132 / 207
ヴィンクラー
しおりを挟む
「ふん!やっとお呼びがかかったか?」
「集められる奴は集めろ!団長と合流だ!」
「カナルだ!暴れるぞ!」
「おお!」
《燕》の奴らが水を得た魚のように活気づいた。
ルカの一件からイライラが溜まっていたらしい。
《燕》の連中は嬉々としてカナル行きの用意を始めた。
「ゲルト、あんたも行くのか?」
「当たり前だ」と答えてゲルトは鼻息を荒くした。
「こいつらは目を離すとすぐに気を抜くからな。
俺がいたら、旗は渡さなかった!」
「親父さん…それを言われると耳が痛いぜ…」
ゲルトの傍らでカミルが苦く笑った。
旗を奪われた事を口実に、彼はカナルに行くらしい。
「ワルター、お前も俺が居ないからって気を抜くなよ?
帰ってきて、つまらんヘマをしでかしてたら、そのケツを蹴りあげるからな!」
「怖えな…」ゲルトの檄に苦笑いで応じた。
彼はまだまだ俺の親父のつもりらしい。
「歳なんだから無理すんなよ」と意地悪く現実を突きつけると、爺さんは片目で俺を睨みつけた。
怖ぇな…
睨まれて苦笑いで視線を外した。
「相手は厄介だぞ。
あのアーサーの《祝福》を貫く程の弓の腕だ」
「俺もヒヤリとさせられたよ…
スーがいなかったら大怪我どころか死んでたかもな」とカミルは苦い顔で応じた。
カミルは弓も使える。あの猟師兄弟と遜色ないほどの腕前だ。
そのカミルが言うのだから、相手は恐ろしいほどの腕前なのだろう…
「悪いな…」と後ろめたい気持ちが言葉になって出た。
自分だけが置いていかれているような気分だ。
「ロンメルの旦那は侯爵の奥の手だろう?
まだあんたが出てくるまでもないってことさ。
いよいよヤバくなったらお声がかかるだろうよ」
カミルは「まぁ、ないといいがな」と言葉を付け加えた。
スーが居て、ギルも合流した。その上で俺が必要となるようなら、いよいよマズい状況だ…
そうならない事を期待した…
「血の気の多いガキと爺さんを頼むぜ」
カミルは俺の言葉に頷いて、差し出した手を握り返した。
「俺も割と血の気は多いんだがな…あの二人には負ける」と彼は冗談を言って笑った。
長居をすると邪魔になるから、すぐに帰ろうとした。
「見送りだ」とカミルは俺に着いてきた。
爺さんの目の届かないところまで来て、彼は口を開いた。
「ルカは元気か?」その言葉が嬉しかった。
「元気って言えるのか分からないが、まぁ、元気だよ。
お前の言いつけ守って、ちゃんと食ってるよ」
「…そうか」
「たまには顔見せてやれよ」
「親父さんに叱られちまうよ。
あの子はいい子だろ?俺たちみたいなゴロツキが関わらない方がいいんだ」
「お前らだって悪い人間じゃないだろ?
それに、俺だってゴロツキみたいなもんだ」
俺の言葉に、カミルは苦笑いで返した。
「そうだ。ちょっと待ってくれ」
カミルは何か思い出して、俺を待たせると何処かに行って、紙袋を持って戻ってきた。
「ルカに渡してやってくれ。出処は言わなくていい」と言って、カミルは袋を俺に預けた。
中を見ると真新しい服が入っていた。
青や黄色など、鮮やかな色の女の子の服だ…
「渡しそびれてただけだ。
ここに置いといても意味が無いからな」
関心がないような口ぶりだが、そうじゃないだろ?
肌触りの良さそうな服は安物には見えなかった。
お前ら素直じゃねぇな…
そんな言葉を飲み込んで、服を預かって帰った。
✩.*˚
勉強の時間が嫌いだ…
シュミット夫人は優しいけど厳しかった。
見かねたシュミット様が『ゆっくり慣れれば良いじゃないか?』と言ってくれたけど、夫人はそんな旦那を叱った。
『ケヴィンやユリアだって幼い頃から身に付けて今があるんです!
この子はスタートが遅いのですから、ゆっくり慣らす時間なんてありません!』
優しさからくる厳しさなのは間違いないだろう。
それでも、今まで生きてきた世界と違いすぎて辛かった。
『お仕事はよくできてるわ。
お作法やお勉強は大変だけど、頑張りましょうね?
そうしたら良いご縁が貰えるかもしれませんから』と俺を励ましてくれたけど、それは俺には何も響かなかった。
ミア姉も『苦労した』って言ってたけど、ミア姉はちゃんと女の人みたいにできる。
俺にはそれができないだろう…
ゲルトやカミルに会いたかった。
顔を合わせれば憎まれ口を叩いていたイザークでさえ、今では懐かしい…
カイはどうしてるかな?
髪の毛を結んで貰う度に彼を思い出した。
きっちり結うシンプルな髪型は、清潔感はあるけれど、それだけだ。可愛いとかじゃなくて、楽しくもない。
長さの足りない髪がはみ出して落ちてくるので、さらに惨めな気分になる。
毎回違う髪型でワクワクした朝はもう来ない…
カイに結ってもらうんじゃないなら、どんな髪でも面白くない…
お勉強の部屋に向かう途中、下を向いて廊下をとぼとぼと歩いた。
ノックして部屋に入ると、シュミット夫人と旦那様が部屋にいた。
「ルカ」
俺に気付いて、旦那様は笑顔を作った。
旦那様の少し粗野な感じが、俺にとっては心地よかった。
大きな硬い手のひらが頭に重なって、不器用に髪を撫でた。
「頑張ってるじゃねぇか?
ほら、お前にお土産だ」
旦那様はそう言って、紙袋を差し出した。
両手で受け取って、紙袋に染み付いた匂いに気付いた。
「これ…」
「出処は訊くなよ?」と旦那様は困ったように笑った。
袋の中は服だった。可愛い仕立ての良い服は、オシャレで女の子が着るような服だ…
紙袋と服からは、懐かしい煙草の匂いがした…
じんわりと目元が熱くなって涙が滲んだ。
懐かしい匂いの紙袋を抱いたまま泣いた…
「良かったな」と言って、旦那様は頭を撫でてくれた。
優しく撫でる硬い男の手が彼らに重なった。
旦那様は誰とは言わなかったけど、「みんな元気だ」と教えてくれた。
そうか…みんな元気にしてるんだ…
その言葉に安堵した。
「ありがとう…」
しゃくりあげながらお礼を言った。カサカサと乾いた音を立てる紙袋を抱きしめた。
ゲルトに抱きついた時と同じ香りに包まれる。
会えたわけじゃない。でも少しだけ心が軽くなった。
まだ覚えて貰っている気がした。
「これ…着ていい?」と恐る恐る訊いた。
着飾ってる使用人なんて居ない。ましてや俺は一番下っ端だ…
「お前のだよ。好きにしな?
なぁ、ラウラ?そのくらい良いだろ?」
「そうですね。
お仕事の間は汚れちゃうので、動きやすい服が良いですけど、お勉強やお作法の時間はその服に着替えましょうか?」とシュミット夫人も嬉しそうに答えた。
「着替えてお作法の練習しましょうか?
後で旦那様と奥様にお行儀を見ていただきましょう」とシュミット夫人は楽しそうだ。
「じゃぁまた後でな」と言い残して、旦那様は部屋を出て行った。
青い花柄のレースのスカートを選ぶと、シュミット夫人は「上品な色ですね」と褒めた。
着替えて、髪を解くと、夫人は髪の毛を結び直した。可愛い三つ編みを作ってお団子にまとめてくれた。
「これで見た目はレディですよ」
シュミット夫人はそう言って、お作法の練習を始めた。
「背中はまっすぐ。上向きすぎないで、顎はちゃんと引いて。
大股で走るのはレディじゃありませんよ。
せっかくのスカートも汚れたり、破れたりしちゃいますよ?
