燕の軌跡

猫絵師

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空気が冷たくなってきた。

そろそろ季節も変わるはずだ…

お坊ちゃんのテントの傍に檻が移されて、俺はリューデル伯爵の管理下に置かれた。

見張りはいるが、無駄に絡んでくる奴らはいない。待遇は格段に良くなった。

少なくとも、袋に詰めて転がされている芋虫男よりは良いだろう。

『これを使え』と渡されたのは、割と上等の毛布だった。お坊ちゃんが譲ってくれたものだ。

夜は冷えるから助かる。素直に感謝すると、お坊ちゃんは照れたように目元を緩めた。

悪くねぇんだよな…

捕虜だと言うのに、なんとも言えない居心地の良さを感じている自分がいた。

あのイカれた侯爵様への返事は保留にしていたが、すぐに答えられなかった時点で、俺の心は揺れていた。

提示された条件は、俺がどんなに望んだとしても、与えられるはずの無いものだ。

暗がりで、腕に結ばれた髪の束を眺めた。

あいつらのところに戻れるのか?

あの幻だったような穏やかな日々を思い出して、戻りたくなった。

つい先日別れを告げた女に、未練がましく、また会いたいという思いが湧いた。

ダセェよな、と格好の悪い自分を小馬鹿にして笑った。

ヴィクターは今の俺をどう思うだろう?

『らしくないよ』と言うだろうか?

俺は単純すぎるか?あいつらの言ったことが嘘だったら、俺はヴィクターまでも危険に晒しちまう…

敵の言葉を鵜呑みにするほど馬鹿じゃない。

ヴィクターが今どんな状況かは分からないが、隊長まで捕まってるのは予想外だった。

俺たちがいなくても、何とか上手くやってると良いが、目の悪いあいつが長くあの環境で不自由なく過ごせるとは思えない。

俺もそうだが、あいつだってあまり賢くはない。

唯一望みがあるなら、隊長の後任者が《祝福》を持っているヴィクターを保護してくれていることを願うだけだ。

嘘のリスクがあっても、あのフィーアの話に乗るべきなのだろうか?

