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不変
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「こちらなど如何でしょう?」
デザイナーの持ち込んだ絹は、黄色い乳白色を含んだ特別な色合いだった。角度によっては水色に見え、また別の角度では紫にも見える。
「良いわね。《華国》の《遊色絹》かしら?見るのは初めてだわ」
「ご明察です、リューデル公女!
この布を扱える日が来るなんて思ってもいませんでしたわ!」
デザイナー兼服職人のボーレンダー夫人は、まだハサミを入れたことの無い美しい生地を抱き締めて身悶えた。
「必ずや!公女様のお気に召す、最高の花嫁衣裳をお作りします!」
「期待してるわ」
彼女はちょっと変わった女性だけど、普通の人より服に対する情熱が強いのよね。
「花婿の衣装はどうするの?」と訊ねると、彼女はまた鼻息を荒くして答えた。
「既にデザインは出来上がっております!
スケッチをお見せしますね!新作で現在7種ご用意しております!公女様は15種用意しておりますよ!」
そう言って彼女はデザインのスケッチを机の上に広げた。どれも手の込んだデザインで捨てがたい…
「すごいわね…」
「お気に召していただければ幸いです!
でもこう居ている間にもまた新作が…
あぁ!消えちゃう前に描いても良いですか?!」
「どうぞ」と笑って、飲みかけの紅茶を避難させた。
「クーン」
ずっと足元で大人しく待ち続けている銀色の毛並みの愛犬は、つまらなさそうに伏せて鼻を鳴らした。
彼は若いので遊びたいみたいね…
「ルーク。いい子にしてたら、後でボール遊びしましょうね」
「ワン!」と元気な返事が返ってくる。お父様は拾った言っていたけれど、この子はなかなか賢い。
これなら、結婚式にも参加させてもいいかもしれない。指輪を持ってこさせるとかすれば、いい演出になるわ。
プランを考えながら、紅茶を口に運んだ。
衣装の話に夢中で、紅茶はすっかり冷めてしまっていた。
ゲリンはどれが似合うかしら?
彼は背が高いし、すらっとしてるから何を着せても似合うのよね…
お父様のような貫禄はないけど、衣装映えするから悩むわ…
手に取ってデザインを眺めていると、部屋にノックの音が響いた。
応じると、アインホーン城の侍女が、盆に乗った手紙を届けた。彼女は手紙を届けると、すぐに自分の仕事に戻った。
「あら?カナルのお父様からね…」
手紙の封を切って中を確認した。
手紙を読み進めて血の気が引いた…
「…ごめんなさい、ボーレンダー夫人。
急用ができたから、ドレスの話はまた今度にして頂ける?」
「え?あ、はい」
私の声色の変化に、彼女は慌てて広げたデザインを拾い集めた。
荷物を纏めて、出ていくボーレンダー夫人を見送って、急いで侍女と護衛の騎士を呼んだ。
「今すぐカナルに行くわ!馬車を用意して!」
「お嬢様、如何なさいましたか?」
「だって…エアフルト伯父様が…」それより先が言葉にならなかった…
侍女のハンナにカナルから届いた手紙を見せた。
「…分かりました。ガブリエラ様に許可を頂戴してまいります。この手紙は少しの間お預かりします。
ライマン卿、お嬢様をお願いします」
彼女はすぐにガブリエラ様から許可を取り付けて戻ってきた。
「ガブリエラ様の用意する護衛を連れて行く事を条件にお許し頂きました。
お嬢様の荷物も用意致しますので、明日の朝までお待ちください」
「分かったわ…」
急いで駆けつけたとして、私には何も出来ない。
お父様の手紙は、伯父様の遺体を引き取って家族に引き渡すこと…そして葬儀を済ませることだ…
涙が滲んだ。
私はまた一人家族を亡くした…
伯父様はお母様やお姉様が亡くなってから、悲しみを共有した最も近い家族だった…
お父様と仲違いしている間も、伯父様が間を取り持ってくれた。
ゲリンの事も親身になって支えてくれた。彼も伯父様を慕っていたのに…
「大丈夫です。幸いな事に旦那様は無事ですし、若様も命に別状ないとの事です。
エアフルト卿は…残念ですが…」
「…うん」慰めるハンナに頷いた。
伯父様はお父様とゲリンを守るために亡くなったという…
ならば私は伯父様に感謝しなければならない。
「若様が心配ですね」とハンナは私の気がかりを代弁した。
「大丈夫ですよ。若様はお強いですから」
彼女の言葉に頷いて、そう信じるしか無かった…
✩.*˚
鉄を叩いていると来客があった。
「ギ、ギル…大変!」血相を変えたアニタが赤ん坊を抱いて工房に駆け込んだ。
何事かと思っていると、アニタに少し遅れて鎧の擦れる音が小さな工房を取り囲んだ。
「すまんな、邪魔をする」と断って現れたのはヴェルフェル侯爵本人だった。
「大仰な訪問になったのは詫びる。君に話があって来たのだ。
仕事中で悪いが、少し時間を貰いたい」
丁寧な口調でそう言って、侯爵は俺に着いてくるように促した。
「…俺は何もしてないぞ」
「分かっている。この人数での訪問で警戒されるのは仕方ない。
だが、君を捕縛するために来た訳では無いから安心したまえ。彼らは私の護衛だ。
今回はお忍びでは無いのでな…」
話し方は丁寧だが、どこかで怒りを隠しているような口調だ。
何か良くないことに巻き込まれようとしてるのは間違いなさそうだ…
「…ギル」
アニタが心配そうな視線で俺の腕を引いた。行くなと言いたいのだろう…
「家族には何も無いか?」
俺の問いかけに、侯爵は頷いた。
「君たち家族の安全は私のヴェルフェルの名にかけて保証する。
私が必要としているものに、君が応じてくれるなら、私は君の味方でいよう」
嘘を言っているようには見えなかった。ただ、侯爵は、俺が応じなければどうなるかは言わなかった。
「用向きならここで聞く。
アニタ、母屋で少し待っててくれ」アニタの手を解いて、彼女に母屋に戻るように言った。
彼女は不安そうな視線で俺の顔を覗き込んだ。
「でも…」
「いいから…子供たちを頼む。待っててくれ」
侯爵がわざわざここに足を運んだんだ。良い話でもなければ、彼女らに聞かせられる話でもないだろう…
彼女は渋々母屋に戻って行った。
彼女が出ていったのを確認して、侯爵は重い口を開いた。
「すまんな。私も余裕が無いのだ…」
「家族が不安がる。こんな言い方したくないが、迷惑だ。
今後は用事はロンメルを通してくれ」と苦言を呈した。
「できることならそうしたいがな…」と侯爵はため息を吐いて苦く笑った。
「カナルで駐留軍が急襲を受けた。
目撃証言から《金百舌鳥の団》が関わっている可能性が高い。君の古巣だろう?」
「聞きたくない話だ…」
「私も余程のことがない限り、君を煩わせる気は無かったのだが、風向きが変わった。
神出鬼没の敵に、我が軍の幹部が多数襲われている」
侯爵の話によると、昼夜問わず、暗殺紛いな襲撃に悩まされているらしい。
「我が軍も度重なる襲撃で疲弊している。
本営を下げて警戒を強めているが、相手の侵入経路が分からず、哨戒を続ける以外に手がない」
そりゃ、いつ襲ってくるか分からない敵を相手にするのは面倒だ…
話を聞いていて、あの男を思い出した…
「対岸は《金百舌鳥》の《ラッセル兄弟》がいるとロンメルから聞いた」
「あぁ、報告にもそんな話があった。
襲撃で現れた男は《ニコラス・ラッセル》と大きく刺繍された上着を着てたらしい」
「河を越えてくるのはそいつの能力じゃない」
「…どういうことだ?」
「《金百舌鳥》には他にも《祝福》を持ってる奴がいる。
ほとんどがつまらん能力だが、隊長になる奴らはそれを使いこなしてる。下手をすれば、俺の《烈火》なんかよりずっと厄介な奴だ。
襲撃前に、対岸から何か届いたものはないか?」
「分からん。具体的には?」
「俺も詳しく知ってる訳じゃないが…
隊長の一人に《掏り替え》と呼ばれてる男がいる」
「何だそれは?」
「本当の名前は知らんが、団長はあいつを《スウィッチ》と呼んでた。
俺はあいつが気持ち悪いから付き合いはない」
「君ははっきり言うな」
「あまり気持ちの良い奴じゃなかった。
殺しが好きで、傭兵になった奴だ。
俺にも殺した数やら、どうやって殺したかなんて訊いてきた。胸糞悪いだろ?」
「まぁ…確かに…」
俺の話を聞いて侯爵の顔にも嫌な感情が張り付いていた。
「俺が知ってるのは、あいつが《掏り替え》という《祝福》を持ってるってことだけだ。
やり方も対象についても知らない。
分かってるのは、あいつが何らかの方法で、自分の居場所と対象物を《入れ換える》能力があるって事だ。簡易的な《転移魔法》と思っていいだろう。
ただ、《祝福》は便利なだけじゃない。ほぼ例外なく何かしらの《制限》が着いて回る。俺やロンメルのようにな…」
「ふむ…その《祝福》にも《弱点》があるというのか?」
「知らん。だが、その可能性は高い。相性ってものもある」
「なるほどな…参考になった。ついでに、教えて欲しいのだが…」
「何だ?」
「君とその《スウィッチ》という男が戦ったらどっちが勝つ?」
つまらない質問だ。だが、侯爵は大真面目に訊いているのだろう。
「今なら確実に俺が勝つが、あいつは逃げ足も早い。仕留めきれるかは分からんな」
「ふむ…君は奥ゆかしい男だな。やはり信用出来る」
侯爵は来た時より表情を柔らかくしていた。
「《祝福》なら《カーティス》に相談した方が良いかもしれんな。君の意見は役に立った。ありがとう」
侯爵はそう言って、懐から小さな袋を取り出して作業場の机に置いた。
「急に騒がしくして仕事の邪魔をした。すまなかった。これは礼と詫びだ、取っておいてくれ」
「何もいらん。俺が欲しいのは平穏な生活だ」
「そう言うな。欲のない男め…
何か思いついたらロンメル男爵に伝えてくれ。君の意見は大切だ」
侯爵は俺の無礼を笑って許すと、そのまま護衛の騎士たちを連れて帰って行った。
母屋に戻るとアニタが不安がっていた。
「ギル、大丈夫だった?」握った手は冷たくて震えていた。心配させたようだ?
