燕の軌跡

猫絵師

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「本格的に寒くなる前で良かったですね」と馬車に揺られながらアンネがそう言った。

舗装された通り道は枯葉の絨毯が敷かれ、季節の移ろいを感じさせた。

咳も治まり、体調も良くなったので、少し早いがブルームバルトに帰ることになった。

《新年会》の事もある。早めに準備を始めなければ間に合わない…

『寒くなりましたので』とお義父様は奥様が昔に使っていた毛皮のコートをお譲り下さった。

柔らかい手触りの、ツヤツヤした雪狐のコートは触り心地もよく暖かかった。

お義父様はアンネにも襟巻を贈ってくれた。

『私には贅沢すぎます』と恐縮していたものの、アンネは喜んでいた。

彼女は嬉しそうに襟巻を撫でて、可愛い顔で笑っていた。

「アンネ、恋してるみたいよ」と彼女をからかうと、彼女は顔を真っ赤にして、「だって、素敵じゃありませんか?」と子供みたいに膨れて見せた。

「本物の黒貂の高級毛皮ですよ?私にとっては宝物です!」

「そうね。とっても似合ってるわ」と彼女の宝物を褒めた。

「貴女が気に入ってくれて、お義父様も喜んでおいでだと思うわ」

お義父様は私だけでなく、アンネにも親切にしてくれた。よく気が付いて動いてくれるアンネを、お義父様は懐かしそうな表情を浮かべて目で追っていた。

一緒にお茶をしていた時に、お義父様はポロッとワルター様のお母様の思い出を口にした。

『お恥ずかしい話ですが…』と苦笑いを浮かべながら、エミリア様との良い思い出だけ話してくれた。

ビッテンフェルト家のメイドとして雇われたエミリア様に、お義父様は恋をしたと仰っていた。

とりわけ目立つような美人にという訳でもなかったが、彼女の優しさと笑顔に引かれたと話していた。

私もエミリア様にお会いしてみたかったな…

用事もないのに彼女を連れて出かけたり、あの手この手で逢い引きしたらしい。

『ビッテンフェルトを捨ててでも、一緒になりたいと思っていました』とお義父様は思い出を語った。

それでも、その願いは叶わなかった。

お義父様とエミリア様の事を知ったビッテンフェルト家のご両親が、エミリア様を解雇したからだ。

お義父様が戦に出ている間に、エミリア様は幾らかのお金を渡されて、お腹の中にワルター様を宿したまま、お義父様の前から姿を消した。

結局、お義父様と一緒になったのは、自分が愛した人ではなく、ご両親の望んた相手だった。

ワルター様は何も話してくれなかったから、そんな過去があるのだと初めて知った。

私やフィーを愛してくれる姿からは、そんな悲しい過去は微塵も感じさせなかった。

まだ、私の知らないワルター様がいるのだろう…

そう思って、窓の外を眺めた。

彼に早く会いたいと、鼓動が高鳴る。

私の置いてきた手紙を見て驚いたかしら?どんなお顔で見たかしら?

ワルター様がカナルから戻ってもう二ヶ月近く経っている。

遠いから、お手紙のやり取りもそう頻繁にはできない。

それでも、届いた手紙には、優しさと気遣いが綴られ、ちゃんと四葉も添えられていた。

フィーを甘やかしてくれる人がまた増えたらしい。あの子が愛されて育っているようで安心した。

馬車はゆっくりと時間をかけて南に進んだ。

途中、その土地の領主や代表者にご挨拶をしながら進んだので一週間ほどかかって、やっとシュタインシュタットまで帰ってきた。

ここを通るなら、お父様かガブリエラ様にご挨拶して通らねば失礼に当たる。

馬車のままアインホーン城に向かうと、城門でお異母姉様方にお会いした。

馬車を降りてご挨拶すると、お異母姉様方は怪訝そうに眉を寄せた。

「何故、その馬車から貴女が出てくるの?」と不満げに、ビューロー子爵に嫁いだハリエットお異母姉様に指摘された。

「それは奥方様の馬車でしょう?」と別の異母姉も責めるような口調で私に言った。

「奥方様が馬車を新しくされたので、私にお譲りくださいました」

「まあ!奥方様が貴女に?信じられない!」と彼女らは憤慨していた。

彼女らは私が奥方様に無理を言ってねだったのだと思い込んでいるような口ぶりだ。

「貴女、身分をお忘れではなくって?

