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愚痴
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カナルでのフィーア王国の宣言に、神聖オークランド王国も《宣戦布告》という形で応じた。
どうやらフィーアがオークランドの要求を突っぱねたみたいだ。
季節が秋に差し掛かった頃、カナルの両岸には大軍が集結する事態となり、その睨み合いは日々苛烈を増した。
そんな中、《燕の団》のカナル前線での契約期間が終わった。
元々決まってた内容で、《燕の団》はブルームバルトへ帰ることになった。
傭兵には秋の収穫の手伝いのある者や、冬の間だけ別の生業を持つ者もいる。
これ一本でやっている奴は多くはなかった。
俺としても、ブルームバルトに戻るのは賛成だ。
「なぁ、エルマーよ?お前さんはどうすんだい?」と仲間に身の振り方を訊かれた。
俺の本職は《傭兵》じゃない。
傭兵は隠れ蓑だ…
「…とりあえず、ブルームバルトで仕事探しだな…」と誤魔化した。
大して成果を上げれぬまま、無駄に半年を過ごしてしまった。
本来の目的の《ロンメル男爵の情報》はそれなりに集まってはいたが、肝心の本人とは、騒ぎを起こした時に会ってそれっきりだ。
彼はこのカナルの岸に、一度も姿を見せなかった。
やはりもう少し近づかねばならないようだ。
男爵に気に入られるには、まず、団長の《犬》になる必要があった。
あの若さで団を任されるのは才能だけでなく、男爵のお気に入りだからだ。
「お前、宛てあんのか?」と訊かれて肩を竦めて惚けて見せた。
「これといってないなぁ…
仕事があれば食いつなぐが…」
「無いんなら《燕の団》に残れば良いじゃねぇか?
人使いは荒いが、選り好みしなかったら、ある程度の仕事なら貰えるよ」とカイに勧められた。
「まぁ、団員の半分は解散だから、また団員集めからスタートだ。面倒事が一つでも減るなら良いこったろ?」
「冬は冬で面倒な依頼も多いからさ。
盗人も増えるし、お前が残るんならスーに話してやるよ」とアルノーも残ることを勧めてくれた。
彼らは私が間者だと疑いもしていなかった。
《蜘蛛》として上手く溶け込めているようで褒められた気分だ。
「じゃあ…行く宛ても無いし、残っていいなら残るよ」
彼らの言葉に甘えて、ブルームバルトに戻ることにした。
✩.*˚
「あんたら帰るんだろ?」と酒保に訊かれた。
適当に摘んできた花と酒を土饅頭に供えて、「うん」と頷いた。
「あたしはまだここにいるからさ…
またカナルに戻ったら花ぐらい持ってきなよ」
「うん」と頷いて彼女を想った…
どうでもいい話ばかりで、肝心の彼女の事は殆ど知らなかった。
好きな物が分かってれば、それを供えたのに…
酒なんかじゃつまんねぇよな…
「フリーデの事は頼むよ。残念だけど、あたしは引き取れないからさ…」
彼女はそう言って煙草を咥えた。
「あたしもさ、若い頃は娼婦だったんだ。
悪い男に騙されてね…子供もできたけど、育たなかった…
でもそんなの他人には関係ないさね。誰も助けちゃくれなかったよ…だから、あたしは金しか信じられなくなったんだ。
あの子らに会って、痩せて死んだ子供に重なったから、同情しちまった…それだけさ…」と姐さんは俺に過去を話した。
「そうか…」と頷いて動物が掘り返さないように置いた墓石を撫でた。
姐さんに比べりゃ、エラとフリーデは少しはマシだったのかな?
そう思うと少しだけ気持ちが軽くなった。
立ち上がると、姐さんに返し損なっていた袋を取り出して差し出した。
「そういや、これ返し損なってた。
エラは助けられなかったから…貰う理由ないよな」
達成されなかった依頼料の返金を断って、彼女は袋を受け取らなかった。
「じゃあ、フリーデにあげておくれよ。あの子のミルク代でもおしめ代にでもしておくれ。
あと仏頂面のヴィンクラー爺に伝言しておくれよ」
「ゲルトに?」
「あぁ。『あんたの孫だよ。世話してやんな』って《ウルズラ》が言ってたってさ」
「姐さんの昔の名前?」
「まぁね。これでも美人で通ってたんだ。あの仏頂面の爺さんが通うくらいにね」
本当なのか冗談なのかは分からないが、少なからずそういう関係だったようだ…
「人って分かんないねぇ…」とぼやくと、彼女は明るく笑い飛ばした。
✩.*˚
「おかえり!」
子鹿のようにピョンピョン跳ね回るルドが、ブルームバルトに戻った俺を出迎えた。
もうすぐ帰ってくると知って、屋敷の門の前で待っていたらしい。
「ただいま、ルド。元気だったか?」
「うん!」出ていった時より大きくなった子供を抱き上げた。
ルドは少しだけ重くなっていた。
「ミアは?仕事?」
「うん。ママもパパ帰ってくるの楽しみにしてたよ!早く来て!見せたいものがあるんだよ!」
ルドはそう言って早く屋敷に入るようにと、俺を誘った。
「ディルク、俺の部屋に荷物運んでおいてくれ。終わったら帰っていい」
「あいよ」と応えたディルクは、馬を連れて屋敷の裏に消えた。
ルドを抱いてロンメル邸に上がると、ユリアに会った。
彼女も俺を見て「おかえり、スー」と笑顔で迎えてくれた。
「ワルターは?」
「旦那様?いるよ、こっち」とユリアはくるりと燕のようにターンして先を歩いた。
「旦那様!スーだよ!」
ユリアの元気な声に、居間でフィーと遊んでいたワルターが顔を上げた。
「よぉ、帰ってきたな。おかえり」
「ただいま」と応えて抱いていたルドを降ろした。
ルドの姿を見たフィーは嬉しそうな声を上げて、ルドに駆け寄った。
ワルターは残念そうな顔に笑みを浮かべて二人を眺めていた。
「大丈夫か?少し痩せた?」
ワルターに歩み寄ると、彼はソファに座ったまま「まぁな」と苦く笑った。
手紙で、彼の不調と、死産した子供のことは知らされていた。
「手紙…返事が遅れて悪かったな」と彼は謝ったが、もう済んだ事だ。
手紙でエラの働き口をくれるように頼んだが、無駄になってしまった。
もう少し早く返事をくれればと思ったが、ワルターを責めることは出来なかった。
彼は彼で大変だったのだから…
「ちょっと出掛けないか?」と彼に提案した。
ワルターは少し迷って、「あぁ」と頷いた。
「ルド、アグネスにフィーを預けて待っててくれるか?
スーと話があるから、少しだけ出掛けてくる」
「分かった」と素直に応えて、ルドはワルターに俺を譲った。
フィーと手を繋いで、子供部屋に向かったルドを見送って、ワルターと屋敷の裏の厩舎に足を運んだ。
「そういえば、アーサーは結局どうなったんだ?