「何も無い。話をしただけだ」
「でも…あの人って…」
「俺がオークランドにいた頃の話を知りたがっただけだ。今は戦争してるからな…」
そう言って、彼女にさっき侯爵が置いて行った袋を渡した。
アニタが逆さにして中身を確認すると、小金貨が数枚出て、彼女の手のひらに転がった。
「ひえっ!」あまり見ることの無い金貨に驚いてアニタが悲鳴を上げた。
情報料と口止め料といったところか?随分羽振りが良いのだな…
「ね、ねぇ…ギル…あんたって本当は何者なの?」
冷静に金を眺めていた俺に、アニタが震える声で問い質した。
何も隠してるつもりはなかった。
俺自身は特別なつもりは無い。ただ悪いことに、周りが俺を放っておいてくれないだけだ…
彼女の怯えたような視線に傷付いた。
「ずっと…ずっと気になってたけど…
こんなこと言ったら、あんたが出てくんじゃないかって…不安だったけど…
本当はあんた何なの?」
「俺は…ただ、オークランドで傭兵をしてただけだ」
「それだけじゃないでしょ?!」堰を切ったようにアニタが叫んだ。
同じ部屋で遊んでいた子供たちが、驚いて身体を震わせた。取り乱したアニタは子供たちの様子は目に入ってないようだ。
彼女は俺に詰め寄って厳しい言葉を続けた。
「そんなに力があって、貴族から頼られて!それで普通の人間だって言うのが無理があるわよ!
本当はまだ何か隠してるんじゃないの?!
あんたのこと信じてたいけど、そんなの難しいよ!」
「アニタ…」何で彼女がこんなに取り乱してるのか分からなかった。
怒ってた彼女は、今度は子供みたいに泣き出した。
「あたしなんて…美人でもないし、金持ちでもないし、胃袋だって掴んでないしさ…
あんたを引き止められるもんなんて…何もないんだよ…」
「アニタ?」
「出てくとか…言わないよね?
あたしら置いて…消えたりしないよね?」
俺が召し上げられるとでも思ったのだろうか?
あの金を見て不安になったのだろうか…
ポンと大金を置いていくような人間に俺が惹かれると思ったのか?
金なんて…俺にはなんの魅力もないのに…
「アニタ」彼女の名前を呼びながら涙を拭う手を握った。べそをかいた彼女の赤い目を見てちゃんと答えた。
「出て行くなんて言わない。俺はお前が好きだ。
美人とか、飯が美味いとか、そんなのどうでもいい。金だって、贅沢せずに、俺が働けばいい話だ」
そんなのが欲しくて彼女と一緒になったんじゃない。俺が欲しかったのはそんなもんじゃない…
「俺がずっと欲しかったのは《家族のいる家》だった。帰れる家と待ってる家族が欲しかった…
俺の欲しかったものは、全部ここにあるんだ…」
「そんなの…普通じゃん…」
「普通がいいんだ。俺は普通じゃなかったから…
俺を普通にしてくれたお前に感謝してるし、ずっと一緒にいたいと思ってる。それじゃダメか?」
「…本当に?出てったりしない?」
「お前こそ、俺を追い出したりしないよな?」
「しないよ。好きだもん」泣きべそをかいた女は俺の手を握り返した。
その手には夫婦だと主張する指輪が光っていた。
俺の一番欲しかったものは、この家に全部揃っている。今更これを失ってまで、欲しいものなんて何も無かった…
✩.*˚
「ほう?随分進んだのだな?」
用事のついでに、学校の視察に訪れたパウル様は、建設途中の学校を眺めた。
相変わらず予告無しでやってくるので、俺は薄汚れた姿で義理の父を出迎える羽目になった。
春から取り掛かった工事は、アダムのお陰で驚異的な速さで進んでいた。
まず、地面をならす必要がなかった。整地作業もほとんど彼の《祝福》で終わった。
「基礎はほとんどアダムがやりましたよ。
『三日でやる』って言って、本当に三日で終わらせたヤバいやつですよ…」
「全くもって惜しい男だな…」とパウル様は整地された敷地を眺めて苦笑いした。
あのカナルに一人で橋をかけたのも納得だ。
「で?男爵が土木作業か?変わらんな?」
パウル様は、汗と泥で汚れた俺の姿を見て、苦笑いを浮かべた。
俺は屋敷で机に齧り付いてるより、《燕》の連中に混ざって、動き回ってる方が性に合っている。
「いいでしょ、別に…することはやってますよ」
「褒めておるのだ。少しは元気になったようで安心した」
そう言って、パウル様は校舎になるはずの建設途中の建物を見上げた。
「ここに来る前にテレーゼにも会ってきた。あの子も強いな。さすが、ユーデットの娘だ」
「テレーゼは俺なんかよりずっとタフですよ」
「そうだな。女とは強いものだ」と答えて、パウル様は爽やかに笑った。
「過去に同じ悩みを持った人間として、卿に一つ忠告しよう。
焦れば失敗するぞ。次を望むなら、気持ちを整えて臨むことだ」
「テレーゼですか?」
「いや。私の勝手な憶測だ。卿は少年のように繊細な男だからな…
私もガブリエラとの子が流れてしまった時に、焦って男としての役目を果たせなくなったことがある。
だからだろうな…彼女があんなに必死になって妾を勧めたのは…」
あまり思い出したくない事だろうな…
不名誉な過去を晒して、パウル様は懐から何かを出すと俺に差し出した。
「取っておけ。そのうち役に立つ」
「げっ!」
見覚えのある、オレンジ色の液体の入った瓶…
「何だ?知ってるのか?」とパウル様は意外そうな顔をした。
「以前スーから同じもんを貰いましたよ…」
「なるほどな…で?使ったのか?」
「んなわけないでしょう!」
「ははっ!卿らしい…
でも、きっかけなんてそんなものでいいだろう?