侯爵閣下や奥方様におねだりしたのでしょう?恥ずかしい…」

「そんな事…」

「本来なら、奥方様の馬車はフロレンツィアお異母姉様が頂戴するはずの品よ!

それを差し置いて、貴女、何様と思ってるの?」

その厳しい言葉に何も言い返すことが出来なかった。

「馬車が道を塞いでいるぞ!」

城門の前で二台も馬車を止めていたから、邪魔してしまったのだろう。

新しく到着した馬車から、痺れを切らした青年が降りてきた。

「ここはサロンじゃない。母上は馬車の中か?さっさとお通ししないか!」と叱る声に覚えがあった。

「アレクシス様!」と慌てて異母姉たちは頭を下げた。

それに習って頭を下げてご挨拶すると、アレクシスお兄様は私に気が付いたらしい。

「テレーゼ!久しぶりだな!」とお異母姉様方より先に、私にお声を下さると、昔のように駆け寄って挨拶して下さった。

「身体は?もういいのか?

父上から療養に出たと聞いていた。忙しくて見舞いも送らずすまなかった」

「そんな…勿体ないお言葉です」

「こんな所で何をしている?身体が冷えるから馬車に戻りなさい。

母上が一緒なのか?」と私の乗ってきた馬車に視線を送って、違和感に気づいたようだ。

それもそうだ。馬も御者の姿も、ガブリエラ様のものよりずっと貧相だ。

「侯爵夫人よりあの馬車をお譲り頂きました。

奥方様は乗ってはおりません」

「…なるほど、そういう事か…」敏感に事情を察したアレクシスお兄様がお異母姉様たちを睨んだ。

「姉上、テレーゼが母上から頂戴したなら、この馬車はテレーゼの物です!

文句があるなら、直接母上に申し上げ下さい!」

「も、申し訳ございません、アレクシス公子…」

「奥方様にはご内密に…」

「私から母上に伝えると困るような事をされていたのですか?

テレーゼは貴女方の妹でもあるのです。いつまでも子供のような意地悪を続けるのはおやめ下さい」

お兄様のお言葉に、お異母姉様たちは何も言い返すことが出来なかった。

お異母姉様たちを黙らせて、お兄様は私に右手を差し出した。

「ちょうど通りかかって良かった。

テレーゼ。馬車までエスコートしてあげよう」

「ありがとうございます、お兄様」

助けてくれたお礼を伝えると、お兄様は照れたように、はにかんで笑った。

「私も父上に呼ばれたんだ。

後でまた時間を取れるかい?用事が済んだら、一緒にお茶をしよう」

「嬉しい。楽しみにしております」

姿は立派な青年になっていたが、中身は優しいお兄様のままだ。兄の傍には、相変わらず赤毛の青年の姿があった。

「まぁ、クラウス様。お久しぶりですね?」と兄の友人で一番信頼されている青年に声をかけた。

彼は随分背が高くなっていたが、昔の面影はそのままだった。

「お久しぶりです、ロンメル男爵夫人。

噂は聞いておりましたが、益々お美しくなられましたね」

「あら、嬉しい。ありがとうございます」

笑顔で礼を言って、お兄様のエスコートで馬車に戻った。

お兄様は、御者に自分の馬車に着いてくるように命令した。

「お兄様の言う通りにしてちょうだい」とお願いすると、彼は安心して言う通りにしてくれた。

お兄様はエントランスに馬車を停めて、一番城に近い場所で降ろしてくれた。

「お兄様、ここは私などが使って良い場所では…」

案内されたエントランスは侯爵やお客様が使われる場所だ。本来なら私は臣下用の出入り口を使わねばならない。

「私が許可する。構わないよ、テレーゼ」とお兄様は優しい笑顔で応えた。

「ここで疲れさせては、また体調が悪くなるかもしれないだろう?

