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「楽な仕事だったな」と二人に声をかけた。
アルバの《祝福》は便利だ。今まで悪戯に使われてたのが勿体ない。
「もう二度とごめんです」とアルバは嫌がってたが、なんかあったら使ってやろう。
「お疲れさん。荷物持ちありがとうよ」とディルクに声をかけると、彼はため息を吐いて応えた。
「アルバがいたから上手くいったんだ。
俺ももうごめんだぞ」
「そう言うなよ」と笑いながら彼の背を叩いた。
「ちゃんとコレはやるからさ。臨時収入だ。嬉しいだろ?」
指先で輪っかを作って見せたが、彼はあまり嬉しそうじゃなかった。
なんだよ?傭兵のくせに金じゃないのかよ?変な奴…
「危ないことばかりするな。お前はもう団長なんだ」
「なんだよ、説教か?今回は依頼だったんだ。上手くいったし、文句なんて…」
《逃げて》と精霊の声がした。
ヒリついた空気を感じて対岸に視線を向けた。この感覚…
「何だ?」とディルクも俺の視線を追った。
まさか、《鷹の目》がもう目を覚ましたのか?早すぎる!
まずい!
遮蔽物のない岸ではパウル様の姿が対岸から丸見えだ!
「パウル様!」
傍に付いてなかったのが仇になった。完全に油断していた…
目の前で、飛んできた矢がミラの背から胸を貫いた。
矢はそのままの勢いでパウル様の腹をも貫いて、河原の砂利の上を跳ねた。
その場が凍りついて悲鳴が上がる。
「パウル様!」駆け寄ろうとした俺の腕を後ろから大きな手が掴んだ。
乱暴に引き寄せられて抱えられた。
「何すんだディルク!」
カッとなってディルクを殴った。それでもディルクは俺を離さずにアルバに向かって叫んだ。
「アルバ!俺とスー消せ!」
動けずにいたアルバも、ディルクの声に反応して我に返った。ディルクの姿が薄らと消えた。
「俺が行く。お前はアルバを連れて離れろ」
抱えてたディルクの腕が緩んだ。
薄い彼の姿が俺から離れて、倒れた二人に駆け寄った。
ディルクはパウル様を担いでその場を離れた。
パウル様の姿は消えてないから、ディルクだって危険だ。いつ矢が飛んできてもおかしくない…
「ディルク…」
「団長、彼の言う通りです。それより侯爵が心配です、早く治療しなければ…」
「ミラは…」
「諦めてください」とアルバは彼女の死を告げた。
あの矢を胸に受けたのだ。即死だろう。
不幸中の幸いになったのは、彼女の胸を貫いた事で矢の勢いが僅かに削がれた事だ。
パウル様の腹部を貫いた矢は彼の命までは奪っていなかった。
パウル様の負傷で本営は大騒ぎになった。
「何がどうなっている!?」
連絡を受けて、駆けつけたリューデル伯爵が大声で騒いでいた。
バルテル卿も青い顔で慌てて幹部を集めて、状況の説明に追われていた。
「侯爵の応急処置が済んだらブルームバルトのロンメル男爵家に届けよ!
駐留している連絡用の飛竜も飛ばせ!」
パウル様に代わり、リューデル伯爵が下知を飛ばした。
リューデル伯爵の存在は大きかった。大混乱にならなかったのは彼の功績だろう。
それでもパウル様の負傷はカナルの兵士らの士気を下げてしまった。
気を抜いていた俺の失態だ…
《鷹の目》を警戒して、すぐに離れるべきだった…
リューデル伯爵の呼ばれて、彼の元に足を運んだ。
「《燕》の。貴殿には兄上の護衛としてブルームバルトに向かって欲しい」
「カナルは?」
「何とか持ちこたえて見せる」とリューデル伯爵は頼もしく答えた。
「兄上の負傷した状況を知っていて、ロンメル男爵に近しい貴殿になら頼める。
《女神》に助力を説いて欲しい」
俺にワルターを説得して、テレーゼの力を借りたいと言っているのだ。
そんな事しなくても、彼女は手を貸すだろう。
「それに、貴殿はあのレプシウス師の弟子であろう?
治癒魔法も使えると聞いている。兄上に付いていてくれ。
カナルの岸は我々兄弟と、エインズワースの兄がいれば大丈夫だ」と伯爵は補足した。
なるほど、その人選か…
今いる治癒魔導師だけでは間に合っていないらしい。
すぐに馬車が用意されて、バルテル卿らと一緒に乗り込んだ。
バルテル卿は苦い表情で、俺にパウル様の傍に座ることを許した。
「クライン殿。ブルームバルトに到着するまで、何とか閣下のお命を繋いで頂きたい」
「分かった」と頷いて血の滲んだ包帯の上に手を翳した。
パウル様は意識はないが、まだ自分で呼吸していた。あとはテレーゼの所までもってくれれば、彼女が助けてくれるはずだ…
治癒魔法を発動すると同時に馬車が動き出した。
馬の蹄の音と車輪の回る音が慌ただしさを伝えている。
速さを重視しているから馬車も揺れた。
バルテル卿は揺れに忌々しく舌打ちしたが、馬車を止めようとはしなかった。
「閣下、聞こえますか?」
バルテル卿は意識のないパウル様にずっと話しかけていた。
治癒魔法をかけ続けていると、少しずつ顔色が戻った。
「…ミラ」小さく呟く声がした。
「閣下?!」バルテル卿が立ち上がってパウル様の顔を覗き込んだ。
うわ言だったのか、パウル様はまだ目を開かなかった。
「…全く…貴方という人は…」
バルテル卿が恨めしそうに呟きながら、パウル様の手を握った。
祈るようなその姿を横目で見て、自分のすべきことに集中した。
✩.*˚
深夜にシュミットに叩き起された。
「…なんだ?」
「如何なさいましたか?」傍らで眠そうな顔でテレーゼも目を覚ました。
テレーゼまで起こすことねぇだろ、と内心呆れたが、シュミットの話を聞いてそれどころではなくなった。
「一大事です!カナルでヴェルフェル侯爵閣下が負傷したとの事です!」
慌てて二人でベッドから飛び出した。
