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律儀
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「ニコラス、どこに行くの?」
玄関先で、家を出て行こうとする彼を呼び止めた。
彼はちらりと私に視線を向けて、ふいっと視線を逸らした。
行き先を訊かれたのが気に触ったのかと思ったが、私も確認しない訳にはいかなかった。
「…ちょっと歩いてくるだけだ。ちゃんと戻る」
彼はそう言って、大きな身体を揺らしながら家を出て行った。
すぐに出て行くつもりだったのに、彼はまだこの村にいる。
私が彼の寝床に入ったから、義理堅く帰れずにいるのだろうか?
そうだとしたら、随分義理堅い人だ。
『メリー、あんないい人逃しちゃなんねぇよ』とお父さんは酔った彼の寝床に入るように勧めた。
私だって、いつまでも独り身でいたくない。好い人がいるなら、子供を望めるうちに一緒になりたかった。
お父さんの思惑通り、彼は義理堅くこの村に残っていた。
あの夜は本当は何も無かったのに、責任を感じて残っているのだとすれば、悪い事をしたと思う。
未通女でもない寡婦に責任を感じるなんていい人だ。騙したようで申し訳ない…
でも、だからこそ残って欲しいと思ってしまうのだ…
寝室のベッドに脱いだ服が置かれていた。
天気もいいからシーツも洗おう…
男の匂いのする洗濯物を籠に詰めて、村の井戸に向かった。
「おはよう」と見知った顔に挨拶して、洗い場に並んで洗濯を始めた。
おばさんたちは、ニコラスの事を聞きたがった。
「あんたのいい人、残ってくれるんだろう?」
「でも、あの人家族が待ってて…」
「そこはあんたが頑張って説得しなきゃ。
エッダなんてろくな仕事ないんだからさ、悪くない話だろ?」
おばさん達は好きに喋った。
彼はあまり自分の話をしない人だから、私も話すことなんてほとんどない。
それがさらに彼女らの想像力を掻き立てるようだ。
世間話をしながら洗濯物を洗っていると、馬に乗った身なりの良い騎士たちがやってきた。
「この村の代表者は?」と若い青年が訊ねた。
「私の父ですが」と応えると、青年は私に案内を頼んだ。
「なんの御用でしょうか?」と確認すると、彼は「《青主》という熊を倒した男に用があって来ました」と表情を変えずに答えた。
冷たい印象の青年に胸騒ぎを覚えた。
「父を呼んできます」と答えて家に走った。
慌てて家に戻ると、お父さんを呼ぶ前に彼の荷物を自分のタンスに隠した。
彼に繋がるものを片付けて、お父さんに声を掛けた。お父さんも何か感じ取ったらしい。
こんなところに騎士が来るなんて、余程の用事だ。
熊を倒すほどの人だから、兵士として徴兵に来たのかもしれない。
お父さんと井戸に戻ると、騎士たちは馬に水をやっていた。
「村長ですか?」と先程の青年が訊ねた。
彼は兜を取って《リューデル公子》と名乗った。
「この村に大熊を倒す猛者がいると聞いて来ました。その男は今どこに?」
「今朝家を出て行きました。どこに行ったかは分かりません。彼に用事でしたでしょうか?」とお父さんは何も知らないような顔で答えた。
青年は相変わらず眉ひとつ動かさずに、淡々と答えた。
「領主であるオーベルシュトルツ子爵より《青主》の報奨金を預かっています。
私が本人を検めて、問題のない人物なら渡したい」
「何も公子様がいらっしゃらずとも…」
「顔を確認できる人間が少ないので私が来たのです。その男が我々の探している者で無ければ、用を済ませて帰るつもりです」
「一体何事でしょうか?差し支えなければお話頂けませんか?
私には責任がありますので、村の者たちにも説明せねばなりません」
青年はお父さんの言葉に納得して、事情を話すことを了承した。
「カナルで我が軍に甚大な被害を出したオークランド人の男が逃走中です。私も相対したことがあるが、非常に凶暴な男でした。
名前は《ニコラス・ラッセル》、もしくは《ニック・ラッセル》と名乗っています。
逃走したのは二週間ほど前になりますが、行方は分かりません。
フェアデへルデ領主から、該当者の可能性があると報告があったので、直接顔を知っている私が来たのです」
青年の話に、お父さんと二人で耳を疑った。
「そんな…何かの間違いでしょう?
彼は温厚な男ですよ。老人子供を放り出して逃げても良かったのに、義理堅く守って、怪我までして熊を退治してくれたんです。
悪い人間じゃありませんよ?」
「話は聞いていてます。
人物像に差異があるため、確認のために私が来ました。
カナルでの憂いを無くすために、どうか協力して欲しい。
あなたがたの安全のためでもあるのです」
彼の言うことは何もおかしなことではなかった。
逃走中の悪漢の可能性があるから確認したい、ただそれだけだ。
「…もし、それがお探しの人間なら?」
「その場合は捕らえるようにと命じられています。
この場で取り逃せば、またカナルで被害が出る可能性があります。
ただ、相手が大人しく従う可能性は低いと思いますので、何らかの被害があれば金銭にて補償するつもりです」
安心させようと言ったのだろう。
でもその話で逆に不安になった…
『ちょっと歩いて来るだけだ』
彼はすぐに戻ってくるだろう…
もし顔を合わせたら…
「お父さん、洗濯物このままにしておけないから、片付けてから戻るわ。騎士様たちと先に帰っててくれる?」
お父さんにリューデル公子たちを任せて、急いで濡らした服とシーツを洗った。
「預かってあげるよ」とアンおばさんが言ってくれた。
「いいから行きなよ。あの人探しておいで」
「おばさん…」
「好きなんだろ?好きなら行きなよ、まだ間に合うだろ?」アンおばさんに背中を押されて頷いた。
井戸を離れて、彼を探しに走った。
子供たちが代々使ってる小さな脇道で村の外に出た。
どこに行ったのかな?
出てく姿は見ていた。それでも行先は教えて貰えなかったから、探すのは難しい。
一つだけ心当たりがあったから、とりあえずそれに賭けてみた。
『ニックおじちゃん、カナルに行きたいんだって』と子供たちが言っていた。
草に覆われた小道を抜けて、普通の通りに出ると、カナルの方に向かった。
この辺はカナルの中でも難所になるから、釣り人くらいしか使わない。流れが急だし、足元も急に深くなるから、危ないのだ。
今の時期は肥えた鱒が釣れるから、釣り糸を垂らしたおじさんたちが鱒を釣っていた。
「メリー?どうしたんだ?」
「トム爺。ニコラス知らない?」
「あぁ、ニックか。さっきまでいたよ。
『この辺にカナルを渡してくれる奴はいるか?』って訊かれたよ。
でもこの辺りは流れが急だし危ないだろ?
