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ブルームバルトの若駒たち
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「下がるなケヴィン!腰が引けてるぞ!」
父親の叱咤を受けて、年下の義兄は踏みとどまった。
ケヴィンは木剣を構えて、父親の期待に応えようとした。それでも動作が遅い。
カンッ、と乾いた音がぶつかり合って、私の手に確かな手応えを残した。
「…参りました」悔しそうに負けを認めて、ケヴィンは手から離れた剣を拾った。
「始めたばかりにしては筋は良いと思います。続ければ、動きは自然と身に付くと思います」
「ご指導ありがとうございます、アダルウィン様」
様子を見守っていたシュミット様が礼を述べた。
彼は剣術の腕を買われ、ロンメル男爵閣下より、若者たちに剣術の指導を任されていた。
「ケヴィン。剣は冷静な判断や技術も求められるが、まずは心だ。折れない強い精神力が必要だ。
考えていては、相手は待ってくれないぞ。
積極的に攻めるように」
「はい」
「負けたからと落ち込むな。負けることも大事だ。そこから学びなさい」
指導者として息子にアドバイスとフォローをして、シュミット様は私の次の相手にケッテラーを呼んだ。
「やあ。先輩として、君に負ける訳にはいかないね。勝たせてもらうよ」
背の高い、蒼い髪の青年は、いたずらっぽく笑って、手にしていた剣を構えた。背は高いが、彼の表情が彼を幼く見せた。
シュミット様の合図で木剣の打ち合う音が響いた。上から振り下ろされる剣に苦戦した。
受けきれないので勢いを流した。
「やっぱり君強いね」
剣を流されたケッテラー青年は、私の剣の腕を褒めた。
それでも彼の方が上背もあるし、力でも優位だ。
彼の一撃一撃は重くて流すのがやっとだった。
何とか隙を見つけて踏み込みたいと思って、様子を伺っている時に、女の子の声がした。
「わあ!すごい!」
彼女の声に驚いて、一瞬反応が遅れてしまった。
右の手首に鋭い痛みが走った。
「わっ!大丈夫か?」
私を打ち据えたケッテラーが慌てて手元を覗き込んだ。
避けきれずに打たれた手首は赤く腫れ上がっていた。
「大丈夫ですか?」
監督をしていたシュミット様が駆け寄って、傷の具合を確認した。
「折れてないと良いのですが…
とりあえず手当しましょう」と言って、シュミット様は私を休憩用のベンチに連れて行った。
ベンチの傍で、彼女は心配そうな顔で立っていた。
「アダルウィン様、大丈夫?」
「はい」痛みを堪えながら返事を返したが、彼女と目を合わせられずに視線が泳いだ。
女の子と喋るのは苦手だ…
彼女は愛らしいから余計にどうしたらいいのか分からない。
許嫁殿は落ち着いた薄いピンク色のスカートと、フリルの付いた水色のブラウスを着ていた。
金の混ざった茶色の髪は小鳥の髪留めで一つに結い上げられて、あどけない顔を大人っぽく見せている。
心配してくれているのだろうけど、追いかけてくる彼女の青い大きな瞳が私を緊張させた。
格好の悪い所を見られてしまった…
恥ずかしくて居心地が悪い。
「アダルウィン様、おかけください。怪我を確認します」と彼女の父に勧められてベンチに腰掛けた。
青い視線は相変わらず追ってくる。
「ユリア、見つめ過ぎだ…」
ため息混じりに、シュミット様が苦言を呈した。
ユリア嬢は驚いて「ふぇ?」と変な声を上げて、頬を赤く染めた。
「だって痛そうだから!大丈夫かなって…」
「アダルウィン様もそんなに見られると居心地が悪いだろう?淑女が殿方をそんなにジロジロと見るものじゃない」
「…はぁい」と、彼女は少し拗ねたように返事をした彼女の青い視線は、ふいっとそっぽを向いた。
恥ずかしそうに染まった耳と、膨れた頬から突き出す唇が愛らしくて、今度は私が彼女の横顔から視線を外せなくなった。
それに気付いたシュミット様が咳払いをして私の意識を引いた。
「骨は折れてなさそうですね。手当して、包帯で固定しておきましょう」
シュミット様は慣れた手つきで手当を済ませ、手の具合を訊ねた。
固定されて不自由だが、その分痛みは感じにくくなった。
「利き腕ですので無理はしないで下さい。念の為、ロンメル家の主治医かスーに見せた方が良いと思います」
「スーならお屋敷にいたよ。旦那様とお話してた」とユリア嬢が父親に教えた。
「そうか…
それでしたら、その手では剣が握れないので、アダルウィン様は先に戻って治療を受けてください。
ユリア。私はまだ戻れないから、スーに事情を話して、アダルウィン様を治療してもらってくれ」
「分かった。行こう、アダルウィン様」
父親に答えたユリア嬢は、ベンチを降りて私を呼んだ。
先に失礼することを断って、ユリア嬢の後に続いた。
「大丈夫?」とユリア嬢が心配そうな声で話しかけてくれた。
元々下がり気味の眉がさらに下がって、青い視線が私の右の手首に注がれていた。
心配してくれている許嫁殿の優しさに笑みが漏れた。痛みはまだあるが、手首を隠して、彼女の前で強がって笑った。
「大丈夫です。ご心配をお掛けしました」
「痛かったら言ってね。ユリアお世話してあげるから」
「ありがとうございます」と彼女の親切を受け取った。
「ユリア嬢はなぜこちらに?」
「ん?差し入れ届けに来たの。お母さんと作って…
あっ!アダルウィン様の分もあったのに、置いてきちゃった…」
彼女は肩を落として、「ごめんね」と私に謝った。
「戻ったら何か残ってると思うから、作ってあげる」彼女は気を使って、代わりの用意まで約束してくれた。
「アダルウィン様は何が好き?苦手なものある?」
「ご用意いただけるなら何でも…」
「そんなのダメだよ。嫌いなの入ってたらどうするの?」
「『好き嫌いはしないように』と言われて育ちましたから。戦に出れば、そうも言っていられません」
「でも何かあるでしょ?」と彼女は食い下がった。
「ユリアね、ママのパイが好き。林檎とカスタードにシナモンたっぷりのパイ。すっごく美味しいんだよ」
「美味しそうですね」
「でしょー?!食べたら元気になるよ!」と彼女は目を輝かせた。
恥ずかしいことに、そんな彼女に見蕩れた。
彼女は楽しそうに食べ物の話を続けた。食べるのが好きなんだな…
まだ幼い印象の彼女は、自由で明るくて元気な女の子だった。
父上から縁談を聞いた時は、好きになれるか不安だったが、そんなのは彼女に会ってから杞憂だったと知った。
おっとりとした印象の彼女は、愛らしくてよく笑う女の子だった。
一目見て好きになった。言葉を交わして、さらに好きになった。
でも、彼女を好きになるほど、私から話すのは難しくなった。
女の子の事なんてろくに知らない。粗相をするのが恥ずかしい。それに、何より、彼女に嫌われたくなかった…
「アダルウィン様?」
ボーとしていた私の顔を覗き込んで、ユリア嬢は小さく首を傾げた。
「ユリアお喋りしすぎ?うるさかった?」
「いえ…そんなこと…」
「そう?なんか面白くなさそうだから…」
そんな顔をしてたのだろうか?
