燕の軌跡

猫絵師

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目隠し

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歩いている時に、誰かに押された感覚があった。

よろめいて、ぶつかってきた相手の顔を確認した。若い男だ。

「失礼しました。大丈夫ですか?」と謝罪した青年には悪意は無いように見えた。

「俺は大丈夫だが…大丈夫か、テレーゼ?」

隣に居たはずの彼女を心配した。さっきまで腕にあった彼女腕が消えた。よろけた時に外れたのだったら、転んでないか心配だった。

「…テレーゼ?」

彼女の返事はなかった。

それどころか、辺りを見回して驚いた。

彼女の姿がない!慌てて目の前の青年に確認した。

「あんた!テレーゼを知らないか?!

俺といまさっきまで一緒にいた女だ!腕を組んでた金髪の…」

「奥様ですか?それともお嬢様ですか?」

「嫁だよ!さっきまでいたんだ!間違いない!」

焦って周りを見渡すが、あんな目立つ格好をしていたのに、彼女の姿がどこにも見当たらない。

人混みに流されたのか?でも、そんな隙間もないような人混みでもない。

なんなら見渡せば人の顔がはっきり見えるし、人の垣根を縫って歩けばぶつかることもないように思えた。

それに、何かが変だ…

周りを見ても違和感がある。さっきまで同行していたリューデル伯爵たちの姿もない。

「申し訳ありません。私も一緒に探します」

責任を感じたのか、青年は親切にそう申し出たが、俺はこの人の良さそうな青年に、説明の出来ない気味の悪さを感じた。

「すまん、取り乱した…

すぐに見つかるはずだから気にしないでくれ」と青年に告げて、彼から離れた。

「そうですか、それでは」と青年はそのままどこかに歩き去った。

テレーゼはどこに行った?

それに、さっきまで居たはずのリューデル伯爵らの姿も無い…

「…どうなってるんだ?」

ぶつかりそうになる参列者を避けながら、テレーゼたちの姿を探した。

しばらくして、人の垣根の向こうに、ベルヴァルト伯爵令嬢とローヴァイン公子が休んでいるのを見つけた。

休んでいる二人に歩み寄って声をかけた。

「ベルヴァルト伯爵令嬢。すまないが、テレーゼたちを見なかったか?」

聞こえないような距離でもないし、目の前に立ったらこの派手な衣装で気づくはずだ。

それでも、二人とも、俺には見えていないような素振りで、俺の存在を無視した。

二人とも楽しそうに話をしていて、俺の方に見向きもしない。

「話し中にすまないが、困ってんだ。話を…」

「ウィー!」俺の声を遮って別の声がベルヴァルト伯爵令嬢を呼んだ。

「ロンメル男爵と夫人を見なかった?!」と駆け寄ってきたのはアダリーシア嬢だ。ケッテラーも居る。

「アダリーシア嬢、いい所に…」

「二人とも急にいなくなったの!貴女のところに来てない?」

「は?俺ならここに…」

「ロンメル男爵とテレーゼ様が?見てませんよ…」

目の前の俺を無視して、アダリーシア嬢の言葉にベルヴァルト伯爵令嬢とローヴァイン公子は首を傾げた。

おいおい!これはなんの冗談だ?!

「一緒にいたのでしょう?迷子なんて…」

「だって本当に急に消えたのよ!

お父様が侯爵様に確認に向かったけれど、他に行くところも考えられないわ。

こんなところに知り合いなんてほとんど居ないでしょうし…

とにかくお二人を探さなくては…」

アダリーシア嬢は眉を寄せて深刻そうな顔をしていた。

どうすりゃいいんだ?

俺はマジで彼女らには見えてないらしい。

「おや、ロンメル男爵。お連れ様は見つかりましたか?」

不意に声がして振り返ると、さっき俺とぶつかった青年がにこやかに佇んでいた。

「…あんた」

こいつは俺が見えているのか?

慌ててアダリーシア嬢たちに視線を向けたが、彼女らは俺と同様に、目の前の青年を無視して話をしていた。

彼は笑顔で、「先程奥様をお見かけしましたよ」と俺に告げた。

身構えた俺を見て、彼は「嫌だなぁ」と余裕ぶって笑った。その様子に、疑いが確信に変わる。

「俺が周りの人間に見えなくなったのは、あんたの仕業か?」

「へえ…意外と冷静ですね?

普通ならこの《祝福》を見せられたら冷静さを失うんですがね?

