燕の軌跡

猫絵師

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クソ野郎

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「旦那様」とシュミットに呼ばれた。

顔が険しい。俺、何かやらかしたか?

「ちょっとごめんな、フィー」

抱っこしていたお姫様をユリアに預けた。

「パパァ?」フィーは不服そうに、ユリアに抱かれながら俺に手を伸ばした。でもユリアも慣れたものでフィーの興味を他に引いた。

「旦那様すぐに戻ってくるよ。ルドのところ行く?」

「ルーちゃま?」

「うん」

「ルーちゃまいく!パパ、バイバイ!」

これはこれで悲しい…

いや、ルドは良い奴だけどさ、パパはバイバイだけかい?

「旦那様!」早くしろと言いたいのだろう。シュミットに急かされて、後ろ髪を引かれながら彼女らと別れた。

「なんだよ?急ぎの用か?」

「中庭に、侯爵様からの飛竜が使いに来ております」

「はぁ?俺は昨日戻ったばかりだぞ?カナルで何かあったのか?」

「私にも分かりません。とりあえずお会い下さい」とシュミットは俺を中庭に連れて行った。

アルマの小屋の前に、大人の飛竜と軽装の騎士の姿があった。

アルマが小屋から顔を出して、大人の飛竜に雛鳥のような声で呼びかけている。

それを見て、スーに卵を譲った男は、愛でるような顔で子供の飛竜を撫でた。

「久しぶりだな、ウェイド卿」と声をかけた。

彼は飛竜から手を引くと、俺に向き直った。

「ご無沙汰しております、閣下。

侯爵閣下より急ぎ届けよとの書状です。ご確認ください」

ウェイド卿は挨拶もそこそこに、パウル様から預かった手紙を差し出した。

「ありがとよ。すぐに確認する」

「ここでお待ちしますので、お返事をお預かりしたく存じます」

「飛竜はそこに繋いでおいて、中で休んだらどうだ?」と勧めたが、彼は飛竜と待つと固辞した。

「分かった、じゃあすぐに返事を用意する」と約束して屋敷に戻った。

「あら?ワルター様?」

アンネを連れたテレーゼと廊下ですれ違った。

珍しくめかしこんでるのは友人を迎えるからだろう。昼にはフィーの誕生会に参加するはずのアダリーシア嬢たちが到着する予定だ。

「フィーとお散歩中では?何かありましたか?」

「あぁ、パウル様から急ぎの手紙が届いたからユリアに預けてきた。

でもよ、フィーの奴ってば冷たいんだ。親父よりルドが良いんだとよ」

「うふふ。可愛いじゃないですか?」

「笑えねえよ…」

「旦那様、ウェイド卿を待たせております。早く手紙をご確認ください」

足を止めて愚痴りだした俺をシュミットが叱った。シュミットも家宰の仕事に加え、誕生会の準備やらで忙しいのだろう。

「また、後でな」とテレーゼと別れて、書斎の机に向かった。

シュミットに監視されながら手紙の封を切った。

一体なんだ?

手紙は至ってシンプルな内容だった。

よくある召喚状だ。

それでも何か引っかかる。手紙は内容が無かった。しかもこのタイミングだ…

俺にとって大切なイベントなのに、呼び出すってことは相当だろう…なのにこれだけか?

