燕の軌跡

猫絵師

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恐怖

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『兄貴!』

二人の年の離れた兄を呼んで、泣きながら裸足で追いかけた。

二人とも戦に行くと言ってた…

その意味が分からないほど、あたしは子供じゃなかった…

親父は兄貴たちと大喧嘩して、へそを曲げたまま工房から出てこなかった。

雑嚢を担いだ背は、家から飛び出したあたしに気づいて振り返った。

『アニタ、家に戻れ』

『あの頑固親父を頼んだぜ』

『すぐ帰るからよ!』

代わる代わる、勝手なことを言って、兄貴たちはあたしに手を振った。

最後に見た二人は笑顔だった…

でも楽しそうじゃない。悲しそうな、でも心配させまいとするそんな顔だった。

『行かないでよォ!』

精一杯叫んだのに、二人は何も答えずに行ってしまった。

二人とも、帰ってこなかった…

兄貴たちだけじゃない。

近所で戦に出て、帰ってきた人の方が少なかった。


昔の夢を見て、真夜中の変な時間に目が覚めた。

隣には、あたしの気も知らずに、ギルが寝ていた。

『カナルに鍛冶屋が必要らしい』と彼に聞かされた。

侯爵様から呼ばれたと言っていた。

親父は反対すると思ったのに、出てきた言葉は『分かった』の一言だった…

それでも、そう答えた親父の背中は、兄貴たちを失ったあの日と同じ背中に見えた。

悲しく丸まった背中…

戦争さえなければ、あたしたちがこんな思いを繰り返す事なんて無いのに…

唇を噛み締めて声を殺して泣いた。

鼻が詰まってグズグズと音を立てた。

このままだと泣いてるのがバレると思って、ベッドから逃げ出した。

本当に鍛冶屋が必要なのかもしれない。

でも、行先はカナルだ…

そして、そのカナルは戦場だ…

逃げ込んだ台所で崩れ落ちて、堪えていた涙が一気に溢れた。しゃくりあげて、漏れる嗚咽を抑えることができなかった。

怖いんだ…兄貴たちみたいに帰ってこなくなるのが…

幸せだったから…

失うものが大きすぎるから…

今日まであった幸せが、明日には壊れてしまうことがあると知ってる。

泣いていると床の軋む音が聞こえた。

泣き顔を上げられずにいると、音はすぐ後ろで止まって、しゃくり上げる背に体温の残る毛布がかけられた。

「…すまん」と謝る声が聞こえて、強い腕で後ろから抱き締められた。

謝るってことは、あたしの涙の原因を知ってるってことじゃないか?

「やだ…」と泣きながら抱き締める腕を掴んだ。

「アニタ…」

「なんであんたが行くの?鍛冶屋なら他にもいるでしょ?!

あの子たちを置いてくの?あたしはどうなるの?

兄貴たちみたいに…あんたまで…」

それ以上は言葉にならなかった。

だってその先は…

「俺は兄貴たちみたいにはならない」と彼はあたしの悪い想像を否定した。

「必ず、お前たちのところに戻る…

絶対だ。約束する。

だから、今回だけは、俺を行かせてくれ」

「何でよ?あんたじゃなきゃダメじゃないでしょ?」

酷い言い分だ。でも本当にそう思ってた。彼が行かなきゃいけない道理なんて無いはずだ…

だって、彼は、この街の《鍛冶屋》なんだから…

彼は兵士じゃないし、もし必要なら、彼より先に行くべき人は他にいるはずだ…

「『一生大事にする』って言ったじゃない…」

「あぁ。言った」と彼は後ろから抱きしめながら応えた。

「あたしに『笑顔が好きだ』って言った…」

「言った。お前は笑ってる方がいい」

恥ずかしいセリフを吐く彼が、どこか遠く感じられた。

離れて行ってしまうから、今だから言うの?