私の事怖くないんですか?」

「仕組みは知らんが、生憎、俺はそういうの慣れてるもんでな…」

「なるほど、さすが《英雄》だ」と青年はおちょくるように手を叩いて褒めた。

強がったものの、相手の能力がよく分からない。気持ち悪い《祝福》だ…

目の前の青年は弱そうに見えた。こいつをぶちのめすのは簡単そうだが、問題は場所だ。それに俺は《祝福》が封じられている。

それにテレーゼ…どこにいるんだ?

「そんなに睨まないでくださいよ、《英雄》。

私の《祝福》なんて、貴方の足元にも及ばないのですから」

「なら、さっさと元に戻せ。それにテレーゼを返せ!あいつはどこだ!」

「ご安心を、ロンメル男爵。

私のご主人様が少しお話したいと仰ったので、邪魔をされないようにしただけです。

お話が済んだら元に戻して差し上げます。

贈り物が届かなくてお怒りでしたから、お話くらいいいでしょう?」

「何の話だ?」

「せっかく用意した花束が無駄になったと申し上げたのです」と青年は含むように笑った。

花束と聞いて嫌な相手が頭に過ぎった。

あのクソガキ!またテレーゼに手を出そうとしてるのか?!

腸に怒りが宿った。

手首の紐に手が伸びる。かろうじて残った冷静さが紐を引きちぎろうとするの止めた。

ここで《祝福》を使うのはマズイ。どういう状況かは分からないが、俺自体が消えてしまった訳でも無さそうだ。ここで祝福を使えば、他の奴らを巻き込むことになる。

この男の事だってよく分からない。ぶちのめしていいのだろうか?

実は親が偉い奴だとかだったら後々面倒だ…

それなら物は試しだ…悪いな、ケッテラー…

お嬢さん方にいきなり触るわけにいかんし、公子も驚かせて心臓が止まるといけない。

ケッテラーの手首を掴んで引っ張った。

さすが鍛えてるだけあって、ケッテラーは少しよろけただけで、踏み留まった。

掴んだ手を振り払って、ケッテラーは辺りを見回した。

「どうしたの、ゲリン?」

「…何か…腕を掴まれて…」

そう言ってケッテラーは辺りを警戒していた。俺とは気づいていないらしい。

「何か悪いものでも紛れ込んだのかしらね」

ベルヴァルト伯爵令嬢が席を立って、公子を守るように前に立った。

ケッテラーもアダリーシア嬢の傍らで身構えた。

「周りを巻き込むのはやめてくださいよ」と青年は苦言を呈した。どうやら俺の行動が予想外で、彼にとって都合の悪い行為だったらしい。

「うるせぇな。お前がこの《祝福》を引っ込めるなら、そうしてやるよ。

嫌ってんなら、俺だって手段は選ばねぇよ」

「それはできない相談です。

でも、この《祝福》は他に知られたくないんです。効果が半減しちゃいますから…」

「へぇ、そうかい?俺も見世物になるのは好きじゃねぇんだ」

近くにいた奴からグラスをひったくると、目の前の青年に中身をぶちまけた。

酒の匂いと赤い飛沫が飛んで相手の服に染みた。

「うわっ!」と悲鳴が上がり、「何?!」と驚く声が辺りに広がった。

「これは周りには見えるのかい?」

「貴様…」と睨んだ青年に目掛けて拳が飛んだ。

ワインの染みを襲ったのはケッテラーの拳だ。彼の拳は染みを作った青年の脇腹に沈んだ。

「ぐぁっ!」苦しそうな悲鳴をあげて青年は床に転がった。

あいつのをまともに食らったら俺だってタダじゃすまねぇよ。さっき反撃されなくて良かった…

「手応えがありました」

「かくれんぼかしら?」

ケッテラーの言葉にベルヴァルト伯爵令嬢がくすりと笑って手元に槍を呼んだ。

「皆様、お下がりくださいませ。

王宮の守護を預かるベルヴァルト伯爵家のウィルメットがネズミを駆除致します」

「くそっ!ベルヴァルトだと?!」

《ベルヴァルト》と聞いて、不利と捉えたのだろう。青年は慌てて逃げ出そうとした。

このまま逃げられちゃ困る!

必死に手を伸ばして青年の服を掴んだ。

せめてこの訳の分からん《祝福》だけは解除していけ!