「…これ…どう思う?」

「どうもこうも召喚状です。

まさか応じないとか言わないですよね?」

「明日何の日か知ってるだろ?」と不機嫌になる俺にシュミットは呆れたようにため息を吐いた。

「今から行ったら明日が潰れる…」

「行かなきゃお家が潰されますよ。用意してください」

俺に選択する権利はないらしい…

もうこれ以上何も無いことを願うだけだ…

あわよくばすぐに用事が終わって帰れることを祈るだけだ。

✩.*˚

「あ…」ロンメルが馬上で変な声を出した。

「やっべぇ…アーサー戻れるか?」

「そんな時間ないだろう?」

もう屋敷を出てそれなりの距離を走っていた。戻っていては時間も無駄になるが、馬の疲労が心配だ。

「スーの手紙を見るの忘れてたんだよ。

あーあー、しくったな…あいつせっかちだから、返事がないって今頃イライラしてるぞ」

「閣下、私が届けますから、先に行ってください」と同行していたハルツハイム卿が、手紙を取りに戻ると言ってくれた。

「悪いな、アダルウィン。一人で大丈夫か?」

「お任せ下さい。戻って馬を変えれば追いつけるかと思います」

ハルツハイム卿はそう言い残して馬を返した。

「あの子の方がしっかりしてるぞ」と叱ると、ロンメルはバツが悪そうに肩を竦めた。

「だって俺冴えないおっさんで元傭兵だぜ?」と開き直る男にため息が出る。こりゃ、あの家宰殿だって匙を投げたくなるだろうさ…

『目を離さないでくださいね』と念を押されたのも頷ける。

娘の誕生日を祝えないと言って、ここまでずっと機嫌が悪い。

そういえば、もう一人面倒くさいのを宥めるのに苦労した。

メリッサにはまだ騎士になる話はしていない。

そんな話ができるような空気じゃなかった。

俺が屋敷を離れることがほとんどなかったから、続けて出かけることに不安を覚えたようだ。

『浮気じゃないですよね?』と言って、彼女は自分で口にした言葉に傷付いて泣いていた。

まぁ、そんなところも可愛いが、泣かれるのは面倒くさい。

奥様が上手に宥めてくれたが、妊娠が彼女にとって負担になっているは明らかだった。

大丈夫だろうか?

まさか、アイリーンのようにならないだろうか…

嫌な考えが頭を過ぎる。

子供は五体満足に生まれるだろうか…

彼女は命を落とさないだろうか…

そう思って不安に感じることもあった。

騎士の名誉より、彼女の近くに居たかった。

彼女の危なっかしい姿や、時々とんでもない失敗をやらかすのを見てる方が安心するのは何故だろう…

こうやって離れている方が気がかりになってしまう。離れていては助けてやれない。

もし、騎士になれば、今のように自由ではいられない…

「ロンメル」

「なんだよ?」

「騎士の話だが…何とか断れないか?」

俺の言葉に、一瞬ロンメルは固まってしまった。

「はあ?なんで?お前にはいい話だろ?!」

「自分は嫌がったくせに、俺は嫌がらないと思ったのか?」

「いや、でもよ…便宜上その方が…」

「俺はメリッサと慎ましく暮らせればそれでいい。

元オークランド人でも、家名を名乗れなくとも問題じゃない」

産まれてくる子供には悪いが、俺はあのロンメルの屋敷という限られた場所から離れる気はなかった。

「…ずりぃじゃねえかよ」

ロンメルは拗ねたようにそう呟いてため息を吐いた。その一言が心から出た言葉のようで、俺の笑いを誘った。

「まぁ、話してみるよ…ダメだったら諦めろよ?」

「《英雄》が役に立たないなら諦めるさ」

「頼りにならん旦那様で悪かったな」と悪態を吐いた男は苦く笑った。

✩.*˚

スーがイライラしてる…

旗の一件から機嫌が悪いがのもあるが、もう一つの理由は、待ってる手紙が戻らないからだ。

「ワルターの奴、フィーの誕生日の件で俺の手紙の返事絶対忘れてるだろ?!」

「まーさー、あの人一応領主様じゃん?忙しいのよ、きっと…」

「じゃあ、ここで燻ってる俺は暇だって言いたいのか?」

あー!ヤダヤダ!これ何言っても怒るやつじゃん…

「うー…わんわん!」

返答に窮して苦し紛れに犬の鳴き真似で誤魔化した。つまらん悪あがきだが、意外とこれが効果あるのだ。

「お前な…困ったらとりあえず犬の真似するのやめろよ…」

スーは鼻白んだ様子で、怒りを削がれてため息を吐いた。

「スー。イザークに当たっても仕方ないだろ?

