燕の軌跡

猫絵師

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金百舌鳥

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「仕方ないではないか、兄上方」

出来損ないの弟は、しれっとした様子でそう言って、黒い尾を振った。

「我輩とて、相手が《凶星のマーウォルス》では分が悪い」と《驕慢》は言い訳をしたが、そういうことではない。

「その話ではなかろう?」と《冬の王》は苛立たしげに蹄で地面を蹴った。

「何故 《妖精の子》に絡む?貴様はその《役目》ではなかろう?」

「ははぁ?さては、最も高貴な精霊である《冬の王》ともあろうお方が拗ねていらっしゃる?」

黒い獣は嘲るように《冬の王》を煽った。

「止せ、《驕慢》。

《冬の王》も、そんな安い挑発に乗らずと良いであろう?」

間に入る身にもなって欲しいものだ…

《春の女神》をこんなことで起こすわけにはいかない。

居心地の悪さを覚えて、背中の翼をたたみ直した。

「とにかくだ!《妖精の子》を導くのはお前ではない!心しておけ!」

「分かった、分かった。《冬の王》の仰せのままに」

相変わらずふざけた態度を崩さずに、《驕慢》は恭順するように地面に伏せた。

このままでは、延々と説教が続きそうだ。

巻き込まれるのも面白くない。

苛立つ《冬の王》に別の問題を振った。

「それにしても、《冬の王》よ。《凶星》とは、厄介な者が出てきたでは無いか?」

「全くだ。《ルフトゥ》め…余程 《女神の復権》が恐ろしいと見える」

「どうするかね?我々の《眷属》に警告するかね?」

《凶星のマーウォルス》が手を貸したとなれば、並の《祝福持ち》では歯が立たないだろう。

なんせ、我々が《女神派》の筆頭なら、《凶星》は《父神派》の筆頭で《武神》と呼ばれる存在だ。

今までの半端者とは訳が違う。

警告は必要かに思えたが、《冬の王》はそれを渋った。

「そうしたいのは山々だが…

あの者たちは、我らの警告を受けて、あえてカナルに行くことを選ぶやもしれぬ」

「…なるほど」

「《凶星》も《父神》の動きも我々には分からぬ。

《驕慢》には警告のつもりだったのだろう。そやつは《傍観者》だからな」

「そんな意地悪をお言いでないよ、兄上ぇ…

我輩とて《凶星》と《大兄様》の被害者ではないか?」

《驕慢》は子犬のように哀れっぽく鳴いた。

「数ある《傍観者》への見せしめが我輩とは笑えぬ。

こうなっては《女神》に降るしかないでは無いか?」と《驕慢》は我々には媚びを売った。

「馬鹿も休み休み言え、《驕慢》よ。

貴様は自分が可愛いだけであろう?

