、喉の乾きを覚えるほど甘かった…

自分の行動に少し後悔して、ため息を吐いた。

何やってんだろうな…

「なにやってんだよ?」

背中にかかったのはあるはずのない声だ。

慌てて振り返ると、そこには口の悪い《妖精》が立っていた。

「…何で?」

「だってお前が『カミルとどっか行った』ってイザークが言ってたから、風の精霊に探させたんだよ。

こんななんにもない場所で何してんだよ?」

スーは首を傾げて、紫の宝石のような瞳で真っ直ぐに俺を見た。

カミルに聞いて来たわけではないらしい…

こいつの行動はやっぱり予測不可能だ。

スーは「戻るぞ」と俺を呼んだ。

「お前が戻ってくるまで、パウル様から貰った《赤鷲》開けずに待ってたんだからな」と、スーは恩着せがましく告げた。

飲みたいなら勝手にすればいいのに、その身勝手な言い分がスーらしく、それでいて確かに強がっているように見えた。

「…いいのか?」

「何言ってんだよ?お前だって手伝ったろ?

それよりほら、さっさと戻るぞ」

スーに急かされて、やっと足が動いた。

スーと並んで、カミルと来た道を戻った。

「あのさ…殴ったの悪かったよ…」と歩きながらスーの方から俺に謝った。

「あの時は何も考えられなかったんだ…

お前の方が冷静だったから、俺を止めてくれたのに…殴って悪かったよ」

カミルの言った通り、スーはその事を気にしていたらしい。

見当違いではあるが、俺の本心を知られるより、その方が都合が良かった。

「…痛かったよ」

「だから、悪かったって…まだ拗ねてんの?」

「…まぁ、少しな」と不機嫌な振りをした。

そんな俺に、スーは困ったように笑った。

「何だよ?仲直りにハグでもするか?」

そう言って、スーは俺に向かって両手を広げて見せた。

「しねえよ」とそっぽを向いた。

危ねぇな…人の気も知らないで、よくもまぁ、そんなことが言えたもんだ…

「ほら、やっぱりまだ拗ねてんだろ?」と追いかけてきた声を背中で無視した。

伸びた腕が脇から回り込んで、後ろから抱き着かれた。

「待てよ、まだ仲直りできてないだろ?」

「ガキか?!やめろって!」

引き剥がそうと、振り向いて固まった。

人間離れした綺麗な顔は、何が面白いのか知らないが、楽しそうな顔で俺を見上げていた。

クソっ!あざといんだよ、お前は!

突き放さなきゃなんねぇのに、伸びた腕は相手に応えていた。

全く、気が滅入る…

こいつには振り回されてばかりだ…

それでも嫌いになれないのは、俺がこいつの事をそれ以上に好きでいるからだ。

《愛してる》なんて気持ち悪いだろう?

伝えられない想いを隠すように、力強くスーを抱きしめた。
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