男なんて単純な生き物だ。自信さえ取り戻せば案外あとはいけるもんさ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんさ」と笑って、侯爵は踵を返した。
帰るのだろう。
そう思ってパウル様を見送ろうと後に続いた。
「アインホーン城に戻られるのですか?」
「いや、今からカナルに向かう。向こうで色々あったと報告があったのでな…
弟たちが随分コケにされたらしい…」
「そんな情報は…」聞いてない。
「すまんな、私が伏せさせた。テレーゼにも心配をかけたくないとの事だったからな…」
「誰が…」
「君たちの息子だ。いや、もうリューデル公子だったな…」
「ゲリンに何か?」
「テレーゼには伏せてくれ。
戦闘に巻き込まれて怪我をしたそうだ。
公子は命に別状ないが、カナルでエアフルト卿が討死した」
「エアフルト卿が?」
リューデル伯爵を補佐する物静かな騎士を思い出した。
伯爵とは真逆のタイプだったが、エアフルト卿は振り回されてるように見えて、しっかりと伯爵の手綱を握っていた。
学校の費用の援助も、忙しい伯爵に代わって進めてくれた。
テレーゼはきっと彼の死を悼むだろう…
「我々にもプライドがある。
旗の件といい、随分と勝手をしてくれる者が居るようだ。
戦争にも暗黙のルールというものがあるのだ。あまり羽目を外してもらっては困る。
ここらでひとつ灸を据えてやらねばな」
「俺もカナルに…」伴を申し出ようとしたが、パウル様はそれを断った。
「卿はまだ解決してない問題があるだろう?
まずは自分の事を片付けたまえ」
「なら、アーサーを連れて行ってください。それなら安心です」
「アーサーはロンメル家に必要だろう?」
「閣下に何かあればそれどころではありません。
自分やテレーゼに心労をかける気ですか?」
「なるほど、そういう考え方もあるな」とパウル様は他人事のように俺の詭弁を笑った。
「分かった、分かった。そう言われては断るのも良くないな。アーサーの同行だけ許そう。
なんせ、娘夫婦に心労をかけて、楽しみにしてる孫に会えないと良くないのでな」
「嫌味ですか?」
「いや、真剣な話だ。私だってそれなりに期待してるのだよ」
冗談か本気か分からない返事をして、パウル様は遠い秋空を見上げた。
「父は…」とパウル様は先代の侯爵の話を始めた。
「死に際まで完璧な《父》で《侯爵》だった。
滅亡するウィンザーの民を憂い、税の免除と寛大な処置を求めた。
難しい問題を残す事を気に病んでいた。我々にも『苦労をかける』と言葉を残して下さった」
「立派ですね」
「そうだろう?自慢の父だ」
父親を褒められて、パウル様は誇らしげに笑った。父親を自慢する少年のように純粋な姿が、親子の絆を物語っていた。
「私は尊敬する父上から全てを託された。
私には重すぎる荷だと、最初は不安しか無かったがな…
だがな、時間が経つにつれて考えも変わった。
父は憂いを残す事を私に詫びたが、私は父の憂えを引き継いだことを誇りに思っている。
孫子の代に続く安寧を作る大役を与えられた。
父にも成せなかった役目を果たせるのなら、私はあの偉大な父を越えられる。
そのためなら私は死ぬまで走り続ける」
「死んでもらっちゃ困りますよ…
アレクシス公子だってまだお若いんですから…」
「あの子なら大丈夫だ。良い侯爵になるさ」
パウル様は父親の次に息子を自慢した。
「あの子は私の魂を受け継ぐ子だ。
正義感も責任感もある。友にも恵まれた。そうだろう?」
パウル様の指す《友》が誰かは言うまでもなかった。でもあいつはどっちかって言うと《悪友》だろう…
「まぁ、自分はお勧めしませんがね」
「そうか?スーはあの子にとって良い友になるはずだ。
誰よりも長く、あの子を支えてくれる…そうだろう?」
「本人は『ずるい』って言いそうですがね」と肩を竦めた。
パウル様は「そうだな」と頷きながら笑っていた。
「あれ?パウル様?」
無遠慮な若い声が侯爵を呼び止めた。
遠慮を知らん男は知人にでも挨拶するような気軽さで、パウル様に声をかけた。
こいつ…後で説教だ…
「おや?噂をすればなんとやらだ。久しぶりだな」
パウル様はスーの無礼を咎めずに、むしろ馴れ馴れしい若者を嬉しそうに眺めた。
「君は本当に変わらないな」
そう言いながら目を細めるパウル様は、いつもの若々しい印象ではなく、年相応に老けて見えた。
✩.*˚
「お待たせしてしまい申し訳ありません。
ロンメル男爵より命を受け馳せ参じました」
先に出発していたヴェルフェル侯爵の一行にはすぐに追い付いた。
最後尾の騎士は、俺の身なりを確認してバルテル卿に伝えた。
「よく来てくださいました、フォーテスキュー卿」
前列にいたはずのバルテル卿がわざわざ来て、俺を侯爵の元に案内した。
「来たか、アーサー」わざわざ足を止めて迎えてくれた侯爵に、馬を降りて挨拶した。
「はっ!ロンメル男爵の名代として、閣下の護衛として馳せ参じました」
「うむ。よろしく頼む」と鷹揚に頷いて、侯爵は俺を隊列に加えた。
「フォーテスキュー卿。卿はそのまま前列にて侯爵閣下の護衛に着きたまえ」
バルテル卿から重要な役目を任されて、侯爵の傍に留まることを許された。
「此度は来てくれて礼を言う」と侯爵が馬の背に揺られながら俺に話しかけた。
「カナルが荒れているらしくてな…
卿がいるなら心強い」
「恐れ入ります」
「うむ。バルテル卿、フォーテスキュー卿を親衛隊に紹介して、彼にカナルの様子を少し説明しておいてくれ」
「畏まりました、閣下」
ほぼ無名に等しい俺が、侯爵の護衛に着くのを良く思わない者もいるだろう。彼らとの不和が今後に響けば面倒だ。
「フォーテスキュー卿?聞いたこともありません」訝しむ親衛隊にバルテル卿が説明した。
「知らずとも無理はない。
先日叙勲が決定したばかりで、正式な叙勲式はまだだ。
フォーテスキュー家は元ウィンザーの騎士だが、ロンメル男爵家に預けられていた。彼の仕事ぶりが評価されて騎士として復命されることを許された」
「なるほど」と頷く親衛隊の視線は厳しいものだった。
まぁ、無理もない…
どこに行っても、コネで特別扱いされる人間は良く思われないものだ…
それでも、ロンメルの名前が出た以上、面と向かって文句を言う者は無かった。
「フォーテスキュー卿。卿はカナルについて何か聞き及んでいるか?」
バルテル卿の問いかけに、「特段動きがあったとは聞いておりません」と正直に答えた。
「そうか…
実は少々厄介な問題が持ち上がっているのだ」
バルテル卿は苦い表情でカナルからの報告を掻い摘んで話た。
神出鬼没の敵か…
目撃情報から同じ二人である可能性が高いそうだが、数分暴れては、現れた時と同じように姿を消すのだという。
「度重なる襲撃で駐留軍には動揺が広がっている。リューデル伯爵閣下やアレイスター子爵閣下も該当の敵と交戦になり、幹部にも死傷者が出ている」
「そのような状況で侯爵閣下がカナルに訪問するなど…」
「閣下は《こんな時だからこそ》とお考えです」
バルテル卿は疲れたようなため息を吐いて言葉を続けた。
「私も侯爵夫人もお諌め致しましたが、閣下は南部の武人の心をお持ちです。
疲弊した前線の兵士らを励ますために、自らカナルに向かうと決定致しました」
「それは責任者として、あまりに無責任な行動ではありませんか?」
「確かに」と苦笑してバルテル卿は侯爵にチラリと視線を向けた。
彼は俺に秘密の話をするように、距離を縮めるように指先で合図した。
馬を寄せた俺に、バルテル卿は珍しく愚痴を漏らした。
「あの方は存外馬鹿なのですよ。破天荒に振り回されるのは昔から変わりません」
「…はぁ?」何でそんなことを俺に?
真面目な印象が強かっただけに、彼の主人への酷評に耳を疑った。
俺の動揺に気付かない振りをして、バルテル卿は言葉を続けた。
「まぁ、昔に比べてだいぶ丸くなりましたし、人の話も聞くようになりました。
それでも、人間というのは本質的なものは変わらないのですよ…
上手く取り繕ってますが、閣下の本質は今でも《少年》なのです」
「それはご苦労が耐えないでしょう」と返すと、バルテル卿は含むように小さく笑った。
「卿ならご理解頂けると思ってました。
なんせもう一人の《少年》のような大人をよく知っておいでだ」
バルテル卿は誰とは言わなかったが、誰のことかはすぐに分かる。
「まぁ、変わらないのが煩わしいと思うこともありましたが、歳をとるとそれも良いもののように思えるから不思議なものです」
だから我儘を聞いてしまうのだろうな…
彼らの愚行に妙に納得してしまった。
置いてきたもう一人の《少年のようなおっさん》はどうしているだろうか?