我らの志とは程遠い」

「孤高の兄上は我輩がお嫌いな様子だ」と《驕慢》は相変わらず《冬の王》を煽った。

これではいつまでも収まらん。うんざりしながらそよ風の吹く草原に腹這いになった。

少し離れた花畑に《春の女神》が眠っている。

彼女は夫の怒りも、このつまらない口論も知らずに、力を蓄えるために深い眠りに身を任せていた。

《春の女神》は、その身に宿した《母神》の魂を癒しながら、来る時を《冬の王》と待ちわびている。

私の三人の妻はそれぞれ自由に過ごしていて、呼んだ時に来るだけの友人に近い存在だ。

「《冬の王》よ。それ以上|《驕慢》を叱るのはやめたまえ。《春の女神》の眠りが妨げられるぞ」

《驕慢》とやり合っていた《冬の王》も、最愛の妻の眠りを妨げるのは本意ではないらしい。

分かりやすく小言を引っ込めて、《驕慢》を解放した。

「今日はこのくらいで済ますが、次に《妖精の子》につまらぬことを吹き込むようなことがあれば今度は我が仕置きに行くぞ!」

「おぉ、怖い…

分かったよ《兄上》。仰せのままに」

最後まで相手を小馬鹿にしたような口振りで、《驕慢》は姿を消した。

大方、《祝福》を与えた男の元に戻ったのだろう。彼の左目があやつのだ。

静かになった草原には我々だけが残された。

《冬の王》は苛立たしげなため息を一つを吐き出すと、ベッドのような花畑に歩み寄って、眠る《春の女神》に白い身体を添わせて座った。

彼は小鳥の姿をした眷属を呼び出すと、彼女のために花を詰んでくるように命じた。

眠り続ける彼女に、花など必要ないだろう?

そう思ったが、口にはしなかった。

誰の真似をしているのかは知っている。

《冬の王》は、あの不器用な男の真似をしているのだ。

その姿が、さっきまで怒り狂っていた精霊王とは結びつかず、滑稽で笑いを誘った。

✩.*˚

歳をとると、若者の行動が気になるものだ。

悪い意味ではない。ただ、その行動と結果に興味がある。

「お手紙拝見致しました」と伝えると、送り主の壮年の貴族は大仰に「うむ」と頷いた。

その所作も貴族らしく精錬されたものだが、個性がなく、誰も彼も同じく見えるつまらないものだ。

部下の尻拭いで訪れたが、肝心の部下は失踪してしまっていた。

なかなか個性的で面白い男だっただけに惜しく感じた。ただ、やはり隊長にしては未熟だったようだ。

様子を見るついでに、入れ替える隊長を連れてカナルに来たが、私まで来る必要は無かったようだ…

カナルがどんなものかと思って来てみたが、大河を挟んで睨み合い、どちらとも動きのない戦場だ。

つまらんな…

金にも興にもならない戦場に用はない。早々にルフトゥキャピタルに帰るつもりでいた。

「団長、少しよろしいですか?」

新しい隊長として連れてきたヘンリーが、団員への挨拶を終えて戻ってきた。

何かと使える男で、面白みはないが信用出来る男だ。冗談は苦手な男が口にしたのは意外な言葉だった。

「あんな《猛獣》聞いてないですよ」

「…《猛獣》とな?」

物騒な響きに首を傾げた。

それが言葉のままなのか、何らかの比喩なのか、理解できなかったからだ。

ヘンリーは「こちらです」と私を案内した。

「《スウィッチ》の隠し玉です。

確か、ラッセルとか…」

「あぁ、あの兄弟か?」

ラッセルの名前は私の耳にまで届いていた。

確か、酷い遠視の弟と、過保護で乱暴者の兄の兄弟だ。《スウィッチ》はこの兄弟を手元に置きたがった。どちらかが、《祝福》を持っていたと記憶している。

「兄貴の方も《スウィッチ》と消えたそうですが、その後、弟の方が手の付けられない乱暴者になったそうです。

なんでも人が変わったみたいになったとか…」

「ふむ…なるほど」面白い。実に興味深い話だ。

「ラッセルの弟はどんなだったかね?」

「射手のくせに、目が弱いって話は聞いてましたが、今まで揉め事を起こしたという話は聞いてませんでした。

むしろその手の話は兄の方です。《スウィッチ》の奴が揉み消していたので、団長はご存知ないでしょうが、あいつに半殺しになった連中は少なくは無いはずです」

「なかなか面白い男じゃないか?