」
「国王が介入したから、カナルでは国王の護衛に任務が変わった。
便宜上、《騎士》を押し付けられて、本人は文句タラタラだったよ」とワルターは苦笑いした。
「騎士様か。お祝いしてやらなきゃな」
「やめとけ。また機嫌が悪くなるぞ」とワルターは苦言を呈しながらも笑っていた。
「カナルでは会わなかったからな…
また真っ黒な鎧着けてるのか?」
「まぁな。あいつあれが似合ってるしな。
あと、オークランドに身元がバレないように、カーティスが変な仮面くれたからそれを着けてるよ。
存在感が薄れる仮面なんだと…あいつなんでも持ってるな…」
「本当に敵にならなくて良かったよね」
二人で談笑しながら、繋がれていた馬を引き出して用意した。
用意している途中にアダムが現れて、ワルターの姿を見咎めた。
「旦那様、どちらに…」
「スーと散歩だ」と答えたワルターに、アダムは心配そうに伴を申し出た。
「いい。二人で話したいことがあるから、シュミットにバレたら出掛けたって言っておいてくれ」
「叱られ役ですか…ご命令なら仕方ありませんね」
「悪いな、酷い旦那様で」とワルターは笑いながら冗談を言っていた。
その姿が空元気のようで少し辛そうだった。
「行くか、アイリス」
愛馬に声を掛けて、ワルターはアイリスの背に跨った。
アイリスは尾を振って、耳をパタパタと動かしながら、少し落ち着かない様子だった。
彼女は繊細に人の気持ちが分かるから、主の様子が気になるのだろう。
ワルターが手綱を握ると、アイリスは従順にゆっくりと歩き出した。
「久しぶりに乗ったな…気持ちいいな」とワルターはアイリスの背で秋を楽しんでいた。
秋風に誘われて、ブルームバルトのカーテンウォールの外に出た。
「どこ行く?」と問いかけると、彼は「何処でもいい」と答えた。
「もうなんでもいいんだ…したいことも何も無い…」
「ワルター?」
「手紙…読んだろ?そういうことだ…」
ワルターは暗い顔で笑って、「俺って弱いよな…」と呟いた。
俺が憧れた背は傷付いて、真っ直ぐではなくなっていた。
背負いすぎた背は疲れたように曲がっていた。
「誰も俺を責めないんだよ…俺が悪いのに…」
「君だって被害者だ」
心から出た言葉だったが、それが彼の慰めになることはなかった。ずっと自分を責め続けていたのだろう。
自分が悪いと思い続けて苦しんでいたのだろう。
彼の姿が、自分と重なって悲しくなった…
エルマーが死んだのは俺のせいだ…
でも、誰も俺を責めなかった…それがまた辛かった…
「君は…つまらないことをしなかったら、子供は死ななかったって思ってる?」
俺の問いかけに、ワルターは黙って頷いた。
「テレーゼにも、辛い思いさせなかったって思ってる?」
「お前…はっきり言うよな…」とワルターは苦く笑った。
彼と馬を並べながら、今度は俺の傷を晒した。
「だって俺もそう思ってたから…
俺が攫われなければ、エルマーは死ななかった…
あんなことさえなかったら、今でもミアとルドの隣にいたのは兄貴だったはずだ…」
「そうかもな…」
「君の気持ちは、俺が誰よりも分かってるつもりだ」と彼に伝えた。
ワルターは黙って、手綱を握っていた片手を目元に運んだ。
込み上げるものを抑えるように、彼の肩が震えた。
「辛かったな」と短い言葉に全てを詰め込んで、彼の苦しみに寄り添った。
慰めの言葉なんて、俺が言わなくても足りてるはずだ。
なら俺の役割はそれじゃないのだろう。
傷の痛みは同じ傷を負わないと、想像でしかない。
結局その痛みがどれだけの苦痛かなんて、傷を負った奴にしか分からないんだ…
「子供…残念だったよな…」と彼の答えを待った。
「…名前…考えてた…」嗚咽混じりの震える声で、ワルターは話を続けた。
「男なら俺が付けるって…女なら…テレーゼが…」
「そうか…どっちだったんだ?」
「男だった…《フェリックス》って…墓に刻んだ…」
ワルターは産まれてくるはずだった子供の名前を教えてくれた。
呼ぶことも無く、消えてしまった命…
その名を口にして、彼は嗚咽を漏らしながら涙を流した。
「《フェリックス》か…
いい名前だな。ダサい君にしては上出来じゃないか?」
悩んで悩んで、自分の分まで《幸せ》になれるようにと選んだ名前だったろう。
ワルターの子供時代は不遇なものだったから、自分の子供には幸せになって欲しかったに違いない。
涙を流す彼を心配して、アイリスが足を緩めて後ろを振り返った。
死産で産まれてきた彼の子供は、ブルームバルトの墓地に埋葬されたらしい。
庭にも小さな木を植えて、死んだ息子を忘れないようにと彼の死を悼んだ。
「こんなの望んじゃなかった…
俺一人で済むんならって…そう思っただけなんだ…」
「うん。君らしいや」
「馬鹿だろ?」
「馬鹿だよ。すっげぇ馬鹿だ」
「迷惑かけたな…」
「全くだ。次はないからな」
「俺も…もうごめんだ…」と呟いたワルターは少しだけ楽になったように見えた。
「それにしても、お前って本当に遠慮ないよな」
「レプシウス師は、『現実から逃げるより向かい合うように』って言ってたよ。
俺もレプシウス師に色々聞いてもらった。
まだ完全にスッキリしたわけじゃないけど、エルマーの事は忘れたくないし、悪いことだけじゃないからさ…」
「そうか…」と頷いて、ワルターは高い秋空を見上げた。
「せっかく命を譲ってくれたのに…
俺が逃げちゃ駄目だよなぁ」
しみじみと呟く彼の声は、哀愁を含んだ秋風に乗って子供に届いたろうか?
✩.*˚
スーと話をして少し気が紛れた。
ぶらぶらと散歩しながら話をして、屋敷に帰る前に花束を二つ買った。
一つは、帰りに立ち寄った、真新しい墓石に供えて、命の恩人に感謝した。
この命は彼に貰ったのだから、大切にすると誓った。どんなに辛くても、二度と同じことはしないと心に刻んだ。
すぐ戻るって言ったのに、思ってたより長くなってしまった。
屋敷に戻ると、心配していたシュミットに叱られた。
彼は勝手に出回った俺と、勝手に連れ出したスーを咎めたが、ラウラに「いいことです」と言われて渋々苦言を引っ込めた。
「テレーゼは?」
「お部屋で休まれています」とシュミットが答えた。
「そうか」と頷いて、花束を持って彼女が時々寝室として使っている部屋に足を向けた。
あれから俺の身体は少しおかしくなっていた。
あれほど好きで、毎晩でも抱きたかったテレーゼに、まるで反応しなくなった…
自分でも驚いた。でもこんな事誰にも言えなかった…
男として、これを知られるのは不名誉だ。
知られたくなくて、しばらく寝室を分けたままにしていたが、彼女はそれを、俺の心が離れたと思ったようだ…
《寝室を戻せるようになった》という彼女からの誘いを断って、無駄に彼女を傷つけてしまった。
夫婦の溝は増々深くなっていた。
彼女の部屋のドアをノックすると、アンネが出た。
花束を抱えた俺を見て、アンネは少し驚いた顔をしたが、テレーゼに取り次いで部屋に通してくれた。
「ワルター様、どうなさいましたか?」
「悪い…今忙しいか?」
「子供たちの教科書を考えてました。何かご用事ですか?」
「これを渡したくて」と花束を彼女に差し出した。
「フェリックスの墓にも置いてきた。これはお前の分だ」
「ありがとうございます…」鮮やかな花束は彼女の腕に納まった。彼女は赤ん坊を抱くように、花束を大切に抱いた。
「少し時間あるか?」
「はい」
「二人で話せるか?」
「もちろんです。
アンネ、少し外してくれる?あとお花をよろしくね」
「かしこまりました」
花を預かったアンネが、部屋を出て行ったのを見送って、テレーゼは「どうぞ」と俺にソファを勧めた。
「寝室…戻す気はないか?」と単刀直入に彼女に切り出した。
テレーゼは驚いた顔で俺を見上げた。
彼女は「よろしいのですか?」と彼女は訊ねた。
「もう…冷めてしまったのかと…」と彼女は不安を口にして、ガーネットの瞳を潤ませた。
「冷めたりするもんか。今だって俺はお前を愛してる」
「だって…私が…私がワルター様を追い詰めてしまったから…あんな事に…」
「ちゃんと話をしなかった俺が馬鹿だったんだ。お前の反応は母親として当たり前だった。
俺はお前が間違ってるなんて思ってねぇよ。
お前は俺の自慢の嫁だ」
恐る恐る伸ばした腕を、彼女は受け入れてくれた。
華奢な肩を抱き寄せて、小さな身体は腕の中に納まった。応える彼女の細い腕が俺の背に回った。
「俺もまだ整理しきれてないけどよ…お互いに気持ちの整理がついたら、また子供を作ろう」
「…はい」
「頼りにならん旦那で悪いな…」
「いいえ。ワルター様は、優しい私の旦那様です」
彼女は嫁のお手本のような返事を返してくれた。
馬鹿だよな…こんなに良い女をビビって避けてたなんて…
やっぱり俺って馬鹿なんだよなぁ…
✩.*˚
「ただいま、ミア」ルドに手を引かれて、ミアの仕事場に顔を出した。
厨房で夕食の用意を手伝っていた彼女は、磨いていた食器を置いて、笑顔で「おかえり」と言ってくれた。
数ヶ月離れてたのに、彼女は昨日送り出したかのように俺を迎えた。
「ごめんね、迎えに出れなくて。
メリッサもお腹大きくなってきたからあまり無理させられなくて…」
「いいよ。君だって忙しいんだろ?」
「なんか大変だったみたいだね。
まだ帰ってこないかと思ってたよ」
「元々短期の埋め合わせみたいな仕事だったから。
残って欲しいって言われたけど、ワルターの事も気になってたし、団員も心許ないから戻って来たよ」
「また団員集め?」
「うん。今度はワルターと一緒に出ていくと思う。多分春先だろうね」
「旦那様といっしょに戦いに行くの?」と話を聞いていたルドが声を上げた。
「旦那様かわいそうだよ」とルドは視線を落として俯いた。子供なりに、ワルターが傷付いて疲れているのを感じ取っているのだろう。
ルドは大好きなワルターが心配なんだろう。
「大丈夫。ワルターは強いから」
「でも…強くても、悲しいよ…」
「そうだな…でも、自分で何とかするしかないんだ。
辛いからって、責任は放り出せないんだよ。それはワルターが一番よくわかってることだから…
だから、ワルターが悲しくならないように、一緒にいてやってくれ」
ワルターもルドを自分の子供みたいに可愛がっていた。きっと子供を失った傷は、子供たちが一番の薬だ。
エルマーを失った傷を癒してくれたルドが、今度はワルターも癒してくれると信じていた。
「忙しいのに手を止めて悪かったね。また後で時間がある時に話そう」とミアに伝えて、ルドを抱き上げた。
「ルド。ママまだ仕事があるから、俺と遊ぼう。何か見せるって言ってたろ?」
気の滅入る話はお終いにして、別の話に切り替えた。
「うん。アルマの鱗が剥がれたの。色が少し変わったよ」
「そうなのか?それは見なきゃな!
