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停戦
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「今日はなんの日だ?」
イザークが対岸を眺めながら首を傾げた。
両軍、共に朝から矢の一本も飛んでいない。
いつもなら、岸の近くまで来て挑発する連中も居ない。
「オークランドは祝日か?王様の誕生日か何かかね?」
「フィーア側だって一切仕掛けてない。
何かあったのか?」
《犬》たちも首を傾げていた。
朝から本営が全軍に『命令があるまで待機』と厳命を下してから、河岸に張り付いて今に至る。
俺たち《燕の団》にも待機命令が下っていた。
暇を持て余していると、フリッツとブルーノがやって来た。
「よお、どうなってる?」とフリッツは単刀直入に訊ねた。
「何も…平和なもんだよ」
「奴さんら、総大将の葬式でもしてるのか?黙り込んでて気味が悪いぜ」
「へぇ、そうかい?俺たちは王様の誕生日かと思ってたよ」
「賭けるか?」
「いいね、面白いじゃん」暇を持て余してたからつまらない賭けまで始まった。
「まぁ、もう秋になるから、落とし所を探ってんだろ?もしかしたら場所を変える算段かもな」
フリッツはそう言って煙草を取り出すと咥えた。
彼はこの生活が長いから、そんな風に思ったのだろう。確かに、もう風はひと足早く秋の気配を漂わせていた。
「うちの奴らも、収穫時期だからソワソワし始めてるヤツらもいる。
長くは繋いでられねぇな…」
傭兵は都合が悪けりゃ抜ける奴もいるし、最初から、そう宣言してる奴らもいる。
《燕の団》にも、そういう奴らは少なからずいた。
引き止めるのも金がいる。
「ヨナタンの奴が『さっさと終わらせろ』ってうるせぇんだよ」とフリッツがボヤいて、相棒のハルバードを担ぎ直した。
「《雷神の拳》じゃ、団長よりヨナタンの方が偉いのかい?」
「金はあいつが握ってるからな…俺はお飾りだよ」
「まるで《恐妻》だね」と笑うと、フリッツも笑った。なんか彼の中でハマってしまったようだ。
「あぁ、そんな感じだな。
お前も尻に敷かれないように気を付けろよ?」
「私はトゥーマン殿が管理してくれてる方が安心ですよ。彼より優秀な経理はいません」とブルーノはヨナタンを褒めた。
《燕の団》では経理や調達は主にアーサーとカミルの仕事だ。彼らが纏めたものを、俺やトゥルンバルトが確認してサインするだけだ。
俺もまだまだ勉強しないとな…
「この戦が終わったら、一度ドライファッハに顔出すよ」
「そうか」
「ヨナタンには色々教えてもらわないと…
ゲルトやカミルにもいつまでも頼ってばかりじゃダメだし、俺もそのうちこの団を貰うから勉強しないとな…」
「…お前は」
不意に口を開いたフリッツだったが、すぐに周りを気にして、思い直したように言葉を飲み込んだ。
「何だよ、フリッツ?」
「いや…まぁ、頑張れよ。お前はまだ先があるからな」含むような言葉に、彼の言いたかったことが少し分かった気がした。
「邪魔したな」と立ち去るフリッツの背を見送った。
そうだよ…
俺は君たちよりずっと長く生きるから、いつかその時が来る…
君たちが居なくなった後も、俺はこの場所で生きるのだろう…
悲しい運命だが、それで守れるものもあるはずだ…
彼らの去った後を思うとやりきれないが、君たちが安心して眠ることができるなら、俺もそれでいいと思った。
✩.*˚
用意した手紙をシュミット様に渡した。
「お預かりします」
「よろしくお願いします」
手紙はテレーゼ様に宛てたものだ。
僕とは、もう会うことは無いだろう。本当は直接お礼を申し上げたかったが、それも難しい。
「ダニエル。本当にもう良いのか?」と、お兄様は心配そうに僕に確認してくれた。それでも僕の答えは決まっている。
「はい。父上がカナルで待っていますから」
笑顔で答えて、杖を手にした。
杖があれば一人で歩ける。アダムが付き合ってくれたから、歩くのも随分慣れた。
着替えなどの入った荷物を馬車に積み込み、お兄様の手を借りて僕も馬車に乗り込んだ。
「ダニエル様…」
メリッサとアダムが僕を見送りに来てくれた。
お母様にそっくりな女性は、若葉色の瞳を潤ませて、僕の手を握った。
「お身体をお大事になさってください。ダニエル様の事は忘れません。ずっと覚えてますから…
本当に…お幸せに…」
「ありがとう、メリッサ。
君もお兄様と幸せになって下さい」
笑顔で彼女の手を握り返すと、それが合図になったかのように、メリッサの目から涙が溢れた。
彼女は綺麗な顔をぐちゃぐちゃにして、子供みたいに泣いていた。
泣いてるメリッサにハンカチを差し出して、アダムは暁のような瞳に僕を映した。
「ダニエル様。貴方はとても強い方です。
胸を張って、自信を持って《フェルトン》と名乗ってください。
最後までお伴することが出来ず残念です。
どうぞご健勝で」
「アダム、君も元気で…
君がこのブルームバルトで、第二の人生を実りあるものにすることを願っています。
僕のもう一人の兄として、貴方を覚えておきます」
「光栄です、ダニエル様。
《ブルームバルトのアダム》として、ダニエル様の成功をお祈りしております。
あと、私の我儘を一つお聞き入れ下さい」
そう言ってアダムは首から提げた十字架を外して、僕の首にかけた。
「これを、ルフトゥキャピタルの大聖殿に届けて頂きたいのです。
私の資産は全て、養母であるシェリル・マクレイ様が受け取れるようにお取り計らい下さい」
「…でも、これは…」彼の大切な物のはずだ。
僕の言いたいことを汲んで、彼は微笑むと、僕の手を握って口を開いた。
「子供はいつか親から巣立つものです。
随分遅くなりましたが、私もあの方から巣立つことが出来ました。これはその決意の現れです。
私はもう《マクレイ》ではなく、《ブルームバルトのアダム》として、この土地に根付きます。
母をよろしくお願い致します」
「…分かりました。必ず、僕の足でお届けいたします」
「ありがとうございます」
アダムは僕の返事を聞いて堅い握手をくれた。
熱く強い彼の手から元気をもらった。
馬車の扉を閉める前に、シュミット兄弟が馬車に飛び込んできた。
「ダニエル!良かった、間に合った!」
兄のケヴィンが僕に何かを差し出した。包みを開けると、中から出てきたのは硝子で出来たペンだ。
「君はいつか自分で物語を書くって言ってただろう?
僕とユリアからプレゼントだよ」
「頑張ってねダニエル!」と兄妹は笑顔で僕の手を握った。
「僕はオークランドに帰るんだよ…」
「でも、友達だろ?」
「そうよ!忘れちゃダメだからね!」
兄妹は僕との別れを惜しんでくれた。
二人とも僕の世話をしたり、話し相手になってれた。
皮肉だな…僕の同輩で初めてできた友達が、敵国の子供たちだなんて…
「忘れないよ。ありがとう、ケヴィン、ユリア」最後にハグをして別れた。
二人は自分たちの両親の元に戻って行った。
シュミット家に見送られ、メリッサとアダムにも手を振って、お兄様と二人、馬車でカナルに向けて出発した。
走り出してすぐに、御者と会話するための窓が開いて、お兄様の声がした。
「大丈夫か、ダニエル?」
「大丈夫です」と応えた。
お兄様との兄弟みたいな会話ももうすぐ終わる…
僕は《人質》になった《フェルトン公子》として、お父様の待つオークランドに帰るのだ。
✩.*˚
「初めまして。
フェルトン伯爵公子ダニエルです」
杖をついたダニエルは、背筋を伸ばしてリューデル伯爵に挨拶した。
杖を握る手が震えていたが、泣き出したりせずに挨拶したのは立派だと褒めてやりたいと思う。
「足が不自由と聞いていたが?」とリューデル伯爵が訊ねた。
「《女神様》の奇跡に与りました。おかげで杖があれば歩けるようになりました」
ダニエルの比喩的な表現に、リューデル伯爵も「なるほど」と頷いた。
「私も《女神》から奇跡を賜った者だ。
危うく命を落とすところだったが、死にぞこなった。
同じ奇跡を享受した身として、フェルトン公子を丁重に扱うと約束する」
ダニエルの前に大きな手のひらが差し出される。ダニエルはその手に応えて小さな手のひらで握り返した。
ダニエルの対応に満足したのか、リューデル伯爵表情を和らげた。
「この子は私が預かる」と俺に告げ、部下にダニエルの荷物を預かるように命じた。
「フェルトン公子には世話係が必要です」
「それはこちらで手配する。
年端もいかぬ子供を拘束したり手荒に扱うことは無い。
彼は大事な人質でもある。
兄上からも、フェルトン公子を丁重に扱うようにと命じられている」
「大丈夫です、お兄様」とダニエルは自分の未来を受け入れていた。若い葉の色をした瞳は澄んだ光を灯していた。ダニエルの面差しには愛した女の面影を宿していた。
『ありがとう、アーサー』と彼女の声が過去から聞こえた。
腕を伸ばした。
ダニエルの小さな身体は、いとも容易く抱くことが出来た。
「…元気でな」と絞り出した言葉に、「お兄様も」とダニエルは応えた。細い少年の腕が俺を抱き返した。
「一緒に来たまえ、フェルトン公子」とリューデル伯爵が呼び掛けた。
呼ばれたのはダニエルだ…
俺が弟に押し付けた役だ…
そんな重い荷を負っても、ダニエルは顔を真っ直ぐに上げて「はい」と応えた。
俺の手から離れた弟は、杖を支えにリューデル伯爵の後に着いて自分の足で歩いて行った。
俺は、荷物持ちとしても、世話係としても、兄としても、もう必要ない。
弟の背を見送って踵を返した。
俺たちはもう交わることの無い人間だ。
望んだとおりに、弟は父の元に戻るのだ…
全部、望んだとおりになったのに、俺は何が不満なんだ?限りなくハッピーエンドに近い結果じゃないか?