「すみません」と謝ると、彼女は「いいのに」と笑った。
「それで?アダルウィン様は何が好き?」と、彼女はまた話を戻した。
「ベーコンとオニオンバターを挟んだプレッツェルが」と答えた。
剣の稽古をした後に、兄と二人でよく食べたおやつだ。実家の近くのパン屋で買って、二人で頬張った。
「何それ?美味しそう!ユリアも食べてみたい!」
食いしん坊な許嫁殿は目を輝かせて、プレッツェルについて訊ねた。会話が弾んで、手の怪我の事も忘れた。
✩.*˚
アダルウィン様とおしゃべりしながら、スーの居たはずの旦那様の書斎を訪ねた。
返事があったので、「失礼します」と中を覗くと、二人の視線と目が合った。
「なんだユリア?用事か?」
「アダルウィン様が怪我しちゃったの。お父さんがスーに治してもらいなさいって」
「あぁ、いいよ。
じゃぁ、俺はアダルウィンの治療を済ませたら《燕》に行くから」
「あぁ、悪いな。そうしてくれ」
二人はお互いにだけ分かるように会話して、話を締めた。
「アダルウィンは?」
「一緒だよ」とスーに答えて、廊下の壁に寄ったアダルウィン様に視線を向けた。スーが私の視線につられて、彼を見た。
「お手数をお掛けして申し訳ありません、クライン殿」
「いいよ。傷は痛む?」
スーは傷の具合を気遣いながら、居間に向かった。
アダルウィン様を座らせて、包帯を外して怪我を見た。傷はさっきより赤黒く腫れていて痛そうだった。
「あぁ、これは痛そうだね。骨は折れて無さそうだけど、腫れが酷いからひびが入ってるかも知れないね」
「大丈夫?」
「すぐ治るよ。若いから治癒魔法も効きやすいしね。心配要らないよ」と答えて、スーはアダルウィン様の手首に手を翳した。
スーが魔法をかけると、指輪が光って、アダルウィン様の手首の腫れが徐々に引いた。
少し痣のように赤黒い痕が残っただけで、痛そうだった腫れはみるみるうちに治まった。
「まだ、痛むようなら無理しないで。俺はこれが限界だから、もしまだ痛むようならテレーゼに相談して」
「楽になりました。ありがとうございます」
「いいよ」と笑って、スーは優しくアダルウィン様の背を叩いた。
「君は大事なロンメル家の騎士になる人間だし、ユリアの婚約者だ。まだ慣れないだろうけど、遠慮するなよ」
「ありがとうございます」
「良かったね」と言うと、アダルウィン様は微笑んで、私にも「ありがとう」とお礼を言ってくれた。
アダルウィン様、笑い方がバルテル様によく似てるのよねー…
「じゃあ、俺は出かけるから」と言って、スーは部屋を出ていこうとした。
「《燕の団》に行くの?」
「そうだよ。大きい依頼が来てさ、しばらくカナルに張り付く事になる」
「え?戦なの?」そんな話全然知らなかったから驚いた。もしかして、旦那様やアダルウィン様も?
私の心配を察して、安心させるように、スーは私の想像否定した。
「いや、戦じゃないよ。パウル様からカナルの国境警備の応援を頼まれたんだ。団員を集めたら三月くらい留守にするよ。その後は状況次第だな…」
スーは去年も旦那様と一緒にカナルに行ってた。
慣れてるから呼ばれたんだろうけど、少し心配だ…
「まぁ、仕事だしな。それにワルターはしばらく動けないし、トゥルンバルトも忙しそうだから、カナルに行くなら俺になるだろうさ」
「大変ね」
「まぁ、仕事が無くてダラダラしてるよりいいよ。ここの所、畑の手伝いとか土木作業ばっかりだからさ、アイツらも気が緩んでるし、丁度いい仕事だ」と言ってスーは笑った。何故か少し楽しそうだ。
「まぁ、そういうことだから、もう行くよ。
二人とも、仲良くするのは良いけど、二人きりだからってイチャイチャしてハンスを心配させるなよ?」
「何それ?」と言って、アダルウィン様を見ると、彼は顔を真っ赤にして固まった。
スーはアダルウィン様を見て、悪戯っぽくニヤニヤ笑うと手を振って立ち去った。
居間に二人きりになる。
何あれ?別にそんなことしてないし?
居心地の悪い沈黙を追い払うようにアダルウィン様に話しかけた。
「そんなことないもんねー?」
アダルウィン様、耳も首も真っ赤だ。大丈夫かな?
「アダルウィン様、大丈夫?」
「は、はい…」
「ごめんね、スーってば、子供だからつまんない事言って」
「いえ…私こそ…ユリア嬢を不快にしないかと…」と恥ずかしそうに顔を隠して、アダルウィン様はごにょごにょとそう言った。
あ、ユリアの心配してくれてたんだ…
そう知って少し嬉しくなった。
『幸せにな、ユリア』
私にそう言ってくれた…無口だけど優しい初恋の人がくれた髪留めに触れた。
ねぇ、ソーリュー…この人とだったら…ユリア幸せになれるかな?
