燕の軌跡

猫絵師

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律儀

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「ニコラス、どこに行くの?」

玄関先で、家を出て行こうとする彼を呼び止めた。

彼はちらりと私に視線を向けて、ふいっと視線を逸らした。

行き先を訊かれたのが気に触ったのかと思ったが、私も確認しない訳にはいかなかった。

「…ちょっと歩いてくるだけだ。ちゃんと戻る」

彼はそう言って、大きな身体を揺らしながら家を出て行った。

すぐに出て行くつもりだったのに、彼はまだこの村にいる。

私が彼の寝床に入ったから、義理堅く帰れずにいるのだろうか?

そうだとしたら、随分義理堅い人だ。

『メリー、あんないい人逃しちゃなんねぇよ』とお父さんは酔った彼の寝床に入るように勧めた。

私だって、いつまでも独り身でいたくない。い人がいるなら、子供を望めるうちに一緒になりたかった。

お父さんの思惑通り、彼は義理堅くこの村に残っていた。

あの夜は本当は何も無かったのに、責任を感じて残っているのだとすれば、悪い事をしたと思う。

未通女おぼこでもない寡婦に責任を感じるなんていい人だ。騙したようで申し訳ない…

でも、だからこそ残って欲しいと思ってしまうのだ…

寝室のベッドに脱いだ服が置かれていた。

天気もいいからシーツも洗おう…

男の匂いのする洗濯物を籠に詰めて、村の井戸に向かった。

「おはよう」と見知った顔に挨拶して、洗い場に並んで洗濯を始めた。

おばさんたちは、ニコラスの事を聞きたがった。

「あんたのいい人、残ってくれるんだろう?」

「でも、あの人家族が待ってて…」

「そこはあんたが頑張って説得しなきゃ。

エッダなんてろくな仕事ないんだからさ、悪くない話だろ?」

おばさん達は好きに喋った。

彼はあまり自分の話をしない人だから、私も話すことなんてほとんどない。

それがさらに彼女らの想像力を掻き立てるようだ。

世間話をしながら洗濯物を洗っていると、馬に乗った身なりの良い騎士たちがやってきた。

「この村の代表者は?」と若い青年が訊ねた。

「私の父ですが」と応えると、青年は私に案内を頼んだ。

「なんの御用でしょうか?」と確認すると、彼は「《青主》という熊を倒した男に用があって来ました」と表情を変えずに答えた。

冷たい印象の青年に胸騒ぎを覚えた。

「父を呼んできます」と答えて家に走った。

慌てて家に戻ると、お父さんを呼ぶ前に彼の荷物を自分のタンスに隠した。

彼に繋がるものを片付けて、お父さんに声を掛けた。お父さんも何か感じ取ったらしい。

こんなところに騎士が来るなんて、余程の用事だ。

熊を倒すほどの人だから、兵士として徴兵に来たのかもしれない。

お父さんと井戸に戻ると、騎士たちは馬に水をやっていた。

「村長ですか?」と先程の青年が訊ねた。

彼は兜を取って《リューデル公子》と名乗った。

「この村に大熊を倒す猛者がいると聞いて来ました。その男は今どこに?」

「今朝家を出て行きました。どこに行ったかは分かりません。彼に用事でしたでしょうか?」とお父さんは何も知らないような顔で答えた。

青年は相変わらず眉ひとつ動かさずに、淡々と答えた。

「領主であるオーベルシュトルツ子爵より《青主》の報奨金を預かっています。

私が本人をあらためて、問題のない人物なら渡したい」

「何も公子様がいらっしゃらずとも…」

「顔を確認できる人間が少ないので私が来たのです。その男が我々の探している者で無ければ、用を済ませて帰るつもりです」

「一体何事でしょうか?差し支えなければお話頂けませんか?

私には責任がありますので、村の者たちにも説明せねばなりません」

青年はお父さんの言葉に納得して、事情を話すことを了承した。

「カナルで我が軍に甚大な被害を出したオークランド人の男が逃走中です。私も相対したことがあるが、非常に凶暴な男でした。

名前は《ニコラス・ラッセル》、もしくは《ニック・ラッセル》と名乗っています。

逃走したのは二週間ほど前になりますが、行方は分かりません。

フェアデへルデ領主から、該当者の可能性があると報告があったので、直接顔を知っている私が来たのです」

青年の話に、お父さんと二人で耳を疑った。

「そんな…何かの間違いでしょう?