慎重に考えるなんてらしくない…

考えることを放棄して、毛布を被り直した。

上等な毛布は柔らかく眠りを誘った。

✩.*˚

なんとも気持ちの良い男だった。

賢くは無さそうだが、あの潔さは好感の持てるものだ。

「どうしたのさ、パウル様?」

呼び出した息子の友人は、私が上機嫌な理由を訊ねた。

「甥っ子になる男が面白い獣を拾ったのでな」

「あぁ、そう?ゲリンもしっかり《ロンメル》だね」と彼は私の思った事と同じことを口にした。

やはりそう思うよな、と腹の奥で笑って、スーに座るように勧めた。

彼は無遠慮に私に近い椅子に座った。

「ところで俺は何で呼び出されたの?」

「これをあげようと思ってね」と用意していたワインのボトルを出して机に置いた。

手に取ってラベルを見たスーは驚いた視線を私に向けた。

「《赤鷲》じゃん!」

「あぁ、正真正銘、リューデル伯爵家の家紋入りの最高級品さ。

私からの依頼料として、君にあげよう」

「依頼?」

「そうだ。君個人に対する依頼だ」と告げて、1枚の紙切れを彼に託した。

「万が一だが、私に何かあった場合、私が約束を守れるように、この書状を君に預ける」

「これは?」

「ラッセルの兄の亡命の証明書だ。南部侯爵領であれば有効となる。

ラッセルは字が読めないし、リューデル伯爵にラッセルを預かれというのは酷だ。

だから、私の後継者の友人である君にこれを預ける。もしもの時は、これをアレクに渡してくれ」

「そんなの何で俺に預けるのさ?」

「言ったろう?君が《息子の友人》だからだよ。

あの子は割と気難しいところがあるからね…

誰にも耳を貸さなくとも、君の言葉になら耳を貸すと思う。君はアレクの《親友》だ。私はそう思っているよ」

私の言葉に、スーは複雑な表情を見せた。

二人とも長く顔を合わせていない。それがスーにとっても、アレクにとっても《親友》と名乗るのを躊躇わせているのは分かっている。

機会があればと思うが、今は難しいだろう。

「君はアレクの友人だ。そう名乗ってくれ」

息子のような青年は黙って頷くと、私の本当の依頼を受け入れた。

✩.*˚

「…何してるの、ミラ?」

背中にかかった声に驚いて振り返った。

ヴィクターが眠ったと思って油断していた。

「腕…どうしたの?痛いの?」と彼は、私が咄嗟に隠した左腕を掴んだ。

「やっ!」

慌てて腕を引こうとしたのが仇になった。

ヴィクターはさらに強く腕を掴んだ。

「ダメだよ、隠したら」と言いながら、彼は私の腕を確かめた。

ヴィクターは私の腕の傷跡に気づいてしまった…

「今気づいたけど、ここ傷あるね」

「昔の傷なの。時々痒くて触っちゃうのよ…

心配しないで…」と何とか取り繕うとした。

それでもヴィクターは腕を離してくれなかった。

「そう?少し熱くなってない?あまり触らない方がいいよ」と言って、傷跡に手のひらを重ねた。

「きゃあ!」ヴィクターの手が重なった瞬間、魔石を埋めた場所に激痛が走った。

「何?!どうしたの?!」

私の悲鳴に驚いたヴィクターは慌て手を引っ込めた。

こんなの初めだ…

魔石が強い熱を持っていた。

ヴィクターの《祝福》に反応してしまったのだろうか?

腕が捻じ切られそうな痛みに悲鳴を上げて身悶えた。何が起きているのか分からず、嫌な汗が溢れて恐怖を覚える。

「ミラ?ミラ大丈夫?!」

ヴィクターは怯えたような声で、私に声をかけながら背中を摩った。

「そうだ、団長に…」と彼は頼れる人間を呼びに行こうとした。

「だ、め…」懸命に手を伸ばして、彼を引き止めた。

あの男だけはダメだ…あの男に頼るのは危険だ…

「ヴィクター…私は、大丈夫だから…」

必死に取り繕うと笑ったつもりだが、ヴィクターの不安を煽っただけになってしまった。

「だって…苦しそうだ」

「ちょっと痛かっただけ…もう大丈夫だから…

団長さんもこんな時間に迷惑でしょう?」

痛みを堪えながらヴィクターを説得した。

「本当に…大丈夫?」

「大丈夫」

「痛かったら言う?」とヴィクターは怯えたような目で私を見つめていた。

「…ミラは…どこにもいかないよね?」

ヴィクターは恐る恐る私の手を握った。

「兄ちゃんもまだ戻ってこないし…君がいなくなったら…何かあったら…俺…」

泣きそうな声で言葉を絞り出す彼の姿が哀れに見えた。

兄の帰りを待つことしかできない彼は、本当は気が狂いそうなほど心配してるはずだ…

ヴィクターは、時間のある時は櫓の上に登って、対岸を睨んでいた。

彼は兄が戻ってくると信じて、その帰りを待っているのだ…

「君がいるから…耐えられるんだ…」と彼は弱音を晒した。

ヴィクターの心は疲れている…

今なら彼は…

「ねぇ、ヴィクター…聞いて?」

「何?」と問い返す彼に、「私の事愛してる?」と答えの分かっている質問した。

「当然だよ。俺はミラのこと愛してる。君が大好きだ」

「それなら、ここを離れましょう?」と彼に提案した。

「ニコラスが戻ってこないから、私も不安だわ…ここは危ないところだから…

私は貴方と普通の暮らしがしたいわ。

ねぇ、一緒にカナルを離れましょう?」

彼をカナルから離すことが出来れば、カナルから脅威を一つ消すことができる。

「ヴィクター、お願い…」

そう言って彼の手を引いて、自分の下腹部に触れさせた。ここに来てから月のものは1度も来てない。

「ここに貴方の子供がいるかもしれないのよ。家族は大事にするって、言ってくれたじゃない?」

「…子供?…本当に?」

「まだ分からないけど、いてもおかしくないでしょう?」

私の言葉に、ヴィクターは戸惑いながらお腹に触れた。優しく触る手は暖かくくすぐったかった。

その手から、私を大事に思ってくれてるのが伝わる。

彼は悩んで、「考える」とだけ答えた。

珍しく即答しなかったのは、彼にとってカナルに残して行けないものがあるからだろう。

ヴィクターは私を抱きしめて寝床に戻った。

いつもの自分勝手に力を込める腕が、柔らかく優しい印象だったのは気のせいだろうか?