現状待機命令なんだから、俺らにすることなんて無いだろ?」

「分かってるよ…」

ディルクに諌められて、スーは不機嫌そうに怒りを引っ込めた。

旗を奪われたのが悔しかったんだろうが、奪われたのは《燕の団》の旗だけじゃない。

なんなら俺たちの旗なんて些事だ。

《燕の団》の旗だけながら、スーは河を渡って取りに行っただろう。

そうしないのはもっとマズイものが対岸にあるからだ…

「あの舐めた男!絶対ぶっ殺してやる!」

沸々と怒りを溜め込んで、今にも爆発しそうなスーには慰める薬が要りそうだ。

ディルクも同じことを思ってたらしく、指先で俺に合図を送った。

「手紙は無理そうだから、お嬢連れて来い」と言われて複雑な気持ちが顔に出た。

「何で俺?」

「いつも行ってたろ?お前が一番話が早い」

「いやー…ちょっと気まずくなっちゃって…」

俺の中途半端な言い方にディルクも眉を顰めた。

「お前な…まさか母親の方に手を出したのか?」

「出してねぇって!そんなことしたらスーに殺されるだろ?!」

「なら何が気まずいんだよ?」

腕組みしたディルクがさらに追求した。

厄介事になる前にディルクにだけ打ち明けた。

「…だって…振ったから…」

「は?」

「俺がエラを振ったの…そんだけ…」

気持ちが重くなる。彼女を振った時の感情を思い出して嫌な気分になった。

最後に見たのは別れた女と同じ姿だ…

「何で振ったんだ?」

「いいじゃん別に…」とディルクの追求をはぐらかした。それでも彼を納得させる答えにはならなかったらしい。

「やっぱりお前が行ってこい」とディルクは俺の背を叩いた。

「振るのは構わねえが、てめぇの色恋沙汰と俺たちのボスには関係ない話だ。

ガキじゃねえんだ、さっさと行ってこい」

「カイに行かせろよ。あいつ上手くやるだろ?」

「わざわざ呼ぶのが手間だ。お前がいるからお前には行かせた。そんだけだ…

グズグズすんな。さっさと行かねえと尻蹴飛ばすぞ!」

気が進まないまま、吠えるディルクに送り出された。

何で俺なんだよ…他にもいるだろ?

気が乗らないまま歩いていると、薪割りをしてるルドルフがいた。

「よー」と声をかけると、彼は振り上げた斧を下ろした。

「なんだ、イザークか」

「上手くなったじゃん」飛び散った薪を拾って返してやった。

最初は危なっかしかったが、今ではちゃんと斧を薪に振り下ろす事ができるようになった。

いじけたところがあったけど、今は何か吹っ切れたように働いてる。

こいつも別に根っからの悪い奴じゃないんだよなぁ…

「アルノーがコツを教えてくれたから、だいぶ当たるようになった。これも意外と難しいもんだな」と言いながら、ルドルフは拾った薪を積んだ。

「何か用事?」

「いや、別に」と答えるとルドルフは「そうか」と言って薪割りを続けた。

「そうだ!お前さ、ちょっと代ってくんねぇか?」

「何を?」

「スーの機嫌が悪いから、お嬢を連れに行くところだったんだけどさ。俺が薪割りをしとくから行ってきてくれよ。お嬢好きだろ?」

乗ってくるかと思ったが、ルドルフは少し考える素振りを見せて、俺の提案を断った。

「無理だ。歩き回るのは団長に禁止されてる」

「何で?」

「団長とはいくつか約束がある。

私の身を守るために、居場所は必ず伝えている。動くなら、カミルと一緒か、許可を取らなければならない。

あと、私は彼女らの居住区には立ち入りを禁じられている」

「何で?」

「何でって…私がトラブルに巻き込まれないためだ。その…彼女らは…そういう仕事だろ?」

「まぁ、そうだけどさ」

随分なお坊ちゃまだな…

輜重隊の《恋人たち》には結構押しの強い女も多い。

面倒ないざこざに巻き込まれることも無くはない。もし厄介な家から預かってるなら、その手の面倒事に巻き込まれるのは困るのだろう。

そうでなくともルドルフは、まぁ見るからに育ちが良くて、可愛い顔をしている。モテるだろう…

「まぁいいや…邪魔したな」

アテにならなそうだから、諦めてまた歩き始めた。

あーあー…気まずいんだよなぁ…

思い足取りで酒保の姐さんのところに足を運んだ。

彼女は一日のほとんどの時間あそこで過ごしている。

エラは、用事があったら姐さんにお嬢を預けていたから、先ず来るならここだ。

遠目から、お嬢を抱いた酒保の姿が見えた。

何か様子がおかしい…

やたらキョロキョロしながら店回りを動き回って、落ち着かない様子だ。

彼女は俺の姿を見咎めると「あんた!」と叫んで慌てて走ってきた。

「え?!なになに!?俺ちゃんなんかした?」

「エラが…エラがまずいことになったんだ!助けとくれよ!」

血相を変えてまくし立てる言葉に耳を疑った。

「どこから嗅ぎつけてきたか、元旦那が来てエラを連れてったんだ!