振り返る代わりに空を仰いだ。
遠い秋の空が青く広がり、平等に見下ろしていた。
✩.*˚
「…今なんて?」
キョトンとした顔のテレーゼが俺にもう一回同じ事を言うように促した。
「だ…だから…その…今日はダメかって訊いたんだけど…」
二回も同じ事を言う羽目になって、語尾が小さくなっていく。
ベッドの上で二人で変な沈黙を過ごした。
気まずい…ものすごく気まずい…
スーは『普通に《したい》って言えばいいじゃん』と他人事のように言ったが、間が開き過ぎてて、自然な流れで手を出すのは無理だった。
いや、夫婦だし!別にいいかもしれないけどさ!
呆然としたまま、テレーゼは何も言わなくなってしまった。
その姿に断られたような気がした。
そりゃそうだよな…
早すぎたよな…あんなことがあったのに、勝手な奴だと思ってるよな…
「悪い、急過ぎたよな…
お前が嫌なら、また今度にするから…その…無理して…」
「します!抱いて欲しいです!」
俺の言葉を遮って、テレーゼは大声で答えた。
えぇ?何がどうなってそんな食い気味なの?!
自分の声に驚いたテレーゼは、我に返って顔を真っ赤に染めた。
「…テレーゼ?」
彼女は表情をコロコロと変えながら恥ずかしそうに両手で赤くなった頬を抑えた。
「も…申し訳ありません…私ったら…はしたない…」
目を潤ませて恥じる彼女は相変わらず可愛かった。
「久しぶりにお求めいただけて嬉しかったので…
一緒に寝ても触れても下さらないし…私からは申し上げれませんので、どうしようかと…」
「あ…なんか、すまん…」
自分から寝床を戻そうと言ったのに、気後れして抱けずにいた。彼女はそれを気に病んでいたようだ。
「でも、お宜しいのですか?無理されてるのでは?」
「お前だって、ずっと無理してるだろ?」
あれからテレーゼは流れた子供を忘れようとしてるように見えた。
忙しく過ごすことで気を紛らわそうと、学校の予定や準備で忙しく過ごしていた。
彼女は簡素な葬儀を最後に、フェリックスの墓には行ってないようだった。
きっと彼女の方が、俺なんかよりずっと子供の死に責任を感じている。
前に進めないのはお互い様だ…
「テレーゼ」
彼女を呼んで、腕を広げて見せた。
彼女はそれを見て、何も言わずに俺の腕の中に納まった。
ベッドで触れ合うのは久しぶりだ…
テレーゼは少し緊張しているように見えた。
彼女を抱き締めたままベッドに転がると、彼女が上になった。
長い金髪が、木漏れ日の光のように俺の顔に落ちて触れた。彼女の顔に手を添えると、彼女はそのまま顔を寄せて接吻た。
確かめるような接吻に物足りなさを感じた。
俺はもっとお前が欲しいんだ…
下半身が疼いたが、これではまだ足りない。
今までだったら、すぐに反応してたのに…
そう思うと余計に焦った。
やっぱり勃ちませんでした、なんて笑えねぇぞ!
やっぱりあれ飲むか?
寝室に隠したあの怪しげな小瓶に一瞬だけ視線が向いた。
「ワルター様?」俺の不審な動きを見咎めて、彼女は視線の先を気にした。
「あ、いや、何でもない」
「嘘ばっかり」よそ見をされた彼女は膨れて俺の上から身体を起こした。
「お父様と何かありましたか?」と訊ねられてギョッとした。
「な、何かって…」
「女の勘です」と彼女は膨れたまま答えた。
「昼前にカナルに向かうの途中でお立ち寄り頂いて、昼食をご一緒しました。
お父様はワルター様のところに立ち寄ると仰ってましたし、急に気持ちが変わったのも何かアドバイス頂けたからと思ったのですが…」
「ま、まぁ…そんな感じ…」
「やっぱり…お父様に言われたからですね…」
テレーゼが悲しそうに俯いて、重なっていた身体が離れた。
彼女の心まで離れてしまったような気がした…
「ちょっ!ちょっと待ってくれ!
謝るから!ちゃんとするからもう一回…」
「無理してるじゃないですか…
お父様に言われたからだなんて…酷いです…」
「パウル様に言われたからとかじゃなくて、本当にしたいと思ってる!
ただ…」
出かけた言葉が羞恥心に邪魔されて喉に詰まった。彼女は言い訳すらまともにできない俺に背を向けた。
「ただ、何です?」彼女の背は俺の言い訳を待っていた。
言わなきゃ彼女は納得してくれないだろう。
だけどこれを話せば、今度は男として幻滅される…
子供の命まで諦めて助けたのに、俺が不能になったと知ったら…
「馬鹿な人…」と呟く声が刺さった。
ほんと、それな…
そんなの痛いくらいよく知ってる…
「…悪い…焦ったんだ…」返す言葉もなくて、彼女に詫びた。
「本当に馬鹿な人…」
ベッドの軋む音がして、背を向けていたはずの彼女の腕が伸びて頬に触れた。
暖かい白い手が頬を包んで顔を上げさせた。
「全く…都合が悪くなるといつもお顔が逃げますね」
子供でも相手にしてるような彼女の声は、呆れていたが優しかった。
「私が治せなかったのでしょうか?まだどこか悪いのですか?」
「ちが…違う…俺が…」言葉が喉に詰まって感情がおかしくなった。なんだこれ?
「ちゃんと聞きますから、理由くらい話してください。もう貴方を一人で悩ませたりしませんから…
もう一人で苦しまないでください…私も苦しくなりますから…」
目の前が歪んで見えない。でも歪んだ姿の彼女が悲しい顔をしてるのは分かる。
優しい腕が柔らかく俺の頭を抱き締めてくれた。
彼女の胸に泣き顔を沈めた。彼女の背に手を回すと、優しく髪と背を撫でる手が俺を慰めた。
「大きい子供ですね」とクスクスと笑う声は母親みたいな響きがあった。
子供が母親には敵うわけない。
もう何も隠せる気がしなかった。彼女の方が俺なんかより上手だ。
観念して、腹に抱えていた問題を彼女に伝えた。
「《白い手》では治せませんか?」
「正直分からん…
パウル様から薬は貰ったが…使ったことないし、どの程度効くのかも分からん」
「使ったらいいじゃないですか?」
「お前…そんなあっさりと…」
「だってお父様が効果も分からないような半端な物を渡すとは思えませんし、薬で解決するなら私も助かりますし」
「ダメだったらどうすんだよ?」
「仕方ないじゃないですか?それならゆっくり治しましょう?
もしかしてお薬を飲むのが嫌なのですか?」とテレーゼはふざけるようにクスクスと笑った。
「ガキじゃねぇよ」
「説得力ないですね」とクスクス笑う彼女に返す言葉もない。
隠してた薬を出して彼女に見せた。
「可愛いですね」と彼女は手のひらに納まる瓶を眺めて感想を言ったが、そんな可愛い薬じゃない…
「舐めてみていいですか?」とあっさりと彼女は蓋を開けた。
「ば、馬鹿っ!何かあったらどうすんだよ?!」
「だって今からワルター様がお飲みになるんでしょう?」と悪戯っぽく笑って、テレーゼは蓋を舐めた。
「しぶ…酸っぱいです」味の感想を呟いて、テレーゼはなんとも言えない顔で瓶を差し出した。
「お前…むちゃくちゃだぞ…」
「だってワルター様は何かと理由をつけて後回しにするでしょう?もう後に引けませんよ?」
蓋を舐めたのはそういう事か?
受け取った瓶を睨んで覚悟を決めた。
これでダメなら仕方ない…
グッと瓶を煽った。味もそうだが臭いも独特で気持ち悪い…
一気に嚥下したが口の中に残った酸味と渋味が尾を引いた。
「はい。よく出来ました」
薬を飲んだご褒美に、彼女は微笑んで唇を重ねた。
「口すすいでくる」と言ったが、テレーゼは離してくれなかった。
「もう舐めちゃったから平気です」と言って、俺の手を取ると、自分の寝巻きのリボンを握らせた。
なんだこれ?薬のせいか?