じゃぁ、また後で」
「うん、後でね」とミアは笑顔でルドとタッチして手を振った。
また随分あっさりだ…
我慢できずに、ルドを抱いた反対の手で彼女を抱き寄せて接吻た。
驚く彼女の顔は可愛かった。
「後で…待っててよ」
「あ…うん」察した様子のミアは恥ずかしそうに視線を逸らして、ぎこちなく髪を触っていた。
「パパ?」大人の会話が分からないルドが首を傾げていた。
「ごめん、ごめん。アルマ見に行こうか?」
「うん!」
甘えるように、首に子供の腕が絡みついた。
「パパ」
「何だ?」と応えると、ルドは垂れ気味な目元をさらに緩ませて笑った。
「ルド、いい子に待ってたよ。お手伝いもしてるの」
「偉いな」
「えへへぇ」
誇らしげに緩んだルドの頬が、暖かい色に染まった。
「パパ、大好き」という声に、「俺も大好きだよ」と返した。
幸せな笑い声が廊下に響いた。
✩.*˚
「お爺ちゃん!」
昼寝をしてたのにうるさいのが部屋に飛び込んで来た。
スカートが捲れても気にしないのは、女として未熟な証拠だ。
「…うるせぇな、ノックぐらいしろ」
「カミルたち!帰ってきたよ!」と興奮気味のルカが息子たちの帰宅を報せた。
怖いもの知らずなのか、ルカは俺の腕を掴んで引っ張った。
「ほら!早く来てよ!」と強引に連れていこうとするが、寝転んだソファから動く気はなかった。
面倒だからじゃない。待ってたのを悟られるのが嫌なだけだ…
それに、俺が行かなくったって、あいつらは俺のところに来るんだ。
軽いノックの音が聞こえて、引っ張っていたルカの腕が緩んだ。
「親父さん、ただいま」
ルカの向こうから聞こえた声に、靴音が続いた。
「もう帰ったのか」
「全く、可愛くないんだから…
『よく帰ったな』ってハグしてくれていいんだぜ」と部屋に現れたカミルは冗談交じりに言った。
「お爺ちゃん素直じゃないんだよ。置いていかれたの根に持って、まだへそ曲げてるんだ」とルカも余計なことを言った。
カミルはルカの頭を撫でて、「よく分かってる」と俺に悪戯っぽく笑って見せた。
舌打ちしてソファから身体を起こすと、不機嫌を装った。
「お前ら『帰ってくんな』って言っても帰ってくるだろ?行く宛てもねぇクソガキ共だ」
「そうだよ。あんたの大好きなクソガキさ」
「ふん…あのヒョロヒョロはカナルでくたばったのか?」
「ルドルフか?いるよ。少しは逞しくなったと思うぜ」
カミルはそう答えてドアの方に視線を向けた。
華奢で頼りなかった青年の肩幅は、少しだけ大きくなっていた。
「…た、ただいま、ゲルト」少し迷って、ルドルフ選んだセリフはそれだった。
「ふん。よく帰ってきたな。逃げ出すもんだと思ってたのによ」
「お爺ちゃん、素直に『おかえり』って言いなよ」
「まぁ、そう言うな、ルカ。これはこれで分かりやすいんだ」
ルカのため息にカミルはニヤニヤ笑っている。
俺の前に立ったルドルフは、同輩らしき青年を連れていた。
その身なりと佇まいから嫌な予感がした。
「…これ以上預からんぞ」
「まぁ、そう言うなって、親父さん…
話だけでも聞いてやってくれよ」
カミルは苦笑いしながらルドルフの背を押した。
緊張した面持ちのルドルフが、手にしていたものを差し出した。
箔押しの羊皮紙には理解し難い言葉が並んでいる。
「なんだこりゃ?」
「私の身分証だ。この度陛下から名誉を回復させる機会を頂戴した」
なるほど…王子だったのか…
驚くより納得した。道理でなんにもできないわけだ。
こんなの押し付けやがって。後でワルターを引っ捕まえて、文句を言ってやらにゃならん。
「それで?この紙切れで俺に仕返ししようって来たのか?」
意地悪く言って、紙切れを返した。
相手が王子様と知ったからと言って、態度を変えるのは不器用で頑固な俺には出来なかった。
『無礼だ』と喚くかと思ったが、ルドルフは俺より大人だった。
「そんなつもりは無い。
ゲルトにもカミルにも世話になった。ここで私がどんな人間か教えられた。感謝している」
「分かった分かった。
じゃあ荷物まとめてさっさと帰れ。
もうこんなの汚ぇところ用はねぇだろ?」
「私はまだヴォルガシュタットに帰る気は無い」
「馬鹿言え。
お前みたいな約立たずのガキを置いてやるほど、俺は余裕ねぇんだ。
名誉挽回したんなら、王子様がこんなクソみたいな溜まり場に用なんてあるもんか」
ルドルフから視線を外して、カミルに「支度を手伝ってやれ」と命じた。
ソファを離れて、部屋を解散させようとしたが、逃げ出そうとした俺の腕を小さな手が引き止めた。
「お爺ちゃん」
腕を握ったルカが俺を見上げていた。
責めるような視線は俺を睨んでいた。
「ルドルフ可哀想だろ?ちゃんと話聞いたげてよ…」
腕にぶら下がる子供の手を振り払う気にもならず、出て行くタイミングを逃してしまった。
「親父さん。もうちょっとだけ我慢して聞いてやってくれ。
ルドルフだって自分で考えて出した結論だ」
カミルもルドルフの肩を持った。
ため息を吐いて、またソファに腰を下ろした。
今度は俺が逃げ出さないように、ルカが膝の上に乗っかった。
こいつら…どいつもこいつも…
「少しだけ聞いてやる」とぶっきらぼうに伝えると、ルドルフは自分で出した結論とやらを話し始めた。
「私はまだカナルで学びたい」というのが王子様の希望だった。
「私はここに残って、父上がオークランドから守り抜いた土地を守りたい。
でも、私は現場で権限を与えられるほどの功績はない。
今まで必要ないとサボっていたから、魔法も兄上ら程の腕もないし、剣も未熟だ」
いっそ清々しいほど自分が役立たずと知ってるようだ。
「だから《傭兵》になるってか?
お粗末な考えだ…」
「お爺ちゃん」とルカが俺を窘めた。
ルドルフは苦笑して「その通りだ」と頷いた。
「私が本営に加わりたいと陛下に頼めば、椅子を用意してくれるだろう。
ただ、座るだけの椅子だ…
現場はおろか、意見すら無意味だろう。私は《我儘王子》という不名誉な有名人だ。
それなら、末端の《傭兵》という立場でも、少しでもカナルに貢献する道を選ぶ。
そのために、《燕の団》に残ることを許して欲しい」
「お前に何ができる?」
「何ができるじゃない、してみせる。行動で示す」
俺に反抗する青年は、ここに留まることを求めた。
帰ったら贅沢三昧で苦労なんかないだろうに…
こんな汚ぇ掃き溜めのような場所に残ると拘るなんて、頭の悪い野郎だ…
「…仕方ねぇ…春まで面倒見てやる」と答えてしまった。
「その間に《傭兵》として使えるようになったら、俺は四の五の言わねぇ。
できねぇなら諦めろ」
「分かった。ありがとう、ゲルト」
「良かったな、ルドルフ」とルカも満足そうに笑った。下っ端仲間が追い出されずに済んで安心したようだ。
ルカは膝の上で俺を見上げて「素直じゃないなぁ」と余計なことを吐かして、俺の膝を後にした。
「で?聞きたくないが…さっきから俺を睨んでるそいつは何だ?」
「あ…彼は、私の元従者の…」
「アルバン・フォン・キュンツェルと申します!」
苛立ちを噴出させるように自己紹介をした青年は、前に出て俺を睨んだ。
「貴殿がここで一番偉い人物だとしても、相手が《殿下》と知ってその態度はいかがなものですか?!」
俺に食ってかかる青年をルドルフが窘めた。
「アルバ。彼はそういう人なんだ。
手のひらを返すような人より信頼できるだろう?」
「お爺ちゃんは口は悪いけど、素直じゃないだけでいい人だよ」
「お前らよく分かってんな。
なんなら親父さんは善人の部類だぜ」
「…お前らな」
止めろよ!そういうの調子狂うだろうが!