『ここより上流か下流なら渡す場所があるけど、そこは軍隊が管理してるよ』って教えてやった。
そしたら川下に歩いていったよ」
「ありがとう」
「もう昼かね?後で釣れた魚持っていくかい?」
「うん。戻ったら貰うね」と答えて川下に向かった。
「危ないぞ、ここで待ってりゃ戻るだろう?」
トム爺の声が聞こえたが、待っていればあの騎士たちが探しに来るかもしれない。
時間が惜しかった。
川下に向かって歩くと、木々や植物の隙間から、流れの早い河が見えた。
少し進むと河原に降りられる場所があった。
その河原に佇む彼の姿が見えた。
木を支えに河原に降りようと手をかけた。
「あっ!」
木の根が悪くもろくなっていたらしい。危ないと思った時にはもう遅かった。
木は根ごと倒れて、私は段差から、石ころの並んだ河原に投げ出された。
「…いっ…たぁ」起き上がろうとして手と足に激痛が走った。
変に受身を取ろうとして、手首と足首を捻ったらしい。
「なんだ!どうした?!」
慌てて駆け寄ってきた男は屈んで私の顔を覗き込んだ。
「何でお前こんなところに…」と彼は困惑していた。
河を眺めていただけと言えばそれまでなのに、見られると困るようなことだったのだろうか?
「どこ打った?」と彼は私の身体を心配してくれた。彼は勝手に来て、転んだ私を心配してくれた。
「ニコラス…」
じわっと目頭が熱くなる。
言わなくちゃいけないことがある…でも言ったら最後、彼を手放さなきゃいけないかもしれない…
それでも黙っていれば、彼は…
覚悟を決めて、震える声で彼に訊ねた。
「ニコラス…貴方…《ラッセル》なの?」
私の問いかけに、ニコラスは目を見開いて私を見詰めた。嘘が苦手そうな彼の反応は正直だ。
あぁ…そうなんだ、と思った。
「騎士が来て…貴方を探してるの」と伝えた。
それを聞いても、彼は黙ったままだった。その沈黙は肯定だろう。
「貴方が《ラッセル》なら逃げて」
「何で俺を見逃がすんだ?」と彼は眉根を寄せた。彼には、私の行動が理解できないようだ。
黙って引き渡せば、彼を匿ったとは言われないはずだろう。でも、それは私には出来なかった…
「俺は余所者だ。あんたとは一回だけ一緒に寝ただけの男だろう?何で助ける?」
「…だって…」その先の言葉が喉に閊えた。
そんなの言ってどうなるの?今から別れなきゃなんない人に、そんなこと言って意味ある?
涙で目の前が見えなくなる。
彼の悩むような顔が滲んで歪んだ。
大きい腕が伸びて、私を抱え上げた。
彼は来た道を戻ろうとした。
「ダメよ、戻ったら…」
「足に怪我してるだろ?そんなに腫れてたら歩けないはずだ」
「戻ったら捕まっちゃうでしょ?弟さん待ってるんじゃないの?」
「熊が出るような山で、あんたを一人でほっぽり出して行けない。
いざとなったら、騎士たちは全員ぶっ殺して逃げる」物騒なことを言っているが、彼は私を河原に置いて行けなかったようだ。
やっぱりこの人は良い人なんだ…
「嫌よ…」死んで欲しくない…
彼がどんな人間であろうが、私にとっては大切に思える人だ…
「ニコラス…お願い、逃げて…」
「…できない」と彼は断った。
「なんにもなけりゃ、あんたは俺の嫁さんになってくれたろ?
それなのに、あんたを放り出して逃げるなら、俺は弟に合わす顔がない。
家族は大事にするのが《ラッセル》の決まりだ」
「ニコラス…」
「悪ぃな」と彼は私に詫びた。
彼は私と寝た責任を取ろうとしてるのだと思った。
「何も無かったのよ」と彼に教えた。
「私が勝手に貴方の寝床に入っただけよ。貴方は酔いつぶれて寝てたし、何も無かったのよ」
「そうかい?それは惜しいことしたな」と言って彼は笑った。
彼の足は迷わずに村に向かっていた。
「なぁ、メリー」と不意に彼は口を開いた。
「お前の村は良い村だよ…
クソみたいな生き方してきた俺が言うんだから、間違いねぇさ。
俺のせいで台無しにしちゃなんねぇよ…」
彼はそう言ってまた口を噤んだ。言いたいことを言ったから、もう言うことは無いのだろうか?
どうしたらいいのかわからずに、彼の腕の中で泣いた。
✩.*˚
村の人間は口を揃えて、他所から迷い込んだ男を《良い人》だと言った。
「あの暴漢を見て、《良い人》とは信じられませんな…」
補佐役として随行していたブラント卿が傍らで呟いた。彼もラッセルの襲撃から生き延びた男だ。
村長の家に招かれて、場所を借りていた。
「斧一本で、あの巨大な熊の頭蓋を割るなど、誰にでもできる芸当ではないはずです。ラッセルの兄の可能性は極めて高いと思います」
「公子様。やはり騎士団を呼ぶべきでは?
もしラッセル本人なら、これだけの手勢では、確実に捉えることは難しいでしょう?」
「それでは村に負担になります。
民から無用な反感を買うのは良いことではありません。
しかもここはオーベルシュトルツ子爵領です。子爵閣下より許可は頂戴しておりますが、事を荒立てるようなことがあれば、リューデル伯爵閣下の不名誉となります」
「むう…難しいですな」とブラント卿も苦い表情を浮かべた。
大した策もない。ただ、相手を確認するのが目的で、戦闘になれば、お互い無事とはいかないだろう。
脇腹に残る引き攣った傷が疼いた。
治癒魔法で繋いだ傷跡はまだ違和感がある。
あの男と相対したところで、果たして勝てるだろうか?
