燕の軌跡

猫絵師

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愚行

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シャキ…

あんなに周りに人がいたのに、誰の声よりも鮮明に聞こえたのは、二つの刃が交わる音だった…

解けた髪の向こう側で、大きな黒いハサミを握った女の手が見えた。

慌てて引っ込めようとしたハサミの刃が、首を引っ掻いて痛みを残した。

でもそれより何より…

相手は目を見開いて俺を睨んでた。

『調子に乗らないで』と俺に言ったあの娘だ…

ゾクッと背筋に冷たい感覚が走った。

切られたのは髪で、俺が振り向かなかったら、首を引っ掻かれることも無かったはずだ。

でも、一歩間違えたら…

俺は殺されててもおかしくなかったかもしれない…

恐怖が押し寄せて悲鳴を上げた。

『ルカ?!』

カイの焦った声が聞こえて、守るように彼の腕が伸びて俺を包んだ。

でも、遅いよ…もう全部終わったあとだ…

あの女も逃げちゃった…

カイは切り裂かれた髪を見て驚いた顔をした。傷を残した首筋に手が伸びた。

『切られたのか?!』

その言葉に、周りから人の波が引いた。

危険を察した通行人が悲鳴を上げた。

楽しかったお祭りが台無しになってしまった。

カイの腕から逃げ出して、気がついたら人気のない橋の下に逃げ込んでいた。

首の傷に手を当てると、血はもう固まっていた。

傷はかすり傷だ。すぐに治ると思う。でも髪は…

恐る恐る触れた髪は、顎の辺りまででバッサリと切られていた。これは誤魔化せそうにない…

カイが整えてくれた髪を解いた。

かろうじて繋がっていた髪が解けて、可愛いリボンと一緒に辺りに散らばった。髪の一部が橋の下を流れる川に乗って消えた…

やっぱり行かなきゃ良かったな…

それならあの娘に恨まれなかったし、ゲルトに無駄な金を使わせなくて済んだし、カイにあんな顔させずに済んだのに…

ぼんやりと流れる水を眺めながら膝を抱えていた。

「お嬢ちゃん迷子かい?」と傍で男の声がした。

ぼんやりしてたから気付かなかった。

輩っぽい風体の男は酒に酔ってる様子で、俺の事をジロジロと見てた。その視線が危険なものだとすぐに分かった。

逃げなきゃ、と思ったけど遅すぎた。

目の前に大きな手が伸びて腕を掴まれた。

「離せよ!」と声を上げたが、泣くのにちょうどいい場所は人気ひとけが無くて、声は誰にも届かない。

「なんだ?可愛いのに随分お転婆だな?」

男は影になってる橋の下に引きずり込もうと腕を引いた。

何をされるか分からないが、良くないことっていうのは分かる。酒臭い荒い息が動物みたいで気持ち悪い…

逃げなきゃいけないのに、恐怖で動けなくなる。

口を塞がれて橋の下に引きずり込まれた。

カイ…

都合よく彼に助けて欲しいと思った。

でも、カイから逃げ出したのは俺だ…

だって、あのまま帰ったら、ゲルトやカミルは怒るだろう?