答えはどちらでも良かった。

✩.*˚

朝からヴィクターが私を訪ねて来た。

起きてすぐの訪問を不思議がりながら、支度をして彼に会った。

「薬が欲しいんだ」とヴィクターは用事を伝えた。

確かに、必要なものがあれば世話をしてあげようと約束していた。

ただ、あまりに漠然とした内容で、情報が少なすぎる。

「どんな薬かね?誰が使うんだ?」

「怪我を治す薬。ミラが腕が痛いって…我慢するから…」

「ふぅん…」ヴィクターの戦利品の女か…

彼女の存在は少し気になっていた。

只者でないのは間違いない。落ち着いて腹が据わっている。

あの手の女は厄介だ。さっさと始末してしまうのが正解だろうが、ヴィクターは彼女に執着していた。

始末するにも理由がいる。

彼女が動いて尻尾を出すのを待っていた。

「彼女がどうしたのかね?

薬を用意するなら詳しく話して貰わないと、正しいものを用意できないよ」とヴィクターに詳しい話を求めた。

薬を貰える理解した彼は、昨晩の出来事を稚拙な言葉で語った。

「昨日の夜に彼女が起きて、左腕を触ってたから、声をかけたんだ。指先で引っ掻いてるみたいだった。

何してるか訊いてみたら、古傷が『時々痒くなる』らしいんだ。触ったら少し熱くなってた。

だから、俺はあまり触っても良くないと思って…

それで手のひらを傷跡に重ねたら、ミラが苦しみはじめて…」

「…ほう?」

「何でか分からないけど…痛い思いさせちゃったから…何か薬用意しなきゃって…」

「古傷ね…」

彼女は時々左腕を庇って、隠すような素振りを見せていた。

「私が見てあげようか?」と提案すると、ヴィクターは首を横に振った。

「嫌なんだって。

『普段はなんともないから』って言ってた。

でもまた痛くなるといけないから、薬が欲しいんだ」

「ふむ…」

あの女、やっぱり何か隠してそうだ…

彼女の誤算は、ヴィクターが私を信用して、薬を貰いに来たことだろう。

「薬は用意してあげよう」とヴィクターに約束したが、私からも条件をつけた。

「ただし、彼女の傷を確認するのが条件だ。間違えた薬を渡せば、治るものも治らないからね」

「でも、ミラは…」

「傷を確認するだけさ。彼女を治してあげたいんだろう?」

「うん…」

「それなら適当なものを渡すのは良くないな。悪くなったら困るだろう?」

彼は私の言い分を素直に受け入れて、後でミラを連れてくると約束した。

「何か他にあるのかね?」と確認すると、ヴィクターは居心地悪そうにモジモジしながら口を開いた。

予想してなかったその言葉に耳を疑った…

「彼女を連れて、カナルから離れたいんだ」

「それは…」腹の奥で怒りが湧いた。

ヴィクターは慌てて言葉を繋いだ。

「団長には感謝してるよ!本当だ!