この結果に心から喜べない俺なんかに、ダニエルの兄と名乗る資格などないだろう…
✩.*˚
『犬は好きか?』と訊ねると、足の不自由な少年は『好きです』と答えた。
ルークを見せると、フェルトン公子は嬉しそうに子犬と戯れていた。
本当に手のかからない子だ…
足のことがあるから、逃げるのは無理だとしても、我儘も言わないし、ごねたり、泣く様子もない。
男の子はこんなものだろうか?もっと手のかかるものだと思っていた。
「可愛いのですか?」と私の視線を追って、エアフルトが訊ねた。息子のない私にとって、男の子は新鮮な気がした。
「いや…男の子はもっと手のかかるものだと思っていた」
「彼は特に大人しいですよ」と言って、エアフルトは相変わらず感情の読み取れない顔でダニエル少年と犬を眺めていた。
「失礼致します」と声がして、テントに近侍が報せを持ってきた。彼は一瞬子供と犬に視線を向けたが、すぐに気を取り直して報せを届けた。
「ヴェルフェル侯爵閣下がカナルにご到着です」
「うむ」と頷いて席を立つと、フェルトン公子も杖を手にした。
「リューデル伯爵、僕もヴェルフェル侯爵にご挨拶してよろしいでしょうか?」
「すぐに戻るつもりだ。公子はここで待っているといい」
「ヴェルフェル侯爵はここで一番偉いお方です。歩けるようになったのに、僕が侯爵に挨拶に来させては無礼に当たります」
「ふむ、なるほどな」
「お許し頂けますか?」と少年は上目遣いで懇願した。
連れて歩くつもりはなかったが、思いのほかこの子を気に入っている私がいた…
「では、着いて来たまえ」と同行を許可した。
「エアフルト、介助してやれ」
「かしこまりました」
「ルーク。お前は私と一緒に来い」
エアフルトにフェルトン公子の世話を任せ、ルークを呼んだ。杖をついて歩くのに、犬がチョロチョロしては危ないだろう。
ルークは一声鳴いて命令に従った。
ルークは時々立ち止まっては、クルクルとその場で回りながら後ろを確認していた。
この子犬は、フェルトン公子を、私に拾われた仲間か何かと勘違いしているようだ。
足を止めて、待ってくれと言うように吠えた。
「足が遅くて申し訳ありません」と言いながら追いついた子供に、子犬が寄り添った。
一緒に歩けとでも言うのか?
子供の歩幅に合わせるのは苦労する。足が悪いなら尚更だ。
見上げる少年は他人の子だ。
それでも自分に息子がいたら、という思いが無くはなかった…
「すまんな、フェルトン公子。手を貸そうか?」
「大丈夫です。僕が自分から申し上げたのです。自分の足で歩きます」
彼は自分で言った通り、諦めずに自分の足で挨拶に向かった。
その健気な姿に、私の諦めかけていたものへの執着心が少しだけ疼いた。
出迎えを待っていた侯爵は、公子の姿を見て、待たされた理由に納得したようだ。
「息子でもできたのか?」と兄は子供を連れた私を茶化した。
「お久しぶりです、ヴェルフェル侯爵」
「やあ、公子。元気そうで何よりだ。
わざわざ出迎えに来てくれたのかね?」
兄は親しげにフェルトン公子と握手を交わした。
「公子には、しばらくカナルに滞在してもらう。不自由するだろうが、世話係の侍女も用意した。必要なものがあれば、私の弟のリューデル伯爵が用立てるだろう」
「リューデル伯爵には、既にお友達をご紹介頂きました」と公子は嬉しそうにルークに手を伸ばした。子犬は公子に応えて、彼の手を舐めた。
「それは良かった。
フェルトン公子に私から贈り物だ。気に入ってもらえると良いのだが…」
兄はそう言って近侍に荷物を運ぶように伝えた。
「着替えや靴を用意させた。
あと、公子は本が好きだと言っていたな。
滞在中にフィーアの文学に触れるのも良いかと思ってね。公用語のものを用意させた」
「ありがとうございます」と公子は幼い瞳を輝かせた。
「君の使うテントに運ばせる。
私は君にフィーアは良い国だと知ってもらいたいと思っている」
兄は幼い公子を、無害な相手にしようと洗脳していた。
寛大を装う侯爵は、オークランドの辺境伯に大きな貸しを作る算段だろう。
全く…腹の黒い兄だ…
幼い無垢な少年を利用しようとする兄に、僅かながら鼻白むような感情を覚えた。
兄は、公子に与えた仮住まいの様子を確認して、連れて来た侍女に公子の世話を任せた。
「なかなか可愛い少年だ。
大人しいし、聡い良い子ではないか?」
兄は機嫌良さそうに公子をそう評した。
「どうした?息子でも欲しくなったか?」と彼は私をからかった。
そんな顔をしていただろうか?
「ちょうど良いご婦人を紹介してやっても良いぞ」
「ご心配なく。必要なら自分で見繕います」
「まぁ、お前は社交界では人気者だからな」
「失礼な。社交界でなくとも引く手数多です。私のサロンの招待を心待ちにしている著名人は多いのですよ」
「それは商談の場か?
商売や領地の経営に熱心なのは良いが、もう少し色気があっても良いでは無いか?」
「私も一晩のお付き合いなら楽しんでいますがね。
ご婦人のお相手も良いですが、商売は楽しいですよ。
そういえば、またワインの季節になりますな。《赤鷲》のワインを売りさばく時期です」
リューデル伯爵領での収入源のひとつだ。甘く香りの高いワインは、氷室で寝かせて糖度を上げた葡萄を使用している。
遠方の貴族から注文が来るほど人気の品だ。
「我が家にも樽で送ってくれ」と兄は苦笑いして買い手として名乗りを上げた。
「コンラートにも送ってやりましょう」と笑った。
文句の多い弟も、あれを前にすると苦い顔をしながら舌鋒を引っ込めるのだ。
酒が彼の舌を鈍くさせるらしい。
「まぁ、次の戦まで少なくとも一年の猶予ある。気が変わったら、良い女性を紹介してやろう」と兄はしつこく再婚の話を蒸し返して、手紙を取り出した。
「アダリーシアから手紙を預かったぞ。
お前たちはまだ仲直りしてないのか?
もう何年経ったと思ってる?」
「我々には昨日のことなのですよ」と答えながら手紙を受け取った。
愛する母や姉を失った娘を、慰めに帰ることさえない酷い父親だ。
しかもなんの問題もなく、お互いに親密な仲だった婚約者との結婚も破棄させられた。
恨まれない方がおかしい。
娘に刺されないだけでも御の字だ。
受け取った手紙の要件はだいたい想像がつく。
アダリーの手紙は、宛名を《大嫌いなお父様へ》と意地悪く認め、終わりに《貴方を嫌うの娘より》と締めるのが定番になっていた。
小遣いの枠を超えるような、少々高い買い物をしたのだろう。
まぁ、それでも、娘との関係を繋ぎ止めていられるのなら安いものだ。
それに、散財を報告してくれるなら可愛いものだ。
今度は何を買ったのだ?