早足でも、歩幅はそのままですよ」
夫人が隣に付いて、部屋の隅から隅まで歩くだけの簡単な練習だけど、これを意識してやるのが大変だ。
歩幅を保てなくて何度も止められた。背中も丸くなりそうになる。
「綺麗に歩くのは、大人でも難しいものです。
でもその価値はありますよ」
シュミット夫人は綺麗な姿勢で歩いて見せた。
「お作法とは、その人を飾るドレスより大事なものです。
ドレスはお金で買えますが、滲み出る気品はどんなにお金を積んでも買うことはできません。
自分の努力で身につけるものです。
どんなに素敵なドレスでも、着る人が無作法では目を引くことはできません。ドレスに着られてると笑いものです。
それでは、旦那様や奥様、育ててくださった方の誉となる事はできませんし、恥ずかしい思いをさせてしまいます」
耳に痛い厳しい言葉を聞きながら頷いた。
旦那様も奥様も優しい良い人たちだ。あの人たちに恥をかかせたくなかった…
ゲルトやカミルも、俺がこんなんじゃ、せっかく買ってくれた可愛い服が無駄になる…
涙を引っ込めて、両手を握った。
スカートを抑えて、背筋を伸ばした。顎も引いて頑張ってシュミット夫人の方に向かって歩いた。
シュミット夫人の隣に到着すると、夫人は嬉しそうに笑顔を見せて、俺を抱きしめてくれた。
「そうよ!ルカ!今までで一番綺麗に歩けてたわ!」
「本当?」
「えぇ、とっても上手よ。
このまま頑張って身体で覚えてちょうだいね?
もう一度歩いてみましょうか?」
ちゃんと歩けた俺を、夫人は大袈裟なほど褒めてくれた。
「上手よ、ルカ。とっても綺麗に歩けてるわ。
それじゃあ、今日は残った時間でお辞儀の練習もしましょうか?
最後に旦那様と奥様に見てもらいましょう」
夫人はそう言って、お辞儀の仕方を教えてくれた。
お辞儀だけでも何種類もあるらしい。
その時に応じて使い分けなければならないらしく、それも難しい。
「とりあえず、2つだけ覚えましょうね?」
夫人はそう言って、お手本を見せた。
ひとつは挨拶用のお辞儀で、もうひとつは用事を言いつけられた時のお辞儀だ。
「ユリアは挨拶のお辞儀が得意なの。
あの子ってば、おませさんだから、そればっかり練習してたわ」と夫人は笑っていた。
確かに、スカートの裾を摘んで挨拶するお辞儀の方が可愛い。
「やってみましょうか?」と言いながら、夫人は姿見の鏡を部屋から引っ張り出してきた。
「笑顔も大事よ。大切な人に向けるような笑顔を作って、ご挨拶しましょうね」
夫人はふっくらした自分の頬を指さして笑顔を作った。
「さぁさ、やってみましょうか?」
肩に添えられた手は俺を鏡の前に立たせた。
姿見に映る自分は、もう汚い子供じゃなかった。
スカートを摘んで、教えられたお辞儀をしてみた。
なんか自分じゃないみたいだ…
「ルカ。笑顔、笑顔!」
夫人に指摘されて、笑顔を作ろうとしたが、表情は硬かった。
「ルカ。服のお礼を言うつもりでお辞儀してみましょうか?嬉しかったでしょう?」
夫人は俺の笑顔を引き出そうとして、そう提案した。
鏡を見て、青い服を見詰めた。可愛い服…
でもこの服を買ってくれた人は、この姿を見てないし、褒めてくれなかった…
「…ちゃんとできたら」と言って夫人を見上げた。
「上手になったら、お爺ちゃんに会いに行っていい?」と無理なお願いをした。
「それは…」
「お礼言いたいんだ。俺、頑張るから…ちゃんとできるようになるから…
だって、あんなお別れだったから…もう『帰りたい』って言わないから…ちゃんと戻るから…
お願い…」
最後の声はかすれて消えかけていた。
ぐずりながら無理を言う俺を、夫人は叱らなかった。
でも《いいよ》とも言ってくれなかった。
夫人はハンカチを出すと俺の感情と一緒に溢れた涙を拭った。
「分かったわ。ルカの気持ちは旦那様と奥様にお伝えするわ。
貴女はよく頑張ってるのだから、ご褒美がないとね」
「本当?」
「本当よ」と柔らかい笑顔で夫人は応えた。
「でもルカも約束よ?
恥ずかしくないレディになって、お屋敷でもお外でもお行儀よくしましょうね?
会いに行って、何も変わってなかったら逆に驚かれてしまうわよ」
「うん、頑張る」
「じゃあ、鏡に向かって練習しましょう?
貴女が一番会いたい人を思い浮かべて、笑顔でお辞儀して見せてちょうだい」
その言葉に頷いて、鏡に向かった。
この格好で会いに行ったら、ゲルトは褒めてくれるかな?
可愛いって思ってくれるかな?
カミルも頭を撫でてくれるかな?
それなら頑張るだけの価値はあるはずだ。
笑顔を作ってスカートを摘んだ。夫人がしていたように背筋を伸ばして、鏡に向かってお辞儀をした。
「とっても可愛いわ」とシュミット夫人は褒めてくれた。
それから少しだけ直すところを指摘して、またお辞儀を繰り返した。
練習を続けていると、部屋をノックする音がして、ケヴィンが顔を出した。
「お母さん。お父さんが相談があるって…」
「いい所に来たわ、ケヴィン!
ちょっとこっちにいらっしゃい!」
夫人は呼びに来た息子を呼びつけて、俺の前に立たせた。
「ルカ。旦那様には見せる前に、ケヴィンで練習してみましょう」
「お母さん、お父さんは?」
「今日はこれで終わりにするから、これだけ付き合ってちょうだい」と息子を黙らせて、夫人は練習の成果を見せるようにと、彼に向き合わせた。
ケヴィンは俺に合わせて前に立った。
「貴方もご挨拶はちゃんと出来るでしょう?
まずは殿方からご挨拶ですよ」
「はい」と応えて、ケヴィンは姿勢を正して綺麗な挨拶を披露した。
「ハンス・シュミットの長男、ケヴィン・シュミットです。可愛いお嬢さんにお会いできて光栄です」
柔らかい笑顔を作ってケヴィンは完璧な挨拶をして見せた。
これで俺が下手くそだったら、ケヴィンに笑われちゃうかな?
「ルカです。よろしくお願いします」と在り来りな言葉しか出てこなかった。
代わりにお辞儀は一生懸命やって見せた。笑顔もできる限り上品にして見せたつもりだ。
顔を上げると、ケヴィンはぽかんとした表情をしていた。
変だった?ダメだった?
俺の不安を他所に、監督していた夫人は手を叩いて褒めてくれた。
「二人とも上品でしたよ!
ケヴィンは最後まで気を抜かない!なんですか、その顔は?
でも『可愛い』ってちゃんと言ってたのは良い事ね!