あのクソ野郎、エラの貯めてる金が目的なんだ!」

その言葉にカッとなって、腸が燃える様な怒りが灯った。

「…エラは…どこ行った?」

「分からないけど…フリーデをあたしに預けて、元旦那にどこかに連れていかれた。

あの子を助けておくれよ…ずっと頑張ってたのに…こんなのってないだろ?」

酒保の姐さんのはそう言って俺に何か押し付けた。金の入った皮袋…

「依頼料だよ、受けとんな」

守銭奴の酒保が金を出してまで母娘を助けたがっていた…

「あたしもあの子と同じことがあったから…ほっとけないんだよ」

「…分かったよ」口から出た言葉はそれだけだった。口実に金を受け取ったが、そんなのどうだっていい。

エラの泣き顔が脳裏に張り付いていた。

泣かせたままじゃ、俺はいつまでもクソ野郎のままだ…

今からでもやり直せるよな?

俺の中のクソ野郎に問いかけて、エラのテントに向かって走り出した。

✩.*˚

「なんだよ?割と溜め込んでたんだな?」

刃物をチラつかせながら、元旦那はあたしとチビちゃんのお金を奪った。

テントの中に掘った穴に少しずつ貯めてたお金を根こそぎ持って行かれた。

「こんなに稼げるなら、捨てること無かったな」と、元旦那は後悔を口にしていたが、彼が惜しんだのはあたしじゃない。あたしたちの稼いだお金だ…

何でこんな男選んだんだろう…

馬鹿だよね…

挙句にこんな奴に捨てられたんだからざまぁない…

悔しくて溢れそうになる涙を堪えた。

「お金持って行っていいから…もう来ないでよ…」

「なんだよ?『会えて嬉しい』くらい言えよ?可愛くねぇな…」

彼は舌打ちしてあたしの髪を鷲掴みにした。

男の力で揺さぶられて悲鳴を上げた。

「痛い!痛いってば!」

「会えて嬉しいだろ?俺に会いたくて金貯めてたんだろ?なぁ?」

このクソ野郎!

悔しくて睨み返したら、今度は顔を殴られた。狭いテントの床に倒れ込んだ。

「うぅ…」血の味が口の中に広がった…

元旦那は倒れたあたしの髪を鷲掴みにすると、無理やり身体を起こした。

「可愛くねぇ女だな、お前…

お前だって俺に未練があったから、ガキを捨てずにいたんたろ?

元の鞘に戻してやるよ。なぁ?また夫婦になろうぜ?」

彼の提案にゾッとした…

髪を掴んでた手が離れると、今度は別人みたいに優しくあたしに触れた。

「お前とは相性がいいと思ってたんだ。本当だぜ?」

男の手が、あたしの身体の女の部分に触れた。

気持ち悪い!

全身が元旦那を拒否していた。

触られたくない!声も聞きたくない!こんなの耐えられない!

必死にテントの外に逃げようとした。それでも相手は容赦なくあたしを捕まえて組み伏せた。

「逃げんなよ?赤ん坊は見逃してやったろ?」とクソ野郎はあたしを脅した。

チビちゃん…

「…やめて…あの子は…」

「赤ん坊なんか興味ねぇよ。あんのはこっちの方だ」と彼はあたしのスカートの中に手を入れた。

怖くて身体が動かない…

抵抗できなくなったあたしを、彼は満足そうに見下ろした。

「旦那様に御奉仕しろよ」

下卑た顔で笑う男が覆いかぶさってきた。

こんなに嫌だった事なんてない…

商売で抱かれた時だって、どこかで踏ん切りをつけて諦めた。

今はそれすらない…捨てられた男に、金を巻き上げられて、子供を人質に脅されてる…

今までの人生で一番消えてしまいたいと思った…

気持ちの悪い行為から目を背けていると、不意にイザークの顔が瞼の裏に見えた。

ヘラヘラ笑うふざけた男。

でもあのヘラヘラ笑う顔が一番心地よかった。好きだったんだ…

何かつられてあたしも笑ってた。

イザーク…あんた、クソ野郎なんかじゃないよ…

本当のクソ野郎はあたしの上に乗って、馬鹿みたいに腰振ってる奴だ…

畜生!ふざけんな!