✩.*˚
「ハルツハイム様、大丈夫かな?」
怪我をした妹の婚約者を心配した。彼は騎士としての名前を貰っていたから、既に実父とは家名が異なっていた。
彼はまだ若いのに、その期待に応えようと必死に頑張っていた。僕と年齢も少ししか違わないのに、剣の腕も、勉強も優秀だ。
「うーん…木剣だけど、普通に骨折くらいの怪我はするからね…
僕もやりすぎたよ…」
ケッテラー様も、ハルツハイム様の怪我の具合を心配していた。
「兄上みたいにはなれないな…
浅慮だって、また母上に叱られるよ」と彼は困ったように頭を掻いてボヤいた。
彼のお兄さんは寡黙で落ち着いた印象の青年だった。冷たい印象だったけど、非常に優秀だったので、若いのに騎士としてケッテラーの家を預かっていた。
そのお兄さんが他の家に婿養子に出てしまったので、彼が繰り上がる形でケッテラーを継いだ。
「兄上はお元気かな…」と彼は出ていった兄弟を思い出して青空を仰いだ。
元々背負うはずでなかった重い荷に、彼は少し疲れてるようだった。
ハルツハイム様とはそういう意味で似たような境遇なので、二人は良い友人になっていた。
僕にもそんな友人が欲しかったけど、彼らに並ぶには、僕は弱すぎるし、まだ子供だ。
期待だって、彼らのように重いものでは無い。
ロンメル家の家宰だって、お父さんが優秀だから任されてるだけで、僕がそれを継ぐとは決まってない。
僕より優秀な人が現れたら、もしかしたら他の道を考えなければいけなくなるかもしれない。
「強くならなきゃ」と思ったことが口から出た。
それを聞いたケッテラー様は、お兄さんとは似てない笑顔で笑った。
「強くなれるよ。君はシュミット様の息子だ。
お父上のようになれるさ」と励ましてくれた。
「剣はまだ始めたばかりだけど、ケヴィンの馬術はピカイチだ。アダルウィンも君の腕を褒めてたよ」
「ハルツハイム様が?」
「うん。男爵閣下から子馬だって貰ったんだろ?君はそれだけ期待されてるってことだよ」
「そうかな…」
自信がなくて俯く僕に、ケッテラー様は「そうだよ」と明るく言って僕の背を叩いた。
「伸び代なら、僕たちより、君の方が大きいんだ。その歳でそれだけ色々できるんだから、きっとロンメル閣下のお役に立てるよ」
「はい、頑張ります」
「僕も頑張らないとね。兄上ほど優秀じゃないから母上には叱られてばかりだ」
「お母様に期待されてますね」と返すと、ケッテラー様は「だと良いけど」と苦く笑った。
彼は木剣を手に取ると、「さてと、もう少し頑張るかい?」と僕に訊ねた。
「はい!お願いします!」
ケッテラー様に稽古をお願いして、僕も強くなるために剣を握った。
✩.*˚
《燕の団》の連中が忙しくなった。
ロンメル男爵からの依頼で、近々、カナルの国境警備の派遣される事が決まったそうだ。
平時の団員は最低限しかいないから、足らない部分は自分たちで集めるしかない。
「ほら、エルマー、声掛けに行くぞ」
イザークとカイに連れられて、近くの農村まで団員を集めに行った。
去年のオークランドの騎行で、オークランドへの憎悪は高まっていたから、賛同する者もそれなりにいた。
「俺も行く!」と名乗りあげた子供までいた。
「悪いな、子供はやめろって言われてんだ」とイザークが少年の申し出を断った。それでも少年は諦めずに食い下がった。
「父ちゃんも母ちゃんも妹も、オークランド人に殺された!誰にも迷惑かけないから、俺も連れてってくれよ!」
「ダメだって。そんなら尚更お前が死んだら困るんだよ」
「どうして?!」
「死んだ奴が困るからさ。
お前の家族はそんなの望んでないだろ?
子供のお前に、《死ね》って《人殺しになれ》って言うような親父さんやお袋さんなのか?」
「そんなの…」
「諦めな」と告げて、イザークは少年を置いて立ち去った。
「子供でも矢を拾うくらいできるだろ?」
孤児が戦場で働くのは珍しくないはずなのに、こいつらはそれを嫌がった。
「馬鹿言え、ガキのお守りなんてする余裕なんかねぇよ」
「危ないって分かってて連れて行けるわけねぇだろ?」と彼らは口々にそう言った。
「ロンメルの旦那からのお達しだ。孤児の生活は最低限保証してる。ガキを戦場に連れて行く理由なんてねぇよ」
ここの領主もこいつらも変な奴らだ…
ロンメル男爵領では、孤児でも親戚がある子供は親戚に預けて、世話をする代わりに税の一部を免除しているという話だった。
そこまでする必要はあるのか?
ロンメル男爵の貴族らしからぬ行動に、度々驚かされた。
「俺らがカナルで、オークランドの奴らを渡らせないようにするだけの話だ」
「だな。スーだっているし、後ろには《英雄》だって控えてるんだ」
イザークとカイは楽観的な事を言いながら笑っていた。
「去年は面白かったけどな。また今年はどんなんだ?」
「スーのあれ見れるのか?」
「船が出たらするだろうよ」
「違ぇよ、あれだって。水の上歩くの」
「あー、あれかー」と彼らは馬の背に揺られながら楽しそうに話を続けていた。
「水の上を歩く?」
「そうだよ。スーの魔法だ。他にも雷は落とすわ、水霊の群れを呼ぶわ無茶苦茶だぜ」
「あの団長、何者なんだ?」
最初は若すぎるし、あの見た目だから、団長だと言われても信じられなかった。
それでも、彼の剣技や魔法が使えるなど、化け物のような強さを目の当たりにして、団長と認めざるを得なかった。
それでも団長として納得しただけで、彼への違和感は拭い切れない。
「あいつはうちの団長だよ」
「スペース・クライン。《燕の団》の団長さ」
二人は在り来りな言葉で、団長の正体を隠した。
もしかしたら本当に何も知らないのかもしれない。
まぁ、それも時間をかければ分かってくることか…
無理に聞き出して疑われるのも馬鹿らしいしな…
それに新しく、依頼内容が追加された。
『この子供を見つけたら連絡するように』
