燕の軌跡

猫絵師

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おかえり

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「パパ、帰ってくるの?!」

ルドが私を見つけて廊下の端から叫んだ。

「シュミット様が教えてくれたよ!」駆け寄ってきた子供は、目をキラキラさせてそう言った。

子犬みたいに跳ね回って喜ぶルドを抱き寄せた。

「良かったね、ルド」

「ママも嬉しい?!」

「もちろん!嬉しいよ!」とルドと一緒に手を打ち合って喜んだ。

「パパ、お腹すいてるかな?」

「ねぇ!帰ってきたら一緒にご飯食べれる?」

「パパに、これ見せるの!」と、ルドはスーが帰ってくるのを心待ちにしていた。

旦那様たちが帰ってくるとあって、御屋敷は大忙しだった。お偉いさんも泊まっていくらしい。

「ミアさん、ちょっとお使い頼んでいいかしら?」とラウラ様に呼ばれた。

「ごめんなさいね。お客様用のシーツに虫食いがあったの。

予備も含めて二十枚ほど届けて欲しいって、いつものアーレーさんのお店に注文して来て欲しいの」

「分かりました」

「あと、お手伝いが欲しいから、ローザとゾフィーにも声をかけてきてもらえるかしら?

もし他にも手伝える子がいたら、お給金を出すから来て欲しいって伝えて」

「かしこまりました」と答えて、お店に渡す封筒を預かって、失くさないようにポーチにしまった。

封筒には掛売りの証明書が入っている。無くしたら大事だ。

とりあえず、失くすのが怖いから、急いでお店に封筒を届けた。

「かしこまりました。取り急ぎ、店の在庫の十二枚を納品致します」と返事を貰えた。

店主のアーレーさんは荷物と一緒に馬車で送ってくれると言ってくれたが、他にも用事があるからと断った。

近い家から順に回って、手伝いをお願いした。

領主様の御屋敷のお手伝いをすれば、お給金も貰えるし、お行儀も学べるとあって、女の子たちも親も喜んで返事をくれた。

一通り頼まれた事を済ませて、通りを歩いていると、屋台の前で足が止まった。

いい匂いの焼きたてのパンが並んでいた。

スーの大好きな甘いバターを挟んだプレッツェル。ルドも大好きだ。

「ちょうだい」とパン屋の屋台で店番をしてた少年に声をかけた。

「いくつ?」

「三つ…ううん、やっぱり四つ」と数を増やした。

スーは喜んで二つくらい食べるだろう。子供みたいな所があるもんね…

パンを受け取って帰ろうとしたら、名前を呼ばれた。

無視すればよかった…

「やっぱりな、お前、輜重隊で娼婦だったミアだろ?」と傭兵みたいな姿の男は私を指さしていた。

「今回いなかったから寂しかったんだぜ」と馴れ馴れしく振る舞う男には覚えがあった…

バシュって傭兵だ。覚えてたのは、傭兵の中でも評判の悪い男だったからだ。

二、三回相手をしたけど、評判通りの嫌な男だったから、それからは相手しないようにしていた。

「なんだよ?随分小綺麗にしてるから分からなかったぜ」

馴れ馴れしく触ろうとしてきたので手を払った。

「何すんだ!テメェ!」

「触んないでよ!あたしはもうその商売から足を洗ったんだから!」

掴みかかろうとするバシュに必死で抵抗した。

ちょっとした騒ぎになって、通りの視線を集めた。

この街じゃ、あたしがロンメル家で働いてるメイドだって皆知ってる。

「何事だい?」

「絡まれてるのは、ご領主様のところのメイドじゃないか?」

ザワザワと声が聞こえてくる。

嫌な男は話を拾って「へぇ」と呟いて、口元に下卑た笑いを浮かべた。

「ご領主様が娼婦を雇ってんのか?夜のお世話か?いいなぁ!いい稼ぎだろうよ!」

バシュはわざと周りに聞こえるよう大きな声で言った。

途端に周りの視線が冷たくなった気がした…

「…やめて」

「あぁん?嘘じゃねぇだろォ?ホントの事だ!

嫁さんだけじゃ満足出来ねぇんだろ?なんだってお偉いさんだからなぁ!やりたい放題だ!」

こんなに人がいっぱいいるのに!旦那様が誤解されちゃう!奥様だって…

「やめてよ!旦那様はそんなんじゃない!」

旦那様は、エルマーが死んで、行き場の無くなったあたしに居場所をくれた。

ルドのことだって、自分の子供みたいに可愛がってくれて、何かある度に世話してくれた。

ルドが熱を出したら医者にも診せてくれた。

悪く言われるような人じゃない!