頭の奥がジンジンと熱くなる。
気がつくと目の前には裸の女がいた。
俺の語彙力じゃ彼女を形容しがたいが、ただ一つはっきり言えることがある。
世界一良い女だ…
腹の底に抱えた熱を彼女と共有した。
熱が冷めるまで身体を重ねて、二人で盛大に寝過ごした…
デザイナーの持ち込んだ絹は、黄色い乳白色を含んだ特別な色合いだった。角度によっては水色に見え、また別の角度では紫にも見える。
「良いわね。《華国》の《遊色絹》かしら?見るのは初めてだわ」
「ご明察です、リューデル公女!
この布を扱える日が来るなんて思ってもいませんでしたわ!」
デザイナー兼服職人のボーレンダー夫人は、まだハサミを入れたことの無い美しい生地を抱き締めて身悶えた。
「必ずや!公女様のお気に召す、最高の花嫁衣裳をお作りします!」
「期待してるわ」
彼女はちょっと変わった女性だけど、普通の人より服に対する情熱が強いのよね。
「花婿の衣装はどうするの?」と訊ねると、彼女はまた鼻息を荒くして答えた。
「既にデザインは出来上がっております!
スケッチをお見せしますね!新作で現在7種ご用意しております!公女様は15種用意しておりますよ!」
そう言って彼女はデザインのスケッチを机の上に広げた。どれも手の込んだデザインで捨てがたい…
「すごいわね…」
「お気に召していただければ幸いです!
でもこう居ている間にもまた新作が…
あぁ!消えちゃう前に描いても良いですか?!」
「どうぞ」と笑って、飲みかけの紅茶を避難させた。
「クーン」
ずっと足元で大人しく待ち続けている銀色の毛並みの愛犬は、つまらなさそうに伏せて鼻を鳴らした。
彼は若いので遊びたいみたいね…
「ルーク。いい子にしてたら、後でボール遊びしましょうね」
「ワン!」と元気な返事が返ってくる。お父様は拾った言っていたけれど、この子はなかなか賢い。
これなら、結婚式にも参加させてもいいかもしれない。指輪を持ってこさせるとかすれば、いい演出になるわ。
プランを考えながら、紅茶を口に運んだ。
衣装の話に夢中で、紅茶はすっかり冷めてしまっていた。
ゲリンはどれが似合うかしら?
彼は背が高いし、すらっとしてるから何を着せても似合うのよね…
お父様のような貫禄はないけど、衣装映えするから悩むわ…
手に取ってデザインを眺めていると、部屋にノックの音が響いた。
応じると、アインホーン城の侍女が、盆に乗った手紙を届けた。彼女は手紙を届けると、すぐに自分の仕事に戻った。
「あら?カナルのお父様からね…」
手紙の封を切って中を確認した。
手紙を読み進めて血の気が引いた…
「…ごめんなさい、ボーレンダー夫人。
急用ができたから、ドレスの話はまた今度にして頂ける?」
「え?あ、はい」
私の声色の変化に、彼女は慌てて広げたデザインを拾い集めた。
荷物を纏めて、出ていくボーレンダー夫人を見送って、急いで侍女と護衛の騎士を呼んだ。
「今すぐカナルに行くわ!馬車を用意して!」
「お嬢様、如何なさいましたか?」
「だって…エアフルト伯父様が…」それより先が言葉にならなかった…
侍女のハンナにカナルから届いた手紙を見せた。
「…分かりました。ガブリエラ様に許可を頂戴してまいります。この手紙は少しの間お預かりします。
ライマン卿、お嬢様をお願いします」
彼女はすぐにガブリエラ様から許可を取り付けて戻ってきた。
「ガブリエラ様の用意する護衛を連れて行く事を条件にお許し頂きました。
お嬢様の荷物も用意致しますので、明日の朝までお待ちください」
「分かったわ…」
急いで駆けつけたとして、私には何も出来ない。
お父様の手紙は、伯父様の遺体を引き取って家族に引き渡すこと…そして葬儀を済ませることだ…
涙が滲んだ。
私はまた一人家族を亡くした…
伯父様はお母様やお姉様が亡くなってから、悲しみを共有した最も近い家族だった…
お父様と仲違いしている間も、伯父様が間を取り持ってくれた。
ゲリンの事も親身になって支えてくれた。彼も伯父様を慕っていたのに…
「大丈夫です。幸いな事に旦那様は無事ですし、若様も命に別状ないとの事です。
エアフルト卿は…残念ですが…」
「…うん」慰めるハンナに頷いた。
伯父様はお父様とゲリンを守るために亡くなったという…
ならば私は伯父様に感謝しなければならない。
「若様が心配ですね」とハンナは私の気がかりを代弁した。
「大丈夫ですよ。若様はお強いですから」
彼女の言葉に頷いて、そう信じるしか無かった…
✩.*˚
鉄を叩いていると来客があった。
「ギ、ギル…大変!」血相を変えたアニタが赤ん坊を抱いて工房に駆け込んだ。
何事かと思っていると、アニタに少し遅れて鎧の擦れる音が小さな工房を取り囲んだ。
「すまんな、邪魔をする」と断って現れたのはヴェルフェル侯爵本人だった。
「大仰な訪問になったのは詫びる。君に話があって来たのだ。
仕事中で悪いが、少し時間を貰いたい」
丁寧な口調でそう言って、侯爵は俺に着いてくるように促した。
「…俺は何もしてないぞ」
「分かっている。この人数での訪問で警戒されるのは仕方ない。
だが、君を捕縛するために来た訳では無いから安心したまえ。彼らは私の護衛だ。
今回はお忍びでは無いのでな…」
話し方は丁寧だが、どこかで怒りを隠しているような口調だ。
何か良くないことに巻き込まれようとしてるのは間違いなさそうだ…
「…ギル」
アニタが心配そうな視線で俺の腕を引いた。行くなと言いたいのだろう…
「家族には何も無いか?」
俺の問いかけに、侯爵は頷いた。
「君たち家族の安全は私のヴェルフェルの名にかけて保証する。
私が必要としているものに、君が応じてくれるなら、私は君の味方でいよう」
嘘を言っているようには見えなかった。ただ、侯爵は、俺が応じなければどうなるかは言わなかった。
「用向きならここで聞く。
アニタ、母屋で少し待っててくれ」アニタの手を解いて、彼女に母屋に戻るように言った。
彼女は不安そうな視線で俺の顔を覗き込んだ。
「でも…」
「いいから…子供たちを頼む。待っててくれ」
侯爵がわざわざここに足を運んだんだ。良い話でもなければ、彼女らに聞かせられる話でもないだろう…
彼女は渋々母屋に戻って行った。
彼女が出ていったのを確認して、侯爵は重い口を開いた。
「すまんな。私も余裕が無いのだ…」
「家族が不安がる。こんな言い方したくないが、迷惑だ。
今後は用事はロンメルを通してくれ」と苦言を呈した。
「できることならそうしたいがな…」と侯爵はため息を吐いて苦く笑った。
「カナルで駐留軍が急襲を受けた。
目撃証言から《金百舌鳥の団》が関わっている可能性が高い。君の古巣だろう?」
「聞きたくない話だ…」
「私も余程のことがない限り、君を煩わせる気は無かったのだが、風向きが変わった。
神出鬼没の敵に、我が軍の幹部が多数襲われている」
侯爵の話によると、昼夜問わず、暗殺紛いな襲撃に悩まされているらしい。
「我が軍も度重なる襲撃で疲弊している。
本営を下げて警戒を強めているが、相手の侵入経路が分からず、哨戒を続ける以外に手がない」
そりゃ、いつ襲ってくるか分からない敵を相手にするのは面倒だ…
話を聞いていて、あの男を思い出した…
「対岸は《金百舌鳥》の《ラッセル兄弟》がいるとロンメルから聞いた」
「あぁ、報告にもそんな話があった。
襲撃で現れた男は《ニコラス・ラッセル》と大きく刺繍された上着を着てたらしい」
「河を越えてくるのはそいつの能力じゃない」
「…どういうことだ?」
「《金百舌鳥》には他にも《祝福》を持ってる奴がいる。
ほとんどがつまらん能力だが、隊長になる奴らはそれを使いこなしてる。下手をすれば、俺の《烈火》なんかよりずっと厄介な奴だ。
襲撃前に、対岸から何か届いたものはないか?」
「分からん。具体的には?」
「俺も詳しく知ってる訳じゃないが…
隊長の一人に《掏り替え》と呼ばれてる男がいる」
「何だそれは?」
「本当の名前は知らんが、団長はあいつを《スウィッチ》と呼んでた。
俺はあいつが気持ち悪いから付き合いはない」
「君ははっきり言うな」
「あまり気持ちの良い奴じゃなかった。
殺しが好きで、傭兵になった奴だ。
俺にも殺した数やら、どうやって殺したかなんて訊いてきた。胸糞悪いだろ?」
「まぁ…確かに…」
俺の話を聞いて侯爵の顔にも嫌な感情が張り付いていた。
「俺が知ってるのは、あいつが《掏り替え》という《祝福》を持ってるってことだけだ。
やり方も対象についても知らない。
分かってるのは、あいつが何らかの方法で、自分の居場所と対象物を《入れ換える》能力があるって事だ。簡易的な《転移魔法》と思っていいだろう。
ただ、《祝福》は便利なだけじゃない。ほぼ例外なく何かしらの《制限》が着いて回る。俺やロンメルのようにな…」
「ふむ…その《祝福》にも《弱点》があるというのか?」
「知らん。だが、その可能性は高い。相性ってものもある」
「なるほどな…参考になった。ついでに、教えて欲しいのだが…」
「何だ?」
「君とその《スウィッチ》という男が戦ったらどっちが勝つ?」
つまらない質問だ。だが、侯爵は大真面目に訊いているのだろう。
「今なら確実に俺が勝つが、あいつは逃げ足も早い。仕留めきれるかは分からんな」
「ふむ…君は奥ゆかしい男だな。やはり信用出来る」
侯爵は来た時より表情を柔らかくしていた。
「《祝福》なら《カーティス》に相談した方が良いかもしれんな。君の意見は役に立った。ありがとう」
侯爵はそう言って、懐から小さな袋を取り出して作業場の机に置いた。
「急に騒がしくして仕事の邪魔をした。すまなかった。これは礼と詫びだ、取っておいてくれ」
「何もいらん。俺が欲しいのは平穏な生活だ」
「そう言うな。欲のない男め…
何か思いついたらロンメル男爵に伝えてくれ。君の意見は大切だ」
侯爵は俺の無礼を笑って許すと、そのまま護衛の騎士たちを連れて帰って行った。
母屋に戻るとアニタが不安がっていた。
「ギル、大丈夫だった?」握った手は冷たくて震えていた。心配させたようだ?