ドレスか?宝石か?欲しいと一言言えば用意してやるというのに…
苦笑いして、後でゆっくり楽しむために大切に懐にしまった。
✩.*˚
飛んできた石ころは、俺を守る《拒絶》の壁に阻まれて地面に落ちた。
「なんて顔だよ?」
石を投げた張本人は、軽い足取りで俺の隣に来て並んだ。
「石は危ないだろう?」と叱ると、菫色の瞳が悪戯っぽく笑った。
「お前には雷落としたって《挨拶》にもなるもんか」
「《俺が》じゃなくて《他の誰かが》だよ」と言うと彼は納得したように「あぁ」と手を打ち合わせた。
「弟は?」スーはダニエルの姿を探していた。反省はしないらしい。
「もうリューデル伯爵に届けたよ」
「あのひ弱なお坊ちゃんじゃ可哀想にな。今頃、あの声にビビって泣いてるんじゃないか?」
「残念ながら、あいつはお前や俺が思ってたよりずっとタフな奴だよ」
「へぇ?以外…
兄貴よりメンタル強いんだな」とスーは俺を茶化した。
間違いない、と黙って苦く笑った。
ダニエルは、自分の運命を受け入れて、俺の代わりに《フェルトン》を継いでくれる覚悟を決めた。
それなのに、俺はこの河原で不貞腐れている。
弟に人生を譲ってもらったくせに…なんて我儘な兄貴だ…
「で?自分より強い弟に、兄貴は腐っちまったのか?
お前の思いどおりになったんだろ?万々歳じゃないか?
それとも、今更手放すのが惜しくなったのか?」
「…そうかもな」
「欲張りだな…
お前には《アロガンティア》がお似合いだよ」とスーは意地悪く笑って煙草を取り出した。
「吸うか?」俺が吸わないの知っていて、スーは煙草を勧めた。
「…貰うよ」彼の差し出した煙草を受け取った。
「これキツイやつだからな。慣れてないと煙が目に染みるぞ」とスーは笑いながらそう言って火をくれた。
確かに煙草の煙は目に染みた。
「キツイな」と言いながら目頭を抑えた俺に、スーは「だろ?」と笑って俺の背を叩いた。
涙を煙草のせいにして、惨めな自分を誤魔化した…
✩.*˚
《責任を取るなら好きにするがいい》
試すような物言いだ…
私が、再び息子を抱きしめるための対価は、あまりにも大きかった。
国王陛下からの信頼を失い、辺境伯の地位を追われた私は、《フェルトン》の所領の四分の三を失った。
フィーアへの多額の身代金は、もちろん《フェルトン》の私財から出した。
事実上の没落と言っても良いだろう。
それでも、ダニエルを取り戻すことが出来れば、《フェルトン》が滅ぼされなかっただけでも運が良かったと喜ぶべきだ。
どちらにせよ、停戦に持ち込めた事は、陛下にとっても都合が良かったのだろう。
すべての責任を私に被せれば、彼の威光に傷がつくことはない。
オークランドから《停戦》を求めることは出来ないが、相手から求められたのであれば、体裁は保てる。
カナルの攻略に、一年の猶予が出来たのも、準備期間と思えば無駄にもならない。
あとは、新しい、信頼の置ける辺境伯を用意するだけの話だ…
「このような場所に、伯爵閣下自ら足を運ばすとも…」
「良いのだ、メイヤー子爵。
私でなければ息子の顔を確認することが出来ぬ」そう答えて、カナルの橋の傍らで息子の姿を待った。
急ぎ掻き集めた大金貨120枚は、ダニエルに比べれば価値のないものだ。
待ち合わせの時刻が近づいて、報せを持った伝令が報告に訪れた。
「閣下、こちらに近づいてくる一団があります。印は《一角獣》です」
「来たか…」
「閣下はこちらでお待ちください」とメイヤー子爵が引き止めたが、一刻も早く息子の無事を確認したかった。
「卿はダニエルを知らぬ。私が行く」
「ならば、お伴致します」とメイヤー子爵が随行を申し出たので黙ってそれを許した。
身代金を持たせた兵士らを連れて出ると、確かに、《一角獣》の旗を翳した一団と馬車がこちらに向かって来る姿が見えた。
ダニエルは無事か?
心が波立つ。落ち着いてなどいられ無かった…
双方の兵士たちに緊張が走る中、馬車から身なりの整った壮年の偉丈夫が降りてきた。
この交渉の場を預かる相手なのだろう。
彼は少年を抱いていた。同じく、馬車から降りてきた彼の従者らしき男は、大人が使うには短い杖と鞄を抱えていた。
「…ダニエル」
少し大きくなったように見えるのは錯覚だろう。
ダニエルは私の姿を見て、表情を緩めた。
「自分で歩きます」と抱えていた男に伝えると、男はゆっくりとダニエルを下ろした。
驚いた…
あの子が自分で歩くと言ったのだ。
杖を手に、支えを断ると、ダニエルは一歩ずつゆっくりと歩いた。
初めて歩く赤ん坊を見ているような気分だ。
よく見れば、そっぽを向くように内側に曲がっていた足は、やや曲がっていたものの前を向いていた…
それも目の錯覚だろうか?
奇跡でも見てるようだ…
『公子の足は腰の骨から歪んでおります。
無理に歩けば、痛みを覚えるでしょうし、右足が動きを邪魔して、左足も危うい状態です。
右足は切断したとしても、義足を着けるのも難しいかと…
とにかく、治療も難しく、歩くには奇跡が必要です』
雇った高名な医者はこの子を救えなかった…
治癒魔道士も、薬師も、少しでも名の売れた者たちを呼び寄せて、ダニエルを見せた。
痛みを伴う治療も、この子のためならと許したが、結局ダニエルを苦しめただけで終わった…
何故だ?なぜこの子は歩けるようになったのだ?
まさか偽者…?
そんな疑いが頭を過ぎった。
気が付けば、杖をつく少年は、私の目の前に立っていた…
少年は笑顔で顔を上げると、「お父様」と私を呼んだ。
このはにかむような笑顔も、幼くて愛らしい声も知っている…
この子はダニエルだ…
「見違えたかね?」とダニエルを連れて来た男が口を開いた。
驚いたことに、彼は自らを《ヴェルフェル侯爵》と名乗った。
驚いて言葉を失う私に、彼は親しげにダニエルの肩を抱いた。
「カナルの河畔で、私の娘のロンメル男爵夫人がこの子を保護した。
娘はこの子を気に入っていてね。可愛いし、聡い子だから手元に置きたがっていた。
足の治療はこの子のためでなく、娘のためにしたものだ。全く、我ながら余計なことをしたものだ…」
ヴェルフェル侯爵はそうボヤきながらも、機嫌が良さそうに見えた。
本当にそうなのだろうか?
ダニエルを攫った者たちは、ダニエルがフェルトン公子だと知った上で攫ったはずだ。それで逃げ切ったのだ。
白々しく《知らなかった》と装う侯爵はダニエルを守っているのだろう。
《身代金》もダニエルを返す口実か?