ここが一番近いから、ここを使ってくれ。私の我儘に付き合わせてすまない」

私が気に負わないように、お兄様は自分の我儘に付き合わせた事にして下さった。

そのご好意に素直に甘える事にした。

お兄様は私が馬車から降りるのを手伝って、そのまま城の中へとエスコートしてくれた。

お兄様と一緒なので、誰からも咎められずに、お父様とお会いすることが出来た。

お父様の執務室に二人で伺うと、お父様は意外な組み合わせに驚かれていた。

ご挨拶が済むと、別の応接間に通された。

「何処で会ったのだ?」

「城の前で偶然お会いました」と私がお答えすると、お父様は「そうか」とだけ答えて、新たな質問を私に投げかけた。

「テレーゼ、アレクのエスコートは完璧だったろうな?」

「はい、お父様。とても良いエスコートでした」

「よろしい。また後ほど披露してもらおう」とお父様は満足気に頷いた。

「テレーゼ。例のドレスは男爵の礼服と一緒に預かっている。丈は合わせてみたか?」

「いいえ、まだです…

恐れ多くて合わせてすらいません。

本当にお受け取りしてよろしいのでしょうか?」

「両陛下がそうお望みである以上、お応えするのが臣下の務めだ。

ガブリエラにドレス姿を確認してもらうといい。大きければ急いで調整させる」

「ドレスですか?」と事情を知らないお兄様が訊ねた。

お父様が掻い摘んで事情を話すと、お兄様の顔がみるみる険しくなった。

「全く!どこまで迷惑をかければ気が済むのでしょうか?王子でも許されることと許されないことがあるでしょうに!」

「全くだ…

とりあえず、陛下には、今後、コースフェルト伯爵の南部への訪問はご自重頂くように申し上げた。

ロンメル男爵が過剰に反応して、寒さで農作物が収穫できなくなると困るのでな…」

「確かに…」とお兄様もお父様に同調して苦く笑った。ワルター様がカナルを凍らせた話はあまりにも有名だ。

「そういえば、お父様とガブリエラ様にお土産がございます」

「ほう?何かな?」とお父様は興味を持ってくれた。

「こちらです」と小さな包みをを二つ取り出して、一つをお父様にお渡しした。

「ドライファッハ工芸品だそうです」

お父様は中身を確認して、細工の施されたペンを取り出して眺めた。

「細かい溝にインクが溜まるので、一度に長く文字を書けるそうです。インクが落ちたりするのも防いでくれるそうです」

「それは助かる。面倒がひとつ減るというものだ」とお父様は喜んでいた。

喜んでもらえてよかった。ガブリエラ様にも同じものをご用意したが、気に入ってもらえるだろうか?

お父様は、「ガブリエラも手紙を書くことが多いから、喜ぶだろう」と仰っていた。

「母上は今どちらに?」

「広間だ」とお父様はお兄様の質問に答えた。

「ロンメル男爵の稽古中だ…

週に三日、稽古につけているのだが…あの男、全く踊れなくてな…」

「まあ!」

「このままだと非常にまずい」とまで言われてショックを受けた。そんなに酷いのかしら?

ワルター様も出来ない事があったのね…

「あの男、ゆっくり動くことが苦手らしい…歩幅もリズムも無茶苦茶だ…どうしたものか…」

「宮中新年会の晩餐会ではダンスは必須とお聞きしておりますが?」

「そうだ。しかも陛下から衣装まで頂戴している。無様な姿を晒せば、我が家も赤っ恥だ!

ガブリエラとバルテルが必死に指導しているが、間に合うかどうか…」とお兄様に答えたお父様は本当に困っていた。

「とりあえず、テレーゼとだけでも合わせられるようになってもらわねば…

ロンメル男爵が絶望的となれば、パートナーが合わせるしかない。お前がリードできるようにガブリエラから教わってくれ」

「かしこまりました、お父様」そうお答えしたものの、不安は残る。私もダンスなんて久しぶりだし、上手く踊れるかしら?