ヤケになって男の腕に噛み付いた。歯型が残るくらい強く噛んだら相手が怯んだ。

「てめぇ!亭主に噛みつきやがったな!」

「あんたがあたしを捨てたんだ!もうあんたの女じゃない!」

「このアバズレ!」

怒号と罵声の後に、容赦ない暴力が襲った。

痛いなんてもんじゃない…

それでも、いいや、と諦められたのは、この男に噛みついてやったから…

ざまぁみろ…

死を間近に感じながら、少しだけ気持ちはスッキリしていた…

だから聞こえたあたしを呼ぶ声が、あの人の声に聞こえたんだろう…

✩.*˚

外まで聞こえる、言い争う男女の声に血の気が引いた。

「エラ!」

慌てて彼女のテントに踏み入って、倒れたボロボロの彼女の姿が目に入った…

遅かった…

血の付いた拳を握った男は、踏み込んだ俺を見て驚いた顔をしていた。

下半身を出したままの男を見てプッツンしちまった…

「な、なんだよ?!そいつが噛み付いたのが悪ぃんだ!」

男は喚きながら、テントに落ちてた物を拾おうとした。

ナイフと土に汚れた金の入った袋…

「…殺してやる」

今のって俺の声か?

喉から溢れた人を呪う感情に驚いた。

俺の怒りが伝わったのか、男は血相を変えて逃げようとした。

逃げようとした男に自分の足を絡ませて転がした。

畜生!

俺がさっさと彼女たちを迎えに行けば…寄り道しなければこうはならなかった…

あの時意地張って、彼女の思いに応えなかったことを後悔した。

『クソ野郎だけどいい?』って開き直れば良かったじゃねぇか?!

そうしたら、エラは…

涙が滲んだ。

好きだったなんて、今更遅すぎるだろうがよ!

気が付くと、騒ぎを聞きつけたのか、通りかかった奴らに取り押さえられていた。

「イザーク!おい!てめぇ聞こえてんのか?!」

「落ち着け!お前まで懲罰もんだぞ!」

仲間の声で我に返った。

「…あいつは?あの男は?」

「あいつ?お前が殺そうとしてた奴か?