カイは悪くないのに怒られる…そんなの嫌だ…

だって楽しかったのに…悪いのはカイじゃないのに…

《調子に乗った》馬鹿な小娘が悪いんだ…

「おい…」

橋に反響した怖い声に、男の手が止まった。

「命が惜しかったらその子供をこっちによこせ」

ふざけてる姿しか見てないから、その声が誰のかすぐには分からなかった。

顔を見ようとしたが、逆光で見えなかった…

「なんだ?お前は?」と問い返した男は腰に手を伸ばすとダガーを抜いた。

男は呼び止めた声の相手ではなく、俺に刃を向けた。怖くて強く目を瞑った。

「ルカ、そのまま目を閉じてろ」と告げて声は途切れた。

言われた通り目を瞑っていると、何が固いものがぶつかる音がして悲鳴が聞こえた。

怒声と足音、鈍い音が反響する音が嫌でも耳に届いた。

少しの喧騒の後、辺りは静かになった。

丸くなって震えてると、足音がして、すぐ近くで人の気配がした。

「ルカ」と名前を呼ばれて、顔を上げた。

「怪我ないか?」と心配してくれる男は知ってる相手だ。いつも憎まれ口を叩いてるのに、強がることも出来ずに、彼にしがみついた。

「イザークぅ…」

「怖かったな?もう大丈夫だ」と言って彼は俺の背中をさすった。その手に安心した。

「帰ろう、みんな心配する」

「でも…」と言いかけた言葉を飲み込んだ。

こんな格好で戻ったら、それはそれで問題だ。

「帰るのは嫌か?」とイザークが俺の気持ちを確認した。その言葉に小さく頷いた。

イザークは「そっか」と答えて俺を抱えあげた。

走ったし、泣き疲れてボロボロのクタクタだ…

「じゃあさ、みんなには俺が話しておくよ。

とりあえず、姐さんのところに行くか?」

イザークの提案に頷くと、彼は背中を撫でながら歩き出した。

イザークに抱っこされながら来た道を戻った。

人の声が戻ってきて、街中に戻ったから緊張が解けた。イザークに抱っこされたまま、いつの間にか眠ってしまった。

✩.*˚

寝ちまったよ…

力が抜けて、寝息を立て始めた子供を抱き直した。

可哀想なことが続いたから、帰りたくないのも無理ないよな…

最悪の事態になる前に間に合って良かったが、本人に『良かったな』なんて言えるわけない。

眠ってるルカを盗み見た。

ふっくらとした血色のいい頬は、女の子らしくて愛らしい。

口を開けば品がないし、お世辞にも行儀がいいとは言えない。それでも黙っていれば可愛い女の子だ。

肌触りのいい服は、あの爺さんが買い与えたのだろう。よく似合ってた。

いつまでも置いとけないとは思ってたけど、やっぱりマズイよな…

まだガキだと思ってたけど、いつまでも男所帯に置いておけば、何もなしではいられないだろう。

育ちが育ちだったから、いきなりロンメルの屋敷に雇ってもらうのは難しかった。様子を見るために《燕の団》で預かっていただけだ。

半年ちょっと様子を見てたが、手癖が悪い訳でもないし、よく働く良い子だ。

ゲルトの爺さんが可愛がるのも分かる。

口の悪さは、まぁ、そのうちなんとかなるだろ?

「…しゃーないよな」

自分に言い聞かすようにそう呟いた。

傾きかけた身体をまた持ち直して、ロンメルの屋敷に足を向けた。

屋敷に着くと、出てきたアダムに事情を話して、ルカを預かってもらうように頼んだ。

アダムはすぐに姐さんを呼んでくれた。

「ありがとう、イザーク」と姐さんは礼を言ったが、礼を言うのはこっちの方だ。

拾ったくせに、責任を負いかねて他人に預けた。

「じゃあな、ルカ」

眠ったままのお姫様を、この街で一番安全な場所に置いて行った。

✩.*˚

スーは何故かカナルに呼び出されたから、ついでにルドも連れて祭りを見物してきた。

フィーはルドと一緒にいられてご満悦だった。

欠伸を始めた子供たちを連れて、祭りを途中で抜け出して屋敷に戻った。

屋敷に戻ると、すぐにミアが出迎えた。

「旦那様。お戻りになって早々に申し訳ありません。少しお話があって…」

「なんだ?なんかあったのか?」

留守中に何かあったのだろうか?