気持ちが弱くなるのは、あの男を知っているからだ。
伯父の亡骸を迎えに来たお嬢様は、私のためにも泣いてくれた。
私の無謀な行為はリューデル伯爵父娘は悲しませた。
あの二人はもう失いたくないのだ…
私は二人を裏切るところだった。
この役についても、リューデル伯爵の反対を押し切って、無理をしないことを条件にお許しを頂いた。
『必ず戻れ。私はアダリーの花嫁衣裳を楽しみにしてるのだ。相手がなければ見ることはできん』
ずるい人だ…娘を利用するなんて…
「リューデル公子」と声がかかった。
現実に向き合う覚悟を決めて、返事を返して振り返った。
ブラント卿が慌てた様子の騎士に「何事か?」と訊ねた。
「ラッセルが…」という報告に緊張が走った。
だが、報告は意外なものだった。
「ラッセルが投降すると…
村長の娘が説得したそうで、戻ってきました。
…とにかく、お二人にもご確認頂きたく…」
「…投降だと?」耳を疑った。ブラント卿も同じ様子だ。
「信じられんな…公子様、ご油断召されませんように」
「分かった。とにかく会おう。
皆にはあまり刺激しないようにと伝えてくれ」
話してる最中にも外が騒がしくなった。
「待て!貴様!外で待てと伝えたはずだ!」
「何だ?俺に暴れろってか?
彼女は歩けねぇんだ、部屋まで連れて行って何が悪い?」
野太い男の恫喝する声がして、重い足音が廊下に響いた。
廊下に出るとあの大男の姿があった。
彼の姿を見て、背筋に冷たい感覚が走った。
狭い家の中では剣も振るえない。殴り合いになれば私に勝算はない。
「何だ?まだ居やがったか?」
男はそう言って私を睨んだが手は出さなかった。
出せなかったのだ。
彼の両手は塞がれていた。
「そのご婦人は…」井戸端で見た女性だ。村長の娘と名乗ったのを覚えていた。
「高いところから落ちて足をくじいたのさ。ドジな女だろ?仕方ねぇから連れてきてやったのさ」
男はそう嘯いた。
彼は迷わず廊下の先にある部屋に消えた。
逃がさないように後を追って、閉じかけたドアを抑えた。
「野暮な坊ちゃんだ」
ラッセルは不愉快そうにボヤいたが、私の存在を無視した。
彼はカナルで見たラッセルと同一人物には見えなかった。
ここに来てから変わったのか?それとも元から彼はそういう人間だったのだろうか?
そんな答えのないことを考えながら、ラッセルの背中を見ていた。
様子を伺っていると、彼は村長の娘をベッドに降ろして、足の怪我を確認していた。
「坊ちゃんよ。あんた偉い人だろう?」とラッセルの方から私に声をかけてきた。
「前に会ったことあったな。俺が殺し損ねたあの時の坊ちゃんだろ?」
「覚えてるのか?」意外な彼の言葉に驚いた。
彼の背中が少し揺れた。笑ったようだった。
「あん時殺してたら覚えてなかったけどな。あんた強かった。俺は割と根に持つからよ、怪我させられた相手は覚えてるのさ」
ふざけた口調で話すラッセルからは余裕が感じられた。
「俺が暴れたらどうなるか知ってるだろう?」
「私を脅すつもりなら、その言葉には剣でお返しする」
「くそ真面目な坊ちゃんだ。あんたモテないだろ?」
「それに答える必要は無い」
「そうかい?それがモテないってんだ」軽口を叩きながら彼は肩を竦めた。
「まぁ、あんた真面目だが馬鹿じゃなさそうだ…
あんたが俺の話を聞いてくれるなら、あんたの《手柄》になってやってもいいぜ」とラッセルは勝手に交渉を持ち出した。
「この村の連中は俺の正体は知らねぇんだ。勘弁してやってくれ。
あと、明日まで待ってくれるんなら、俺はあんたらと大人しくカナルに戻る。
どうだ?悪い話じゃないだろう?」
「何を勝手な…」
「じゃあ、とことんやってやるよ。俺はマジだぜ。
あんたらが何人来ても、俺のやることは変わらねぇんだ。
ラッセルの名前が忘れられないように、最後まで暴れてやるよ」
「彼女も巻き込む気か?」
「必要ならな、俺はそれでも構わねぇよ…
どっちにしろ、連れては行けねぇんだ」
ラッセルはそう言いながら彼女の頭を撫でていた。
彼の粗野な言葉とは対照的に、その手には恋人に向けられるような愛情がこもっていた。
「悪いな、メリー」
「ニコラス…」
「巻き込む気はなかったんだけどな…
さっさと出ていきゃ良かったのに、悪かったな」
二人の様子を見て、自分の中の、憎いはずの彼の像が崩れた気がした。
彼も人だったのだ…
彼は憎むべきオークランド人だが、私とは視点が異なるだけで、カナルを守るために戦っているに過ぎない。
純粋な悪党ではなく、単純に、彼にとって私たちは敵だったから戦っただけの話しなのだろう。
彼にとって、私は《青主》程度の存在なのだ…
それでも私は人間だ。
彼は私に理性的な答えを期待しているのだろうか?
「敵である私に、お前を信じろというのか?」
「知ってるか?そういうところで、あんたの男としての度量が決まるんだぜ」と、彼は試すように言って笑った。
上手く口車に乗せられてる気もしたが、何故かこの男が憎めなくなっていた。
「私がお前を信用する理由がない」
「そうかい?案外小さい男なんだな?
俺はあんたが話できる奴だと思ったから交渉してみただけさ。
あんたは他の奴らみたいに、無闇に噛みつかねぇからよ。面白いことは言わなさそうだが、話は聞く男だと思った」
「勝手な男だ」
「そうかい?」と、彼はまた背中で笑った。
陽気な背中を見てため息を吐いた。
「…分かった。
お前が大人しく投降するなら、そのくらいは譲歩しよう」
「へえ?あんたやっぱり良い男かもな」
私の返事に、ラッセルはご機嫌に手のひらを返した。ラッセルは立ち上がると振り返った。
ギシギシと床を軋ませながら、私の前に立ったラッセルは右手を差し出した。
「あんたに任せる。ありがとうよ」
握手のつもりのようだ。
自分を捕らえに来た人間に礼を言うなんてどうかしている。ましてや握手まで…
手を握るのを躊躇していると、ラッセルは勝手に私の手を握って、握手をすると子供みたいに笑った。
「俺のことは知ってるだろう?好きに呼べばいい。あんたは何て呼んだらいい?」
そんな当たり前のことを訊かれて、返答に躊躇した。
既にリューデル伯爵からは、リューデルの姓で名乗るようにと命じられている。その方が都合が良いからだ。
だが、この男にリューデルの姓を軽く扱われるのはどこか抵抗があった。かと言って、大して知りもしない相手に名前で呼ばれるのも気持ち悪い…
「何もないなら《お坊ちゃん》って呼ぶぜ」と彼の方から代案を寄越した。
「好きにすればいい」とその呼び方で妥協した。
ラッセルに部屋から出るなと命令して、部屋を出た。
何か話す声が聞こえてきたが、聞こえないふりをした。女の啜り泣く声に罪悪感を感じた…
ドアの前でブラント卿と騎士たちは中の様子を伺っていたようだ。
「公子様、これはどういうおつもりか?」とブラント卿から厳しい言葉が投げかけられた。
「あの男に情けなど不要です!奴がエアフルト卿の仇とお忘れか?!