少年の似顔絵と特徴が書かれた紙を配りに来た《蜘蛛》の伝令役は、顔も見せずに立ち去った。
何者かは分からないが、《蜘蛛》の頭からの命令なら、頭を動かすほどの依頼主からの依頼だ。
何をしたのかは知らないが、この子供も可哀想にな…
《蜘蛛》はどこにでもいる。その目をかいくぐって逃げ切るなんて無理だ。
綺麗な整った顔の少年は、少し成長しているかもしれないとの事だった。特徴には、舌が無いとあった。
見つけて報告すれば、報奨金が貰えるらしい。
頭の探してる本人であれば、もっと旨みがある。
ロンメル男爵の周りはおかしな奴らばかりだからな…
もしかしたら、俺にも幸運が回ってくるかもしれない。
✩.*˚
「いつから出かけるの?」
《燕の団》の連中は、最低限を残して、カナルの国境警備に出るらしい。
もちろん俺はここに居残りだ…
「ゲルトは?もうお爺ちゃんだから行かないよね?」
「勝手に年寄り扱いするな。まだ戦える」とゲルトはカナルに行く気でいた。
「親父さん、今回は戦ってもんじゃねぇし残ってもらった方が…」
「カミル、お前いつから俺に指図するようになった?」
ゲルトは片目でカミルを睨んで黙らせた。
「俺はこんな所で留守番して、ボケながら死んでくのは御免だ。さっさと用意しろ」
いつもは苦笑いをしながら『あいよ』と答えるカミルも、この時ばかりは返事を躊躇していた。
「親父さん、もう…」
「お前らが最近俺に気ぃ使ってるのは知ってる。
だが、俺はまだ引退する気はねぇ」
頑固なお爺ちゃんは頑なに残るのを拒んだ。
その姿に、カミルも目元を抑えて呻いた。
「全く…無理しないでくれよ。あんたもう70超えてんだ…
並の爺さんならとっくに死んでてもおかしくない歳だろうがよ?」
「そうだよ、お爺ちゃんはここに残ってよ。カミルの兄貴の代わりに俺がお世話するから」
「お前らな…」
しかめっ面のお爺ちゃんの腕に縋って必死に止めた。だって彼はお爺ちゃんだ。
高齢な彼が生きて帰ってくる保証なんてない。
そうでなくとも、ここに来てから、お爺ちゃんがうたた寝してる姿をよく見ていた。
体調が悪いとかじゃなくて、単純に歳だから疲れるんだろう…
そんなお爺ちゃんにカミルは、『もう歳だからな…』と寂しげに笑って、毛布を用意していた。
「行かないでよ、お爺ちゃん」と彼を引き止めた。
ゲルトは相変わらず怖い顔をしていたが、大きな手で俺の頭を撫でると、「スーと話して決める」とカナル行きを保留にした。
カミルが大きめのため息を吐いて、今度は「あいよ」と答えた。
二人にとってはギリギリの譲歩だったのだろう。
ゲルトが「喉が乾いた」と言ったので、水を取りに行った。
井戸に行くと、イザークとカイが馬にやる水を汲んでいた。
「よお、どうした?」
「…何でもない」と距離をとった。
イザークは苦手だ…
俺を拾ってくれた恩はあるけど、こいつはガサツで、俺が女の子だっていうのを忘れてる。
「何だよ?今日は服着てるだろ?」
「えー…お前、さすがに引くわ…
ルカ、このバカはほっとけよ。水が欲しいのか?」とカイが俺の抱いてる水差し見て訊ねた。
見た目は怖いけど、カイは女の子に優しい。
荷物もってくれたり、手伝いとかしてくれるし、気が利くから外でも街の女の子にモテてた。
それに、彼にはモテる特技があった。
水を汲んで用意してくれると、彼は懐から櫛を取り出した。
「ルカ、お前今日もボサボサだな。綺麗にしてやるよ」
「うん」
彼は髪を結うのが上手だった。後で解くのが勿体なくなるほど、上手に結ってくれる。
彼は邪魔になる後れ毛も編み込んで、綺麗に結ってくれた。髪を整えてもらうと、俺も女の子みたいになった。
「ほら、可愛いだろ?」と笑って、カイは懐に櫛をしまった。
「ありがとう」と髪のお礼を言って、ゲルトの所に戻ろうとして、足を止めた。確かめたくて振り向くと、カイと目が合った。
「カイもカナルに行くの?」
「ん?行くよ。だって俺はスーの《犬》だからな。あいつの行くところに行くんだよ」
「俺も行くよー」
「イザークには訊いてないし!」
「えー?ルカってばキツくない?俺の心配もしてよ」
「お前、嫌われてんな…」とカイが苦笑いした。
「うっそぉ!まだ、あん時すっぽんぽんにしたの根に持ってんの?」とイザークは嫌なことを掘り返してきた。一気に体温が上がった。
よりによってカイの前でそんなこと言うなんて!
驚いて言葉を失ったカイと目が合って、一気に恥ずかしさが込み上げた。
「イザークの馬鹿!カナルでくたばっちまえ!」
イザークに罵声をあびせて逃げ出した。
心臓は飛び出そうなくらい早鐘を打って、飛び跳ねていた。
もっと別のことを言いたかったのに…
頬を膨らませて、ゲルトの部屋に戻った。
「お、お水…汲んできた」
「ありがとよ。
何だ?髪整えてもらったのか?姐さんでも来てるのか?」
カミルが、出ていった時と姿の違う俺を見て訊ねた。
「カイがしてくれた」と答えると、彼は納得したように頷いた。
「あぁ、あいつ器用だよな。ちゃんと可愛くなってるじゃねぇか?そうしてると女の子だな」
俺を褒めて、カミルはグラスを出すと、ゲルトの前に置いた。
出されたグラスに汲んできた水を注ぐと、ゲルトは「ありがとよ」と礼を言って、グラスを手に取った。
出された水を飲み干して、ゲルトは疲れたように背もたれに身を預けた。
「カミル、腹減った。何か食い物買ってきてくれ」
「あいよ」
「ルカも連れて行って、みっともなくない服買ってやれ。いつまでも男みたいな格好じゃ変だろうが」
意外な言葉に目を丸くした。
「俺はこれでいいよ」と断ったが、ゲルトは眉根を寄せて眉間に深い皺を作った。
「いいから服買ってこい」
ゲルトは有無を言わさずに、カミルと一緒に俺を部屋から追い出した。
「だってよ」とカミルが笑った。
「髪結ってもらって嬉しかったんだろ?