全く、うるさいクソガキ共め!
✩.*˚
イザークを連れて、礼も兼ねてエインズワース工房に邪魔した。
果物や菓子を持っていくとアニタは喜んでくれた。
「わー!葡萄美味しそう!
この林檎もキレイじゃん!ありがとう!」
「ありがとー!」とエドガーも喜んで跳ね回っていた。ルドと同じような反応に笑顔が誘われた。
「エドガーは林檎大好きだもんね。後で剥いてあげる」
「赤ちゃんは?」とエドガーは妹たちにもあげたいようだ。
「フリーデは少し食べれるかもね。すり潰して少しあげてみようか?」
「うん!」
エインズワース親子は、預かってる子供を家族として大切にしてくれてるみたいだ。
「フリーデは?」と訊ねると、アニタは「会いたい?」と悪戯っぽく笑った。
「連れてくるから待ってなよ」と言って席を外した彼女が奥から出てくると、腕の中には欠伸をしてる赤ん坊が納まっていた。
「少し太った?」と言いながらフリーデを受け取ると、アニタに怒られた。
「女の子にそんなこと言っちゃダメよ!
太ったじゃないの、大きくなっただけよ」
「そうだな。ごめんな、フリーデ」
抱っこした感じもずっしりして、身体も安定したように思えた。
女の子だから男の子に比べれば軽いけど、フリーデはちゃんと大きくなっていた。
「抱くか?」とイザークにフリーデを差し出した。
イザークは少し迷ってフリーデを受け取った。
「ほんとだァ、お嬢重くなったな…」とイザークも失礼なことを口にした。
「あんたたちねぇ…」
なにか言おうとしたアニタの言葉が途中で止まった。アニタの視線はイザークの顔に注がれていた。
「良かったな、お嬢…エラも喜んでるよ」
イザークの震える声を聞きながら、知らないフリをした。
「フリーデ預かってくれてありがとう」
「あ…うん。いいよ。エドガーもメアリも仲良くしてるしさ。
それに、この子あんまり手がかからないし」
「赤ん坊の世話をしてくれそうな知り合いが君たちくらいしか思い当たらなくてさ。本当に助かったよ」
「頼られるのも悪くないね。
ギルも親父も可愛がってるし、このままだと手放せなくなっちゃうよ。
この子どうする気なの?」
「俺が引き取るつもりだけど、まだお乳が必要だろ?」
「そうね。まだ、離乳食だけってなかなか難しいだろうし…」
そう言ったアニタの袖をエドガーが引いた。
「フリーデちゃん、ルドのいもうとなるの?」
「あ、うん、多分…」
「エドガー、フリーデちゃんのおにいちゃんじゃないの?」
「エドガーはメアリがいるでしょ?」
「やだぁ!フリーデちゃんもエドガーの!」
フリーデを連れていかれると思ったのか、エドガーは必死になってイザークの足にしがみついた。
フリーデに情が移ってしまったんだろう。エドガーは良いお兄ちゃんになったようだ。
「ちょっと、危ないでしょ?!」と引き剥がそうとしたアニタに、イザークは「いいよ」と笑った。
彼はしゃがんで、エドガーの視線に合わせると、子供に話しかけた。
「お嬢のこと好きか?」とイザークが訊ねると、エドガーは「うん」と頷いた。
「だよなぁ、可愛いもんな」
「フリーデちゃん、エドガーのいもうとなの…」
「そっか…ありがとうな」
イザークはエドガーに礼を言って、抱いてる赤ん坊を名残惜しそうに眺めてアニタに返した。
赤ん坊を受け取って、アニタは苦笑いしながら俺たちに謝った。
「ごめん。なんかあたしたちも情が移っちゃってさ…
エドガーにはちゃんと話しておくから…」
「いいよ。むしろ大事にされてるようで安心した。良かったな、フリーデ」
アニタに抱かれたフリーデの頬を撫でて、ミルクの匂いのする頬にキスした。
「まだこの子の里親は保留だな。
ギルが手離したくないって言ったら、俺も何にも言えないや。
それまでの養育費は俺が払うから、必要なものがあったらなんでも言ってくれ。
これでも《燕の団》の団長だから金ならあるよ」
「いいよ、そんなの。
うちだって、よく稼ぐ頼れる大黒柱がいるから困ってないよ」
アニタはそう言って明るく笑った。彼女も、まだフリーデを手放さなくて良いと知って、安堵したようだ。
話をしていると、奥の部屋から元気な赤ん坊の鳴き声が聞こえてきた。
「あー、メアリだ」と苦笑いするアニタの横で、「たいへん!」と叫んでエドガーが走り去って行った。
「元気な声だね」
「あの子あたしに似て声が大きいからさ。
まぁ、分かりやすくていいんだけど…
なんか、この子が来てからあの子も寝つきが良くなって、あんまり夜泣きしなくなったのよね」
「へぇ。役に立ってるんだ」
「まあね。夜泣きしないと本当に助かるよ。
ちょっとメアリ連れてくるから、フリーデ抱っこしててくれる?」
アニタはそう言ってまたフリーデを俺に預けた。
柔らかい赤ん坊の身体が腕の中に納まって、優しい香りが鼻腔に流れ込む。
「うー」とまだ言葉にならない声で、不満を訴えた。
「ちょっと待ってなよ」と抱いてる赤ん坊をあやした。
この子の扱いなら慣れてる。この子を自分の家族にしたかったが、フリーデは自分の居場所を見つけたみたいだ…
「どうする?」とイザークに訊ねた。
「俺に訊くなよ」とイザークは自嘲するように笑った。その顔は、大切な何かを諦めてるようだった…
「そうか?俺はお前が引き取りたがると思ってたけどな…」
「バカ言えよ。独り身のおっさんがどうやって赤ん坊世話すんだよ?
死なせちまうのがオチさ…」
寂しい笑みを浮かべながら、イザークはフリーデに手を伸ばした。
男のゴツゴツした硬い手が、赤ん坊の柔い頬に触れた。
「この子の幸せを壊す気は無いって。そんなの野暮だ…そうだろ?」
「…まぁな」
この子の母親はクソみたいな男に殺された。
その男は手足を健を切って、罪状を貼り付けた丸太の舟に括りつけて河に流した。
どちらにせよ、この子にはもう肉親と呼べる相手はなかった。それなら家族を用意してやるのは当然の流れだった。
この子にとって、一番良い家族が見つかったようだ…
「何だ、お前らか?」
不意に聞こえた声に振り返ると、ギルが扉の前に立っていた。
俺がフリーデを抱いているのを見て、彼は俺たちがフリーデを迎えに来たのだと思ったらしい。
「連れていくのか?」とギルは俺たちに訊ねた。
「いや、顔を見に来ただけだよ。
預かってくれてありがとう」
「別に…世話してるのはアニタだ」とぶっきらぼうに答えて、彼はフリーデを気にしながら、棚を漁ってお目当ての物を持っていこうとした。
「あー」と声を上げて、身体を捻ったフリーデが手を伸ばした。
彼女はギルを目で追いかけていた。
「懐いてる?」と訊ねると、彼はムキになって否定した。
「ち、違う!そんなに構ってなんかない!時々抱くだけだ!」
「ギルは暇さえあれば抱っこしてるよ。なんなら一番可愛がってるよ」
娘を抱いて戻ってきたアニタが、ニヤニヤしながらギルの嘘を暴露した。
「『靴はまだ早いか?』って言ってたのは誰だっけー?」
「パパだよー」アニタの問いかけに、エドガーが笑顔で答えた。
幸せそうな家族の姿を微笑ましく眺めた。
「目を離すと這いずって行くから抱いてるだけだ。靴だって…そのうち要るだろ?」
「はいはい、そういうことにしとこうね」
言い訳を並べる旦那を黙らせて、アニタは抱いていた娘をギルに押し付けた。
「フリーデ、おいで」と声をかけると、フリーデはアニタに手を伸ばした。
フリーデは既にアニタを母親と認識しているようだ。
フリーデを受け取って、アニタはギルに歩み寄った。
両親の腕の中で、「うー」「あー」と声を上げながら、赤ん坊たちはお互いに手を伸ばして相手を確認していた。
「仲良しでしょ?」とアニタは自慢げに娘たちを見せた。エドガーも手を伸ばして、両親の腕からはみ出た妹たちの足を触っている。
良い家族だな…
素直にそう思えた。
チラリと盗み見たイザークの寂しげな横顔は、フリーデの幸せを喜んでいるように見えた。
どうやらフィーアがオークランドの要求を突っぱねたみたいだ。
季節が秋に差し掛かった頃、カナルの両岸には大軍が集結する事態となり、その睨み合いは日々苛烈を増した。
そんな中、《燕の団》のカナル前線での契約期間が終わった。
元々決まってた内容で、《燕の団》はブルームバルトへ帰ることになった。
傭兵には秋の収穫の手伝いのある者や、冬の間だけ別の生業を持つ者もいる。
これ一本でやっている奴は多くはなかった。
俺としても、ブルームバルトに戻るのは賛成だ。
「なぁ、エルマーよ?お前さんはどうすんだい?」と仲間に身の振り方を訊かれた。
俺の本職は《傭兵》じゃない。
傭兵は隠れ蓑だ…
「…とりあえず、ブルームバルトで仕事探しだな…」と誤魔化した。
大して成果を上げれぬまま、無駄に半年を過ごしてしまった。
本来の目的の《ロンメル男爵の情報》はそれなりに集まってはいたが、肝心の本人とは、騒ぎを起こした時に会ってそれっきりだ。
彼はこのカナルの岸に、一度も姿を見せなかった。
やはりもう少し近づかねばならないようだ。
男爵に気に入られるには、まず、団長の《犬》になる必要があった。
あの若さで団を任されるのは才能だけでなく、男爵のお気に入りだからだ。
「お前、宛てあんのか?」と訊かれて肩を竦めて惚けて見せた。
「これといってないなぁ…
仕事があれば食いつなぐが…」
「無いんなら《燕の団》に残れば良いじゃねぇか?