ルカはとっても可愛い笑顔でしたよ。後で旦那様と奥様にも見てもらいましょうね!」
夫人は慌ただしく評価して、今日の授業の終了を告げた。
「ケヴィン。紳士ならルカの荷物を持って、お部屋まで送ってあげてね。
ルカは歩く練習しながらお部屋に戻るといいわ。どこでも練習になるわよ」
そう言い残すと、夫人はシュミット様を探しに出て行った。
「部屋まで送るよ」と言ってくれたケヴィンの顔は照れてるのか、少し赤かった。
俺もまさかケヴィン相手に挨拶することになるとは思ってなかったから、少し恥ずかしかった。
✩.*˚
ルカの荷物を持って、一緒に部屋を出た。
青いレースの服はよく似合っていた。髪も結い上げて、彼女は少しだけ大人っぽく見えた。
「俺のお辞儀、変だった?」と彼女は僕の反応を気にしてたみたいだ。
相変わらず男の子みたいな喋り方だ。
でもさっきの姿はちゃんした綺麗な女の子だった。
すごく可愛い子なのに損だな、と思った。
「変じゃないよ。上手なお辞儀だったからちょっとびっくりしただけ」と誤魔化した。
ルカは嬉しそうに「へへ」と笑った。
男の子みたいな笑い方だけど、それがルカらしくて良かった。
少し泣いたような痕があったから心配だったけど、彼女は機嫌が良さそうだった。
「ラウラ様がね、上手にできるようになったら、お爺ちゃんたちに会えるように頼んでくれるって…
だから頑張るんだ」
「…帰っちゃうの?」と問い返すと、ルカは少し寂しそうな顔をして、首を横に振った。
「ううん。会うだけ。でも、それでも良いんだ…」
「そう…なんだ…」
複雑な気持ちが僕の中にあった。
ルカは今でも《燕の団》に帰りたいのだろう。
それでも、ルカが帰らないと知って、安堵した自分がいた。
僕は、彼女に頼られたかったんだ…
可哀想な彼女が僕を頼りにしてくれることを願っていた。
「困ったりしたら頼って。僕もお父さんたちから任されてるから。
僕にできることならなんでも相談に乗るよ」
「ありがとう、ケヴィン」
彼女の笑顔に気を良くした。
頭ではずるいと分かっていた。でも心はちぐはぐだ…
部屋の前で彼女と別れた。
お礼にと思ったのか、ルカは思いついたようにまたお辞儀をした。
一生懸命のお辞儀が可愛い。
ルカのできないなりに、一生懸命やろうとする姿は応援したくなる。
ルカの部屋を後にして、お父さんのところに戻った。
お父さんとお母さんは難しい顔で書類を手に相談していた。
「あぁ、ケヴィンか。伝言ありがとう。
今日はもう手伝いはいいから、自分のことをしておいで」と少し早いが、お父さんからお許しが出た。
「厩舎に行ってくる」と言って、裏庭に向かった。
「やぁ、ケヴィン」と僕に気付いたアダムが声をかけてくれた。
「ザラに会いに来たのかい?」
「うん」と頷いて厩舎に入った。
旦那様がくれた子馬は、母親に寄り添って甘えていた。
馬房の中に入っていいか訊ねると、アダムは了承してくれた。
「リリーも機嫌が良さそうですし、私が見てますから少しなら大丈夫ですよ」
「ありがとう。
ザラ、僕だよ。ブラシしてあげる」
鼻先の黒い白い子馬は、僕の持っているブラシに興味を見せた。
そっと近寄って首の辺りにブラシを当てた。
最初はビクッと緊張したザラはすぐにブラシを気に入ったようだ。
ブラシをかけている間は大人しくしていた。
気持ちよさそうな子馬の隣で、リリーが不満そうに鼻を鳴らした。
「リリーにもしてあげるよ」と母馬にもブラシを当てた。
「相変わらず扱いが上手ですね」とアダムも褒めてくれた。
アダムは僕みたいな子供相手でも礼儀正しく接してくれる。
彼はとっても聞き上手だ。
博識なアーサーと話すのも楽しいが、僕はアダムと話すのが好きだった。
「ねえ、アダム。僕は良くないことを思ってしまったんです…」
「おや?懺悔ですか?」と言って、アダムは膝を折って僕に視線を合わせた。
「そう…懺悔かもしれないです」
そう言って、さっきの感じた事を彼に話した。
良い子だと思われたくて、お父さんやお母さんになら話せなかった。
それでも、秘密を守ってくれる他人になら話せた。
僕の話を聞いて、アダムは「なるほど」と頷いた。
アダムは僕の話を聞いて、何故か嬉しそうに微笑んで、彼なりの意見を述べた。
「ケヴィン。君は何もおかしくはありませんよ。
男とは、頼られたいと思う生き物です。それが好きな子であれば尚更です」
「好きな子って…」少し茶化された気がしたけど、彼はそんなつもりは無いのだろう。
「違うんですか?それは失礼しました。
じゃあ、気になる子とでもしましょうか?」
アダムは少しだけ言い方を変えて話を続けた。
「君は若いのに、自分をそんなふうに客観的に見ることができるなんて凄いですね。
でも少し考えすぎですよ。君はまだ子供だ。
自分を大事にすることをおすすめしますよ。そうでなきゃ、いつまでも心の中に後悔が残って、未練がましく文句を言いますからね」
「…アダムは…心残りがあるの?」
「まぁ、そうですね」と答える彼の笑顔にはどこか寂しげな感情が混ざっていた。
「自分の気持ちを大切にして下さい。
もし失敗しても、子供なら些細な事です。同じ事を繰り返しさえしなければ、失敗は恥ずかしい事ではないですよ」
「そうかな?」
「そうですよ」と答えて、彼は明るい顔で笑った。
アダムと話して、自分への嫌悪感が和らいだ。
「ありがとう、アダム」と礼を言うと、彼は嬉しそうに笑って応えた。
「ルカは可哀想な生い立ちです。気にかけてあげてください。君が支えてくれるなら、きっと心強いはずです」
「うん」
「もう悩みはありませんか?」
アダムの問いかけに頷くと、彼は「良かった」と優しい声で言った。
「若いっていいですね。私はもう一生分悩んだので、もうこれ以上悩むこともありませんよ」
「そんなことないでしょう?アダムはまた若いですよ。結婚だってまだ、これからでしょう?」
僕の言葉に、アダムはおどけたように肩を竦めて見せた。
「もう30も過ぎてますよ。君の二回り程年上です。
この歳まで女性とはほとんどご縁がありませんでしたから、結婚は難しいでしょうね。そもそも相手が無い」と彼は珍しく悲観した。
その言葉が本心からなのか、ふざけているのかは分からないが、アダムにとって人生の伴侶を見つけるのは差程重要なことではないらしい。
彼と厩舎を出て、話をしながら歩いた。彼の足は彼のお気に入りの場所に向いていた。
「アーサーではないですが、私も今の生活を気に入ってます。
騎士なんて、本当は向いてなかったのです。
命のやり取りや責任を負わずに、子供のように土を弄って生きるこの生活は心地よいものです」
アダムはそう言って嬉しそうに笑った。
「裏庭に小さい畑まで頂戴したので、私も立派な所領持ちですよ」と彼は自慢した。
屋敷の裏庭に彼の小さな所領があった。
しょっちゅう小さな侵入者があるが、彼はそれすら楽しいようだった。
育った野菜を子供たちに採らせて、自分はそれを見るだけで満足していた。
「畑はいいですね。
私を育ててくださったシェリル様と、一緒に作った畑を思い出します」と、彼は懐かしそうに語りながら畑に視線を向けた。
「ここはいい所です」と呟く彼に頷いた。
ルカにも、ここが良い場所だと思って貰えるように、僕は何が出来るのだろう?