シュミットが用意していた服に着替えながら状況を確認した。
「30分ほど前にカナルから飛竜の報せがあったとアダムに起こされました。
こちらは預かったリューデル伯爵閣下のお手紙です。
これを置いて、飛竜はシュタインシュタットに向かいました。ラーチシュタットにも別の飛竜が飛んでいるようです」
「パウル様は?!怪我の具合は?!」
「芳しくないとの事です…
急ぎブルームバルトに向かうとの事でした」
暗い顔でシュミットが答えた。
おそらく彼にも細かな情報は与えられていないのだろう。
リューデル伯爵の手紙を開いて中を確認した。
「ワルター様、叔父様は何と?」
寝巻き姿のテレーゼは心配そうに、俺の手元と顔を交互に覗き込んでいた。
「…テレーゼ、《白い手》は使えるか?」
「もちろんです」と彼女は即答した。
「シュミット。パウル様が到着したらすぐに使えるように、1階の部屋を用意してくれ。テレーゼはそこで待っていてくれ」
「かしこまりました」と答えて、シュミットはすぐに部屋を出て行った。
「ワルター様…お父様は…」
「腹に矢を受けたらしい。重傷だ…
治癒魔導師たちが処置したが、お前の《白い手》の力を借りたいと言っている」
テレーゼはショックを受けていたが、気丈にも「分かりました」と頷いた。
「お父様は私が必ずお救い致します」
彼女は両手を強く握って、真っ直ぐに背筋を伸ばした。
部屋をノックする音がして、身支度を済ませたアンネが寝室に訪れた。
「奥様、お着替えを手伝います」と告げて、アンネはテレーゼに寄り添った。
「部屋の用意が出来たら呼びに行かせる」と告げて、彼女を置いて寝室を出た。
侯爵が来るとあって、深夜にも関わらず屋敷は慌ただしくなった。
「門は?」とアーサーに確認した。
「開けてあります。アダムがいるので、到着したら報せるように伝えてあります」
「きゃぁ!旦那様、どいてください!」
真新しいシーツを抱えたミアがバタバタと駆け抜けて行った。
どうやら俺は邪魔らしい…
外に出ると少し空気が冷たかった。
門扉の前にアダムが立っていた。
「悪ぃな、こんな時間に」
「いえ…それより、侯爵閣下は大丈夫でしょうか?」
アダムも落ち着きの無い様子で、パウル様を心配していた。彼もパウル様に見逃され、恩に感じている人間のひとりだ。
「分からんが、俺たちじゃどうすることもできないからな…
テレーゼに頼るしかない…」
苦い気持ちになる。
彼女に《祝福》を使わせたくないと思いながらも、頼ってしまっている現実に苛立ちを覚えた。
「素晴らしい奥様です」とアダムは誇らしげにテレーゼを褒めた。
「侯爵閣下は大丈夫ですね。
ブルームバルトには女神がいるのですから」
「あぁ、そうだな」とアダムの言葉に頷いた。
とにかく、今はパウル様を助けるのが先決だ。
二人で門の前に立って、パウル様の到着を待った。
想像していたより早く、パウル様を乗せた馬車が到着した。
屋敷の入口に到着すると、馬は苦しそうにへたりこんだ。相当無理をさせて飛ばして来たのだろう。
それは他の全員も同じような状態だ。
アダムに後のことを頼んで、馬車から運ばれたパウル様に駆け寄った。
「ワルター!」
何故かパウル様の馬車からスーが一緒に降りてきた。スーの手はパウル様の腹部に乗せられたままで、担架で運ばれるパウル様に寄り添っていた。
スーに傷の具合を訊ねたが、返ってきた返事は苛立たしげな「分からない」というものだった。
「テレーゼは?!」
「待機してる!すぐ運べ!」
バタバタと雪崩込むように到着した一行が屋敷に入った。
「こちらへ!」とシュミットの叫ぶ声が廊下に響いた。
担ぎ込まれたパウル様の姿を見て、テレーゼも引き攣った悲鳴を上げた。
「お父様…」
「テレーゼ!あとは頼む!」とスーがパウル様から手を引くと同時によろけて倒れた。
スーも無理をしていたらしい。顔色が悪い。
手を貸そうと伸ばした手を払って、スーは「いい」と短く答えた。
「ちょっと使いすぎただけだ…
それより、パウル様は?」
「スー様。お父様の命を繋いでくださりありがとうございます。あとは私が引き受けます」
テレーゼがそう言ってパウル様の傍らに立った。
「傷が見えません。包帯を外してください」と言って、テレーゼは袖を捲った。
傷口を覆っていた包帯にハサミが入れられて、傷口があらわになる。
傷は大きく深かった。包帯を外して、また血が滲んだ。
テレーゼが深呼吸して傷口に手を翳した。
手のひらが柔らかい白い手光に包まれる。
その場に居合わせた者たちからの視線が、祈るようにテレーゼに注がれている。
「お父様…お返事下さい」と泣きそうな声でテレーゼが呟いた。
その声に反応するように、パウル様の瞼が少し震えた。
「閣下?!」固唾を飲んで見守っていたバルテル卿が、取り乱した様子でパウル様を呼んだ。
閉じていた瞼が重そうに薄らと開いた。
「…ユーディ」
「違います」
テレーゼとバルテル卿に即一蹴された…
「お父様、テレーゼです。残念ながらお母様ではありません」とテレーゼはパウル様を叱った。
「全く…本当にどうしようもないですね…」
バルテル卿も呆れながらその場に座り込んだ。
伴として着いてきていた騎士たちも力なく座り込んでしまった。
全員張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったのだろう。どっと疲れが出たらしい。
少し意識がはっきりとしてきたようで、パウル様は重たそうに頭を動かして、状況を訊ねた。
「どうなっている?」
「どうなってるもこうなってるも…
《鷹の目》の矢を受けて、死にかけたのですよ?!それで気が付いたらすぐに女の名前を呼ぶとはどういう了見ですか?!
