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またここか…
先日の嫌な思い出が過ぎる。
手入れの行き届いた温室の中庭は、つい先日王妃様のお茶会でお邪魔したばかりだ。
「この薔薇は特別な薔薇で、この温室にしかない品種だ。私が贈った花束にも入れたが、見損ねただろう?どうだ?美しいだろう?」
「はい」とだけ答えて、薔薇に手を伸ばした。
可哀想ね…綺麗だから、あなたも思うように咲かせて貰えないのね…
綺麗な花に同情した…
綺麗ってそんなに良い事かしら?
この容姿のせいで、悪い事も沢山あった。お母様も私と同じように思ったかしら?
ふと、そんなことが頭を過った。指先に触れた薔薇の棘が痛みを与えて、これが現実だと教える。
我儘な王子は馴れ馴れしく私に触れた。
まるで自分の物だとでも言いたいのかしら?
その手を振り払いたいが、そうすれば彼の機嫌が悪くなるのは分かりきっていた。
消えたワルター様を思うと、王子の機嫌を損ねる事は出来なかった。
我慢…我慢しなさい、テレーゼ…
ワルター様とロンメルを守るためだもの…
自分にそう言い聞かせて、不躾に差し伸べられる手を受け入れた。
温室や王宮を自慢する王子の思考は幼かった。
以前も同じように自慢して、自分を選ぶようにと私に勧めた。疲れている私の事など気にも留めなかった。
本当にくだらない…
虚勢を張る男なんて、なんの魅力もない…
ワルター様みたいに優しくて、普段はダサくて、時々見惚れるほど格好良い人がいい。
少年みたいな自由な人だと思っていると、ちゃんと年相応に腰が痛いとか肩が凝るとか、目が疲れるとか愚痴を言う。
年上で頼れる人なのに、時々見せる、飾らない子供みたいな姿が愛おしい。
私が好きになったのは、そういう人だ…
「殿下…もう戻らなくては…」
「何故だ?せっかくここを選んだのに、何か不満か?」
私の言葉に、彼は露骨に機嫌を悪くする。
「あの男が怖いのか?
嫉妬深そうだ。花を贈ったくらいで目くじらを立てるのだからな…」
「そんなことはありません。彼はとても優しい人です」
私の返事に、王子は憐れむような視線を向けて、ワルター様のありもしない悪口を並べた。
「そう言うように、あの男から躾られたのだろう?酷い男だ。
あの男は下賎な傭兵だったのだ。まともな育ちではないだろう?
もしかして殴ったりするのか?」
「そんなことは一度もありません!何故私の夫を知りもしないのにそんな酷くおっしゃるのですか?!」
「何をムキになっているのだ?」
この人は自分がどんなに酷いことを言っているのか分かってない。
私には彼が、得体の知れない怪物のように思えた。
王子は私の手を握ると、自分に酔ったように、自分の正義と親切を私に押し付けた。
「私が君を助けてあげようと言っているのだ、テレーゼ…
ヴェルフェル侯爵に遠慮することは無い。
侯爵の我儘で、あんなに歳上で生まれの賎しい男と結婚させられて、さぞ辛かったろう?
私があの婚姻は無効だったと宣言しよう。
そうすれば、君は救われるだろう?」
「仰りたいことが分かりません!
私はロンメル男爵の妻で満足しておりますし、十分に幸せです」
「自らの不幸を認めることができないのだな。可哀想に…」
「違います!私はロンメル男爵を愛しています!」耐えきれずに悲鳴のように叫んだ。
怖い…この人が怖い…
「…愛してる?あの男を…愛してるのか?」
呟いた声は怒気を孕んでいた。
何かが彼の中で爆ぜるような怒りに変わった。
それまで優しく握っていた王子の手に力がこもる。
彼は私の腕を引いて、無理やり手繰り寄せると恫喝するように身勝手な怒りをぶつけた。
「ふざけるなよ?!私にここまでさせておいて!この私に応えようともしないのか?!」
「痛い、やめて下さい!」
痣になりそうなくらい強く握られて痛みを訴えた。
手を引き剥がそうと抵抗したけれど、相手は男の人だ。反対の手首も掴まれて抵抗も出来なくなった。
「あんな下賎な男に、この私が劣ると言うのか?!愛してるだと?妻一人守れないような男のどこがいい?!あんな男になんの価値がある?!」
「それは私が決めることです。殿下が決めることではないはずです」
「うるさい!この私を馬鹿にしているのか?!」
掴まれていた腕から圧が消え、コースフェルト伯爵の右手が閃いた。
叩かれる!
そう思って身構えた私と彼の間に、白いふわふわしたものが滑り込んだ。
白いふわふわは小さな小鳥だった。
「なっ!」コースフェルト伯爵は驚いて怯んだ。
「チー、チーチルチー」と小鳥は可愛い声で鳴いて、私の右手首を掴んだままの伯爵の左腕に留まった。
小鳥の丸い身体が彼に触れた刹那、丸いフワフワの小鳥は姿を変えて、鋭利で透明な氷が腕に刺さった。
「うわぁぁぁ!何だ!何だこれは!」
王子が悲鳴をあげて、私を掴んでいた手を離した。
「チー」
「ピルピー」
「チーチッチ」
周りに小鳥たちの囀りが溢れた。
雪のように舞い降りた小鳥たちは、私の肩や頭に乗って囀った。小鳥たちは私に《大丈夫》と言うように寄り添ってくれた。
「無事かね、《白い手の》?」とすぐ傍で声がした。
その声に振り返ると、冠のような大きな角の白い雄鹿の姿があった。
立派な大樹のように枝分かれした角や、美しい模様の刻まれた背には、小鳥たちが留まっていた。
「《冬の王》…」
「《白い手の》。我が眷属が其方を探している」
「ワルター様は?ご無事ですか?」
「おやおや?心配かね?彼は少し怪我してしまったけれど無事さ」と雄鹿の姿をした精霊王は優しく答えた。
深い藍色の瞳が私の顔を覗くと、頭を振って振り返るように促した。
視線を向けた先に、兵士を連れた見知った顔がこちらには向かってくるのが見えた。
「テレーゼ!」と私の名前を呼んだのはよく知っている声だ。
その声が届くと同時に、抑えていた感情が涙になって溢れた。
ずっと我慢していたのに…
抑えられなくなった感情が溢れると、強がっていた足は力を失ってその場に座り込んでしまった。
「テレーゼ!」
慌てて駆け寄ってきた彼は、迷わず私に腕を伸ばした。
どこに行ってたんですか?
どうしてそんな格好なんですか?
その手はどうしたんですか?
聞きたいことが沢山あるのに、涙と嗚咽で言葉にならない。
彼の腕の中で震えながら泣いた。本当は怖かったのだ。不安で仕方なかった…
「ごめんな?大丈夫か?」
困ったような声で謝りながら、彼は私の背や髪を撫でてくれた。
その手は優しくて、少しずつ冷静さを取り戻した。
「ロンメル男爵夫人は無事か?」と問いかける声に顔を上げた。聞き覚えのある声だ…
視線の先には、ドライファッハの別荘で見た青年の姿があった。
「夫人。一度ならず二度までも、愚弟が迷惑をかけた。誠に申し訳ない」と真摯な態度で謝罪するのは、あの時も助けてくれたレーヴァクーゼン伯爵だ。
彼がワルター様をこの温室に連れて来てくれたようだ。
「立てるか?」とワルター様に訊ねられたが、足元が覚束無い。ふらついた私に、《冬の王》が歩み寄って、「特別だよ」と私の傍らに膝を折った。
「其方の夫の手では其方を抱えられないだろう?