人使いは荒いが、選り好みしなかったら、ある程度の仕事なら貰えるよ」とカイに勧められた。
「まぁ、団員の半分は解散だから、また団員集めからスタートだ。面倒事が一つでも減るなら良いこったろ?」
「冬は冬で面倒な依頼も多いからさ。
盗人も増えるし、お前が残るんならスーに話してやるよ」とアルノーも残ることを勧めてくれた。
彼らは私が間者だと疑いもしていなかった。
《蜘蛛》として上手く溶け込めているようで褒められた気分だ。
「じゃあ…行く宛ても無いし、残っていいなら残るよ」
彼らの言葉に甘えて、ブルームバルトに戻ることにした。
✩.*˚
「あんたら帰るんだろ?」と酒保に訊かれた。
適当に摘んできた花と酒を土饅頭に供えて、「うん」と頷いた。
「あたしはまだここにいるからさ…
またカナルに戻ったら花ぐらい持ってきなよ」
「うん」と頷いて彼女を想った…
どうでもいい話ばかりで、肝心の彼女の事は殆ど知らなかった。
好きな物が分かってれば、それを供えたのに…
酒なんかじゃつまんねぇよな…
「フリーデの事は頼むよ。残念だけど、あたしは引き取れないからさ…」
彼女はそう言って煙草を咥えた。
「あたしもさ、若い頃は娼婦だったんだ。
悪い男に騙されてね…子供もできたけど、育たなかった…
でもそんなの他人には関係ないさね。誰も助けちゃくれなかったよ…だから、あたしは金しか信じられなくなったんだ。
あの子らに会って、痩せて死んだ子供に重なったから、同情しちまった…それだけさ…」と姐さんは俺に過去を話した。
「そうか…」と頷いて動物が掘り返さないように置いた墓石を撫でた。
姐さんに比べりゃ、エラとフリーデは少しはマシだったのかな?
そう思うと少しだけ気持ちが軽くなった。
立ち上がると、姐さんに返し損なっていた袋を取り出して差し出した。
「そういや、これ返し損なってた。
エラは助けられなかったから…貰う理由ないよな」
達成されなかった依頼料の返金を断って、彼女は袋を受け取らなかった。
「じゃあ、フリーデにあげておくれよ。あの子のミルク代でもおしめ代にでもしておくれ。
あと仏頂面のヴィンクラー爺に伝言しておくれよ」
「ゲルトに?」
「あぁ。『あんたの孫だよ。世話してやんな』って《ウルズラ》が言ってたってさ」
「姐さんの昔の名前?」
「まぁね。これでも美人で通ってたんだ。あの仏頂面の爺さんが通うくらいにね」
本当なのか冗談なのかは分からないが、少なからずそういう関係だったようだ…
「人って分かんないねぇ…」とぼやくと、彼女は明るく笑い飛ばした。
✩.*˚
「おかえり!」
子鹿のようにピョンピョン跳ね回るルドが、ブルームバルトに戻った俺を出迎えた。
もうすぐ帰ってくると知って、屋敷の門の前で待っていたらしい。
「ただいま、ルド。元気だったか?」
「うん!」出ていった時より大きくなった子供を抱き上げた。
ルドは少しだけ重くなっていた。
「ミアは?仕事?」
「うん。ママもパパ帰ってくるの楽しみにしてたよ!早く来て!見せたいものがあるんだよ!」
ルドはそう言って早く屋敷に入るようにと、俺を誘った。
「ディルク、俺の部屋に荷物運んでおいてくれ。終わったら帰っていい」
「あいよ」と応えたディルクは、馬を連れて屋敷の裏に消えた。
ルドを抱いてロンメル邸に上がると、ユリアに会った。
彼女も俺を見て「おかえり、スー」と笑顔で迎えてくれた。
「ワルターは?」
「旦那様?いるよ、こっち」とユリアはくるりと燕のようにターンして先を歩いた。
「旦那様!スーだよ!」
ユリアの元気な声に、居間でフィーと遊んでいたワルターが顔を上げた。
「よぉ、帰ってきたな。おかえり」
「ただいま」と応えて抱いていたルドを降ろした。
ルドの姿を見たフィーは嬉しそうな声を上げて、ルドに駆け寄った。
ワルターは残念そうな顔に笑みを浮かべて二人を眺めていた。
「大丈夫か?少し痩せた?」
ワルターに歩み寄ると、彼はソファに座ったまま「まぁな」と苦く笑った。
手紙で、彼の不調と、死産した子供のことは知らされていた。
「手紙…返事が遅れて悪かったな」と彼は謝ったが、もう済んだ事だ。
手紙でエラの働き口をくれるように頼んだが、無駄になってしまった。
もう少し早く返事をくれればと思ったが、ワルターを責めることは出来なかった。
彼は彼で大変だったのだから…
「ちょっと出掛けないか?」と彼に提案した。
ワルターは少し迷って、「あぁ」と頷いた。
「ルド、アグネスにフィーを預けて待っててくれるか?
スーと話があるから、少しだけ出掛けてくる」
「分かった」と素直に応えて、ルドはワルターに俺を譲った。
フィーと手を繋いで、子供部屋に向かったルドを見送って、ワルターと屋敷の裏の厩舎に足を運んだ。
「そういえば、アーサーは結局どうなったんだ?