こっちがどうなってると言いたいです!」
「死にかけた?ミラは…」パウル様が無理やり身体を起こそうとした。周りも慌ててそれを止めた。
「お父様、まだ傷は完全に塞がっていません。動かないでくださいまし」と娘に叱られて、パウル様はまたベッドに身体を預けた。
自分の身体に翳されたテレーゼの《白い手》に気付いて、パウル様は気まずそうに顔を顰めた。
「…すまん」
「お詫びなら他の皆様になさってください」
テレーゼは冷たく答えて目を潤ませた。
パウル様の気が付いて、話をした事で少し気が緩んだのだろう。
治療を続ける彼女の肩に手を添えた。
「パウル様、ご加減は?」と訊ねると、彼は「大丈夫だ」と答えた。
「皆に迷惑をかけた…」
「全くです…」とバルテル卿がボヤきながら立ち上がった。
彼は部下たちに休むように伝えて、彼らが休めるよう部屋を求めた。
シュミットを呼んで、彼に案内を任せた。
「ロンメル男爵、カナルまで馬をお借りできないだろうか?」とバルテル卿が返す馬を求めた。
「すぐにカナルに戻らねば…」と呟く忠臣からは疲労が滲んでいた。このまま出て行っても、どこかで倒れられたら元も子もない。
「伝令なら俺の名代でフォーテスキューを出します。バルテル卿もお休み下さい」
「…申し訳ない…頼めるだろうか?」
「シュタインシュタットには別の者を出します。お手紙だけお預かりします」
「何から何まで世話になり申し訳ない…お気遣い痛み入ります…」と彼は頭を下げた。
「部屋を…」と申し出たが、彼はそれを断った。
「私はここで結構です。仮眠用に何か羽織る物だけお借りしたい」と言ったので、彼の意志を尊重した。
彼は手紙を用意するために、書斎に向かった。
「俺も少し休んでいい?」と断って、フラフラとした足取りでスーも部屋を後にした。
「きゃぁ!スー!大丈夫?!」廊下からミアの声が聞こえてきた。
心配になって廊下を覗くと、廊下で待機していたディルクとミアがスーを助け起こしていた。
どうやら出てすぐに行倒れたらしい…
「大丈夫か?」
「大丈夫だ。部屋まで連れて行く」とディルクがスーを背負って立ち去るのを確認してまた部屋に戻った。
「テレーゼ、大丈夫か?」
「はい。お父様の傷は塞がりました。あとはしばらく安静にして頂ければ…」と彼女は父親の様子を答えた。
「お前は大丈夫か?」と言い直すと、テレーゼは一瞬キョトンとした顔をして、クスリと笑った。
「大丈夫です。スー様が頑張ってくれたようです。少し疲れた程度です」
「無理すんなよ?あとは俺が起きてるから、お前はもう休め。明日は学校休めよ?」
「まぁ、酷い。私の楽しみですのに…」と彼女は膨れていたが、念の為だ…
アンネを呼んでテレーゼを預けた。俺があれこれ言うよりずっと効果がある。
彼女を見送って、パウル様の許に戻った。
ベッドの傍らにあった椅子を手繰り寄せて座ると、パウル様が呟くように口を開いた。
「…世話をかけた」
「肝が冷えましたよ」と苦言を呈すると、彼は力なく笑った。
「ユーデットかと思った…私も死んだのかと思った」
「縁起でもない」と一蹴すると、パウル様は苦く笑った。
「皆のおかげで命を拾った…感謝する…」
「そう思うなら休んでください」
「手厳しいな…」と言いながらパウル様は誰かを探すように視線を巡らせた。
「…彼女は…」
「テレーゼですか?」
「…いや…いい」
彼女?誰のことだろう?ここに担ぎ込まれた時から侍女も付いてなかった。
用事を言いつけたかったのだろうか?
パウル様は何か諦めるようにため息を吐いて、「休む」と呟いて目を閉じた。
まぁ、まだ安心できないが、危うい状態は脱したようだ。
少しだけ席を外して、アーサーとアダルウィンを呼んで用事を伝えた。
彼らに手紙を預けて、カナルとシュタインシュタットに送り出して、ようやく一段落した。
気が付くと東の空が暁を迎えていた。
眠い欠伸を噛み殺して、屋敷に戻った。
✩.*˚
「ディルク、貴方も休みなさいよ?」
ミアが俺にも仮眠を勧めた。カナルから気が張りつめていたが、やはり疲れていた…
「《燕の団》まで帰るのも面倒でしょ?もうスーの隣で寝ちゃいなよ。私は仕事があるから」と彼女は寝床を俺に譲った。
とりあえず色々あり過ぎて疲れた…
ベルトを外して、汗で張り付いた服を脱いでベッドに横になった。
すぐにでも寝れそうだ…
隣を見ると、女みたいな長い黒髪が張り付いた寝顔があった。
瞼を縁取る長いまつ毛が、一本一本まで見て取れる。
黙ってりゃ綺麗なんだよな…こいつ…
そんなつまらないことを思って顔に手を伸ばした。
顔に張り付いた髪を払うと、白い綺麗な顔が顕になる。
目が離せなくなってその顔をボーと眺めていた。
あの日見たスーの姿を重ねて、触れたくなった…
こっそりとスーの唇に手を伸ばした。
スーはぐっすり眠っていた。指先はなんの問題もなくスーの唇に触れた。
いつも毒を吐いている唇は柔い。女みたいだ…
身体をずらしてさらにスーに近づいた。
疲れていたからまともな頭じゃなかった…
何時からだ?こいつをこんなふうに想うようになったのは…
別に男が好きなわけじゃない。普通に女も買って抱くし、スーの事だって、そんなつもりで一緒にいたんじゃない。
何時からか、この危うい破天荒な男に歪な感情が芽生えた。認める気なんてなかったのに…
無防備に眠る顔を見て、同じベッドに入って気持ちは抑えられなくなった。
俺はこいつに惚れてんだ…クソっ、気持ち悪ぃな…
誰かに殴って止めて欲しかった。
あの河原でスーを止めた時に殴られた顔が痛んだ。
侯爵に駆け寄ろうとしたスーを止めたのは、こいつを失うと思ったからだ…
俺の個人的な感情で、スーを止めた。こいつを失いたくなかった…
スーを失うくらいなら、俺が死んだ方がマシだと思った。あの時の行動は、それだけの感情で動いたんだ。
「…気持ち悪ぃ…」
自分を罵って拳を握った。
これ以上はダメだ…
スーとの信頼が壊れてしまう…それだけは…
スーは俺を信頼してる。こいつの隣で同じ風景を見ていられるのは、俺を信頼して特別に許されているからだ…
信頼が無くなれば、俺はスーの隣を失う…
葛藤の末に手を引いて、スーに背を向けた。
それでも背中にはスーの寝息が聞こえてくる。
寝れねぇ…
居心地悪くて、ズルズルとベッドから降りて床に寝転んだ。