ダニエルの対価をフィーア側に確認させた。
確認が済むと、侯爵は部下に「あれの用意を」と、簡易的な机を用意させた。
「《停戦の合意》を書面にて確認してもらおう。
あと、《領収書》もお渡ししよう」と彼は書類を三枚出して机に並べた。
ペンを用意して、内容を確信し、《停戦合意》の署名を二枚にお互いに署名した。
《領収書》はダニエルと身代金を交換した内容が記され、ヴェルフェル侯爵の署名があった。
「フェルトン公子の荷物も持って帰りたまえ。色々と、土産もあるものでね」
「不要だ」
「そう言うな、フェルトン伯爵。
卿の欲しているものが、その中にあるかもしれないぞ」と侯爵は低く笑いながら手を差し出した。彼は握手を求めていた。
「私はオークランドに忠誠を誓った者だ」と差し出された手を拒否した。
「握手くらい良いだろう?」とヴェルフェル侯爵はさらに握手を求めた。
ダニエルも「良いではありませんか?」と私に彼との握手を勧めた。
相手はなかなか手を引っ込めないので、仕方なく、手の届く距離に近づいて彼の手を握った。
「息子の手紙はダニエルの荷物の中にある。捨てるなよ?」
手を握った侯爵は、私に聞こえる程度の小声でそう囁いた。
《息子》とは《ダニエル》のことではないらしい。その《息子》が誰かを訊ねる事は出来なかった。ただ、渡された荷物を捨てるのだけは思い留まった。
侯爵は握手を済ませると、もう用はないとばかりに踵を返した。
私ももうここには用はない。
「帰ろう、ダニエル」と息子を抱き寄せた。
抱きあげようとすると、ダニエルはそれを拒んだ。
「自分で歩けます」
「しかし…」
「お父様と一緒に歩きます。遅いですが、ご辛抱ください」
ダニエルは少し見ない間に、成長していた。
違うな…
自分で歩けるようになって背筋が伸びたのだ。顔つきも、自信の無い不安そうな表情から、明るい子供らしいものに変わっていた。
二人でゆっくり歩いて、用意していた馬車に乗り込んだ。
「お父様、お話があります」と向かい合って座ったダニエルは口を開いた。若葉のような緑の瞳が私を真っ直ぐに見詰めていた。
「僕はこの身体で、貧弱で頼りない子供です。お兄様とは比べ物にならないような残念な息子です。
こんな僕ですが、僕は《フェルトン》を継ぐつもりです。お許し頂けますか?」
「いや…でももう《フェルトン》は…」
《フェルトン》は没落する未来しか残されていない。
私の代で終わらせるつもりでいた。
「お兄様と約束しました。
お兄様は僕に、《フェルトン》と《お父様》を託されました。僕は引き受けると約束しました。
《フェルトン》はまだ終わってはいません。僕が終わらせません」
「…ダニエル」
あの守られるだけだと思っていた子供の姿はもう無かった。
子供とは成長するのだな…
前に進めなくなった私の代わりに、この子は未来に進もうとしていた。
「《フェルトン》の未来は暗い。辛い道になるぞ」
私の警告にも関わらず、ダニエルの意志は固かった。
「確かにそうかもしれません。それでも、僕は今まで甘えていた分、お父様にお返し致します」
明るい緑の瞳は揺るがなかった。
老いた私の目にはそれが眩しく映った。
仕方ないな…と、私の息子への甘い部分が首を縦に振るように促した。
「分かった、ダニエル。
お前は《フェルトン》だ。お前の望む未来を描くが良い」
願いを聞き届けられた子供は「ありがとうございます」と笑顔を見せた。
その笑顔に、重かった肩の荷が降りたような気がした…
✩.*˚
《第一カナル運河戦役》はフィーア・オークランドの双方での停戦にて合意。上流・下流共に痛み分けという結果に終わった。
この戦での責任を取って、下流の総指揮官だったフェルトン伯爵は《東部辺境伯》の役職を返上する事となり、広大な領土と権限を失った。
この戦で攻めの姿勢を貫き、自ら兵を率いて《騎行作戦》を主導し、フィーア側に多大な損害を与えたとして、メイヤー子爵がフェルトン伯爵の後任として《東部辺境伯》の役職に任じられる事となる。
彼はこの後も《メイヤー伯爵》としてカナルで戦い続ける事となる。
フェルトン伯爵は、没落を示すように、脆弱な子供を自らの後継に選んだ。
幼く、足の不自由な、弱々しい子供だったことが幸いし、オークランド国王はその人選を見逃した。
フェルトン伯爵に手を下さずとも、この家は失われるだろうと思っていたのだろう。
だが、その期待は裏切られることになる。
ダニエル・フェルトンは、一時は没落した伯爵家を立て直し、剣ではなくペンで功績を上げた。
ワイズマン侯爵に文官として見出され、その能力を遺憾無く発揮した。
彼は愛される才能の持ち主で、多くの文人と知り合い、文学にも大きな影響を与えた。
彼の代表作 《とある公子の手記》はベストセラーになり、オークランドを代表する文学作品として名を連ねた。
その物語がどうやって生まれたのかを訊ねられた時、フェルトン伯爵になったダニエルは笑顔でこう語ったという。
『これはフィクションですが、限りなくノンフィクションに近いフィクションなのです。
私にとって、特別な人たちの物語です』
彼はそれ以上語ることはなかった。
きっと彼も知らなかっただろう…
この物語が、カナルの向こうに渡り、それを手に取った男が苦く笑った事を…
『酷い物語だ』と酷評した男の傍らで、若葉色の瞳の妻が、『でも、ハッピーエンドです』と笑顔を咲かせた事も、知ることはないのだろう…
✩.*˚
木枯らしの吹く頃に、来訪者があった。
「シェリル様。お客人は《フェルトン公子》と名乗っておいでです」と若い修道女が取り次いだ。
孤児院の礼拝堂で待っていた少年は、まだ若いのに、身体を支えるための杖を手にしていた。
「公子様。お待たせしてしまい申し訳ありません」
「いいえ。僕がお知らせもせずに、勝手に来たのです。失礼を謝るのは僕の方です」と少年は柔らかく応えた。
彼は《ダニエル・フェルトン公子》と名乗った。
「カナルの地で、貴女の息子からこれを預かって参りました」とフェルトン公子は、絹のハンカチに包まれたルフトゥ神の十字架を取り出した。
見覚えのある、古い十字架に目を奪われた。
「あぁ…」と声が漏れて泣き崩れてしまった。
アダム…貴方はまだこれを持っていたの?
私は貴方を手放してしまったのに…
十字架を見て、泣き崩れてしまった私に、膝を折った公子は優しく語りかけた。
「私の友人の《アダム・マクレイ卿》より、彼の全財産を全て《お母様》に相続させるようにと伝言を受けました。
遺族年金の手続きと、彼の財産の相続手続きは既に完了しております。
どうぞお受け取りください」
少年はそう言って取り出した手紙を私に握らせた。
「これは証書です。アダムの部屋にも、自分が死んだ後の遺書が残されていました。
どうぞ、彼の最後の願いをお受け取りください」
「私は…母だなんて…」と首を振った。
自慢の息子だった。本当によくできた子…
自分より他人の幸せを願える優しい子だった…
他の子供たちを守るために、私はあの子を手放すしか無かった。
笑顔で『大丈夫です』と去ったアダムの手を放した事をずっと悔やんでいた。
年に二度、私の孤児院に届く匿名の寄付は貴方だったのでしょう?
受け取った手紙と、懐かしい十字架を握って泣いた。
優しく寄り添う公子様は、私が手放した少年に似ていた。姿は違うけれど、優しさは酷似していた。
私が落ち着くのを待って、彼はゆっくりと口を開いた。
「シェリル様。僕はアダムから貴女を任されました。困ったことがあれば、僕に頼ってください。それが僕の友、アダムとの約束です」
「ありがとうございます、公子様…」
「シェリル様、僕のお願いを一つ聞いて下さい」と愛らしい笑顔を見せて、公子様は私の《息子》になりたいと言ってくださった。
「僕には母と呼べる人がいません。ですから、シェリル様を《お母様》と呼ばせてください」
「素敵なお申し出ありがとうございます。
でも、私なんかでよろしいのですか?」
「シェリル様がいいのです。
僕はアダムの弟になれるのですから」
幼い公子様は笑顔でハグを求めた。
手を伸ばして、新しい《息子》を抱き締めた。
アダムが帰ってきてくれたような、そんな懐かしい気持ちになった。
裏の畑で、アダムと交わした懐かしい会話を思い出していた。
『シェリル様!人参の芽が出ましたよ!』キラキラした夕日色の瞳の少年は私の手を引いて畑に向かった。
ガリガリに痩せて、教会の裏に捨てられていた少年は元気になると、すぐ私の畑を手伝ってくれた。
子犬のように着いて回る少年を、可愛く思っている自分がいた。
『あら、本当に』可愛い双葉が土から顔を出していた。
『芋と大豆も大きくなりましたよ!』
『うふふ、楽しみね、アダム』と頭を撫でると、彼は信心深く、『ルフトゥ神のお恵みです』と答えた。
『良いことですね、アダム。でも、まだ無理は良くないですよ』
『無理してません!』と答えた少年は、甘えるように、握った手に擦り寄った。
『シェリル様と一緒に居られる、この畑が大好きです。喜んで欲しいから、たくさんお世話します!仕事だって何でもします!