だからと言って、他の者にその役を譲れば、彼の機嫌も悪くなる。
仕方ないから乗せてあげよう」
「ありがとうございます」と《冬の王》の親切に甘えることにした。
ワルター様の手を借りて、白い背に腰を下ろすと、《冬の王》はゆっくりと立ち上がった。
「ふふ。心地よい重さだ。乙女を背負うのは実に気分がいい」と《冬の王》はご機嫌そうに呟いた。
「あんたな…」とワルター様が《冬の王》を睨んだ。その視線を受けても、《冬の王》は楽しそうだ。
「どうせ背負うなら、髭の男より美しい乙女が良いに決まっている。
我が妻と会えるのは《立春》の前後だけなのでね。其方らが羨ましいのさ」
「フリューリング様は?」
「彼女は《立春》を合わせて三日しか目を覚まさないのだよ。あとはその身を守るために深い眠りの中にいる。
ヴォルガ様に呼ばれた時だけ起きてくるが、我はその間ひとりぼっちさ」
「よく寝る嫁だな…」
皮肉っぽいワルター様の言葉に《冬の王》はくすりと笑った。
「仕方ないのさ。彼女は目を覚ましている間、ずっと周りを癒し続けるからね。
優しさが彼女の身を削るくらいなら、我は三日の語らいで満足するよ。
妻が大事なのは、我とて同じだ…」
寂しげにそう呟いて、《冬の王》は私に、「其方も気を付けたまえ」と忠告した。
「気づいているだろうが、その《白い手》には少し問題がある。
無闇矢鱈に使うのはおすすめせんよ」と《冬の王》は私の《祝福》を抑えるように忠告をくれた。
「わかりました。ありがとうございます」
「うむ。彼の傷の治療はここにいるもので十分なはずだ。
其方も無理せずに休むがよかろう」
《冬の王》は気遣いをくれた。
レーヴァクーゼン伯爵が用意してくれた部屋まで送ってくれると、いつの間にか姿を消した。
部屋にいた治療魔導師と侍女たちが私たちの世話をしてくれた。
「ったく…散々だ」
治療を受けながらワルター様がボヤいた。
手のひらの傷は思っていたより深かった。
骨を避けて貫通した手のひらの傷は、塞がった後も痛々しい痕を残した。
《祝福》とスカーフで止血していたみたいだけど血もかなり流れたみたいだ。顔色も悪い。
「大丈夫ですか?」
「こんなの初めてじゃねぇよ。お前こそ大丈夫か?」と彼は私の心配をしてくれた。
「あいつに何かされたか?」
「いえ…大丈夫です」
肩や腰を触られた事や、叩かれそうになった事は伏せておいた。きっと怒るだろうから…
同じソファに並んで座って、傷跡の残る彼の手を握った。
この怪我は私のせいだ…
「ワルター様の言う通りにすれば良かったです」と言うと、彼は「何が?」と返した。
「不細工に化粧してもらえと…」
私の言葉に彼は驚いた顔で私を見返した。
少しの間を開けて、ワルター様はいきなり笑いだした。何が可笑しいのだろう?
「何だよ!気にしてたのか?!」
「だって…」
「お前は可愛いな」と笑って彼は、私の頬に大きな手のひらを添えた。同じ手なのに、どうしてこの人の手はこんなに安心できるのだろう?
彼は笑って私に告げた。
「《不細工》は言い過ぎだな。そいつは無理そうだ。だってよ、泣いてもお前は別嬪さんのままだ」
飾らない荒削りな言葉が心に沁みる。
やっぱり私はこの人が好きだ。
彼は「来いよ」と腕を広げて、特等席に私を呼んだ。甘えて彼の腕の中に収まった。
広く大きな胸に収まると彼の匂いに包まれた。
「お前ってばいい女だよ」とワルター様は彼なりの褒め言葉をくれた。
ロマンチックでも文学的でもない。それでも私はそれがいい…
彼はダサいくらいが丁度いい。
気の利いた台詞なんて使ったら、何処で覚えてきたのか不安になる。
彼に抱かれて安心したのか、瞼が重くなった。
コースフェルト伯爵に連れ回されたからか、泣きすぎたからか…どちらにしても疲れていた。
頭を撫でる手も心地よくて眠気を誘った。
「…大丈夫か?」
「眠くて…疲れてしまったみたいです」と答えると、彼は「そうか」と答えて体勢を変えた。
「これでどうだ?」と言って、彼は子供を抱くように私を抱いて横にすると、髪をまとめていた髪飾りを外した。
「誰か来たら起こすから、それまで休めよ」
「勝手に消えたりしませんか?」と訊ねると、彼は苦笑いで答えた。
「好きで消えたんじゃねぇよ。こんな特等席から動くわけねぇだろ?」
「うふふ…」
「何だよ?ご機嫌か?フィーみたいだぞ?」
「ご機嫌です。だって特等席ですもの」
誰にも譲れない特等席だ。
ワルター様は照れたように笑って、私の髪を撫でると、「おやすみ」の言葉をくれた。
✩.*˚
朝食の後片付けをしていると、お皿を持ってきたルドが慌ててあたしのスカートを引っ張った。
「ママ!血!」
「え?どこ?」ルドが怪我したのだと思ったが、血が付いていたのは私のスカートだ。
朝から怠かったのはこのせいか…
「痛いの?どこ怪我したの?」とルドは心配してくれた。
「違うよ。月のものだから」
「痛くないの?」
「うん。大丈夫。着替えてくるね」とルドに言って、ルドの運んできた皿を受け取って水に浸けた。
月のが遅れてたから、少しだけ期待していたのに…
着替えを取りに行くと、部屋にはスーがいた。
「どうしたの?忘れ物?」
「ううん…月のものが来たから…」と正直に答えた。
彼は少しだけ残念そうに「そうか」と言って、部屋を出て行った。あたしに気を使ったんだろう。
服を脱いで確認すると、黒っぽい血が服を汚していた。
こればかりは欲しいと思っていても上手くいかない。
ルドを産んだんだから、授からないという事はないだろうけど、それにしてもなかなか難しい…
スーは子供を欲しがっていた。
それはあたしも同じだ。
スーは、ルドも産まれてくる子供も大事にすると約束してくれていたし、ルドだって兄弟は欲しいはずだ。
問題はあたしがなかなか授からないこと…
経血の滲んだ服を取り替えて、部屋を出た。仕事に戻らなきゃ…ルドも心配させてしまう…
部屋を出てすぐに、「ミア」とあたしを呼ぶ声がした。
スーはあたしが部屋から出てくるのを待っていた。
彼に申し訳なくて、出た言葉は「ごめん」の一言だった。
「なんで謝るんだよ?」
「だって…期待させたから…」月のものが遅れてたから、もしかしてって思って昨日の夜にその事を話したばかりだ。
彼も喜んでいたのに…あたしのバカ…
「仕方ないよ。今回は違っただけだろ?
ミアのせいじゃないから、そんなに気にするなよ」
スーはそう言って、手を握ってくれたけど、あたしの胸の中のモヤモヤは晴れなかった。
「ありがとう…」
「無理しないでいいよ」と彼は言ってくれた。
「ルドを産んだ時だって大変だったんだから、君に無理はさせれないよ。できたかもってなったらまた教えて。俺もできることするから」
「…うん」
「できるまで待つよ。君の事が大好きだから…」
スーの手が髪を撫でた。紫の瞳は優しいけれど、その奥に残念そうな色が滲んでいる。
「…もし…できなかったら?」と言わなきゃいい事を口にしてしまった。
スーはあたしの顔を驚いた顔で見つめていた。
「それでも、あたしの事…」
スーはあたしの言いかけた言葉を指先で塞いだ。
「大好きって言ったろ?」
スーの声は少し不機嫌になっていた。
「ミアは俺がそんな酷い男だと思ってるの?