《スウィッチ》も、私に取られるのを心配していたのかね?」

「面白いもんですか…躾できない猛獣です」

「ふふっ…若者だ。多少の無礼なら目を瞑るよ。

どれ?彼は私の眼鏡にかないそうかね?」

ヘンリーは大きなため息を吐いて「分かりません」と返事をした。

ヘンリーは私を河岸に設えた櫓に案内した。

「ラッセル!」

ヘンリーの呼び掛けに応じて、櫓の上から若い男が顔を覗かせた。

「何だよ!ミラは渡さないからな!」と幼い印象の怒声が頭上から降ってきた。

「ミラ?」

「向こう岸から拉致した女の捕虜です」とヘンリーが教えた。

あぁ、揉めてる原因の捕虜か…

どうやら若い男らしく、女にご執心のようだ。

まぁ、健全な事だ…

内心で笑ったつもりだったが、私の僅かな表情の変化を、ラッセルは見逃さなかった。

「何がおかしい!ミラは俺のだ!もう俺の《家族》だ!絶対に渡さないからな!」

「ラッセル!この方は《金百舌鳥団》の団長だぞ!」

青年の話を聞こうとしない姿勢に、ヘンリーも怒鳴り返した。

「…団長?」返ってきた声は不思議がってるような声だ。それがやはり幼い印象を与えた。

「そうだ。私が《金百舌鳥団》の団長のウォルト・シュライクだ」と名乗ると、青年は「ちょっと待って」と言って櫓を降りてきた。

彼が普通の人間でないことは、ひと目で分かった。

今まで、それなりに《祝福》を持った人間たちを見てきたが、それらに通ずる異質な雰囲気に、胸が高鳴った。

「団長って偉い人なんだろう?俺になんの用だよ?」

降りてきたラッセルは、礼儀を知らない子供のように訊ねた。

無礼を叱ろうとしたヘンリーを片手で制して、ラッセルに向けて笑顔を作った。

人を見る目はあるつもりだ。

彼の言葉は幼いだけだ。侮ったり、悪意がある訳では無いだろう。

「そうだね。君たちの隊長を雇っている、さらに偉い人だよ。

わざわざ降りてきてくれてありがとう」

「偉い人なのにお礼を言うんだね」と彼は不思議がった。

彼の青い目は、値踏みするように私を捉えていた。

「あぁ、そうだよ。相手を認めることは、コミュニケーションに必要不可欠だ。

悪い気はしないだろう?」

「うん。そうだね」

「私は君に認めてもらえるかね?」

「他の人よりは話ができると思うよ。

みんな好き勝手に要求ばかりするからウンザリだ」と子供のような喋り方で彼は不満を吐露した。

「みんなミラを欲しがってる。

兄ちゃんが居なくなったからって、俺がひとりじゃ何もできないって思ってるんだ」

どうやら《乱暴者》の正体は《悪党》ではなかったらしい。おつむは少し弱そうだが、馬鹿という程でもないようだ。

「なるほど。じゃぁ、君は自分の権利を守ろうとしたと主張するのだね?」

「難しい話は分からないけど、ミラはもう俺の《家族》なんだ。《家族》を奪うって言うなら、誰だって容赦しないよ」

「ふむ。ならば、君に一つ提案しよう」

彼が欲しがっているものは分かった。ならばそれを最大限利用させてもらおう。

「ミラ、と言ったかね?