」
「国王が介入したから、カナルでは国王の護衛に任務が変わった。
便宜上、《騎士》を押し付けられて、本人は文句タラタラだったよ」とワルターは苦笑いした。
「騎士様か。お祝いしてやらなきゃな」
「やめとけ。また機嫌が悪くなるぞ」とワルターは苦言を呈しながらも笑っていた。
「カナルでは会わなかったからな…
また真っ黒な鎧着けてるのか?」
「まぁな。あいつあれが似合ってるしな。
あと、オークランドに身元がバレないように、カーティスが変な仮面くれたからそれを着けてるよ。
存在感が薄れる仮面なんだと…あいつなんでも持ってるな…」
「本当に敵にならなくて良かったよね」
二人で談笑しながら、繋がれていた馬を引き出して用意した。
用意している途中にアダムが現れて、ワルターの姿を見咎めた。
「旦那様、どちらに…」
「スーと散歩だ」と答えたワルターに、アダムは心配そうに伴を申し出た。
「いい。二人で話したいことがあるから、シュミットにバレたら出掛けたって言っておいてくれ」
「叱られ役ですか…ご命令なら仕方ありませんね」
「悪いな、酷い旦那様で」とワルターは笑いながら冗談を言っていた。
その姿が空元気のようで少し辛そうだった。
「行くか、アイリス」
愛馬に声を掛けて、ワルターはアイリスの背に跨った。
アイリスは尾を振って、耳をパタパタと動かしながら、少し落ち着かない様子だった。
彼女は繊細に人の気持ちが分かるから、主の様子が気になるのだろう。
ワルターが手綱を握ると、アイリスは従順にゆっくりと歩き出した。
「久しぶりに乗ったな…気持ちいいな」とワルターはアイリスの背で秋を楽しんでいた。
秋風に誘われて、ブルームバルトのカーテンウォールの外に出た。
「どこ行く?」と問いかけると、彼は「何処でもいい」と答えた。
「もうなんでもいいんだ…したいことも何も無い…」
「ワルター?」
「手紙…読んだろ?そういうことだ…」
ワルターは暗い顔で笑って、「俺って弱いよな…」と呟いた。
俺が憧れた背は傷付いて、真っ直ぐではなくなっていた。
背負いすぎた背は疲れたように曲がっていた。
「誰も俺を責めないんだよ…俺が悪いのに…」
「君だって被害者だ」
心から出た言葉だったが、それが彼の慰めになることはなかった。ずっと自分を責め続けていたのだろう。
自分が悪いと思い続けて苦しんでいたのだろう。
彼の姿が、自分と重なって悲しくなった…
エルマーが死んだのは俺のせいだ…
でも、誰も俺を責めなかった…それがまた辛かった…
「君は…つまらないことをしなかったら、子供は死ななかったって思ってる?」
俺の問いかけに、ワルターは黙って頷いた。
「テレーゼにも、辛い思いさせなかったって思ってる?」
「お前…はっきり言うよな…」とワルターは苦く笑った。
彼と馬を並べながら、今度は俺の傷を晒した。
「だって俺もそう思ってたから…
俺が攫われなければ、エルマーは死ななかった…
あんなことさえなかったら、今でもミアとルドの隣にいたのは兄貴だったはずだ…」
「そうかもな…」
「君の気持ちは、俺が誰よりも分かってるつもりだ」と彼に伝えた。
ワルターは黙って、手綱を握っていた片手を目元に運んだ。
込み上げるものを抑えるように、彼の肩が震えた。
「辛かったな」と短い言葉に全てを詰め込んで、彼の苦しみに寄り添った。
慰めの言葉なんて、俺が言わなくても足りてるはずだ。
なら俺の役割はそれじゃないのだろう。
傷の痛みは同じ傷を負わないと、想像でしかない。
結局その痛みがどれだけの苦痛かなんて、傷を負った奴にしか分からないんだ…
「子供…残念だったよな…」と彼の答えを待った。
「…名前…考えてた…」嗚咽混じりの震える声で、ワルターは話を続けた。
「男なら俺が付けるって…女なら…テレーゼが…」
「そうか…どっちだったんだ?」
「男だった…《フェリックス》って…墓に刻んだ…」
ワルターは産まれてくるはずだった子供の名前を教えてくれた。
呼ぶことも無く、消えてしまった命…
その名を口にして、彼は嗚咽を漏らしながら涙を流した。
「《フェリックス》か…
いい名前だな。ダサい君にしては上出来じゃないか?」
悩んで悩んで、自分の分まで《幸せ》になれるようにと選んだ名前だったろう。
ワルターの子供時代は不遇なものだったから、自分の子供には幸せになって欲しかったに違いない。
涙を流す彼を心配して、アイリスが足を緩めて後ろを振り返った。
死産で産まれてきた彼の子供は、ブルームバルトの墓地に埋葬されたらしい。
庭にも小さな木を植えて、死んだ息子を忘れないようにと彼の死を悼んだ。
「こんなの望んじゃなかった…
俺一人で済むんならって…そう思っただけなんだ…」
「うん。君らしいや」
「馬鹿だろ?」
「馬鹿だよ。すっげぇ馬鹿だ」
「迷惑かけたな…」
「全くだ。次はないからな」
「俺も…もうごめんだ…」と呟いたワルターは少しだけ楽になったように見えた。
「それにしても、お前って本当に遠慮ないよな」
「レプシウス師は、『現実から逃げるより向かい合うように』って言ってたよ。
俺もレプシウス師に色々聞いてもらった。
まだ完全にスッキリしたわけじゃないけど、エルマーの事は忘れたくないし、悪いことだけじゃないからさ…」
「そうか…」と頷いて、ワルターは高い秋空を見上げた。
「せっかく命を譲ってくれたのに…
俺が逃げちゃ駄目だよなぁ」
しみじみと呟く彼の声は、哀愁を含んだ秋風に乗って子供に届いたろうか?
✩.*˚
スーと話をして少し気が紛れた。
ぶらぶらと散歩しながら話をして、屋敷に帰る前に花束を二つ買った。
一つは、帰りに立ち寄った、真新しい墓石に供えて、命の恩人に感謝した。
この命は彼に貰ったのだから、大切にすると誓った。どんなに辛くても、二度と同じことはしないと心に刻んだ。
すぐ戻るって言ったのに、思ってたより長くなってしまった。
屋敷に戻ると、心配していたシュミットに叱られた。
彼は勝手に出回った俺と、勝手に連れ出したスーを咎めたが、ラウラに「いいことです」と言われて渋々苦言を引っ込めた。
「テレーゼは?」
「お部屋で休まれています」とシュミットが答えた。
「そうか」と頷いて、花束を持って彼女が時々寝室として使っている部屋に足を向けた。
あれから俺の身体は少しおかしくなっていた。
あれほど好きで、毎晩でも抱きたかったテレーゼに、まるで反応しなくなった…
自分でも驚いた。でもこんな事誰にも言えなかった…
男として、これを知られるのは不名誉だ。
知られたくなくて、しばらく寝室を分けたままにしていたが、彼女はそれを、俺の心が離れたと思ったようだ…
《寝室を戻せるようになった》という彼女からの誘いを断って、無駄に彼女を傷つけてしまった。
夫婦の溝は増々深くなっていた。
彼女の部屋のドアをノックすると、アンネが出た。
花束を抱えた俺を見て、アンネは少し驚いた顔をしたが、テレーゼに取り次いで部屋に通してくれた。
「ワルター様、どうなさいましたか?」
「悪い…今忙しいか?」
「子供たちの教科書を考えてました。何かご用事ですか?」
「これを渡したくて」と花束を彼女に差し出した。
「フェリックスの墓にも置いてきた。これはお前の分だ」
「ありがとうございます…」鮮やかな花束は彼女の腕に納まった。彼女は赤ん坊を抱くように、花束を大切に抱いた。
「少し時間あるか?」
「はい」
「二人で話せるか?」
「もちろんです。
アンネ、少し外してくれる?あとお花をよろしくね」
「かしこまりました」
花を預かったアンネが、部屋を出て行ったのを見送って、テレーゼは「どうぞ」と俺にソファを勧めた。
「寝室…戻す気はないか?」と単刀直入に彼女に切り出した。
テレーゼは驚いた顔で俺を見上げた。
彼女は「よろしいのですか?」と彼女は訊ねた。
「もう…冷めてしまったのかと…」と彼女は不安を口にして、ガーネットの瞳を潤ませた。
「冷めたりするもんか。今だって俺はお前を愛してる」
「だって…私が…私がワルター様を追い詰めてしまったから…あんな事に…」
「ちゃんと話をしなかった俺が馬鹿だったんだ。お前の反応は母親として当たり前だった。
俺はお前が間違ってるなんて思ってねぇよ。
お前は俺の自慢の嫁だ」
恐る恐る伸ばした腕を、彼女は受け入れてくれた。
華奢な肩を抱き寄せて、小さな身体は腕の中に納まった。応える彼女の細い腕が俺の背に回った。
「俺もまだ整理しきれてないけどよ…お互いに気持ちの整理がついたら、また子供を作ろう」
「…はい」
「頼りにならん旦那で悪いな…」
「いいえ。ワルター様は、優しい私の旦那様です」
彼女は嫁のお手本のような返事を返してくれた。
馬鹿だよな…こんなに良い女をビビって避けてたなんて…
やっぱり俺って馬鹿なんだよなぁ…
✩.*˚
「ただいま、ミア」ルドに手を引かれて、ミアの仕事場に顔を出した。
厨房で夕食の用意を手伝っていた彼女は、磨いていた食器を置いて、笑顔で「おかえり」と言ってくれた。
数ヶ月離れてたのに、彼女は昨日送り出したかのように俺を迎えた。
「ごめんね、迎えに出れなくて。
メリッサもお腹大きくなってきたからあまり無理させられなくて…」
「いいよ。君だって忙しいんだろ?」
「なんか大変だったみたいだね。
まだ帰ってこないかと思ってたよ」
「元々短期の埋め合わせみたいな仕事だったから。
残って欲しいって言われたけど、ワルターの事も気になってたし、団員も心許ないから戻って来たよ」
「また団員集め?」
「うん。今度はワルターと一緒に出ていくと思う。多分春先だろうね」
「旦那様といっしょに戦いに行くの?」と話を聞いていたルドが声を上げた。
「旦那様かわいそうだよ」とルドは視線を落として俯いた。子供なりに、ワルターが傷付いて疲れているのを感じ取っているのだろう。
ルドは大好きなワルターが心配なんだろう。
「大丈夫。ワルターは強いから」
「でも…強くても、悲しいよ…」
「そうだな…でも、自分で何とかするしかないんだ。
辛いからって、責任は放り出せないんだよ。それはワルターが一番よくわかってることだから…
だから、ワルターが悲しくならないように、一緒にいてやってくれ」
ワルターもルドを自分の子供みたいに可愛がっていた。きっと子供を失った傷は、子供たちが一番の薬だ。
エルマーを失った傷を癒してくれたルドが、今度はワルターも癒してくれると信じていた。
「忙しいのに手を止めて悪かったね。また後で時間がある時に話そう」とミアに伝えて、ルドを抱き上げた。
「ルド。ママまだ仕事があるから、俺と遊ぼう。何か見せるって言ってたろ?」
気の滅入る話はお終いにして、別の話に切り替えた。
「うん。アルマの鱗が剥がれたの。色が少し変わったよ」
「そうなのか?それは見なきゃな!