彼女の居心地の良い居場所を作ってあげたかった。
✩.*˚
カナルに向かう朝に、ロンメルの旦那が見送りに、《燕の団》の拠点に顔を出した。
「カミル。ゲルトはどこだ?」
「親父さんか?まだ中じゃないか?」と答えると彼は乗ってきた馬車に戻って声を掛けた。誰か連れがあるらしい。多分奥方だろう。
「呼んでくるかい?」と馬車から戻ったロンメルに訊ねると「頼むよ」と短い返事が返ってきた。
頼まれて、親父さんのいるはずの食堂に向かった。
がらんとした寂しい食堂の奥に親父さんの姿があった
「親父さん、客だ」
「誰だ、こんな時に?」
「ロンメルの旦那だよ。見送りだと」
親父さんは面倒臭そうにため息を吐いて席を立った。
親父さんにとっちゃ息子のような存在だが、一応この街の一番のお偉いさんだ。
出てきた親父さんの姿を見て、ロンメルは笑みを浮かべて挨拶とハグを交わした。
「行くんだな」
「当然だ」と応える親父さんに、ロンメルは「元気な爺さんだ」と笑った。
「うちの女神様が見送りに来てる。小さい女神も来てるぞ」
「おう。置いてけぼりの湿気た顔のお前より別嬪さんの見送りの方がいい」と親父さんは意地の悪い言い方をした。
ロンメルに続いて、親父さんと一緒に馬車に近付いた。ロンメルは馬車から別嬪さんを呼んだ。
「御機嫌ようヴィンクラー様」
旦那の手を借りた奥方様が降りてきて挨拶した。
相変わらず別嬪さんだな、と月並みの感想を抱いていると、親父さんのお楽しみの別嬪さんが馬車から降りてきた。
ロンメルの腕に抱かれたお姫様は、懐っこく、厳つい爺さんに向かって手を伸ばした。
「じい」と、当たり前のように手を伸ばす幼女を受け取って、親父さんは頬を緩くした。
「おうおう、可愛い姫さんじゃ」
子供好きの爺さんは嬉しそうに小さなお姫様を抱いていた。
機嫌を良くした親父さんに、ロンメル夫人が笑顔で話しかけた。
「フィーも久しぶりにヴィンクラー様にお会いできて嬉しそうですわ。最近お立ち寄りいただけなくて心配しておりましたの」
夫人の言葉に、親父さんも返す言葉がなかったらしい。
ルカを預けた日から、ロンメルの屋敷へ行くことは無くなった。
自分で『ルカに関わるな』と言った手前、ロンメルの屋敷に行くのは気が引けるのだろう。
そうでなくとも、親父さんは頑固だから、頼まれたって自分では行かないだろう。
返事のできない爺さんを見て、夫人はくすりと笑った。
「またいつでもいらしてくださいね。子供たちも喜びますから」
「そうだぜ、ゲルト。うちにはレディが増えたんだ。あんたが来ないから連れてきちまったよ」
ロンメルは馬車に向かって、「ライナ」と女の子の名前を呼んだ。
ロンメンの手を借りて降りてきたのは、着飾った華奢な少女だった。
「また拾ったのか?お前も物好きな…」
小言を言おうとして、親父さんは言葉を詰まらせた。その視線は少女に釘付けになった。
「可愛いだろう?」とロンメルは自慢げに少女を親父さんの前に立たせた。
「ほら、ライナ。ちゃんとご挨拶しな」
ロンメルの手を離した少女は、綺麗な姿勢で親父さんにお辞儀を見せた。
「ライナ・ヴィンクラーです」と名乗って顔を上げたのは間違いなく知っている少女だ。
「待て待て!どうなってる?!」と親父さんがロンメルに詰め寄った。
「ワルター!てめぇどういうつもりだ!笑えねぇぞ!」
「フィーを抱っこしたまま怒鳴るなよ。
聞いた通りだ。証書ならあるぜ」
飄々とした様子でロンメルが取り出したのは、養子縁組の証書だ。親父さんはロンメルの手から慌てて紙切れを引ったくった。
ロンメルは意地の悪い笑みを浮かべた。
「なに、大したことじゃねぇよ。
うちでも雇うなら、ちゃんと身元のある人間がいいんでな。なんかあった時に困るだろ?
それに、もし、悪い目的で『この子を引き取りたい』なんて言い出す人間がいたら面倒だ。
俺の《隠し子》とか噂されても面倒だしな…」
「だからって聞いてねぇぞ!なんでこんな…」
「あんたが素直じゃねぇからさ」
ロンメルのその言葉に親父さんは苦い顔で固まった。
「なぁ、ゲルト。あんたが狡いから、俺も狡くなっただけさ。
この子は俺の屋敷でよく働く良い子だ。文句も言わねぇし、物覚えもいい。
この紙切れはこの子が唯一望んだご褒美だ」
「お爺ちゃん…」行儀よく黙っていた少女が親父さんに声を掛けた。
「勝手なことしてごめん…」と謝る声は消えてしまいそうな可哀想な小さな声だ。
「もう、ここには来ないから…だから…お礼言わせて」とルカは些細なお願いを口にした。
意地っ張りの親父さんも、その言葉を遮ることは出来なかった。
「お爺ちゃん、カミル。可愛い服と靴ありがとう。お祭り行けて楽しかった。
行かせてくれて、ありがとう」
「ルカ…」
「もうここには来ないけど、あたしに会いに来て。
待ってるから…帰ってきたら、会いに来て…お願い…」
男の子みたいだったルカは、すっかり行儀の良い女の子になっていた。
泣きそうな顔で、必死に笑顔を作る姿を見て、突き放す言葉など出てこなかった。
ロンメル夫人がルカに歩みよって、涙を堪える少女の肩にそっと手を置いた。
「ヴィンクラー様。彼女を安心してあげてください」とロンメル夫人は親父さんを説得にかかった。
「彼女はとても健気に頑張っていましたよ。
元の彼女をご存知であれば、この子がどれほど頑張ったのか想像ができるはずです。
この短期間で、外に出ても恥ずかしくないお行儀を身につけるのは容易ではありません。どうぞ褒めてあげてください」
夫人の言葉に親父さんは仏頂面で黙り込んだ。
「じい」とお姫様が顰めっ面の爺さんを呼んだ。
「じい、めっ!おへんじは?」と怖いもの知らずのお姫様は親父さんに追い打ちをかけた。
親父さんは黙ってお姫様をロンメルに返して、ルカの前に屈んだ。
「もう来るな」と悪い言葉から始まるのは親父さんがひねくれてるからだ…
大きな身体が子供を包むように抱き寄せた。
「もうこんなところに用はねぇだろ?バカタレが…
もう俺たちみたいな碌でなしと関わるんじゃねぇぞ。お前はいい女だ…ちゃんと幸せになれ…
これからは自分のために頑張れ」
「お爺ちゃん…」
「大した餞別にはならねぇが、仕方ねぇから《ヴィンクラー》の姓はくれてやる。満足か?」
「うん…ありがとう…」
取り繕えなくなったルカは、親父さんにしがみついて泣いていた。
泣き方はまだガキだ。まだまだ淑女には遠いな…
でもそれを見て少しだけ安心した…
涙を拭ったルカは、親父さんから離れると、「カミル」と俺を呼んで手を伸ばした。
膝を折って視線を合わせた。
ルカは背伸びして俺の首に手を回した。
これで最後だ…親父さんには後で叱られりゃいい…
そう思いながら細い腕に応えて、ルカを抱き締めた。
「カミル…今までありがとう、元気でね…
お爺ちゃんをよろしくね」
「あいよ」とルカの願いに応えた。
涙を拭ったルカは、雨上がりの空のように眩しい笑顔で笑った。
もう何も言うことはねぇや…
この子はきっと幸せになれるはずだ。
「集められる奴は集めろ!団長と合流だ!」
「カナルだ!暴れるぞ!」
「おお!」
《燕》の奴らが水を得た魚のように活気づいた。
ルカの一件からイライラが溜まっていたらしい。
《燕》の連中は嬉々としてカナル行きの用意を始めた。
「ゲルト、あんたも行くのか?」
「当たり前だ」と答えてゲルトは鼻息を荒くした。
「こいつらは目を離すとすぐに気を抜くからな。
俺がいたら、旗は渡さなかった!」
「親父さん…それを言われると耳が痛いぜ…」
ゲルトの傍らでカミルが苦く笑った。
旗を奪われた事を口実に、彼はカナルに行くらしい。
「ワルター、お前も俺が居ないからって気を抜くなよ?