子供たちをテレーゼに預けて、ミアの話を聞いた。

話が終わる頃には、せっかくの楽しい気分が台無しになっていた。

「で?ルカは?」

「私の部屋で預かっています。今は疲れて眠ってます」

「分かった。とりあえず、ゲルトのところに行ってくる。もし向こうから来たら待ってもらってくれ。

ルカの面倒はお前に任せる。良いようにしてやってくれ。

あと、テレーゼにもその話をしておいてくれ」

「かしこまりました。ありがとうございます」と言って、ミアは頭を下げた。

全く、嫌なことがあったもんだ…

通り魔に変態だと?全く、とんだ災難だ…

俺の街でそんなことがあったなんて許せるわけが無い。どこのどいつか知らんが、やらかしたことの落とし前はつけてもらわにゃならん。

腹の中に怒りを抱えて、アダムに馬を用意するように伝えた。

アイリスはカナルに行ったアーサーが使っている。代わりに引き出された若い白馬が彼女の代わりだ。

まだ祭りは続いていた。

《燕の団》の拠点に向かう途中、見知った顔に呼び止められた。《燕》の傭兵で、アルノーって奴だ。前にスーが勝手にカナルを越えた時にシバいたから覚えてる。

「ロンメルの旦那。おひとりでどちらへ?」

「お前らのとこだよ。

タチの悪いのが出たって聞いた。ゲルトはどこだ?」

「あぁ、もう耳に入ったんで?」とアルノーも眉を顰めた。

「ゲルトの爺さん、話を聞くなりブチ切れて大変だったんっすよ…

カミルの兄貴まで、団員掻き集めて下手人探してます…多分現場にいるんじゃないっすか?」

「現場ってどこだ?」

「えーと…案内した方がいいっすね」と言って、アルノーは馬の頬革を掴むと馬を誘導した。

俺の姿を見て、周りにいた街の連中はアルノーに道を譲った。

「あ?」人が波のように引いた場所に何かが落ちていた。気づいたアルノーが屈んで、鈍く光るハサミを拾った。

「あっぶねぇなぁ、誰か怪我したら…ん?」

「なんだ?」

急に黙り込んだアルノーは拾ったハサミを俺に差し出した。

手に取って、彼が怪訝そうな声を上げた理由が分かった。

ハサミの合わさる部分の金具に、金色の髪の毛が絡まっていた。

「ルカのか?」

「…多分…金髪なんて珍しくもねぇから《多分》としか…」暗い声は怒りを孕んでいた。

握ったハサミは刃の大きい、よく切れるやつだった。多分裁縫で布なんかを切るやつだ。

こんなんで子供の髪を切ったのか?