だから…』そう言って、アダムはささやかなお願いを口にした。
そのお願いが可愛らしくて『いいわよ』と即答した。
だって、私もそのつもりだったから…
二人で抱き合って、家族になる約束をした。
『僕を、シェリル様の子供にしてください!』
あの日からずっと、貴方は私の自慢の息子なのよ…
昔も今もこれからも…ずっと、貴方は自慢の息子よ…
イザークが対岸を眺めながら首を傾げた。
両軍、共に朝から矢の一本も飛んでいない。
いつもなら、岸の近くまで来て挑発する連中も居ない。
「オークランドは祝日か?王様の誕生日か何かかね?」
「フィーア側だって一切仕掛けてない。
何かあったのか?」
《犬》たちも首を傾げていた。
朝から本営が全軍に『命令があるまで待機』と厳命を下してから、河岸に張り付いて今に至る。
俺たち《燕の団》にも待機命令が下っていた。
暇を持て余していると、フリッツとブルーノがやって来た。
「よお、どうなってる?」とフリッツは単刀直入に訊ねた。
「何も…平和なもんだよ」
「奴さんら、総大将の葬式でもしてるのか?黙り込んでて気味が悪いぜ」
「へぇ、そうかい?俺たちは王様の誕生日かと思ってたよ」
「賭けるか?」
「いいね、面白いじゃん」暇を持て余してたからつまらない賭けまで始まった。
「まぁ、もう秋になるから、落とし所を探ってんだろ?もしかしたら場所を変える算段かもな」
フリッツはそう言って煙草を取り出すと咥えた。
彼はこの生活が長いから、そんな風に思ったのだろう。確かに、もう風はひと足早く秋の気配を漂わせていた。
「うちの奴らも、収穫時期だからソワソワし始めてるヤツらもいる。
長くは繋いでられねぇな…」
傭兵は都合が悪けりゃ抜ける奴もいるし、最初から、そう宣言してる奴らもいる。
《燕の団》にも、そういう奴らは少なからずいた。
引き止めるのも金がいる。
「ヨナタンの奴が『さっさと終わらせろ』ってうるせぇんだよ」とフリッツがボヤいて、相棒のハルバードを担ぎ直した。
「《雷神の拳》じゃ、団長よりヨナタンの方が偉いのかい?」
「金はあいつが握ってるからな…俺はお飾りだよ」
「まるで《恐妻》だね」と笑うと、フリッツも笑った。なんか彼の中でハマってしまったようだ。
「あぁ、そんな感じだな。
お前も尻に敷かれないように気を付けろよ?」
「私はトゥーマン殿が管理してくれてる方が安心ですよ。彼より優秀な経理はいません」とブルーノはヨナタンを褒めた。
《燕の団》では経理や調達は主にアーサーとカミルの仕事だ。彼らが纏めたものを、俺やトゥルンバルトが確認してサインするだけだ。
俺もまだまだ勉強しないとな…
「この戦が終わったら、一度ドライファッハに顔出すよ」
「そうか」
「ヨナタンには色々教えてもらわないと…
ゲルトやカミルにもいつまでも頼ってばかりじゃダメだし、俺もそのうちこの団を貰うから勉強しないとな…」
「…お前は」
不意に口を開いたフリッツだったが、すぐに周りを気にして、思い直したように言葉を飲み込んだ。
「何だよ、フリッツ?」
「いや…まぁ、頑張れよ。お前はまだ先があるからな」含むような言葉に、彼の言いたかったことが少し分かった気がした。
「邪魔したな」と立ち去るフリッツの背を見送った。
そうだよ…
俺は君たちよりずっと長く生きるから、いつかその時が来る…
君たちが居なくなった後も、俺はこの場所で生きるのだろう…
悲しい運命だが、それで守れるものもあるはずだ…
彼らの去った後を思うとやりきれないが、君たちが安心して眠ることができるなら、俺もそれでいいと思った。
✩.*˚
用意した手紙をシュミット様に渡した。
「お預かりします」
「よろしくお願いします」
手紙はテレーゼ様に宛てたものだ。
僕とは、もう会うことは無いだろう。本当は直接お礼を申し上げたかったが、それも難しい。
「ダニエル。本当にもう良いのか?」と、お兄様は心配そうに僕に確認してくれた。それでも僕の答えは決まっている。
「はい。父上がカナルで待っていますから」
笑顔で答えて、杖を手にした。
杖があれば一人で歩ける。アダムが付き合ってくれたから、歩くのも随分慣れた。
着替えなどの入った荷物を馬車に積み込み、お兄様の手を借りて僕も馬車に乗り込んだ。
「ダニエル様…」
メリッサとアダムが僕を見送りに来てくれた。
お母様にそっくりな女性は、若葉色の瞳を潤ませて、僕の手を握った。
「お身体をお大事になさってください。ダニエル様の事は忘れません。ずっと覚えてますから…
本当に…お幸せに…」
「ありがとう、メリッサ。
君もお兄様と幸せになって下さい」
笑顔で彼女の手を握り返すと、それが合図になったかのように、メリッサの目から涙が溢れた。
彼女は綺麗な顔をぐちゃぐちゃにして、子供みたいに泣いていた。
泣いてるメリッサにハンカチを差し出して、アダムは暁のような瞳に僕を映した。
「ダニエル様。貴方はとても強い方です。
胸を張って、自信を持って《フェルトン》と名乗ってください。
最後までお伴することが出来ず残念です。
どうぞご健勝で」
「アダム、君も元気で…
君がこのブルームバルトで、第二の人生を実りあるものにすることを願っています。
僕のもう一人の兄として、貴方を覚えておきます」
「光栄です、ダニエル様。
《ブルームバルトのアダム》として、ダニエル様の成功をお祈りしております。
あと、私の我儘を一つお聞き入れ下さい」
そう言ってアダムは首から提げた十字架を外して、僕の首にかけた。
「これを、ルフトゥキャピタルの大聖殿に届けて頂きたいのです。
私の資産は全て、養母であるシェリル・マクレイ様が受け取れるようにお取り計らい下さい」
「…でも、これは…」彼の大切な物のはずだ。
僕の言いたいことを汲んで、彼は微笑むと、僕の手を握って口を開いた。
「子供はいつか親から巣立つものです。
随分遅くなりましたが、私もあの方から巣立つことが出来ました。これはその決意の現れです。
私はもう《マクレイ》ではなく、《ブルームバルトのアダム》として、この土地に根付きます。
母をよろしくお願い致します」
「…分かりました。必ず、僕の足でお届けいたします」
「ありがとうございます」
アダムは僕の返事を聞いて堅い握手をくれた。
熱く強い彼の手から元気をもらった。
馬車の扉を閉める前に、シュミット兄弟が馬車に飛び込んできた。
「ダニエル!良かった、間に合った!」
兄のケヴィンが僕に何かを差し出した。包みを開けると、中から出てきたのは硝子で出来たペンだ。
「君はいつか自分で物語を書くって言ってただろう?
僕とユリアからプレゼントだよ」
「頑張ってねダニエル!」と兄妹は笑顔で僕の手を握った。
「僕はオークランドに帰るんだよ…」
「でも、友達だろ?」
「そうよ!忘れちゃダメだからね!」
兄妹は僕との別れを惜しんでくれた。
二人とも僕の世話をしたり、話し相手になってれた。
皮肉だな…僕の同輩で初めてできた友達が、敵国の子供たちだなんて…
「忘れないよ。ありがとう、ケヴィン、ユリア」最後にハグをして別れた。
二人は自分たちの両親の元に戻って行った。
シュミット家に見送られ、メリッサとアダムにも手を振って、お兄様と二人、馬車でカナルに向けて出発した。
走り出してすぐに、御者と会話するための窓が開いて、お兄様の声がした。
「大丈夫か、ダニエル?」
「大丈夫です」と応えた。
お兄様との兄弟みたいな会話ももうすぐ終わる…
僕は《人質》になった《フェルトン公子》として、お父様の待つオークランドに帰るのだ。
✩.*˚
「初めまして。
フェルトン伯爵公子ダニエルです」
杖をついたダニエルは、背筋を伸ばしてリューデル伯爵に挨拶した。
杖を握る手が震えていたが、泣き出したりせずに挨拶したのは立派だと褒めてやりたいと思う。
「足が不自由と聞いていたが?」とリューデル伯爵が訊ねた。
「《女神様》の奇跡に与りました。おかげで杖があれば歩けるようになりました」
ダニエルの比喩的な表現に、リューデル伯爵も「なるほど」と頷いた。
「私も《女神》から奇跡を賜った者だ。
危うく命を落とすところだったが、死にぞこなった。
同じ奇跡を享受した身として、フェルトン公子を丁重に扱うと約束する」
ダニエルの前に大きな手のひらが差し出される。ダニエルはその手に応えて小さな手のひらで握り返した。
ダニエルの対応に満足したのか、リューデル伯爵表情を和らげた。
「この子は私が預かる」と俺に告げ、部下にダニエルの荷物を預かるように命じた。
「フェルトン公子には世話係が必要です」
「それはこちらで手配する。
年端もいかぬ子供を拘束したり手荒に扱うことは無い。
彼は大事な人質でもある。
兄上からも、フェルトン公子を丁重に扱うようにと命じられている」
「大丈夫です、お兄様」とダニエルは自分の未来を受け入れていた。若い葉の色をした瞳は澄んだ光を灯していた。ダニエルの面差しには愛した女の面影を宿していた。
『ありがとう、アーサー』と彼女の声が過去から聞こえた。
腕を伸ばした。
ダニエルの小さな身体は、いとも容易く抱くことが出来た。
「…元気でな」と絞り出した言葉に、「お兄様も」とダニエルは応えた。細い少年の腕が俺を抱き返した。
「一緒に来たまえ、フェルトン公子」とリューデル伯爵が呼び掛けた。
呼ばれたのはダニエルだ…
俺が弟に押し付けた役だ…
そんな重い荷を負っても、ダニエルは顔を真っ直ぐに上げて「はい」と応えた。
俺の手から離れた弟は、杖を支えにリューデル伯爵の後に着いて自分の足で歩いて行った。
俺は、荷物持ちとしても、世話係としても、兄としても、もう必要ない。
弟の背を見送って踵を返した。
俺たちはもう交わることの無い人間だ。
望んだとおりに、弟は父の元に戻るのだ…
全部、望んだとおりになったのに、俺は何が不満なんだ?限りなくハッピーエンドに近い結果じゃないか?