そんなの笑えない…

「行かないでよ…」

爪が食い込むほど強く彼の腕を掴んだ。

痛いはずなのに、彼は何も言わずに腕に力を込めて応えた。

「すまん」と詫びる声が彼の答えだ…

男って勝手だ…

あたしは守って欲しいなんて思ってない。

ただ、一緒にいてほしいだけなのに…

あたしの簡単な願いは叶わないまま、ギルの腕の中で、悲しい朝を迎えた…

✩.*˚

対岸から届いたあの矢は俺の鎧だけでなく、心まで砕いた。

胸に穿たれた鏃に、恐怖まで植え付けられた。

「アーサー、大丈夫か?」

うなされていたのか、スーに起こされて目が覚めた。

恐怖で血の気が引いたような感覚を覚え、呼吸が乱れた。塞がったばかりの胸の傷が、鈍い痛みを思い出させた。

「痛むのか?」と問いながら、スーは俺の傷の辺りに手を伸ばした。

反射的に身を守ろうとする《祝福》がスーの手を拒んだ。

「痛っ!」《拒絶》に手を弾かれてスーが騒いだ。

「あ…」スーの声に冷静さを取り戻した。

「す、すまん…つい…」

「…痛ってぇ…加減しろよ」

手をプラプラと振りながら、スーは苦言を呈した。

手が痺れたのか、スーは何度も手のひらを握り直していた。

「大丈夫か?」と心配すると、返ってきたのはいつも通りイライラした返事だ。

「お前こそ大丈夫かよ?!

《祝福》の加減ができなくなってるだろ?!」

スーは拳を握ったが、考え直してそれを引っ込めた。殴っても痛い思いをするのは自分だ。

「すまん…」

自分は割と強い方だと思っていた。誰にも傷つけられない《祝福》に守られていて、傷を負うことなどないと信じていた。

だからこそ、この現実を受け止められずにいた…

「ビビってんのかよ?」と、煽るようなスーの言葉に強がることすらできなかった。

スーは俺に舌打ちして、「お前、帰れよ」と告げた。

「何を…」

「今のお前は不安定だ。

もしその《祝福》が暴走して、パウル様や他の味方を危険に晒さないとは言いきれないだろう?

しかも、お前に《祝福》を与えているのは、あの《アロガンティア》だ。

本気で暴れるようなら、俺では抑えきれない」

「俺が…信用ならないと?」

「そう言ってんだよ。少なくとも今はな…

お前の気持ちの整理ができるまで、カナルには来るな。

今、このカナルで、足手まといの世話ができるような余裕はない」

歯に衣着せぬ言葉に、返す言葉もなかった。

確かに、今の俺は足手まといかもしれない…

またあの矢に晒される事を恐れているのだ…

あの恐怖が纏わりついて離れない。

傷を負うことを恐れている自分がいた。

「お前はさ、結局、今まで傷つかずに生きてきた《お坊ちゃま》なんだよ。

初めて痛みを感じたか?死にかけたもんな?

そりゃビビっちまうよな?当然だ…」

スーは偉そうに俺に説教をした。

「俺だって、心の傷が治るまで2年かかった…

すぐに折り合いつけんのは無理だろうさ。

だからブルームバルトに帰って、もういいってなってから戻って来い」

「お前はそれで良いのか?」と問うと、スーは黙って肩を竦めて見せた。

「少なくとも、お前を無駄死にさせる訳にはいかないからな…

メリッサは泣くと面倒くさいんだ」

「…たしかにな」

「《鷹の目》は必ず倒す。

あいつさえいなきゃ、当面の危険は無くなる。

そうしたら、俺もブルームバルトに戻る。

赤ん坊抱かなきゃいけないからな…」

図々しい奴だ…俺の子供を抱く気でいるらしい…

「ブルームバルトに戻ったら、《燕の団》の奴らにカナルに来いって伝えてくれ」

言いたいことだけ言って、スーは煙草を出して咥えた。

「外で吸ってくれ」と注文をつけると、スーは青年の顔で意地悪く笑った。

「お前の心配なんてしてやんねぇ」

「何だ?心配で来たんだろ?」と返すと、スーは拗ねたような嫌な顔をした。

「何で俺がお前の心配しなきゃなんねぇんだよ?