彼は温厚な男ですよ。老人子供を放り出して逃げても良かったのに、義理堅く守って、怪我までして熊を退治してくれたんです。

悪い人間じゃありませんよ?」

「話は聞いていてます。

人物像に差異があるため、確認のために私が来ました。

カナルでの憂いを無くすために、どうか協力して欲しい。

あなたがたの安全のためでもあるのです」

彼の言うことは何もおかしなことではなかった。

逃走中の悪漢の可能性があるから確認したい、ただそれだけだ。

「…もし、それがお探しの人間なら?」

「その場合は捕らえるようにと命じられています。

この場で取り逃せば、またカナルで被害が出る可能性があります。

ただ、相手が大人しく従う可能性は低いと思いますので、何らかの被害があれば金銭にて補償するつもりです」

安心させようと言ったのだろう。

でもその話で逆に不安になった…

『ちょっと歩いて来るだけだ』

彼はすぐに戻ってくるだろう…

もし顔を合わせたら…

「お父さん、洗濯物このままにしておけないから、片付けてから戻るわ。騎士様たちと先に帰っててくれる?」

お父さんにリューデル公子たちを任せて、急いで濡らした服とシーツを洗った。

「預かってあげるよ」とアンおばさんが言ってくれた。

「いいから行きなよ。あの人探しておいで」

「おばさん…」

「好きなんだろ?好きなら行きなよ、まだ間に合うだろ?」アンおばさんに背中を押されて頷いた。

井戸を離れて、彼を探しに走った。

子供たちが代々使ってる小さな脇道で村の外に出た。

どこに行ったのかな?

出てく姿は見ていた。それでも行先は教えて貰えなかったから、探すのは難しい。

一つだけ心当たりがあったから、とりあえずそれに賭けてみた。

『ニックおじちゃん、カナルに行きたいんだって』と子供たちが言っていた。

草に覆われた小道を抜けて、普通の通りに出ると、カナルの方に向かった。

この辺はカナルの中でも難所になるから、釣り人くらいしか使わない。流れが急だし、足元も急に深くなるから、危ないのだ。

今の時期は肥えた鱒が釣れるから、釣り糸を垂らしたおじさんたちが鱒を釣っていた。

「メリー?どうしたんだ?」

「トム爺。ニコラス知らない?」

「あぁ、ニックか。さっきまでいたよ。

『この辺にカナルを渡してくれる奴はいるか?』って訊かれたよ。

でもこの辺りは流れが急だし危ないだろ?

『ここより上流か下流なら渡す場所があるけど、そこは軍隊が管理してるよ』って教えてやった。

そしたら川下に歩いていったよ」

「ありがとう」

「もう昼かね?後で釣れた魚持っていくかい?」

「うん。戻ったら貰うね」と答えて川下に向かった。

「危ないぞ、ここで待ってりゃ戻るだろう?」

トム爺の声が聞こえたが、待っていればあの騎士たちが探しに来るかもしれない。

時間が惜しかった。

川下に向かって歩くと、木々や植物の隙間から、流れの早い河が見えた。

少し進むと河原に降りられる場所があった。

その河原に佇む彼の姿が見えた。

木を支えに河原に降りようと手をかけた。

「あっ!」

木の根が悪くもろくなっていたらしい。危ないと思った時にはもう遅かった。

木は根ごと倒れて、私は段差から、石ころの並んだ河原に投げ出された。

「…いっ…たぁ」起き上がろうとして手と足に激痛が走った。

変に受身を取ろうとして、手首と足首を捻ったらしい。

「なんだ!どうした?!」

慌てて駆け寄ってきた男は屈んで私の顔を覗き込んだ。

「何でお前こんなところに…」と彼は困惑していた。

河を眺めていただけと言えばそれまでなのに、見られると困るようなことだったのだろうか?