帰ってきて、つまらんヘマをしでかしてたら、そのケツを蹴りあげるからな!」
「怖えな…」ゲルトの檄に苦笑いで応じた。
彼はまだまだ俺の親父のつもりらしい。
「歳なんだから無理すんなよ」と意地悪く現実を突きつけると、爺さんは片目で俺を睨みつけた。
怖ぇな…
睨まれて苦笑いで視線を外した。
「相手は厄介だぞ。
あのアーサーの《祝福》を貫く程の弓の腕だ」
「俺もヒヤリとさせられたよ…
スーがいなかったら大怪我どころか死んでたかもな」とカミルは苦い顔で応じた。
カミルは弓も使える。あの猟師兄弟と遜色ないほどの腕前だ。
そのカミルが言うのだから、相手は恐ろしいほどの腕前なのだろう…
「悪いな…」と後ろめたい気持ちが言葉になって出た。
自分だけが置いていかれているような気分だ。
「ロンメルの旦那は侯爵の奥の手だろう?
まだあんたが出てくるまでもないってことさ。
いよいよヤバくなったらお声がかかるだろうよ」
カミルは「まぁ、ないといいがな」と言葉を付け加えた。
スーが居て、ギルも合流した。その上で俺が必要となるようなら、いよいよマズい状況だ…
そうならない事を期待した…
「血の気の多いガキと爺さんを頼むぜ」
カミルは俺の言葉に頷いて、差し出した手を握り返した。
「俺も割と血の気は多いんだがな…あの二人には負ける」と彼は冗談を言って笑った。
長居をすると邪魔になるから、すぐに帰ろうとした。
「見送りだ」とカミルは俺に着いてきた。
爺さんの目の届かないところまで来て、彼は口を開いた。
「ルカは元気か?」その言葉が嬉しかった。
「元気って言えるのか分からないが、まぁ、元気だよ。
お前の言いつけ守って、ちゃんと食ってるよ」
「…そうか」
「たまには顔見せてやれよ」
「親父さんに叱られちまうよ。
あの子はいい子だろ?俺たちみたいなゴロツキが関わらない方がいいんだ」
「お前らだって悪い人間じゃないだろ?
それに、俺だってゴロツキみたいなもんだ」
俺の言葉に、カミルは苦笑いで返した。
「そうだ。ちょっと待ってくれ」
カミルは何か思い出して、俺を待たせると何処かに行って、紙袋を持って戻ってきた。
「ルカに渡してやってくれ。出処は言わなくていい」と言って、カミルは袋を俺に預けた。
中を見ると真新しい服が入っていた。
青や黄色など、鮮やかな色の女の子の服だ…
「渡しそびれてただけだ。
ここに置いといても意味が無いからな」
関心がないような口ぶりだが、そうじゃないだろ?
肌触りの良さそうな服は安物には見えなかった。
お前ら素直じゃねぇな…
そんな言葉を飲み込んで、服を預かって帰った。
✩.*˚
勉強の時間が嫌いだ…
シュミット夫人は優しいけど厳しかった。
見かねたシュミット様が『ゆっくり慣れれば良いじゃないか?』と言ってくれたけど、夫人はそんな旦那を叱った。
『ケヴィンやユリアだって幼い頃から身に付けて今があるんです!
この子はスタートが遅いのですから、ゆっくり慣らす時間なんてありません!』
優しさからくる厳しさなのは間違いないだろう。
それでも、今まで生きてきた世界と違いすぎて辛かった。
『お仕事はよくできてるわ。
お作法やお勉強は大変だけど、頑張りましょうね?
そうしたら良いご縁が貰えるかもしれませんから』と俺を励ましてくれたけど、それは俺には何も響かなかった。
ミア姉も『苦労した』って言ってたけど、ミア姉はちゃんと女の人みたいにできる。
俺にはそれができないだろう…
ゲルトやカミルに会いたかった。
顔を合わせれば憎まれ口を叩いていたイザークでさえ、今では懐かしい…
カイはどうしてるかな?
髪の毛を結んで貰う度に彼を思い出した。
きっちり結うシンプルな髪型は、清潔感はあるけれど、それだけだ。可愛いとかじゃなくて、楽しくもない。
長さの足りない髪がはみ出して落ちてくるので、さらに惨めな気分になる。
毎回違う髪型でワクワクした朝はもう来ない…
カイに結ってもらうんじゃないなら、どんな髪でも面白くない…
お勉強の部屋に向かう途中、下を向いて廊下をとぼとぼと歩いた。
ノックして部屋に入ると、シュミット夫人と旦那様が部屋にいた。
「ルカ」
俺に気付いて、旦那様は笑顔を作った。
旦那様の少し粗野な感じが、俺にとっては心地よかった。
大きな硬い手のひらが頭に重なって、不器用に髪を撫でた。
「頑張ってるじゃねぇか?
ほら、お前にお土産だ」
旦那様はそう言って、紙袋を差し出した。
両手で受け取って、紙袋に染み付いた匂いに気付いた。
「これ…」
「出処は訊くなよ?」と旦那様は困ったように笑った。
袋の中は服だった。可愛い仕立ての良い服は、オシャレで女の子が着るような服だ…
紙袋と服からは、懐かしい煙草の匂いがした…
じんわりと目元が熱くなって涙が滲んだ。
懐かしい匂いの紙袋を抱いたまま泣いた…
「良かったな」と言って、旦那様は頭を撫でてくれた。
優しく撫でる硬い男の手が彼らに重なった。
旦那様は誰とは言わなかったけど、「みんな元気だ」と教えてくれた。
そうか…みんな元気にしてるんだ…
その言葉に安堵した。
「ありがとう…」
しゃくりあげながらお礼を言った。カサカサと乾いた音を立てる紙袋を抱きしめた。
ゲルトに抱きついた時と同じ香りに包まれる。
会えたわけじゃない。でも少しだけ心が軽くなった。
まだ覚えて貰っている気がした。
「これ…着ていい?」と恐る恐る訊いた。
着飾ってる使用人なんて居ない。ましてや俺は一番下っ端だ…
「お前のだよ。好きにしな?
なぁ、ラウラ?そのくらい良いだろ?」
「そうですね。
お仕事の間は汚れちゃうので、動きやすい服が良いですけど、お勉強やお作法の時間はその服に着替えましょうか?」とシュミット夫人も嬉しそうに答えた。
「着替えてお作法の練習しましょうか?
後で旦那様と奥様にお行儀を見ていただきましょう」とシュミット夫人は楽しそうだ。
「じゃぁまた後でな」と言い残して、旦那様は部屋を出て行った。
青い花柄のレースのスカートを選ぶと、シュミット夫人は「上品な色ですね」と褒めた。
着替えて、髪を解くと、夫人は髪の毛を結び直した。可愛い三つ編みを作ってお団子にまとめてくれた。
「これで見た目はレディですよ」
シュミット夫人はそう言って、お作法の練習を始めた。
「背中はまっすぐ。上向きすぎないで、顎はちゃんと引いて。
大股で走るのはレディじゃありませんよ。
せっかくのスカートも汚れたり、破れたりしちゃいますよ?