悔しくて涙が出る。こいつの悪意には真実が混じってるからタチが悪い。

他の誰かが、あたしが本当に娼婦だったって証言したら、こいつの話が一気に本当みたいになっちゃう!

そうなったら旦那様と奥様に迷惑にがかかる…

でもこの男の悪意を抑え込めるだけの妙案は、あたしには無い…

「本当に…やめて…」泣きながら頼むしか無かった。それが相手の思惑だとしても、そうするしか出来なかった。

「黙って言うこと聞いてりゃ、恥かかずに済んだのによ」とあたしを嘲笑うと、彼はあたしの腕を乱暴に掴んで歩き出した。

何をする為か、どこに行く気か、そんな事は訊かなくても分かってる…

怖くて顔を上げられなかった…

街の人が、あたしをどんな目で見てるのか、怖かった…

助けてなんて言えない…

だってあたしは生娘じゃない…娼婦だったんだから…

「ほら、この辺りで良いだろ?」とバシュは人気のない路地裏で足を止めた。

こんなところ久しぶりに来た。こんな所で客を取ってたのも何年も昔の話だ…

「逃げたら、この街でお前の居場所を無くしてやるぜ」と脅されて、無理やり身体を触られた。

こんな最低な奴の言いなりになるしかない自分が最低だ。

パンの入った紙袋が地面に落ちた。

あそこで寄り道しなかったら…

すぐに帰れば良かったと思ったけど、もう遅い…

もう、さっさと終われとしか思わなかった…

行為に及ぼうとしていた男の後ろから、不意に石が飛んできた。石は壁にぶつかって音を立てて地面に落ちた。

「あーぁ…まだ日のあるうちからお盛んなこと…」バカにするような男の声が路地裏に響いた。

「なんだテメェ!邪魔すんな!」とあたしを逃がさないように羽交い締めにして、バシュは邪魔した男に凄んだ。

凄まれたはずの相手は、呑気に耳をほじってる。

「あー、耳くそ溜まってるのかな?

盛りのついた犬がギャンギャン吠えてるわ」

「イザーク、お前の汚ぇ耳なんか心底どうでもいいわァ…

それよりあの姐さんヤバいんじゃね?下手したら俺ら今度こそ雷落ちるぞ?」

「マジか?しゃーないな。《取ってこい》って言われてるしな…さっさと連れて帰るか?」

二人組の男はバシュを無視して勝手に話を進めている。

「姐さん、ミアだろ?」と彼らは私の名前を確認した。誰か知らないけど、助けに来てくれたと信じたかった。

一生懸命頷くと、後ろから太い腕で首を絞められた。

ちょっと!本気?!こんなの死んじゃうわよ!