寝首を掻かれるか、もしくは逃げられるかもしれませんぞ!」
「今は状況が違います。
実際、あの男が本気で暴れれば、我々だけでなく、この村にも被害が出ます。
無辜の民を巻き込むのはよくありません。
簡単な条件であの男が大人しく従うなら、その方が良いと思います」
「何を悠長な…」
「実際の問題として、我々はカナルでもあの男に逃げ切られています。
あの時より少ない手勢で、確実に彼を捕らえるのは不可能に等しいです。
それに、我々とて無事ではすまないでしょう…」
ブラント卿もそれは承知の上だろう。
今にも振るわれそうな震える拳は怒気を纏っていた。
「…私は…エアフルト卿とは旧知の間柄です」
「はい。存じてます」
「公子様はその判断を、胸を張ってエアフルト卿にそのお言葉を伝えられますか?
閣下や公女様はそれをお認めになられますか?」
ブラント卿は厳しい言葉で私を責めた。
エアフルト卿は物静かで冷静で、それでいて情に厚い人だった。リューデル伯爵やお嬢様からの信頼も厚く、慕う人間も多かった。
彼もその一人だったのだろう。
私もだ…
「エアフルト卿はお認めになられます。
私が他者に犠牲を強いて、無理を通す事こそお諌めされるでしょう」
「そこに私情はありませんか?」
「無いとは言いきれません。
しかし、私欲ではないとご理解頂きたい。我が身可愛さでも、ラッセルを恐れてでもありません。
もし、私の選択が誤りなら、リューデル伯爵閣下が裁かれることでしょう」
「…確かにその通りですな」とブラント卿は頷いた。
私のような経験不足の若造の意見を受け入れねばならないのは、年長者として屈辱的に覚えるかもしれない。
それでも、彼は私を《リューデル公子》として立てて、従ってくれた。
「公子様のお考えに、差し出がましい事を申し上げました。お許しください」
「そんなことはありません。これからもエアフルト卿に代わって、ご指導よろしくお願いします」
ブラント卿に敬意を示して頭を下げた。
ブラント卿はその言葉を快く受け止めて、頷いてくれた。
随行していた騎士たちも、ブラント卿が折れたことで、私の決定を受け入れてくれた。
彼らには失望させてしまっただろうか?
次期リューデル伯爵の器でないと思われたのではないだろうか?
『私がお手伝い致します』と支えてくれたエアフルト卿には、今の私はどう映るのだろう?
そんな答えのあるはずない自問自答に、心と足は重くなった。
引き攣った傷跡がジクジクと痛んだ…
✩.*˚
あの坊ちゃんは良い奴だ。
《公子様》と呼ばれていたが、話の分かる奴だった。
ヴィクターのところに戻れないのは困ったが、ここにいてもカナルは渡れそうにない。
それならいっそ、ヴィクターの《鷹の目》の届くカナルに戻って、改めて仕切り直すのも悪くないと思った。
多少荒っぽいことになるのは覚悟の上だったが、坊ちゃんが場を収めて、俺の些細な要求を飲んだ事で、厄介事を起こさずに済んだ。
狭いベッドで寄り添って眠るメリーの髪を撫でた。
足首と手首の捻挫は大したこと無かったらしい。すぐに腫れも引いたし、他の怪我も擦り傷だ。
骨が折れたりしてなくて良かった。
《青主》の金は彼女にやって、代わりに彼女の一晩を買った。
俺が買っただけで、彼女は売っただけだ。
そこに愛なんて必要ないだろう…
もし子供ができたとしても、金が残れば何とか育てるだろう。
ここは良い村だから、俺と一晩過ごしたくらいで、彼女を無下に扱ったりしないはずだ。そう信じたかった。
朝が来て、彼女の起きる気配がした。
彼女はそそくさと服を着て、先に部屋を出て行った。
ドアの向こう側で、見張りの騎士が彼女を呼び止める声が聞こえた。
ドアが少し開いて、騎士が覗き込んだ。俺が逃げてないか確認して、「起きて用意しろ」と小言を残してドアを閉めた。
裸で連れていかれるのはさすがに困る。
服を着て部屋で待っていると、部屋から出れない俺の分の食事を持ってメリーが戻って来た。
「おはよう」
「あぁ」と応えて、彼女の用意した朝食を食べた。
彼女は辺りを気にしながら、タンスに歩み寄ると、奥から俺が猟師小屋から失敬してきたカバンを取り出した。
「これ、貴方の荷物」
「捨てなかったのか?」
「だって、残してたんでしょう?」メリーはそう言ってカバンを寄越した。
中には捨てきれなかった、あの破れた赤い上着が入っていた。
彼女は上着を見ると、「直してあげる」と言ってくれた。
もう俺がラッセルだと知れている。隠す理由もなかった。
彼女は手際よく破れた箇所を直して、着れるようにしてくれた。
勿体ねぇな…いい嫁さんになったろうによ…
そんな柄にも無い言葉を飲み込んで、彼女の親切を受け取った。
赤い目立つ上着は、俺が誰かを雄弁に語ってくれる役だ。相棒みたいになっているこの服は、置いて行くのは薄情な気がした。
「ありがとうよ」と礼を言って彼女を抱き締めた。
頷いた彼女は涙を堪えるように、俺の胸に顔を埋めた。
悪くねぇな…
出ていくのが惜しくなるくらい、彼女に惚れていた。
ドアをノックする音が無粋にも、彼女との別れを告げた。
「ラッセル、約束だ」
「分かったよ…」
坊ちゃんが俺を呼びに来た。
約束か…
仇相手に律儀な野郎だ。
「じゃあな、メリー。元気でな」
彼女の背を軽く叩いて、軽い口調で別れを告げた。
離れようとした時に彼女は「待って」と告げて、出したままになっていた裁縫バサミで、長い髪のひとつまみを切った。
「何も持って行けないだろうから…これだけ」と彼女は自分の髪の毛を俺の左手に結んだ。
いい土産だ。
礼を言って、彼女を残して部屋を後にした。
玄関先で、家を出て行こうとする彼を呼び止めた。
彼はちらりと私に視線を向けて、ふいっと視線を逸らした。
行き先を訊かれたのが気に触ったのかと思ったが、私も確認しない訳にはいかなかった。
「…ちょっと歩いてくるだけだ。ちゃんと戻る」
彼はそう言って、大きな身体を揺らしながら家を出て行った。
すぐに出て行くつもりだったのに、彼はまだこの村にいる。
私が彼の寝床に入ったから、義理堅く帰れずにいるのだろうか?