その女性に、誰も手を出さないように、私が周りに言って聞かせよう。

私はこれでも偉い人なのでね」

「本当に?」私の提案に、ラッセルはすぐに食い付いた。

「あぁ。私の権限において、ではあるがね。

これでも顔は効く方なのだよ。少なくとも、無駄に君を煩わせることは無いだろう。

どうかね?」

「それなら助かるよ」とラッセルは喜んで私の提案の半分を受け入れた。

「ところで、ラッセル。

私は君に《親切》を示した。君はそれに《信頼》で応える気はあるかね?」

私の問いかけに、彼は眉を寄せて首を傾げた。

「難しい話は分からないよ。俺が何か団長の役に立てばいいの?」

「まぁ、簡単な話、そういう事だね」

やはり馬鹿ではないらしい。

「私も団員を全員把握している訳では無いのでね。正直な話、君のことも噂でしか知らなかったよ。

ただ、今、君に会って確信したんだが、君の《祝福》は強そうだ」

「俺は強いよ」と即答して、彼は背に回していた弓を手に取った。

「試してみる?」

その自信に満ちた若者の目が、私には非常に好ましく映った。

若いとは良い事だ…

私は老いたが、まだ死んではいない。

この無茶苦茶な若駒を、誰もが羨む名馬として育てたいと思った。

《祝福》に魅了された人間として、彼に興味を持っていた。

「ヘンリー。彼の事は私が預る」

「団長」ヘンリーは言葉にはしなかったが、いい顔はしなかった。

概ね、彼の抱いている感情は正しい。しかし、一つだけ考慮すべきことがあるのも事実だ。

「ラッセルは《祝福》を受けた特別な人間だ。それを無駄にするなど、許されることではない。

その才能をさらに高め、至高に至る姿を見せて欲しい」

死ぬ前に、伝説をこの目で確かめてみたい。

子供の頃から刻まれた憧れが、私の中で熱を吹き返した。

己が手で育てた《神紋の英雄》を迎えるチャンスだ。

この青年に老人の夢を託すことにした。

✩.*˚

突然、背筋に悪寒が走った。

何だ?

「とと?」

急に辺りを気にする俺に、エドガーが袖を引いた。

「いや…何でもない」

何も無い、いつもと変わらない自宅だ。

疲れてるから気のせいだろうか?

腕の中でフリーデがモゾモゾと動いて逃げ出そうとした。

「どこ行く気だ?」

この子は静かだが、放っておくと、どこにでも這いずって行ってしまう。

「まー」とフリーデはアニタを探していた。

「アニタは外だ。まだ戻らん」と言って、窓際に寄って外を見せた。

彼女は買い出しに出ていた。

メアリはよく寝ていたし、フリーデの機嫌も良かったから、エドガーも預かって、一人で行かせた。

『ありがとー!』身軽になったアニタは喜んで出て行った。

ずっと家の事ばかりしていたから、一人の時間も欲しかったのだろう。

寝てたはずのメアリが大きな声で泣いた。

「エドガー、ちょっとだけフリーデを見ててくれ」

「あーい!」エドガーは音の出る玩具でフリーデの気を引いた。

エドガーは慣れたもんだ。フリーデを任せて、泣いているメアリを迎えに行った。

揺籃から抱き上げると、メアリはすぐに泣き止んで、自分の指を口に運んだ。

腕にすっぽりと収まった赤ん坊は、どことなくアニタに似ていた。それがたまらなく愛おしく思える。

メアリを抱いて戻ろうとすると、部屋から子供のはしゃぐ声と男の声が聞こえてきた。

何だ?と思って部屋を覗いて唖然とした。

子供たちと遊んでいたのは招かれざる客だ。

「やあ、我が眷属。可愛い子らだ」

尾でフリーデをあやしながら、背中にエドガーを乗せた《炎獅子》はゆったりとした口調で挨拶した。

「なんで、お前が…」

「伝えておきたいことがあってな。《冬の王》は止せと言うが、お主には必要な話であろう」

そう言いながら、《炎獅子》は前足でフリーデを抱き寄せて鼻先を擦り寄せた。

「ふふ。《妖精の子》にも愛された子だ」と言って、《炎獅子》はフリーデを愛でていた。

獅子の大きな赤い舌が赤ん坊を舐めた。

「やめろ!」

「おや?この子を食べるとでも思ったかね?我の《加護》をくれてやっただけだ」

しれっと答えて、炎獅子はエドガーにも同じことをした。

「ライオンさん、くすぐったいよォ!」とエドガーはケラケラ笑っていたが、俺は気が気じゃない。

「ほら、その子にも《加護》をくれてやろう」

《炎獅子》はそう言って、俺の抱いていたメアリも狙った。

「やめろ!どういうつもりか知らんが、子供たちを俺みたいにするのは許さないからな!」

「何を言う?《加護》と申したであろう?