「後で廻してやるから引っ込んでろ!」

機嫌の悪くなった男は、あたしを盾にして二人を脅した。

「あー!お前!マジでやめとけって!」二人組が慌てて静止する声が聞こえた。その間も、男の腕があたしの首を締め上げている。

…無理…折れる…死んじゃう…

「ったく、俺らまで巻き添え食うっての…イザーク」

「あいよ。姐さん避けてねー!」

ふざけた男たちの声の後、鈍い固いもののぶつかる音と「ぐぁ!」という悲鳴が聞こえて、首の圧迫感が緩んだ。

「俺ちゃん絶好調!」とご機嫌な声が聞こえてくる。

「大丈夫か?」と若い男が駆け寄って、私を助け起こしてくれた。

喉を潰されていたから咄嗟に声が出なかった。

咳き込んで動けずにいると、あたしを手放した男が立ち上がった。

「お前らよくも…」

バシュの額から血が出ていた。あの離れた距離から石か何かを投げたのだろう。

「お前ら!邪魔しやがって!ぶっ殺してやる!」バシュが腰の剣を抜いた。本当に殺る気だ…剣を見て血の気が引いた。

「うるせぇな。耳が詰まってんのはあっちの奴だ。そんなにでかい声出さなくても聞こえてるっての…」

ボヤきながら、助けてくれた男は両手に短い剣を持った。

でも、どう見てもバシュの方が大きいし、強そうだ…

助けてくれた彼は細身で、まだ若く見えた。

「あんた下がってな、巻き添え食うぜ」と言った男は不敵に笑って見せた。

「あんたに何かあったら、俺らはあんたの旦那にぶっ殺されるからよ」

「え?」

《旦那》と聞いて、二人の顔が頭を過ぎった。

でも多分生きてる方だ…

剣を構えたのとは別の男が来て、あたしの腕を引いて立たせると、短く名乗った。

「俺イザーク。あいつはカイだ。スーから、あんたを探して来いって言われてんだ。一緒に来てくれ」

「…スーが」彼の名前を聞いて、少しだけ気が緩んだ。

安心しかけたのも束の間…

裏路地にバシュの怒鳴り声が響いた。

「逃げんな、ミア!」

怒鳴り声に足が竦んでしまう。バシュは執拗く私に執着していた。

「逃げたらお前の事言いふらすぜ!いいのかよォ?オイ!」

分かりやすい脅しだけど、私にはそれで十分だ。

これから先、ずっと付きまとわれるかも…

この男が何処かでルドの事を知ったら…

あの子に何かあったら…

「大丈夫だよ。あんな奴怖くねぇよ」

震えて一歩も動けないあたしを抱き上げて、イザークはバシュのを無視してその場から離れた。

怒ったバシュが怒鳴り散らしていたけど、追いかけては来れなかったらしい。カイと呼ばれたもう一人の男が足止めしてくれたみたいだ。

狭い路地から表の通りに出ると、通りは騒がしくなっていた。

「ミア!」知ってる声に名前を呼ばれて、声の主を探した。

「ミア!大丈夫か?!」人混みを掻き分けて、スーが来てくれた。

「でかした、イザーク!後で何かしてやる!」

「悪党の考えることなんてお見通しよォ!」

あたしを抱えたまま、イザークはスーに褒められて威張っていた。

あたしたちの脇を抜けて、数人が路地に入って行った。

「ミア、何で一人で歩いてるんだよ?

連れて行かれたって聞いて心配したんだからな!すぐに見つかって良かった…

ルドは何処だ?」スーはルドが一緒にいると思ってたらしい。ルドの安否も気にしていた。

「ルドは御屋敷にいるよ。

お使いで外に出てたの…心配させてごめん…」

「ミアは可愛いんだ。今度からは誰か連れて歩けよ?」

「まー、ご馳走様だこと…

で?俺ちゃんどうするべき?このまま抱っこして帰る?」と居心地悪そうにイザークが主張した。

そう言われれば、この状態は気まずい…

「お前いつまでミアを抱いてんだ!早く下ろせよ!」とスーに理不尽にイザークを叱った。

「ええっ?酷くない?下心なんてないのにさぁ…

歩けそうにないから抱っこしただけなのにぃ…」

ブツブツとボヤきながら彼は私を地面に下ろした。

立とうとしたけど足に力が入らず、よろけてスーの腕に掴まった。不意に掴んだのに、スーは私をしっかり支えてくれた。

「…ごめん」

「いいよ。怖かったんだろ?」

彼はそっと抱き寄せて頭を撫でてくれた…

それで涙が滲んだ。

「…ごめん」

「いいよ」と応える声は硬かった。

彼の胸に身体を預けると汗と煙草の匂いがした。いい匂いでもないのに、それが妙に落ち着いた。

「誰か俺の馬を連れて来い!」と命令して、スーはあたしを馬の背に乗せた。

自分も馬の背に跨って、手網を握ると指示を出していた。

「ミアをロンメル邸に送ってくるから、クソ野郎は捕まえて広場に連れて来い。逃がしたらお仕置だからな」

「あいよ、ワンワン!」

イザークはふざけた返事を返して、私たちを見送った。

スーと一緒に馬の背に揺られながら、何か言わなきゃと思いつつも、何も言えずにいた。

「…ミア」不意にスーが口を開いた。

「裏で何された?」と訊ねる声には怒りが滲んでいた。

「ごめん…怒ってるよね?」と訊ねると、スーは憤慨して答えた。

「怒ってるよ!誰も君を守ってくれなかった!女の子が連れて行かれたのに、教えてくれたのはパン屋の店番の子供だけだ!どうなってんだよ!」

「だって、相手が悪いし…それに…」言いかけて止めた。

『仕方ないよ、元 《娼婦》だもん』なんて言ったら、スーは嫌かな…

「君が連れて行かれたって聞いて、俺がどんな気持ちになったと思う?