一歩間違えば大怪我するかもしれねぇってのに…

「旦那…」と怖い声が俺を呼んだ。

「ルカは良い子なんっすよ…

ガキなのに早くから起きて朝飯作って、洗濯したり、掃除したり…

そりゃ俺たちも手伝いますがね…

普通あのくらいのガキって遊ぶ方が大事じゃないっすか?それなのにあいつ、ずっと《燕》で働いて…健気じゃないっすか?」

「たしかにな…」

「カイの奴だって、ルカが喜ぶと思って連れ出したのに…

こんなことした奴、俺たちは絶対許さねぇっすよ」

アルノーはそう言い切って、また黙って馬を引いた。

《燕の団》の奴らはルカの家族だ。許せないのは当然だろう…

それからアルノーは黙りこんで、ルカの髪が切られた場所に俺を案内した。

そこには鬼みたいな顔で腕を組んだ爺さんと、柄の悪い連中が集まっていた。

「何だ、ワルター…」機嫌の悪いゲルトが俺を見咎めて先に用事を訊ねた。

これはガチで機嫌が悪い…

「来る途中で拾った」とさっきのハサミをゲルトに渡した。

怖い顔をしていたゲルトがハサミを受け取って、凶行の爪痕を見つけて肩を震わせた。

「ルカは俺の屋敷で預かってる」

「…イザークから聞いてる」と答える声は怒りに震えていた。

「ルカを襲おうとした変態は捕まえてある。あとはそのハサミの持ち主を探しゃいいんだな?」

話を聞いていたカミルがゲルトの代わりに口を挟んだ。

「アルノー、他の奴ら連れてハサミの出処確認してこい」

「あいよ」と応えて、ハサミを預かったアルノーに、狼の群れのような一団がゾロゾロと続いた。

男たちの口数が少ないのは、みなそれぞれ怒りを抱えているからだ。

アルノーたちを見送って、ゲルトが口を開いた。

「ルカは…どうしてる?」

「ミアに任せてきた。テレーゼも屋敷にいるから、良いようにしてくれるはずだ」

「…そうか」と呟いて、ゲルトは大きなため息を吐き出した。

「大丈夫か、ゲルト?」

「大丈夫な訳あるか」と答えて、ゲルトは心情を吐露した。

「俺たちは傭兵だ。ルカを預かるのは本当は気が進まなかった…」

「親父さん…」

「でもな…もうルカは俺の娘か孫みたいなもんだ。

やかましく起こしに来ても、多少焦げた飯を出されても、可愛いと思えちまうくらいにな…

ワルター、お前にも分かるだろう?」

「まぁな」

「家族が理不尽に晒されたんだ。怒り狂うだろう?」とゲルトは怒りを正当化した。

「それを言われたらなんも言えねぇよ…」

俺だって死にたくなるほど苦しんだんだ…

ゲルトの怒りは痛いほど分かるつもりだ。

「で?犯人見つけたらどうするつもりだ?」

「ぶっ殺してやりてぇが、俺もそこまで馬鹿じゃねぇよ…ルカは傷ついたかもしれんが無事だ…

ただ、俺の《ガキ》に手を出したらどうなるかは知らせる必要がある」

「あんまりやり過ぎるなよ?」

「そんなもん相手次第だ」と吐き捨てて、ゲルトはまた腕を組んで黙り込んだ。

「悪いな、ロンメルの旦那。親父さん機嫌が悪いんだ」と黙り込んだゲルトの代わりに、カミルが口を開いた。

「とりあえず、うちも面子を潰されて黙ってる訳にはいかないんでな。この件は俺たちに預からせてくれ」

頼んでいるような言い方だが、同時に譲らないと言ってるようにも聞こえた。

「分かった。見つけたら教えてくれ」

「悪いな」カミルはそう言って頭を下げた。

「俺もあの子が可愛くてよ…

こんな強面のおっさんに、『カミル、カミル』って懐いて着いて回るんだ。

馬鹿だよな、俺たち…あの子に情が移っちまった…」

「そんなことねぇよ」と答えて、カミルの肩を叩いた。

ルカは《燕の団》の癒しになってたようだ。

そりゃ、あいつらも必死になって下手人探すよな…

「面倒なことになりそうだったら、俺も力を貸す。頼ってくれ」

「あぁ。助かるよ」

「じゃぁ、俺は帰るから…ルカに何か伝言あるか?」

馬の背に乗りながら二人に訊ねたが、ゲルトは腕を組んで黙り込んでいた。

カミルはそれを見て苦笑いしながら、俺に伝言を預けた。

「『ちゃんと飯食えよ』って伝えてくれ」

あまりにもシンプルな伝言に、彼らの情の深さを感じた。

「伝えるよ」と答えて、馬に合図すると、馬はゆっくりと歩き始めた。

帰り道、雑貨屋の前を通ったら、必死に呼ぶ声に何事かと振り向いた。

「ご、ご領主様!」雑貨屋の女将さんは慌てて俺の前に回り込むと這いつくばって頭を下げた。

「お、おい?なんだってんだ?」

馬が女将さんを蹴飛ばす前に、慌てて馬を降りた。このままじゃ踏まれちまう。

「あ、あの…あの…御無礼は承知しておりますが、どうかお話を聞いてください」

「何だよ?泥棒でも出たか?」

「いえ…それが…さっき、《燕》の方たちが来て…」と女将さんは声を低くした。

あいつら…頭に血が上ってたし、なんかやらかしたのか?