足手まといだって言ったんだ」

「そうか?お前は素直に《心配だ》とか言うような男じゃないからな…」

「あーもー!」スーは苛立たしげに髪を掻き回すと、煙草を咥えたままテントから出て行った。

素直じゃない男だ…

小さく笑って痛む胸を抑えた。

✩.*˚

ロンメル男爵からの使いが目通りを願っていると報告があった。

「誰かね?」

「ギルバート・エインズワースと名乗っておりました」と伝令は答えた。

「…何用だ?」と首を傾げてバルテルに視線を向けた。彼も思い当たる事は無いようで、小さく肩を竦めた。

あの気難しい男が何の用だ?

手紙を届けるだけなら、他にいくらでもいる。彼が届ける理由は無いはずだ。

「通してくれ」と応じた。

しばらくして、手紙を持ったエインズワースがテントに通された。

目深に被った外套のフードを取ると、彼は硬い面持ちで頭を下げた。

「ロンメル男爵の手紙を届けてくれたそうだな。礼を言う」

そう言ってバルテルに目配せをすると、バルテルはエインズワースに歩み寄って手紙を預かった。

手紙の封は確かにロンメルの《白鹿》だ。

封を開いて中を改めた。

手紙の内容は意外な申し出で、ロンメル男爵自身も悩んでいるように感じられた。

「ロンメル男爵は、君が私に《助力を申し出た》と手紙に綴っているが…事実かね?」

私の問いかけに、彼は難しい顔で頷いた。

一体何故心変わりをしたのだろうか?

彼は何も望まずに、ただ静かに暮らしていたかったはずだ…

私も可能な限り、彼の平穏を乱さないようするつもりだった。

既に、彼には幾度となく救われていた。

それが私の為ではないにせよ、彼の行動に助けられたのは事実で、私はそれを恩に感じていた。

「君の望みは《静かに暮らすこと》のはずだ。

何故、今頃になって…」

「俺が《静かに暮らしていたい》からだ」とエインズワースは私の質問に答えた。

その矛盾した答えは彼の本心だろう。

「俺は、自分のためにカナルに来た。

対岸の《鷹の目》は、恐らくもう別人だ。誰にも手が付けられないはずだ、違うか?」

「なぜそう思うのだ?実際に見たわけじゃないだろう?」

「俺がロンメルと同じだと忘れたのか?」と言って、エインズワースは服を捲って肌を見せた。

身体中の刺青は《神紋》と呼ばれる、特別な人間への神からの賜物だ。

「こいつのせいで、俺は《炎獅子》と繋がっている。あのお節介な獣は俺を放っておいてくれない…」

「君に《神紋》を与えた存在が君をここを連れてきたのか?」

「違う。確かにお節介な警告を受けたが、あいつは俺に『行け』とは言わなかった。

来たのは俺の意思だ。

ヴェルフェル侯爵。あんたに何かあったら、俺の望んだ静かな生活が壊れると思った」

「なるほど…」

彼の言う事に矛盾はなかった。

確かに私が居なくなれば、彼は危うい立場になるだろう。

ロンメル男爵は元傭兵ではあるが、出生は騎士の家柄で、元々フィーア人だ。しかも《神紋の英雄》として爵位まで与えられている。彼を攻撃する存在は少ないだろう。

それに比べ、エインズワースは元々オークランド人で、静かに生きるには、過剰すぎる《祝福》を有している。

彼を知らない人ならば、静かにひっそりと暮らすことを望む彼を、オークランドのスパイだと疑うだろう。

私やロンメル男爵無しでは、彼の生活は成り立たないのも事実だ…

「頼って良いのかね?」と彼に確認した。

相変わらず難しい顔で彼は頷いた 。

「家族さえ守ってくれるなら…」

彼は随分ささやかな願いを口にした。それは私にとって難しいことではない。

「家族か…どんな家族かね?」

彼の宝物に興味が沸いた。

これほどの男を縛る存在は、どんなものなのだろうか?