せっかく帰ってきたのに…

少しでもタイミングがズレてたらと思うとゾッとする…」

「ごめんね…」

「…もういいよ…後で何あったか話して」とだけ言って、スーはまた黙り込んだ。

彼にとって、残念な再会だっただろう…

でも、あたしだって、ちゃんと『おかえり』って言いたかったんだよ…

✩.*˚

ミアを屋敷に預けて、すぐに引き返した。

彼女だって傷ついてるのに、慰める事もまともにできなかった…

何やってんだよ!俺の馬鹿!

ワルターやエルマーなら、きっと相手を心配して、慰めようと努力したはずだ。俺にはそれができなかった…

やっぱりまだガキだな…

腹の中に煮えるような怒りを隠して、イザークたちに指示した広場に向かった。

広場の真ん中で《犬》たちが、獲物を晒していた。

「バシュって奴だ。

前から評判の悪い傭兵で有名だった奴だよ。

ウチのじゃねぇから、どっかの知らねえ奴が数合わせで雇ってたんだろうよ」と合流したディルクが言っていた。

縛り上げられた男はボロボロだった。《犬》たちが噛み付いたのだろう。

男は自分は悪くないと喚いていた。

「何だよ前ら!俺はあの女の《客》なんだよ!

売女を買って何が悪いってんだ?!」

開き直る男に反省の色は微塵もない。

「どうする?」と《犬》たちは俺の命令を求めた。どちらにせよ、許す気なんてない。
今ここで殺すか、ワルターに報告してから殺すかの二択しかない。

殺したい男の前に立った。

縛り上げられた男に蹴りを入れて、「俺の顔を見ろ」と顔を上げさせた。

「ミアに何した?自分の口で言ってみろ!」

いきなり現れた俺を見て、男は驚いていた。

「…何だよ、あいつ弟いたのか?」

「弟じゃねぇよ、旦那だ。ミアは俺の嫁だ」と答えると、男は馬鹿にするように笑った。

「旦那ねぇ…お綺麗なお坊ちゃまが商売女に入れ込んでんのか?あいつ、はそんなに具合が良いかよ?」

「…それはミアの事を言ってんのか?」

「他にいんのか?

イイなぁ、その顔なら女にも男にも苦労しねぇだろ?」

安っぽい挑発だ。それでもそれを流せるほど、俺は冷静じゃなかった。

剣にかけた手を別の手が止めた。

「…黙れよ」と低い声が不愉快な男を黙らせた。

狼の唸りにも似た声には、俺には真似出来ない凄味があった。

「お前、誰に喧嘩を売ったのか分かってないみたいだな。

《ロンメル男爵》と《燕の団》を敵に回して、平気だなんてイカれてんな」

「…は?何の話だ?

俺はあの女の《客》になっただけで…」

「ここの領主が誰だか知らなったのか?

なら教えてやるよ。ここの領主は《英雄》ロンメル男爵様だ。

さっきのメイドはロンメル男爵の所有だ。お前はお貴族様に喧嘩を売ったんだぜ。

しかも、彼女は、お前が軽口叩いた《燕の団》の副団長のご内儀だ。俺たちの《姐さん》なんだよ。

殺される理由は理解したか?」

ディルクの説明に、男の顔から一気に血の気が引いた。やっとこの状況を理解したのだろう。

「わ、悪かったよ!すまねぇ旦那!見逃してくれ!」

男は手のひらを返すように態度を改めた。

「あんた知らねぇかもしれないけどな、あの女は元々売春婦なんだよ!

俺は昔からのあの女の客なんだ!

だから、前みたいに声掛けたんだよ!

な?本当だよ!許してくれよ!」

「許すわけねぇだろ!テメェ舐めてんのか!」

みっともなく命乞いする男に、カイが怒鳴りつけた。

「胸糞悪ぃ野郎だ…

なあ、スー、やっちまおうぜ。ロンメルの旦那には後ででも構わねぇだろ?」と他の《犬》もこの男を処分するように勧めた。

俺としても、ミアが忘れようとしてた過去を引っ張り出して、彼女を苦しめた男を許す気はなかった。

この男を殺すのは簡単だ。でも、それだけじゃ、俺の腹の虫は収まらない。

「ただ殺すだけなんてつまらない」

「じゃあ、どうすんの?」

「後で決める。取り敢えず…」

ダガーを抜いてディルクに渡した。

「誰でもいいから、そいつの足の健を切らせておけ。絶対逃がすなよ?」

「はいはい…了解しましたよ」

「それが済んだら屋敷の地下室に放り込んでおけ。絶対に子供たちには見つかるなよ?