でも、ミラをずっとここに置いておくなんて可哀想だ。

兄ちゃんがいつ戻ってくるか分からないけど、戻ったら三人でどこかで暮らしたい」

あの女の入れ知恵か?これだから女は…

「あぁ…そうだね、悪くない考えだよ」

怒りを表に出さないようにするのに苦労した。

しかし、ここで怒ってしまっては、今までヴィクターと築いてきた信頼関係が損なわれる可能性があった。それでは私が損するだけだ。

この《英雄》に最も近い存在を失うのは痛手だ。

それなら、あの女狐の尻尾を掴んで、ヴィクターの前にその正体を晒してやる…

「とりあえず、ミラを連れておいで」と伝えて、彼を帰した。

ヴィクターが立ち去ったのを確認して、抑えきれない怒りを硝子の水差しにぶつけた。

✩.*˚

朝からお坊ちゃんは俺のところに顔を出した。

他の奴にやらせればいいのに、お坊ちゃん自ら俺の食事を運んで来た。

檻の隙間から差し込まれた食事は、まだ暖かいものだった。味も不味くない。

「眠れたか?」

「あぁ、ぐっすりな。こんなの快適なくらいだ」と檻の居心地の感想を伝えると、お坊ちゃんは少しだけ顔を緩めた。

これで笑ったと言うのなら、あまりにお粗末だ。

「あんた笑わないのか?」と思ったままの言葉が口から出た。

「ずっとその顔だ」とお節介に指摘すると、お坊ちゃんは真顔のまま「苦手なんだ」と答えた。

「私は幼い頃は上がり症で、人の目を気にして酷く緊張する子供だった。

よく泣いて後追いする子供だったらしい。両親には心配をかけた…

初めての人や場所は緊張して、怖くて仕方なかった。

それでも、尊敬する父の期待には応えたいと、自分の感情を抑えて必死に頑張ったんだ。

そうしたら、いつの間にか、感情を表に出すことができなくなっていた」

お坊ちゃんは他人の話をするように、無表情のまま思い出を語った。

こいつの親父さんは相当厳しかったらしい。

「別に、これはこれで悪くは無い。泣き虫では騎士にはならないが、この顔なら騎士として申し分ない」

「その辛気臭い顔が騎士の顔かよ…」

どうしても気に食わなくて口が出た。

余計なお節介に、お坊ちゃんは俺を真っ直ぐ見返した。迷惑とかそんなんじゃないだろう。

「騎士様は神様じゃねぇんだよ。偉そうにしてるけどな…

あんただってそうだろ?人間だ。泣いたって笑ったっていいじゃねぇか?」

お坊ちゃんは何も言わずに、相変わらず表情の乏しい顔で俺を見ていた。

躾の行き届いた犬のような男は俺と真逆な存在だが、嫌いじゃない。

「騎士は…兵士の理想であるべきだ」お坊ちゃんは時間をかけて、お手本みたいな答えを絞り出した。

「あんたみたいなのがいっぱいいたら、そりゃ、軍隊としては強いだろうな。

でも居心地は悪いだろうよ」

「なるほど。悪い上司だ」

「そう思うんならそんな辛気臭い仏頂面辞めちまえ」

「だから、こういう顔なんだ」

「笑う練習しろよ、お坊ちゃん。相手ならしてやるぜ」と檻の中で変顔を披露した。

お坊ちゃんは俺の不意打ちにそっぽを向いた。

「やめてくれ」と言いながら顔を隠してるのは笑ってんのか?それとも笑いたくないからか?

「ほら、遠慮すんな、笑えよ」と煽ったが、お坊ちゃんもなかなか折れない。

意地になって笑わそうとしていて、テントに入ってきた人影に気付かなかった。

「…何をやってるんだ?」と聞き覚えのある声にそのまま顔を向けた。変顔のままの俺に、相手は一瞬固まって、直後に爆笑した。

「あんた笑わすつもりでやってねぇよ」

「なんだ?ゲリンを笑わせたら勝ちなのか?」と相手は理解したらしい。

「どれ?私も混ざるか?」といたずらっぽく笑った伯爵は、お坊ちゃんを掴まえて正面に立たせた。

伯爵の顔は俺から見えないが、お坊ちゃんのムズムズした顔なら見える。

「子供の頃のアダリーのお気に入りだ」と言いながら手が顔に重なった。

「ぶっ」と吹き出してお坊ちゃんは顔を逸らした。この伯爵も兄貴同様にかなり型破りのようだ。

「おやめ下さい、閣下。それでは閣下の品格が…」

「《父上》と呼べと言ったろうが?」と迫る伯爵を直視出来ずに、お坊ちゃんは少しだけ身を引いた。

口元を手の甲で隠しながら、女みたいな笑い方をする青年の顔が覗いた。

変な笑い方だが、悪くはなかった。

✩.*˚

朝早くに出て行ったヴィクターは、戻って来ると私の手を引いてテントを出た。

朝食だろうか?