捕まえてあるよ。一体何やったんだあいつ?」

その言葉が俺を冷静にさせた。

彼女は?いつの間にかテントから離れていた。

「おい!イザーク!どこに行くんだ?」

「エラが!」

「はぁ?なんだってんだよ?」

いきなり走り出した俺に仲間が着いてきた。

彼女のテントに戻ると、出てきた時と同じ光景が目の前に拡がっていた。

思わず立ち竦んだ俺の脇から仲間がテントを覗いた。

「うっわぁ…ひっでぇな…」

「女相手にここまでするかよ?あの野郎なんなんだ?」

そんな光景に見慣れてるはずなのに、相手が知ってる人間ってだけでそれは酷く残酷に見えた。

ピクリとも動かないエラの前に、膝を折って手を伸ばした。

抱き寄せた身体は糸の切れた操り人形のように意思の無いものだった…

殴られて腫れ上がった顔が痛々しかった…

彼女の身体はまだ温かかった。まだ生きてると信じたかった。

意識のない彼女を背負って、急いでスーのところに戻った。自分が泣いてるのも気付かないほど必死だった。

スーなら治癒魔法が使える。こんなのすぐに治るはずだ。

すれ違う奴らがギョッとした顔で俺を見て、振り返った。

「おまっ…なんだ?どうなってんだ?」

戻って来た俺の姿を見て、ディルクが驚いて問い質した。スーも驚いて俺を見詰めて、背負ってるのが誰か気がついたらしい。

「スー!頼むよ!エラを…彼女を助けてくれ!」

俺の背からエラを引き剥がして、ディルクは険しい表情を作った。

慌てて駆け寄ったスーもボロボロになったエラの姿に顔を顰めた。

「…誰かやった?」とスーは怒りを孕んだ声で俺に訊ねた。

「元旦那が…酒保の姐さんが教えてくれたけど…ごめん…」守れなかった…

何も言えなくなった役立たずをスーは叱らなかった。

「…なにしてんの?」

スーは何もしなかった。ディルクの腕の中で動かないエラを見詰めていた。

可哀想なものを見るような目で、紫の瞳が悲しい光を宿していた。

「早くしてくれよ!お前しか治せねぇだろ?!」

「イザーク…エラはもう…」

スーは全部言わなかった。そんな事、言いたくなかったんだろう…

無防備な女が本気の力で男に殴られたんだ…

ありえないことじゃない…

「…そんな」

「治癒魔法は、生きてる人間にのみ有効だ。

生きてる人間と、死んだ人間じゃまるで違う。俺に彼女は救えない」

「イザーク」ディルクが苦い表情で、俺にエラを差し出した。

受け取った彼女はまだ人の温度を保っていた。

ただ違うのは、抜け殻の身体がやたらと重いことだ…

彼女の重さを支えきれずにその場に膝から崩れた。

「…うそだ…

だって…エラは…お嬢だって…」

最後に見た彼女は泣き顔のまま、俺の心に刻まれた。

嫌な記憶は書き変えることの出来ないまま、さらに最悪な出来事となって更新された。

後悔なんてもんじゃない。そんな言葉では終わらない…

言葉も出ないまま、獣のような慟哭が溢れた。

馬鹿だ馬鹿だ!俺は大馬鹿だ!

「エラ…エラ…」

好きだって言えばよかった。変な意地張ってこのザマだ。

そしたらこんな事にならなかったのに…

少なくとも彼女は俺を頼ったろうに…

魂を手放した身体はゆっくりと温もりも失った。

「スー、赤ん坊はどうすんだ?」とディルクが言った。

「イザーク、フリーデは?」

「…酒保の姐さんが預かってる…彼女が旦那から守るために預けたみたいだ…」

「分かった。

ディルク、酒保の姐さんにエラのこと伝えてくれないか?フリーデも預かってきてくれ」

「…あいよ」不機嫌そうな声で応えて、ディルクの足音が遠ざかった。

「…イザーク」誰もいなくなったのを確認して、スーは俺の傍らに立った。

「エラのこと…好きだったのか?」

「…うん」頷いて、また涙が溢れた。鼻水が邪魔して上手く息もできない。

好きだった女の亡骸を抱いたまま、咽び泣く俺の肩に、スーが慰めるように手を添えた。

「エラもさ、お前のこと好きだったんだよ。

お前と話してる時はよく笑ってた。

お前の事、《優しい》って…《良い人だ》って褒めてたよ。お前が調子に乗るから教えなかったけど、彼女はお前の事好きだったんだと思う」

しんみりと語る言葉が、悲しみで空になる心に染み込んだ。

だから俺に行かせてたのかよ?

もしかしてみんな知ってたのかよ?俺だけ馬鹿みたいじゃん!