冷たい硬い床の上でようやく落ち着いた。
ため息を吐いて目を閉じると、すぐに寝入ってしまったらしい。
「…ディルク…おい、ディルク」肩を揺さぶられて目が覚めた。
「床で寝るなよ、風邪引くぞ」と言いながら、眠そうな紫の視線はベッドの上から俺を見下ろしていた。
「…スー」
「何だよ?寝ぼけてんのか?」
「……」
「え?なんか言った?」
「いや…何も…」と誤魔化した。
言葉をのみこんで、また重い瞼で現実に蓋をした。
「だから、ベッド使えよ」と俺を叱るスーの声が聞こえる。
「そっちの方が寝にくいんだ…」
「…変な奴」と声がして、毛布がふわりと身体を覆った。
「使えよ。寝たら飯食ってカナル戻るからな」
「…あぁ」と答えて毛布を手繰り寄せた。
毛布は人肌の温もりを含んでいた。
✩.*˚
飛び出して行ったヴィクターを探しに行くと、彼は櫓の上で泣いていた。
赤ん坊のように泣いていた彼を、引きずり降ろして回収させたが、ヴィクターは泣き喚くばかりで話もできない状態だった。
「何があった?」
「検討もつきません」とヘンリーも迷惑そうに答えた。
放っておいて、なにかあっても困る。
仕方なく自分のテントに連れ帰って世話を焼いた。
しばらくして泣き疲れた彼は、幾分か落ち着きを取り戻した。
「…ミラ…死んだ」ヴィクターが虚ろな表情で呟いた。
「死んだ?そんな報告は聞いてないが?」
問い返した私に、ヴィクターは意外な言葉を返した。
「俺が…殺したんだ…」と彼はボソボソと聞き取りにくい声で話した。
ミラは既に向こう岸に逃げていたらしい。
周りに他の人間の姿があったから、ミラを迎えに来て連れ去ったのだろう。
その話を聞いて肝が冷えた…
その者たちがヴィクターに危害を加えなかったことに胸を撫で下ろした。
どういうつもりか分からないが、ヴィクターが無事だったなら、ミラが連れ去られた事など問題ではない。
向こう岸には彼女を待っていた男が居て、彼女との親密な姿に嫉妬したそうだ。騙されていたのだと、ようやく理解したらしい。
彼女の裏切りが許せなくて弓を引いたが、最後に振り返った彼女はヴィクターを気にするような素振りを見せたのだという。
その彼女を、勢い余って殺してしまったと言うのだ。
まぁ、彼にとっては悲劇だろう…
「俺が殺した…自分で…《家族》って…言ってたのに…俺が…」
嗚咽混じりの懺悔を聞きながら、彼をどうするか悩んだ。
この様子では、嘘を言っているようには見えない。
ミラの捜索は打ち切っていいだろう…
「ヘンリーに捜索の打ち切りを伝えよ」と親衛兵に伝えて送り出した。
「ヴィクター。そんなに自分を責めなくていい。君は、正しい選択をしたんだ。
こんな言い方は受け入れにくいかもしれないがね、ミラは君を騙した裏切り者だ。そうだろう?」
「でも…ミラは…」
「現実は変わらないのだよ、ヴィクター。
厳しいことを言うようだがね、ミラが君を裏切ったのも、君がミラを手にかけたのも現実の出来事だ。受け入れなさい」
正直な話、これは私にとって都合の良い事だ。
私がミラを手にかけて、ヴィクターの信頼を失う事も無いし、ヴィクターは絶望の中、縋る相手は私しか居ない。
《絶望》は人間に二つの異なる結果を人に与える。
一つは絶望を味わって、絶望に潰される者。
そしてもう一つは、その絶望を喰らい糧とする者だ。
前者は言うまでもないが、後者は絶望から力を得ることができる。
《絶望》を味わうのは、《祝福》を体現する者の必須条件だ。ヴィクターとて例外ではないだろう。
程度の差こそはあれ、これは良い兆しと見るべきだ…
「失礼します。団長、打ち切りと聞きました」
捜索を打ち切ったヘンリーが戻ってきた。
「彼と話してくるから、少し待っていてくれ」と言って、テントにヴィクターを残して出た。
ミラの件を伝えて、捜索が不要になったことを説明すると、ヘンリーは苦い顔で話を聞いて疲れた顔でため息を吐いた。
散々ヴィクターに振り回されて、結果がこれだ…
腹も立つし、1発ぐらい殴りたいと思っている事だろう。
「まぁ、そんなわけだ…
ヴィクターをここに置いて置いても邪魔だろうから、私が預かる。
もう寒くなってきたしな…私は彼を連れてルフトゥキャピタルに戻るつもりだ」
「兄がまだでしょう?またただを捏ねなければ良いのですが…
万が一、兄が戻ったらどうしますか?」
「…ふむ」
可能性としては低いが、可能性のひとつとして考慮しなければならない問題だ。
兄の死亡は確認できてない。もし兄が戻ってくれば、ヴィクターの保護者面をするだろう。
仲の良い兄弟だったと聞いている。
ヴィクターを《英雄》として育てるのには邪魔な存在だ…
「兄をヴィクターに関わらせるな」と命じた。
「ヴィクターは《英雄》になる男だ。
邪魔は許さん。もし、私の邪魔するようなら始末しろ」
「よろしいので?」
「《祝福》のない、ただの人間に用はない。
傭兵の替えなら幾らでもいる。ヴィクターの兄はその一人に過ぎんのだ、惜しむことは無い」
そう言って、ヴィクターの待つテントに視線を向けた。
「私はあれを完全な《英雄》にする。
《神紋》までは授からずとも、このカナルに名を刻む《英雄》にしてみせよう」
私の悲願だ。
私も老いた。これで最後だろう。それならば、最後を飾るに相応しい《傑作》を作る気でいた。
アルバの《祝福》は便利だ。今まで悪戯に使われてたのが勿体ない。
「もう二度とごめんです」とアルバは嫌がってたが、なんかあったら使ってやろう。
「お疲れさん。荷物持ちありがとうよ」とディルクに声をかけると、彼はため息を吐いて応えた。
「アルバがいたから上手くいったんだ。
俺ももうごめんだぞ」
「そう言うなよ」と笑いながら彼の背を叩いた。
「ちゃんとコレはやるからさ。臨時収入だ。嬉しいだろ?」
指先で輪っかを作って見せたが、彼はあまり嬉しそうじゃなかった。
なんだよ?傭兵のくせに金じゃないのかよ?変な奴…
「危ないことばかりするな。お前はもう団長なんだ」
「なんだよ、説教か?今回は依頼だったんだ。上手くいったし、文句なんて…」
《逃げて》と精霊の声がした。
ヒリついた空気を感じて対岸に視線を向けた。この感覚…
「何だ?」とディルクも俺の視線を追った。
まさか、《鷹の目》がもう目を覚ましたのか?早すぎる!