親父さんお前に礼がしたいのさ。受け取ってやんな」
「でも、女の子の格好って…」
「ずっと男の格好してる訳にもいかねぇだろ?それに、女の子の格好の方が分かりやすくて良いと思うぜ。
親父さんの我儘だ。付き合ってやれよ」
カミルはそう言って俺に外に行く用意をさせた。
ミア姉に貰った上着と帽子を持って、カミルの後について出かけた。
「何だ?」と怪訝そうにカミルが眉を寄せた。
並んだ店を見て立ち尽くした。
ここに来てから初めて見た商店の並ぶ通りに足が竦んだ。帽子の下に顔を隠した。
店先の店主の視線が怖い…
違う…ここは違うんだから…盗みに来たんじゃない…
自分に言い聞かせた。
だって、盗まなくても食べるのもだってあるし、生活できてる…小遣いだって貰ってる…
だから…
「カミルさんよ?何だい、その子?」
店先から顔を出した店主っぽい男がカミルに声をかけた。知り合いらしい。
「親父さんのお使いだよ。こいつの服を買いに来たんだ。女の子の服って何処で買うんだ?」
「何だ?男の子かと思ったら女の子かい?」
「《燕の団》の雑用係さ。イザークの奴が拾ってきたんだ。まだ外は慣れてねぇんだよ」
「はぁ、そうかい?てっきりあんたの子かと思ったよ」
店屋の親父の手が伸びて身構えた。
その手は俺の知ってるものとは違ってた。
俺の怯えた大きな手は、優しく帽子の上から頭を撫でた。
「あんたの、いいとこに拾ってもらえて良かったな」
優しい言葉に胸が熱くなる…
優しいのはずるい。視界が涙で歪んだ。
昔の俺を知らないからだろうけど、この街の奴らはみんな優しいんだ…
✩.*˚
窓から差し込む春の日差しが眠気を誘った。
煙草を咥えようとして止めた。窓から入る薫風が惜しくなったのは歳をとったからだ…
あんなに必死に止めやがって…クソガキ共が…
歳をとったのは誰よりも俺が一番分かってるってんだ。
あとどれだけ生きられるのかなんて神様でもない限り分からないことだ。
それでも俺はあの喧騒で生きて死にたかった…
つまんねぇ死に方は御免だ。
『もうそろそろいいんじゃないか?』
グスタフは俺に老いに応じた生き方を勧めたが、まだこの生活を捨てる気にはならなかった。
俺はこれしかない男だ…
自分の皺だらけになった手を眺めた。
呪われた腕だ…
でもこれがあったから生き延びることができたのも事実で、この腕が無ければ今の俺は居ない。
グスタフの目にも留まることはなかったろう…
クソガキ共を拾ったのもこの腕だ。
守り続けたのもこの腕だ。
これがなければ人並みの人生だったろうが、今の生活はないだろう…
やっぱり放り出したくねぇな…
掲げるのに疲れた腕を降ろした。
片目の視界は窓の外に過ぎった影を捉えた。
燕か…またこの季節なんだな…
戦が始まるのはいつだってこの季節だ。
雪が消えて、麦を撒くのが終わって、薫風を遮るような血の臭いを運んでくる…
あいつらはそれを運んでくるのだと思っていた…
あの黒い羽と喉元の赤が死を連想させた。
俺は嫌いだったが、俺が世話したガキはあの鳥を好きだと言った。
『絶対帰ってくる、約束の鳥だ』
確かにな…そういう考え方もある。
そんなガキの稚拙な言葉に救われた事もあった。
あいつは偉くなっちまったが、相変わらず俺を親父のように慕ってくれる。
瓦礫の下から拾ったガキは、俺の自慢の息子になった。多少口煩いが、それでもよくできたガキだ…
自分のじゃないガキばかりが増えて、この背には背負い切れないほどの命を背負った。中には、守りきれずに取りこぼした奴らも大勢いた。
俺を《親父さん》と呼んでくれるクソガキを一人でも多く残すのが、残された俺の役目だ。
今更、残って、送り出すなんてできるかよ?
最後まで俺の背中を見せて、スゲェ親父だったと言わせて、惜しまれて死ぬなら本望だ。
若駒ばかりを先に逝かせてなるものか!
順番はきちんと守れと教えただろうが、馬鹿どもが!
腹の中で悪態を吐いて、片方だけになった目を閉じた。
そのまま窓からの心地よい風で眠ってしまったらしい。
「ねえ、お爺ちゃん。起きてよ」少し高い子供の声で起こされた。
体を起こすと、目の前には、出ていった時と違う格好のルカがいた。
違いすぎて驚いたが、女の子ってのはこんなもんなのか?
「変かな?」と少女の格好になったルカが恥ずかしそうに訊ねた。
「よくわかんねぇからよ、適当に選んでもらった。まぁ、こんなもんだろ?」
カミルがそう言って荷物を机に降ろした。
長めのくすんだオレンジのスカートに、白いブラウスを着て、フリルの付いた前掛けを着けている。
「まぁ、そんなもんだろ」
誤魔化すように適当に返事をすると、ルカは「ありがとう」と笑って俺に飛びついた。
小さくて細っこい身体が俺の首にぶら下がった。
あぁ…ガキってのはいいもんだな…
温かい春の陽気に似た子供の体温に酔いしれた…
父親の叱咤を受けて、年下の義兄は踏みとどまった。
ケヴィンは木剣を構えて、父親の期待に応えようとした。それでも動作が遅い。
カンッ、と乾いた音がぶつかり合って、私の手に確かな手応えを残した。
「…参りました」悔しそうに負けを認めて、ケヴィンは手から離れた剣を拾った。
「始めたばかりにしては筋は良いと思います。続ければ、動きは自然と身に付くと思います」
「ご指導ありがとうございます、アダルウィン様」
様子を見守っていたシュミット様が礼を述べた。
彼は剣術の腕を買われ、ロンメル男爵閣下より、若者たちに剣術の指導を任されていた。
「ケヴィン。剣は冷静な判断や技術も求められるが、まずは心だ。折れない強い精神力が必要だ。
考えていては、相手は待ってくれないぞ。
積極的に攻めるように」
「はい」
「負けたからと落ち込むな。負けることも大事だ。そこから学びなさい」
指導者として息子にアドバイスとフォローをして、シュミット様は私の次の相手にケッテラーを呼んだ。
「やあ。先輩として、君に負ける訳にはいかないね。勝たせてもらうよ」
背の高い、蒼い髪の青年は、いたずらっぽく笑って、手にしていた剣を構えた。背は高いが、彼の表情が彼を幼く見せた。
シュミット様の合図で木剣の打ち合う音が響いた。上から振り下ろされる剣に苦戦した。
受けきれないので勢いを流した。
「やっぱり君強いね」
剣を流されたケッテラー青年は、私の剣の腕を褒めた。
それでも彼の方が上背もあるし、力でも優位だ。
彼の一撃一撃は重くて流すのがやっとだった。
何とか隙を見つけて踏み込みたいと思って、様子を伺っている時に、女の子の声がした。
「わあ!すごい!」
彼女の声に驚いて、一瞬反応が遅れてしまった。
右の手首に鋭い痛みが走った。
「わっ!大丈夫か?」
私を打ち据えたケッテラーが慌てて手元を覗き込んだ。
避けきれずに打たれた手首は赤く腫れ上がっていた。
「大丈夫ですか?」
監督をしていたシュミット様が駆け寄って、傷の具合を確認した。
「折れてないと良いのですが…
とりあえず手当しましょう」と言って、シュミット様は私を休憩用のベンチに連れて行った。
ベンチの傍で、彼女は心配そうな顔で立っていた。
「アダルウィン様、大丈夫?」
「はい」痛みを堪えながら返事を返したが、彼女と目を合わせられずに視線が泳いだ。