あと、そいつがミアに何をしてたか、見てる奴から話聞いてこい。駄賃くらいやる。」

そう言い残して、踵を返した。

後ろでまた、あの煩い男が叫んでいたが、ディルクたちに黙らされたようだ。

同情の余地なんてない。気分は最悪だ。

せっかく帰ってきたのに…

彼女との再会は、思い描いたものとはかけ離れていた…

✩.*˚

「これがLエルUウー…」

ルドはクレヨンで、ユリアに教えてもらった字を披露してくれた。

あたしが喜ぶと思って、頑張って書いた文字は歪んでいて、何かの虫みたいだ…

「ふふっ…すごいね、ルド」

可愛いおでこを撫でてあげると、ルドはくすぐったそうに笑った。

「ママ、元気になった?」

「うん、ありがとう。ママちょっと疲れてただけだよ。元気になったから」

「本当に?お熱あるの?」と小さな手が顔にペタペタと張り付いた。

「ルドの手の方が熱いよ」と笑った。

眠いのかな?

ぎゅっと抱き寄せると、小さな身体もポカポカと暖かくて、しっとりしていた。

「ママ、お仕事は?」

「シュミット様がお休みくれたの。だからルドと一緒にいるよ」

シュミット様もラウラ様もあたしの心配をしてくれた。

責任を感じて落ち込むラウラ様に申し訳ない気持ちになった…

私の方こそ悪いことに巻き込んでしまった…

『ミア。あとは私たちに任せて、今日は休みなさい。辛いようなら明日も休んでいい』と言ってくれたけれど、一人でぼぅっとしてる方が辛い。

それに人が足らないのに、こんな事で休んでいるのも気が引ける…

前まではこんなの日常だったんだもん…

今が幸せすぎて、忘れてただけだ…

だから…こんなの全然平気だ…

「ママ!」ルドが慌ててあたしを呼んだ。

ルドの垂れた目が、心配そうにあたしの顔を覗いて泣きそうな顔になる。

あたしの視界が滲んで、鼻がツンと痛むのと関係してるのかな…

「大変!」と騒ぎながら、ルドは慌てて部屋を飛び出して行った。あたしの声も届かない。

小さな足音が遠ざかって消える。

開けっ放しのドアは、跳ね返って勝手に閉まった。

バタン、と音を立てて、部屋は一人になった…

あの子、何しに行ったんだろう?皆の邪魔にならないといいけど…

一人になると途端に心細くなる。

気づかないうちに出来た手のひらの擦り傷や、乱暴に掴まれた痣が痛んだ。首を絞められた感覚も、まだ鮮明に残っている…

ルドが頑張って自分の名前を綴った紙を拾ってベッドに腰掛けた。

…大きくなったな…

もう次の春で4歳か…

そんな事を思いながら、ルドの名前をなぞった。

あたしは最低限の字しか分からない。

文章を読むのも作るのも苦手だ。必要なかったし、教えてくれる人もいなかった…

あの子に絵本を読んであげることだって満足にできない…

だから身体を売るしかなかったんだ…

悔しくて泣けてきた。

あたしがこんなんだから、あんなクズ野郎の言いなりになるしか無かったんだ。弱い自分が悪いんだ…

俯いたあたしの耳にノックの音が届いた。

「ミア…入るよ?」

「ママ!パパだよ!」スーの声に続いて、ルドの声がした。

慌てて涙を拭うと、あたしの返事を待たずにドアが開いた。

「ママ!これ!」とルドが差し出したのは涙を拭うには大きすぎる、身体を拭くためのリネンだ。

こんなに泣いてないよ、と思いながらも、ルドの前にしゃがんで、彼の大きすぎる優しさを受け取った。

ルドの小さい手がリネンの端を握って、あたしの顔に布を押し当てた。

「いい子いい子、ママはいい子だよ」

「ありがとう、ルド…ルドもいい子だね」

愛おしい、小さな身体を抱き寄せた。

「ルド、ママの事守ってくれてありがとうな」とスーがルドの頭を撫でた。

ルドは誇らしげに「うん!」と答えながら笑った。

スーは、ルドにリネンを返してくるように頼んで、部屋から送り出した。