そんな考えが頭を過ったが、女将さんの言いたいことは、傭兵たちへの文句ではなかった。

「それが…あぁ、もう、あたしったら…気が動転して…あの人たちに嘘を…」

「嘘?」

「ちょっとこっちに来てください」と女将さんは有無を言わさずに、俺の手を掴んで店先に連れて行った。

店先に馬を繋いでいると、女将さんは店の中から布に包んだ物を持って出てきた。

「これ…」と出されたものを手に取ると、意外と重かった。この重さに覚えがあった…

布を捲ると、アルノーの拾ったハサミと同じものが出てきた…

「さっき、これと同じのを持ってきた《燕》の人たちに、『知らない』って言ってしまったんです…

どうしよう…あたしったら…本当の事言えなくて…」

「これ…買った奴いるのか?」

俺の質問に、涙目になった女将さんが頷いた。

「夫が…祭りのために、シュミットシュタットから買い付けてきた品なんです…

今日初めて売り出した品です」

「誰に売った?」

「三人ほど…あの…これで何か?」と女将さんは怖々と何があったのかを知りたがった。

「ルカを知ってるか?《燕の団》の…」

「えぇ、何度かお見かけしてますよ。住み込みで働いてる、金髪のおチビちゃんでしょう?」

「あの子の髪が人混みの中で切られたんだ。現場の近くにこのハサミが落ちてた。髪の毛付きでな…」

その話を聞いて、女将さんの顔色が変わった。

彼女は真っ青になって震え始めた。

「あんたを責める気はない。ただ、あいつらもだいぶ気が立ってるんだ。嘘を吐いたのはマズかったな…」

「どうしましょう…あたし…なんて事…」

「俺が何とかするから。売った奴だけ教えてくれ。

あいつらは髪を切った奴が知りたいだけだ。

あんたにどうこうっていうわけじゃねぇよ」

ビビってしまった女将さんをなだめて、ハサミを売った相手を教えてもらった。

女ばっかり三人…女将さんとは顔見知りでこの街の人間だ。

その中に犯人がいないことを望んだが、その可能性も低いだろう…

全く嫌な気分だ…

陰鬱な気分を抱えたまま、元来た道を引き返した。

✩.*˚

ベッド…これ、俺のじゃないや…

暗い部屋の広いベッドで目を覚ました。

イザークに抱っこされたまま眠ってしまったみたいだ。

少し明かりが差し込んでいる窓際に移動すると、カーテンを開けた。外はもう暗くなっている。

大変だ。晩飯作りに帰らなきゃ。みんな待ってる…

そう思いながら部屋を出た。

すごい御屋敷…

ブルームバルトで御屋敷って言ったら、ミア姉が働いてるご領主の御屋敷が真っ先に思い浮かぶ。

そういえば、イザークがミア姉のところに行くって言ってたっけ?

どっちに行ったらいいか分からずに廊下をウロウロしていると、声をかけられた。

「君は?」茶色い髪の同じくらいの年頃の男の子は、俺の姿を見て首を傾げた。

「あ、あの…ミア姉は…」

「あぁ。君がルカだね」と少年は納得したように明るい声で俺の名前を口にした。

上品な印象の少年は俺とは対照的だった。

「僕はケヴィン・シュミット。

ロンメル家の家宰を任されてるハンス・シュミットの長男だよ。よろしくね」

なんかよく分からないけど、偉い人の子供みたい…

ケヴィンと名乗った少年は、俺をミアの所に案内してくれた。

「起きたのね。気分はどう?」とミア姉は俺の心配をしてくれた。

何があったか知ってるんだ…

いたたまれなくて、ギュッとスカートを握った。

「ミア姉…ごめん。俺、帰らなくちゃ」

「ルカ?」

「帰ってご飯作らなきゃ…

明日の用意だってあるし、早く帰って…」

「ルカ、落ち着いて聞いてね」

俺の言葉を遮って、ミア姉は俺の肩に手を添えた。真っ直ぐに見つめるミア姉の顔を見て、言葉を失った。

「『ルカのこと預かって』ってゲルトに頼まれたの。後で荷物も持ってきてくれるって。

今日からここがルカのお家よ」

「え?…何で?」

頭が真っ白になった…

それって…

「…俺…何かした?」

捨てられたような気がした…

遠回しに、《要らない》と…そう言われた気がした…

お祭りに行ったから?揉め事を起こしたから?それとも、カイの手を離したから?

ボロボロと涙が溢れた…

何で?

「やだ…やだ…」

「ルカ、ゲルトは貴女のために…」

「…おじいちゃん…おじいちゃんに捨てられた…」

ミア姉に縋って泣いた。本当にそう思った。

カイは迎えに来てくれないの?

カミルは何も言ってくれなかったの?

イザークの馬鹿!何で俺を置いていったの?!