じゃぁ、また後で」
「うん、後でね」とミアは笑顔でルドとタッチして手を振った。
また随分あっさりだ…
我慢できずに、ルドを抱いた反対の手で彼女を抱き寄せて接吻た。
驚く彼女の顔は可愛かった。
「後で…待っててよ」
「あ…うん」察した様子のミアは恥ずかしそうに視線を逸らして、ぎこちなく髪を触っていた。
「パパ?」大人の会話が分からないルドが首を傾げていた。
「ごめん、ごめん。アルマ見に行こうか?」
「うん!」
甘えるように、首に子供の腕が絡みついた。
「パパ」
「何だ?」と応えると、ルドは垂れ気味な目元をさらに緩ませて笑った。
「ルド、いい子に待ってたよ。お手伝いもしてるの」
「偉いな」
「えへへぇ」
誇らしげに緩んだルドの頬が、暖かい色に染まった。
「パパ、大好き」という声に、「俺も大好きだよ」と返した。
幸せな笑い声が廊下に響いた。
✩.*˚
「お爺ちゃん!」
昼寝をしてたのにうるさいのが部屋に飛び込んで来た。
スカートが捲れても気にしないのは、女として未熟な証拠だ。
「…うるせぇな、ノックぐらいしろ」
「カミルたち!帰ってきたよ!」と興奮気味のルカが息子たちの帰宅を報せた。
怖いもの知らずなのか、ルカは俺の腕を掴んで引っ張った。
「ほら!早く来てよ!」と強引に連れていこうとするが、寝転んだソファから動く気はなかった。
面倒だからじゃない。待ってたのを悟られるのが嫌なだけだ…
それに、俺が行かなくったって、あいつらは俺のところに来るんだ。
軽いノックの音が聞こえて、引っ張っていたルカの腕が緩んだ。
「親父さん、ただいま」
ルカの向こうから聞こえた声に、靴音が続いた。
「もう帰ったのか」
「全く、可愛くないんだから…
『よく帰ったな』ってハグしてくれていいんだぜ」と部屋に現れたカミルは冗談交じりに言った。
「お爺ちゃん素直じゃないんだよ。置いていかれたの根に持って、まだへそ曲げてるんだ」とルカも余計なことを言った。
カミルはルカの頭を撫でて、「よく分かってる」と俺に悪戯っぽく笑って見せた。
舌打ちしてソファから身体を起こすと、不機嫌を装った。
「お前ら『帰ってくんな』って言っても帰ってくるだろ?行く宛てもねぇクソガキ共だ」
「そうだよ。あんたの大好きなクソガキさ」
「ふん…あのヒョロヒョロはカナルでくたばったのか?」
「ルドルフか?いるよ。少しは逞しくなったと思うぜ」
カミルはそう答えてドアの方に視線を向けた。
華奢で頼りなかった青年の肩幅は、少しだけ大きくなっていた。
「…た、ただいま、ゲルト」少し迷って、ルドルフ選んだセリフはそれだった。
「ふん。よく帰ってきたな。逃げ出すもんだと思ってたのによ」
「お爺ちゃん、素直に『おかえり』って言いなよ」
「まぁ、そう言うな、ルカ。これはこれで分かりやすいんだ」
ルカのため息にカミルはニヤニヤ笑っている。
俺の前に立ったルドルフは、同輩らしき青年を連れていた。
その身なりと佇まいから嫌な予感がした。
「…これ以上預からんぞ」
「まぁ、そう言うなって、親父さん…
話だけでも聞いてやってくれよ」
カミルは苦笑いしながらルドルフの背を押した。
緊張した面持ちのルドルフが、手にしていたものを差し出した。
箔押しの羊皮紙には理解し難い言葉が並んでいる。
「なんだこりゃ?」
「私の身分証だ。この度陛下から名誉を回復させる機会を頂戴した」
なるほど…王子だったのか…
驚くより納得した。道理でなんにもできないわけだ。
こんなの押し付けやがって。後でワルターを引っ捕まえて、文句を言ってやらにゃならん。
「それで?この紙切れで俺に仕返ししようって来たのか?」
意地悪く言って、紙切れを返した。
相手が王子様と知ったからと言って、態度を変えるのは不器用で頑固な俺には出来なかった。
『無礼だ』と喚くかと思ったが、ルドルフは俺より大人だった。
「そんなつもりは無い。
ゲルトにもカミルにも世話になった。ここで私がどんな人間か教えられた。感謝している」
「分かった分かった。
じゃあ荷物まとめてさっさと帰れ。
もうこんなの汚ぇところ用はねぇだろ?」
「私はまだヴォルガシュタットに帰る気は無い」
「馬鹿言え。
お前みたいな約立たずのガキを置いてやるほど、俺は余裕ねぇんだ。
名誉挽回したんなら、王子様がこんなクソみたいな溜まり場に用なんてあるもんか」
ルドルフから視線を外して、カミルに「支度を手伝ってやれ」と命じた。
ソファを離れて、部屋を解散させようとしたが、逃げ出そうとした俺の腕を小さな手が引き止めた。
「お爺ちゃん」
腕を握ったルカが俺を見上げていた。
責めるような視線は俺を睨んでいた。
「ルドルフ可哀想だろ?ちゃんと話聞いたげてよ…」
腕にぶら下がる子供の手を振り払う気にもならず、出て行くタイミングを逃してしまった。
「親父さん。もうちょっとだけ我慢して聞いてやってくれ。
ルドルフだって自分で考えて出した結論だ」
カミルもルドルフの肩を持った。
ため息を吐いて、またソファに腰を下ろした。
今度は俺が逃げ出さないように、ルカが膝の上に乗っかった。
こいつら…どいつもこいつも…
「少しだけ聞いてやる」とぶっきらぼうに伝えると、ルドルフは自分で出した結論とやらを話し始めた。
「私はまだカナルで学びたい」というのが王子様の希望だった。
「私はここに残って、父上がオークランドから守り抜いた土地を守りたい。
でも、私は現場で権限を与えられるほどの功績はない。
今まで必要ないとサボっていたから、魔法も兄上ら程の腕もないし、剣も未熟だ」
いっそ清々しいほど自分が役立たずと知ってるようだ。
「だから《傭兵》になるってか?
お粗末な考えだ…」
「お爺ちゃん」とルカが俺を窘めた。
ルドルフは苦笑して「その通りだ」と頷いた。
「私が本営に加わりたいと陛下に頼めば、椅子を用意してくれるだろう。
ただ、座るだけの椅子だ…
現場はおろか、意見すら無意味だろう。私は《我儘王子》という不名誉な有名人だ。
それなら、末端の《傭兵》という立場でも、少しでもカナルに貢献する道を選ぶ。
そのために、《燕の団》に残ることを許して欲しい」
「お前に何ができる?」
「何ができるじゃない、してみせる。行動で示す」
俺に反抗する青年は、ここに留まることを求めた。
帰ったら贅沢三昧で苦労なんかないだろうに…
こんな汚ぇ掃き溜めのような場所に残ると拘るなんて、頭の悪い野郎だ…
「…仕方ねぇ…春まで面倒見てやる」と答えてしまった。
「その間に《傭兵》として使えるようになったら、俺は四の五の言わねぇ。
できねぇなら諦めろ」
「分かった。ありがとう、ゲルト」
「良かったな、ルドルフ」とルカも満足そうに笑った。下っ端仲間が追い出されずに済んで安心したようだ。
ルカは膝の上で俺を見上げて「素直じゃないなぁ」と余計なことを吐かして、俺の膝を後にした。
「で?聞きたくないが…さっきから俺を睨んでるそいつは何だ?」
「あ…彼は、私の元従者の…」
「アルバン・フォン・キュンツェルと申します!」
苛立ちを噴出させるように自己紹介をした青年は、前に出て俺を睨んだ。
「貴殿がここで一番偉い人物だとしても、相手が《殿下》と知ってその態度はいかがなものですか?!」
俺に食ってかかる青年をルドルフが窘めた。
「アルバ。彼はそういう人なんだ。
手のひらを返すような人より信頼できるだろう?」
「お爺ちゃんは口は悪いけど、素直じゃないだけでいい人だよ」
「お前らよく分かってんな。
なんなら親父さんは善人の部類だぜ」
「…お前らな」
止めろよ!そういうの調子狂うだろうが!