まずい!
遮蔽物のない岸ではパウル様の姿が対岸から丸見えだ!
「パウル様!」
傍に付いてなかったのが仇になった。完全に油断していた…
目の前で、飛んできた矢がミラの背から胸を貫いた。
矢はそのままの勢いでパウル様の腹をも貫いて、河原の砂利の上を跳ねた。
その場が凍りついて悲鳴が上がる。
「パウル様!」駆け寄ろうとした俺の腕を後ろから大きな手が掴んだ。
乱暴に引き寄せられて抱えられた。
「何すんだディルク!」
カッとなってディルクを殴った。それでもディルクは俺を離さずにアルバに向かって叫んだ。
「アルバ!俺とスー消せ!」
動けずにいたアルバも、ディルクの声に反応して我に返った。ディルクの姿が薄らと消えた。
「俺が行く。お前はアルバを連れて離れろ」
抱えてたディルクの腕が緩んだ。
薄い彼の姿が俺から離れて、倒れた二人に駆け寄った。
ディルクはパウル様を担いでその場を離れた。
パウル様の姿は消えてないから、ディルクだって危険だ。いつ矢が飛んできてもおかしくない…
「ディルク…」
「団長、彼の言う通りです。それより侯爵が心配です、早く治療しなければ…」
「ミラは…」
「諦めてください」とアルバは彼女の死を告げた。
あの矢を胸に受けたのだ。即死だろう。
不幸中の幸いになったのは、彼女の胸を貫いた事で矢の勢いが僅かに削がれた事だ。
パウル様の腹部を貫いた矢は彼の命までは奪っていなかった。
パウル様の負傷で本営は大騒ぎになった。
「何がどうなっている!?」
連絡を受けて、駆けつけたリューデル伯爵が大声で騒いでいた。
バルテル卿も青い顔で慌てて幹部を集めて、状況の説明に追われていた。
「侯爵の応急処置が済んだらブルームバルトのロンメル男爵家に届けよ!
駐留している連絡用の飛竜も飛ばせ!」
パウル様に代わり、リューデル伯爵が下知を飛ばした。
リューデル伯爵の存在は大きかった。大混乱にならなかったのは彼の功績だろう。
それでもパウル様の負傷はカナルの兵士らの士気を下げてしまった。
気を抜いていた俺の失態だ…
《鷹の目》を警戒して、すぐに離れるべきだった…
リューデル伯爵の呼ばれて、彼の元に足を運んだ。
「《燕》の。貴殿には兄上の護衛としてブルームバルトに向かって欲しい」
「カナルは?」
「何とか持ちこたえて見せる」とリューデル伯爵は頼もしく答えた。
「兄上の負傷した状況を知っていて、ロンメル男爵に近しい貴殿になら頼める。
《女神》に助力を説いて欲しい」
俺にワルターを説得して、テレーゼの力を借りたいと言っているのだ。
そんな事しなくても、彼女は手を貸すだろう。
「それに、貴殿はあのレプシウス師の弟子であろう?
治癒魔法も使えると聞いている。兄上に付いていてくれ。
カナルの岸は我々兄弟と、エインズワースの兄がいれば大丈夫だ」と伯爵は補足した。
なるほど、その人選か…
今いる治癒魔導師だけでは間に合っていないらしい。
すぐに馬車が用意されて、バルテル卿らと一緒に乗り込んだ。
バルテル卿は苦い表情で、俺にパウル様の傍に座ることを許した。
「クライン殿。ブルームバルトに到着するまで、何とか閣下のお命を繋いで頂きたい」
「分かった」と頷いて血の滲んだ包帯の上に手を翳した。
パウル様は意識はないが、まだ自分で呼吸していた。あとはテレーゼの所までもってくれれば、彼女が助けてくれるはずだ…
治癒魔法を発動すると同時に馬車が動き出した。
馬の蹄の音と車輪の回る音が慌ただしさを伝えている。
速さを重視しているから馬車も揺れた。
バルテル卿は揺れに忌々しく舌打ちしたが、馬車を止めようとはしなかった。
「閣下、聞こえますか?」
バルテル卿は意識のないパウル様にずっと話しかけていた。
治癒魔法をかけ続けていると、少しずつ顔色が戻った。
「…ミラ」小さく呟く声がした。
「閣下?!」バルテル卿が立ち上がってパウル様の顔を覗き込んだ。
うわ言だったのか、パウル様はまだ目を開かなかった。
「…全く…貴方という人は…」
バルテル卿が恨めしそうに呟きながら、パウル様の手を握った。
祈るようなその姿を横目で見て、自分のすべきことに集中した。
✩.*˚
深夜にシュミットに叩き起された。
「…なんだ?」
「如何なさいましたか?」傍らで眠そうな顔でテレーゼも目を覚ました。
テレーゼまで起こすことねぇだろ、と内心呆れたが、シュミットの話を聞いてそれどころではなくなった。
「一大事です!カナルでヴェルフェル侯爵閣下が負傷したとの事です!」
慌てて二人でベッドから飛び出した。
シュミットが用意していた服に着替えながら状況を確認した。
「30分ほど前にカナルから飛竜の報せがあったとアダムに起こされました。
こちらは預かったリューデル伯爵閣下のお手紙です。
これを置いて、飛竜はシュタインシュタットに向かいました。ラーチシュタットにも別の飛竜が飛んでいるようです」
「パウル様は?!怪我の具合は?!」
「芳しくないとの事です…
急ぎブルームバルトに向かうとの事でした」
暗い顔でシュミットが答えた。
おそらく彼にも細かな情報は与えられていないのだろう。
リューデル伯爵の手紙を開いて中を確認した。