私の好奇心に、エインズワースは少し戸惑いながら、家族について答えてくれた。

「妻は…俺と真逆で、明るくて良く笑う女だ。よく喋る。

彼女の親父も元気な爺さんだ。世話焼きのいい人で、尊敬している。

息子は俺より妻に似てる。明るくて、好奇心が強い男の子だ。

二人の娘は…一人は養女だが、二人ともまた赤ん坊だ」

家族の話をする彼は、口下手だが、良い夫で父親に見えた。

「分かった。ありがとう」

この話を聞いたら、彼を信用しない訳にはいかないだろう。

家族に向けられた愛情は嘘では作れない。

彼は人生をかけた一番大切なもののために、カナルに来たのだ。

私と同じではないか?

それを疑って追い返すなど、器の小さい男のすることだ。

「私は君を歓迎する。

と言っても、私の直属の部下になる気はないだろう?帰れなくなるからな…

今、カナルにはスーがいるから、《燕の団》として戦列に加わるがいい」

「《燕の団》として?」

「そうだ。彼とは顔見知りだろう?君にとっても都合がいいはずだ。

彼には割と自由にできる権限を与えている」

私の返答に、エインズワースは少し呆れたようだった。

「随分、あの男を甘やかすのだな」と、彼は手厳しい言葉を返した。

「ふふ。確かにな。

だが、私は有能な人間が好きなんだ。

それに、彼は息子の親友で、私自身、彼には期待してるのだよ」

彼には関係ないだろうが、アレクとスーの事を思い浮かべて笑った。

『父上。友人を城に招いてもよろしいでしょうか?』

アインホーン城に居を構えてから、珍しくあの子からそんな事を言われた。

友人がない訳では無いが、息子が友人を招きたいと言うのは初めてだった。

それがあの河畔で出会った少年だと知って驚いた。

彼らの付き合いは、会えなくなっても続いている。

それはアレクがスーを友人として必要としているからだ。そしてスーも、友人としてアレクを慕ってくれている。

貴族とは孤独なものだ。対等な友人などというものは存在しない。どんなに良い関係だとしても、そこには必ず、他者との《段差》があるものだ。

見上げるか、見下ろすか…

フラットな関係を保てる友人など、ありはしないのだ。

バルテルでさえ、私の友人であり続けることは無かった。それが虚しく悲しい事を知っている。

自分が変わらなくても、周りは変わってしまう。

だから私は変わらない息子の友人として、スーを残しておきたいのだ。

多少甘やかすことくらい良いでは無いか?

彼はあのままが良い…

変わらない何かが一つくらいあっても良いじゃないか?