子供ができないならって、他の女の子のところに行くとでも?」
「だって…欲しいんでしょ?」
「そうだけど、俺にとってはミアもルドも大切な家族だ。
別れるつもりもないし、そんな事で浮気する気もないよ」
「…うん…ありがとう」
「もう少し頑張ろう?どうしてもできなかったらその時に考えよう。いい?」
頷いたあたしに、彼は微笑んでキスしてハグをくれた。
広くなった彼の胸は深く温かくあたしを包んでくれた。
手を伸ばして彼に応えた。
パートナーと幸せを願った。
✩.*˚
目を覚まして、まず最初に隣を確認した。
テレーゼは静かな寝息を立てていつものように眠っている。
彼女の寝顔を眺めながら、昨夜の散々な晩餐会を思い出すと、腹の奥でまた怒りが燻った。
あの後、パウル様たちと合流したが、もうパーティーには戻らなかった。
俺が我儘を言って戻らなかった。テレーゼにこれ以上負担にしたくなかったし、俺ももううんざりしていた。
レーヴァクーゼン伯爵が、国王から帰る許可を取り付けて、パウル様たちの代わりに宿まで送ってくれた。あの王子は良い奴だ。
つまらん弟のせいで苦労する気持ちは痛いほど分かる。あの王子には同情した。
割と話のできる男で印象も悪くない。それに彼に助けられたのは紛れもない事実だ。
話も聞かずに怒鳴りつけた事を詫びて、助けてくれた事に礼を言うと、青年は少し嬉しそうに笑った。
『トリシャ妃殿下の命です』と彼は自分の働きを、母親の手柄にした。その姿勢にさらに好感を持った。
予定より早く帰ったので、シュミットは俺が粗相して帰されたと思ったらしい。
事情を話すと、シュミットは安心したような、でも呆れたような複雑な表情になっていた。
王子は俺たちを送り届けると、最後に詫びを残してすぐに帰ろうとした。
何か礼をしたかったが、俺の渡せるもので王子に見合うものなんて限られている。
『こんなんで悪いな』とレーヴァクーゼン伯爵に俺の持ち物の中からギルの打った剣を渡した。
彼は受け取れないと言っていたが、最後には折れて剣を受け取った。
『宝物にします』と言って、彼は握手をして帰って行った。
昨日の事を思い出しながらテレーゼの寝顔を眺めていると、彼女も目を覚ました。
「おはようございます」と寝ぼけた顔で微笑む彼女は可愛い。この無防備な感じがたまらない…
手を伸ばして彼女の髪を撫でた。
「おはよう」
テレーゼの顔色は良さそうに見えた。
昨日は疲れていたから、また体調を崩すんじゃないかと心配だったが大丈夫そうだ。
「大丈夫か?疲れてないか?」
「ありがとうございます。大丈夫です。
ワルター様も手は痛みませんか?」
「傷跡が少し突っ張るくらいだ。なんともねぇよ」と答えると、テレーゼは俺に白く細い手を伸ばした。その手を握り返すと、彼女は俺に《白い手》を使う許可を求めた。
「私が治しちゃダメですか?」
「ダメだ」
「ちょっとだけ…」と狡くお願いする姿に負けそうになる。でもここで譲ったらまた彼女が辛くなる。
「ダメだって。可愛く言ってもダメなもんはダメだ」と彼女の親切を断った。
テレーゼはお願いが通らなかったので、拗ねたように頬を膨らませた。
なんだよそれ?可愛いな…
拗ねた顔の彼女を抱き寄せてキスした。不機嫌そうに膨らんでいた頬から空気が抜ける。
離れた顔から不機嫌が消えた。いつものテレーゼだ。
「アンネを呼ぶから、起きて着替えろよ」
「外は寒そうですか?」
「どうだろな?昨日は雪がチラついてたけど…」
「雪が積もっていたら見たいです」とテレーゼは子供のような事を言った。
そういえばブルームバルトでも、子供たちと一緒になって雪を投げて遊んでたな。彼女は結構お転婆だ。
少しくらいならいいだろう。気分転換にもなる。
「じゃあ、飯の後に一緒に散歩しよう」と約束した。
テレーゼは嬉しそうに笑顔で頷いた。
✩.*˚
テレーゼと散歩から戻ると、シュミットから来客があったと聞かされた。
「ヴェルフェル侯爵閣下とアーベンロート伯爵閣下がお待ちです」と聞いてテレーゼと顔を見合わせた。
今回の事件の片棒を担いだ異母姉の旦那が何の用だ?
「シュミット、テレーゼを部屋に戻してくれ。二人には俺が会う」
「ワルター様、私も…」
「お前も会っても良いと思ったら呼ぶよ。とりあえず待っててくれ」
アーベンロート伯爵がどんな考え方をしているかは知らないが、あの異母姉の旦那だ。テレーゼを敵視してないとも限らない。
俺としては納得してからでないと会わせたくない。
これ以上彼女を傷つけたくなかった。
テレーゼをシュミットに預けて、二人を待たせている部屋に向かった。
「お待たせして申し訳ありません」と待たせた事を詫びた。
「テレーゼは?」とパウル様はテレーゼの姿を探した。
「休ませています。用向きなら自分が伺います」
俺の考えを察したのか、パウル様は「まぁいい」とため息を吐いて、隣に座る男性を紹介した。
「知っているだろうが、彼がフロレンツィアの夫のアーベンロート伯爵エアネスト殿だ」
「お久しぶりです、ロンメル男爵」と硬い表情の紳士が挨拶した。
結婚式くらいでしか顔を見た覚えがないが、何となく見たことがあるなという印象だった。
パウル様が娘を嫁がせるくらいだから、きっと彼は優秀な人物なのだろう。
席に着くと、彼はパウル様に許可を得て、テレーゼへの謝罪を口にした。
「この度は私の妻が大変な無礼を致しました。家長として、どうか詫びさせて下さい。
男爵。是非、夫人も直接謝罪させては頂けませんか?」
アーベンロート伯爵は格下の俺に真摯な態度で詫びを口にした。彼からは悪い印象は無かった。
その謝罪を受け入れそうになるが、それにはどうしても足りないものがある。少なくとも俺はそっちの方が重要だ。
「詫びるならフロレンツィア様の方でしょう?