そうだとしたら、随分義理堅い人だ。
『メリー、あんないい人逃しちゃなんねぇよ』とお父さんは酔った彼の寝床に入るように勧めた。
私だって、いつまでも独り身でいたくない。好い人がいるなら、子供を望めるうちに一緒になりたかった。
お父さんの思惑通り、彼は義理堅くこの村に残っていた。
あの夜は本当は何も無かったのに、責任を感じて残っているのだとすれば、悪い事をしたと思う。
未通女でもない寡婦に責任を感じるなんていい人だ。騙したようで申し訳ない…
でも、だからこそ残って欲しいと思ってしまうのだ…
寝室のベッドに脱いだ服が置かれていた。
天気もいいからシーツも洗おう…
男の匂いのする洗濯物を籠に詰めて、村の井戸に向かった。
「おはよう」と見知った顔に挨拶して、洗い場に並んで洗濯を始めた。
おばさんたちは、ニコラスの事を聞きたがった。
「あんたのいい人、残ってくれるんだろう?」
「でも、あの人家族が待ってて…」
「そこはあんたが頑張って説得しなきゃ。
エッダなんてろくな仕事ないんだからさ、悪くない話だろ?」
おばさん達は好きに喋った。
彼はあまり自分の話をしない人だから、私も話すことなんてほとんどない。
それがさらに彼女らの想像力を掻き立てるようだ。
世間話をしながら洗濯物を洗っていると、馬に乗った身なりの良い騎士たちがやってきた。
「この村の代表者は?」と若い青年が訊ねた。
「私の父ですが」と応えると、青年は私に案内を頼んだ。
「なんの御用でしょうか?」と確認すると、彼は「《青主》という熊を倒した男に用があって来ました」と表情を変えずに答えた。
冷たい印象の青年に胸騒ぎを覚えた。
「父を呼んできます」と答えて家に走った。
慌てて家に戻ると、お父さんを呼ぶ前に彼の荷物を自分のタンスに隠した。
彼に繋がるものを片付けて、お父さんに声を掛けた。お父さんも何か感じ取ったらしい。
こんなところに騎士が来るなんて、余程の用事だ。
熊を倒すほどの人だから、兵士として徴兵に来たのかもしれない。
お父さんと井戸に戻ると、騎士たちは馬に水をやっていた。
「村長ですか?」と先程の青年が訊ねた。
彼は兜を取って《リューデル公子》と名乗った。
「この村に大熊を倒す猛者がいると聞いて来ました。その男は今どこに?」
「今朝家を出て行きました。どこに行ったかは分かりません。彼に用事でしたでしょうか?」とお父さんは何も知らないような顔で答えた。
青年は相変わらず眉ひとつ動かさずに、淡々と答えた。
「領主であるオーベルシュトルツ子爵より《青主》の報奨金を預かっています。
私が本人を検めて、問題のない人物なら渡したい」
「何も公子様がいらっしゃらずとも…」
「顔を確認できる人間が少ないので私が来たのです。その男が我々の探している者で無ければ、用を済ませて帰るつもりです」
「一体何事でしょうか?差し支えなければお話頂けませんか?
私には責任がありますので、村の者たちにも説明せねばなりません」
青年はお父さんの言葉に納得して、事情を話すことを了承した。
「カナルで我が軍に甚大な被害を出したオークランド人の男が逃走中です。私も相対したことがあるが、非常に凶暴な男でした。
名前は《ニコラス・ラッセル》、もしくは《ニック・ラッセル》と名乗っています。
逃走したのは二週間ほど前になりますが、行方は分かりません。
フェアデへルデ領主から、該当者の可能性があると報告があったので、直接顔を知っている私が来たのです」
青年の話に、お父さんと二人で耳を疑った。
「そんな…何かの間違いでしょう?
彼は温厚な男ですよ。老人子供を放り出して逃げても良かったのに、義理堅く守って、怪我までして熊を退治してくれたんです。
悪い人間じゃありませんよ?」
「話は聞いていてます。
人物像に差異があるため、確認のために私が来ました。
カナルでの憂いを無くすために、どうか協力して欲しい。
あなたがたの安全のためでもあるのです」
彼の言うことは何もおかしなことではなかった。
逃走中の悪漢の可能性があるから確認したい、ただそれだけだ。
「…もし、それがお探しの人間なら?」
「その場合は捕らえるようにと命じられています。
この場で取り逃せば、またカナルで被害が出る可能性があります。
ただ、相手が大人しく従う可能性は低いと思いますので、何らかの被害があれば金銭にて補償するつもりです」
安心させようと言ったのだろう。
でもその話で逆に不安になった…
『ちょっと歩いて来るだけだ』
彼はすぐに戻ってくるだろう…
もし顔を合わせたら…
「お父さん、洗濯物このままにしておけないから、片付けてから戻るわ。騎士様たちと先に帰っててくれる?」
お父さんにリューデル公子たちを任せて、急いで濡らした服とシーツを洗った。
「預かってあげるよ」とアンおばさんが言ってくれた。
「いいから行きなよ。あの人探しておいで」
「おばさん…」
「好きなんだろ?好きなら行きなよ、まだ間に合うだろ?」アンおばさんに背中を押されて頷いた。
井戸を離れて、彼を探しに走った。
子供たちが代々使ってる小さな脇道で村の外に出た。
どこに行ったのかな?
出てく姿は見ていた。それでも行先は教えて貰えなかったから、探すのは難しい。
一つだけ心当たりがあったから、とりあえずそれに賭けてみた。
『ニックおじちゃん、カナルに行きたいんだって』と子供たちが言っていた。
草に覆われた小道を抜けて、普通の通りに出ると、カナルの方に向かった。
この辺はカナルの中でも難所になるから、釣り人くらいしか使わない。流れが急だし、足元も急に深くなるから、危ないのだ。
今の時期は肥えた鱒が釣れるから、釣り糸を垂らしたおじさんたちが鱒を釣っていた。
「メリー?どうしたんだ?」
「トム爺。ニコラス知らない?」
「あぁ、ニックか。さっきまでいたよ。
『この辺にカナルを渡してくれる奴はいるか?』って訊かれたよ。
でもこの辺りは流れが急だし危ないだろ?