この《炎獅子》が愛でたのだ。この子らは我が名において守られるべき存在となったのだよ」

「…どういう事だ?」

「《火難》《飢餓》《病魔》《貧困》から守られる。お主がこの子らの行く末を心配せずとも、この子らは、我と我が妻たちに守られるのだよ」

その言葉の中には、ささくれのように引っかかるものがあった。

「そんな便利なものがあったとして、なぜ今頃になって、そんな話を持って来た?

何を企んでる?」

「少し厄介な事になってな…」と《炎獅子》は隠しもせずに答えた。

「お主もオークランドにいたのだから《マーウォルス》は知っておろう?」

「《軍神》の事か?」

知ってるも何も、ルフトゥに次いで信奉者の多い神だ。

どの神殿に行っても、弓と剣を手にして猟犬を従えた神の像は必ず飾られている。

ルフトゥキャピタルの凱旋門にも、この軍神は描かれている。

「うむ。その《マーウォルス》だ。

その《マーウォルス》が、オークランドに与えた《祝福》を強化した。

《神紋》とまではいかぬが、厄介な敵であることは変わらない。

このままでは、カナルの《妖精の子》も危うい」

「《妖精の子》?」

聞きなれない言葉に問い返すと、《炎獅子》は頷いて答えた。

「お主も戦ったことがある。

《冬の王》の眷属の友で、《妖精》と《人の子》の事だ」

「…スーのことか?」

「うむ。そういう名だったかな?」と《炎獅子》は答えた。名前などどうでもいいのだろう。

「あの男は何者なんだ?」と訊ねた。

それなりに気になっていたが、ずっと確認できずにいた。

「何故お前たちはあいつを気にかける?《祝福》を与えた訳でもないだろう?」

「それは彼が、我らが待っていた存在だからだ」と、《炎獅子》は当たり前のように答えた。

「時に、世界は見えない《糸》のようなものに導かれている。

我がお主を選んだのは《気まぐれ》であるが、同時に《必然》でもある。現に、お主は《神紋》をあたえられ、特別になった。

それは《冬の王》の眷属も同じことだ…

《春の女神》の《祝福》も、全て《必然》。揃う必要のあるものだった」

「それは、お前たち《神》とやらが求めた結果か?」

「さぁてな…

我も分からんよ。なんせ、我は神に近い存在だが、神と名乗る存在ではない。

人が我々をどう呼ぼうとも、本来、《神》と名乗るべきお方は《母神》のみだ。そして、我らは《母神》の考えには遠く及ばぬ…」

ベラベラとよく喋る《炎獅子》を眺めて、エドガーが不思議そうな顔で口元をベタベタと触った。

「ライオンさんおしゃべり上手だね。なんでおしゃべりできるの?」

「うむ。長く生きてるからな」と《炎獅子》はエドガーに優しく答えた。

「今のお主は幸せそうだ」と、《炎獅子》は意味深な言葉を口にした。

その意味を問う前に、炎獅子はゆっくりと身体を起こした。

「そろそろ戻らねば、怒りっぽいのが来るのでな…お暇するよ。

ところで、どうするかね?

この二人に《加護》を与えて、その子にだけやらないのは我としても心残りだ」

《炎獅子》はそう言って、メアリも舐めさせろと要求した。

「とと、メアリ貸して」とエドガーが危なっかしく、俺の腕を引っ張ってメアリを取り上げた。

「お、おい」

「メアリ、ライオンさんだよ」とエドガーは《炎獅子》にメアリを差し出した。

「おやおや、幸せを詰め込んだような赤ん坊だ」と呟いた獣は赤い舌を出してメアリの頬を舐めた。

それに驚いてメアリが大声で泣いた。

慌ててエドガーからメアリを取り返した。

メアリは泣いていたが、驚いただけのようだ。

泣いてる娘を抱いて《炎獅子》を睨むと、奴はしれっとした態度で「元気な娘だ」と呟いて、またエドガーを舐めた。

「もう帰れ!」

「うむ。とりあえず、言いたいこともやりたいことも済んだのでな…

あとはお主に任せる」

そう言った《炎獅子》の姿が歪んだ。

「幼いお主にこの《加護》をやれなかったのが悔やまれるよ…」

後に尾を引くような言葉を残して、《炎獅子》は姿を消した。

フリーデは弄っていた尻尾が消えたので探していた。

「ライオンさん消えちゃった」とエドガーも残念がっていた。

二人を代わる代わる見たが、大きな変化もなく、怪我などは無さそうだ。

あいつは何をしに来たんだ?