それもと閣下も一緒になって計ったことですか?」
「ロンメル男爵、口が過ぎるぞ」
パウル様が俺の無礼な物言いを叱ったが、本心だ。謝るんなら当人が反省したことを示してもらわねば困る。
「侯爵閣下。テレーゼは既に茶会でアーベンロート伯爵夫人から酷い扱いをされました。
二度あることは三度あるんです。今度も無いとは限りません。
閣下や侯爵夫人のお叱りも利かない以上、アーベンロート伯爵夫人の反省と謝罪がないのであれば自分は納得できません」
おれのへそ曲がりな返事に、パウル様も呆れたようだ。
「全く…すまんなアーベンロート伯爵…こういう男なのだ」
「いえ…男爵の仰ることは尤もです。
妻はそれだけの事をしたのです…
もし逆の立場であれば、私も怒りを抑えられなかったでしょう…」
沈痛な面持ちで語る伯爵は良い人そうに見えた。
「男爵。フロレンツィアは私の妻として、子供たちの母として私を支えてくれた女性です。
私は彼女の夫として、お二人に謝罪させて頂きたいのです。どうか夫人にも謝罪させていただけないでしょうか?」
なんか俺が虐めてるみたいだ…
でもここで引き下がったら、また振り出しだ。
「テレーゼは閣下の謝罪を受け入れるでしょう…彼女はそういう女性です。
彼女は何度同じことがあって、どれだけ傷つこうとも同じ判断をします。
彼女がそうである以上、彼女を守るためにも自分は折れる気はありません。申し訳ありません」
「分かりました…あくまで妻の謝罪と反省が条件というわけですね…」
「はい。申し訳ありませんが…」
「いえ…突然押しかけたのは私の方です。
お二人には少しお時間を頂けると幸いです」と伯爵は妻の説得を約束した。
少し意固地になりすぎたような気がして、無礼だったな、と反省した。
「すまんな、アーベンロート伯爵」
「とんでもございません、閣下。この場を設けて頂きありがとうございます。
ロンメル男爵。この件が解決致しましたら、息子とも会って頂けませんか?
叔父である《英雄》と会って話したいとずっと楽しみにしておりましたので…」
《英雄》ってのはやたら子供に人気があるな…
「嬉しい申し出です。彼女も自分も子供は大好きですから」と返事を返すと、伯爵は上品に笑って手を差し出した。断るのも悪いので握手は返した。
玄関まで見送ると、伯爵は上品に会釈して、「ありがとうございます、ではまた」と約束して帰って行った。
「全く…少しは気を使うとかできないのか?」とパウル様から説教を食らった。
「伯爵相手に無礼だろう?相変わらず危なっかしい男だ…
テレーゼを大事にする気持ちは嬉しいが、あれはやりすぎというものだ」
「どっちの味方です?」
「また、そういう面倒なことを…
どちらも私な娘だ。二人には仲良くして欲しいと思っている」とパウル様は父親らしい事を口にした。
「アーベンロート伯爵は私が知る限り、素晴らしい人格者だ。ガブリエラも私の父も気に入っていた。
私は彼が今回の件に関わっているとは思えない。フロレンツィアの事を話した時には酷く落ち込んでいたしな…」
「そうですか…」
「全く…まぁいい。この件が和解したら仲良くすることだ。
ところでテレーゼは?」とパウル様は娘を連れてくるように催促した。
テレーゼを呼ぶと、彼女はドレスに着替えて出てきた。
「伯爵は…?」とテレーゼは部屋を見回した。
「帰ったよ」と教えると彼女は項垂れた。
「お礼を言いたかったのですが…」
「お礼?」
「はい。ワルター様がいなくなった時に、わざわざ探しに行ってくださったのです。
それでお異母姉様と二人きりに…」
初耳だ。
パウル様は《それ見た事か》とでも言いたそうな非難がましい視線をよこした。
「また会う約束したから、また今度な」と言って、テレーゼを パウル様と向かい合ったソファに呼んだ。彼女は父親に会釈してソファに腰を下ろした。
「テレーゼ、具合はどうだ?ガブリエラも心配していた」
「お騒がせして申し訳ありません。もう大丈夫です」とテレーゼは微笑んで応えた。パウル様もテレーゼの様子を見て頷いた。
「無理はしなくていい。また咳が出るといけないからな…
あと、これを預かってきた。陛下と妃殿下からだ」
パウル様が懐から箔押しの封筒を取り出して、テーブルに置いた。
「王宮への招待状だ。陛下と妃殿下は今回の件を詫びたいと仰せだ。
男爵、そんなに嫌な顔をするな…」
「テレーゼもですか?」
「ロンメル男爵。まさか陛下や妃殿下にまで詫びに来いと言うんじゃなかろうな?
さすがにそれは私も怒るぞ」
「いや、そんなことは言いませんが…もう、これだけで…」
「我慢しろロンメル男爵。それでは陛下や妃殿下の名誉に関わる。
それに、召喚に応じないなら、《英雄》は国王に含むところがあるだの、卿に謀反の意思があるなどと厄介な噂が立つぞ。最悪私も巻き込まれる」
パウル様に脅されて、渋々封筒を手に取った。
もう放っておいて欲しいってのが本音であり願いなんだけどなぁ…無理か…
「観念するのだな《英雄》」とパウル様は皮肉っぽく俺の逃げ道を塞いだ。
✩.*˚
「お母様!見て!」
息子は子馬の背で無邪気に喜んでいた。
「上手ね、ガリオン」と、はしゃぐ息子を褒めてあげた。
息子は子馬に夢中で、雪の冷たさも北風の寒さもに気にならないようだ。
まだ10歳に届いたばかりだものね…無邪気な子どもの姿に癒された。
夫は私のしたことを聞いて、ショックを受けていた。声を荒らげたり、手を上げるような人ではない。
ただ、悲しそうに、『君がそんなことをするなんて…』と言って頭を抱えた。
彼は根っからの善人だから、私のしたことが許せなかったのだろう。
妻として、母として完璧だった私が壊れてしまった…
彼は私に、テレーゼに謝罪して、和解するように勧めた。
でもそれは決して受け入れることの出来ない事だ。この間違いを認めれば、私はあの女認めることになってしまう…
お母様を苦しめたあの女を…
それだけは嫌だった。
話は平行線のまま、彼はロンメル男爵に謝ると言って、お父様と一緒に屋敷を出て行った。
『今夜、子供たちが寝たら、もう一度ちゃんと話そう。隠し事は無しだよ』
いつもなら折れてくれる夫も、今回の件は折れてくれそうにない。
私が間違ってるの?
私は家族を優先しただけなのに…
子馬の背に乗って、馬場ではしゃぐ息子の姿を目で追った。
ガリオンは、一人目を流産して、三年も待って、ようやく授かった男の子だ。
幼い頃は身体が弱くて、心配ばかりしていた。
身体の弱かった兄のようになるのではないかと心配したが、今ではこんなに元気になった。
「ガリオン、もう寒いから中に戻りましょう」と息子を呼ぶと、遊び足らない子供は、「もう少しだけ!」と大きな声で返事をした。
ガリオンは馬場をもう一周して来るつもりだったのだろう。
子馬の扱いに慣れたから油断していたのかもしれない。
少し足を早めて馬場を早足で回っていた時だった。
「ヒンッ!」子馬が悲鳴をあげて何かに足を取られて転んだ。雪で見えないところに何かが落ちていたのだろう。
ガリオンの小さな身体が投げ出されて宙に舞った。
馬の前に落ちたから、転んだ子馬ともみくちゃになった。
「ガリオン!」血の気が引いて慌ててあの子を呼んだ。さっきの元気な返事はない。
そんな…
「坊ちゃん!」慌てて馬の世話係が駆け寄って、子馬を引き離してガリオンを抱き上げた。
抱き抱えられたガリオンはピクリとも動かずに、力なく腕が垂れ下がっていた。
「ガリオン!ガリオン!」夢中で息子の名前を呼んだ。頭から血が出ている。
頭から落ちたの?