早足でも、歩幅はそのままですよ」
夫人が隣に付いて、部屋の隅から隅まで歩くだけの簡単な練習だけど、これを意識してやるのが大変だ。
歩幅を保てなくて何度も止められた。背中も丸くなりそうになる。
「綺麗に歩くのは、大人でも難しいものです。
でもその価値はありますよ」
シュミット夫人は綺麗な姿勢で歩いて見せた。
「お作法とは、その人を飾るドレスより大事なものです。
ドレスはお金で買えますが、滲み出る気品はどんなにお金を積んでも買うことはできません。
自分の努力で身につけるものです。
どんなに素敵なドレスでも、着る人が無作法では目を引くことはできません。ドレスに着られてると笑いものです。
それでは、旦那様や奥様、育ててくださった方の誉となる事はできませんし、恥ずかしい思いをさせてしまいます」
耳に痛い厳しい言葉を聞きながら頷いた。
旦那様も奥様も優しい良い人たちだ。あの人たちに恥をかかせたくなかった…
ゲルトやカミルも、俺がこんなんじゃ、せっかく買ってくれた可愛い服が無駄になる…
涙を引っ込めて、両手を握った。
スカートを抑えて、背筋を伸ばした。顎も引いて頑張ってシュミット夫人の方に向かって歩いた。
シュミット夫人の隣に到着すると、夫人は嬉しそうに笑顔を見せて、俺を抱きしめてくれた。
「そうよ!ルカ!今までで一番綺麗に歩けてたわ!」
「本当?」
「えぇ、とっても上手よ。
このまま頑張って身体で覚えてちょうだいね?
もう一度歩いてみましょうか?」
ちゃんと歩けた俺を、夫人は大袈裟なほど褒めてくれた。
「上手よ、ルカ。とっても綺麗に歩けてるわ。
それじゃあ、今日は残った時間でお辞儀の練習もしましょうか?
最後に旦那様と奥様に見てもらいましょう」
夫人はそう言って、お辞儀の仕方を教えてくれた。
お辞儀だけでも何種類もあるらしい。
その時に応じて使い分けなければならないらしく、それも難しい。
「とりあえず、2つだけ覚えましょうね?」
夫人はそう言って、お手本を見せた。
ひとつは挨拶用のお辞儀で、もうひとつは用事を言いつけられた時のお辞儀だ。
「ユリアは挨拶のお辞儀が得意なの。
あの子ってば、おませさんだから、そればっかり練習してたわ」と夫人は笑っていた。
確かに、スカートの裾を摘んで挨拶するお辞儀の方が可愛い。
「やってみましょうか?」と言いながら、夫人は姿見の鏡を部屋から引っ張り出してきた。
「笑顔も大事よ。大切な人に向けるような笑顔を作って、ご挨拶しましょうね」
夫人はふっくらした自分の頬を指さして笑顔を作った。
「さぁさ、やってみましょうか?」
肩に添えられた手は俺を鏡の前に立たせた。
姿見に映る自分は、もう汚い子供じゃなかった。
スカートを摘んで、教えられたお辞儀をしてみた。
なんか自分じゃないみたいだ…
「ルカ。笑顔、笑顔!」
夫人に指摘されて、笑顔を作ろうとしたが、表情は硬かった。
「ルカ。服のお礼を言うつもりでお辞儀してみましょうか?嬉しかったでしょう?」
夫人は俺の笑顔を引き出そうとして、そう提案した。
鏡を見て、青い服を見詰めた。可愛い服…
でもこの服を買ってくれた人は、この姿を見てないし、褒めてくれなかった…
「…ちゃんとできたら」と言って夫人を見上げた。
「上手になったら、お爺ちゃんに会いに行っていい?」と無理なお願いをした。
「それは…」
「お礼言いたいんだ。俺、頑張るから…ちゃんとできるようになるから…
だって、あんなお別れだったから…もう『帰りたい』って言わないから…ちゃんと戻るから…
お願い…」
最後の声はかすれて消えかけていた。
ぐずりながら無理を言う俺を、夫人は叱らなかった。
でも《いいよ》とも言ってくれなかった。
夫人はハンカチを出すと俺の感情と一緒に溢れた涙を拭った。
「分かったわ。ルカの気持ちは旦那様と奥様にお伝えするわ。
貴女はよく頑張ってるのだから、ご褒美がないとね」
「本当?」
「本当よ」と柔らかい笑顔で夫人は応えた。
「でもルカも約束よ?
恥ずかしくないレディになって、お屋敷でもお外でもお行儀よくしましょうね?
会いに行って、何も変わってなかったら逆に驚かれてしまうわよ」
「うん、頑張る」
「じゃあ、鏡に向かって練習しましょう?
貴女が一番会いたい人を思い浮かべて、笑顔でお辞儀して見せてちょうだい」
その言葉に頷いて、鏡に向かった。
この格好で会いに行ったら、ゲルトは褒めてくれるかな?
可愛いって思ってくれるかな?
カミルも頭を撫でてくれるかな?
それなら頑張るだけの価値はあるはずだ。
笑顔を作ってスカートを摘んだ。夫人がしていたように背筋を伸ばして、鏡に向かってお辞儀をした。
「とっても可愛いわ」とシュミット夫人は褒めてくれた。
それから少しだけ直すところを指摘して、またお辞儀を繰り返した。
練習を続けていると、部屋をノックする音がして、ケヴィンが顔を出した。
「お母さん。お父さんが相談があるって…」
「いい所に来たわ、ケヴィン!
ちょっとこっちにいらっしゃい!」
夫人は呼びに来た息子を呼びつけて、俺の前に立たせた。
「ルカ。旦那様には見せる前に、ケヴィンで練習してみましょう」
「お母さん、お父さんは?」
「今日はこれで終わりにするから、これだけ付き合ってちょうだい」と息子を黙らせて、夫人は練習の成果を見せるようにと、彼に向き合わせた。
ケヴィンは俺に合わせて前に立った。
「貴方もご挨拶はちゃんと出来るでしょう?
まずは殿方からご挨拶ですよ」
「はい」と応えて、ケヴィンは姿勢を正して綺麗な挨拶を披露した。
「ハンス・シュミットの長男、ケヴィン・シュミットです。可愛いお嬢さんにお会いできて光栄です」
柔らかい笑顔を作ってケヴィンは完璧な挨拶をして見せた。
これで俺が下手くそだったら、ケヴィンに笑われちゃうかな?
「ルカです。よろしくお願いします」と在り来りな言葉しか出てこなかった。
代わりにお辞儀は一生懸命やって見せた。笑顔もできる限り上品にして見せたつもりだ。
顔を上げると、ケヴィンはぽかんとした表情をしていた。
変だった?ダメだった?
俺の不安を他所に、監督していた夫人は手を叩いて褒めてくれた。
「二人とも上品でしたよ!
ケヴィンは最後まで気を抜かない!なんですか、その顔は?
でも『可愛い』ってちゃんと言ってたのは良い事ね!