「どこ打った?」と彼は私の身体を心配してくれた。彼は勝手に来て、転んだ私を心配してくれた。

「ニコラス…」

じわっと目頭が熱くなる。

言わなくちゃいけないことがある…でも言ったら最後、彼を手放さなきゃいけないかもしれない…

それでも黙っていれば、彼は…

覚悟を決めて、震える声で彼に訊ねた。

「ニコラス…貴方…《ラッセル》なの?」

私の問いかけに、ニコラスは目を見開いて私を見詰めた。嘘が苦手そうな彼の反応は正直だ。

あぁ…そうなんだ、と思った。

「騎士が来て…貴方を探してるの」と伝えた。

それを聞いても、彼は黙ったままだった。その沈黙は肯定だろう。

「貴方が《ラッセル》なら逃げて」

「何で俺を見逃がすんだ?」と彼は眉根を寄せた。彼には、私の行動が理解できないようだ。

黙って引き渡せば、彼を匿ったとは言われないはずだろう。でも、それは私には出来なかった…

「俺は余所者だ。あんたとは一回だけ一緒に寝ただけの男だろう?何で助ける?」

「…だって…」その先の言葉が喉につかえた。

そんなの言ってどうなるの?今から別れなきゃなんない人に、そんなこと言って意味ある?

涙で目の前が見えなくなる。

彼の悩むような顔が滲んで歪んだ。

大きい腕が伸びて、私を抱え上げた。

彼は来た道を戻ろうとした。

「ダメよ、戻ったら…」

「足に怪我してるだろ?そんなに腫れてたら歩けないはずだ」

「戻ったら捕まっちゃうでしょ?弟さん待ってるんじゃないの?」

「熊が出るような山で、あんたを一人でほっぽり出して行けない。

いざとなったら、騎士たちは全員ぶっ殺して逃げる」物騒なことを言っているが、彼は私を河原に置いて行けなかったようだ。

やっぱりこの人は良い人なんだ…

「嫌よ…」死んで欲しくない…

彼がどんな人間であろうが、私にとっては大切に思える人だ…

「ニコラス…お願い、逃げて…」

「…できない」と彼は断った。

「なんにもなけりゃ、あんたは俺の嫁さんになってくれたろ?

それなのに、あんたを放り出して逃げるなら、俺は弟に合わす顔がない。

家族は大事にするのが《ラッセル》の決まりだ」

「ニコラス…」

「悪ぃな」と彼は私に詫びた。

彼は私と寝た責任を取ろうとしてるのだと思った。

「何も無かったのよ」と彼に教えた。

「私が勝手に貴方の寝床に入っただけよ。貴方は酔いつぶれて寝てたし、何も無かったのよ」

「そうかい?それは惜しいことしたな」と言って彼は笑った。

彼の足は迷わずに村に向かっていた。

「なぁ、メリー」と不意に彼は口を開いた。

「お前の村は良い村だよ…

クソみたいな生き方してきた俺が言うんだから、間違いねぇさ。

俺のせいで台無しにしちゃなんねぇよ…」

彼はそう言ってまた口を噤んだ。言いたいことを言ったから、もう言うことは無いのだろうか?

どうしたらいいのかわからずに、彼の腕の中で泣いた。

✩.*˚

村の人間は口を揃えて、他所から迷い込んだ男を《良い人》だと言った。

「あの暴漢を見て、《良い人》とは信じられませんな…」

補佐役として随行していたブラント卿が傍らで呟いた。彼もラッセルの襲撃から生き延びた男だ。

村長の家に招かれて、場所を借りていた。

「斧一本で、あの巨大な熊の頭蓋を割るなど、誰にでもできる芸当ではないはずです。ラッセルの兄の可能性は極めて高いと思います」

「公子様。やはり騎士団を呼ぶべきでは?

もしラッセル本人なら、これだけの手勢では、確実に捉えることは難しいでしょう?」

「それでは村に負担になります。

民から無用な反感を買うのは良いことではありません。

しかもここはオーベルシュトルツ子爵領です。子爵閣下より許可は頂戴しておりますが、事を荒立てるようなことがあれば、リューデル伯爵閣下の不名誉となります」

「むう…難しいですな」とブラント卿も苦い表情を浮かべた。

大した策もない。ただ、相手を確認するのが目的で、戦闘になれば、お互い無事とはいかないだろう。

脇腹に残る引き攣った傷が疼いた。

治癒魔法で繋いだ傷跡はまだ違和感がある。

あの男と相対したところで、果たして勝てるだろうか?

