燕の軌跡

猫絵師

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友情

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叔父上に呼び出されて、彼の執務室を訪ねた。

カール叔父様の守るカナル中流で問題があったらしい。

私の教育を任されたヴェルフェル侯爵の末弟を訪ねると、彼は届いたばかりの文を読んでいる最中だった。

「全く…カール兄様は何をしておいでか…」

苛立たしげに眉間に皺を寄せ、コンラート叔父様は眼鏡越しに手にした手紙を睨んだ。

「パウル兄様まで…

昔からあの二人にはブレーキというものがないのだから困ったものだ。

いい加減、兄上たちには年相応に落ち着いて頂きたいものだ…」

「叔父上からご覧になると、私の父上は落ち着き無く映りますか?」と苦笑いを浮かべながら訊ねた。

「その通りだ」と応じた叔父上は、兄からの手紙を机に投げ出した。

「パウル兄様は物理的に落ち着きがないし、カール兄様は精神的に落ち着きがない。

上に立つ者がああでは、下の者が困る。父上はああではなかった…」

「比べる相手が悪いのではありませんか?」

「確かにそうだろうな」と叔父様は頷いた。

「父上は完璧だった…」と呟く叔父様はお爺様を懐かしんでいた。

「全く…兄上たちがしっかりしていれば、私は城代などでなく、王都で魔術の研鑽が積めたというのに…

上手くいかんものだ…」

叔父上は王都でも指折りの宮廷魔導師だったらしい。

彼は城代として完璧に役目を果たし、カナルの上流を守っていた。

コンラート叔父様は優秀だ。学ぶべき事も多いし、教え方は丁寧で分かりやすい。だからこそ父上は、私の教育を末弟に任せたのだ。

ただ、欠点と言うなら、真面目でユーモアとはかけ離れている事だ。叔父様には失礼だが、少々退屈する。

「すまなかったな、アレクシス公子。

呼び出したのは兄上たちの愚痴を言うためではなかったのだが、ついな…」

「いえ、叔父上もお疲れなのでしょう?

ところで用事とは?」

「うむ。兄上の文と一緒に届いた品に、アレクシス公子宛の物があった」

そう言って叔父様は、取り出した文箱を机に置いた。

「恐らく兄上と侯爵夫人、君の婚約者からのものだろう。このまま持ち帰りたまえ」

「ありがとうございます」と礼を言って手紙の入った箱を受け取った。

「うむ。用事はそれだけだ。下がってよろしい」

コンラート叔父様は、甥っ子に向けるにしては淡泊な言葉で用事を済ませた。

慣れてしまうと、この不思議なやり取りが少し可笑しくもある。

この人は、これでも心を砕いているつもりなのだ。

「なんのお話しでしたか?」

廊下で待っていたクラウスが、部屋から出てきた私に歩み寄って並んだ。

彼はここに来てから背が高くなった。

視線は私よりずっと高い位置にあるが、見下ろす目は相変わらず暖かく優しい。

「父上からだ」と文箱を彼に預けた。

「ガブリエラ様のもありそうですね」とクラウスは笑顔を見せた。

母上も、この懐っこい青年を、まるで息子のように可愛がっていた。

新年のご挨拶くらいしか顔を合わせていないが、お元気にしているだろうか?

「私もお返事を認めねばな」

「侯爵夫人もお喜びになられるでしょう。

そういえば、クラウディア嬢のお誕生日のお祝いは決まりましたか?」

「あっ!」と声を上げて足を止めた。

クラウスの苦笑いが、少し高い位置に浮かんだ。

「やっぱり忘れてましたね」

「いつだ?!」

「婚約者のお誕生日くらい覚えてください。

あと一ヶ月後に15歳のお誕生日で、一年後には結婚式ですよ」

「…その件か?」

視線は嫌でも文箱に向かう。クラウスの腕に収まった文箱を開けるのが少し億劫になった…

「そんな顔なさらないで下さい。結婚式だって、既に一年延期されてるんです。クラウディア嬢が可哀想ですよ」とクラウスは苦言を呈した。

「はぁ…仕方ないだろう?色々立て込んだからな…」

ヴェルフェル侯爵家では、兄上の葬儀、母上の体調不良と続き、戦まで始まってしまった。

クラウディア嬢の生家のワーグナー公爵家でも、少し厄介な問題が持ち上がった。

私の婚約者を、クラウディア嬢から、姉のマリアンネ嬢に変えれないかと相談があったのだ。

姉のマリアンネ嬢は、かねてより決まっていた婚約が破談になったらしい。

嫁ぐはずだった第三王子が他の女性に入れ込んで、破談となった。

マリアンネ嬢に非は無いが、婚約の解消は不名誉な事だ。

彼女には同情したが、私も今更婚約者が変わるのは困る。その件は丁重にお断りした。

結局、姉の嫁ぎ先が見つかるまで、式は延期されることになった。

さすがに妹を姉より先に嫁にやるのは些か問題らしい。

その件もようやく片付くという時に、招かれざる客がカナルの対岸に現れた。

「はぁ…頭が痛くなる…」

次から次に厄介な事だ…

クラウディア嬢は確かに可愛いが、それはまだ妹に向けるような感情で、夫婦になるのは、まだどこが先のような気がしていた。

「クラウディア嬢のどこが不満なのです?