「放せ!このっ!」振り向きざまにダガーを抜いた青年が吠えた。

繰り出した刃を避けきれず、手のひらで受け止めた。

貫通した刃が顔スレスレで止まる。

「そこですか?」背中にからゾッとするような冷たい女の声がした。

背中を襲った槍の穂先はマントに穴を空けて、青年の首筋を掠めて止まった。

俺ごと殺す気か?この女が一番怖ぇ…

「外しました」と呟いた彼女の視線は、血の滴る俺の手のひらに注がれている。

まさか…嘘だろ…

「そのベルヴァルトのお嬢さんに遊んで貰ってください」と捨て台詞を残して、青年は踵を返した。

「てめぇ!この野郎!」

逃げる青年の背中を追おうとしたが、繰り出された槍を避けて床を転がった。

このマント邪魔だ!くそっ!

邪魔なマントと上着をベルヴァルト伯爵令嬢の足元に投げた。

「きゃぁ!」

女らしい悲鳴を上げて、彼女は足元に滑り込んだ服に足を取られて転んだ。

「ウィー!大丈夫?」

「何これ?足に何か絡まって…」

嬢ちゃんたちには悪いが俺もそれどころじゃない!こんなの相手にしてたらあの糞ガキを見失う!

「くそ!どこに逃げやがった!」

辺りを見回して、驚く参列者の顔の隙間からあの青年の顔を見つけた。

相手は俺の視線に気付いて、挑発するように舌を出してまた踵を返した。

何なんだあの野郎!

逃げる背を追いかけた。途中で何人かとぶつかったがどうせ見えてねぇんだ!構うもんか!

悲鳴と混乱を残して、晩餐会の広間から飛び出した。

目の前には暗い長い廊下が伸びていた。この先は踏み込んでいい場所じゃ無い気がした。

一瞬迷ったが、暗い廊下の向こうに、あの青年の背中が見えた。

あいつはテレーゼの居場所も知ってるはずだ。それにこのままじゃ俺は透明なままだ…

「糞ガキが…」

ガキの躾がなってねぇぞ!全く!

もう二度とこんな場所に来るもんか!

ガキのような思考になっていると、廊下の端に小さく開いたドアを見つけた。

ここに逃げ込んだのか?

少しだけ覗くつもりで扉に手をかけた。

扉は軽く触れただけで開いた。中を覗くと、そこは女性のための控え室のようだった。

マズイと思って離れようとした時、また後ろから突き飛ばされた。そのままの勢いで部屋に押し出される。

「きゃぁ!」部屋の奥から悲鳴が上がった。

「どなたですか?!」と誰何される声に驚いた。

部屋の奥の窓辺で、逆光になっている女の視線は、俺に注がれていた。

見えてるのか?見えるようになったのか?

だとしても、最悪の状況だ!

言い訳をしようと顔を上げたが、彼女の放った言葉に、その言い訳が通じないと知った。

「この部屋は第三王子ルドルフ・ランドルフ・フォン・フィーア・コースフェルト伯爵閣下の婚約者、クラルバイン子爵の娘である私のために用意された部屋です!

衛士を呼びますよ!」

うぁぁぁぁ…

心の声が漏れそうになる。

状況は最悪だ!よりによって、最もかかわり合いになりたくない相手じゃねぇか!

俺の背後から、あの糞ガキが嘲笑う声が聞こえた。

「牢屋に差し入れくらいはしてあげますよ。奥様のお手紙と一緒にね」

姿の見えない男は皮肉を残してドアの向こうに消えた。

✩.*˚

誰かとぶつかった拍子に、ワルター様の腕から指が解けてしまった。

踏みとどまって顔を上げた。

「すみません…え?」

彼の腕に手を伸ばしたつもりなのに、ワルター様の姿を見つけられずに、伸ばした手は行き場を失った。

さっきまで一緒だったはずなのに…何で?

辺りを見回して、ひとりぼっちになったのに気付いた。ワルター様はおろか、一緒にいたはずの叔父様たちの姿もない。

腕を繋いでいたのに、ワルター様が私を置いて行ってしまうなんてありえない。

それに、あの背の高い叔父様の姿やゲリンの姿を見失うものだろうか?

不安になってその場から動けずにいると、「どうしたの?」と声をかけられた。

「あら?一人なのテレーゼ?」と声をかけてきた夫人の顔を見てさらに不安になった。

アーベンロート伯爵夫人は親しげに声をかけてくれたが、それに恐怖を覚えた。彼女にはつい先日に苦いメッセージを伝えられたばかりだ。

微笑みの裏側にどんな感情を隠しているのか、確認するまでもないだろう…

彼女の傍らには優しそうな顔の男性が並んでいた。

「お久しぶりですね、ロンメル男爵夫人」とアーベンロート伯爵から挨拶してくださった。慌ててお辞儀して、お義兄様に挨拶した。

「ご無沙汰しております、アーベンロート伯爵閣下」

「ご夫妻には結婚式でご挨拶したきりですからね。お美しくなられましたね」と社交辞令を述べて、伯爵は辺りを見回した。

「ロンメル男爵はどちらに?」

「それが…いまさっきまでいたのですが…」と言葉を濁して答えると、アーベンロート伯爵は心配して下さった。

「お困りでしょう?一緒に探しましょうか?」と親切に申し出てくださったけれど、伯爵もお異母姉様のエスコートがある。

「彼は目立ちますから、すぐに見つかるかと思います。大丈夫です」とお断りすると、フロレンツィアお異母姉様が不都合な指摘をした。

「いけないわテレーゼ。もうしばらくしたらダンスの時間よ。パートナーがいないと困るわ」

「フロレンツィアの言う通りだな。私が少し見てくこよう。二人で何処かで待っていてくれ」と再び申し出てくれた伯爵の親切を断ることは難しかった。

「テレーゼ、少しお待ちなさい。大丈夫よ。ロンメル男爵ならすぐに見つかるわ」

「はい。ありがとうございます」

「あそこが目印になっていいわね?

あの花瓶の傍で待ちましょう」とお異母姉様が提案した。

人の通りも多いし、こんなところで意地悪もしないだろうと思った。

「分かったよ。じゃぁ、また後で…フロレンツィア、夫人を頼んだよ」

花瓶の傍らに私たちを残して、アーベンロート伯爵は人混みの中に姿を消した。

「綺麗ね、テレーゼ…」フロレンツィアお異母姉様が急に口を開いた。

「あ、ありがとうございます…」

「そんなに怖がらなくていいんじゃなくて?

貴女に意地悪したことで、お父様にもお母様にも責められたわ…『貴女の妹なのよ』ってね…」

半分血の繋がった姉は淡々とした口調でそう告げた。

「お父様もお母様も、ヴェルフェルの子供たちが仲良くすることを望んでいるのよ。

それは美しいことだと私は思うわ。貴女もそうでしょう?」

「…はい。そうであればいいな、と思います」

それは本心だ…今だってそう思ってる…

私の返事に、お異母姉様は「いい子ね」と微笑んだ。その微笑みには僅かに冷たい印象を含んでいた。

「貴女がユーディットの娘でなければ、私は貴女を異母妹として愛したかもしれないわね…」

その言葉が胸に突き刺さる。

それはどうしようもない事で、お母様の存在を否定される度に悲しくなる。

幼い記憶に残るお母様は私の誇りだ…

とても素敵な女性だ…

美しくて、笑顔が眩しくて、優しかった。

あの真っ直ぐな背中と、下を向くことの無い芯の強さは私の憧れだ…

お母様はお父様の求めに応じただけだ。拒否できない事など分かりきっているはずなのに、何故お母様だけが悪者にされなければいけないの?

到底納得できない…

「お母様は悪くありません」とお異母姉様に反論した。怖かったけど、ここで勇気を出さなければ、あの人を失望させてしまう…

あの人は、私に勇気と居場所をくれた。

『お前は何も悪くない』と言って、私のために怒ってくれる優しい人…

ワルター様に心配なんかさせないわ。

私の反抗に、お異母姉様は驚いて目を見開いた。

フロレンツィアお異母姉様は、扇子を広げると顔を半分隠した。

人がいっぱいいるから、怒ってる顔を隠したいのだろう。

私を見下す目は怒りで濁っていた。

「やっぱり、貴女はあの女の娘ね…」と私にだけ聞こえる声で言うのは、それが正しい事だと思ってないからだ。

私が折れる必要なんかない。

背筋を伸ばして、真っ直ぐにお異母姉様を見上げた。

私がオドオドする事を期待していたのだろう。私の態度に、お異母姉様の目に怯んだ色が溶け込んだ。

「私はユーディットの娘です。

それは変えようのない事です。ですから、私は私の母を否定したりしません。

たとえ、姉妹としてお認めていただけないとしても、それでメソメソしたりしません。今までだってそうだったのですから。

私は《英雄》ロンメル男爵の妻として、ヴェルフェル侯爵の娘として、恥じぬように生きます」

「開き直って…貴女はまるであの女と…」

「似てるはずです。娘ですから」と開き直った。

それでお母様にも近づけるなら、私に悔いはない。

スカートの中の足が震えているのも、緊張して固く握った手も気付かれたくない。

だって、私は《強い》から…

ワルター様がそう言ってくれたから…

自分を奮って彼女の目を見返した。

睨み合いの末、先に折れたのはフロレンツィアお異母姉様の方だった。

「分かったわ。私が間違っていたわ」あっさりと非を認めた彼女は、私に「少しだけ外の空気を吸いましょう」と提案した。

私も熱くなってしまったから、無礼だったと思う。

「生意気を言いました。ご無礼をお許しください」と非礼を詫びた。

「まぁいいわ」と呟いて、フロレンツィアお異母姉様は私を連れて、バルコニーの前に場所を移した。

室内で火照っていた身体に、外から流れ込む冷たい風が頭を冷やした。熱くなりすぎていたようだ。

頭が冷めると、途端にワルター様が居ないことに不安を覚えた。

どこに行ってしまったのかしら?

もしかして、どこかで入れ違ってしまっているのではないかしら?

そう思うとすぐに元の場所に戻りたくなった。

風も冷たい。

戻りたいと思っていたところに、私を呼び止める声がかかった。

「久しいな」と名前を呼ぶ声に振り返り、相手の顔を見て声を上げそうになった。

何で、彼がここにいるの?

目の前の青年は嬉しそうに歩み寄って、私の手を握った。肌が粟立つ程の嫌悪感を覚えるのは、彼の好色な瞳が私を女として見ているからだ。

「会いたかった。

やはり私たちは縁があるのだな。きっとそうだ」

嬉しそうに語る青年は、私を逃がすまいと強く手を握った。

「殿下、おやめ下さい。

こんなに目の多い場所で私を辱めないで下さい。私はロンメル男爵の妻です」

「そのロンメル男爵はどこにいるのだ?もうすぐダンスが始まるのに、君を放ったらかしにしているじゃないか?

私が彼の代わりにパートナーになってあげようじゃないか?」

親切振る紳士は、手を離すどころか、握った手を手繰り寄せて私を引き寄せた。

不躾に腰に伸びた手が私を抱いた。

相手が王子でなければ私の右手が閃いたかもしれないけれど、相手に遠慮してしまった。

私が感情に任せて手を挙げていい相手ではない。下手をすればロンメルどころかお父様にまで責が及ぶ相手だ。

「殿下にはパートナーがいらっしゃるはずです。ロンメル男爵はすぐに戻ります。その手を離して下さい!」

「ロンメル男爵は戻らないだろう?

今君の隣にいないのが、何よりもの証拠じゃないか?」

コースフェルト伯爵の言葉に、彼に私の言葉が通じないことを知った。

助けが欲しくて辺りを見回した。

それでも誰も気付いてくれない。騒ぎ立てて彼に恥をかかせれば、きっと仕返しを受ける。

お異母姉様に視線を向けると、彼女は扇子の下に笑みを隠した。

それを見て、彼女に嵌められたのだと気付いた。

それなら、彼女が親切に私に近づいたのも、ここに誘導したのも、ワルター様が姿を消したのも、納得がいく。

二人はグルだったんだ…

最初から、コースフェルト伯爵に私を差し出す手筈だったのだと気付いたがもう遅い。

ワルター様は無事なの?彼に何があったの?

繋がった事実が恐怖を呼び込んだ。

誰か気付いてくれないと、このままじゃ…

「私たちの邪魔する者はいないだろう?

さぁ、ロンメル男爵夫人、一緒に来たまえ。

フィーア王国の臣であるなら、王子の命に従うべきだろう?」

無茶苦茶だ!この人に常識は通じないように思えた。

誰か助けて!こんなに人のいるところで、こんなところを見られたくない!

ワルター様が見たら、この姿が噂になったりしたら、きっとガッカリされてしまう!

それだけは嫌!

青年の腰を抱く腕に力がこもった。彼は私をどこかに連れていこうとしていた。

「嫌っ!待って下さい!私はロンメル男爵を待っているのです!」

「ロンメル男爵は来ないさ。きっと他の女性に夢中になっているのだ」

「そんなはずをありません!離して下さい!」

「私を拒否するのか?男爵夫人として分を弁えよ。私を拒否するなら、ロンメル男爵家も終わりだな」

「…そんな…」脅迫に絶望した。

抵抗を止めた私に、王子は満足気に笑った。

「君が今夜私の相手をするなら見逃してやってもいい。ロンメル男爵は今頃私の婚約者に夢中だろう。

ロンメル男爵の首は君の答えにかかっているぞ」

「うそ…ワルター様…」

彼が良くないことに巻き込まれているのは明白だった。

私のせいなの?

悲しくなる私に、お異母姉様は毒と皮肉をたっぷり含んだ言葉を放った。

「貴女って本当に《お母様》にそっくりね」

彼女は扇子を畳んで、意地悪く笑ってどこかに立ち去った。

✩.*˚

『ここで待っていろ』と指示されて、控え室に一人で閉じこもって窓の外を眺めていた。

窓の外には雪がチラついている。

待っていろ、と言われただけで、特に何をする訳でもない。

広間では華やかなパーティーが行われているのに、彼は私を婚約者として紹介するつもりは無いらしい…

本当に勝手よね…

我儘な王子の顔を思い出してうんざりした。

馬鹿だったのよ、私も…

もっと早く、あの男の本性に気付けたはずなのに、現実を見ようとしなかった私もお父様も間抜けよね…

いっそ、婚約が解消できただけ、ワーグナー公爵令嬢は良かったかもしれないわね。

我が身の不幸を呪いながら、窓の外を眺めていると、不意にドアノブの回る音がした。

今頃迎えでも寄越したのかしら?

そう思って、窓からドアに視線を移したが、ドアは小さな隙間を作って止まった。

ちゃんと閉まってなかっただけかしら?

僅かに期待した自分にうんざりして、窓から離れようとした。

ドアから流れ込む隙間風で、温めた部屋の温度が下がってしまう。待ちぼうけくらいなら良いけれど、寒いのは嫌だ。

なんの前触れもなく、ドアが弾かれたように大きな音を立てて開いた。

「きゃぁ!」と悲鳴を上げて後ずさると、ドアの向こうから、つま転ぶように男の人が部屋に飛び込んできた。

身なりは悪くないけれど上着も着てない。左手は血で赤く染まっていた。

慌てて、無礼な訪問者を問いただした。

自分で部屋に入ってきたくせに、彼は私を見て驚いていた。

「この部屋は第三王子ルドルフ・ランドルフ・フォン・フィーア・コースフェルト伯爵閣下の婚約者、クラルバイン子爵の娘である私のために用意された部屋です!

衛士を呼びますよ!」

目の前の男性を精一杯威嚇した。

大嫌いな婚約者の名を盾にするなんて面白くもないけれど、この際致し方ない。

王子の名前を聞いて、彼はあからさまに嫌な顔をした。

何よ!その顔!私だって好きで婚約者名乗ってないわよ!

彼の後ろで、開け放たれていたドアが勝手に閉まった。

「てめぇ!この糞ガキ!」

声を荒らげた男性は閉まるドアに取りすがったが、その甲斐なく扉は音を立てて閉まった。

一体何なの?これ、どういう状況?

「騒がせてすまん、すぐ出て行く」とぶっきらぼうな物言いで、無礼な訪問者はドアノブに手をかけた。

銀色の髪に深い青い色の瞳の男性は、ドアノブをガチャガチャと乱暴に鳴らした。

随分無作法な男ね、と呆れた。出ていくならスマートに出ていってよ…

男の背を睨んでいると、彼は急に私に振り返った。

「なあ、嬢ちゃん、これどうやって開けるんだ?」

「ノブを回すだけでしょう?子供にもできるわよ?」と答えた。

相手はイライラしてるのか、手を怪我しているからなのか上手く開けられないらしい。

ため息を吐いてドアに近づいた。

「開けてあげるからさっさと出ていってよ」

「悪いな、助かる」と彼は口は悪いが素直に礼を口にした。口は悪いけど悪い人ではなさそう…

なんか部屋から出たがる犬みたい…何をソワソワしてるのかしら?変な人…

「はい、出ていって」

「ありがとうな…ところで誰だっけ?」と惚けた様子の男は私の顔を覗き込んだ。

「クラルバイン子爵家三女のレーアよ」

「世話になったな、レーア嬢。だけどあんた残念だな」と彼はお節介な一言を放った。

「あんた別嬪さんだ。あの馬鹿王子には勿体ねぇや。親父にでもお願いして早めに見切りをつけたがいいぜ」

そんなの出来たらとっくにしてるわよ…

「…出てって」とドアに向かって彼の背を押した。

「あんたは?」と彼はまたお節介を口にした。

「あの王子を待ってるのか?」と言われて惨めな自分を思い出した。

「そうよ…『ここで待ってろ』って言われたんだから仕方ないじゃない…」

来るはずのない迎えを待っているなんて、バカみたいよね…

「…来るか?」と彼は馬鹿みたいに右腕を差し出した。彼は親切で言ったのだろう。

期待するようにめかしこんだ女が一人、こんな部屋で待ちぼうけを食らっているから、可哀想だと思っただけだろう。

「…バカね、さっさと行きなさいよ」

彼の優しさを受け取りそうになる自分を叱った。

本当は少しだけ嬉しかったけど、そんな事言えるはずもない。

彼は私の顔を見つめて、また「悪いな」と言葉を残して部屋から出て行った。

一人ぼっちに戻った部屋は、ドアの隙間から外の空気を吸い込んで少し冷えていた。

そうよ…あのヘンテコな乱入者が出て行ったからなんかじゃないわ…

そういえば、彼の名前を訊くのを忘れていた…

それだけが少し残念に思えたのは気の迷いだと、自分に言い聞かせた。

✩.*˚

あの糞ガキ共!誰に喧嘩を売ったのか教えてやる!

憤慨しながら晩餐会の会場に戻ろうと足を向けた。

頭に血が上ってて忘れていたが、左手の出血が止まらない。

スカーフを外して左手に巻いて止血した。

なんというか、散々な格好になってしまった。

上着は投げてきたし、スカーフは外して締りがない。挙句に左手は血まみれだ。

これじゃ中に入れて貰えないかもしれない…

でも戻らないとテレーゼが…

せめてどこにいるか分かれば駆けつけるのに…

あいつに頼るのは癪だが、あいつならテレーゼを見つけられるか?

「おい、《冬の王》」

不本意ながらあいつを呼んだ。

「テレーゼを探してくれ。お前なら分かるんだろ?テレーゼはどこだ?」

「この《冬の王》を小間使いのように使うとは…」とボヤく声がして、鹿の姿がその場に顕現した。

「全く…余裕のない男だ…」

「困ってんだよ!嫁さんが他の男に取られるかもしれないんだ!男なら分かるだろ!」

「ふむ…不名誉ではあるな」と同意して、《冬の王》は大きな角を揺すった。

木の枝のように広がった角から騒がしい囀りを残して小鳥たちが飛び立った。

「其方の愛する者はすぐに見つかるよ」と言って、《冬の王》は俺に「行こう」と催促した。

廊下に靴の音と蹄の音が重なる。

隣を歩きながら、鹿の口から説教が零れた。

「最初から我を呼べば良かったのだ。あんな子供だましにかかるなど、全くどうかしている」

「あんたを呼ぶと事がでかくなると思ったんだよ」

「ふん。それでこのザマか?恥ずかしいものだな《英雄》」

「吐かせ。テレーゼを探してくれって頼んだんだ。説教は頼んじゃいない」

「ふむ…難しい年頃かな?」

「もうおっさんなんだよ!俺は!せっかちなんだ!さっさと何とかしてくれ!」

「分かった分かった。全く可愛い男だ」と《冬の王》は俺を見て低く笑った。

廊下の向こう側から、早足で床を叩く音が聞こえた。

相手は俺たちの姿を見て、「げっ!」と声を上げた。

「あの糞ガキ!」

俺を見えなくした奴だ!俺の投げ捨ててきた上着を持っている。

奴は慌てて姿をかき消したが、《冬の王》は青年を見逃さなかった。

「逃さんよ」と呟いて《冬の王》遠慮なく、瞬く間に足元を凍らせた。

氷が歪な形に盛り上がって、彼を捉えた。姿を消した甲斐なく、彼は氷に絡め取られた。

「くそっ!放せ!

何でこんなところにいるんだ!」

青年は、罠から逃れようとする獣みたいに身を捩って逃げようとするが、彼を拘束しているのはただの氷じゃない。

ざまぁ!ちったァ反省しろ!

「上着をありがとうよ」とガキから上着を取り返した。

氷に蝕まれた青年は忌々しげに俺を睨みつけた。

「衛士は何をしてるんだ!

さっさと行けと言ったのに…」

「へー…そう?」

随分タチの悪い事やってくれるじゃねぇか?

「俺が捕まってなくて残念だなぁ?

あいにく俺には可愛い嫁さんと娘がいるんだ!こんなところで罪人になってたまるか!」

上着はあの部屋に放り込んでおいて、俺があの嬢ちゃんを襲ったように演出するつもりだったのだろう。

確かにこの派手な衣装は二つとない。

濡れ衣を着せるにはもってこいだ。

この馬鹿どもに付き合わされたあの令嬢が不憫で仕方ない…

誰も叱らないなら俺が叱るだけだ!

「この糞ガキ共!手の込んだ嫌がらせしやがって!

王子も王子だ!あんな可愛い婚約者がいるのに、お前らイカれてんぞ?

あんなところに閉じ込めて、可哀想だろうが?!さっさと連れてきてやれ!」

「そこで何をしている?!」と廊下によく通る声が響いた。

「何者かね?凍らすか?」と物騒な事を口にして、《冬の王》はずいっと身を乗り出した。

「精霊?!」

「殿下!お下がりを…」

取り巻きが偉そうな若い男を取り囲んだ。

こいつのご主人様か?探す手間が省けた。

「お前か?テレーゼを連れて行ったのは?!」と怒鳴りつけて取り巻きを連れた男に歩み寄った。

逃がそうとする部下を制して、《殿下》は俺に「ロンメル男爵か?」と確認した。

「あぁ、そうだよ!お前らに嵌められた間抜けなロンメル男爵だ!」と皮肉っぽく返すと、《殿下》は眉を寄せて眉間に皺を刻んだ。

「ロンメル男爵。落ち着いてください」と《殿下》と俺の間に入った男が、それ以上前に出るのを妨げた。

手首に結んだ紐が《祝福》を封じていたから、相手は凍らされずに済んだ。

「男爵、勘違いしておいでです」

「このタイミングでそんなに大所帯でやってきて、俺を悪者に仕立て上げる気だろう?

そんなにテレーゼが欲しいか?!」

「男爵、お話を…」

「俺はな!お前らのことなんか知ったことじゃねぇんだ!

お前らのためにオークランドと戦うつもりはねぇぞ!《英雄》なんて称号だって《男爵》だって全部返してやる!

テレーゼを返せ!

返さねぇってんなら、俺がこの国のために戦う理由も守ってやる義理もない。

俺は本気だぞ!」

「脅迫なさるおつもりか?」と相手は顔色を変えた。俺を宥めるのを諦めた男は、鋭い視線で俺を睨み返した。

一触即発の状況で、声を上げたのは《殿下》だった。

「よい。下がれ、シュタインフェルト子爵」

「危険です。取り合わない以上、殿下に害が及ぶやも…」

「シュタインフェルト子爵。私は兄として、彼に愚弟の悪行を詫びねばならん。」

「…兄?」どういうことだ?目の前の《殿下》は、あの馬鹿王子では無いのか?

シュタインフェルト子爵と呼ばれた男は、渋々といったていで《殿下》に場所を譲った。

若い男の眉間には苦労人の皺が刻まれていた。

「フィーア王国第二王子、ヨアヒム・アルフォンス・フォン・フィーア・レーヴァクーゼン伯爵だ。

姿が消えたとあって貴殿を探していた。その手は?」

「あいつにやられた」と氷で拘束したバカの片割れを指さした。

レーヴァクーゼン伯爵は部下に弟の部下を拘束するように命じた。

「シュタインフェルト子爵、あれを拘束して愚弟の居場所を確認しろ」

「御意」

「トリシャ妃殿下の名で、男爵の治療と着替えを用意せよ。何かあれば陛下と妃殿下に恥をかかせることになるぞ。

ロンメル男爵、私を信用してはくれまいか?」

「テレーゼは?」

「陛下と妃殿下の名誉にかけて無事にお返しする。

私が貴殿を探していた時に、広間で伯爵夫人と話をしていたのを見ている」

「私の眷属はそうは言ってないがね」と《冬の王》が王子との会話に口を挟んだ。

いつの間にか戻ってきた小鳥が《冬の王》の角に留まって囀った。

「急げ、人の子。其方の妻は広間には居ないぞ」と《冬の王》は小鳥の言葉を通訳した。

「なに?」

「《白い手》の乙女は若い男と一緒にいる」と彼は淡々と事実をそのまま伝えた。

「何か目印は?」と王子が《冬の王》に訊ねた。

「噴水と花がある。外だが寒くはなさそうだな」

「中庭の温室か…」

思い当たる場所があるらしい。

「王族のプライベートな庭だ。茶会にも使われるが、中に入るには王族の許可がいる。私が案内する。

シュタインフェルト子爵、ここは任せた」

「後から参ります」

「いい、それよりその面倒な消える男を逃がすなよ。

男爵、手当は後でも大丈夫かね?」と王子は俺に訊ねた。

頷いて返すと、王子は「案内する。着いてきてくれ」と俺を呼んで先を歩いた。衛士らしき部下たちも後に続いた。

「…男爵」前を歩く王子に呼ばれて顔を上げた。

「その…夫人はどうだ?」

「は?何がです?」と問い返すと、彼はテレーゼの身体を心配してくれた。

「以前訪ねた際は療養中だったから…身体はもういいのか?」

そういえば、前にあの馬鹿王子がテレーゼを訪ねてきた時も、兄王子が収めてくれたと聞いていた。彼だったのだろうか?

「まぁ、ぼちぼちと…」と言葉を濁した。

「そうか。良かった」とレーヴァクーゼン伯爵は頷いて、また口を閉ざした。
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