中途半場に気になることを言って帰って行った。

まるで途中で諦めたかのような口ぶりだったが、本当は何か俺に用事があったのではないか?

まるで、スーの事を助けるように、とでも言いたいような口ぶりだった。

俺にどうしろというのだ?

「たっだいまー!」悩んでいる俺の耳に、底抜けに明るい女の声が届いた。

「かか!」エドガーが玄関に走って行った。

「まー!」「あー!」赤ん坊たちも、アニタが帰ってきたのを察して、言葉にならない声を上げた。

「ただいまー!

身軽だからいっぱい買っちゃったよ!」とご機嫌な彼女は大荷物を置いて、中から林檎を取り出した。

林檎を見て、エドガーが手を叩いて喜んでいた。

「みんなで食べよっか?」とアニタは明るく笑って台所に立った。

「ぼく、じーじー呼んでくる!」とエドガーが工房に走って行った。

走り去ったエドガーを見送って、アニタが口を開いた。

「ギル、子供たち見ててくれてありがとうね。何も無かった?」

「…いや、別に」と《炎獅子》の件を隠した。

「そう?いい子にしてたんだ」とアニタは笑って手元に視線を落とした。

いつもの彼女だ…

俺が《カナルに行く》なんて言ったら彼女はなんと言うだろうか?

悲しむだろうか?怒るだろうか?