『ここより上流か下流なら渡す場所があるけど、そこは軍隊が管理してるよ』って教えてやった。
そしたら川下に歩いていったよ」
「ありがとう」
「もう昼かね?後で釣れた魚持っていくかい?」
「うん。戻ったら貰うね」と答えて川下に向かった。
「危ないぞ、ここで待ってりゃ戻るだろう?」
トム爺の声が聞こえたが、待っていればあの騎士たちが探しに来るかもしれない。
時間が惜しかった。
川下に向かって歩くと、木々や植物の隙間から、流れの早い河が見えた。
少し進むと河原に降りられる場所があった。
その河原に佇む彼の姿が見えた。
木を支えに河原に降りようと手をかけた。
「あっ!」
木の根が悪くもろくなっていたらしい。危ないと思った時にはもう遅かった。
木は根ごと倒れて、私は段差から、石ころの並んだ河原に投げ出された。
「…いっ…たぁ」起き上がろうとして手と足に激痛が走った。
変に受身を取ろうとして、手首と足首を捻ったらしい。
「なんだ!どうした?!」
慌てて駆け寄ってきた男は屈んで私の顔を覗き込んだ。
「何でお前こんなところに…」と彼は困惑していた。
河を眺めていただけと言えばそれまでなのに、見られると困るようなことだったのだろうか?
「どこ打った?」と彼は私の身体を心配してくれた。彼は勝手に来て、転んだ私を心配してくれた。
「ニコラス…」
じわっと目頭が熱くなる。
言わなくちゃいけないことがある…でも言ったら最後、彼を手放さなきゃいけないかもしれない…
それでも黙っていれば、彼は…
覚悟を決めて、震える声で彼に訊ねた。
「ニコラス…貴方…《ラッセル》なの?」
私の問いかけに、ニコラスは目を見開いて私を見詰めた。嘘が苦手そうな彼の反応は正直だ。
あぁ…そうなんだ、と思った。
「騎士が来て…貴方を探してるの」と伝えた。
それを聞いても、彼は黙ったままだった。その沈黙は肯定だろう。
「貴方が《ラッセル》なら逃げて」
「何で俺を見逃がすんだ?」と彼は眉根を寄せた。彼には、私の行動が理解できないようだ。
黙って引き渡せば、彼を匿ったとは言われないはずだろう。でも、それは私には出来なかった…
「俺は余所者だ。あんたとは一回だけ一緒に寝ただけの男だろう?何で助ける?」
「…だって…」その先の言葉が喉に閊えた。
そんなの言ってどうなるの?今から別れなきゃなんない人に、そんなこと言って意味ある?
涙で目の前が見えなくなる。
彼の悩むような顔が滲んで歪んだ。
大きい腕が伸びて、私を抱え上げた。
彼は来た道を戻ろうとした。
「ダメよ、戻ったら…」
「足に怪我してるだろ?そんなに腫れてたら歩けないはずだ」
「戻ったら捕まっちゃうでしょ?弟さん待ってるんじゃないの?」
「熊が出るような山で、あんたを一人でほっぽり出して行けない。
いざとなったら、騎士たちは全員ぶっ殺して逃げる」物騒なことを言っているが、彼は私を河原に置いて行けなかったようだ。
やっぱりこの人は良い人なんだ…
「嫌よ…」死んで欲しくない…
彼がどんな人間であろうが、私にとっては大切に思える人だ…
「ニコラス…お願い、逃げて…」
「…できない」と彼は断った。
「なんにもなけりゃ、あんたは俺の嫁さんになってくれたろ?
それなのに、あんたを放り出して逃げるなら、俺は弟に合わす顔がない。
家族は大事にするのが《ラッセル》の決まりだ」
「ニコラス…」
「悪ぃな」と彼は私に詫びた。
彼は私と寝た責任を取ろうとしてるのだと思った。
「何も無かったのよ」と彼に教えた。
「私が勝手に貴方の寝床に入っただけよ。貴方は酔いつぶれて寝てたし、何も無かったのよ」
「そうかい?それは惜しいことしたな」と言って彼は笑った。
彼の足は迷わずに村に向かっていた。
「なぁ、メリー」と不意に彼は口を開いた。
「お前の村は良い村だよ…
クソみたいな生き方してきた俺が言うんだから、間違いねぇさ。
俺のせいで台無しにしちゃなんねぇよ…」
彼はそう言ってまた口を噤んだ。言いたいことを言ったから、もう言うことは無いのだろうか?
どうしたらいいのかわからずに、彼の腕の中で泣いた。
✩.*˚
村の人間は口を揃えて、他所から迷い込んだ男を《良い人》だと言った。
「あの暴漢を見て、《良い人》とは信じられませんな…」
補佐役として随行していたブラント卿が傍らで呟いた。彼もラッセルの襲撃から生き延びた男だ。
村長の家に招かれて、場所を借りていた。
「斧一本で、あの巨大な熊の頭蓋を割るなど、誰にでもできる芸当ではないはずです。ラッセルの兄の可能性は極めて高いと思います」
「公子様。やはり騎士団を呼ぶべきでは?
もしラッセル本人なら、これだけの手勢では、確実に捉えることは難しいでしょう?」
「それでは村に負担になります。
民から無用な反感を買うのは良いことではありません。
しかもここはオーベルシュトルツ子爵領です。子爵閣下より許可は頂戴しておりますが、事を荒立てるようなことがあれば、リューデル伯爵閣下の不名誉となります」
「むう…難しいですな」とブラント卿も苦い表情を浮かべた。
大した策もない。ただ、相手を確認するのが目的で、戦闘になれば、お互い無事とはいかないだろう。
脇腹に残る引き攣った傷が疼いた。
治癒魔法で繋いだ傷跡はまだ違和感がある。
あの男と相対したところで、果たして勝てるだろうか?