この結果に心から喜べない俺なんかに、ダニエルの兄と名乗る資格などないだろう…
✩.*˚
『犬は好きか?』と訊ねると、足の不自由な少年は『好きです』と答えた。
ルークを見せると、フェルトン公子は嬉しそうに子犬と戯れていた。
本当に手のかからない子だ…
足のことがあるから、逃げるのは無理だとしても、我儘も言わないし、ごねたり、泣く様子もない。
男の子はこんなものだろうか?もっと手のかかるものだと思っていた。
「可愛いのですか?」と私の視線を追って、エアフルトが訊ねた。息子のない私にとって、男の子は新鮮な気がした。
「いや…男の子はもっと手のかかるものだと思っていた」
「彼は特に大人しいですよ」と言って、エアフルトは相変わらず感情の読み取れない顔でダニエル少年と犬を眺めていた。
「失礼致します」と声がして、テントに近侍が報せを持ってきた。彼は一瞬子供と犬に視線を向けたが、すぐに気を取り直して報せを届けた。
「ヴェルフェル侯爵閣下がカナルにご到着です」
「うむ」と頷いて席を立つと、フェルトン公子も杖を手にした。
「リューデル伯爵、僕もヴェルフェル侯爵にご挨拶してよろしいでしょうか?」
「すぐに戻るつもりだ。公子はここで待っているといい」
「ヴェルフェル侯爵はここで一番偉いお方です。歩けるようになったのに、僕が侯爵に挨拶に来させては無礼に当たります」
「ふむ、なるほどな」
「お許し頂けますか?」と少年は上目遣いで懇願した。
連れて歩くつもりはなかったが、思いのほかこの子を気に入っている私がいた…
「では、着いて来たまえ」と同行を許可した。
「エアフルト、介助してやれ」
「かしこまりました」
「ルーク。お前は私と一緒に来い」
エアフルトにフェルトン公子の世話を任せ、ルークを呼んだ。杖をついて歩くのに、犬がチョロチョロしては危ないだろう。
ルークは一声鳴いて命令に従った。
ルークは時々立ち止まっては、クルクルとその場で回りながら後ろを確認していた。
この子犬は、フェルトン公子を、私に拾われた仲間か何かと勘違いしているようだ。
足を止めて、待ってくれと言うように吠えた。
「足が遅くて申し訳ありません」と言いながら追いついた子供に、子犬が寄り添った。
一緒に歩けとでも言うのか?
子供の歩幅に合わせるのは苦労する。足が悪いなら尚更だ。
見上げる少年は他人の子だ。
それでも自分に息子がいたら、という思いが無くはなかった…
「すまんな、フェルトン公子。手を貸そうか?」
「大丈夫です。僕が自分から申し上げたのです。自分の足で歩きます」
彼は自分で言った通り、諦めずに自分の足で挨拶に向かった。
その健気な姿に、私の諦めかけていたものへの執着心が少しだけ疼いた。
出迎えを待っていた侯爵は、公子の姿を見て、待たされた理由に納得したようだ。
「息子でもできたのか?」と兄は子供を連れた私を茶化した。
「お久しぶりです、ヴェルフェル侯爵」
「やあ、公子。元気そうで何よりだ。
わざわざ出迎えに来てくれたのかね?」
兄は親しげにフェルトン公子と握手を交わした。
「公子には、しばらくカナルに滞在してもらう。不自由するだろうが、世話係の侍女も用意した。必要なものがあれば、私の弟のリューデル伯爵が用立てるだろう」
「リューデル伯爵には、既にお友達をご紹介頂きました」と公子は嬉しそうにルークに手を伸ばした。子犬は公子に応えて、彼の手を舐めた。
「それは良かった。
フェルトン公子に私から贈り物だ。気に入ってもらえると良いのだが…」
兄はそう言って近侍に荷物を運ぶように伝えた。
「着替えや靴を用意させた。
あと、公子は本が好きだと言っていたな。
滞在中にフィーアの文学に触れるのも良いかと思ってね。公用語のものを用意させた」
「ありがとうございます」と公子は幼い瞳を輝かせた。
「君の使うテントに運ばせる。
私は君にフィーアは良い国だと知ってもらいたいと思っている」
兄は幼い公子を、無害な相手にしようと洗脳していた。
寛大を装う侯爵は、オークランドの辺境伯に大きな貸しを作る算段だろう。
全く…腹の黒い兄だ…
幼い無垢な少年を利用しようとする兄に、僅かながら鼻白むような感情を覚えた。
兄は、公子に与えた仮住まいの様子を確認して、連れて来た侍女に公子の世話を任せた。
「なかなか可愛い少年だ。
大人しいし、聡い良い子ではないか?」
兄は機嫌良さそうに公子をそう評した。
「どうした?息子でも欲しくなったか?」と彼は私をからかった。
そんな顔をしていただろうか?
「ちょうど良いご婦人を紹介してやっても良いぞ」
「ご心配なく。必要なら自分で見繕います」
「まぁ、お前は社交界では人気者だからな」
「失礼な。社交界でなくとも引く手数多です。私のサロンの招待を心待ちにしている著名人は多いのですよ」
「それは商談の場か?
商売や領地の経営に熱心なのは良いが、もう少し色気があっても良いでは無いか?」
「私も一晩のお付き合いなら楽しんでいますがね。
ご婦人のお相手も良いですが、商売は楽しいですよ。
そういえば、またワインの季節になりますな。《赤鷲》のワインを売りさばく時期です」
リューデル伯爵領での収入源のひとつだ。甘く香りの高いワインは、氷室で寝かせて糖度を上げた葡萄を使用している。
遠方の貴族から注文が来るほど人気の品だ。
「我が家にも樽で送ってくれ」と兄は苦笑いして買い手として名乗りを上げた。
「コンラートにも送ってやりましょう」と笑った。
文句の多い弟も、あれを前にすると苦い顔をしながら舌鋒を引っ込めるのだ。
酒が彼の舌を鈍くさせるらしい。
「まぁ、次の戦まで少なくとも一年の猶予ある。気が変わったら、良い女性を紹介してやろう」と兄はしつこく再婚の話を蒸し返して、手紙を取り出した。
「アダリーシアから手紙を預かったぞ。
お前たちはまだ仲直りしてないのか?
もう何年経ったと思ってる?」
「我々には昨日のことなのですよ」と答えながら手紙を受け取った。
愛する母や姉を失った娘を、慰めに帰ることさえない酷い父親だ。
しかもなんの問題もなく、お互いに親密な仲だった婚約者との結婚も破棄させられた。
恨まれない方がおかしい。
娘に刺されないだけでも御の字だ。
受け取った手紙の要件はだいたい想像がつく。
アダリーの手紙は、宛名を《大嫌いなお父様へ》と意地悪く認め、終わりに《貴方を嫌うの娘より》と締めるのが定番になっていた。
小遣いの枠を超えるような、少々高い買い物をしたのだろう。
まぁ、それでも、娘との関係を繋ぎ止めていられるのなら安いものだ。
それに、散財を報告してくれるなら可愛いものだ。
今度は何を買ったのだ?