「何も無い。話をしただけだ」
「でも…あの人って…」
「俺がオークランドにいた頃の話を知りたがっただけだ。今は戦争してるからな…」
そう言って、彼女にさっき侯爵が置いて行った袋を渡した。
アニタが逆さにして中身を確認すると、小金貨が数枚出て、彼女の手のひらに転がった。
「ひえっ!」あまり見ることの無い金貨に驚いてアニタが悲鳴を上げた。
情報料と口止め料といったところか?随分羽振りが良いのだな…
「ね、ねぇ…ギル…あんたって本当は何者なの?」
冷静に金を眺めていた俺に、アニタが震える声で問い質した。
何も隠してるつもりはなかった。
俺自身は特別なつもりは無い。ただ悪いことに、周りが俺を放っておいてくれないだけだ…
彼女の怯えたような視線に傷付いた。
「ずっと…ずっと気になってたけど…
こんなこと言ったら、あんたが出てくんじゃないかって…不安だったけど…
本当はあんた何なの?」
「俺は…ただ、オークランドで傭兵をしてただけだ」
「それだけじゃないでしょ?!」堰を切ったようにアニタが叫んだ。
同じ部屋で遊んでいた子供たちが、驚いて身体を震わせた。取り乱したアニタは子供たちの様子は目に入ってないようだ。
彼女は俺に詰め寄って厳しい言葉を続けた。
「そんなに力があって、貴族から頼られて!それで普通の人間だって言うのが無理があるわよ!
本当はまだ何か隠してるんじゃないの?!
あんたのこと信じてたいけど、そんなの難しいよ!」
「アニタ…」何で彼女がこんなに取り乱してるのか分からなかった。
怒ってた彼女は、今度は子供みたいに泣き出した。
「あたしなんて…美人でもないし、金持ちでもないし、胃袋だって掴んでないしさ…
あんたを引き止められるもんなんて…何もないんだよ…」
「アニタ?」
「出てくとか…言わないよね?
あたしら置いて…消えたりしないよね?」
俺が召し上げられるとでも思ったのだろうか?
あの金を見て不安になったのだろうか…
ポンと大金を置いていくような人間に俺が惹かれると思ったのか?
金なんて…俺にはなんの魅力もないのに…
「アニタ」彼女の名前を呼びながら涙を拭う手を握った。べそをかいた彼女の赤い目を見てちゃんと答えた。
「出て行くなんて言わない。俺はお前が好きだ。
美人とか、飯が美味いとか、そんなのどうでもいい。金だって、贅沢せずに、俺が働けばいい話だ」
そんなのが欲しくて彼女と一緒になったんじゃない。俺が欲しかったのはそんなもんじゃない…
「俺がずっと欲しかったのは《家族のいる家》だった。帰れる家と待ってる家族が欲しかった…
俺の欲しかったものは、全部ここにあるんだ…」
「そんなの…普通じゃん…」
「普通がいいんだ。俺は普通じゃなかったから…
俺を普通にしてくれたお前に感謝してるし、ずっと一緒にいたいと思ってる。それじゃダメか?」
「…本当に?出てったりしない?」
「お前こそ、俺を追い出したりしないよな?」
「しないよ。好きだもん」泣きべそをかいた女は俺の手を握り返した。
その手には夫婦だと主張する指輪が光っていた。
俺の一番欲しかったものは、この家に全部揃っている。今更これを失ってまで、欲しいものなんて何も無かった…
✩.*˚
「ほう?随分進んだのだな?」
用事のついでに、学校の視察に訪れたパウル様は、建設途中の学校を眺めた。
相変わらず予告無しでやってくるので、俺は薄汚れた姿で義理の父を出迎える羽目になった。
春から取り掛かった工事は、アダムのお陰で驚異的な速さで進んでいた。
まず、地面をならす必要がなかった。整地作業もほとんど彼の《祝福》で終わった。
「基礎はほとんどアダムがやりましたよ。
『三日でやる』って言って、本当に三日で終わらせたヤバいやつですよ…」
「全くもって惜しい男だな…」とパウル様は整地された敷地を眺めて苦笑いした。
あのカナルに一人で橋をかけたのも納得だ。
「で?男爵が土木作業か?変わらんな?」
パウル様は、汗と泥で汚れた俺の姿を見て、苦笑いを浮かべた。
俺は屋敷で机に齧り付いてるより、《燕》の連中に混ざって、動き回ってる方が性に合っている。
「いいでしょ、別に…することはやってますよ」
「褒めておるのだ。少しは元気になったようで安心した」
そう言って、パウル様は校舎になるはずの建設途中の建物を見上げた。
「ここに来る前にテレーゼにも会ってきた。あの子も強いな。さすが、ユーデットの娘だ」
「テレーゼは俺なんかよりずっとタフですよ」
「そうだな。女とは強いものだ」と答えて、パウル様は爽やかに笑った。
「過去に同じ悩みを持った人間として、卿に一つ忠告しよう。
焦れば失敗するぞ。次を望むなら、気持ちを整えて臨むことだ」
「テレーゼですか?」
「いや。私の勝手な憶測だ。卿は少年のように繊細な男だからな…
私もガブリエラとの子が流れてしまった時に、焦って男としての役目を果たせなくなったことがある。
だからだろうな…彼女があんなに必死になって妾を勧めたのは…」
あまり思い出したくない事だろうな…
不名誉な過去を晒して、パウル様は懐から何かを出すと俺に差し出した。
「取っておけ。そのうち役に立つ」
「げっ!」
見覚えのある、オレンジ色の液体の入った瓶…
「何だ?知ってるのか?」とパウル様は意外そうな顔をした。
「以前スーから同じもんを貰いましたよ…」
「なるほどな…で?使ったのか?」
「んなわけないでしょう!」
「ははっ!卿らしい…
でも、きっかけなんてそんなものでいいだろう?