気持ちが弱くなるのは、あの男を知っているからだ。

伯父の亡骸を迎えに来たお嬢様は、私のためにも泣いてくれた。

私の無謀な行為はリューデル伯爵父娘は悲しませた。

あの二人はもう失いたくないのだ…

私は二人を裏切るところだった。

この役についても、リューデル伯爵の反対を押し切って、無理をしないことを条件にお許しを頂いた。

『必ず戻れ。私はアダリーの花嫁衣裳を楽しみにしてるのだ。相手がなければ見ることはできん』

ずるい人だ…娘を利用するなんて…

「リューデル公子」と声がかかった。

現実に向き合う覚悟を決めて、返事を返して振り返った。

ブラント卿が慌てた様子の騎士に「何事か?」と訊ねた。

「ラッセルが…」という報告に緊張が走った。

だが、報告は意外なものだった。

「ラッセルが投降すると…

村長の娘が説得したそうで、戻ってきました。

…とにかく、お二人にもご確認頂きたく…」

「…投降だと?」耳を疑った。ブラント卿も同じ様子だ。

「信じられんな…公子様、ご油断召されませんように」

「分かった。とにかく会おう。

皆にはあまり刺激しないようにと伝えてくれ」

話してる最中にも外が騒がしくなった。

「待て!貴様!外で待てと伝えたはずだ!」

「何だ?俺に暴れろってか?

彼女は歩けねぇんだ、部屋まで連れて行って何が悪い?」

野太い男の恫喝する声がして、重い足音が廊下に響いた。

廊下に出るとあの大男の姿があった。

彼の姿を見て、背筋に冷たい感覚が走った。

狭い家の中では剣も振るえない。殴り合いになれば私に勝算はない。

「何だ?まだ居やがったか?」

男はそう言って私を睨んだが手は出さなかった。

出せなかったのだ。

彼の両手は塞がれていた。

「そのご婦人は…」井戸端で見た女性だ。村長の娘と名乗ったのを覚えていた。

「高いところから落ちて足をくじいたのさ。ドジな女だろ?仕方ねぇから連れてきてやったのさ」

男はそう嘯いた。

彼は迷わず廊下の先にある部屋に消えた。

逃がさないように後を追って、閉じかけたドアを抑えた。

「野暮な坊ちゃんだ」

ラッセルは不愉快そうにボヤいたが、私の存在を無視した。

彼はカナルで見たラッセルと同一人物には見えなかった。

ここに来てから変わったのか?それとも元から彼はそういう人間だったのだろうか?

そんな答えのないことを考えながら、ラッセルの背中を見ていた。

様子を伺っていると、彼は村長の娘をベッドに降ろして、足の怪我を確認していた。

「坊ちゃんよ。あんた偉い人だろう?」とラッセルの方から私に声をかけてきた。

「前に会ったことあったな。俺が殺し損ねたあの時の坊ちゃんだろ?」

「覚えてるのか?」意外な彼の言葉に驚いた。

彼の背中が少し揺れた。笑ったようだった。

「あん時殺してたら覚えてなかったけどな。あんた強かった。俺は割と根に持つからよ、怪我させられた相手は覚えてるのさ」

ふざけた口調で話すラッセルからは余裕が感じられた。

「俺が暴れたらどうなるか知ってるだろう?」

「私を脅すつもりなら、その言葉には剣でお返しする」

「くそ真面目な坊ちゃんだ。あんたモテないだろ?」

「それに答える必要は無い」

「そうかい?それがモテないってんだ」軽口を叩きながら彼は肩を竦めた。

「まぁ、あんた真面目だが馬鹿じゃなさそうだ…

あんたが俺の話を聞いてくれるなら、あんたの《手柄》になってやってもいいぜ」とラッセルは勝手に交渉を持ち出した。

「この村の連中は俺の正体は知らねぇんだ。勘弁してやってくれ。

あと、明日まで待ってくれるんなら、俺はあんたらと大人しくカナルに戻る。

どうだ?悪い話じゃないだろう?」

「何を勝手な…」

「じゃあ、とことんやってやるよ。俺はマジだぜ。

あんたらが何人来ても、俺のやることは変わらねぇんだ。

ラッセルの名前が忘れられないように、最後まで暴れてやるよ」

「彼女も巻き込む気か?」

「必要ならな、俺はそれでも構わねぇよ…

どっちにしろ、連れては行けねぇんだ」

ラッセルはそう言いながら彼女の頭を撫でていた。

彼の粗野な言葉とは対照的に、その手には恋人に向けられるような愛情がこもっていた。

「悪いな、メリー」

「ニコラス…」

「巻き込む気はなかったんだけどな…

さっさと出ていきゃ良かったのに、悪かったな」

二人の様子を見て、自分の中の、憎いはずの彼の像が崩れた気がした。

彼も人だったのだ…

彼は憎むべきオークランド人だが、私とは視点が異なるだけで、カナルを守るために戦っているに過ぎない。

純粋な悪党ではなく、単純に、彼にとって私たちは敵だったから戦っただけの話しなのだろう。

彼にとって、私は《青主》程度の存在なのだ…

それでも私は人間だ。

彼は私に理性的な答えを期待しているのだろうか?