女の子と喋るのは苦手だ…
彼女は愛らしいから余計にどうしたらいいのか分からない。
許嫁殿は落ち着いた薄いピンク色のスカートと、フリルの付いた水色のブラウスを着ていた。
金の混ざった茶色の髪は小鳥の髪留めで一つに結い上げられて、あどけない顔を大人っぽく見せている。
心配してくれているのだろうけど、追いかけてくる彼女の青い大きな瞳が私を緊張させた。
格好の悪い所を見られてしまった…
恥ずかしくて居心地が悪い。
「アダルウィン様、おかけください。怪我を確認します」と彼女の父に勧められてベンチに腰掛けた。
青い視線は相変わらず追ってくる。
「ユリア、見つめ過ぎだ…」
ため息混じりに、シュミット様が苦言を呈した。
ユリア嬢は驚いて「ふぇ?」と変な声を上げて、頬を赤く染めた。
「だって痛そうだから!大丈夫かなって…」
「アダルウィン様もそんなに見られると居心地が悪いだろう?淑女が殿方をそんなにジロジロと見るものじゃない」
「…はぁい」と、彼女は少し拗ねたように返事をした彼女の青い視線は、ふいっとそっぽを向いた。
恥ずかしそうに染まった耳と、膨れた頬から突き出す唇が愛らしくて、今度は私が彼女の横顔から視線を外せなくなった。
それに気付いたシュミット様が咳払いをして私の意識を引いた。
「骨は折れてなさそうですね。手当して、包帯で固定しておきましょう」
シュミット様は慣れた手つきで手当を済ませ、手の具合を訊ねた。
固定されて不自由だが、その分痛みは感じにくくなった。
「利き腕ですので無理はしないで下さい。念の為、ロンメル家の主治医かスーに見せた方が良いと思います」
「スーならお屋敷にいたよ。旦那様とお話してた」とユリア嬢が父親に教えた。
「そうか…
それでしたら、その手では剣が握れないので、アダルウィン様は先に戻って治療を受けてください。
ユリア。私はまだ戻れないから、スーに事情を話して、アダルウィン様を治療してもらってくれ」
「分かった。行こう、アダルウィン様」
父親に答えたユリア嬢は、ベンチを降りて私を呼んだ。
先に失礼することを断って、ユリア嬢の後に続いた。
「大丈夫?」とユリア嬢が心配そうな声で話しかけてくれた。
元々下がり気味の眉がさらに下がって、青い視線が私の右の手首に注がれていた。
心配してくれている許嫁殿の優しさに笑みが漏れた。痛みはまだあるが、手首を隠して、彼女の前で強がって笑った。
「大丈夫です。ご心配をお掛けしました」
「痛かったら言ってね。ユリアお世話してあげるから」
「ありがとうございます」と彼女の親切を受け取った。
「ユリア嬢はなぜこちらに?」
「ん?差し入れ届けに来たの。お母さんと作って…
あっ!アダルウィン様の分もあったのに、置いてきちゃった…」
彼女は肩を落として、「ごめんね」と私に謝った。
「戻ったら何か残ってると思うから、作ってあげる」彼女は気を使って、代わりの用意まで約束してくれた。
「アダルウィン様は何が好き?苦手なものある?」
「ご用意いただけるなら何でも…」
「そんなのダメだよ。嫌いなの入ってたらどうするの?」
「『好き嫌いはしないように』と言われて育ちましたから。戦に出れば、そうも言っていられません」
「でも何かあるでしょ?」と彼女は食い下がった。
「ユリアね、ママのパイが好き。林檎とカスタードにシナモンたっぷりのパイ。すっごく美味しいんだよ」
「美味しそうですね」
「でしょー?!食べたら元気になるよ!」と彼女は目を輝かせた。
恥ずかしいことに、そんな彼女に見蕩れた。
彼女は楽しそうに食べ物の話を続けた。食べるのが好きなんだな…
まだ幼い印象の彼女は、自由で明るくて元気な女の子だった。
父上から縁談を聞いた時は、好きになれるか不安だったが、そんなのは彼女に会ってから杞憂だったと知った。
おっとりとした印象の彼女は、愛らしくてよく笑う女の子だった。
一目見て好きになった。言葉を交わして、さらに好きになった。
でも、彼女を好きになるほど、私から話すのは難しくなった。
女の子の事なんてろくに知らない。粗相をするのが恥ずかしい。それに、何より、彼女に嫌われたくなかった…
「アダルウィン様?」
ボーとしていた私の顔を覗き込んで、ユリア嬢は小さく首を傾げた。
「ユリアお喋りしすぎ?うるさかった?」
「いえ…そんなこと…」
「そう?なんか面白くなさそうだから…」
そんな顔をしてたのだろうか?
「すみません」と謝ると、彼女は「いいのに」と笑った。
「それで?アダルウィン様は何が好き?」と、彼女はまた話を戻した。
「ベーコンとオニオンバターを挟んだプレッツェルが」と答えた。
剣の稽古をした後に、兄と二人でよく食べたおやつだ。実家の近くのパン屋で買って、二人で頬張った。
「何それ?美味しそう!ユリアも食べてみたい!」
食いしん坊な許嫁殿は目を輝かせて、プレッツェルについて訊ねた。会話が弾んで、手の怪我の事も忘れた。
✩.*˚
アダルウィン様とおしゃべりしながら、スーの居たはずの旦那様の書斎を訪ねた。
返事があったので、「失礼します」と中を覗くと、二人の視線と目が合った。
「なんだユリア?用事か?」
「アダルウィン様が怪我しちゃったの。お父さんがスーに治してもらいなさいって」
「あぁ、いいよ。
じゃぁ、俺はアダルウィンの治療を済ませたら《燕》に行くから」
「あぁ、悪いな。そうしてくれ」
二人はお互いにだけ分かるように会話して、話を締めた。
「アダルウィンは?」
「一緒だよ」とスーに答えて、廊下の壁に寄ったアダルウィン様に視線を向けた。スーが私の視線につられて、彼を見た。
「お手数をお掛けして申し訳ありません、クライン殿」
「いいよ。傷は痛む?」
スーは傷の具合を気遣いながら、居間に向かった。
アダルウィン様を座らせて、包帯を外して怪我を見た。傷はさっきより赤黒く腫れていて痛そうだった。
「あぁ、これは痛そうだね。骨は折れて無さそうだけど、腫れが酷いからひびが入ってるかも知れないね」
「大丈夫?」
「すぐ治るよ。若いから治癒魔法も効きやすいしね。心配要らないよ」と答えて、スーはアダルウィン様の手首に手を翳した。
スーが魔法をかけると、指輪が光って、アダルウィン様の手首の腫れが徐々に引いた。
少し痣のように赤黒い痕が残っただけで、痛そうだった腫れはみるみるうちに治まった。
「まだ、痛むようなら無理しないで。俺はこれが限界だから、もしまだ痛むようならテレーゼに相談して」
「楽になりました。ありがとうございます」
「いいよ」と笑って、スーは優しくアダルウィン様の背を叩いた。
「君は大事なロンメル家の騎士になる人間だし、ユリアの婚約者だ。まだ慣れないだろうけど、遠慮するなよ」
「ありがとうございます」
「良かったね」と言うと、アダルウィン様は微笑んで、私にも「ありがとう」とお礼を言ってくれた。
アダルウィン様、笑い方がバルテル様によく似てるのよねー…
「じゃあ、俺は出かけるから」と言って、スーは部屋を出ていこうとした。
「《燕の団》に行くの?」
「そうだよ。大きい依頼が来てさ、しばらくカナルに張り付く事になる」
「え?戦なの?」そんな話全然知らなかったから驚いた。もしかして、旦那様やアダルウィン様も?