男なんて単純な生き物だ。自信さえ取り戻せば案外あとはいけるもんさ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんさ」と笑って、侯爵は踵を返した。
帰るのだろう。
そう思ってパウル様を見送ろうと後に続いた。
「アインホーン城に戻られるのですか?」
「いや、今からカナルに向かう。向こうで色々あったと報告があったのでな…
弟たちが随分コケにされたらしい…」
「そんな情報は…」聞いてない。
「すまんな、私が伏せさせた。テレーゼにも心配をかけたくないとの事だったからな…」
「誰が…」
「君たちの息子だ。いや、もうリューデル公子だったな…」
「ゲリンに何か?」
「テレーゼには伏せてくれ。
戦闘に巻き込まれて怪我をしたそうだ。
公子は命に別状ないが、カナルでエアフルト卿が討死した」
「エアフルト卿が?」
リューデル伯爵を補佐する物静かな騎士を思い出した。
伯爵とは真逆のタイプだったが、エアフルト卿は振り回されてるように見えて、しっかりと伯爵の手綱を握っていた。
学校の費用の援助も、忙しい伯爵に代わって進めてくれた。
テレーゼはきっと彼の死を悼むだろう…
「我々にもプライドがある。
旗の件といい、随分と勝手をしてくれる者が居るようだ。
戦争にも暗黙のルールというものがあるのだ。あまり羽目を外してもらっては困る。
ここらでひとつ灸を据えてやらねばな」
「俺もカナルに…」伴を申し出ようとしたが、パウル様はそれを断った。
「卿はまだ解決してない問題があるだろう?
まずは自分の事を片付けたまえ」
「なら、アーサーを連れて行ってください。それなら安心です」
「アーサーはロンメル家に必要だろう?」
「閣下に何かあればそれどころではありません。
自分やテレーゼに心労をかける気ですか?」
「なるほど、そういう考え方もあるな」とパウル様は他人事のように俺の詭弁を笑った。
「分かった、分かった。そう言われては断るのも良くないな。アーサーの同行だけ許そう。
なんせ、娘夫婦に心労をかけて、楽しみにしてる孫に会えないと良くないのでな」
「嫌味ですか?」
「いや、真剣な話だ。私だってそれなりに期待してるのだよ」
冗談か本気か分からない返事をして、パウル様は遠い秋空を見上げた。
「父は…」とパウル様は先代の侯爵の話を始めた。
「死に際まで完璧な《父》で《侯爵》だった。
滅亡するウィンザーの民を憂い、税の免除と寛大な処置を求めた。
難しい問題を残す事を気に病んでいた。我々にも『苦労をかける』と言葉を残して下さった」
「立派ですね」
「そうだろう?自慢の父だ」
父親を褒められて、パウル様は誇らしげに笑った。父親を自慢する少年のように純粋な姿が、親子の絆を物語っていた。
「私は尊敬する父上から全てを託された。
私には重すぎる荷だと、最初は不安しか無かったがな…
だがな、時間が経つにつれて考えも変わった。
父は憂いを残す事を私に詫びたが、私は父の憂えを引き継いだことを誇りに思っている。
孫子の代に続く安寧を作る大役を与えられた。
父にも成せなかった役目を果たせるのなら、私はあの偉大な父を越えられる。
そのためなら私は死ぬまで走り続ける」
「死んでもらっちゃ困りますよ…
アレクシス公子だってまだお若いんですから…」
「あの子なら大丈夫だ。良い侯爵になるさ」
パウル様は父親の次に息子を自慢した。
「あの子は私の魂を受け継ぐ子だ。
正義感も責任感もある。友にも恵まれた。そうだろう?」
パウル様の指す《友》が誰かは言うまでもなかった。でもあいつはどっちかって言うと《悪友》だろう…
「まぁ、自分はお勧めしませんがね」
「そうか?スーはあの子にとって良い友になるはずだ。
誰よりも長く、あの子を支えてくれる…そうだろう?」
「本人は『ずるい』って言いそうですがね」と肩を竦めた。
パウル様は「そうだな」と頷きながら笑っていた。
「あれ?パウル様?」
無遠慮な若い声が侯爵を呼び止めた。
遠慮を知らん男は知人にでも挨拶するような気軽さで、パウル様に声をかけた。
こいつ…後で説教だ…
「おや?噂をすればなんとやらだ。久しぶりだな」
パウル様はスーの無礼を咎めずに、むしろ馴れ馴れしい若者を嬉しそうに眺めた。
「君は本当に変わらないな」
そう言いながら目を細めるパウル様は、いつもの若々しい印象ではなく、年相応に老けて見えた。
✩.*˚
「お待たせしてしまい申し訳ありません。
ロンメル男爵より命を受け馳せ参じました」
先に出発していたヴェルフェル侯爵の一行にはすぐに追い付いた。
最後尾の騎士は、俺の身なりを確認してバルテル卿に伝えた。
「よく来てくださいました、フォーテスキュー卿」
前列にいたはずのバルテル卿がわざわざ来て、俺を侯爵の元に案内した。
「来たか、アーサー」わざわざ足を止めて迎えてくれた侯爵に、馬を降りて挨拶した。
「はっ!ロンメル男爵の名代として、閣下の護衛として馳せ参じました」
「うむ。よろしく頼む」と鷹揚に頷いて、侯爵は俺を隊列に加えた。
「フォーテスキュー卿。卿はそのまま前列にて侯爵閣下の護衛に着きたまえ」
バルテル卿から重要な役目を任されて、侯爵の傍に留まることを許された。
「此度は来てくれて礼を言う」と侯爵が馬の背に揺られながら俺に話しかけた。
「カナルが荒れているらしくてな…
卿がいるなら心強い」
「恐れ入ります」
「うむ。バルテル卿、フォーテスキュー卿を親衛隊に紹介して、彼にカナルの様子を少し説明しておいてくれ」
「畏まりました、閣下」
ほぼ無名に等しい俺が、侯爵の護衛に着くのを良く思わない者もいるだろう。彼らとの不和が今後に響けば面倒だ。
「フォーテスキュー卿?聞いたこともありません」訝しむ親衛隊にバルテル卿が説明した。
「知らずとも無理はない。
先日叙勲が決定したばかりで、正式な叙勲式はまだだ。
フォーテスキュー家は元ウィンザーの騎士だが、ロンメル男爵家に預けられていた。彼の仕事ぶりが評価されて騎士として復命されることを許された」
「なるほど」と頷く親衛隊の視線は厳しいものだった。
まぁ、無理もない…
どこに行っても、コネで特別扱いされる人間は良く思われないものだ…
それでも、ロンメルの名前が出た以上、面と向かって文句を言う者は無かった。
「フォーテスキュー卿。卿はカナルについて何か聞き及んでいるか?」
バルテル卿の問いかけに、「特段動きがあったとは聞いておりません」と正直に答えた。
「そうか…
実は少々厄介な問題が持ち上がっているのだ」
バルテル卿は苦い表情でカナルからの報告を掻い摘んで話た。
神出鬼没の敵か…
目撃情報から同じ二人である可能性が高いそうだが、数分暴れては、現れた時と同じように姿を消すのだという。
「度重なる襲撃で駐留軍には動揺が広がっている。リューデル伯爵閣下やアレイスター子爵閣下も該当の敵と交戦になり、幹部にも死傷者が出ている」
「そのような状況で侯爵閣下がカナルに訪問するなど…」
「閣下は《こんな時だからこそ》とお考えです」
バルテル卿は疲れたようなため息を吐いて言葉を続けた。
「私も侯爵夫人もお諌め致しましたが、閣下は南部の武人の心をお持ちです。
疲弊した前線の兵士らを励ますために、自らカナルに向かうと決定致しました」
「それは責任者として、あまりに無責任な行動ではありませんか?」
「確かに」と苦笑してバルテル卿は侯爵にチラリと視線を向けた。
彼は俺に秘密の話をするように、距離を縮めるように指先で合図した。
馬を寄せた俺に、バルテル卿は珍しく愚痴を漏らした。
「あの方は存外馬鹿なのですよ。破天荒に振り回されるのは昔から変わりません」
「…はぁ?」何でそんなことを俺に?
真面目な印象が強かっただけに、彼の主人への酷評に耳を疑った。
俺の動揺に気付かない振りをして、バルテル卿は言葉を続けた。
「まぁ、昔に比べてだいぶ丸くなりましたし、人の話も聞くようになりました。
それでも、人間というのは本質的なものは変わらないのですよ…
上手く取り繕ってますが、閣下の本質は今でも《少年》なのです」
「それはご苦労が耐えないでしょう」と返すと、バルテル卿は含むように小さく笑った。
「卿ならご理解頂けると思ってました。
なんせもう一人の《少年》のような大人をよく知っておいでだ」
バルテル卿は誰とは言わなかったが、誰のことかはすぐに分かる。
「まぁ、変わらないのが煩わしいと思うこともありましたが、歳をとるとそれも良いもののように思えるから不思議なものです」
だから我儘を聞いてしまうのだろうな…
彼らの愚行に妙に納得してしまった。
置いてきたもう一人の《少年のようなおっさん》はどうしているだろうか?