ドレスか?宝石か?欲しいと一言言えば用意してやるというのに…
苦笑いして、後でゆっくり楽しむために大切に懐にしまった。
✩.*˚
飛んできた石ころは、俺を守る《拒絶》の壁に阻まれて地面に落ちた。
「なんて顔だよ?」
石を投げた張本人は、軽い足取りで俺の隣に来て並んだ。
「石は危ないだろう?」と叱ると、菫色の瞳が悪戯っぽく笑った。
「お前には雷落としたって《挨拶》にもなるもんか」
「《俺が》じゃなくて《他の誰かが》だよ」と言うと彼は納得したように「あぁ」と手を打ち合わせた。
「弟は?」スーはダニエルの姿を探していた。反省はしないらしい。
「もうリューデル伯爵に届けたよ」
「あのひ弱なお坊ちゃんじゃ可哀想にな。今頃、あの声にビビって泣いてるんじゃないか?」
「残念ながら、あいつはお前や俺が思ってたよりずっとタフな奴だよ」
「へぇ?以外…
兄貴よりメンタル強いんだな」とスーは俺を茶化した。
間違いない、と黙って苦く笑った。
ダニエルは、自分の運命を受け入れて、俺の代わりに《フェルトン》を継いでくれる覚悟を決めた。
それなのに、俺はこの河原で不貞腐れている。
弟に人生を譲ってもらったくせに…なんて我儘な兄貴だ…
「で?自分より強い弟に、兄貴は腐っちまったのか?
お前の思いどおりになったんだろ?万々歳じゃないか?
それとも、今更手放すのが惜しくなったのか?」
「…そうかもな」
「欲張りだな…
お前には《アロガンティア》がお似合いだよ」とスーは意地悪く笑って煙草を取り出した。
「吸うか?」俺が吸わないの知っていて、スーは煙草を勧めた。
「…貰うよ」彼の差し出した煙草を受け取った。
「これキツイやつだからな。慣れてないと煙が目に染みるぞ」とスーは笑いながらそう言って火をくれた。
確かに煙草の煙は目に染みた。
「キツイな」と言いながら目頭を抑えた俺に、スーは「だろ?」と笑って俺の背を叩いた。
涙を煙草のせいにして、惨めな自分を誤魔化した…
✩.*˚
《責任を取るなら好きにするがいい》
試すような物言いだ…
私が、再び息子を抱きしめるための対価は、あまりにも大きかった。
国王陛下からの信頼を失い、辺境伯の地位を追われた私は、《フェルトン》の所領の四分の三を失った。
フィーアへの多額の身代金は、もちろん《フェルトン》の私財から出した。
事実上の没落と言っても良いだろう。
それでも、ダニエルを取り戻すことが出来れば、《フェルトン》が滅ぼされなかっただけでも運が良かったと喜ぶべきだ。
どちらにせよ、停戦に持ち込めた事は、陛下にとっても都合が良かったのだろう。
すべての責任を私に被せれば、彼の威光に傷がつくことはない。
オークランドから《停戦》を求めることは出来ないが、相手から求められたのであれば、体裁は保てる。
カナルの攻略に、一年の猶予が出来たのも、準備期間と思えば無駄にもならない。
あとは、新しい、信頼の置ける辺境伯を用意するだけの話だ…
「このような場所に、伯爵閣下自ら足を運ばすとも…」
「良いのだ、メイヤー子爵。
私でなければ息子の顔を確認することが出来ぬ」そう答えて、カナルの橋の傍らで息子の姿を待った。
急ぎ掻き集めた大金貨120枚は、ダニエルに比べれば価値のないものだ。
待ち合わせの時刻が近づいて、報せを持った伝令が報告に訪れた。
「閣下、こちらに近づいてくる一団があります。印は《一角獣》です」
「来たか…」
「閣下はこちらでお待ちください」とメイヤー子爵が引き止めたが、一刻も早く息子の無事を確認したかった。
「卿はダニエルを知らぬ。私が行く」
「ならば、お伴致します」とメイヤー子爵が随行を申し出たので黙ってそれを許した。
身代金を持たせた兵士らを連れて出ると、確かに、《一角獣》の旗を翳した一団と馬車がこちらに向かって来る姿が見えた。
ダニエルは無事か?
心が波立つ。落ち着いてなどいられ無かった…
双方の兵士たちに緊張が走る中、馬車から身なりの整った壮年の偉丈夫が降りてきた。
この交渉の場を預かる相手なのだろう。
彼は少年を抱いていた。同じく、馬車から降りてきた彼の従者らしき男は、大人が使うには短い杖と鞄を抱えていた。
「…ダニエル」
少し大きくなったように見えるのは錯覚だろう。
ダニエルは私の姿を見て、表情を緩めた。
「自分で歩きます」と抱えていた男に伝えると、男はゆっくりとダニエルを下ろした。
驚いた…
あの子が自分で歩くと言ったのだ。
杖を手に、支えを断ると、ダニエルは一歩ずつゆっくりと歩いた。
初めて歩く赤ん坊を見ているような気分だ。
よく見れば、そっぽを向くように内側に曲がっていた足は、やや曲がっていたものの前を向いていた…
それも目の錯覚だろうか?
奇跡でも見てるようだ…
『公子の足は腰の骨から歪んでおります。
無理に歩けば、痛みを覚えるでしょうし、右足が動きを邪魔して、左足も危うい状態です。
右足は切断したとしても、義足を着けるのも難しいかと…
とにかく、治療も難しく、歩くには奇跡が必要です』
雇った高名な医者はこの子を救えなかった…
治癒魔道士も、薬師も、少しでも名の売れた者たちを呼び寄せて、ダニエルを見せた。
痛みを伴う治療も、この子のためならと許したが、結局ダニエルを苦しめただけで終わった…
何故だ?なぜこの子は歩けるようになったのだ?
まさか偽者…?
そんな疑いが頭を過ぎった。
気が付けば、杖をつく少年は、私の目の前に立っていた…
少年は笑顔で顔を上げると、「お父様」と私を呼んだ。
このはにかむような笑顔も、幼くて愛らしい声も知っている…
この子はダニエルだ…
「見違えたかね?」とダニエルを連れて来た男が口を開いた。
驚いたことに、彼は自らを《ヴェルフェル侯爵》と名乗った。
驚いて言葉を失う私に、彼は親しげにダニエルの肩を抱いた。
「カナルの河畔で、私の娘のロンメル男爵夫人がこの子を保護した。
娘はこの子を気に入っていてね。可愛いし、聡い子だから手元に置きたがっていた。
足の治療はこの子のためでなく、娘のためにしたものだ。全く、我ながら余計なことをしたものだ…」
ヴェルフェル侯爵はそうボヤきながらも、機嫌が良さそうに見えた。
本当にそうなのだろうか?
ダニエルを攫った者たちは、ダニエルがフェルトン公子だと知った上で攫ったはずだ。それで逃げ切ったのだ。
白々しく《知らなかった》と装う侯爵はダニエルを守っているのだろう。
《身代金》もダニエルを返す口実か?