私の心配を察して、安心させるように、スーは私の想像否定した。
「いや、戦じゃないよ。パウル様からカナルの国境警備の応援を頼まれたんだ。団員を集めたら三月くらい留守にするよ。その後は状況次第だな…」
スーは去年も旦那様と一緒にカナルに行ってた。
慣れてるから呼ばれたんだろうけど、少し心配だ…
「まぁ、仕事だしな。それにワルターはしばらく動けないし、トゥルンバルトも忙しそうだから、カナルに行くなら俺になるだろうさ」
「大変ね」
「まぁ、仕事が無くてダラダラしてるよりいいよ。ここの所、畑の手伝いとか土木作業ばっかりだからさ、アイツらも気が緩んでるし、丁度いい仕事だ」と言ってスーは笑った。何故か少し楽しそうだ。
「まぁ、そういうことだから、もう行くよ。
二人とも、仲良くするのは良いけど、二人きりだからってイチャイチャしてハンスを心配させるなよ?」
「何それ?」と言って、アダルウィン様を見ると、彼は顔を真っ赤にして固まった。
スーはアダルウィン様を見て、悪戯っぽくニヤニヤ笑うと手を振って立ち去った。
居間に二人きりになる。
何あれ?別にそんなことしてないし?
居心地の悪い沈黙を追い払うようにアダルウィン様に話しかけた。
「そんなことないもんねー?」
アダルウィン様、耳も首も真っ赤だ。大丈夫かな?
「アダルウィン様、大丈夫?」
「は、はい…」
「ごめんね、スーってば、子供だからつまんない事言って」
「いえ…私こそ…ユリア嬢を不快にしないかと…」と恥ずかしそうに顔を隠して、アダルウィン様はごにょごにょとそう言った。
あ、ユリアの心配してくれてたんだ…
そう知って少し嬉しくなった。
『幸せにな、ユリア』
私にそう言ってくれた…無口だけど優しい初恋の人がくれた髪留めに触れた。
ねぇ、ソーリュー…この人とだったら…ユリア幸せになれるかな?
✩.*˚
「ハルツハイム様、大丈夫かな?」
怪我をした妹の婚約者を心配した。彼は騎士としての名前を貰っていたから、既に実父とは家名が異なっていた。
彼はまだ若いのに、その期待に応えようと必死に頑張っていた。僕と年齢も少ししか違わないのに、剣の腕も、勉強も優秀だ。
「うーん…木剣だけど、普通に骨折くらいの怪我はするからね…
僕もやりすぎたよ…」
ケッテラー様も、ハルツハイム様の怪我の具合を心配していた。
「兄上みたいにはなれないな…
浅慮だって、また母上に叱られるよ」と彼は困ったように頭を掻いてボヤいた。
彼のお兄さんは寡黙で落ち着いた印象の青年だった。冷たい印象だったけど、非常に優秀だったので、若いのに騎士としてケッテラーの家を預かっていた。
そのお兄さんが他の家に婿養子に出てしまったので、彼が繰り上がる形でケッテラーを継いだ。
「兄上はお元気かな…」と彼は出ていった兄弟を思い出して青空を仰いだ。
元々背負うはずでなかった重い荷に、彼は少し疲れてるようだった。
ハルツハイム様とはそういう意味で似たような境遇なので、二人は良い友人になっていた。
僕にもそんな友人が欲しかったけど、彼らに並ぶには、僕は弱すぎるし、まだ子供だ。
期待だって、彼らのように重いものでは無い。
ロンメル家の家宰だって、お父さんが優秀だから任されてるだけで、僕がそれを継ぐとは決まってない。
僕より優秀な人が現れたら、もしかしたら他の道を考えなければいけなくなるかもしれない。
「強くならなきゃ」と思ったことが口から出た。
それを聞いたケッテラー様は、お兄さんとは似てない笑顔で笑った。
「強くなれるよ。君はシュミット様の息子だ。
お父上のようになれるさ」と励ましてくれた。
「剣はまだ始めたばかりだけど、ケヴィンの馬術はピカイチだ。アダルウィンも君の腕を褒めてたよ」
「ハルツハイム様が?」
「うん。男爵閣下から子馬だって貰ったんだろ?君はそれだけ期待されてるってことだよ」
「そうかな…」
自信がなくて俯く僕に、ケッテラー様は「そうだよ」と明るく言って僕の背を叩いた。
「伸び代なら、僕たちより、君の方が大きいんだ。その歳でそれだけ色々できるんだから、きっとロンメル閣下のお役に立てるよ」
「はい、頑張ります」
「僕も頑張らないとね。兄上ほど優秀じゃないから母上には叱られてばかりだ」
「お母様に期待されてますね」と返すと、ケッテラー様は「だと良いけど」と苦く笑った。
彼は木剣を手に取ると、「さてと、もう少し頑張るかい?」と僕に訊ねた。
「はい!お願いします!」
ケッテラー様に稽古をお願いして、僕も強くなるために剣を握った。
✩.*˚
《燕の団》の連中が忙しくなった。
ロンメル男爵からの依頼で、近々、カナルの国境警備の派遣される事が決まったそうだ。
平時の団員は最低限しかいないから、足らない部分は自分たちで集めるしかない。
「ほら、エルマー、声掛けに行くぞ」
イザークとカイに連れられて、近くの農村まで団員を集めに行った。
去年のオークランドの騎行で、オークランドへの憎悪は高まっていたから、賛同する者もそれなりにいた。
「俺も行く!」と名乗りあげた子供までいた。
「悪いな、子供はやめろって言われてんだ」とイザークが少年の申し出を断った。それでも少年は諦めずに食い下がった。
「父ちゃんも母ちゃんも妹も、オークランド人に殺された!誰にも迷惑かけないから、俺も連れてってくれよ!」
「ダメだって。そんなら尚更お前が死んだら困るんだよ」
「どうして?!」
「死んだ奴が困るからさ。
お前の家族はそんなの望んでないだろ?