「走らなくていいから、階段気を付けるんだよ?」と言い含めて、ルドが立ち去るのを確認して、スーはあたしのところに来た。

「こっち来て」とベッドにあたしを座らせて、スーは隣に座った。

「怪我は?あいつに殴られたりした?」

「ちょっと擦りむいて、痣が出来ただけ」

「見せて。治すから」と言って、スーは手を出した。

手のひらの擦り傷を見せると、彼は怒ったような顔で、傷に自分の手を翳した。

スーの魔法で、大したことの無い小さな傷はすぐに塞がった。

腕や首の痣も痛みさえ残さずに綺麗に消えた。

「ありがとう」とお礼を言うと、スーは目を合わせずに「ごめん」と謝った。

「さっきは俺も余裕なくて…優しく出来なくて悪かったよ…」

スーはさっきの事を気にしていたらしい。バツが悪そうに謝ってくれたけど、悪いのはあたしだ…

「ううん。あたしが悪いんだ…

助けてくれてありがとう」とお礼を言って、彼の手を握った。スーの顔が少し優しくなって、あたしの手を引いた。

優しいけど、しっかり支えてくれる強い腕に抱き締められる。

「嫁さん守るのは当たり前だろ?

俺にとって、君は本当に大事な人なんだ…」

優しい言葉が沁みる。

「うん」と頷きながら涙が滲んだ。

「悪いのはあの男だから…君は何も悪くないから…俺はそう思ってるから」

「…うん」

「君を悪く言う奴がいるなら、俺がそいつを黙らせるから、一人で苦しまないでよ。

君はもう《輜重隊にいたミア》じゃないんだ。

俺やワルターの事信じて。

俺たちがエルマーの代わりに、君とルドの事を守るよ」

「…うん…ありがとう」

「愛してるよ、ミア」

スーの声はいつもの優しい口調に戻っていた。

「キスしていい?今は嫌?」

「いいよ」と答えるとスーの顔が近付いて唇を重ねた。

唇が離れると、彼は「ただいま」と言った。

「おかえり」と応えて、今度は私からキスをした。

やっと夫婦らしく挨拶を交わしたところに、ルドが戻ってきた。

ルドはすごい勢いでドアを開けて、「返してきた!」と元気な声で任務の完了を宣言した。

苦笑いしながら、スーはルドに「おいで」と言って手を広げた。

パッと明るい顔を作った子供は、元気にスーの腕の中に飛び込んだ。

ルドも結構大きくなっている。勢いよくスーに飛びつくと、そのままの勢いで二人ともベッドに転がった。

本当の親子みたいにじゃれ合う二人は、私にも混ざるようにと招いた。

ベッドの上に、三人で転がって、嫌な事は全部忘れる事にした。

✩.*˚

戻って早々、嫌な話を聞かされた。

傭兵を解散させるとよくある話ではあるが、とんでもない馬鹿が居たもんだ…

「とりあえず、リューデル伯爵閣下の逗留中に厄介事はまずい。出立するまで待て」とスーを宥めて、気分の悪い話は保留にした。

俺は俺ですることがある。

これだけを楽しみに帰ってきたんだ!

「フィー!パパだぞー!」

「あー!パー!」とヨチヨチと歩くようになったフィーは、周りに捕まりながら俺のところに来ようとした。

「そうだ、パパだぞ!ほら!頑張れ!」

フィーは頑張って、自分の足で踏ん張りながら俺を目指して歩いた。

「おお!これは懐かしいな!」と降ってきた大きな声に驚いて、フィーの足が止まった。

大きな手が目の前でフィーを攫った。

「これは姪殿に似て器量良しだ!

この子にならお祖母様の名前を与えても文句ないな!」

「閣下…父親より先に抱いては、ロンメル男爵が不憫です」エアフルト卿に叱られて、固まったフィーを抱いたまま、伯爵は俺に視線を向けた。

「む?そうか?悪かったな、婿殿!」

「…いいえ」

「このくらいの子供を抱く機会はなかなか無くてな!」と伯爵はフィーを抱っこしてご満悦だ。

フィーも肝が座っていて、伯爵の服に付いたキラキラの装飾品に興味津々だ。

「あー!」と声を上げて、フィーは煌めく柘榴石ガーネットと金で出来たブローチを弄った。

「おお!そうか?それが気に入ったか?