気持ちが弱くなるのは、あの男を知っているからだ。
伯父の亡骸を迎えに来たお嬢様は、私のためにも泣いてくれた。
私の無謀な行為はリューデル伯爵父娘は悲しませた。
あの二人はもう失いたくないのだ…
私は二人を裏切るところだった。
この役についても、リューデル伯爵の反対を押し切って、無理をしないことを条件にお許しを頂いた。
『必ず戻れ。私はアダリーの花嫁衣裳を楽しみにしてるのだ。相手がなければ見ることはできん』
ずるい人だ…娘を利用するなんて…
「リューデル公子」と声がかかった。
現実に向き合う覚悟を決めて、返事を返して振り返った。
ブラント卿が慌てた様子の騎士に「何事か?」と訊ねた。
「ラッセルが…」という報告に緊張が走った。
だが、報告は意外なものだった。
「ラッセルが投降すると…
村長の娘が説得したそうで、戻ってきました。
…とにかく、お二人にもご確認頂きたく…」
「…投降だと?」耳を疑った。ブラント卿も同じ様子だ。
「信じられんな…公子様、ご油断召されませんように」
「分かった。とにかく会おう。
皆にはあまり刺激しないようにと伝えてくれ」
話してる最中にも外が騒がしくなった。
「待て!貴様!外で待てと伝えたはずだ!」
「何だ?俺に暴れろってか?
彼女は歩けねぇんだ、部屋まで連れて行って何が悪い?」
野太い男の恫喝する声がして、重い足音が廊下に響いた。
廊下に出るとあの大男の姿があった。
彼の姿を見て、背筋に冷たい感覚が走った。
狭い家の中では剣も振るえない。殴り合いになれば私に勝算はない。
「何だ?まだ居やがったか?」
男はそう言って私を睨んだが手は出さなかった。
出せなかったのだ。
彼の両手は塞がれていた。
「そのご婦人は…」井戸端で見た女性だ。村長の娘と名乗ったのを覚えていた。
「高いところから落ちて足をくじいたのさ。ドジな女だろ?仕方ねぇから連れてきてやったのさ」
男はそう嘯いた。
彼は迷わず廊下の先にある部屋に消えた。
逃がさないように後を追って、閉じかけたドアを抑えた。
「野暮な坊ちゃんだ」
ラッセルは不愉快そうにボヤいたが、私の存在を無視した。
彼はカナルで見たラッセルと同一人物には見えなかった。
ここに来てから変わったのか?それとも元から彼はそういう人間だったのだろうか?
そんな答えのないことを考えながら、ラッセルの背中を見ていた。
様子を伺っていると、彼は村長の娘をベッドに降ろして、足の怪我を確認していた。
「坊ちゃんよ。あんた偉い人だろう?」とラッセルの方から私に声をかけてきた。
「前に会ったことあったな。俺が殺し損ねたあの時の坊ちゃんだろ?」
「覚えてるのか?」意外な彼の言葉に驚いた。
彼の背中が少し揺れた。笑ったようだった。
「あん時殺してたら覚えてなかったけどな。あんた強かった。俺は割と根に持つからよ、怪我させられた相手は覚えてるのさ」
ふざけた口調で話すラッセルからは余裕が感じられた。
「俺が暴れたらどうなるか知ってるだろう?」
「私を脅すつもりなら、その言葉には剣でお返しする」
「くそ真面目な坊ちゃんだ。あんたモテないだろ?」
「それに答える必要は無い」
「そうかい?それがモテないってんだ」軽口を叩きながら彼は肩を竦めた。
「まぁ、あんた真面目だが馬鹿じゃなさそうだ…
あんたが俺の話を聞いてくれるなら、あんたの《手柄》になってやってもいいぜ」とラッセルは勝手に交渉を持ち出した。
「この村の連中は俺の正体は知らねぇんだ。勘弁してやってくれ。
あと、明日まで待ってくれるんなら、俺はあんたらと大人しくカナルに戻る。
どうだ?悪い話じゃないだろう?」
「何を勝手な…」
「じゃあ、とことんやってやるよ。俺はマジだぜ。
あんたらが何人来ても、俺のやることは変わらねぇんだ。
ラッセルの名前が忘れられないように、最後まで暴れてやるよ」
「彼女も巻き込む気か?」
「必要ならな、俺はそれでも構わねぇよ…
どっちにしろ、連れては行けねぇんだ」
ラッセルはそう言いながら彼女の頭を撫でていた。
彼の粗野な言葉とは対照的に、その手には恋人に向けられるような愛情がこもっていた。
「悪いな、メリー」
「ニコラス…」
「巻き込む気はなかったんだけどな…
さっさと出ていきゃ良かったのに、悪かったな」
二人の様子を見て、自分の中の、憎いはずの彼の像が崩れた気がした。
彼も人だったのだ…
彼は憎むべきオークランド人だが、私とは視点が異なるだけで、カナルを守るために戦っているに過ぎない。
純粋な悪党ではなく、単純に、彼にとって私たちは敵だったから戦っただけの話しなのだろう。
彼にとって、私は《青主》程度の存在なのだ…
それでも私は人間だ。
彼は私に理性的な答えを期待しているのだろうか?
「敵である私に、お前を信じろというのか?」
「知ってるか?そういうところで、あんたの男としての度量が決まるんだぜ」と、彼は試すように言って笑った。
上手く口車に乗せられてる気もしたが、何故かこの男が憎めなくなっていた。
「私がお前を信用する理由がない」
「そうかい?案外小さい男なんだな?
俺はあんたが話できる奴だと思ったから交渉してみただけさ。
あんたは他の奴らみたいに、無闇に噛みつかねぇからよ。面白いことは言わなさそうだが、話は聞く男だと思った」
「勝手な男だ」
「そうかい?」と、彼はまた背中で笑った。
陽気な背中を見てため息を吐いた。
「…分かった。
お前が大人しく投降するなら、そのくらいは譲歩しよう」
「へえ?あんたやっぱり良い男かもな」
私の返事に、ラッセルはご機嫌に手のひらを返した。ラッセルは立ち上がると振り返った。
ギシギシと床を軋ませながら、私の前に立ったラッセルは右手を差し出した。
「あんたに任せる。ありがとうよ」
握手のつもりのようだ。
自分を捕らえに来た人間に礼を言うなんてどうかしている。ましてや握手まで…
手を握るのを躊躇していると、ラッセルは勝手に私の手を握って、握手をすると子供みたいに笑った。
「俺のことは知ってるだろう?好きに呼べばいい。あんたは何て呼んだらいい?」
そんな当たり前のことを訊かれて、返答に躊躇した。
既にリューデル伯爵からは、リューデルの姓で名乗るようにと命じられている。その方が都合が良いからだ。
だが、この男にリューデルの姓を軽く扱われるのはどこか抵抗があった。かと言って、大して知りもしない相手に名前で呼ばれるのも気持ち悪い…
「何もないなら《お坊ちゃん》って呼ぶぜ」と彼の方から代案を寄越した。
「好きにすればいい」とその呼び方で妥協した。
ラッセルに部屋から出るなと命令して、部屋を出た。
何か話す声が聞こえてきたが、聞こえないふりをした。女の啜り泣く声に罪悪感を感じた…
ドアの前でブラント卿と騎士たちは中の様子を伺っていたようだ。
「公子様、これはどういうおつもりか?」とブラント卿から厳しい言葉が投げかけられた。
「あの男に情けなど不要です!奴がエアフルト卿の仇とお忘れか?!