ルカはとっても可愛い笑顔でしたよ。後で旦那様と奥様にも見てもらいましょうね!」
夫人は慌ただしく評価して、今日の授業の終了を告げた。
「ケヴィン。紳士ならルカの荷物を持って、お部屋まで送ってあげてね。
ルカは歩く練習しながらお部屋に戻るといいわ。どこでも練習になるわよ」
そう言い残すと、夫人はシュミット様を探しに出て行った。
「部屋まで送るよ」と言ってくれたケヴィンの顔は照れてるのか、少し赤かった。
俺もまさかケヴィン相手に挨拶することになるとは思ってなかったから、少し恥ずかしかった。
✩.*˚
ルカの荷物を持って、一緒に部屋を出た。
青いレースの服はよく似合っていた。髪も結い上げて、彼女は少しだけ大人っぽく見えた。
「俺のお辞儀、変だった?」と彼女は僕の反応を気にしてたみたいだ。
相変わらず男の子みたいな喋り方だ。
でもさっきの姿はちゃんした綺麗な女の子だった。
すごく可愛い子なのに損だな、と思った。
「変じゃないよ。上手なお辞儀だったからちょっとびっくりしただけ」と誤魔化した。
ルカは嬉しそうに「へへ」と笑った。
男の子みたいな笑い方だけど、それがルカらしくて良かった。
少し泣いたような痕があったから心配だったけど、彼女は機嫌が良さそうだった。
「ラウラ様がね、上手にできるようになったら、お爺ちゃんたちに会えるように頼んでくれるって…
だから頑張るんだ」
「…帰っちゃうの?」と問い返すと、ルカは少し寂しそうな顔をして、首を横に振った。
「ううん。会うだけ。でも、それでも良いんだ…」
「そう…なんだ…」
複雑な気持ちが僕の中にあった。
ルカは今でも《燕の団》に帰りたいのだろう。
それでも、ルカが帰らないと知って、安堵した自分がいた。
僕は、彼女に頼られたかったんだ…
可哀想な彼女が僕を頼りにしてくれることを願っていた。
「困ったりしたら頼って。僕もお父さんたちから任されてるから。
僕にできることならなんでも相談に乗るよ」
「ありがとう、ケヴィン」
彼女の笑顔に気を良くした。
頭ではずるいと分かっていた。でも心はちぐはぐだ…
部屋の前で彼女と別れた。
お礼にと思ったのか、ルカは思いついたようにまたお辞儀をした。
一生懸命のお辞儀が可愛い。
ルカのできないなりに、一生懸命やろうとする姿は応援したくなる。
ルカの部屋を後にして、お父さんのところに戻った。
お父さんとお母さんは難しい顔で書類を手に相談していた。
「あぁ、ケヴィンか。伝言ありがとう。
今日はもう手伝いはいいから、自分のことをしておいで」と少し早いが、お父さんからお許しが出た。
「厩舎に行ってくる」と言って、裏庭に向かった。
「やぁ、ケヴィン」と僕に気付いたアダムが声をかけてくれた。
「ザラに会いに来たのかい?」
「うん」と頷いて厩舎に入った。
旦那様がくれた子馬は、母親に寄り添って甘えていた。
馬房の中に入っていいか訊ねると、アダムは了承してくれた。
「リリーも機嫌が良さそうですし、私が見てますから少しなら大丈夫ですよ」
「ありがとう。
ザラ、僕だよ。ブラシしてあげる」
鼻先の黒い白い子馬は、僕の持っているブラシに興味を見せた。
そっと近寄って首の辺りにブラシを当てた。
最初はビクッと緊張したザラはすぐにブラシを気に入ったようだ。
ブラシをかけている間は大人しくしていた。
気持ちよさそうな子馬の隣で、リリーが不満そうに鼻を鳴らした。
「リリーにもしてあげるよ」と母馬にもブラシを当てた。
「相変わらず扱いが上手ですね」とアダムも褒めてくれた。
アダムは僕みたいな子供相手でも礼儀正しく接してくれる。
彼はとっても聞き上手だ。
博識なアーサーと話すのも楽しいが、僕はアダムと話すのが好きだった。
「ねえ、アダム。僕は良くないことを思ってしまったんです…」
「おや?懺悔ですか?」と言って、アダムは膝を折って僕に視線を合わせた。
「そう…懺悔かもしれないです」
そう言って、さっきの感じた事を彼に話した。
良い子だと思われたくて、お父さんやお母さんになら話せなかった。
それでも、秘密を守ってくれる他人になら話せた。
僕の話を聞いて、アダムは「なるほど」と頷いた。
アダムは僕の話を聞いて、何故か嬉しそうに微笑んで、彼なりの意見を述べた。
「ケヴィン。君は何もおかしくはありませんよ。
男とは、頼られたいと思う生き物です。それが好きな子であれば尚更です」
「好きな子って…」少し茶化された気がしたけど、彼はそんなつもりは無いのだろう。
「違うんですか?それは失礼しました。
じゃあ、気になる子とでもしましょうか?」
アダムは少しだけ言い方を変えて話を続けた。
「君は若いのに、自分をそんなふうに客観的に見ることができるなんて凄いですね。
でも少し考えすぎですよ。君はまだ子供だ。
自分を大事にすることをおすすめしますよ。そうでなきゃ、いつまでも心の中に後悔が残って、未練がましく文句を言いますからね」
「…アダムは…心残りがあるの?」
「まぁ、そうですね」と答える彼の笑顔にはどこか寂しげな感情が混ざっていた。
「自分の気持ちを大切にして下さい。
もし失敗しても、子供なら些細な事です。同じ事を繰り返しさえしなければ、失敗は恥ずかしい事ではないですよ」
「そうかな?」
「そうですよ」と答えて、彼は明るい顔で笑った。
アダムと話して、自分への嫌悪感が和らいだ。
「ありがとう、アダム」と礼を言うと、彼は嬉しそうに笑って応えた。
「ルカは可哀想な生い立ちです。気にかけてあげてください。君が支えてくれるなら、きっと心強いはずです」
「うん」
「もう悩みはありませんか?」
アダムの問いかけに頷くと、彼は「良かった」と優しい声で言った。
「若いっていいですね。私はもう一生分悩んだので、もうこれ以上悩むこともありませんよ」
「そんなことないでしょう?アダムはまた若いですよ。結婚だってまだ、これからでしょう?」
僕の言葉に、アダムはおどけたように肩を竦めて見せた。
「もう30も過ぎてますよ。君の二回り程年上です。
この歳まで女性とはほとんどご縁がありませんでしたから、結婚は難しいでしょうね。そもそも相手が無い」と彼は珍しく悲観した。
その言葉が本心からなのか、ふざけているのかは分からないが、アダムにとって人生の伴侶を見つけるのは差程重要なことではないらしい。
彼と厩舎を出て、話をしながら歩いた。彼の足は彼のお気に入りの場所に向いていた。
「アーサーではないですが、私も今の生活を気に入ってます。
騎士なんて、本当は向いてなかったのです。
命のやり取りや責任を負わずに、子供のように土を弄って生きるこの生活は心地よいものです」
アダムはそう言って嬉しそうに笑った。
「裏庭に小さい畑まで頂戴したので、私も立派な所領持ちですよ」と彼は自慢した。
屋敷の裏庭に彼の小さな所領があった。
しょっちゅう小さな侵入者があるが、彼はそれすら楽しいようだった。
育った野菜を子供たちに採らせて、自分はそれを見るだけで満足していた。
「畑はいいですね。
私を育ててくださったシェリル様と、一緒に作った畑を思い出します」と、彼は懐かしそうに語りながら畑に視線を向けた。
「ここはいい所です」と呟く彼に頷いた。
ルカにも、ここが良い場所だと思って貰えるように、僕は何が出来るのだろう?