髪留めに作り替えてプレゼントしてやろう!」

「閣下…子供にそれはちょっと…」と辞退しようとしたが、リューデル伯爵は逆に俺を叱った。

「何を言う?良いものに触れさせて、審美眼を養うのは貴族として当然のことだ!

これは教養として必要なものだ!

それにこの子は美人になる。見つけた宝石の原石を磨いて何が悪い?」とまだ幼い子供を甘やかした。

身内が可愛いのか、子供が好きなのか…

とにかく、伯爵はなかなかフィーを返してくれなかった。

俺のお楽しみが…

「申し訳ありません、ロンメル男爵…」とエアフルト卿が申し訳なさそうに俺に謝った。

「伯爵様には、滞在中だけでもフィリーネ嬢を甘やかさせて下さい。恐らくお嬢様方を思い出しているのでしょう」

「…まぁ、そういう事なら…」と譲ると、伯爵はご機嫌でフィーをあやしていた。

「連れて帰りたいくらいだ!」

「それはダメです!」親父の前で馬鹿言ってんじゃねぇぞ!連れ帰るなんて絶対無しだ!

「閣下。そんな事を言って男爵を不安がらせないで下さい。

アダリーシア様のお子様をお待ちください」

現実を突き付けられて、伯爵は少し鼻白んだ。

「ふむ…しかし、まだ先の話ではないか?

私はまだ《お爺様》になる気は…」

欲しいか欲しくないんかどっちなんだよ、あんたは…

んでもって、俺はいつになったらフィーを抱けるんだ?

なかなかフィーを手放さない伯爵に、エアフルト卿の方が痺れを切らした。

「いい加減親子の再会をさせておやりなさい」と伯爵を叱って、彼はフィーを伯爵から取り上げた。

「全く…父親の気持ちならお分かりになるでしょうに…」

ブツブツと文句を言いながら、彼はフィーを返してくれた。

「パー」フィーはまだ上手く喋れない舌で俺を呼んで、手を伸ばした。

あぁもう可愛いなぁ!たまんねぇなぁ!

自分がこんなに親バカになるとは思ってなかったが、なんたってテレーゼが産んだ子だ!可愛くないわけが無い!

「フィー、ただいま」

小さい身体からは赤ん坊独特の甘い匂いがする。

戻ってすぐに抱けなかった事なんてこの際どうでもいい!今、俺は最高に幸せだ!

どんだけ周りに引かれようが、冷たい視線を浴びようが知ったことか!

「テレーゼもいなくて寂しかったよな?ごめんな?

パパまたずっと一緒にいるよ。お散歩もご飯も遊ぶのもずっと一緒だからな!」

キャッキャと嬉しそうに笑う娘に、顔の筋肉がだらしなく緩んでしまう。

「…旦那様」とシュミットが進み出た。

「何だよ?文句あんのか?」

「いえ…その、申し上げにくいのですが…

侯爵閣下より、旦那様はブルームバルトに戻り次第、急ぎアインホーン城に参上するようにと言付けを受けております」

「は?」ナンダト…?

さっきまでの浮かれようが嘘みたいに消える。

「…急ぎ?」

「はい。なんでも、《新年会》の件でマナーを学ぶようにと…」

「《新年会》…」

そのワードだけでゲッソリくる…

何だよ!ちくしょうめ!

「何だ?では婿殿も私と一緒にシュタインシュタット行きだな」と何故かリューデル伯爵はご機嫌な様子だ。

「妾を用意する話はたち消えたが、酒を馳走する話ならまだ生きている。

アインホーン城で、私の領地から取り寄せた極上の《赤鷲》のワインを馳走してやろう!

兄上を含めて三人で楽しもうではないか?」

「…はあ…光栄です」

「喜べてないぞ、婿殿!

フィリーネ嬢も連れて行けば良いでは無いか?