振り返る代わりに空を仰いだ。
遠い秋の空が青く広がり、平等に見下ろしていた。
✩.*˚
「…今なんて?」
キョトンとした顔のテレーゼが俺にもう一回同じ事を言うように促した。
「だ…だから…その…今日はダメかって訊いたんだけど…」
二回も同じ事を言う羽目になって、語尾が小さくなっていく。
ベッドの上で二人で変な沈黙を過ごした。
気まずい…ものすごく気まずい…
スーは『普通に《したい》って言えばいいじゃん』と他人事のように言ったが、間が開き過ぎてて、自然な流れで手を出すのは無理だった。
いや、夫婦だし!別にいいかもしれないけどさ!
呆然としたまま、テレーゼは何も言わなくなってしまった。
その姿に断られたような気がした。
そりゃそうだよな…
早すぎたよな…あんなことがあったのに、勝手な奴だと思ってるよな…
「悪い、急過ぎたよな…
お前が嫌なら、また今度にするから…その…無理して…」
「します!抱いて欲しいです!」
俺の言葉を遮って、テレーゼは大声で答えた。
えぇ?何がどうなってそんな食い気味なの?!
自分の声に驚いたテレーゼは、我に返って顔を真っ赤に染めた。
「…テレーゼ?」
彼女は表情をコロコロと変えながら恥ずかしそうに両手で赤くなった頬を抑えた。
「も…申し訳ありません…私ったら…はしたない…」
目を潤ませて恥じる彼女は相変わらず可愛かった。
「久しぶりにお求めいただけて嬉しかったので…
一緒に寝ても触れても下さらないし…私からは申し上げれませんので、どうしようかと…」
「あ…なんか、すまん…」
自分から寝床を戻そうと言ったのに、気後れして抱けずにいた。彼女はそれを気に病んでいたようだ。
「でも、お宜しいのですか?無理されてるのでは?」
「お前だって、ずっと無理してるだろ?」
あれからテレーゼは流れた子供を忘れようとしてるように見えた。
忙しく過ごすことで気を紛らわそうと、学校の予定や準備で忙しく過ごしていた。
彼女は簡素な葬儀を最後に、フェリックスの墓には行ってないようだった。
きっと彼女の方が、俺なんかよりずっと子供の死に責任を感じている。
前に進めないのはお互い様だ…
「テレーゼ」
彼女を呼んで、腕を広げて見せた。
彼女はそれを見て、何も言わずに俺の腕の中に納まった。
ベッドで触れ合うのは久しぶりだ…
テレーゼは少し緊張しているように見えた。
彼女を抱き締めたままベッドに転がると、彼女が上になった。
長い金髪が、木漏れ日の光のように俺の顔に落ちて触れた。彼女の顔に手を添えると、彼女はそのまま顔を寄せて接吻た。
確かめるような接吻に物足りなさを感じた。
俺はもっとお前が欲しいんだ…
下半身が疼いたが、これではまだ足りない。
今までだったら、すぐに反応してたのに…
そう思うと余計に焦った。
やっぱり勃ちませんでした、なんて笑えねぇぞ!
やっぱりあれ飲むか?
寝室に隠したあの怪しげな小瓶に一瞬だけ視線が向いた。
「ワルター様?」俺の不審な動きを見咎めて、彼女は視線の先を気にした。
「あ、いや、何でもない」
「嘘ばっかり」よそ見をされた彼女は膨れて俺の上から身体を起こした。
「お父様と何かありましたか?」と訊ねられてギョッとした。
「な、何かって…」
「女の勘です」と彼女は膨れたまま答えた。
「昼前にカナルに向かうの途中でお立ち寄り頂いて、昼食をご一緒しました。
お父様はワルター様のところに立ち寄ると仰ってましたし、急に気持ちが変わったのも何かアドバイス頂けたからと思ったのですが…」
「ま、まぁ…そんな感じ…」
「やっぱり…お父様に言われたからですね…」
テレーゼが悲しそうに俯いて、重なっていた身体が離れた。
彼女の心まで離れてしまったような気がした…
「ちょっ!ちょっと待ってくれ!
謝るから!ちゃんとするからもう一回…」
「無理してるじゃないですか…
お父様に言われたからだなんて…酷いです…」
「パウル様に言われたからとかじゃなくて、本当にしたいと思ってる!
ただ…」
出かけた言葉が羞恥心に邪魔されて喉に詰まった。彼女は言い訳すらまともにできない俺に背を向けた。
「ただ、何です?」彼女の背は俺の言い訳を待っていた。
言わなきゃ彼女は納得してくれないだろう。
だけどこれを話せば、今度は男として幻滅される…
子供の命まで諦めて助けたのに、俺が不能になったと知ったら…
「馬鹿な人…」と呟く声が刺さった。
ほんと、それな…
そんなの痛いくらいよく知ってる…
「…悪い…焦ったんだ…」返す言葉もなくて、彼女に詫びた。
「本当に馬鹿な人…」
ベッドの軋む音がして、背を向けていたはずの彼女の腕が伸びて頬に触れた。
暖かい白い手が頬を包んで顔を上げさせた。
「全く…都合が悪くなるといつもお顔が逃げますね」
子供でも相手にしてるような彼女の声は、呆れていたが優しかった。
「私が治せなかったのでしょうか?まだどこか悪いのですか?」
「ちが…違う…俺が…」言葉が喉に詰まって感情がおかしくなった。なんだこれ?
「ちゃんと聞きますから、理由くらい話してください。もう貴方を一人で悩ませたりしませんから…
もう一人で苦しまないでください…私も苦しくなりますから…」
目の前が歪んで見えない。でも歪んだ姿の彼女が悲しい顔をしてるのは分かる。
優しい腕が柔らかく俺の頭を抱き締めてくれた。
彼女の胸に泣き顔を沈めた。彼女の背に手を回すと、優しく髪と背を撫でる手が俺を慰めた。
「大きい子供ですね」とクスクスと笑う声は母親みたいな響きがあった。
子供が母親には敵うわけない。
もう何も隠せる気がしなかった。彼女の方が俺なんかより上手だ。
観念して、腹に抱えていた問題を彼女に伝えた。
「《白い手》では治せませんか?」
「正直分からん…
パウル様から薬は貰ったが…使ったことないし、どの程度効くのかも分からん」
「使ったらいいじゃないですか?」
「お前…そんなあっさりと…」
「だってお父様が効果も分からないような半端な物を渡すとは思えませんし、薬で解決するなら私も助かりますし」
「ダメだったらどうすんだよ?」
「仕方ないじゃないですか?それならゆっくり治しましょう?
もしかしてお薬を飲むのが嫌なのですか?」とテレーゼはふざけるようにクスクスと笑った。
「ガキじゃねぇよ」
「説得力ないですね」とクスクス笑う彼女に返す言葉もない。
隠してた薬を出して彼女に見せた。
「可愛いですね」と彼女は手のひらに納まる瓶を眺めて感想を言ったが、そんな可愛い薬じゃない…
「舐めてみていいですか?」とあっさりと彼女は蓋を開けた。
「ば、馬鹿っ!何かあったらどうすんだよ?!」
「だって今からワルター様がお飲みになるんでしょう?」と悪戯っぽく笑って、テレーゼは蓋を舐めた。
「しぶ…酸っぱいです」味の感想を呟いて、テレーゼはなんとも言えない顔で瓶を差し出した。
「お前…むちゃくちゃだぞ…」
「だってワルター様は何かと理由をつけて後回しにするでしょう?もう後に引けませんよ?」
蓋を舐めたのはそういう事か?
受け取った瓶を睨んで覚悟を決めた。
これでダメなら仕方ない…
グッと瓶を煽った。味もそうだが臭いも独特で気持ち悪い…
一気に嚥下したが口の中に残った酸味と渋味が尾を引いた。
「はい。よく出来ました」
薬を飲んだご褒美に、彼女は微笑んで唇を重ねた。
「口すすいでくる」と言ったが、テレーゼは離してくれなかった。
「もう舐めちゃったから平気です」と言って、俺の手を取ると、自分の寝巻きのリボンを握らせた。
なんだこれ?薬のせいか?
頭の奥がジンジンと熱くなる。
気がつくと目の前には裸の女がいた。
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世界一良い女だ…
腹の底に抱えた熱を彼女と共有した。
熱が冷めるまで身体を重ねて、二人で盛大に寝過ごした…
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