この幸せを壊したくなかったが、《炎獅子》の訪問が俺の心に引っかかっていた。

✩.*˚

結局、肝心な事を言えずに、帰ってきてしまった…

あの男のこれまでの境遇を知っていれば、大義とはいえ、今の幸せを手放せとはとても言えなかった…

「《ソルレクス様》」

久しく聞かなかった名を呼ばれた。その名で呼ぶ事を許される者は決して多くはない。

「お久しゅうございます」と、たおやかに挨拶して、女の姿を象った樹の精霊は、我に向けて頭を垂れた。

人間が《豊穣の女神》と呼ぶ存在は、少し離れた場所で我に語りかけた。

「やあ、《樹々の母》。我に会いに来るのはいつぶりだったかね?」

「分かりません。

私は《冬の王》に《収穫の完了》を報告して、《原初の森》であるアーケイイックに戻るだけの存在…

妻とは名ばかりです」

「うむ。そうであったな」と頷いた。

彼女はルフトゥから派生した精霊だったが、彼の妻になるのを拒否した。彼女は《母神》に保護を求め、《母神》の眠るアーケイイックでしか根を伸ばせなくなった。

オークランドの土地が痩せているのはそのせいでもある。

我は彼女の夫に選ばれたが、彼女にとって、我は名義上の夫で、ただの虫除けだ。

我々に《冬の王》と《春の女神》のような愛は存在しない。

「何故子供たちに《加護》をお与えになったのですか?」と彼女は我に会いに来た目的を訊ねた。

「うん?不服かね?」

「いいえ」と彼女は首を横に振った。彼女からは、樹々の葉の擦れるような音がした。

「ならば良いでは無いか?」と答えて、精霊界の高く広がる天を仰いだ。

本当は、あのを男の心を少しでも軽くして、カナルに送り出したいと思っていた。

それでも、我には、彼に《行け》とは言えなかったのだ…

我は、あの男の魂が、誰よりも《温か》で《優しい》と知っている。

そうでなければ、ルフトゥの土地で生きる者に、この我が《祝福》を与えることなどあるはずがなかった。

《凍える母を温めたい》などと願う心の優しい子供だ…

ルフトゥの土地が彼を歪めたが、彼は《温かさ》と《優しさ》を捨てきれなかった。

苦しんだろう…辛かったろう…

それでも我は、ルフトゥの土地にそれ以上干渉することはできなかった。

彼がやっと手に入れた、愛する妻と可愛い子供たち、温かな家…

それを手放せとは酷な話だ…

「《ソルレクス様》。貴方はお優しい方ですね」と彼女は呟いた。

「そうかね?」と自嘲するように笑って返した。

《樹々の母》は我に近付いた。彼女の立ち位置は、届かぬ距離から、届く距離に変わった。

彼女は我の前で跪いて頭を垂れた。

「《豊穣》は《太陽》と共にあります。

妹たちにも、子供たちを守るように伝えましょう」と彼女は眷属の子らの《加護》を約束した。

「うむ。よろしく頼む」

「他に私たちに用事はございますか?」

「そうだな…」

我が願いを口にしたら、彼女は驚くだろうか?

「久しぶりに、『皆の顔を見たい』と伝えておくれ」

眷属に影響を受けるのは、《冬の王》だけではないらしい。

《樹々の母》は真面目に、「かしこまりました」と頷いて、立ち去った。

✩.*˚

「今、カナルで何が起きてる?」

ギルは訪ねてくるなり、険しい顔で俺を問い詰めた。

「何だよ?藪から棒に…」

今まで関わりたがらなかっただけに、ギルの質問に違和感を覚えた。

今更気にするなんてどういうつもりだ?

「俺のところに《炎獅子》が来た。

夢じゃなく、わざわざ見える姿で来て、子供たちに《加護》だとか言って、変なまじないをして帰って行った」

「そんなのあいつらの気まぐれだろう?」

神経質な奴だな、と大袈裟な印象を受けたが、ギルは真面目だった。

「『《妖精の子》が危ない』と警告された。

スーのことだと《炎獅子》は言っていたぞ?

あいつが勝てないような相手がカナルにいるのか?」

「…スーが?」パウル様に呼ばれて出て行ったのは知っていた。

そういえばアーサーもまだ戻らない…

カナルはそんなに苦戦してるのか?

そう言われると不安になった。

《炎獅子》の警告が急に現実を帯びた…

やっぱり俺が行った方が良かったか?