リードしてもらうならともかく、リードするとなると不安だ…

「父上、私は?」

「アレクも練習に付き合ってくれ。お前のためにもなるだろう?」

「承知しました」とお兄様は快く応じてくださった。

「すまんな、アレク。クラウディア嬢との約束もあるのに…」

「いいえ。いきなりクラウディア嬢と踊るのでは、恥をかくかもしれません。

テレーゼ相手なら気に負わずに練習できます」

「お兄様、よろしくお願いします」

「こちらこそ。よろしく、テレーゼ」

二人で、子供の頃のように笑顔を交換した。

第一公子になられても、アレクシスお兄様は、私の大好きなお兄様のままだった。

スー様にもそう教えてあげよう。きっと喜ぶだろうから…

✩.*˚

またリズムがズレたと指摘されて焦った。

相手の足を踏んで足が縺れる。

「…すいません」

「いえ、まだ今日は二回目です」

怖ぇ…バルテル卿の顔は全く笑ってない…

最初、ガブリエラ様の侍女と踊ったが、俺が壊滅的に下手くそで、相手が可哀想だからとバルテル卿が代わったのだ…

「ロンメル男爵、ちゃんと手拍子をお聞きなさい。

ターンがズレると相手に怪我をさせるかもしれませんよ?

テレーゼが足をくじいたらどうするのですか?」

監督していたヴェルフェル侯爵夫人から指摘される。夫人の声にも熱が入っていた。

「まだ、一歩が大きすぎます。

テレーゼは小柄なので、振り回されてしまいますよ。

何度も申し上げますが、ダンスホールで踊るのは一組ではありません。多くのペアが踊ります。

ぶつからないように、周りに気を配って、パートナーをリードするのが殿方の務めです!

歩幅やリズムを気にしてる暇はありませんよ!

それは身体で覚えて下さい。

さあ、もう一度!初めから!」

広間に夫人の手拍子が響いた。

うぅ…早く帰りたい…

帰ってフィーと過ごしたい…

上の空だと、「集中してください」とバルテル卿からも叱られる。

作法もダンスも、嫌で逃げ出す令嬢がいるというのは頷ける…

「稽古は進んでいるか?」と広間によく通る声が響いた。

夫人の手拍子が止まり、バルテル卿が俺から離れた。やっと開放された…

「パウル様、なぜこちらに?」

「アレクたちが到着したのでな。様子を見がてら連れてきた」と夫人に答えて、パウル様は離れたところに立ったままの俺を呼び寄せた。

「パートナーを連れてきてやったぞ」と悪戯っぽく笑って、俺に目を閉じるように言った。

「手を出して待て」と犬みたいに命令されて、わけが分からないままそれに従った。

なんだこれ?

「まぁ!」と驚くガブリエラ様の声が聞こえた。ひそひそ話にくすくすと笑う声が混ざった。

何だよ?なんだってんだ?