素敵な方じゃないですか?」

「不満なんて無い…」

そんなものは無いが、ただ、《結婚》という言葉が重いだけだ…

それは彼女とて同じだろうが…

憂鬱な気分を吐き出して、不安を言葉に出した。

聞いてる人間は私の半身しかいなかった。

「私は父上のようになれるだろうか…」

「案外、杞憂だと思いますけどね」とクラウスはいつもの柔らかい調子で返した。

彼はいつもそうだ。その柔らかさで、私の怒りも悩みも包んで、心のささくれを癒すのだ。

「侯爵閣下だって、子供の頃の話を聞く限り相当でしたよ。

アレクシス様も随分なられたじゃないですか?」

「茶化すなよ。私は本気で悩んでるのに…」

「茶化してませんよ。アレクシス様の努力を、誰よりも一番近くで見てるのは私なんですから」

クラウスの言葉は優しい。彼は欲しい言葉をくれる。

恥ずかしい話だが、私は彼無しではいられないだろう。

回廊ですれ違った者たちは、私の姿を見ると壁に寄って敬礼した。

まるで、私と目を合わせたら、何か悪い事でもあるかのように、彼らは徹底していた。

私が次期侯爵だから…

以前にも増して孤独になった。

友と呼べる人間は幾人か居るには居るが、心を許す程の相手はそう多くない。

大人になってしまったのだ…良くも悪くも…

自室に戻って、クラウスから文箱を受け取った。

綺麗な文箱の中には、手紙が幾つか入っていた。

父上、母上、許嫁殿…

それらの手紙の下から、ひょっこりと顔をのぞかせた、薄い茶色の封筒が私の目を引いた。

「…スーからだ」声を上げて手紙を手に取った。

懐かしい友人からの手紙だ。

彼は時々便りをくれた。

私も、忘れている訳では無いが、忙しくてなかなか手紙を出せずにいた。つまらない愚痴を綴って、彼を呆れさせてしまうのではないかと思うと、筆は思うように進まなかった。

そうこうしている間に、スーは傭兵として、ロンメル男爵とカナルの戦場に出たと、父上から聞かされた。

私からの手紙は、さらに遠のいてしまった。

それでも、彼が元気だという便りは、私にとって何よりもの朗報だ。

「恋人からの手紙でも受け取ったような、そんな顔してますよ」とクラウスが指摘して、クスクスと笑った。

「だって、スーからだ」

「はいはい。なんか妬いちゃいますね」と笑って、クラウスは飲み物を用意するために席を外した。

お気に入りのソファに背中を預けて、手紙を開いた。

彼らしい、元気な走るような筆跡は面白い。

相変わらず無茶苦茶してるみたいだ。

初めて出会ったあの夏に、陽光を浴びて光る水面を歩いた日が懐かしい…

手紙の文面に、『いいものあげる』とあった。

封筒の中に平たい小石の事だろうか?手にしてみると、何の変哲もない石ころだった。

『水面を跳ねさせて遊ぶんだよ』と手紙にあった。遊び方は簡単そうだが、やったことは無い。

いいなぁ…楽しそうだ…

スーはちっとも変わらないな…

少なくとも、手紙の中ではあの頃のままだ。

でも、空いた時間の分だけ、会うのが怖い。

彼と面と向かって顔を合わせたら、あの夏の日に見せた顔ではなく、他人のような顔をされるかもしれない。

深く頭を下げて、顔を見せてくれないかもしれない…

そうなってたら、きっと…私たちは友達ではなくなってしまうのだ…

石ころを手にして、彼が河原で探してる姿を想像すると、何でもない石ころが愛おしくなった。

大切にするよ…

高価なものでも、珍しいものでもないが、これもまた面白い。私の中に眠る、少年の心が踊った。

ドアをノックする音がして、紅茶を運んできたクラウスが戻った。

「おや?いい事ありました?」と彼は私の顔を見るなりそう訊ねた。

「見てくれ、スーがくれた」と石ころを彼に見せた。

「水面に投げて遊ぶ、子供の遊びらしい」と教えると、彼は「へえ」と驚いた顔をして笑った。石ころなんかで喜ぶ姿が珍しかったのだろう。

「私にも一つお願いしますよ」と彼は、スーへの手紙の返事を出す口実を私に与えた。

「そうだな。君の分も貰えるように頼んでみるよ」

スーへの手紙の一部が埋まった。

「彼は元気そうですか?」

「相変わらず無茶をしてるみたいだ。

カナルの対岸に行って、ロンメル男爵から拳骨を貰ったらしい」

「対岸に?!無茶しますね?」とクラウスか驚いて、紅茶が波立った。彼にしては珍しく粗相しそうなって慌てていた。

珍しい彼の姿が笑いを誘ったが、彼は澄ました顔でお茶を差し出した。

「失礼致しました。それで?スーは無事ですか?」

「無事だから手紙をくれたんだろ?