全く、うるさいクソガキ共め!
✩.*˚
イザークを連れて、礼も兼ねてエインズワース工房に邪魔した。
果物や菓子を持っていくとアニタは喜んでくれた。
「わー!葡萄美味しそう!
この林檎もキレイじゃん!ありがとう!」
「ありがとー!」とエドガーも喜んで跳ね回っていた。ルドと同じような反応に笑顔が誘われた。
「エドガーは林檎大好きだもんね。後で剥いてあげる」
「赤ちゃんは?」とエドガーは妹たちにもあげたいようだ。
「フリーデは少し食べれるかもね。すり潰して少しあげてみようか?」
「うん!」
エインズワース親子は、預かってる子供を家族として大切にしてくれてるみたいだ。
「フリーデは?」と訊ねると、アニタは「会いたい?」と悪戯っぽく笑った。
「連れてくるから待ってなよ」と言って席を外した彼女が奥から出てくると、腕の中には欠伸をしてる赤ん坊が納まっていた。
「少し太った?」と言いながらフリーデを受け取ると、アニタに怒られた。
「女の子にそんなこと言っちゃダメよ!
太ったじゃないの、大きくなっただけよ」
「そうだな。ごめんな、フリーデ」
抱っこした感じもずっしりして、身体も安定したように思えた。
女の子だから男の子に比べれば軽いけど、フリーデはちゃんと大きくなっていた。
「抱くか?」とイザークにフリーデを差し出した。
イザークは少し迷ってフリーデを受け取った。
「ほんとだァ、お嬢重くなったな…」とイザークも失礼なことを口にした。
「あんたたちねぇ…」
なにか言おうとしたアニタの言葉が途中で止まった。アニタの視線はイザークの顔に注がれていた。
「良かったな、お嬢…エラも喜んでるよ」
イザークの震える声を聞きながら、知らないフリをした。
「フリーデ預かってくれてありがとう」
「あ…うん。いいよ。エドガーもメアリも仲良くしてるしさ。
それに、この子あんまり手がかからないし」
「赤ん坊の世話をしてくれそうな知り合いが君たちくらいしか思い当たらなくてさ。本当に助かったよ」
「頼られるのも悪くないね。
ギルも親父も可愛がってるし、このままだと手放せなくなっちゃうよ。
この子どうする気なの?」
「俺が引き取るつもりだけど、まだお乳が必要だろ?」
「そうね。まだ、離乳食だけってなかなか難しいだろうし…」
そう言ったアニタの袖をエドガーが引いた。
「フリーデちゃん、ルドのいもうとなるの?」
「あ、うん、多分…」
「エドガー、フリーデちゃんのおにいちゃんじゃないの?」
「エドガーはメアリがいるでしょ?」
「やだぁ!フリーデちゃんもエドガーの!」
フリーデを連れていかれると思ったのか、エドガーは必死になってイザークの足にしがみついた。
フリーデに情が移ってしまったんだろう。エドガーは良いお兄ちゃんになったようだ。
「ちょっと、危ないでしょ?!」と引き剥がそうとしたアニタに、イザークは「いいよ」と笑った。
彼はしゃがんで、エドガーの視線に合わせると、子供に話しかけた。
「お嬢のこと好きか?」とイザークが訊ねると、エドガーは「うん」と頷いた。
「だよなぁ、可愛いもんな」
「フリーデちゃん、エドガーのいもうとなの…」
「そっか…ありがとうな」
イザークはエドガーに礼を言って、抱いてる赤ん坊を名残惜しそうに眺めてアニタに返した。
赤ん坊を受け取って、アニタは苦笑いしながら俺たちに謝った。
「ごめん。なんかあたしたちも情が移っちゃってさ…
エドガーにはちゃんと話しておくから…」
「いいよ。むしろ大事にされてるようで安心した。良かったな、フリーデ」
アニタに抱かれたフリーデの頬を撫でて、ミルクの匂いのする頬にキスした。
「まだこの子の里親は保留だな。
ギルが手離したくないって言ったら、俺も何にも言えないや。
それまでの養育費は俺が払うから、必要なものがあったらなんでも言ってくれ。
これでも《燕の団》の団長だから金ならあるよ」
「いいよ、そんなの。
うちだって、よく稼ぐ頼れる大黒柱がいるから困ってないよ」
アニタはそう言って明るく笑った。彼女も、まだフリーデを手放さなくて良いと知って、安堵したようだ。
話をしていると、奥の部屋から元気な赤ん坊の鳴き声が聞こえてきた。
「あー、メアリだ」と苦笑いするアニタの横で、「たいへん!」と叫んでエドガーが走り去って行った。
「元気な声だね」
「あの子あたしに似て声が大きいからさ。
まぁ、分かりやすくていいんだけど…
なんか、この子が来てからあの子も寝つきが良くなって、あんまり夜泣きしなくなったのよね」
「へぇ。役に立ってるんだ」
「まあね。夜泣きしないと本当に助かるよ。
ちょっとメアリ連れてくるから、フリーデ抱っこしててくれる?」
アニタはそう言ってまたフリーデを俺に預けた。
柔らかい赤ん坊の身体が腕の中に納まって、優しい香りが鼻腔に流れ込む。
「うー」とまだ言葉にならない声で、不満を訴えた。
「ちょっと待ってなよ」と抱いてる赤ん坊をあやした。
この子の扱いなら慣れてる。この子を自分の家族にしたかったが、フリーデは自分の居場所を見つけたみたいだ…
「どうする?」とイザークに訊ねた。
「俺に訊くなよ」とイザークは自嘲するように笑った。その顔は、大切な何かを諦めてるようだった…
「そうか?俺はお前が引き取りたがると思ってたけどな…」
「バカ言えよ。独り身のおっさんがどうやって赤ん坊世話すんだよ?
死なせちまうのがオチさ…」
寂しい笑みを浮かべながら、イザークはフリーデに手を伸ばした。
男のゴツゴツした硬い手が、赤ん坊の柔い頬に触れた。
「この子の幸せを壊す気は無いって。そんなの野暮だ…そうだろ?」
「…まぁな」
この子の母親はクソみたいな男に殺された。
その男は手足を健を切って、罪状を貼り付けた丸太の舟に括りつけて河に流した。
どちらにせよ、この子にはもう肉親と呼べる相手はなかった。それなら家族を用意してやるのは当然の流れだった。
この子にとって、一番良い家族が見つかったようだ…
「何だ、お前らか?」
不意に聞こえた声に振り返ると、ギルが扉の前に立っていた。
俺がフリーデを抱いているのを見て、彼は俺たちがフリーデを迎えに来たのだと思ったらしい。
「連れていくのか?」とギルは俺たちに訊ねた。
「いや、顔を見に来ただけだよ。
預かってくれてありがとう」
「別に…世話してるのはアニタだ」とぶっきらぼうに答えて、彼はフリーデを気にしながら、棚を漁ってお目当ての物を持っていこうとした。
「あー」と声を上げて、身体を捻ったフリーデが手を伸ばした。
彼女はギルを目で追いかけていた。
「懐いてる?」と訊ねると、彼はムキになって否定した。
「ち、違う!そんなに構ってなんかない!時々抱くだけだ!」
「ギルは暇さえあれば抱っこしてるよ。なんなら一番可愛がってるよ」
娘を抱いて戻ってきたアニタが、ニヤニヤしながらギルの嘘を暴露した。
「『靴はまだ早いか?』って言ってたのは誰だっけー?」
「パパだよー」アニタの問いかけに、エドガーが笑顔で答えた。
幸せそうな家族の姿を微笑ましく眺めた。
「目を離すと這いずって行くから抱いてるだけだ。靴だって…そのうち要るだろ?」
「はいはい、そういうことにしとこうね」
言い訳を並べる旦那を黙らせて、アニタは抱いていた娘をギルに押し付けた。
「フリーデ、おいで」と声をかけると、フリーデはアニタに手を伸ばした。
フリーデは既にアニタを母親と認識しているようだ。
フリーデを受け取って、アニタはギルに歩み寄った。
両親の腕の中で、「うー」「あー」と声を上げながら、赤ん坊たちはお互いに手を伸ばして相手を確認していた。
「仲良しでしょ?」とアニタは自慢げに娘たちを見せた。エドガーも手を伸ばして、両親の腕からはみ出た妹たちの足を触っている。
良い家族だな…
素直にそう思えた。
チラリと盗み見たイザークの寂しげな横顔は、フリーデの幸せを喜んでいるように見えた。
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