出しっぱなしの手に柔い感触が重なった。

さっきまで握っていた広いゴツゴツした男の手とは違う、柔らかい小さくて華奢な女の手だ。

「卿のパートナーだ。目を開けていいぞ」とパウル様のお許しが出たので目を開けた。

「は?」

「お久しぶりです、ワルター様」

幻か?目の前で悪戯っぽく笑う女性はここにいるはずの無い人間だ…

「何で?…テレーゼ?」

「ふふっ、どうしたんですか?そんな顔して?」状況が飲み込めない俺を、テレーゼは真っ直ぐに見上げて、面白そうに笑っている。

「《寒くなる前に帰ります》、とお手紙に書いたはずですよ」

「いや、まぁ、そうだけど…

何でこんなとこにいるんだよ?」

「たまたまご挨拶にお立ち寄りしたら、またまたワルター様がいらっしゃったので」と彼女は嬉しそうに笑って「ただいま」と言った。

やばい…どうしよう…

我慢できずにテレーゼを抱き締めた。

「ワルター様?」

「…おかえり」泣きそうだ…テレーゼが帰ってきた…

顔色もよく、元気そうだ。彼女の吐息と体温が胸の辺りにじわりと沁みた。

「良かったですね、ロンメル男爵」とガブリエラ様の声で現実に引き戻された。

「でもそんなに抱き締めたらテレーゼが潰れてしまいますよ?離してあげてくださいな」

「あ…あぁ、悪い、テレーゼ…」ガブリエラ様に指摘されて、腕を少し緩めた。

胸から顔を上げたテレーゼは、また少女のように嬉しそうに笑った。

この顔がずっと見たかったんだ…

「みんな元気ですか?」

「元気だよ。フィーも元気だ」

「うふふ、また一段とお転婆になってそうですね」

「歩くようになったから、目が離せねぇんだよ。両手が自由になったし、高いところにも少し届くようになったからな。

この間もインクの壺を床にぶちまけて悲惨だったぞ。本人は楽しかったのか、インク塗れで逃げ回るからあっちこっち手形や足型だらけだ…

着てた服やら絨毯も諦めて捨てたよ」

「あらあら、悪い子ですね」そう言いながら彼女は子供の成長を聞いて、嬉しそうに目を細めた。

「早く会いたいわ」と小さく呟く彼女に頷いた。

本音を言うと、俺も早く帰りたい…

「することが終わったら帰れますよ」とガブリエラ様の声が夢見心地だった気分を打ち砕いた。

「テレーゼが来たことですし、パートナーと合わせてみましょう。

テレーゼ、踊れますね?」

「はい、奥方様」とテレーゼは即答した。

でもそれは俺が大丈夫じゃない。

「いや…でも…」と渋る俺に、テレーゼは「大丈夫ですよ」と言って俺に手を差し出した。

「ちゃんと踊れますから。私に合わせてください」と頼もしく断言して、テレーゼは俺と手を繋ぐと広間の真ん中に向かった。

「よろしくお願いします」と会釈を交わして、彼女と向かい合ってダンスの組になった。

小さいな…

さっきまでおっさんと手を繋いで踊ってたから、余計にそう思える…

広間に夫人の手拍子が響いた。踊れって事だ…

「お顔が固くなってますよ」とテレーゼに指摘された。彼女は可愛らしく微笑んで俺を見上げた。

「緊張してます?」

「してるよ。話してたら集中できねぇだろ?

おしゃべりは後にしてくれよ」

「うふふ。そうですか?私はおしゃべりしたいんですけど?」

必死に踊るおっさんをからかうように、テレーゼは悪戯っぽく笑った。そんなに俺が下手くそなのが面白いか?

「ワルター様、そんなに緊張してたら身体が固くなっちゃいますよ?

私も周りに気を配ってますから、心配しないで下さい。

もし、本番でぶつかりそうになっても私が合図します。だから心配しないで、リラックスしてください」

「…悪いな」

「力を抜いて、お散歩する時みたいにゆっくり楽しみましょう?

私とお散歩する時は、いつも歩幅を合わせてくださいますでしょう?それと一緒です」

参ったな…完全にテレーゼにリードされている…

「上手ですよ。ターンしましょう?」

テレーゼに言われて気が付くと、ホールの真ん中から外れそうになっていた。

慌ててターンしようとすると、察した彼女は指先で俺の袖を摘んで引いた。

「慌てない、慌てない」

まるで子供だ…

いや、まぁ、確かに…子供の方が上手く踊るかもしれない…

「手を離さないで下さいね?

しっかり支えて、つま先で滑るように、足は上げ過ぎないで」

いくつか指示をして、テレーゼは俺を軸にして、カバーするようにターンした。

彼女が踊るのを見るのは初めてで、俺と踊るのだって初めてだ。

「上手いんだな」と感心すると、彼女は嬉しそうに笑顔で返した。

「ヘルゲン子爵様のおかげです」と彼女は自分に教養を与えた先生を称えた。

あの人には死んでからも世話になってばかりだ。

本当にすごい人間のした事ってのは、死んでからも残るもんらしい…

「上手ですよ!テレーゼ!」と厳しい顔でダンスを見守っていた夫人が褒めた。

夫人の合格が出るまで、途中に止められる事も無く踊れたのは、間違いなくテレーゼのおかげだ…

「どうにもならなくて困っていたのですよ。

もう、本当にこのままだったらどうしようと思ってました。

ロンメル男爵をリードできるなんて凄いわ!その調子で、頑張って!」と夫人は俺をボロクソに言って、テレーゼを褒めちぎった。

「ワルター様は私の歩幅をご存知ですから、合わせてくださいますわ」

「それでも、あのロンメル男爵が、ホールから外れずに、貴女の足を踏まないて、最後まで踊れたのです。

私も何度匙を投げそうになったことか…諦めないで良かったわ…」

「素晴らしかったよ、テレーゼ」とパウル様の後ろに控えていた青年がテレーゼに歩み寄った。

彼にアレクシス公子の面影を見つけて驚いた。

前に見た時はスーみたいな少年っぽい印象だったのに、随分落ち着いた雰囲気になっていた。

ガキっぽいスーを見てるから余計にそう思える。

公子は俺に、「テレーゼは君には勿体ない」と言った。それでも、昔ほどの鋭い口調ではなく、俺を傷付けようという意図は感じられなかった。

「ダンスはともかく、カナルでの武勇は聞いている。ヴェルフェル公子として、君の働きを称える」アレクシス様はそう言って右手を差し出した。その手を取って握手を返した。

はぁ…マジで雰囲気変わったな…

こんな数年でここまで変わるもんかね?

そう思って感心していると、公子は誰かを探すように周りを気にした。

「…ロンメル男爵、スーは?一緒じゃないのか?」

「スーはブルームバルトです。

傭兵団の後処理があるので、古参の連中から学んでいます」

あいつは『行く』と言ってたが、ゲルトに捕まっていたから置いてきた。

「そうか…残念だ」

そう呟いて公子は肩を落とした。そういうところは相変わらずだな。

「すまない、関係の無い話だったな。練習を続けてくれ」と言って、公子はテレーゼに「また後で」と声をかけて下がった。

入れ替わるように、今度はパウル様がやってきた。

パウル様はご機嫌な様子で俺の肩を叩いた。

「なんだ、やればできるじゃないか?

その手入れの悪い鎧を着たような動きを直せば完璧だ。心配だったが、何とかなりそうだな」

「テレーゼが上手なんですよ」

「それは見たらわかる」とパウル様は容赦なく即答した。

「まぁ、それでも人間は褒めないと伸びないだろう?このままテレーゼと頑張りたまえ」

パウル様はそう言葉を残し、バルテル卿を連れてさっさと政務に戻ってしまった。

褒められてるんだか貶されてるんだか分からないまま、また稽古に戻った。

テレーゼは嬉しそうに、星を散らしたようなガーネットの瞳で俺を見上げた。

「もう一回、お願いします」とお辞儀をしてダンスに誘う彼女は楽しそうだ。

「あぁ、うん…お願いします」

「久しぶりに踊って楽しかったです。帰ってからも練習しましょう?」

「それは…ちょっと…」スーや子供たちに見られたら恥ずかしい。だからここに通ってんだ。

「あら?お嫌ですか?」とまたテレーゼはご機嫌に微笑んだ。

その笑顔に『いいよ』と言いそうになる安い自分がいる。久しぶりに会って、これはズルいだろ?

「《下手くそ》だっていいじゃないですか?私はワルター様と踊れて楽しいですよ」

「《下手くそ》って思ってるだろ?」

「うふふ。《上手》になったらいいじゃないですか?すぐになれますよ」

テレーゼは笑って誤魔化すと、俺の手を引いた。

「どんなに《上手》でも、相手がなければダンスは踊れないんです。

だから、私と踊ってくださいな」

俺は彼女には一生勝てない気がする…

苦い顔で頷いた俺に、彼女は対象的な笑顔で笑った。

✩.*˚

「パパぁ」

革紐に繋いだアルマを庭で散歩させながら、ルドが俺を見上げた。

「見て、アリュすごいんだよ」

そう言って、ルドはアルマを葡萄の木の下に連れて行って紐を放した。

アルマは羽ばたくと、瞬く間に葡萄の木に登った。

まだ子供の飛竜は、鳩のようにクークーと鳴きながら、葡萄の木の上を歩いて移動した。アルマは葉っぱを齧る虫を見つけると、お菓子でも食べるようについばんでいた。

「へぇ、役に立つな」

「すごいよね?虫食べてくれるんだよ!ブドウ守ってくれるよ!」と子供らしく喜ぶルドを抱き上げて肩車した。

ルドの手が葡萄の枝に届いた。

「アリュ、これもいいよ」

ルドがそう言って、金属っぽい光沢の虫を捕まえて、アルマに差し出すと、アルマは虫が欲しいとピィピィ鳴いて、ルドの手からおやつを貰っていた。

「ルド、アルマの世話もしてくれたんだな」

「うん!おさんぽもご飯もあげたよ!あと、お水もあげたし、うんちも捨てた!」

「偉いな、ありがとうな、ルド」

頭の上から、子供のご機嫌な笑い声が幸せを振りまいた。

「お手伝い楽しいよ!パパ嬉しい?」

「嬉しいよ」と答えて俺も笑った。

エルマー、この子は君の子だよ…

『俺は評判の孝行者だったがね』と話してた君を思い出す。

『何だよ?昔はいい子だったんだぜ。

家の手伝いもするし、弟の面倒も見る、近所じゃ評判のいい子だったんだぜ』

君はそう言ってたけど、この子もきっとそうなるよ。今だってこんなにいい子だ。

「二人で何してるの?」とミアがやってきて訊ねた。

彼女はあの一件からしばらく元気がなかった。

それでも、ワルターやハンスたちがミアを守ってくれたから、心配していたほど事は大きくならなかった。

街の人たちも、彼女の事を悪く言うようなことは無かった。それはミアが普段からよく働く良い使用人で通っていたからだ。

あの男も、始末したし、今後同じ事が無いように手は打ってある。

あとは俺が彼女たちを守れるかどうかの問題だ。

ミアは俺の前に立って、頭の上に向かって手を伸ばした。

小さな手が視界の隅を横切って、少しだけ身体を捩るように暴れた。擽ったそうな笑い声が降ってくる。

「ルド、楽しい?」とミアは笑顔でルドを見上げて訊ねた。

ルドは「うん!」と嬉しそうに頭の上で頷いた。

「パパ大好き」と言って肩車された子供は俺の頭を撫でて頬ずりした。

ミアの「良かったね」と言うのは、ルドと俺のどちらに向けた言葉だろう?

「ラウラ様がおやつを用意してくれたわよ。ルドもおいでって」

「ほんとぉ?!」おやつと聞いてルドは頭の上ではしゃいだ。

「パパ!降ろして!」

「はいはい」と応えて、ルドが降りられるように屈むと、ミアがルドを支えて、ルドは地面に降りた。

「アリュ!おいで!」とルドは翼のある友達を呼んで手を叩いた。

葡萄の木で虫を啄んでいたアルマが、ルドに呼ばれて木から降りてきた。アルマはそのままルドの傍に寄ると、不器用に歩きながら並んだ。

「ルド、アルマの事 《妹》って言ってたわよ」とミアが笑った。

「へぇ…そうなんだ」

「いいお兄ちゃんになるよ」とミアは笑った。

その笑顔を見て、彼女の手を握った。

彼女が好きだ。笑顔も、声も、このつないだ手も全部…

エルマーには悪いけど、俺は彼女の事が大好きだ。

ルドとアルマの後ろを歩きながら、彼女の手を引いて身体を寄せた。

顔を近づけて彼女の顔を覗き込むと、ミアは照れくさそうに笑って、俺に応えるように顔を寄せた。

彼女は俺の事をよく知ってる。

彼女に甘えて、少し上を向いた顔に唇を重ねた。
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