手を引きながら前を歩く彼は、テーブルの並んだ傭兵たちの食事場所とは違う場所に向かっていた。

「どこに行くの?」

黙って手を引く彼の姿に不安を覚えて問いかけた。

ヴィクターはチラッと私を見て、手を握る力を強めた。

「団長が薬くれるって」とヴィクターが答えた。

その返事に背筋が凍った。頭が重くなって足が止まった。

「…何で」

「だって放っておけないよ」

「でも、そんな…」

「薬貰いに行くだけだよ。ミラは団長のこと嫌いなの?」ヴィクターはあの不思議な瞳に私を映して訊ねた。

「団長はいい人だよ。君も知ってるだろ?

何で嫌がるの?」

「そんなこと…でもご迷惑よ」と誤魔化すと、ヴィクターは私の言葉をあっさりと信じて、少年のような笑顔を見せた。

「なんだ、そんなことか。

団長はそんなこと言わないよ。君の心配もしてくれてたよ」

ヴィクターは団長を信用していた。薬を貰うために、私を連れて行くのを諦めないだろう。

私が団長から疑われているのは仕方ない。極力関わらないようにすればいい。

だけど、ヴィクターの信用を失うのはよろしくない。

「…分かった」と頷くしかなかった。

「でも…何もしないわよね?」と確認すると、ヴィクターは笑顔で応じた。

「心配しなくていいよ。俺も一緒にいるよ。

君は俺の家族だから、何も心配しなくていいよ」

「えぇ…ありがとう」

ヴィクターの言葉に頷いたが、その言葉を鵜呑みにする気はなかった。

「ちょっと待ってね」と彼の手を離して身嗜みを整える振りをした。

髪を整えながら、彼に見えないように左腕の内側を爪先で弾いた。

これが最後かもしれない…

魔石は腕の中で僅かに熱を持って、その役目を果たした事を私に教えた。

向こう側に、最後の連絡が届いたはずだ。

何も無ければ何も無かったとまた送ればいい。

「いいわ」とまたヴィクターと手を繋いだ。

ヴィクターは相変わらず、何も知らずに笑顔で私の手を握った。

バカね…貴方騙されてるのよ…

少しだけ彼に対して罪悪感が芽生えた。こんなに無垢に、純粋に愛してくれてるのに、可哀想な人…

不覚にもそう思ってしまった。

でも、そう思った瞬間、自嘲の笑みが私の口元に点った。

なんだ…そうか…

私たちは似てたんだ…

報われなくても良いと思えるほど、愛した人の顔が脳裏を過った。

そう気付いてしまった事で、少しだけ、ヴィクターが愛おしく思ってしまった。

✩.*˚

「よく来たね」とヴィクターとミラをテントに招いた。

取り繕ってはいるものの、ミラは緊張していた。

それもそのはずだ。テントの中は私たちだけだが、周りには私の《親衛兵トラバンド》が控えている。

状況を見て、すぐに逃げ出さなかったのはさすがだろう。肝が据わっている。

「古傷が痛むんだってね?見てあげよう」

笑顔を作って彼女に椅子を勧めた。

「お忙しいのに…」

「いや。優秀な部下のおかげで、私は案外暇なのだよ。

それより、君とはちゃんと話をしたことは無かったね?

世間話程度に教えてくれたらありがたいよ」と話を始めた。

「体質は?何か身体に合わないものなんかはあるかな?」

「至って健康です。問題ありません」

彼女はそう言って私の質問を拒んだ。

「そうかね?痛いのは腕だけかな?」

「一時的なものです。時々触ってしまうだけで問題ありません。ヴィクターが心配していたようですが、何も…」

「ミラ!あんなに痛そうにしてたじゃないか?」

隠したがる彼女の言葉を遮って、ヴィクターはミラの左側に回り込んだ。

「ダメだよ、ちゃんと治してもらおう?」

「ヴィクターの言う通りだ。無理は良くない。

私が信用出来ないのは分からなくもないが、これではヴィクターも君が心配で、訓練に集中できないだろう?」

私の言葉にヴィクターも頷いている。

彼女の目からは、囲いこまれて逃げ場を失った動物のような色が見て取れた。ヴィクターはそれに気付いていない。

何も分かっていない彼は、真剣な顔でミラに治療を勧めた。

「診てもらって。そうじゃないと君が心配だよ」

「…分かった」と答えて、彼女は腕を出した。

どうやら観念したようだ。

腕には、言われなければ気付かないような僅かな傷跡があった。既に治療を受けた後のようで、完治した傷跡は問題が無いように見えた。

しかし、その完璧な治療が逆に目を引いた。

あまり目立たない場所だ。ここまで完璧に治癒した傷を隠したがるのは、何かやましいことがあるからじゃないか?

「君がお転婆な頃に作った傷かね?」と冗談を言いながら傷を目視で確認した。

不審な点はない。ただの傷のようだ。

私の反応を確かめるための釣りだったのか?

そんなことが頭を過ぎったが、彼女の腕を握った瞬間、理由が分かった。

「…魔法使いか?」

その問いかけに、彼女は顔色を変えた。

魔石や魔力に反応する指輪が、彼女の腕に反応して揺れたのだ。おそらく彼女の腕にもその振動は伝わったのだろう。

彼女は腕を引こうとしたが、離す気はなかった。

この腕に答えがある。

「団長?何するんだよ?ミラが嫌がってるだろ?」

「ヴィクター、少し黙っててくれ。

私はこの魔女に用がある」

割って入ろうとしたヴィクターを制して、ミラを睨みつけた。

「お前は何者だ?ただ連れてこられただけじゃないだろう?」

腕を掴んだまま問い詰めると、彼女は私から顔を背けた。

「親衛兵!」と呼ばわると、即座に反応したヘンリーらがテントの中に踏み込んだ。

「彼女を抑えていろ」と指示を出して、荷物から医療器具を取り出して机に広げた。

「団長!何する気だよ?!」

声を荒らげて、掴みかかろうとする青年を傭兵たちが止めた。

「こんなの聞いてない!ミラに何する気だよ?!」数人に抑えられながらヴィクターが吠えた。

彼が本気で暴れる前に、真実を突きつけなければ私の方が危ない。

「落ち着きなさい、ヴィクター。君は彼女に騙されてたんだよ」

「そんなもんか?!

ミラは俺の家族になったんだ!騙したりしない!彼女は優しい人だ!俺たちは家族なんだ!」

「…団長」

ヘンリーの短い呼びかけは彼の始末を望む声だ。

彼の手には得物があった。

「まぁ、待て、ヘンリー。ヴィクターの目を覚ましてやるのが先だ」

「こんな奴お荷物でしょう?」

「いいや。彼は《宝石》さ。まだ《原石》だがね…」

私が研磨して、彼を《英雄》にするのだ。こんなつまらない失い方をするのは本意ではない。

「ヴィクター、今は少し堪えてくれ。

彼女が《白》なら、今まで通り、彼女と一緒に暮らしてもらって構わない。

だが、もし《黒》なら、言わなくてもわかるだろう?」

ヴィクターからミラに視線を移した。

「さて、ミラ。

ヴィクターは君を心配してる。

私はヴィクターを苦しめるつもりはないんだよ。むしろ彼を息子のように愛おしく思っている。

君が真実を語るなら、彼のために少しくらい譲歩してあげようじゃないか?

君は何者で何が目的だ?」

彼女はこれから起こることを理解して震えていた。それでも気丈にも、唇を引き結んで私の質問に応じることは無かった。

「なるほど…残念だ」

彼女は自ら秘密を話すことは無いだろう。

机に広げた器具から、良く切れるナイフを抜いてミラに見せた。

「治療なら麻痺の術を施すが、今回は必要ないだろう?

ヘンリー、彼女の支度を手伝え。目隠しは要らん。舌を噛まないように何か噛ませておけ」

ヘンリーは私の指示通りに動いた。彼女の口に布切れを押し込んでベルトで固定すると、彼女の身支度を整えた。

「団長!あんまりだ!」ヴィクターが叫んだ。

彼を抑えてる親衛兵も手を焼いていた。

「仕方ないね」

この期に及んで、まだミラの味方をする彼に疎ましさを感じた。

彼に向かって魔石を解放した。

「《麻痺パラライズ》」

ヴィクターの足は自分を支える力を失った。

ガクンと沈んだ身体を、親衛兵が両脇から支えた。

「聞き分けのない子は嫌いだよ。少し大人しくそこで見ていなさい」

少し強くかけすぎたようで、ヴィクターは顔を上げることさえできなくなってしまった。

意識までは奪っていない。彼には見てもらわねばならない。

「さて…始めよう」と仕切り直してまたナイフを握った。

男たちに押さえつけられて、口も塞がれた女は最後に些細な抵抗をしていた。

彼女の瞳は怯えた鹿のように潤んでいた。

「左腕を抑えておけ。動かすなよ」と声をかけて、ナイフを晒された前腕の内側に押し当てた。

白い細い腕にナイフの刃が吸い込まれるように沈んだ。

留まる場所を失った血が溢れて、肉が覗く。

彼女の悲鳴は、噛んだベルトに阻まれて響かなかった。曇った呻きは美しい彼女には不似合いなものだ。

古傷の痕より大きくゆっくりと切開した。その方が彼女を苦しめるからだ。

彼女の腕に沈めた刃は骨とは違う何かに触れた。

「皿を用意しろ」とヘンリーに命じて、今できたばかりの傷口に指を入れた。

激痛に喘ぎながら、彼女の身体は震えて力を失った。

痛みと恐怖で気を失ったみたいだ。

「起こせ。楽にさせるな」

私の命令を受けて、彼女を拘束していた親衛兵が彼女に平手打ちを加えた。

彼女の意識が戻ったのを確認して、また傷口を荒らした。

耐え難い苦痛に苦しむ姿を見て、私の抱えていた怒りは和らいだ。

このくらいにして本題に入ろう…

傷口に沈めた指を引き抜いて、ヘンリーの差し出した皿に乗せた。

「これが君の隠したかったものかね?」

血溜まりと肉を掻き分けて手に入れたのは、丸い小さな石ころだった。

それは人為的に削りだされた魔石だ。

私の魔石に反応したのはこれだろう。

「肉体に入れるだなんて随分危険なことをするね。魔石が暴走したら腕が無くなるだろうに?」

手に着いた血を拭って、皿の上に置かれた魔石をヴィクターの目の前に差し出した。

「ヴィクター、これが真実だ」と彼に現実を突きつけた。

「これは魔石だ。詳しく調べれば、何の役割を持っているのかも分かるだろう」

「うそ…だ…」

ヴィクターの絞り出した声は現実を受け入れるのを拒んだ。

「残念ながら事実だよ。彼女が腕の中に隠していたものだ。これではっきりしたろう?君は彼女の隠れ蓑にされてたんだよ。

大人しく従順に見えたのは、騒ぎを起こして目立つ事を恐れたからだ。君を愛してた訳じゃない」

現実を突きつけられたヴィクターは、うわ言のように呟きながら現実を拒んだ。

だが、ヴィクターが受け入れようが、受け入れまいが現実は変わらない。

「さて、どうするかね?」と彼女に視線を戻した。

「まだ、何か隠しているかもしれないな…

今度はどこを確認しようか?

右腕かね?それともふくらはぎか?太腿か?

ああ、内蔵かも知れないね?いっそ腸を引きずり出して隅々見てみようか?」

彼女は、自分の腕を切り裂いたナイフに怯えて身を捩った。

逃げられるはずもないのに、そうするしかないのだろう。可哀想な彼女に顔を寄せて、自分の犯した罪を教えてやった。

「ミラ。私は君の命なんてどうでも良かったんだよ。

だが、君は過ちを犯した…何か分かるかい?

ヴィクターを連れ出そうとした…

私の育てると決めた《英雄》を、私から奪おうとしたね?」

視線を逸らそうとする彼女の髪を掴んで顔を上げさせた。

「私から奪おうとしたのだ。排除される覚悟はできているだろう?」

《傭兵団》の《団長》として、たかだか捕虜の女に舐められたままでは都合が悪い。

ナイフを固定した彼女の眼前に突きつけた。

彼女は逃げることも、声を上げることもできない。

ただ唯一自由になるのは涙を浮かべる事くらいだ。

しかし、それは命乞いにしてはいささか弱く感じられた。

更に制裁を加えようとしていた私の後ろで、驚きの声が上がった。

視線の先には、《麻痺》で立ち上がれないはずのヴィクターの姿があった。

私も、まさか動けないだろうと思って油断していた。ヴィクターはミラの髪を掴んでいる私の腕を掴んだ。

「ラッセル!貴様!」ヘンリーがヴィクターに向かって身構えた。

「待て」と、私がヘンリーを止めた。

動けたとはいえ、ヴィクターはまだ《麻痺》している状態だ。

腕を掴みはしたが、ふらついていて力もない。とても私に危害を加えるなとできそうにない。

「ミ…ミラを…離して…」

ヴィクターはたどたどしい言葉で、彼女を離すように私に訴えた。

「ミラは…俺、の…か、家族」

「呆れた。彼女は君をずっと利用してきたのだよ?いい加減目を覚ましたまえ」

「いい…ミラは…い、一緒に、いて…笑って…くれるだけで…」

随分ささやかな願いだ。彼はミラの存在が、どれほど危ういものか理解してない。

まるで子供のままごとだ。

何と諭すか考えていると、親衛兵の一人が、乱暴にヴィクターを引き剥がした。

「貴様!相手が誰か分かってんのか?!テメェがどうこう言える相手じゃねぇんだぞ!」

乱暴に扱われて、立っているのがやっとという状態のヴィクターは床に倒れた。

受け身も取れずに倒れたヴィクターは、倒れたまますぐに動けなかった。

慌てて彼を助け起こして無事を確認した。

ヴィクターに怪我は無かったが、私の《宝》をぞんざいに扱った親衛兵を睨みつけた。

「…誰が手を出せと言った?」

「し、しかし…こいつ、団長に…」

「私は《待て》と命じたはずだ。

彼に万が一があった場合、お前の命で贖えるものでは無いぞ」

「お…お許しを…」

自分のしでかした過ちに気付いて、彼は青い顔で許しを乞うた。

いまさっき見聞きしていた事を踏まえれば、私の怒りに触れることが、どれほど恐ろしい事か、嫌でも理解してる事だろう。

「許しか?そうだな、これでどうだ?」

許しを乞う部下の前に立って、鋭利なナイフを閃かせた。テントで苦痛を訴える悲鳴が響いた。

苦痛に蹲った男は、青い顔で左の耳を抑え、震えながら地面に落ちた自分の耳を見ていた。

「戒めとせよ。次は無い」と告げたのはこの場の全員にだ。

他の親衛兵たちは、行儀の良い番犬のように姿勢を正した。

さて…どうしたものか?

ヘンリーがヴィクターに肩を貸して、彼を椅子に座らせた。彼は良く分かっている。

「ご苦労」と彼の行為を労って、ヴィクターの顔を覗き込んだ。

「何も無くてよかった。

少し乱暴な説得になってしまったね?

だが、これも君のためなんだ」

「ミラを…返して…」

「まだ、言うのかね?彼女は…」

「子供が…」と呟くのを聞いて、少しだけ気持ちが変わった。

「妊娠してるのか?」とヴィクターに確認した。

それなら話も変わってくる。ミラを始末するにしても、ヴィクターの子供まで始末するのは私の望む事ではない。

同じ系譜で《祝福》を引き継ぐことは無いが、顕現する確率は上がる。そうでなくとも、《祝福》を受けた者の子供には興味がある。

仕方ない…

彼女を始末するのは妊娠を確認してからでも遅くはないはずだ…

「ヘンリー、彼女の手当を…孕んでいるかは後で確認する」

あっさりと考えを変えた私に、ヘンリーは僅かに眉を寄せたが、すぐに言われた通りにした。

彼は、私に異を唱えることが無駄だと知っている。

血で濡れたナイフを机に置いた。

これの出番はしばらく無いだろう…
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