彼女の殴られて赤黒く腫れた顔を撫でた。

痛々しい姿に胸が痛くなる。

殺したのは元旦那だが、死なせたのは俺だ…

「とりあえず、問題はフリーデだ。

母親がいないんじゃ、あの子だって困る。食べ物がないんだからな…

今すぐブルームバルトに連れて行ってくれ。

鍛冶屋のエインズワースわかるだろ?あそこは赤ん坊生まれたばかりだから、ギルとアニタに預けて来い。あの二人なら嫌とは言わないはずだ」

「…彼女は?」と腕の中で眠ったように沈黙したままのエラの事を訊ねた。

スーは珍しく優しい声で俺に答えた。

「お前が戻ってから埋葬するよ。花も買ってきてくれ」スーはそう言って俺に銀貨を預けた。花代には多すぎた…

「旦那は俺が始末つけるから、任せてくれるか?」

「うん…」

「もう、しっかりしろよ!」とスーに曲がった背中を叩かれた。

でも、その程度じゃこの背中は伸びやしない…

「…俺ってば…本当にクソ野郎だな…」

自分に言い聞かせるようにボソリと呟いた。

その言葉は俺に向けた侮蔑の言葉なのか、彼女への謝罪なのか…

もう訳が分からなくなっていた…

✩.*˚

寝ようと思って戸締りを確認している時だった。

外から門を叩く音と、赤ん坊の泣く声が聞こえてきた。外で誰かが呼んでる。

「え?何?」うちの子たちはスヤスヤ眠っていた。

「アニタは子供たちを見てろ」と言い残して、ギルが表に出て行った。

あんな騒ぐ泥棒はないだろうけど、こんな時間に来る客もない。

心配してると、ギルが男を連れて戻ってきた。

「アニタ、ちょっといいか?」とギルに呼ばれた。

「《燕の団》の奴だ。スーに頼まれて、カナルからこの子を届けに来たらしい」

「ロンメルのお屋敷じゃなくて?」と首を傾げた。

男の腕の中には、むずかってる赤ん坊がいた。赤ん坊の泣き声で胸がキュゥっと痛くなった。

「母親が死んでしまったから、乳を分けて欲しいんだと…」

「そうなの?」可哀想に思って、赤ん坊を受け取ろうと男に歩み寄った。

「あれ?あんた…イザークじゃん?」

赤ん坊を抱いていたのは、時々手伝いに来てくれてた陽気な男だ。

疲れてるのか、雰囲気が全然違うから分からなかった…

彼から赤ん坊を受け取ると、赤ん坊は泣きながらおっぱいを探すように手を動かした。

「あげるよ、ちょっと待ってね」

ギルとイザークを部屋から追い出しておっぱいを出すと、赤ん坊は夢中になってお乳を飲み始めた。

お腹空いてたんだね…

メアリより大きいけど、まだお母さんがいないと生きていけないような赤ん坊だ。

お乳をやったら情が湧いた。

お乳を飲み終えると、赤ん坊は疲れてたのか、すぐに眠りに落ちていった。

眠った赤ん坊を抱いて居間に行くと、テーブルにギルとイザークと、起きてきた親父がいた。

「お嬢は?」とソワソワしてた男は赤ん坊を心配していた。お嬢ってことは女の子らしい。

「お腹いっぱいになって寝たよ」と赤ん坊を彼にみせた。険しかった表情が少し緩んだ。

「アニタ、しばらくその子を預かって欲しいって言われたんだが…どうする?」とギルがあたしに訊ねた。

彼の前には金の入った袋と手紙が置かれていた。

「誰の子なのさ?」と訊ねると、イザークは事の次第を話した。

親父もギルもあたしも、この子に起きた理不尽に怒りを覚えた。

「ダメなら他を当るけど…」

「いいよ、うちで預かる。いいよね?」とギルに訊ねると、彼は黙って頷いた。

「ありがとう、助かるよ…これ受け取ってくれ」

イザークは机に置いた金をあたし達に受け取るように言った。

「足らないぶんはまた持ってくる。

この金はこの子のだ…母親が貯めてた金だ」

「分かった。預かる」と答えてギルは金の入った袋を預かった。

中身も確認しないのは、この金を自分が受け取る気がないからだ。

まぁ、この程度の赤ん坊を増えたところで大して家計は変わらないし、ギルだって金には困ってない。

あーあー、やっぱりうちの旦那はいい男じゃん。

イザークは力なく笑って、ギルに礼を言った。

「じゃあ、俺はカナルに帰るよ」

「休んで行ったらどうだ?」とギルは勧めたが、イザークは「ありがとう」と言いながら帰り支度を始めた。

「…エラの…この子の母親の墓を用意してやらなきゃ…

スーが、俺が戻るまで待ってくれるって言ったから、もう行くよ」

無理やり作った薄っぺらい笑みは引きつっていた。彼はあたしの抱いてる赤ん坊に手を伸ばした。

柔らかい頬を指の背で撫でて、彼は「ごめんな」と小さく呟いた。赤ん坊に未練があるように見えた。

「この子の名前は?」と訊ねると、彼は「フリーデ」と子供の名前を教えてれた。

「フリーデだね。大事に預かるから安心しなよ」

あたしの言葉に、彼は疲れた顔で精一杯笑顔を作った。その顔は、笑ってるのに泣いてるように見えた。

✩.*˚

「あいつがあんなんじゃ調子狂うよ」

煙草を咥えたままアルノーが愚痴を漏らした。

調子が狂うのは俺も同じだ…

長い付き合いだが、あいつのあんな姿初めて見た。

いつもヘラヘラして冗談を言ってた男が、現実と過去に苛まれ、目も当てられない程傷ついていた。

煙草を咥えて黙り込んでいると、やるせない思いを抱えた男がもう一人増えた。

「エラ…キレイにしてきた」と言いながら鼻を啜って、カイは勝手に隣に並ぶと煙草を咥えた。

「クソっ!あんな姿見てられねぇよ…」とカイは涙目で心情を吐露した。

エラの姿は悲惨だった…

顔が赤黒く腫れ上がって、目玉は潰れて歯も折れてた。

スーはできるだけ彼女を綺麗にしてやりたがった。

血の跡を拭って、顔の傷が目立たないようにカイに整えさせた。

酒保の姐さんから借りてきた化粧でいくらかマシになったみたいだ。

「ディルク…イザークの奴…あいつエラとできてたのかよ?」

鼻を啜りながらカイが俺に訊ねた。

「あいつ、振ったって言ってたぜ」と余計な事を口にした。

「マジか?あいつ馬鹿かよ?勿体ねぇ…」

「あのイザークが?何様だよ?」

二人は口を揃えて口悪くイザークの選択を罵った。

「馬鹿だよな…」と同意して煙草の煙を夜の空に逃がした。

遠慮したんだろうな…

あいつに悲壮感は似合わない。

過去を引っ張り出して不幸自慢をするような男じゃない。それでもベロベロに酔っ払った時に一度だけ懺悔を口にしたことがあった。

『俺って…クソ野郎だよな』

そう言った次の日には、二日酔いで気持ち悪いだの吐かして、またヘラヘラ笑ってた。

特に気にもしてなかったが、あいつは俺が思ってた以上に過去に苦しんでいたようだ…

煙草の火を消して、二人と別れた。

戻ったテントは静かで片付いていた。

騒いで散らかす奴が居ないから、狭いテントを広く感じる。

あいつはフリーデを連れてブルームバルトに着いただろうか…

変な気を起こさなきゃいいが…

面倒事を忘れようと、毛布を被って横になった。

そのままいつの間にか眠りについたが、明け方に他人の気配で飛び起きた。

「うわっ!びっくりした…」と侵入者は驚いた声を上げた。

暗くて顔は分からないが、声で誰か分かった。

「悪いな、起こしちまった?」

「お前…もう戻ったのか?」

「うん」ガキのような返事をして、イザークは自分の寝床に潜り込んだ。

テントの外は少し白んでいたが、帰ってくるのが早すぎる。

「ブルームバルトまで行ったのか?」

「うん」

「早過ぎないか?」

「エインズワースの旦那も嫁さんもすぐに引き取ってくれた。俺は他にすることないし、帰ってきた」

イザークはそう言って毛布に包まって背を向けた。このまま寝るつもりらしい。

疲れてるだろうと思って、俺も毛布を被って、イザークに背を向けた。

イザークは横になってしばらく居心地悪そうに、ゴソゴソと寝返りを繰り返していた。

「…ディルク起きてる?」

「…なんだよ?」

「大したことじゃねぇんだけどさ…訊いてもいい?」

「なんだよ?まどろっこしいな…俺だって眠いんだ、さっさと言えよ」

話を急かすと、イザークはポツポツと暗い声で話を切り出した。

「エラさ…俺の事 《好き》とは言ってねぇんだ…俺の勝手な思い込みかも…

俺が勝手にそう思っただけかも…」

「はぁ?お前が《振った》って言ったじゃねぇか?」

「そうだけど…

冷静になったらさ、そうじゃないかもって思ってさ…俺が馬鹿だから、勝手にそんなふうに思ったのかもって…」

「お前なぁ…」呆れた…

こいついよいよおかしくなってきたらしい…

彼女の死を受け入れられなくて、イザークは彼女の気持ちまで受け止められなくなっていた。

「エラは?なんて言ってたんだよ?」と彼女とのやり取りを訊ねた。

「大したこと話してないよ」と言って、イザークは彼女とのやり取りを掻い摘んで少し話した。

テントに誘われたのも、『会いたかった?』に頷いたのも、彼女が泣いたのも、お前のことが好きだって馬鹿でも分かる話だろ普通?

自慢か?それ普通に脈アリじゃねぇか?

「『嫌いにならないで』って…それで好きだと解釈するのは図々しいよな…」

「あほらしい」と思った通りの言葉が漏れた。

馬鹿にははっきり言わなきゃ分からないらしい。気遣いなんて不要だ。

「んなもん、図々しくなっちまえ、らしくねぇ…

エラはお前に惚れてた。それでいいだろ?

好きでもない野郎に、嫌いになるなって言う女がいるかよ?」

俺の返事にイザークは沈黙した。

明るくなり始めたテントの中で、馬鹿の鼻を啜る音と嗚咽が漏れた。

全く調子が狂う…

もう寝るのは諦めて、身支度を整えると、馬鹿を置き去りにして外に出た。
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