「まぁ、そういうわけだ。スーと仲良くやりたまえ」とエインズワースにスーの居場所を教えた。

エインズワースは一礼してテントを後にした。

私の傍らで難しい顔になってる男を見て、苦笑いが漏れた。

「何だ?言いたいことがあるのか?」

「…閣下は、クライン殿に甘いように感じておりました。

本当はアレクシス様を甘やかしておいでだったのですね?」

「親馬鹿だと叱るかね?」

私の問いにバルテルは首を振った。

「まぁ、多少思うところはありますが…

クライン殿がカナルで名を上げれば、公子に良いものを残すことになるでしょう」

「あの子には、私以上の問題を残してしまうだろうからな…」

私には父上の残してくださった家人を含め、自身も人に恵まれた。

残せるものなら残してやりたいが、《神紋の英雄》までは残してやることはできないだろう…

人を超える力を有していても、その命は人と変わらない。

「バルテル。私は、アレクとスーの出会いは運命のように思えるのだ。

私が二人の《神紋の英雄》に出会えた事以上にな…

我が子に良いものを遺したいと思うのは、親として当然だろう?」

私の勝手な持論に、バルテルは肯定も否定もしなかった。

「左様ですか」と呟いて話を終わらすと、生真面目な彼は時計を確認して、次の予定を告げた。

✩.*˚

マズイな…

斧を振り下ろしながら、どうやってヴィクターの所に戻るか頭を悩ませていた…

数日過ごして、この村の人間が善良で、老人や女子供ばかりなのに気付いていた。

ここには悪い奴もいないから、俺が暴力を振るう理由もなかった。

居心地良く思えたのも事実だ…

「ニックおじちゃん、すごいねぇ!」

斧で細かくなった薪を拾いながら、ガキどもは心地よい羨望の目を俺に向けた。

「これも割って!」とガキどもは薪割りの薪を持ってきて、俺の傍に積んだ。

「危ねぇぞ。少し離れてろ」

チョロチョロするガキどもに注意すると、少し離れた所で一列に並んで薪割りの見学を続けた。

狙って振り下ろした斧は、易々と枯れ木を砕いた。

キャッキャと喜ぶガキどもの声が明るく響いた。

悪くねぇんだよな…

でも、俺はここにはいつまでもいる訳にはいかねぇんだ…

薪割りを続けていると、村長がやって来た。

食えない爺さんは俺のところにやってくると、「よく働くなぁ」と声をかけてきた。

「世話んなったから、このくらいして行く」と答えて斧を振り下ろした。

「気にせんでよいのに…

あんたはこの村を《青主》から救ってくれた恩人だ」

村長は村人と同じセリフを口にした。

俺の正体を知ったら腰を抜かすだろうさ…

そんな意地の悪い想像に気づきもせずに、村長は上機嫌に、話をすり替えた。

「そうそう。お前さんに用事があってな。

《青主》を倒してくれたお前さんの話を聞いて、ご領主様が『是非礼を』と仰ってな」

余計なことを!