ノックの音が響いて、シュミットが書斎に顔を出した。

「お話中失礼致します、旦那様」

「何だ?急ぎか?」と返事をすると、シュミットは「カナルの侯爵閣下からです」と手紙を差し出した。

手紙は悪い報せのように思えた。

手紙を置いて出ていこうとしたシュミットを呼び止めて、そのまま部屋で待たせた。

手紙の内容に驚いた…

「…アーサーが…やられた?」

にわかに信じられない事だ…

「貸せ!」怒鳴ったギルが険しい顔で手紙をひったくった。

「《鷹の目》だと!?」とギルは手紙を読んで声を荒らげた。

ラッセル兄弟の弟の方だ。

《スウィッチ》は捕らえたが、ラッセルの兄は行方不明。対岸には《鷹の目》が残っているという。

その《鷹の目》の矢でアーサーが重傷を負ったという…

「見舞いに行く」と、シュミットに用意を頼んだ。このままじゃパウル様たちも危ない。

ギルはそれを引き止めた。

「待て!手紙の最後に《お前はまだ来るな》とあるじゃないか!」

「そんなの知るか!その話じゃ、スーだけじゃ荷が重いだろうが!」

アーサーの《祝福》を貫通する矢なんて凶悪すぎる。

俺が何もせずにブルームバルトに留まるのは、無責任に思えた。

「旦那様、侯爵閣下のご命令です」とシュミットも俺がカナルに行くのを反対した。

「じゃあ誰に行かせるってんだ?!」

半端な奴が行けば邪魔になるだけだ。

焦りから来る苛立ちを見せる俺に、ギルは「俺が行く」と言った。

「馬鹿言うなよ!お前は…」

「《炎獅子》が来たのは、俺にスーを『助けに行け』と言いたかったからだろう。

お前は俺がカナルに行く理由を考えてくれ」

「馬鹿!アニタやガキどもはどうすんだ!」

「お前が世話してくれ。それなら俺は何も憂いずにカナルに行ける」

今まで散々嫌がっていた男が、自分からカナルに行くと言う…

まるでそれしかないみたいじゃないか?

「…何でだよ…」

お前は家族と静かに暮らしてたかっただけなんだろう?

俺みたいに背負い込んでるわけじゃないだろう?

「スーは、この先もお前に必要だろう?」とギルは格好をつけた。まるでその姿が死にに行くみたいに見えた…

「お前だって、俺には必要な人間だ…」

「そうか」と呟いたギルは珍しく「ありがとう」と言った。

「アニタへの言い訳はお前が考えろ。

俺は嘘は苦手なんでな…」

勝手に難問を押し付けて、ギルは帰って行った。

何でだよ…馬鹿野郎…

どうしようもない怒りが腸を燃やした。

本当に許せないのは頼りにならない自分自身だ。

やり場のない怒りを抱えたまま、その知らせをもたらした紙切れを握り潰した。
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 『船魄』(せんぱく)とは、軍艦を自らの意のままに操る少女達である。船魄によって操られる艦艇、艦載機の能力は人間のそれを圧倒し、彼女達の前に人間は殲滅されるだけの存在なのだ。1944年10月に覚醒した最初の船魄、翔鶴型空母二番艦『瑞鶴』は、日本本土進攻を企てるアメリカ海軍と激闘を繰り広げ、ついに勝利を掴んだ。  しかし戦後、瑞鶴は帝国海軍を脱走し行方をくらませた。1955年、アメリカのキューバ侵攻に端を発する日米の軍事衝突の最中、瑞鶴は再び姿を現わし、帝国海軍と交戦状態に入った。瑞鶴の目的はともかくとして、船魄達を解放する戦いが始まったのである。瑞鶴が解放した重巡『妙高』『高雄』、いつの間にかいる空母『グラーフ・ツェッペリン』は『月虹』を名乗って、国家に属さない軍事力として活動を始める。だが、瑞鶴は大義やら何やらには興味がないので、利用できるものは何でも利用する。カリブ海の覇権を狙う日本・ドイツ・ソ連・アメリカの間をのらりくらりと行き交いながら、月虹は生存の道を探っていく。  登場する艦艇はなんと78隻!(人間のキャラは他に多数)(まだまだ増える)。人類に反旗を翻した軍艦達による、異色の艦船擬人化物語が、ここに始まる。  ――――――――――  ●本作のメインテーマは、あくまで(途中まで)史実の地球を舞台とし、そこに船魄(せんぱく)という異物を投入したらどうなるのか、です。いわゆる艦船擬人化ものですが、特に軍艦や歴史の知識がなくとも楽しめるようにしてあります。もちろん知識があった方が楽しめることは違いないですが。  ●なお軍人がたくさん出て来ますが、船魄同士の関係に踏み込むことはありません。つまり船魄達の人間関係としては百合しかありませんので、ご安心もしくはご承知おきを。もちろんがっつり性描写はないですが、GL要素大いにありです。  ●全ての船魄に挿絵ありですが、AI加筆なので雰囲気程度にお楽しみください。また、船魄紹介だけを別にまとめてありますので、見返したい時はご利用ください(https://www.alphapolis.co.jp/novel/176458335/696934273)。  ●少女たちの愛憎と謀略が絡まり合う、新感覚、リアル志向の艦船擬人化小説を是非お楽しみください。  ●お気に入りや感想などよろしくお願いします。毎日一話投稿します。

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