「ワルター様、叔父様は何と?」
寝巻き姿のテレーゼは心配そうに、俺の手元と顔を交互に覗き込んでいた。
「…テレーゼ、《白い手》は使えるか?」
「もちろんです」と彼女は即答した。
「シュミット。パウル様が到着したらすぐに使えるように、1階の部屋を用意してくれ。テレーゼはそこで待っていてくれ」
「かしこまりました」と答えて、シュミットはすぐに部屋を出て行った。
「ワルター様…お父様は…」
「腹に矢を受けたらしい。重傷だ…
治癒魔導師たちが処置したが、お前の《白い手》の力を借りたいと言っている」
テレーゼはショックを受けていたが、気丈にも「分かりました」と頷いた。
「お父様は私が必ずお救い致します」
彼女は両手を強く握って、真っ直ぐに背筋を伸ばした。
部屋をノックする音がして、身支度を済ませたアンネが寝室に訪れた。
「奥様、お着替えを手伝います」と告げて、アンネはテレーゼに寄り添った。
「部屋の用意が出来たら呼びに行かせる」と告げて、彼女を置いて寝室を出た。
侯爵が来るとあって、深夜にも関わらず屋敷は慌ただしくなった。
「門は?」とアーサーに確認した。
「開けてあります。アダムがいるので、到着したら報せるように伝えてあります」
「きゃぁ!旦那様、どいてください!」
真新しいシーツを抱えたミアがバタバタと駆け抜けて行った。
どうやら俺は邪魔らしい…
外に出ると少し空気が冷たかった。
門扉の前にアダムが立っていた。
「悪ぃな、こんな時間に」
「いえ…それより、侯爵閣下は大丈夫でしょうか?」
アダムも落ち着きの無い様子で、パウル様を心配していた。彼もパウル様に見逃され、恩に感じている人間のひとりだ。
「分からんが、俺たちじゃどうすることもできないからな…
テレーゼに頼るしかない…」
苦い気持ちになる。
彼女に《祝福》を使わせたくないと思いながらも、頼ってしまっている現実に苛立ちを覚えた。
「素晴らしい奥様です」とアダムは誇らしげにテレーゼを褒めた。
「侯爵閣下は大丈夫ですね。
ブルームバルトには女神がいるのですから」
「あぁ、そうだな」とアダムの言葉に頷いた。
とにかく、今はパウル様を助けるのが先決だ。
二人で門の前に立って、パウル様の到着を待った。
想像していたより早く、パウル様を乗せた馬車が到着した。
屋敷の入口に到着すると、馬は苦しそうにへたりこんだ。相当無理をさせて飛ばして来たのだろう。
それは他の全員も同じような状態だ。
アダムに後のことを頼んで、馬車から運ばれたパウル様に駆け寄った。
「ワルター!」
何故かパウル様の馬車からスーが一緒に降りてきた。スーの手はパウル様の腹部に乗せられたままで、担架で運ばれるパウル様に寄り添っていた。
スーに傷の具合を訊ねたが、返ってきた返事は苛立たしげな「分からない」というものだった。
「テレーゼは?!」
「待機してる!すぐ運べ!」
バタバタと雪崩込むように到着した一行が屋敷に入った。
「こちらへ!」とシュミットの叫ぶ声が廊下に響いた。
担ぎ込まれたパウル様の姿を見て、テレーゼも引き攣った悲鳴を上げた。
「お父様…」
「テレーゼ!あとは頼む!」とスーがパウル様から手を引くと同時によろけて倒れた。
スーも無理をしていたらしい。顔色が悪い。
手を貸そうと伸ばした手を払って、スーは「いい」と短く答えた。
「ちょっと使いすぎただけだ…
それより、パウル様は?」
「スー様。お父様の命を繋いでくださりありがとうございます。あとは私が引き受けます」
テレーゼがそう言ってパウル様の傍らに立った。
「傷が見えません。包帯を外してください」と言って、テレーゼは袖を捲った。
傷口を覆っていた包帯にハサミが入れられて、傷口があらわになる。
傷は大きく深かった。包帯を外して、また血が滲んだ。
テレーゼが深呼吸して傷口に手を翳した。
手のひらが柔らかい白い手光に包まれる。
その場に居合わせた者たちからの視線が、祈るようにテレーゼに注がれている。
「お父様…お返事下さい」と泣きそうな声でテレーゼが呟いた。
その声に反応するように、パウル様の瞼が少し震えた。
「閣下?!」固唾を飲んで見守っていたバルテル卿が、取り乱した様子でパウル様を呼んだ。
閉じていた瞼が重そうに薄らと開いた。
「…ユーディ」
「違います」
テレーゼとバルテル卿に即一蹴された…
「お父様、テレーゼです。残念ながらお母様ではありません」とテレーゼはパウル様を叱った。
「全く…本当にどうしようもないですね…」
バルテル卿も呆れながらその場に座り込んだ。
伴として着いてきていた騎士たちも力なく座り込んでしまった。
全員張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったのだろう。どっと疲れが出たらしい。
少し意識がはっきりとしてきたようで、パウル様は重たそうに頭を動かして、状況を訊ねた。
「どうなっている?」
「どうなってるもこうなってるも…
《鷹の目》の矢を受けて、死にかけたのですよ?!それで気が付いたらすぐに女の名前を呼ぶとはどういう了見ですか?!