「どうかしましたか?」と声がして振り返ると、涙で滲んだ視界に、女神様みたいに綺麗な女の人が立っていた。

ミア姉が彼女のことを「奥様」と呼んでいたから、きっとこの人はご領主様の奥さんだ…

泣きじゃくってた俺を見て、奥様は俺に近付くとしゃがんで視線を合わせた。

「ルカですね」と温かさを感じる優しい声が俺を呼んだ。

奥様は困った顔のミア姉に微笑んで見せた。

「ミア。ルカには私からお話しますから、預かってもいいかしら?」

「…お願いします」とミア姉は俺を奥様に預けた。

白い優しい手が俺の肩に添えられた。

「いらっしゃい、ルカ。

急なことで驚いたでしょう?ちゃんとお話ししましょうね?」

「…俺、帰れる?」と訊ねると、奥様は少し寂しそうに微笑んだ。

奥様は《帰れる》とも《帰れない》とも言わなかった。

奥様の微笑みに、胸がキュウッと痛くなった…

✩.*˚

「ソフィア!ソフィア!」

慌てた様子のお母さんが、私を部屋まで呼びに来た。

「何?私、今気分悪くて…」

「あんた!一体何しでかしたの?!」と言われてドキッとした。

「…何が」何でお母さんが…

怖い顔でまくし立てるお母さんは私の話を聞く気は無さそうだ。

「《燕》の親父さんとご領主様が来て、今お父さんと話してるよ!あんたが何かしたって…とにかく来なさい!」

ベッドから引きずり出されて、お店のある1階に連れて行かれた。

お母さんの言った通り、ご領主様と大きなお爺さんの姿があった。

お爺さんは片目だけの鋭い目で私を睨んだ。

「そいつが例の娘か?」

「ソフィア…」青い顔でお父さんが私を見た。

怯えたお父さんの姿に背筋が冷たくなった。

「これに覚えはあるか?」と言って、ご領主様は手にしていた布を捲って見せた。

それを見た瞬間、「あっ!」と声を漏らしてしまった…

逃げる時に捨てた黒いハサミ…

持ってるのが怖くなって捨てたのに…

「知ってるんだな…」とお爺さんが低く呟いた。

お爺さんはご領主様の手からハサミを奪うと、私たちの方に歩み寄った。

大きい熊のような姿のお爺さんは、恐ろしい顔で私とお母さんを睨みつけた。

「見ろ」と出されたハサミには金髪が絡んでいた。

「言い訳があるなら言ってみろ」

後ろめたい気持ちと、お爺さんの視線に震えが止まらなかった。

「ソフィア…本当にあんたがやったの?」

「ソフィア!さっきの話は本当なのか?!」

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血の気が引いて黙り込んだ私に、お爺さんは恐ろしい顔で睨んで、ハサミを見せながら怒声をあびせた。

「ルカがお前さんに何した?えぇ?!

あの子はな!まだ年端もいかねぇガキだ!

それなのに、健気に自分の食い扶持を自分で稼いで、甘ったれたことも言わずに頑張って生きてんだ!

それを何だ?!何でルカが傷つけられにゃならん?!」

ビリビリと響く怒声に足から力が抜けた。

そんなつもりじゃなかったのに…

「ゲルト。もうそのくらいでいいだろ?」とご領主様がお爺さんの肩に手を掛けた。

助かったと思ったけど、ご領主は私の味方じゃなかった。

「ソフィアだったな?

お前はルカへの傷害の容疑で憲兵に引き渡す。

親父さんとお袋さんにはしばらく会えないからお別れしな」

「そんな…」罪人の扱いだ…こんな大事になるなんて思ってなかった…

ご領主様は淡々と話を続けた。

「お前がこのハサミを買ったのは分かってんだ。雑貨屋の女将さんから俺が直接話を聞いた。

他に買った人間はちゃんとハサミを持っていた。もしお前が犯人じゃないなら、買ったハサミを持って来ることだな。

尤も、さっきの反応見れば確認する必要も無さそうだが…」

「あの子だから贔屓にしてるんでしょ?!」と叫んだが、深い青い瞳は冷たかった…

「俺は公平だ。もしお前にも言い分があるなら聞く気でいる。

お前が被害者だって言うんなら、それも考慮してやる。

ただ、はっきり言うが、俺は罪を有耶無耶にするつもりは無い」

ご領主様は私にそう言い切って、お父さんにも厳しい言葉を向けた。

「今回の件は悪質だ。あんたらも覚悟しておいてくれ。

事の場合によっちゃ、お前のところに出てた《かまどの使用許可》の特権も剥奪するつもりだ」

「それはご勘弁を!」とお父さんもお母さんも悲鳴を上げた。

かまどが使えなくなったら、うちはパン屋を続けられない。お父さんは仕事を失う…

何で…何でこんなことに…

頭が重くなって、何も考えられなくなった。

「お前たちの娘は、大切な《収穫祭》を台無しにしたんだ。この件は軽くない」厳しい言葉を残して、ご領主様は店を出て行こうとした。

「待って!待ってください!」

お父さんが叫んで、床に頭を擦り付けて詫びた。

「ご領主様!《燕》の親父さんも!

ウチの娘が本当に申し訳ないことをしました!

でも、どうか…何でもするんで示談にしてもらえんでしょうか?