彼女の居心地の良い居場所を作ってあげたかった。
✩.*˚
カナルに向かう朝に、ロンメルの旦那が見送りに、《燕の団》の拠点に顔を出した。
「カミル。ゲルトはどこだ?」
「親父さんか?まだ中じゃないか?」と答えると彼は乗ってきた馬車に戻って声を掛けた。誰か連れがあるらしい。多分奥方だろう。
「呼んでくるかい?」と馬車から戻ったロンメルに訊ねると「頼むよ」と短い返事が返ってきた。
頼まれて、親父さんのいるはずの食堂に向かった。
がらんとした寂しい食堂の奥に親父さんの姿があった
「親父さん、客だ」
「誰だ、こんな時に?」
「ロンメルの旦那だよ。見送りだと」
親父さんは面倒臭そうにため息を吐いて席を立った。
親父さんにとっちゃ息子のような存在だが、一応この街の一番のお偉いさんだ。
出てきた親父さんの姿を見て、ロンメルは笑みを浮かべて挨拶とハグを交わした。
「行くんだな」
「当然だ」と応える親父さんに、ロンメルは「元気な爺さんだ」と笑った。
「うちの女神様が見送りに来てる。小さい女神も来てるぞ」
「おう。置いてけぼりの湿気た顔のお前より別嬪さんの見送りの方がいい」と親父さんは意地の悪い言い方をした。
ロンメルに続いて、親父さんと一緒に馬車に近付いた。ロンメルは馬車から別嬪さんを呼んだ。
「御機嫌ようヴィンクラー様」
旦那の手を借りた奥方様が降りてきて挨拶した。
相変わらず別嬪さんだな、と月並みの感想を抱いていると、親父さんのお楽しみの別嬪さんが馬車から降りてきた。
ロンメルの腕に抱かれたお姫様は、懐っこく、厳つい爺さんに向かって手を伸ばした。
「じい」と、当たり前のように手を伸ばす幼女を受け取って、親父さんは頬を緩くした。
「おうおう、可愛い姫さんじゃ」
子供好きの爺さんは嬉しそうに小さなお姫様を抱いていた。
機嫌を良くした親父さんに、ロンメル夫人が笑顔で話しかけた。
「フィーも久しぶりにヴィンクラー様にお会いできて嬉しそうですわ。最近お立ち寄りいただけなくて心配しておりましたの」
夫人の言葉に、親父さんも返す言葉がなかったらしい。
ルカを預けた日から、ロンメルの屋敷へ行くことは無くなった。
自分で『ルカに関わるな』と言った手前、ロンメルの屋敷に行くのは気が引けるのだろう。
そうでなくとも、親父さんは頑固だから、頼まれたって自分では行かないだろう。
返事のできない爺さんを見て、夫人はくすりと笑った。
「またいつでもいらしてくださいね。子供たちも喜びますから」
「そうだぜ、ゲルト。うちにはレディが増えたんだ。あんたが来ないから連れてきちまったよ」
ロンメルは馬車に向かって、「ライナ」と女の子の名前を呼んだ。
ロンメンの手を借りて降りてきたのは、着飾った華奢な少女だった。
「また拾ったのか?お前も物好きな…」
小言を言おうとして、親父さんは言葉を詰まらせた。その視線は少女に釘付けになった。
「可愛いだろう?」とロンメルは自慢げに少女を親父さんの前に立たせた。
「ほら、ライナ。ちゃんとご挨拶しな」
ロンメルの手を離した少女は、綺麗な姿勢で親父さんにお辞儀を見せた。
「ライナ・ヴィンクラーです」と名乗って顔を上げたのは間違いなく知っている少女だ。
「待て待て!どうなってる?!」と親父さんがロンメルに詰め寄った。
「ワルター!てめぇどういうつもりだ!笑えねぇぞ!」
「フィーを抱っこしたまま怒鳴るなよ。
聞いた通りだ。証書ならあるぜ」
飄々とした様子でロンメルが取り出したのは、養子縁組の証書だ。親父さんはロンメルの手から慌てて紙切れを引ったくった。
ロンメルは意地の悪い笑みを浮かべた。
「なに、大したことじゃねぇよ。
うちでも雇うなら、ちゃんと身元のある人間がいいんでな。なんかあった時に困るだろ?
それに、もし、悪い目的で『この子を引き取りたい』なんて言い出す人間がいたら面倒だ。
俺の《隠し子》とか噂されても面倒だしな…」
「だからって聞いてねぇぞ!なんでこんな…」
「あんたが素直じゃねぇからさ」
ロンメルのその言葉に親父さんは苦い顔で固まった。
「なぁ、ゲルト。あんたが狡いから、俺も狡くなっただけさ。
この子は俺の屋敷でよく働く良い子だ。文句も言わねぇし、物覚えもいい。
この紙切れはこの子が唯一望んだご褒美だ」
「お爺ちゃん…」行儀よく黙っていた少女が親父さんに声を掛けた。
「勝手なことしてごめん…」と謝る声は消えてしまいそうな可哀想な小さな声だ。
「もう、ここには来ないから…だから…お礼言わせて」とルカは些細なお願いを口にした。
意地っ張りの親父さんも、その言葉を遮ることは出来なかった。
「お爺ちゃん、カミル。可愛い服と靴ありがとう。お祭り行けて楽しかった。
行かせてくれて、ありがとう」
「ルカ…」
「もうここには来ないけど、あたしに会いに来て。
待ってるから…帰ってきたら、会いに来て…お願い…」
男の子みたいだったルカは、すっかり行儀の良い女の子になっていた。
泣きそうな顔で、必死に笑顔を作る姿を見て、突き放す言葉など出てこなかった。
ロンメル夫人がルカに歩みよって、涙を堪える少女の肩にそっと手を置いた。
「ヴィンクラー様。彼女を安心してあげてください」とロンメル夫人は親父さんを説得にかかった。
「彼女はとても健気に頑張っていましたよ。
元の彼女をご存知であれば、この子がどれほど頑張ったのか想像ができるはずです。
この短期間で、外に出ても恥ずかしくないお行儀を身につけるのは容易ではありません。どうぞ褒めてあげてください」
夫人の言葉に親父さんは仏頂面で黙り込んだ。
「じい」とお姫様が顰めっ面の爺さんを呼んだ。
「じい、めっ!おへんじは?」と怖いもの知らずのお姫様は親父さんに追い打ちをかけた。
親父さんは黙ってお姫様をロンメルに返して、ルカの前に屈んだ。
「もう来るな」と悪い言葉から始まるのは親父さんがひねくれてるからだ…
大きな身体が子供を包むように抱き寄せた。
「もうこんなところに用はねぇだろ?バカタレが…
もう俺たちみたいな碌でなしと関わるんじゃねぇぞ。お前はいい女だ…ちゃんと幸せになれ…
これからは自分のために頑張れ」
「お爺ちゃん…」
「大した餞別にはならねぇが、仕方ねぇから《ヴィンクラー》の姓はくれてやる。満足か?」
「うん…ありがとう…」
取り繕えなくなったルカは、親父さんにしがみついて泣いていた。
泣き方はまだガキだ。まだまだ淑女には遠いな…
でもそれを見て少しだけ安心した…
涙を拭ったルカは、親父さんから離れると、「カミル」と俺を呼んで手を伸ばした。
膝を折って視線を合わせた。
ルカは背伸びして俺の首に手を回した。
これで最後だ…親父さんには後で叱られりゃいい…
そう思いながら細い腕に応えて、ルカを抱き締めた。
「カミル…今までありがとう、元気でね…
お爺ちゃんをよろしくね」
「あいよ」とルカの願いに応えた。
涙を拭ったルカは、雨上がりの空のように眩しい笑顔で笑った。
もう何も言うことはねぇや…
この子はきっと幸せになれるはずだ。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。



百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる