燕の軌跡

猫絵師

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旗取り

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何やら本陣が慌ただしい…

「何だ?何かあったのか?」

本陣に視線を向けると、掲げられていたはずの軍旗が立て続けに落ちた。

まだ真昼間だ。

「どうなってる?」

軍旗が下がったことで動揺が広がった。

軍旗が降ろされる理由は二つ。

雨が降る時と弔意を示す時だ…

晴れ渡った空には雲ひとつない。そうなると考えられる事は…

「パウル様…」親友の父親の訃報を疑った。

そんな馬鹿な…パウル様はまだ若いはずだ…

「まずいぞ、スー」俺の傍らでディルクが舌打ちして剣に手をかけた。

自軍に分かりやすく動揺が広がった。

カナルの対岸では兵士らの鬨の声が上がって、動揺に拍車をかけた。

動揺する俺の胸ぐらを強い腕が掴んだ。

「スー!ぼさっとすんな!お前は団長だろうが!」

カミルの声にハッとする。

「俺たちの団長はお前だ」と彼は俺を鼓舞した。

この《団長》は自分で引き受けたんだ…

ワルターとも約束した…

『やばい時ほど涼しい顔しろよ?

気持ちで負けたら、お前は戦う前に負けてんだ』

「…上等だ」

無理やり口角を上げて不敵に笑って見せた。

多少不自然でもいい。この場を納めることができるなら、上手に笑えなくてもいいだろう。

自分の胸を叩いて気合を入れた。

「いつでも動けるようにしておけ!対岸だけじゃなく、全方位警戒態勢!馬を出して本陣に確認に向かわせろ!」

「応!」

「旗が下がったくらいでビビんな!俺たちは?!」

「イカれてる!」

《犬》を筆頭に傭兵たちは檄に応えて唱和した。

対岸に負けない声が上がった。

「《燕》の旗を掲げろ!」と旗手に命令した。

旗を預かる旗手が《燕》の旗を高く掲げて「おぉ!」と活きのいい鬨の声を上げた。

剣を抜く音が響いて、傭兵たちは得物を構えた。

俺も親友と交換した剣を抜いた。

カナルの岸は守ってみせる。俺の名前が君に届くように…

次会う時に、胸を張って君に会えるように、俺は戦うよ。

《危ないよ》と風の精霊が指輪を通じて警告を発した。

「《逆巻く風》!」水源から少し離れていたから、矢を避けるために風の魔法を放った。

放たれた旋風に煽られて、飛んできた矢は勢いを失って届く前に水面に落ちた。

やっぱりラッセル兄弟か…

「向こうにはラッセルがいるぞ!矢に気をつけろ!矢楯や防塁を使え!」

カミルが怒鳴った。

相手は一人とはいえ、この距離を飛んでくる矢を警戒しなくちゃいけないのは面倒だ。

対岸に水精を放ってもいいが、この距離では対岸の様子が分からないからコントロールできないし、無駄に魔力を消費する。

それに、水精に襲わせようにも、肝心のラッセル兄弟の容姿も分からない…

「本陣の様子は?!旗は?!」

「分からん!」と矢楯を構えたディルクが答えた。

「スー!狙われるならお前だ!下がれ!」

「今、俺が下がったら士気が下がる」と答えて砂利を踏んだ。

ビビったと思われるのも癪だ。俺は負けず嫌いなんだ!

また矢が来ることは分かっていた。

風の精霊たちがざわめいて、俺に迫る危険を教えた。

「《大盾ゴーザーシルト》」

レプシウス師から貰った左手の指輪に魔力を注いで魔法の盾を呼び出した。

僅かな差で、盾に衝撃が走る。

矢の勢いで少しだけよろけた。

クソっ!この距離でなんて威力だよ!化け物め!

矢が盾にぶつかって、砕けて地面に落ちる、乾いた音がした。

「へぇ、いいもん持ってるなぁ…」

不意に足元から男の声がした。

「…なに?」

目の前に落ちた砕けた矢が人に変わった?!

男はニタリと笑うと手にしていた剣を突き出した。

反射的に突き出された剣を、手にしていた盾で防いだが、今度は足が飛んできた。

コイツ慣れてる!絶対強い!

すぐに体勢を立て直して次に備えた。

「ほぉ、若いのに随分慣れてるしいい体捌きだ。褒めてやるよ」

目の前の男はそう言って不敵に笑った。

どういう仕組みかは分からないが、単身で乗り込んで来るなんて、余程腕に自信があるのか?

思考が反応を鈍らせた。動揺で呼吸が乱れる。

『基本だ』とソーリューの言葉を思い出した。

『どんな時でも、基本の出来る奴は強い』

相手の剣を受け止めながら呼吸を取り戻した。

盾を解除して、代わりに《翡翠カワセミ》を握った。

男はそれが嫌だったみたいだ。

彼は舌打ちして下がった。

「可愛い顔して食えないガキだ…

あんたは今度の楽しみに取っとくよ」

ふざけた男はそう言って、自分の身体に隠すように構えたナイフを投げた。

咄嗟に避けることしか出来なかった。

「土産を持って帰ると約束したんでな」と嘲笑するように笑った男は指を鳴らすと、一瞬で消えた。

代わり金属の落ちる音がして、俺の足元に投げナイフが転がった。

「何が…」

状況の飲み込めない俺の耳に届いたのは後ろで湧いた悲鳴だ。何があった?

「エナンド!」「旗が!」と余裕のない声が上がる。

さっきまで目の前にいた男は今度は味方の真ん中に現れた。その手には旗手から奪った飛燕の旗が握られていた。

男は狂ったように笑って、周りを牽制するように旗をぶん回した。

「てめぇ!返しやがれ!」

怒声を上げながら、仲間たちが血相を変えて旗を取り返そうと男に迫った。

旗が奪われるなんて不名誉だ。

男は焦る様子もなく俺たちを嘲笑った。

「いい土産だ。カナルのこっちに来たら返してやるよ」

男はそう言って指を弾いて音を鳴らした。

「うわっ!」「あぶねっ!」

男の姿がまた消えた。

得物を構えて殺到した団員たちが、標的を見失って、危うく同士討ちになるところだった。

「旗は?!」

「あのクソ野郎を探せ!」

「エナンド!しっかりしろ!」

団は引っ掻き回されてぐちゃぐちゃだ。

旗手を殺されて大切な旗を奪われた…

こんな不名誉なことあるか!

怒りに震えていると、また対岸から歓声が上がった。

あいつらが誇らしげに掲げた旗を見てゾッとした。

どうなっている?!

王家の紋章と一角獣の旗が並んでいる。そして対岸で玩具のように振り回されてるのは飛燕の旗だ。

俺たちはまんまとしてやられた…

✩.*˚

「現場は何をしていたのだ?!」

夕餉の席に、カナルからの凶報が届いた。

家宰を預かるデューラー卿に伴われたカナルからの伝令の言葉に耳を疑った。

よりによって…

「陛下からお預かりしている《玉旗》を奪われるなど…

陛下に何と申し上げれば…」

「パウル様…」事が重要な事だけに、同席していたガブリエラも顔色も真っ青になっていた。

《玉旗》はただの旗じゃない。

実際に現場に来ることの出来ない陛下に代わって、この戦を見守る国王の代理的象徴だ。

それを奪われるということは、陛下の御身を守れなかったというに等しい。

フィーア王国の貴族として、最大級の屈辱と不名誉を意味する。

おそらく、ヴェルフェル家始まって以来、一番の失態だろう…

「申し開きをせねばなるまい…

オークランドには《玉旗》の返還の交渉を申し入れねばなるまい」

「それが…」とカナルからの使者は報告を続けた。

「オークランド陣営より文がありまして、《玉旗》は条件付きで無傷で返還すると…」

さすがにオークランド陣営も《玉旗》は持て余したようだ。

「大金貨100枚と、カナル周辺の土地の割譲を前提条件に、あとは交渉次第と…」

「…飲むしかあるまい」と苦々しく答えた。

「パウル様、それは…」

「分かっている。しかし、《玉旗》は陛下そのもの…

いかなる理由であろうと取り返さねばならぬ」

カナルを挟んでいては、そう簡単に取り返すことは出来ない。

忌々しいことに、あの河は渡った方が負けるのだ…

「パウル様、《玉旗》は身代金と交換するにしても交渉役として誰を立てましょうか?」

先まで黙っていたデューラー卿が頭の痛い問題を突きつけた。

「本来であれば私が行くべきだろう…」

私には南部を預かる最高責任者としての責任がある。

「閣下、相手はオークランドです。

この老骨めか、リューデル伯爵閣下、もしくはアレイスター子爵閣下を名代にすべきかと存じます」とデューラー卿は弟たちの名を挙げた。

デューラー卿の人選は妥当なものだと思う。

それでも私にはどれも失いがたい大切な存在だ…

選ぶ事など出来なかった。

「考える時間を…」

「斯様な時間はございません。

侯爵として、お覚悟をお決めくださいませ」

父の代から仕える忠臣は、厳しい言葉で私に侯爵としての決定を促した。

こんな時、父上であればどうしただろう…

答えのない、無駄な考えが頭の隅にから湧いた。

損切りのできないのが私の悪いところだ…

いざとなると惜しくなる。決断力の高さならカールの方が父上に近いだろう。

「重要な事だ。今後のヴェルフェル家にも関わってくる問題を私一人では決められぬ。二人とも相談したい。アレクも含め、すぐに呼ぶことはできないか?」

「ラーチシュタットのアレイスター子爵閣下は早くて三、四日かかります。

リューデル伯爵閣下も同じくらいかかるかと…」

「飛竜がある。伝令を飛ばして二人を召喚せよ。

ヴォルガシュタットにも急ぎ報告せねばなるまい」

かなり重い罰が課されるだろう…

私一人の責で終われば良いが、最悪の状況になれば、ヴェルフェル家は王家から南部の統治権を剥奪されかねない。

あの温厚な陛下とて心穏やかではいられないだろう。

「パウル様」と心配そうな顔のガブリエラが私の腕を引いた。

「お許しくださいパウル様…

このようなお願いを申し上げるのは、ヴェルフェル侯爵夫人として恥ずかしい事ですが…

どうか、アレクだけはお守りくださいませ…」

彼女の嘆願に胸が苦しくなる。

私もできることならそうしたい。しかし、事が事だ…

時期ヴェルフェル侯爵であるアレクを部外者として扱うのは不可能だ。

「すまない、ガブリエラ…君も覚悟しておいて欲しい」と彼女の希望を突き放した。

彼女とて侯爵家の女主人だ。意味がわからないことではないだろう。

私の首一つで償えれば良いのだが…

果たして、この首は《玉旗》に釣り合うだけの価値はあるだろうか?

背筋が冷たくなるのを感じながら、食べかけの食事を残して食卓を離れた。

彼女の啜り泣く声が背に縋って心を重くした。

✩.*˚

「こんな時間に…」

舌打ちして寝巻き姿で伝令に会った。

全く嫌になる…急ぎの用向きと言うからには、良いものでは無いはずだ…

「アレイスター子爵閣下、夜分恐れ入ります。侯爵閣下より命を受け、書簡をお届けに上がりました」

伝令は早口に用向きを伝えて、預かった文を恭しく差し出した。

近侍のヘスラー卿が私の代わりに文を受け取って署名を改めた。

「閣下、確かに侯爵からのようです。

して、他に伝言は?」

「はっ!火急の用向きにございますので、返事を預かってくるようにと申し使っております」

「なるほど。ならば返事を待つ間、少し休むが良い。返事は用意次第報せる」

ヘスラー卿は喋るのも面倒な私の代わりに、伝令と話を済ませて下がらせた。

「熱いお茶をご用意させましょうか?」

「うむ」と頷いて彼から手紙を受け取った。

確かに長兄からで、《火急》とある。

落ちてくる髪が邪魔で取り払うと、気付いたヘスラー卿が邪魔な髪をまとめてくれた。

「全く…フレディの囀り以外で目覚めるのは気分が悪い…」と愚痴をこぼす私に、髪を整えながらヘスラー卿は苦く笑った。

「フレディの囀りは神が与えた賜物ですから、それに優るものは無いかと存じます」と彼は耳に良い事を言った。

硝子で作られた水槽の中、敷かれた枯葉のベッドに埋もれて彼は眠っている。朝日を感じとると、彼は這い出してきて美しい歌声で囀るのだ。

その声はどんな生き物でも真似出来ない、素晴らしい歌声だ。

それなのに、私の最高の目覚めを邪魔して…

「全く…一体何事だ?」どうせ録なことでは無いだろうとうんざりしながら手紙の封を開いた。

手紙の内容はさらに私を不愉快にした。

「…バカな」

不愉快などと言う言葉では足りない。

恐怖を覚え、吐き気を催すほどの凶報に言葉が出なくなる。

手紙を持つ手が震えて、便箋が木の葉のように床に舞い降りた。

「…閣下?」

髪を結っていたヘスラー卿の手が止まった。彼は逡巡して、結いかけた髪を放すと、床に落ちた紙を拾った。

「お手紙は何と?」

「言いたくない。自分で目を通せ」と厳しい言葉で応じた。

ヘスラー卿の視線は紙を這うと、弾かれたように私の顔見た。血の気の失せた顔を見て、さらに事の大きさを痛感した。

「…なんと…《一角獣の旗》のみならず《玉旗》まで…」

「全く…我が家始まって以来の失態だ…

すぐに兄上のところに行く。用意せよ」

全く!油断しすぎだ!

手紙は簡潔に、私とアレクシスを招集する内容だった。おそらくカール兄様にも同じ報せが届いている事だろう。

私の下知で一度部屋を出ていこうとしたヘスラー卿だったが、何を思ったか一度戻ってきた。

「公子様には何とお伝え致しましょう?」

「…アレクシスか」

彼は幼い妻を迎えたばかりだ。

次期ヴェルフェル家の当主とはいえ、この厄介事に巻き込むのは気が引けた。

私自身、彼を預かっていて、親類としての情というものが湧いていたらしい…

「公子はラーチシュタットの城代として置いていく」

「しかし、侯爵閣下は公子様もと…」

「ヘスラー卿。ラーチシュタットはフィーア南部の守りの要だ。

ここを不在にする訳にはいかん。

兄上には私からお話する。公子の成長する機会にもなろう」

無理やりなこじつけだが、ヘスラー卿は私の意図を悟って引き下がった。

意地の悪い叔父が公子を部外者扱いしたのだと、そう周りから思われれば御の字だ。

そうであれば、何かあったところで私の責任として処理される。

それなら、私や兄上に何かあったとしても、ワーグナー公爵が孫娘の夫としてアレクシスだけでも守ってくれるだろう。

ワーグナー公爵と父上は親しい間柄だった。

今でもその関係であると信じ、父の盟友に甥の今後を託すしかない。

頭の悪い賭けだが、この期に及んで善し悪しは言っていられないだろう。

晴れぬ気持ちのまま、窓にかかっていたカーテンを引いた。

まだ外は暗い。夜の帳が開ける頃には支度も終わって出れるだろう。それまでに、置いていくアレクシスへの指示書を作成しておかなければならない。

することは山ほどある。

うんざりした心持ちでため息を吐くと、それを慰めるような美しい囀りが聞こえてきた。

「フレディ、目が覚めてしまったか?」

うるさくして、灯りを灯したせいだろう。

朝日と勘違いしたフレディは枯葉の下から顔を覗かせた。

薄らと濡れた身体はテカテカと光っていた。

彼は喉の袋を上下させながら、小鳥顔負けの囀りを披露して餌を強請った。

愛らしい…

荒んだ心にも染み渡る美しい囀りに癒されて、水槽から美しい声で囀る蛙を拾い上げた。

✩.*˚

「じゃあ、行ってくる」とテレーゼとフィーに挨拶してアイリスの背に跨った。

よく分からんが、急ぎアーサーを連れてアインホーン城に来るように、とパウル様から手紙を受け取った。

「何で俺なんだ?」と同行するアーサーは訝しんでいた。

「まさか、カナルに行けとか言わないよな?」

「知らん。理由は書かれてなかった」と答えたものの、相手が相手だけに、ただ呼び出すだけとは考えられない…

「捕虜の顔でも確認させたいんじゃないか?」と当てずっぽうで答えた。

「全く…なかなかオークランドとは縁が切れないな…」とアーサーは馬の背に揺られながらボヤいていた。

アインホーン城に到着すると、バルテル卿が俺たちを迎えた。

「お待ちしておりました」と挨拶もそこそこに彼は俺とアーサーをパウル様の待つ執務室に案内した。

「何かありましたか?」

どことなく慌ただしい。嫌な予感が過ぎる。

それはアーサーも同じようだった。

バルテル卿は俺の質問には答えず、「説明は侯爵閣下から」としか教えてくれなかった。

これは絶対に厄介事だ…もしくはスーの奴が何かやらかしたか?

どちらにせよいい事では無さそうだ…

勘弁してくれ、あと少しでフィーの誕生日なんだ…

今年こそは一緒に祝ってやりたいってのに…

不満を抱えたまま、パウル様の待つ執務室の扉をくぐった。

「お待たせ致しました」とアーサーと二人で頭を下げて挨拶した。

用事を終えたバルテル卿は、すぐにパウル様の傍らに戻って、何か言葉を交わすとまた忙しく席を外した。

「急かしてすまん。カナルで問題が起きてな…」

「スーが何かやらかしましたか?」と訊ねるとパウル様は、スーの関与は否定した。

「いや。むしろ私の問題だ」と答えるパウル様の表情は険しく、酷く疲弊しているように見えた。

パウル様は険しい顔で俺を机の前に呼んだ。

あまり大きな声で話したくない話らしい。

「まだ、到着してないが、カールとコンラート、アレクシスも呼んでいる…

事が事だけに、私一人では裁可できぬ…」

ますます分からない。俺が来る必要あったのか?

状況を飲み込めずにいると、パウル様は重い口を開いた。

「ロンメル男爵。卿でも《玉旗》くらいは分かるだろう?」

「はぁ、まあ…」

何でそんな当たり前のことを?

《玉旗》ってあの国王の代わりに本営などに掲げる旗だろう?子供だって知ってるやつだ…

パウル様は大きなため息を吐いて、絶望するように机にもたれると、祈るように組んだ手に額を預けた。

「カナルで…オークランドに奪われた…」

「は?!」驚いてアーサーの顔を見たが、アーサーも同じような反応だ。俺の聞き間違いでは無いらしい。

「突如現れた男に《玉旗》を奪われたのだ…

手違いが何か分からないが、すぐにオークランド側から返還の申し出があった。

本格的な交渉はまだだが、今のところ、大金貨100枚、及びカナル周辺の土地の割譲が条件だ」

「…その条件を飲むんですか?」

「嫌だと言いたいところだが…《玉旗》には代えられない…飲まざるを得ないだろう…」

恐らく、フェアデへルデ周辺の土地が対象として指定されるだろう…

そうなれば俺の領地のすぐ隣が敵国の所領になる…

そんな恐ろしいことあってたまるか!

「ブルームバルトに、オークランドの隣人になれと?!そんなの無理だ!」

そんなの、いつ襲ってくるか分からない強盗を隣に住まわせるようなもんだ!納得できるわけが無い。

「ロンメル男爵、卿の言いたいことはわかってるつもりだ…」

「パウル様!《つもり》だけじゃ困るんだ!

俺はこの決定は受け入れられない!」

最初は好きで引き受けたんじゃない。むしろ厄介にすら思っていた。

でもブルームバルトは、俺にとって何にも代えがたい、思い入れのある場所になっている。

今の姿になるまで、俺たちが作り上げた場所だ。

俺の欲しかった大切なものは全部あそこにある…

「すまない…できる限り手は打つ…」

俺の必死な訴えに、パウル様は絞り出すように答えた。その返事が全てを物語っている。

元より、俺に拒否権なんかはないのだ…

こんなの…テレーゼになんて言えばいいんだよ…

非情な決定に拳を握った。それ以上、俺に出来ることは何もなかった…

「ロンメル男爵、侯爵閣下にその口の利き方は不敬だ」

冷静な男が俺を叱った。

アーサーは俺の肩を引いて前に進み出た。

「お話は分かりました。

それで、自分はなぜ呼ばれたのでしょうか?」

アーサーの問いに対するパウル様の返答は驚くものだった。

「私が君を《騎士》に任命するためだ」

突然降って湧いた話に二人で言葉を失った。パウル様はさらに話を続けた。

「悪い話では無いはずだ。

アーサー、君程の男であれば、騎士になる資格は十分にある」

「私はオークランド人ですが?」

「それについては、元ウィンザーの騎士の家から引き抜いたということにしておく。

もちろんオークランドに身元がばれないように、カーティスを使って、実際に存在する騎士の家系図から拾ってきた。

どうしても卿に頼みたいことがあるのだ。

無事に事が済めば、今後はロンメル家の騎士としてそのまま仕えることを許すつもりだ」

「急なお話ではありませんか?」とアーサーも呆れて苦言を呈していた。

アーサーでなくとも同じように思うだろう。

「子供が産まれるのだろう?」とパウル様はさらにアーサーの説得を続けた。

「今後のことを考えれば引き受けて損は無いだろう?

君を守ってやれるのは、私やロンメル男爵が生きてる間だけだ。それ以上保証することは難しい。

それなら、これを機に正式にフィーアの人間になるのも悪くは無いだろう?」

「それはそうですが…」

「《玉旗》をオークランドから受け取るのは誰でも良いわけではない…

交渉役には、私の最も近い親族から使者を立てるつもりだ。

その護衛もそれなりの人物が要求される」

「なるほど…」

「オークランド側はロンメル男爵を警戒している。護衛としても河を渡ることを許さないだろう…

エインズワースを付けるという選択肢もあったが、対岸には《金百舌鳥》の旗の報告もある。本人が了承しないだろう…

それに、護衛という役目ならアーサーが適任かと思う。どうだろうか?」

確かにあながち間違いではないだろう…

ギルは自分の《祝福》に抵抗があるから、できることならカナルに行かせたくない。

アーサーならやれるだろうが、もう一つ問題がある。

「アーサーを知ってる人物が対岸にいた場合は?」俺の問いはパウル様も予想していたものらしい。

「それは私も考えた。

カーティスが良いものを貸してくれた」

パウル様はそう言って、引き出しから木製の箱を出して紐を解いた。

パウル様は赤い紗々のようなに包まれた仮面を出して俺たちに見せた。

「これを見て目を閉じてみてくれ」

言われた通りにすると、今度は「さっき見た仮面を思い出せるか?」と訊ねられた。

変なことを言うと思って、頭の中でさっき見たものを思い出そうとしたが、姿が浮かばない。

それどころか、赤い布と箱ばかりが思い出されて何も印象が残っていなかった。

「《隠者の仮面》という魔法道具だそうだ。

初代カーティスの持ち物らしい。これを身につけている人間の印象を残さない、ぼやかしてしまうものだと説明された」

なるほど…それでもって目立たずに、アーサーの正体を明かすこと無く向こう岸に行かせるというわけか…

確かにカーティスの持ち物なら信頼できそうだ。

わざわざこんなものまで用意して…

一言、《行け》と命令すれば事足りるのに、パウル様はそうしようとはしなかった。

「私は《祝福》された存在である卿らの意思を尊重するつもりだ。

たとえ侯爵であったとしても、命令という望まぬ形で縛りたくない。

だから対等な関係としてお願いする。

私を、ヴェルフェル家とフィーアの南部を救うと思って協力して欲しい」

パウル様はそう言って俺たちに頭を下げた。

その願いを無下にできるほど、薄情な人間にはなれなかった…

✩.*˚

「全く…厄介なものだな…」

美しい装飾の旗を眺めながら、うんざりしてため息が漏れた。

フェルトンが辺境伯の地位を退いて、代理としてカナルを任された。

まだ停戦中ということもあり、多少の小競り合いはあるものの、概ね問題なくやってきたというのに…

厄介事の元凶となった旗を眺めていると、フィーア側に出した使者が戻ったと報告があった。

「メイヤー子爵閣下。ヴェルフェル侯爵からの返事です」

「ふむ…」

苦々しい気持ちで返事を受け取った。

まさか、挑発を許した責任者も、こんなものを持ち帰るとまでは思ってなかったようだ。

《玉旗》を持ち帰るのは、さすがに悪ふざけの域を超えていた。

それでも、お叱りを覚悟して、その報告をルフトゥキャピタルの陛下に届けたところ、大層気に入ったそうだ。

あの王は力を示したい部類の人間なのだ…

《金百舌鳥》の団長に報奨金を与え、この笑えない悪戯をした輩を咎めるなと、わざわざ手紙まで寄越した。

これでは私の立場がない…

《玉旗》をルフトゥキャピタルまで見世物にして持ってくるようにと言われたが、さすがにそれは看過できなかった。

《玉旗》とは一国の王そのものだ。

そんなことをすれば、フィーアとの全面戦争は避けられない。

戦はいきなり始められるものでは無い。

確かにタイミングもあるが、基本的には、計画して、用意を万全にして、それから臨むのが好ましい。

昨年の損失で、オークランドの東部は疲弊している。それに加え、長く東部をまとめあげてきたフェルトン伯爵家が没落したことにより、舵取りをする者が不在の状況だ。

陛下は興が削がれてつまらなく思ったようだが、冷静な判断ができないような王でもない。

《せいぜい高く売ることだ》と命じて、旗の使い道を私に委ねた。

戦争にならぬよう、ギリギリの条件で交渉を突き付けた。

大金貨100枚とカナルの土地の一部であれば、不可能でなく、かつ、王族の面子を傷つけないギリギリのラインだろう。

安すぎても高すぎてもいけないのが頭の痛い問題だ…

フィーアからの返事の書状を確認した。

ヴェルフェル侯爵の返答は、こちらの要求に、概ね合意する内容だった。

交渉役には侯爵の親類を立てるという。交渉の席はフィーア側の土地で行いたいとの申し出だった。

まぁ、悪くは無いな…当然といえば当然の申し出だ。

《玉旗》はこちらにある。向こうにも面子があるから、騙し討ちなどという卑怯な真似はしないだろう。

向こうは《玉旗》の返還が第一なのだから、馬鹿な真似をして、旗を危険に晒す気も無いはずだ。

昨年、ヴェルフェル侯爵をフェルトン伯爵の傍らで見る機会があったが、礼には礼を返す、義理堅い、信頼出来る印象の男だった。

皮肉な言い方をすれば、我々の陛下より信頼に足る人物だ。

私としては、旗をどうこうするつもりは無い。

「…私のために、せいぜい高く買ってもらうか…」

独り言を呟いて、兵士に右筆を呼ぶように伝えた。

「ヴェルフェル侯爵宛に書状を頼む」とすぐに返事を用意させた。

条件を突きつける上で、そういえば、と一つ条件を加えるように指示した。

「《人質》を追加せよ」

カナルの土地を取るにしても、すぐに武力で取り返されたら意味が無い。

それなりに意味のある《人質》が必要になる。

侯爵に縁のある人物で、牽制になる材料でなければ意味が無い。

娘を一人預かるか?しかし、その程度で牽制になるものだろうか?

そういえば、フィーアの南部には厄介な存在がいたな…

「…フィーアの《英雄》、ロンメル男爵は…侯爵家の娘を娶っていたな?」

「はい」

「ではその子供にしよう」

侯爵の牽制にもなり、なおかつ《英雄》にも制約をかけることができるなら、これ以上の存在はない。

実際にどれ程効果があるかは分からないが、《玉旗》との交換なら名誉だってあるはずだ。嫌とは言えないだろう。

《玉旗》を安く売る訳にはいかないからな。せいぜい高く買ってもらうことにしよう…

✩.*˚

カナルの岸は数日前の騒ぎから、急に慌ただしくなった。

「…暇だね、チビちゃん」と揺りかごを揺らしながらぼんやりと空を流れる雲を見送った。

チビちゃんは、団長さんから貰った揺りかごを気に入っていた。

ゆらゆら揺れながら、ご機嫌そうだったチビちゃんは、心地よい風に吹かれて欠伸した。

昼寝してる姐さんの代わりに、店番をしながら時間を潰していた。

団長さんのところに洗濯物を取りに行ったけど、忙しいからと帰された。『後で届ける』と言われて、もう三日も経つんだけど全然音沙汰ない…

イザークも全然顔を出さないし…

「つまんないの…」

大きめなため息を吐き出して、膝を抱えて顔を伏せた。

昼間は煙草や日用品が少し売れるくらいで、客だってそんなに多くない。チョロチョロやってきて買い物するとすぐに帰って行く。

酒保の店は日が落ちてからが忙しいもんね…

カサカサと草を踏む足音が聞こえて、あたしの前で止まった。

「店番が居眠りしてていいのかよ?」

笑いを含んだ男の声に顔を上げた。

荷物を肩にかけた彼は、相変わらずヘラヘラ笑いながらあたしを見下ろしていた。

「ほら、仕事持ってきたぜ」と言いながら彼は担いでいた荷物をあたしの目の前に降ろした。

「洗濯物溜まっててさ。これ多いけど、明日までにできるか?」

「…イザーク」

「ん?何?俺ちゃんに会いたかったの?」

イザークはおどけたように笑いながら冗談を言った。

でも、あたしにとって、それは冗談なんかじゃない。

「うん」と頷くと、彼は自分で言ったくせに驚いたような表情を見せた。

「えー…へー、そうなの…あはは、うれしーなぁ」

めっちゃ棒読みじゃん。気まずそうに泳いだ視線は、助けを求めるようにチビちゃんに縋った。

「お嬢お昼寝中かぁ。煩くすると悪いから、起こす前に帰るよ」と、彼はそそくさと帰ろうとした。

「待ってよ」と、つい彼を呼び止めてしまった。

呼び止められた男は、気まずそうに下手な笑顔を装って振り返った。

その姿を見て、あたしの感情が彼にとって迷惑だと感じ取った…

そうだよね…

彼に限らず、嫌だよね…

だって、あたしは若くもないし、男に捨てられて、その男の子供抱えて、食うにも困って身体を売ってる売女だ…

優しいのだって、同情してるから…それだけだ…

「ごめん…あたし…迷惑だったね…なんか、ごめんね」

本当は別のことを言いたかったのに、嫌われたくなくて、口から出たのはそんな言葉だった。

惨めで俯くと、視界に入った揺籃が涙で滲んでぼやけた。

「な、なぁ、マジかよ?泣くなって…な?」

イザークが困ってる。

彼は一度離れたのに、わざわざあたしの傍に戻って来た。

こんな面倒くさい女、嫌だろうな…ウザイって思われたら…嫌われたらヤダな…

「ごめん…」

「エラ…」

「もう言わないから…嫌いにならないで…」

そう言いながら未練がましく涙が溢れた。

これはなんの涙だろう…

すぐ近くで草を踏む音がした。

「あんた男見る目ないよ」と言いながら、男の手が伸びてあたしの肩を抱いた。

広くて硬い男の手が、慰めるように背中を撫でた。

「エラ。俺はさ、悪い男なんだ…

どこがいいのか知らないけどさ、やめときなよ」

「何で…」と言いながら彼の顔を盗み見た。涙で滲んだ男の顔には、痛々しい苦い表情が張り付いていた。

「俺は、昔…好きで一緒になった女と子供を捨た男だ…

あんたの嫌いな旦那と同じことしたんだよ…

そんな奴…好きになっちゃいけねぇよ…」

「そんな…」

「他にいい男いるさ…

もうこういう男に騙されんのやめときな。お嬢だって、こんなクソ野郎が親父になるのは嫌だろさ」

イザークはそう言って、おどけたように笑顔を繕った。

「じゃあな」と言って、イザークはあたしから離れた。

さっきの言葉が胸に引っかかって、離れた腕をつかみ損ねた。追いかけようにも足が前に出なかった…

《好きだ》と伝えるには、彼との間に距離ができてしまった…
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