ダニエルの対価をフィーア側に確認させた。
確認が済むと、侯爵は部下に「あれの用意を」と、簡易的な机を用意させた。
「《停戦の合意》を書面にて確認してもらおう。
あと、《領収書》もお渡ししよう」と彼は書類を三枚出して机に並べた。
ペンを用意して、内容を確信し、《停戦合意》の署名を二枚にお互いに署名した。
《領収書》はダニエルと身代金を交換した内容が記され、ヴェルフェル侯爵の署名があった。
「フェルトン公子の荷物も持って帰りたまえ。色々と、土産もあるものでね」
「不要だ」
「そう言うな、フェルトン伯爵。
卿の欲しているものが、その中にあるかもしれないぞ」と侯爵は低く笑いながら手を差し出した。彼は握手を求めていた。
「私はオークランドに忠誠を誓った者だ」と差し出された手を拒否した。
「握手くらい良いだろう?」とヴェルフェル侯爵はさらに握手を求めた。
ダニエルも「良いではありませんか?」と私に彼との握手を勧めた。
相手はなかなか手を引っ込めないので、仕方なく、手の届く距離に近づいて彼の手を握った。
「息子の手紙はダニエルの荷物の中にある。捨てるなよ?」
手を握った侯爵は、私に聞こえる程度の小声でそう囁いた。
《息子》とは《ダニエル》のことではないらしい。その《息子》が誰かを訊ねる事は出来なかった。ただ、渡された荷物を捨てるのだけは思い留まった。
侯爵は握手を済ませると、もう用はないとばかりに踵を返した。
私ももうここには用はない。
「帰ろう、ダニエル」と息子を抱き寄せた。
抱きあげようとすると、ダニエルはそれを拒んだ。
「自分で歩けます」
「しかし…」
「お父様と一緒に歩きます。遅いですが、ご辛抱ください」
ダニエルは少し見ない間に、成長していた。
違うな…
自分で歩けるようになって背筋が伸びたのだ。顔つきも、自信の無い不安そうな表情から、明るい子供らしいものに変わっていた。
二人でゆっくり歩いて、用意していた馬車に乗り込んだ。
「お父様、お話があります」と向かい合って座ったダニエルは口を開いた。若葉のような緑の瞳が私を真っ直ぐに見詰めていた。
「僕はこの身体で、貧弱で頼りない子供です。お兄様とは比べ物にならないような残念な息子です。
こんな僕ですが、僕は《フェルトン》を継ぐつもりです。お許し頂けますか?」
「いや…でももう《フェルトン》は…」
《フェルトン》は没落する未来しか残されていない。
私の代で終わらせるつもりでいた。
「お兄様と約束しました。
お兄様は僕に、《フェルトン》と《お父様》を託されました。僕は引き受けると約束しました。
《フェルトン》はまだ終わってはいません。僕が終わらせません」
「…ダニエル」
あの守られるだけだと思っていた子供の姿はもう無かった。
子供とは成長するのだな…
前に進めなくなった私の代わりに、この子は未来に進もうとしていた。
「《フェルトン》の未来は暗い。辛い道になるぞ」
私の警告にも関わらず、ダニエルの意志は固かった。
「確かにそうかもしれません。それでも、僕は今まで甘えていた分、お父様にお返し致します」
明るい緑の瞳は揺るがなかった。
老いた私の目にはそれが眩しく映った。
仕方ないな…と、私の息子への甘い部分が首を縦に振るように促した。
「分かった、ダニエル。
お前は《フェルトン》だ。お前の望む未来を描くが良い」
願いを聞き届けられた子供は「ありがとうございます」と笑顔を見せた。
その笑顔に、重かった肩の荷が降りたような気がした…
✩.*˚
《第一カナル運河戦役》はフィーア・オークランドの双方での停戦にて合意。上流・下流共に痛み分けという結果に終わった。
この戦での責任を取って、下流の総指揮官だったフェルトン伯爵は《東部辺境伯》の役職を返上する事となり、広大な領土と権限を失った。
この戦で攻めの姿勢を貫き、自ら兵を率いて《騎行作戦》を主導し、フィーア側に多大な損害を与えたとして、メイヤー子爵がフェルトン伯爵の後任として《東部辺境伯》の役職に任じられる事となる。
彼はこの後も《メイヤー伯爵》としてカナルで戦い続ける事となる。
フェルトン伯爵は、没落を示すように、脆弱な子供を自らの後継に選んだ。
幼く、足の不自由な、弱々しい子供だったことが幸いし、オークランド国王はその人選を見逃した。
フェルトン伯爵に手を下さずとも、この家は失われるだろうと思っていたのだろう。
だが、その期待は裏切られることになる。
ダニエル・フェルトンは、一時は没落した伯爵家を立て直し、剣ではなくペンで功績を上げた。
ワイズマン侯爵に文官として見出され、その能力を遺憾無く発揮した。
彼は愛される才能の持ち主で、多くの文人と知り合い、文学にも大きな影響を与えた。
彼の代表作 《とある公子の手記》はベストセラーになり、オークランドを代表する文学作品として名を連ねた。
その物語がどうやって生まれたのかを訊ねられた時、フェルトン伯爵になったダニエルは笑顔でこう語ったという。
『これはフィクションですが、限りなくノンフィクションに近いフィクションなのです。
私にとって、特別な人たちの物語です』
彼はそれ以上語ることはなかった。
きっと彼も知らなかっただろう…
この物語が、カナルの向こうに渡り、それを手に取った男が苦く笑った事を…
『酷い物語だ』と酷評した男の傍らで、若葉色の瞳の妻が、『でも、ハッピーエンドです』と笑顔を咲かせた事も、知ることはないのだろう…
✩.*˚
木枯らしの吹く頃に、来訪者があった。
「シェリル様。お客人は《フェルトン公子》と名乗っておいでです」と若い修道女が取り次いだ。
孤児院の礼拝堂で待っていた少年は、まだ若いのに、身体を支えるための杖を手にしていた。
「公子様。お待たせしてしまい申し訳ありません」
「いいえ。僕がお知らせもせずに、勝手に来たのです。失礼を謝るのは僕の方です」と少年は柔らかく応えた。
彼は《ダニエル・フェルトン公子》と名乗った。
「カナルの地で、貴女の息子からこれを預かって参りました」とフェルトン公子は、絹のハンカチに包まれたルフトゥ神の十字架を取り出した。
見覚えのある、古い十字架に目を奪われた。
「あぁ…」と声が漏れて泣き崩れてしまった。
アダム…貴方はまだこれを持っていたの?
私は貴方を手放してしまったのに…
十字架を見て、泣き崩れてしまった私に、膝を折った公子は優しく語りかけた。
「私の友人の《アダム・マクレイ卿》より、彼の全財産を全て《お母様》に相続させるようにと伝言を受けました。
遺族年金の手続きと、彼の財産の相続手続きは既に完了しております。
どうぞお受け取りください」
少年はそう言って取り出した手紙を私に握らせた。
「これは証書です。アダムの部屋にも、自分が死んだ後の遺書が残されていました。
どうぞ、彼の最後の願いをお受け取りください」
「私は…母だなんて…」と首を振った。
自慢の息子だった。本当によくできた子…
自分より他人の幸せを願える優しい子だった…
他の子供たちを守るために、私はあの子を手放すしか無かった。
笑顔で『大丈夫です』と去ったアダムの手を放した事をずっと悔やんでいた。
年に二度、私の孤児院に届く匿名の寄付は貴方だったのでしょう?
受け取った手紙と、懐かしい十字架を握って泣いた。
優しく寄り添う公子様は、私が手放した少年に似ていた。姿は違うけれど、優しさは酷似していた。
私が落ち着くのを待って、彼はゆっくりと口を開いた。
「シェリル様。僕はアダムから貴女を任されました。困ったことがあれば、僕に頼ってください。それが僕の友、アダムとの約束です」
「ありがとうございます、公子様…」
「シェリル様、僕のお願いを一つ聞いて下さい」と愛らしい笑顔を見せて、公子様は私の《息子》になりたいと言ってくださった。
「僕には母と呼べる人がいません。ですから、シェリル様を《お母様》と呼ばせてください」
「素敵なお申し出ありがとうございます。
でも、私なんかでよろしいのですか?」
「シェリル様がいいのです。
僕はアダムの弟になれるのですから」
幼い公子様は笑顔でハグを求めた。
手を伸ばして、新しい《息子》を抱き締めた。
アダムが帰ってきてくれたような、そんな懐かしい気持ちになった。
裏の畑で、アダムと交わした懐かしい会話を思い出していた。
『シェリル様!人参の芽が出ましたよ!』キラキラした夕日色の瞳の少年は私の手を引いて畑に向かった。
ガリガリに痩せて、教会の裏に捨てられていた少年は元気になると、すぐ私の畑を手伝ってくれた。
子犬のように着いて回る少年を、可愛く思っている自分がいた。
『あら、本当に』可愛い双葉が土から顔を出していた。
『芋と大豆も大きくなりましたよ!』
『うふふ、楽しみね、アダム』と頭を撫でると、彼は信心深く、『ルフトゥ神のお恵みです』と答えた。
『良いことですね、アダム。でも、まだ無理は良くないですよ』
『無理してません!』と答えた少年は、甘えるように、握った手に擦り寄った。
『シェリル様と一緒に居られる、この畑が大好きです。喜んで欲しいから、たくさんお世話します!仕事だって何でもします!
だから…』そう言って、アダムはささやかなお願いを口にした。
そのお願いが可愛らしくて『いいわよ』と即答した。
だって、私もそのつもりだったから…
二人で抱き合って、家族になる約束をした。
『僕を、シェリル様の子供にしてください!』
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