こっちがどうなってると言いたいです!」
「死にかけた?ミラは…」パウル様が無理やり身体を起こそうとした。周りも慌ててそれを止めた。
「お父様、まだ傷は完全に塞がっていません。動かないでくださいまし」と娘に叱られて、パウル様はまたベッドに身体を預けた。
自分の身体に翳されたテレーゼの《白い手》に気付いて、パウル様は気まずそうに顔を顰めた。
「…すまん」
「お詫びなら他の皆様になさってください」
テレーゼは冷たく答えて目を潤ませた。
パウル様の気が付いて、話をした事で少し気が緩んだのだろう。
治療を続ける彼女の肩に手を添えた。
「パウル様、ご加減は?」と訊ねると、彼は「大丈夫だ」と答えた。
「皆に迷惑をかけた…」
「全くです…」とバルテル卿がボヤきながら立ち上がった。
彼は部下たちに休むように伝えて、彼らが休めるよう部屋を求めた。
シュミットを呼んで、彼に案内を任せた。
「ロンメル男爵、カナルまで馬をお借りできないだろうか?」とバルテル卿が返す馬を求めた。
「すぐにカナルに戻らねば…」と呟く忠臣からは疲労が滲んでいた。このまま出て行っても、どこかで倒れられたら元も子もない。
「伝令なら俺の名代でフォーテスキューを出します。バルテル卿もお休み下さい」
「…申し訳ない…頼めるだろうか?」
「シュタインシュタットには別の者を出します。お手紙だけお預かりします」
「何から何まで世話になり申し訳ない…お気遣い痛み入ります…」と彼は頭を下げた。
「部屋を…」と申し出たが、彼はそれを断った。
「私はここで結構です。仮眠用に何か羽織る物だけお借りしたい」と言ったので、彼の意志を尊重した。
彼は手紙を用意するために、書斎に向かった。
「俺も少し休んでいい?」と断って、フラフラとした足取りでスーも部屋を後にした。
「きゃぁ!スー!大丈夫?!」廊下からミアの声が聞こえてきた。
心配になって廊下を覗くと、廊下で待機していたディルクとミアがスーを助け起こしていた。
どうやら出てすぐに行倒れたらしい…
「大丈夫か?」
「大丈夫だ。部屋まで連れて行く」とディルクがスーを背負って立ち去るのを確認してまた部屋に戻った。
「テレーゼ、大丈夫か?」
「はい。お父様の傷は塞がりました。あとはしばらく安静にして頂ければ…」と彼女は父親の様子を答えた。
「お前は大丈夫か?」と言い直すと、テレーゼは一瞬キョトンとした顔をして、クスリと笑った。
「大丈夫です。スー様が頑張ってくれたようです。少し疲れた程度です」
「無理すんなよ?あとは俺が起きてるから、お前はもう休め。明日は学校休めよ?」
「まぁ、酷い。私の楽しみですのに…」と彼女は膨れていたが、念の為だ…
アンネを呼んでテレーゼを預けた。俺があれこれ言うよりずっと効果がある。
彼女を見送って、パウル様の許に戻った。
ベッドの傍らにあった椅子を手繰り寄せて座ると、パウル様が呟くように口を開いた。
「…世話をかけた」
「肝が冷えましたよ」と苦言を呈すると、彼は力なく笑った。
「ユーデットかと思った…私も死んだのかと思った」
「縁起でもない」と一蹴すると、パウル様は苦く笑った。
「皆のおかげで命を拾った…感謝する…」
「そう思うなら休んでください」
「手厳しいな…」と言いながらパウル様は誰かを探すように視線を巡らせた。
「…彼女は…」
「テレーゼですか?」
「…いや…いい」
彼女?誰のことだろう?ここに担ぎ込まれた時から侍女も付いてなかった。
用事を言いつけたかったのだろうか?
パウル様は何か諦めるようにため息を吐いて、「休む」と呟いて目を閉じた。
まぁ、まだ安心できないが、危うい状態は脱したようだ。
少しだけ席を外して、アーサーとアダルウィンを呼んで用事を伝えた。
彼らに手紙を預けて、カナルとシュタインシュタットに送り出して、ようやく一段落した。
気が付くと東の空が暁を迎えていた。
眠い欠伸を噛み殺して、屋敷に戻った。
✩.*˚
「ディルク、貴方も休みなさいよ?」
ミアが俺にも仮眠を勧めた。カナルから気が張りつめていたが、やはり疲れていた…
「《燕の団》まで帰るのも面倒でしょ?もうスーの隣で寝ちゃいなよ。私は仕事があるから」と彼女は寝床を俺に譲った。
とりあえず色々あり過ぎて疲れた…
ベルトを外して、汗で張り付いた服を脱いでベッドに横になった。
すぐにでも寝れそうだ…
隣を見ると、女みたいな長い黒髪が張り付いた寝顔があった。
瞼を縁取る長いまつ毛が、一本一本まで見て取れる。
黙ってりゃ綺麗なんだよな…こいつ…
そんなつまらないことを思って顔に手を伸ばした。
顔に張り付いた髪を払うと、白い綺麗な顔が顕になる。
目が離せなくなってその顔をボーと眺めていた。
あの日見たスーの姿を重ねて、触れたくなった…
こっそりとスーの唇に手を伸ばした。
スーはぐっすり眠っていた。指先はなんの問題もなくスーの唇に触れた。
いつも毒を吐いている唇は柔い。女みたいだ…
身体をずらしてさらにスーに近づいた。
疲れていたからまともな頭じゃなかった…
何時からだ?こいつをこんなふうに想うようになったのは…
別に男が好きなわけじゃない。普通に女も買って抱くし、スーの事だって、そんなつもりで一緒にいたんじゃない。
何時からか、この危うい破天荒な男に歪な感情が芽生えた。認める気なんてなかったのに…
無防備に眠る顔を見て、同じベッドに入って気持ちは抑えられなくなった。
俺はこいつに惚れてんだ…クソっ、気持ち悪ぃな…
誰かに殴って止めて欲しかった。
あの河原でスーを止めた時に殴られた顔が痛んだ。
侯爵に駆け寄ろうとしたスーを止めたのは、こいつを失うと思ったからだ…
俺の個人的な感情で、スーを止めた。こいつを失いたくなかった…
スーを失うくらいなら、俺が死んだ方がマシだと思った。あの時の行動は、それだけの感情で動いたんだ。
「…気持ち悪ぃ…」
自分を罵って拳を握った。