寝首を掻かれるか、もしくは逃げられるかもしれませんぞ!」
「今は状況が違います。
実際、あの男が本気で暴れれば、我々だけでなく、この村にも被害が出ます。
無辜の民を巻き込むのはよくありません。
簡単な条件であの男が大人しく従うなら、その方が良いと思います」
「何を悠長な…」
「実際の問題として、我々はカナルでもあの男に逃げ切られています。
あの時より少ない手勢で、確実に彼を捕らえるのは不可能に等しいです。
それに、我々とて無事ではすまないでしょう…」
ブラント卿もそれは承知の上だろう。
今にも振るわれそうな震える拳は怒気を纏っていた。
「…私は…エアフルト卿とは旧知の間柄です」
「はい。存じてます」
「公子様はその判断を、胸を張ってエアフルト卿にそのお言葉を伝えられますか?
閣下や公女様はそれをお認めになられますか?」
ブラント卿は厳しい言葉で私を責めた。
エアフルト卿は物静かで冷静で、それでいて情に厚い人だった。リューデル伯爵やお嬢様からの信頼も厚く、慕う人間も多かった。
彼もその一人だったのだろう。
私もだ…
「エアフルト卿はお認めになられます。
私が他者に犠牲を強いて、無理を通す事こそお諌めされるでしょう」
「そこに私情はありませんか?」
「無いとは言いきれません。
しかし、私欲ではないとご理解頂きたい。我が身可愛さでも、ラッセルを恐れてでもありません。
もし、私の選択が誤りなら、リューデル伯爵閣下が裁かれることでしょう」
「…確かにその通りですな」とブラント卿は頷いた。
私のような経験不足の若造の意見を受け入れねばならないのは、年長者として屈辱的に覚えるかもしれない。
それでも、彼は私を《リューデル公子》として立てて、従ってくれた。
「公子様のお考えに、差し出がましい事を申し上げました。お許しください」
「そんなことはありません。これからもエアフルト卿に代わって、ご指導よろしくお願いします」
ブラント卿に敬意を示して頭を下げた。
ブラント卿はその言葉を快く受け止めて、頷いてくれた。
随行していた騎士たちも、ブラント卿が折れたことで、私の決定を受け入れてくれた。
彼らには失望させてしまっただろうか?
次期リューデル伯爵の器でないと思われたのではないだろうか?
『私がお手伝い致します』と支えてくれたエアフルト卿には、今の私はどう映るのだろう?
そんな答えのあるはずない自問自答に、心と足は重くなった。
引き攣った傷跡がジクジクと痛んだ…
✩.*˚
あの坊ちゃんは良い奴だ。
《公子様》と呼ばれていたが、話の分かる奴だった。
ヴィクターのところに戻れないのは困ったが、ここにいてもカナルは渡れそうにない。
それならいっそ、ヴィクターの《鷹の目》の届くカナルに戻って、改めて仕切り直すのも悪くないと思った。
多少荒っぽいことになるのは覚悟の上だったが、坊ちゃんが場を収めて、俺の些細な要求を飲んだ事で、厄介事を起こさずに済んだ。
狭いベッドで寄り添って眠るメリーの髪を撫でた。
足首と手首の捻挫は大したこと無かったらしい。すぐに腫れも引いたし、他の怪我も擦り傷だ。
骨が折れたりしてなくて良かった。
《青主》の金は彼女にやって、代わりに彼女の一晩を買った。
俺が買っただけで、彼女は売っただけだ。
そこに愛なんて必要ないだろう…
もし子供ができたとしても、金が残れば何とか育てるだろう。
ここは良い村だから、俺と一晩過ごしたくらいで、彼女を無下に扱ったりしないはずだ。そう信じたかった。
朝が来て、彼女の起きる気配がした。
彼女はそそくさと服を着て、先に部屋を出て行った。
ドアの向こう側で、見張りの騎士が彼女を呼び止める声が聞こえた。
ドアが少し開いて、騎士が覗き込んだ。俺が逃げてないか確認して、「起きて用意しろ」と小言を残してドアを閉めた。
裸で連れていかれるのはさすがに困る。
服を着て部屋で待っていると、部屋から出れない俺の分の食事を持ってメリーが戻って来た。
「おはよう」
「あぁ」と応えて、彼女の用意した朝食を食べた。
彼女は辺りを気にしながら、タンスに歩み寄ると、奥から俺が猟師小屋から失敬してきたカバンを取り出した。
「これ、貴方の荷物」
「捨てなかったのか?」
「だって、残してたんでしょう?」メリーはそう言ってカバンを寄越した。
中には捨てきれなかった、あの破れた赤い上着が入っていた。
彼女は上着を見ると、「直してあげる」と言ってくれた。
もう俺がラッセルだと知れている。隠す理由もなかった。
彼女は手際よく破れた箇所を直して、着れるようにしてくれた。
勿体ねぇな…いい嫁さんになったろうによ…
そんな柄にも無い言葉を飲み込んで、彼女の親切を受け取った。
赤い目立つ上着は、俺が誰かを雄弁に語ってくれる役だ。相棒みたいになっているこの服は、置いて行くのは薄情な気がした。
「ありがとうよ」と礼を言って彼女を抱き締めた。
頷いた彼女は涙を堪えるように、俺の胸に顔を埋めた。
悪くねぇな…
出ていくのが惜しくなるくらい、彼女に惚れていた。
ドアをノックする音が無粋にも、彼女との別れを告げた。
「ラッセル、約束だ」
「分かったよ…」
坊ちゃんが俺を呼びに来た。
約束か…
仇相手に律儀な野郎だ。
「じゃあな、メリー。元気でな」
彼女の背を軽く叩いて、軽い口調で別れを告げた。
離れようとした時に彼女は「待って」と告げて、出したままになっていた裁縫バサミで、長い髪のひとつまみを切った。
「何も持って行けないだろうから…これだけ」と彼女は自分の髪の毛を俺の左手に結んだ。
いい土産だ。
礼を言って、彼女を残して部屋を後にした。
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