「敵である私に、お前を信じろというのか?」

「知ってるか?そういうところで、あんたの男としての度量が決まるんだぜ」と、彼は試すように言って笑った。

上手く口車に乗せられてる気もしたが、何故かこの男が憎めなくなっていた。

「私がお前を信用する理由がない」

「そうかい?案外小さい男なんだな?

俺はあんたが話できる奴だと思ったから交渉してみただけさ。

あんたは他の奴らみたいに、無闇に噛みつかねぇからよ。面白いことは言わなさそうだが、話は聞く男だと思った」

「勝手な男だ」

「そうかい?」と、彼はまた背中で笑った。

陽気な背中を見てため息を吐いた。

「…分かった。

お前が大人しく投降するなら、そのくらいは譲歩しよう」

「へえ?あんたやっぱり良い男かもな」

私の返事に、ラッセルはご機嫌に手のひらを返した。ラッセルは立ち上がると振り返った。

ギシギシと床を軋ませながら、私の前に立ったラッセルは右手を差し出した。

「あんたに任せる。ありがとうよ」

握手のつもりのようだ。

自分を捕らえに来た人間に礼を言うなんてどうかしている。ましてや握手まで…

手を握るのを躊躇していると、ラッセルは勝手に私の手を握って、握手をすると子供みたいに笑った。

「俺のことは知ってるだろう?好きに呼べばいい。あんたは何て呼んだらいい?」

そんな当たり前のことを訊かれて、返答に躊躇した。

既にリューデル伯爵からは、リューデルの姓で名乗るようにと命じられている。その方が都合が良いからだ。

だが、この男にリューデルの姓を軽く扱われるのはどこか抵抗があった。かと言って、大して知りもしない相手に名前で呼ばれるのも気持ち悪い…

「何もないなら《お坊ちゃん》って呼ぶぜ」と彼の方から代案を寄越した。

「好きにすればいい」とその呼び方で妥協した。

ラッセルに部屋から出るなと命令して、部屋を出た。

何か話す声が聞こえてきたが、聞こえないふりをした。女の啜り泣く声に罪悪感を感じた…

ドアの前でブラント卿と騎士たちは中の様子を伺っていたようだ。

「公子様、これはどういうおつもりか?」とブラント卿から厳しい言葉が投げかけられた。

「あの男に情けなど不要です!奴がエアフルト卿の仇とお忘れか?!

寝首を掻かれるか、もしくは逃げられるかもしれませんぞ!」

「今は状況が違います。

実際、あの男が本気で暴れれば、我々だけでなく、この村にも被害が出ます。

無辜の民を巻き込むのはよくありません。

簡単な条件であの男が大人しく従うなら、その方が良いと思います」

「何を悠長な…」

「実際の問題として、我々はカナルでもあの男に逃げ切られています。

あの時より少ない手勢で、確実に彼を捕らえるのは不可能に等しいです。

それに、我々とて無事ではすまないでしょう…」

ブラント卿もそれは承知の上だろう。

今にも振るわれそうな震える拳は怒気を纏っていた。

「…私は…エアフルト卿とは旧知の間柄です」

「はい。存じてます」

「公子様はその判断を、胸を張ってエアフルト卿にそのお言葉を伝えられますか?

閣下や公女様はそれをお認めになられますか?」

ブラント卿は厳しい言葉で私を責めた。

エアフルト卿は物静かで冷静で、それでいて情に厚い人だった。リューデル伯爵やお嬢様からの信頼も厚く、慕う人間も多かった。

彼もその一人だったのだろう。

私もだ…

「エアフルト卿はお認めになられます。

私が他者に犠牲を強いて、無理を通す事こそお諌めされるでしょう」

「そこに私情はありませんか?」

「無いとは言いきれません。

しかし、私欲ではないとご理解頂きたい。我が身可愛さでも、ラッセルを恐れてでもありません。

もし、私の選択が誤りなら、リューデル伯爵閣下が裁かれることでしょう」

「…確かにその通りですな」とブラント卿は頷いた。

私のような経験不足の若造の意見を受け入れねばならないのは、年長者として屈辱的に覚えるかもしれない。

それでも、彼は私を《リューデル公子》として立てて、従ってくれた。

「公子様のお考えに、差し出がましい事を申し上げました。お許しください」

「そんなことはありません。これからもエアフルト卿に代わって、ご指導よろしくお願いします」

ブラント卿に敬意を示して頭を下げた。

ブラント卿はその言葉を快く受け止めて、頷いてくれた。

随行していた騎士たちも、ブラント卿が折れたことで、私の決定を受け入れてくれた。

彼らには失望させてしまっただろうか?