ぐったりとした我が子に取り付いて名前を呼んだ。
「奥様!退いてください!すぐにお医者様を…」
「そんな…ガリオン!返事して!目を開けて!」
頭が真っ白になる。雪に血が落ちて滲んだ。赤い色だけが怖いくらい鮮明に映った。
そこから記憶が定かではない。
取り乱した私の代わりに、家宰を預かるクライスラー卿が医者や治療魔導師を呼んで手配した。
昼頃になって、夫が帰ってきた。
「ガリオンが怪我をしただと?!」
誰かから聞いたのだろう。滅多に大声を出さない彼の慌てふためく声が廊下から聞こえてきた。
ドアが乱暴に開いて、彼が飛び込んできた。
「…エアネスト様…」
「フロレンツィア!ガリオンは…」エアネスト様の視線は私を捉えて、すぐに治療を施している治癒魔導師に注がれた。
彼は大股でベッドに歩み寄って治療中の魔導師に息子の様子を訊ねた。
「外傷は治療致しましたが、意識が…
首の骨が折れてましたので、もし運良く目覚めても身体に痺れが残ったり、手足が動かなくなる可能性もございます。どうかご覚悟下さい」
「そんな…何とかならないのか?この子はまだ10歳だぞ!」
「我々では人の域を超えた治療はできません。あとは王室の治療魔導師にお縋りするほかありません。それでも助かるかどうかは保証しかねます…」
「…ガリオン」
すぐ傍にいたのに…
無理にでも連れて帰れば…まだ子馬を与えなければ…雪が無ければ…
湧き上がってくる《たら、れば》で胸が苦しくなる。うまく息が出来なくなって息苦しくなった。
「奥様、しっかりして下さい!」
「フロレンツィア!君まで…」
ごめんなさい…謝りたいのに言葉も出てこない。呼吸出来ずに、そのまま意識を手放してしまった。
先日の嫌な思い出が過ぎる。
手入れの行き届いた温室の中庭は、つい先日王妃様のお茶会でお邪魔したばかりだ。
「この薔薇は特別な薔薇で、この温室にしかない品種だ。私が贈った花束にも入れたが、見損ねただろう?どうだ?美しいだろう?」
「はい」とだけ答えて、薔薇に手を伸ばした。
可哀想ね…綺麗だから、あなたも思うように咲かせて貰えないのね…
綺麗な花に同情した…
綺麗ってそんなに良い事かしら?
この容姿のせいで、悪い事も沢山あった。お母様も私と同じように思ったかしら?
ふと、そんなことが頭を過った。指先に触れた薔薇の棘が痛みを与えて、これが現実だと教える。
我儘な王子は馴れ馴れしく私に触れた。
まるで自分の物だとでも言いたいのかしら?
その手を振り払いたいが、そうすれば彼の機嫌が悪くなるのは分かりきっていた。
消えたワルター様を思うと、王子の機嫌を損ねる事は出来なかった。
我慢…我慢しなさい、テレーゼ…
ワルター様とロンメルを守るためだもの…
自分にそう言い聞かせて、不躾に差し伸べられる手を受け入れた。
温室や王宮を自慢する王子の思考は幼かった。
以前も同じように自慢して、自分を選ぶようにと私に勧めた。疲れている私の事など気にも留めなかった。
本当にくだらない…
虚勢を張る男なんて、なんの魅力もない…
ワルター様みたいに優しくて、普段はダサくて、時々見惚れるほど格好良い人がいい。
少年みたいな自由な人だと思っていると、ちゃんと年相応に腰が痛いとか肩が凝るとか、目が疲れるとか愚痴を言う。
年上で頼れる人なのに、時々見せる、飾らない子供みたいな姿が愛おしい。
私が好きになったのは、そういう人だ…
「殿下…もう戻らなくては…」
「何故だ?せっかくここを選んだのに、何か不満か?」
私の言葉に、彼は露骨に機嫌を悪くする。
「あの男が怖いのか?
嫉妬深そうだ。花を贈ったくらいで目くじらを立てるのだからな…」
「そんなことはありません。彼はとても優しい人です」
私の返事に、王子は憐れむような視線を向けて、ワルター様のありもしない悪口を並べた。
「そう言うように、あの男から躾られたのだろう?酷い男だ。
あの男は下賎な傭兵だったのだ。まともな育ちではないだろう?
もしかして殴ったりするのか?」
「そんなことは一度もありません!何故私の夫を知りもしないのにそんな酷くおっしゃるのですか?!」
「何をムキになっているのだ?」
この人は自分がどんなに酷いことを言っているのか分かってない。
私には彼が、得体の知れない怪物のように思えた。
王子は私の手を握ると、自分に酔ったように、自分の正義と親切を私に押し付けた。
「私が君を助けてあげようと言っているのだ、テレーゼ…
ヴェルフェル侯爵に遠慮することは無い。
侯爵の我儘で、あんなに歳上で生まれの賎しい男と結婚させられて、さぞ辛かったろう?
私があの婚姻は無効だったと宣言しよう。
そうすれば、君は救われるだろう?」
「仰りたいことが分かりません!
私はロンメル男爵の妻で満足しておりますし、十分に幸せです」
「自らの不幸を認めることができないのだな。可哀想に…」
「違います!私はロンメル男爵を愛しています!」耐えきれずに悲鳴のように叫んだ。
怖い…この人が怖い…
「…愛してる?あの男を…愛してるのか?」
呟いた声は怒気を孕んでいた。
何かが彼の中で爆ぜるような怒りに変わった。
それまで優しく握っていた王子の手に力がこもる。
彼は私の腕を引いて、無理やり手繰り寄せると恫喝するように身勝手な怒りをぶつけた。
「ふざけるなよ?!私にここまでさせておいて!この私に応えようともしないのか?!」
「痛い、やめて下さい!」
痣になりそうなくらい強く握られて痛みを訴えた。
手を引き剥がそうと抵抗したけれど、相手は男の人だ。反対の手首も掴まれて抵抗も出来なくなった。
「あんな下賎な男に、この私が劣ると言うのか?!愛してるだと?妻一人守れないような男のどこがいい?!あんな男になんの価値がある?!」
「それは私が決めることです。殿下が決めることではないはずです」
「うるさい!この私を馬鹿にしているのか?!」
掴まれていた腕から圧が消え、コースフェルト伯爵の右手が閃いた。
叩かれる!
そう思って身構えた私と彼の間に、白いふわふわしたものが滑り込んだ。
白いふわふわは小さな小鳥だった。
「なっ!」コースフェルト伯爵は驚いて怯んだ。
「チー、チーチルチー」と小鳥は可愛い声で鳴いて、私の右手首を掴んだままの伯爵の左腕に留まった。
小鳥の丸い身体が彼に触れた刹那、丸いフワフワの小鳥は姿を変えて、鋭利で透明な氷が腕に刺さった。
「うわぁぁぁ!何だ!何だこれは!」
王子が悲鳴をあげて、私を掴んでいた手を離した。
「チー」
「ピルピー」
「チーチッチ」
周りに小鳥たちの囀りが溢れた。
雪のように舞い降りた小鳥たちは、私の肩や頭に乗って囀った。小鳥たちは私に《大丈夫》と言うように寄り添ってくれた。
「無事かね、《白い手の》?」とすぐ傍で声がした。
その声に振り返ると、冠のような大きな角の白い雄鹿の姿があった。
立派な大樹のように枝分かれした角や、美しい模様の刻まれた背には、小鳥たちが留まっていた。
「《冬の王》…」
「《白い手の》。我が眷属が其方を探している」
「ワルター様は?ご無事ですか?」
「おやおや?心配かね?彼は少し怪我してしまったけれど無事さ」と雄鹿の姿をした精霊王は優しく答えた。
深い藍色の瞳が私の顔を覗くと、頭を振って振り返るように促した。
視線を向けた先に、兵士を連れた見知った顔がこちらには向かってくるのが見えた。
「テレーゼ!」と私の名前を呼んだのはよく知っている声だ。
その声が届くと同時に、抑えていた感情が涙になって溢れた。
ずっと我慢していたのに…
抑えられなくなった感情が溢れると、強がっていた足は力を失ってその場に座り込んでしまった。
「テレーゼ!」
慌てて駆け寄ってきた彼は、迷わず私に腕を伸ばした。
どこに行ってたんですか?
どうしてそんな格好なんですか?
その手はどうしたんですか?
聞きたいことが沢山あるのに、涙と嗚咽で言葉にならない。
彼の腕の中で震えながら泣いた。本当は怖かったのだ。不安で仕方なかった…
「ごめんな?大丈夫か?」
困ったような声で謝りながら、彼は私の背や髪を撫でてくれた。
その手は優しくて、少しずつ冷静さを取り戻した。
「ロンメル男爵夫人は無事か?」と問いかける声に顔を上げた。聞き覚えのある声だ…
視線の先には、ドライファッハの別荘で見た青年の姿があった。
「夫人。一度ならず二度までも、愚弟が迷惑をかけた。誠に申し訳ない」と真摯な態度で謝罪するのは、あの時も助けてくれたレーヴァクーゼン伯爵だ。
彼がワルター様をこの温室に連れて来てくれたようだ。
「立てるか?」とワルター様に訊ねられたが、足元が覚束無い。ふらついた私に、《冬の王》が歩み寄って、「特別だよ」と私の傍らに膝を折った。
「其方の夫の手では其方を抱えられないだろう?
だからと言って、他の者にその役を譲れば、彼の機嫌も悪くなる。
仕方ないから乗せてあげよう」
「ありがとうございます」と《冬の王》の親切に甘えることにした。
ワルター様の手を借りて、白い背に腰を下ろすと、《冬の王》はゆっくりと立ち上がった。
「ふふ。心地よい重さだ。乙女を背負うのは実に気分がいい」と《冬の王》はご機嫌そうに呟いた。
「あんたな…」とワルター様が《冬の王》を睨んだ。その視線を受けても、《冬の王》は楽しそうだ。
「どうせ背負うなら、髭の男より美しい乙女が良いに決まっている。
我が妻と会えるのは《立春》の前後だけなのでね。其方らが羨ましいのさ」
「フリューリング様は?」
「彼女は《立春》を合わせて三日しか目を覚まさないのだよ。あとはその身を守るために深い眠りの中にいる。
ヴォルガ様に呼ばれた時だけ起きてくるが、我はその間ひとりぼっちさ」
「よく寝る嫁だな…」
皮肉っぽいワルター様の言葉に《冬の王》はくすりと笑った。
「仕方ないのさ。彼女は目を覚ましている間、ずっと周りを癒し続けるからね。
優しさが彼女の身を削るくらいなら、我は三日の語らいで満足するよ。
妻が大事なのは、我とて同じだ…」
寂しげにそう呟いて、《冬の王》は私に、「其方も気を付けたまえ」と忠告した。
「気づいているだろうが、その《白い手》には少し問題がある。
無闇矢鱈に使うのはおすすめせんよ」と《冬の王》は私の《祝福》を抑えるように忠告をくれた。
「わかりました。ありがとうございます」
「うむ。彼の傷の治療はここにいるもので十分なはずだ。
其方も無理せずに休むがよかろう」
《冬の王》は気遣いをくれた。
レーヴァクーゼン伯爵が用意してくれた部屋まで送ってくれると、いつの間にか姿を消した。
部屋にいた治療魔導師と侍女たちが私たちの世話をしてくれた。
「ったく…散々だ」
治療を受けながらワルター様がボヤいた。
手のひらの傷は思っていたより深かった。
骨を避けて貫通した手のひらの傷は、塞がった後も痛々しい痕を残した。
《祝福》とスカーフで止血していたみたいだけど血もかなり流れたみたいだ。顔色も悪い。
「大丈夫ですか?」
「こんなの初めてじゃねぇよ。お前こそ大丈夫か?」と彼は私の心配をしてくれた。
「あいつに何かされたか?」
「いえ…大丈夫です」
肩や腰を触られた事や、叩かれそうになった事は伏せておいた。きっと怒るだろうから…
同じソファに並んで座って、傷跡の残る彼の手を握った。
この怪我は私のせいだ…
「ワルター様の言う通りにすれば良かったです」と言うと、彼は「何が?」と返した。
「不細工に化粧してもらえと…」
私の言葉に彼は驚いた顔で私を見返した。
少しの間を開けて、ワルター様はいきなり笑いだした。何が可笑しいのだろう?
「何だよ!気にしてたのか?!」
「だって…」
「お前は可愛いな」と笑って彼は、私の頬に大きな手のひらを添えた。同じ手なのに、どうしてこの人の手はこんなに安心できるのだろう?
彼は笑って私に告げた。
「《不細工》は言い過ぎだな。そいつは無理そうだ。だってよ、泣いてもお前は別嬪さんのままだ」
飾らない荒削りな言葉が心に沁みる。
やっぱり私はこの人が好きだ。
彼は「来いよ」と腕を広げて、特等席に私を呼んだ。甘えて彼の腕の中に収まった。
広く大きな胸に収まると彼の匂いに包まれた。
「お前ってばいい女だよ」とワルター様は彼なりの褒め言葉をくれた。
ロマンチックでも文学的でもない。それでも私はそれがいい…
彼はダサいくらいが丁度いい。
気の利いた台詞なんて使ったら、何処で覚えてきたのか不安になる。
彼に抱かれて安心したのか、瞼が重くなった。
コースフェルト伯爵に連れ回されたからか、泣きすぎたからか…どちらにしても疲れていた。
頭を撫でる手も心地よくて眠気を誘った。
「…大丈夫か?」
「眠くて…疲れてしまったみたいです」と答えると、彼は「そうか」と答えて体勢を変えた。
「これでどうだ?」と言って、彼は子供を抱くように私を抱いて横にすると、髪をまとめていた髪飾りを外した。
「誰か来たら起こすから、それまで休めよ」
「勝手に消えたりしませんか?」と訊ねると、彼は苦笑いで答えた。
「好きで消えたんじゃねぇよ。こんな特等席から動くわけねぇだろ?」
「うふふ…」
「何だよ?ご機嫌か?フィーみたいだぞ?」
「ご機嫌です。だって特等席ですもの」
誰にも譲れない特等席だ。
ワルター様は照れたように笑って、私の髪を撫でると、「おやすみ」の言葉をくれた。
✩.*˚
朝食の後片付けをしていると、お皿を持ってきたルドが慌ててあたしのスカートを引っ張った。
「ママ!血!」
「え?どこ?」ルドが怪我したのだと思ったが、血が付いていたのは私のスカートだ。
朝から怠かったのはこのせいか…
「痛いの?どこ怪我したの?」とルドは心配してくれた。
「違うよ。月のものだから」
「痛くないの?」
「うん。大丈夫。着替えてくるね」とルドに言って、ルドの運んできた皿を受け取って水に浸けた。
月のが遅れてたから、少しだけ期待していたのに…
着替えを取りに行くと、部屋にはスーがいた。
「どうしたの?忘れ物?」
「ううん…月のものが来たから…」と正直に答えた。
彼は少しだけ残念そうに「そうか」と言って、部屋を出て行った。あたしに気を使ったんだろう。
服を脱いで確認すると、黒っぽい血が服を汚していた。
こればかりは欲しいと思っていても上手くいかない。
ルドを産んだんだから、授からないという事はないだろうけど、それにしてもなかなか難しい…
スーは子供を欲しがっていた。
それはあたしも同じだ。
スーは、ルドも産まれてくる子供も大事にすると約束してくれていたし、ルドだって兄弟は欲しいはずだ。
問題はあたしがなかなか授からないこと…
経血の滲んだ服を取り替えて、部屋を出た。仕事に戻らなきゃ…ルドも心配させてしまう…
部屋を出てすぐに、「ミア」とあたしを呼ぶ声がした。
スーはあたしが部屋から出てくるのを待っていた。
彼に申し訳なくて、出た言葉は「ごめん」の一言だった。
「なんで謝るんだよ?」
「だって…期待させたから…」月のものが遅れてたから、もしかしてって思って昨日の夜にその事を話したばかりだ。
彼も喜んでいたのに…あたしのバカ…
「仕方ないよ。今回は違っただけだろ?
ミアのせいじゃないから、そんなに気にするなよ」
スーはそう言って、手を握ってくれたけど、あたしの胸の中のモヤモヤは晴れなかった。
「ありがとう…」
「無理しないでいいよ」と彼は言ってくれた。
「ルドを産んだ時だって大変だったんだから、君に無理はさせれないよ。できたかもってなったらまた教えて。俺もできることするから」
「…うん」
「できるまで待つよ。君の事が大好きだから…」
スーの手が髪を撫でた。紫の瞳は優しいけれど、その奥に残念そうな色が滲んでいる。
「…もし…できなかったら?」と言わなきゃいい事を口にしてしまった。
スーはあたしの顔を驚いた顔で見つめていた。
「それでも、あたしの事…」
スーはあたしの言いかけた言葉を指先で塞いだ。
「大好きって言ったろ?」
スーの声は少し不機嫌になっていた。
「ミアは俺がそんな酷い男だと思ってるの?
子供ができないならって、他の女の子のところに行くとでも?」
「だって…欲しいんでしょ?」
「そうだけど、俺にとってはミアもルドも大切な家族だ。
別れるつもりもないし、そんな事で浮気する気もないよ」
「…うん…ありがとう」
「もう少し頑張ろう?どうしてもできなかったらその時に考えよう。いい?」
頷いたあたしに、彼は微笑んでキスしてハグをくれた。
広くなった彼の胸は深く温かくあたしを包んでくれた。
手を伸ばして彼に応えた。
パートナーと幸せを願った。
✩.*˚
目を覚まして、まず最初に隣を確認した。
テレーゼは静かな寝息を立てていつものように眠っている。
彼女の寝顔を眺めながら、昨夜の散々な晩餐会を思い出すと、腹の奥でまた怒りが燻った。
あの後、パウル様たちと合流したが、もうパーティーには戻らなかった。
俺が我儘を言って戻らなかった。テレーゼにこれ以上負担にしたくなかったし、俺ももううんざりしていた。
レーヴァクーゼン伯爵が、国王から帰る許可を取り付けて、パウル様たちの代わりに宿まで送ってくれた。あの王子は良い奴だ。
つまらん弟のせいで苦労する気持ちは痛いほど分かる。あの王子には同情した。
割と話のできる男で印象も悪くない。それに彼に助けられたのは紛れもない事実だ。
話も聞かずに怒鳴りつけた事を詫びて、助けてくれた事に礼を言うと、青年は少し嬉しそうに笑った。
『トリシャ妃殿下の命です』と彼は自分の働きを、母親の手柄にした。その姿勢にさらに好感を持った。
予定より早く帰ったので、シュミットは俺が粗相して帰されたと思ったらしい。
事情を話すと、シュミットは安心したような、でも呆れたような複雑な表情になっていた。
王子は俺たちを送り届けると、最後に詫びを残してすぐに帰ろうとした。
何か礼をしたかったが、俺の渡せるもので王子に見合うものなんて限られている。
『こんなんで悪いな』とレーヴァクーゼン伯爵に俺の持ち物の中からギルの打った剣を渡した。
彼は受け取れないと言っていたが、最後には折れて剣を受け取った。
『宝物にします』と言って、彼は握手をして帰って行った。
昨日の事を思い出しながらテレーゼの寝顔を眺めていると、彼女も目を覚ました。
「おはようございます」と寝ぼけた顔で微笑む彼女は可愛い。この無防備な感じがたまらない…
手を伸ばして彼女の髪を撫でた。
「おはよう」
テレーゼの顔色は良さそうに見えた。
昨日は疲れていたから、また体調を崩すんじゃないかと心配だったが大丈夫そうだ。
「大丈夫か?疲れてないか?」
「ありがとうございます。大丈夫です。
ワルター様も手は痛みませんか?」
「傷跡が少し突っ張るくらいだ。なんともねぇよ」と答えると、テレーゼは俺に白く細い手を伸ばした。その手を握り返すと、彼女は俺に《白い手》を使う許可を求めた。
「私が治しちゃダメですか?」
「ダメだ」
「ちょっとだけ…」と狡くお願いする姿に負けそうになる。でもここで譲ったらまた彼女が辛くなる。
「ダメだって。可愛く言ってもダメなもんはダメだ」と彼女の親切を断った。
テレーゼはお願いが通らなかったので、拗ねたように頬を膨らませた。
なんだよそれ?可愛いな…
拗ねた顔の彼女を抱き寄せてキスした。不機嫌そうに膨らんでいた頬から空気が抜ける。
離れた顔から不機嫌が消えた。いつものテレーゼだ。
「アンネを呼ぶから、起きて着替えろよ」
「外は寒そうですか?」
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少しくらいならいいだろう。気分転換にもなる。
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テレーゼは嬉しそうに笑顔で頷いた。
✩.*˚
テレーゼと散歩から戻ると、シュミットから来客があったと聞かされた。
「ヴェルフェル侯爵閣下とアーベンロート伯爵閣下がお待ちです」と聞いてテレーゼと顔を見合わせた。
今回の事件の片棒を担いだ異母姉の旦那が何の用だ?
「シュミット、テレーゼを部屋に戻してくれ。二人には俺が会う」
「ワルター様、私も…」
「お前も会っても良いと思ったら呼ぶよ。とりあえず待っててくれ」
アーベンロート伯爵がどんな考え方をしているかは知らないが、あの異母姉の旦那だ。テレーゼを敵視してないとも限らない。
俺としては納得してからでないと会わせたくない。
これ以上彼女を傷つけたくなかった。
テレーゼをシュミットに預けて、二人を待たせている部屋に向かった。
「お待たせして申し訳ありません」と待たせた事を詫びた。
「テレーゼは?」とパウル様はテレーゼの姿を探した。
「休ませています。用向きなら自分が伺います」
俺の考えを察したのか、パウル様は「まぁいい」とため息を吐いて、隣に座る男性を紹介した。
「知っているだろうが、彼がフロレンツィアの夫のアーベンロート伯爵エアネスト殿だ」
「お久しぶりです、ロンメル男爵」と硬い表情の紳士が挨拶した。
結婚式くらいでしか顔を見た覚えがないが、何となく見たことがあるなという印象だった。
パウル様が娘を嫁がせるくらいだから、きっと彼は優秀な人物なのだろう。
席に着くと、彼はパウル様に許可を得て、テレーゼへの謝罪を口にした。
「この度は私の妻が大変な無礼を致しました。家長として、どうか詫びさせて下さい。
男爵。是非、夫人も直接謝罪させては頂けませんか?」
アーベンロート伯爵は格下の俺に真摯な態度で詫びを口にした。彼からは悪い印象は無かった。
その謝罪を受け入れそうになるが、それにはどうしても足りないものがある。少なくとも俺はそっちの方が重要だ。
「詫びるならフロレンツィア様の方でしょう?
それもと閣下も一緒になって計ったことですか?」
「ロンメル男爵、口が過ぎるぞ」
パウル様が俺の無礼な物言いを叱ったが、本心だ。謝るんなら当人が反省したことを示してもらわねば困る。
「侯爵閣下。テレーゼは既に茶会でアーベンロート伯爵夫人から酷い扱いをされました。
二度あることは三度あるんです。今度も無いとは限りません。
閣下や侯爵夫人のお叱りも利かない以上、アーベンロート伯爵夫人の反省と謝罪がないのであれば自分は納得できません」
おれのへそ曲がりな返事に、パウル様も呆れたようだ。
「全く…すまんなアーベンロート伯爵…こういう男なのだ」
「いえ…男爵の仰ることは尤もです。
妻はそれだけの事をしたのです…
もし逆の立場であれば、私も怒りを抑えられなかったでしょう…」
沈痛な面持ちで語る伯爵は良い人そうに見えた。
「男爵。フロレンツィアは私の妻として、子供たちの母として私を支えてくれた女性です。
私は彼女の夫として、お二人に謝罪させて頂きたいのです。どうか夫人にも謝罪させていただけないでしょうか?」
なんか俺が虐めてるみたいだ…
でもここで引き下がったら、また振り出しだ。
「テレーゼは閣下の謝罪を受け入れるでしょう…彼女はそういう女性です。
彼女は何度同じことがあって、どれだけ傷つこうとも同じ判断をします。
彼女がそうである以上、彼女を守るためにも自分は折れる気はありません。申し訳ありません」
「分かりました…あくまで妻の謝罪と反省が条件というわけですね…」
「はい。申し訳ありませんが…」
「いえ…突然押しかけたのは私の方です。
お二人には少しお時間を頂けると幸いです」と伯爵は妻の説得を約束した。
少し意固地になりすぎたような気がして、無礼だったな、と反省した。
「すまんな、アーベンロート伯爵」
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「そうですか…」
「全く…まぁいい。この件が和解したら仲良くすることだ。
ところでテレーゼは?」とパウル様は娘を連れてくるように催促した。
テレーゼを呼ぶと、彼女はドレスに着替えて出てきた。
「伯爵は…?」とテレーゼは部屋を見回した。
「帰ったよ」と教えると彼女は項垂れた。
「お礼を言いたかったのですが…」
「お礼?」
「はい。ワルター様がいなくなった時に、わざわざ探しに行ってくださったのです。
それでお異母姉様と二人きりに…」
初耳だ。
パウル様は《それ見た事か》とでも言いたそうな非難がましい視線をよこした。
「また会う約束したから、また今度な」と言って、テレーゼを パウル様と向かい合ったソファに呼んだ。彼女は父親に会釈してソファに腰を下ろした。
「テレーゼ、具合はどうだ?ガブリエラも心配していた」
「お騒がせして申し訳ありません。もう大丈夫です」とテレーゼは微笑んで応えた。パウル様もテレーゼの様子を見て頷いた。
「無理はしなくていい。また咳が出るといけないからな…
あと、これを預かってきた。陛下と妃殿下からだ」
パウル様が懐から箔押しの封筒を取り出して、テーブルに置いた。
「王宮への招待状だ。陛下と妃殿下は今回の件を詫びたいと仰せだ。
男爵、そんなに嫌な顔をするな…」
「テレーゼもですか?」
「ロンメル男爵。まさか陛下や妃殿下にまで詫びに来いと言うんじゃなかろうな?
さすがにそれは私も怒るぞ」
「いや、そんなことは言いませんが…もう、これだけで…」
「我慢しろロンメル男爵。それでは陛下や妃殿下の名誉に関わる。
それに、召喚に応じないなら、《英雄》は国王に含むところがあるだの、卿に謀反の意思があるなどと厄介な噂が立つぞ。最悪私も巻き込まれる」
パウル様に脅されて、渋々封筒を手に取った。
もう放っておいて欲しいってのが本音であり願いなんだけどなぁ…無理か…
「観念するのだな《英雄》」とパウル様は皮肉っぽく俺の逃げ道を塞いだ。
✩.*˚
「お母様!見て!」
息子は子馬の背で無邪気に喜んでいた。
「上手ね、ガリオン」と、はしゃぐ息子を褒めてあげた。
息子は子馬に夢中で、雪の冷たさも北風の寒さもに気にならないようだ。
まだ10歳に届いたばかりだものね…無邪気な子どもの姿に癒された。
夫は私のしたことを聞いて、ショックを受けていた。声を荒らげたり、手を上げるような人ではない。
ただ、悲しそうに、『君がそんなことをするなんて…』と言って頭を抱えた。
彼は根っからの善人だから、私のしたことが許せなかったのだろう。
妻として、母として完璧だった私が壊れてしまった…
彼は私に、テレーゼに謝罪して、和解するように勧めた。
でもそれは決して受け入れることの出来ない事だ。この間違いを認めれば、私はあの女認めることになってしまう…
お母様を苦しめたあの女を…
それだけは嫌だった。
話は平行線のまま、彼はロンメル男爵に謝ると言って、お父様と一緒に屋敷を出て行った。
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頭から落ちたの?
ぐったりとした我が子に取り付いて名前を呼んだ。
「奥様!退いてください!すぐにお医者様を…」
「そんな…ガリオン!返事して!目を開けて!」
頭が真っ白になる。雪に血が落ちて滲んだ。赤い色だけが怖いくらい鮮明に映った。
そこから記憶が定かではない。
取り乱した私の代わりに、家宰を預かるクライスラー卿が医者や治療魔導師を呼んで手配した。
昼頃になって、夫が帰ってきた。
「ガリオンが怪我をしただと?!」
誰かから聞いたのだろう。滅多に大声を出さない彼の慌てふためく声が廊下から聞こえてきた。
ドアが乱暴に開いて、彼が飛び込んできた。
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彼は大股でベッドに歩み寄って治療中の魔導師に息子の様子を訊ねた。
「外傷は治療致しましたが、意識が…
首の骨が折れてましたので、もし運良く目覚めても身体に痺れが残ったり、手足が動かなくなる可能性もございます。どうかご覚悟下さい」
「そんな…何とかならないのか?この子はまだ10歳だぞ!」
「我々では人の域を超えた治療はできません。あとは王室の治療魔導師にお縋りするほかありません。それでも助かるかどうかは保証しかねます…」
「…ガリオン」
すぐ傍にいたのに…
無理にでも連れて帰れば…まだ子馬を与えなければ…雪が無ければ…
湧き上がってくる《たら、れば》で胸が苦しくなる。うまく息が出来なくなって息苦しくなった。
「奥様、しっかりして下さい!」
「フロレンツィア!君まで…」
ごめんなさい…謝りたいのに言葉も出てこない。呼吸出来ずに、そのまま意識を手放してしまった。
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私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?
闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。
しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。
幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。
お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。
しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。
『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』
さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。
〈念の為〉
稚拙→ちせつ
愚父→ぐふ
⚠︎注意⚠︎
不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。
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