斧を振り下ろす手を止めて村長を睨んだが、この爺さんはやはり食えない奴だ。

「分かっとるよ。あんた弟さんの所に戻らにゃならんのだろ?」

村長は俺の言いたいことを先に言って、俺の言葉を遮った。

何も言えない俺に、爺さんは「連れておいで」と気軽に言った。

「あんたのことが気に入ったんだ。娘もやるから、ここに住まんか?」

「ここに?」

「あぁ、そうさ」

オウム返しの俺の質問に頷くと、村長はパイプを取り出して咥えた。

「この辺はな、ウィンザーだったが、若い奴らは戦に出て行っちまった…

俺の息子も三人出てって三人帰らなかったし、娘の旦那も帰らなかった。

そうこうしてる間に、嫁さんも病気で死んじまった…

この村だって、本当はもう少し人がいたんだが、今じゃ寂しいもんさ…」

「そんなの、他にいくらでもいるだろう?」

「好き好んでこんな場所に来てくれる人なんてありゃしないのさ。

ここはウィンザーの中でも端の端だ。

それに、他の村だって似たようなもんさ…」

老人は背中を丸めて寂しそうに答えると、またパイプを咥えた。

煙草の煙を吸って、老人はまた俺を村に誘った。

「あんたが弟連れて来てくれたら歓迎するよ。

多少不便な土地だが、意外と食うには困らんのだよ。

辺鄙な田舎暮らしだが、住めば案外都より落ち着くよ」

村長はそう言って「よいしょ」と腰を上げた。

「薪割りが終わったら昼飯だ」と言い残して村長は元来た道を帰って行った。

「ニックおじちゃん」と呼ぶガキどもの幼い顔に、ヴィクターの姿が重なった。

「おじちゃんここに住むんだよね?」

「一緒に居てくれるの?」

《青主》を倒したから、こいつらは俺が自分たちを守ってくれる人間だと思ってるのだろう。

そんな目で見るな…

本当は俺はお前らを殺す側の人間だ…

今まで、ヴィクターにだけ向けられていた感情は、この村にも向けられていた。

これ以上、この場所への情が強くなったら、俺はここに未練が残る。

俺は河の向こう側から来て、向こう岸に帰らなきゃならんのに…

この気持ちが強くなれば、俺はヴィクターの所に帰れなくなるかもしれない…

自分の心が変わることが怖かった。

俺の一番大切なものは《弟》のはずだ…

✩.*˚

「なるほど、これが《青主》か…」

「これは確かに脅威ですね」

領主から派遣された役人たちは、《青主》の死体を確認してその巨体に驚いていた。

後ろ足で立ち上がったら、俺の背丈と余り変わらない。

「フェアデヘルデ領の管理を任されております、オーベルシュトルツ子爵家家人エステンと申します。

先ず、ご領主様に代わってお礼を申し上げます」

相手はナヨナヨした印象の男で、腕っ節のありそうな感じではなかった。

《青主》が片手で撫でたらぺちゃんこになりそうな頼りない男だ。

エステンと名乗った男は、フィーア人のクセに、パテル語で話していた。

この辺りは元ウィンザーだから、パテル語を使うのが一般的なようだ。

「ニコラス殿。危険を顧みず、村を救って下った事に感謝致します。

この働きに見合う報奨金をご用意致しますので、この《青主》は私がお預かりして持ち帰ってもよろしいでしょうか?」

「好きにしてくれ」と答えると、相手は上機嫌で部下に《青主》を荷車に乗せて持ち帰るように指示を出した。

枯れた枝みたいな男は笑顔を貼り付けて、俺にあれこれ質問を始めた。

《青主》を倒した経緯を話すと、彼は何か引っかかったようだ。

「ニコラス殿のご出身はどちらでしょうか?」

返答に困った俺の隣で村長が勝手に口を挟んだ。

「失礼します、エステン様。

彼はエッダですので、出身を問うのは難しいかと…」

「あぁ、そうでしたな」と頷いていたが、明らかに相手は俺を警戒していた。

カナルから俺が逃げたのが伝わっているのだろう。

目の前の男を殺すのは簡単だが、そうなればさらに厄介な事になる。ここは何とか誤魔化すしかない。

「ニコラス殿。何故この村に来たのかお聞かせ願えますか?」と追求されて、すぐに答えが出なかった。

「エステン様。あまりうちの婿さんを苛めないで下さい」と先に口を開いたのは村長だった。

「婿さん?」とエステンが村長に問い返した。俺も驚いて言葉を失った。

村長は勝手に作り話を始めた。

「恥ずかしい話ですが…

うちの娘はもう30過ぎてるんですが、子供もないまま旦那に戦で先立たれてしまって、なかなか良い婿さんがいなかったんですよ。

ご縁があって、婿さんに来てくれたんです」

「そうですか…確認しても良いですかな?」

エステンは納得していない様子で、連れの役人に確認のために村長の娘を呼ぶように命令した。

すぐに彼女がやって来て、親父と口裏を合わせていたかのようにすんなりと状況を受け入れた。

「私が年増な寡婦なもので…

彼も嫁を貰ったと言うには恥ずかしいかと…」と彼女が申し訳なさそうに答えると、相手も気の毒に思ったらしい。

「失礼を申し上げました。

カナルで少々問題がありまして…

ニコラス殿が良い御仁のようで良かったです」

誤魔化すようにそう言って、彼は村長の娘を俺の隣に並ばせた。

「やぁ、お似合いだ」枯れ木のような男は祝福を口にして、その場を後にした。

村長が村の入口まで見送りに行って、彼女と二人残されて気まずくなる…

助けてもらったのだから、礼を言うべきだろう。そもそも、あの日のことだって、まだちゃんと話していない…

「その…すまん。助かった…」

礼を言うと、彼女は苦そうな笑みを浮かべて答えた。

「ごめんね、こんな年増で…

もっと若くて可愛い娘なら良かったけど…」と彼女は自分を卑下するような事を口にしたが、そんなに悲観するようなことでもないだろう。

「そんなことないだろう?

あんた、いい女だ」

安っぽい俺の言葉に彼女は小さく笑った。

頬に出来た笑窪が彼女を可愛く見せた。

彼女は「帰ろう」と俺を誘った。

帰るか…

俺が帰らなきゃならん場所は他にある。それでもその言葉が心地よかったのは事実だ…

それでも、もう少しだけ、この平凡な何も無い幸せに浸っていたいと思う自分がいた…
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