次期リューデル伯爵の器でないと思われたのではないだろうか?

『私がお手伝い致します』と支えてくれたエアフルト卿には、今の私はどう映るのだろう?

そんな答えのあるはずない自問自答に、心と足は重くなった。

引き攣った傷跡がジクジクと痛んだ…

✩.*˚

あの坊ちゃんは良い奴だ。

《公子様》と呼ばれていたが、話の分かる奴だった。

ヴィクターのところに戻れないのは困ったが、ここにいてもカナルは渡れそうにない。

それならいっそ、ヴィクターの《鷹の目》の届くカナルに戻って、改めて仕切り直すのも悪くないと思った。

多少荒っぽいことになるのは覚悟の上だったが、坊ちゃんが場を収めて、俺の些細な要求を飲んだ事で、厄介事を起こさずに済んだ。

狭いベッドで寄り添って眠るメリーの髪を撫でた。

足首と手首の捻挫は大したこと無かったらしい。すぐに腫れも引いたし、他の怪我も擦り傷だ。

骨が折れたりしてなくて良かった。

《青主》の金は彼女にやって、代わりに彼女の一晩を買った。

俺が買っただけで、彼女は売っただけだ。

そこに愛なんて必要ないだろう…

もし子供ができたとしても、金が残れば何とか育てるだろう。

ここは良い村だから、俺と一晩過ごしたくらいで、彼女を無下に扱ったりしないはずだ。そう信じたかった。

朝が来て、彼女の起きる気配がした。

彼女はそそくさと服を着て、先に部屋を出て行った。

ドアの向こう側で、見張りの騎士が彼女を呼び止める声が聞こえた。

ドアが少し開いて、騎士が覗き込んだ。俺が逃げてないか確認して、「起きて用意しろ」と小言を残してドアを閉めた。

裸で連れていかれるのはさすがに困る。

服を着て部屋で待っていると、部屋から出れない俺の分の食事を持ってメリーが戻って来た。

「おはよう」

「あぁ」と応えて、彼女の用意した朝食を食べた。

彼女は辺りを気にしながら、タンスに歩み寄ると、奥から俺が猟師小屋から失敬してきたカバンを取り出した。

「これ、貴方の荷物」

「捨てなかったのか?」

「だって、残してたんでしょう?」メリーはそう言ってカバンを寄越した。

中には捨てきれなかった、あの破れた赤い上着が入っていた。

彼女は上着を見ると、「直してあげる」と言ってくれた。

もう俺がラッセルだと知れている。隠す理由もなかった。

彼女は手際よく破れた箇所を直して、着れるようにしてくれた。

勿体ねぇな…いい嫁さんになったろうによ…

そんな柄にも無い言葉を飲み込んで、彼女の親切を受け取った。

赤い目立つ上着は、俺が誰かを雄弁に語ってくれる役だ。相棒みたいになっているこの服は、置いて行くのは薄情な気がした。

「ありがとうよ」と礼を言って彼女を抱き締めた。

頷いた彼女は涙を堪えるように、俺の胸に顔を埋めた。

悪くねぇな…

出ていくのが惜しくなるくらい、彼女に惚れていた。

ドアをノックする音が無粋にも、彼女との別れを告げた。

「ラッセル、約束だ」

「分かったよ…」

坊ちゃんが俺を呼びに来た。

約束か…

仇相手に律儀な野郎だ。

「じゃあな、メリー。元気でな」

彼女の背を軽く叩いて、軽い口調で別れを告げた。

離れようとした時に彼女は「待って」と告げて、出したままになっていた裁縫バサミで、長い髪のひとつまみを切った。

「何も持って行けないだろうから…これだけ」と彼女は自分の髪の毛を俺の左手に結んだ。

いい土産だ。

礼を言って、彼女を残して部屋を後にした。
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