この通りだ!」

「悪いな。ウチもあんたの店とは取引してたから残念だ…

今月分の既に引き取ってる分に関しては、後で金を届けさせる。それで終いだ」

お爺さんはお父さんの謝罪を突っぱねて、私を睨んだ。

「この親不孝者が…

育ててくれた親父にこんなに頭を下げさせやがって」その言葉が胸に刺さった。

ご領主様とお爺さんが店を出ていくと、入れ違いに憲兵が店に現れた。

憲兵たちは罪状を伝えて、私を家族から引き離した。

「ソフィア…」握ってたお母さんの手が解けた。

両手に罪人として縄がかけられる。

こんなことになると思ってなかった…

自分の愚かさを嘆いたが、気付くにはあまりにも遅すぎた…

✩.*˚

カミルの兄貴に殴られた顎が痛んだ…

『何やってたんだ!てめぇ!』

殴られて当然だろう…

あんなに傍にいたのに、ルカを守ってやれなかった。

ずっと手を繋いでたのに、あんなに怖い思いをさせちまった…

ルカはまだ帰って来ない…

もう、帰ってこないかもしれない。

謝りたくても、どこにいるか分からないから、謝りに行くこともできない…

ドアをノックする音がして、少し遅れて「入るぞ」とカミルの兄貴の声がした。

兄貴はドアを開けると、部屋には入らずに、その場で俺に詫びた。

「さっきは殴って悪かったな…大丈夫か?」

「なんともねぇっす…俺は…」

「そうか」と頷いて、兄貴は黙り込んだ。

嫌な沈黙が流れて、耐えられなくて自分から訊ねた。

「あの…ルカは…」

「ルカならもうここには戻らねぇよ」

カミルの兄貴ははっきりとそう言った。

「ロンメルの屋敷に預けた。親父さんも了解してる。明日から、雑用は当番制に戻すつもりだ」

兄貴は懐から煙草を出して咥えた。少しでも気持ちを落ち着かせようとしているのは間違いなかった。

「お前も気に病んでるだろうがよ、もうルカのことは忘れろ。

元々、いきなりロンメルの屋敷に置けないから、ウチで少し預かるっていう話だった。それが少し早まっただけの事だ…」

「…すんません」と謝ったが、兄貴の顔を見ることは出来なかった。

「ルカの件だが、ロンメルの旦那のおかげで犯人も捕まった。

いつも出入りしてるパン屋の娘が犯人だった」

「ソフィアが?」

驚いた…

いつも女の子の中心にいて、悪い印象なんてなかっただけに、想像つかなかった。

カミルの兄貴は紫煙を吐き捨てると、「女ってのは怖ぇんだよ」と独り言のように呟いた。

「女ってやつは、感情で動く生き物なんだよ。

特に《嫉妬》ってぇのは怖いんだ…

恋敵が自分より劣ってると思うほど、恨めしく思うらしい…」

「恋敵って…ルカは…」

「お前がそう思ってなくても、女ってやつはそう思うのさ…

自分の惚れた相手が、見向きもしねぇ。挙句に妹でもない、他所から来たガキを選んだってな…

それにソフィアって娘は美人だったろ?

余所者の小娘に負けたとなりゃ、女としてのプライドはズタボロだ」

俺のせいか?

俯いた俺に、兄貴は「お前のせいじゃねぇよ」と言ったが、そう思うには無理があった…

俺が良かれとしたことが、悪い結果を作ったんだ…

「もう寝て忘れろ」と言い残して、カミルの兄貴の気配が消えた。

バタン、と扉の閉まる音が狭い部屋に響いて、一人部屋に残された。

『カイ、ありがとう』

昼間見たルカの笑顔は幻だったように思えた…

髪結の道具を入れた箱が目に入った。

手に取って開けると、中には詰め込んだ髪飾りやリボンが並んでいた。

目に付いた可愛いと思える品を買い集めて、こんなに増えてた…

誰かに喜んで欲しくて…必要とされたくて、集めたもんだ…

箱を手にして部屋を出た。

ルカの仕事場だった台所に行くと、かまどにはまだ僅かに火が残ってた…

もうここに来てもあいつはいないのか…

寂しさを覚えて躊躇いは消えた。

燻っているかまどの残り火に、手にした箱を放り込んだ。

もう、女の髪は結わないと決めた…
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 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ナースコール

wawabubu
青春
腹膜炎で緊急手術になったおれ。若い看護師さんに剃毛されるが…

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