子供のお前に、《死ね》って《人殺しになれ》って言うような親父さんやお袋さんなのか?」
「そんなの…」
「諦めな」と告げて、イザークは少年を置いて立ち去った。
「子供でも矢を拾うくらいできるだろ?」
孤児が戦場で働くのは珍しくないはずなのに、こいつらはそれを嫌がった。
「馬鹿言え、ガキのお守りなんてする余裕なんかねぇよ」
「危ないって分かってて連れて行けるわけねぇだろ?」と彼らは口々にそう言った。
「ロンメルの旦那からのお達しだ。孤児の生活は最低限保証してる。ガキを戦場に連れて行く理由なんてねぇよ」
ここの領主もこいつらも変な奴らだ…
ロンメル男爵領では、孤児でも親戚がある子供は親戚に預けて、世話をする代わりに税の一部を免除しているという話だった。
そこまでする必要はあるのか?
ロンメル男爵の貴族らしからぬ行動に、度々驚かされた。
「俺らがカナルで、オークランドの奴らを渡らせないようにするだけの話だ」
「だな。スーだっているし、後ろには《英雄》だって控えてるんだ」
イザークとカイは楽観的な事を言いながら笑っていた。
「去年は面白かったけどな。また今年はどんなんだ?」
「スーのあれ見れるのか?」
「船が出たらするだろうよ」
「違ぇよ、あれだって。水の上歩くの」
「あー、あれかー」と彼らは馬の背に揺られながら楽しそうに話を続けていた。
「水の上を歩く?」
「そうだよ。スーの魔法だ。他にも雷は落とすわ、水霊の群れを呼ぶわ無茶苦茶だぜ」
「あの団長、何者なんだ?」
最初は若すぎるし、あの見た目だから、団長だと言われても信じられなかった。
それでも、彼の剣技や魔法が使えるなど、化け物のような強さを目の当たりにして、団長と認めざるを得なかった。
それでも団長として納得しただけで、彼への違和感は拭い切れない。
「あいつはうちの団長だよ」
「スペース・クライン。《燕の団》の団長さ」
二人は在り来りな言葉で、団長の正体を隠した。
もしかしたら本当に何も知らないのかもしれない。
まぁ、それも時間をかければ分かってくることか…
無理に聞き出して疑われるのも馬鹿らしいしな…
それに新しく、依頼内容が追加された。
『この子供を見つけたら連絡するように』
少年の似顔絵と特徴が書かれた紙を配りに来た《蜘蛛》の伝令役は、顔も見せずに立ち去った。
何者かは分からないが、《蜘蛛》の頭からの命令なら、頭を動かすほどの依頼主からの依頼だ。
何をしたのかは知らないが、この子供も可哀想にな…
《蜘蛛》はどこにでもいる。その目をかいくぐって逃げ切るなんて無理だ。
綺麗な整った顔の少年は、少し成長しているかもしれないとの事だった。特徴には、舌が無いとあった。
見つけて報告すれば、報奨金が貰えるらしい。
頭の探してる本人であれば、もっと旨みがある。
ロンメル男爵の周りはおかしな奴らばかりだからな…
もしかしたら、俺にも幸運が回ってくるかもしれない。
✩.*˚
「いつから出かけるの?」
《燕の団》の連中は、最低限を残して、カナルの国境警備に出るらしい。
もちろん俺はここに居残りだ…
「ゲルトは?もうお爺ちゃんだから行かないよね?」
「勝手に年寄り扱いするな。まだ戦える」とゲルトはカナルに行く気でいた。
「親父さん、今回は戦ってもんじゃねぇし残ってもらった方が…」
「カミル、お前いつから俺に指図するようになった?」
ゲルトは片目でカミルを睨んで黙らせた。
「俺はこんな所で留守番して、ボケながら死んでくのは御免だ。さっさと用意しろ」
いつもは苦笑いをしながら『あいよ』と答えるカミルも、この時ばかりは返事を躊躇していた。
「親父さん、もう…」
「お前らが最近俺に気ぃ使ってるのは知ってる。
だが、俺はまだ引退する気はねぇ」
頑固なお爺ちゃんは頑なに残るのを拒んだ。
その姿に、カミルも目元を抑えて呻いた。
「全く…無理しないでくれよ。あんたもう70超えてんだ…
並の爺さんならとっくに死んでてもおかしくない歳だろうがよ?」
「そうだよ、お爺ちゃんはここに残ってよ。カミルの兄貴の代わりに俺がお世話するから」
「お前らな…」
しかめっ面のお爺ちゃんの腕に縋って必死に止めた。だって彼はお爺ちゃんだ。
高齢な彼が生きて帰ってくる保証なんてない。
そうでなくとも、ここに来てから、お爺ちゃんがうたた寝してる姿をよく見ていた。
体調が悪いとかじゃなくて、単純に歳だから疲れるんだろう…
そんなお爺ちゃんにカミルは、『もう歳だからな…』と寂しげに笑って、毛布を用意していた。
「行かないでよ、お爺ちゃん」と彼を引き止めた。
ゲルトは相変わらず怖い顔をしていたが、大きな手で俺の頭を撫でると、「スーと話して決める」とカナル行きを保留にした。
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ゲルトが「喉が乾いた」と言ったので、水を取りに行った。
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「よお、どうした?」
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「髪結ってもらって嬉しかったんだろ?
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「はぁ、そうかい?てっきりあんたの子かと思ったよ」
店屋の親父の手が伸びて身構えた。
その手は俺の知ってるものとは違ってた。
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体を起こすと、目の前には、出ていった時と違う格好のルカがいた。
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「変かな?」と少女の格好になったルカが恥ずかしそうに訊ねた。
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カミルがそう言って荷物を机に降ろした。
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「まぁ、そんなもんだろ」
誤魔化すように適当に返事をすると、ルカは「ありがとう」と笑って俺に飛びついた。
小さくて細っこい身体が俺の首にぶら下がった。
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青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。
主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。
ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。
しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。
その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。
「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」
これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。
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