兄上や義理姉上も喜ぶのではないか?」

「いや…でも…」

「まぁ、本音は私がフィリーネ嬢とお別れしたくないだけだがな!ハッハッハ!」

心の声がダダ漏れだ…

リューデル伯爵の補佐官は不機嫌そうな視線を伯爵に向けた。元々あった眉間の皺が深くなる。

「エアフルト、レディの前だぞ」と意地悪くリューデル伯爵が笑った。

フィーの視線に気付いて、顰めっ面を引っ込めて、エアフルト卿は咳払いをした。あんたも大変だな…

「冗談はさて置き…

閣下もこう申しておりますし、アダリーシア嬢もご挨拶のためにアインホーン城にお立ち寄りしているはずです。

何かあればすべての責任をリューデル伯爵が負いますので、ご安心してフィリーネ嬢をお連れください」

「うむ!良いぞ!

ついでにシュタインシュタットでフィリーネ嬢に買い物してやろう!」

甘やかす気満々じゃねぇか!

リューデル伯爵はかなりの資産家と聞いているが、それにしてもよその子相手に気前が良すぎるだろう?

「伯爵に、あんなに湯水のように金を使わせて大丈夫なんですか?」

気になったので、後でこっそりとエアフルト卿に確認した。

「あの方にとっては、むしろ水の方が貴重でしょうね…」とエアフルト卿は大真面目な顔で恐ろしいことを言っていた。

「閣下は領地の税収以外に、多数の事業や所有の鉱山からの収入がございます。

閣下にはお金を増やす天才的な才能がおありですので、多少羽目を外しても、お金に困ることはございません」

すまん、ケッテラー…

俺はお前をとんでもない家に婿に行かせてしまったらしい…

あいつの今後が心配だ…

「そういえば、ロンメル夫人の学校の件はいかが致しましょうか?

とりあえず、閣下より、大金貨二十枚を手配するように伺っております…」

「いっ?!」金額にビビった俺に、エアフルト卿は首を傾げた。

「足りませんか?なら、あと二十枚ほど追加するように…」

「ちょっと待って下さい!閣下はテレーゼにいくら渡すと約束したんです?!」

「《必要なだけ》とお約束されてました」

怖ぇっ!!いくらなんでも金銭感覚イカレすぎだろ?!

「ほ、保留で…」と言うのがやっとだ。

「テレーゼが戻ってから相談します…」

「左様ですか?まぁ、必要な額を申して頂ければご用意致します。

閣下はロンメル夫人がいなければ、あの河畔でお亡くなりになられていました。

お嬢様と仲直りも出来ず、孫を楽しみにすることも出来ず亡くなられては遺恨が残ります。

あの方にとって、本当に大切なものはお金では無いのです。

閣下は価値のあるものに、それ相応の価値をつけているだけです。それは、ロンメル男爵、あなた自身にもです。

遠慮は不要です」

真面目な男はそう言って一礼を残して、ユリアの案内で用意した部屋に向かった。

フィーは俺の腕の中で暇そうに服のボタンを弄っていた。

「散歩するか、フィー?」

「きゃう!」猿みたいな声を出して、喜ぶ娘に思わず笑みが溢れた。

本当にこの子は活発だな。そのうち昔のユリアみたいにお転婆になるんじゃないか?

ユリアは少しお姉さんになったから、もうスカートを捲って走り回ったり、木に登ったりしないもんな…

娘を抱いて中庭に出た。

もう日が落ち始めている。日が落ちるのも早くなった。

フィーと庭を散歩して、クローバーの畑に立ち寄った。

「ママがいないから、お前にやるよ」と見つけた四葉をフィーに与えた。フィーはすぐに四葉を口元に運ぼうとした。

「おいおい、食いもんじゃねぇよ」まだ早かったか?

「お前もいい女になったら、お前のためにこれを探して持ってくる男と一緒になれよ?」

高い贈り物で気を引く奴より、よっぽどいい男だろう?

葉っぱを口に持っていこうとするフィーの手から四葉を取り上げた。

中庭の散歩を済ませて、乳母にフィーを預けると、寝室に向かった。

四葉をテレーゼの鏡台に押し付けてこようと思った。

誰もいない寝室は静かだ…

鏡台に四葉を置いて、ベッドに視線を向けた。

「ん?」枕のことろに何かが置いてある。

手に取ってみると手紙だった。テレーゼの字だ。

何か言い残したことでもあったのだろうか?

手紙を手に取って、中身を確認した。

「ははっ」と笑いが洩れた。

手紙と一緒に出てきたのは押し花になった四葉だ。頑張って探したんだろう…

やるじゃねぇか、テレーゼ…

手紙にはシンプルに《おかえりなさい》とあった。

彼女の手紙に「ただいま」と応えた。
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