これ以上はダメだ…
スーとの信頼が壊れてしまう…それだけは…
スーは俺を信頼してる。こいつの隣で同じ風景を見ていられるのは、俺を信頼して特別に許されているからだ…
信頼が無くなれば、俺はスーの隣を失う…
葛藤の末に手を引いて、スーに背を向けた。
それでも背中にはスーの寝息が聞こえてくる。
寝れねぇ…
居心地悪くて、ズルズルとベッドから降りて床に寝転んだ。
冷たい硬い床の上でようやく落ち着いた。
ため息を吐いて目を閉じると、すぐに寝入ってしまったらしい。
「…ディルク…おい、ディルク」肩を揺さぶられて目が覚めた。
「床で寝るなよ、風邪引くぞ」と言いながら、眠そうな紫の視線はベッドの上から俺を見下ろしていた。
「…スー」
「何だよ?寝ぼけてんのか?」
「……」
「え?なんか言った?」
「いや…何も…」と誤魔化した。
言葉をのみこんで、また重い瞼で現実に蓋をした。
「だから、ベッド使えよ」と俺を叱るスーの声が聞こえる。
「そっちの方が寝にくいんだ…」
「…変な奴」と声がして、毛布がふわりと身体を覆った。
「使えよ。寝たら飯食ってカナル戻るからな」
「…あぁ」と答えて毛布を手繰り寄せた。
毛布は人肌の温もりを含んでいた。
✩.*˚
飛び出して行ったヴィクターを探しに行くと、彼は櫓の上で泣いていた。
赤ん坊のように泣いていた彼を、引きずり降ろして回収させたが、ヴィクターは泣き喚くばかりで話もできない状態だった。
「何があった?」
「検討もつきません」とヘンリーも迷惑そうに答えた。
放っておいて、なにかあっても困る。
仕方なく自分のテントに連れ帰って世話を焼いた。
しばらくして泣き疲れた彼は、幾分か落ち着きを取り戻した。
「…ミラ…死んだ」ヴィクターが虚ろな表情で呟いた。
「死んだ?そんな報告は聞いてないが?」
問い返した私に、ヴィクターは意外な言葉を返した。
「俺が…殺したんだ…」と彼はボソボソと聞き取りにくい声で話した。
ミラは既に向こう岸に逃げていたらしい。
周りに他の人間の姿があったから、ミラを迎えに来て連れ去ったのだろう。
その話を聞いて肝が冷えた…
その者たちがヴィクターに危害を加えなかったことに胸を撫で下ろした。
どういうつもりか分からないが、ヴィクターが無事だったなら、ミラが連れ去られた事など問題ではない。
向こう岸には彼女を待っていた男が居て、彼女との親密な姿に嫉妬したそうだ。騙されていたのだと、ようやく理解したらしい。
彼女の裏切りが許せなくて弓を引いたが、最後に振り返った彼女はヴィクターを気にするような素振りを見せたのだという。
その彼女を、勢い余って殺してしまったと言うのだ。
まぁ、彼にとっては悲劇だろう…
「俺が殺した…自分で…《家族》って…言ってたのに…俺が…」
嗚咽混じりの懺悔を聞きながら、彼をどうするか悩んだ。
この様子では、嘘を言っているようには見えない。
ミラの捜索は打ち切っていいだろう…
「ヘンリーに捜索の打ち切りを伝えよ」と親衛兵に伝えて送り出した。
「ヴィクター。そんなに自分を責めなくていい。君は、正しい選択をしたんだ。
こんな言い方は受け入れにくいかもしれないがね、ミラは君を騙した裏切り者だ。そうだろう?」
「でも…ミラは…」
「現実は変わらないのだよ、ヴィクター。
厳しいことを言うようだがね、ミラが君を裏切ったのも、君がミラを手にかけたのも現実の出来事だ。受け入れなさい」
正直な話、これは私にとって都合の良い事だ。
私がミラを手にかけて、ヴィクターの信頼を失う事も無いし、ヴィクターは絶望の中、縋る相手は私しか居ない。
《絶望》は人間に二つの異なる結果を人に与える。
一つは絶望を味わって、絶望に潰される者。
そしてもう一つは、その絶望を喰らい糧とする者だ。
前者は言うまでもないが、後者は絶望から力を得ることができる。
《絶望》を味わうのは、《祝福》を体現する者の必須条件だ。ヴィクターとて例外ではないだろう。
程度の差こそはあれ、これは良い兆しと見るべきだ…
「失礼します。団長、打ち切りと聞きました」
捜索を打ち切ったヘンリーが戻ってきた。
「彼と話してくるから、少し待っていてくれ」と言って、テントにヴィクターを残して出た。
ミラの件を伝えて、捜索が不要になったことを説明すると、ヘンリーは苦い顔で話を聞いて疲れた顔でため息を吐いた。
散々ヴィクターに振り回されて、結果がこれだ…
腹も立つし、1発ぐらい殴りたいと思っている事だろう。
「まぁ、そんなわけだ…
ヴィクターをここに置いて置いても邪魔だろうから、私が預かる。
もう寒くなってきたしな…私は彼を連れてルフトゥキャピタルに戻るつもりだ」
「兄がまだでしょう?またただを捏ねなければ良いのですが…
万が一、兄が戻ったらどうしますか?」
「…ふむ」
可能性としては低いが、可能性のひとつとして考慮しなければならない問題だ。
兄の死亡は確認できてない。もし兄が戻ってくれば、ヴィクターの保護者面をするだろう。
仲の良い兄弟だったと聞いている。
ヴィクターを《英雄》として育てるのには邪魔な存在だ…
「兄をヴィクターに関わらせるな」と命じた。
「ヴィクターは《英雄》になる男だ。
邪魔は許さん。もし、私の邪魔するようなら始末しろ」
「よろしいので?」
「《祝福》のない、ただの人間に用はない。
傭兵の替えなら幾らでもいる。ヴィクターの兄はその一人に過ぎんのだ、惜しむことは無い」
そう言って、ヴィクターの待つテントに視線を向けた。
「私はあれを完全な《英雄》にする。
《神紋》までは授からずとも、このカナルに名を刻む《英雄》にしてみせよう」
私の悲願だ。
私も老いた。これで最後だろう。それならば、最後を飾るに相応しい《傑作》を作る気でいた。
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