河を渡るために水の上を歩いて、私を思い出してくれたらしいよ」

「なるほど。それで手紙をくれたんですか…

私の事も思い出してくれたらいいのですがね?」

「ちゃんと君も元気か訊ねてるよ。スーはちゃんと覚えてるさ」

「それは嬉しいお話です。

私もスーに手紙を書きましょうかね?」

「スーは喜ぶだろうけど、私の恥ずかしい失敗談は書かないでくれよ?」

「それは残念」

残念そうにクラウスが苦笑いした。何を書くつもりか気になったが、彼の手紙を検閲する気は無い。

それもスーの楽しみだ。私が邪魔すれば興が削がれてしまう。

「今度、父上に預けよう」

「また、侯爵閣下をそのように使って…」

「いいさ、どうせついでだろう?」と笑った。

会えなくても、私たちは友達だ。

✩.*˚

「お前ら…何やってんだ?」

カナルの河原でしゃがんで石を探していると、やってきたワルターが俺たちに訊ねた。

「石探してる」

「はあ?今度は何してるかと思えば石?指輪でも壊れたのか?」呆れた様子でワルターがため息を吐いた。

「違うよ。俺のじゃない。クラウスにあげるんだ」と答えて、パウル様が届けてくれた手紙の話をした。

「なんちゅうか…安上がりな連中だな…」

「君だって十分安上がりだろ?四葉だってお金かからないじゃないか?」と、彼が手にしていたクローバーを指さした。ワルターは苦い顔で「一緒にすんな」と文句を言った。

「あれはあれでちゃんと意味があるんだ」と彼は自慢げだが、その件に関しての裏話は、パウル様を通じて俺の耳にも届いてた。

「よく言うよ。本当は知らなかったくせに」

そう言ってワルターを黙らせて、それらしき石を拾った。

やっぱり少し歪んでる。違うからすぐに捨てた。

「テレーゼは?」と視線を落としたまま、彼に訊ねた。俺がアレクからの手紙を受け取ったのと同じくして、彼はテレーゼからの手紙を受け取っていた。

「ドライファッハに着いたと…」と彼は少し暗い声で答えた。

「手紙じゃ元気そうだったよ」と言いながらも、ワルターはちっとも嬉しそうじゃなかった…

ワルターがカナルに戻って来て、もう二週間ほどになる。

ワルターがブルームバルトを離れて、二日ほど置いて、テレーゼもグスタフに伴われてドライファッハに出発したらしい。道中問題はなかったみたいだ。

「出発前に、子供たちが手紙くれたんだと…あいつはそれが嬉しかったらしい」

「テレーゼらしいな…」

「だよな…ちゃんと綴りも合ってたってさ」

彼女の喜ぶ姿が目に浮かんだ。

「フィーが一人で寂しがってるかもな」とワルターは愛娘を心配していた。

父親も母親もそばにいないのは、確かに寂しいだろうけど、ブルームバルトにはシュミット家もいるし、トゥルンバルトの子供たちやルドもいる。

「フィーは一人じゃないさ」と彼を慰めた。

「絵だけ返してやんなよ?」

「俺のは?」とワルターは不満そうに訊ねた。

「大人なんだから我慢しな」と流して、また砂利の中から手頃な石を探した。

「あと二、三カ月したらオークランドも引っ込むさ。そしたらドライファッハ行けよ」

秋の終わりから冬の間は戦には向かない。両軍とも最低限の兵力を残して休戦となる。そしたらまた春一番に兵士を集めてどちらともなく戦を再開するのが戦の定番らしい。

「馬鹿!それまでにはテレーゼだって帰ってくるっての!そんなにかかってたまるか!」

「それもそうか…」と頷いて笑った。

「じゃあ大丈夫だよ」

「…お前な」

「さっさとテレーゼに手紙の返事を書いて出しなよ。

ラーチシュタットは近いけど、ドライファッハは遠いんだ。彼女が退屈で死んじゃう前に手紙を届けてやんなよ」

「そうなってたまるか!お前口悪いぞ!」

「はいはい。怒りすぎて大事なもの入れるの忘れないようにね」

「そこまで耄碌してねぇよ!」とワルターは憤然とした様子で立ち去ろうとした。

本当はそんなに怒ってないくせに…

彼の周りの精霊は穏やかだ。

「ワルター、テレーゼに『お大事に』って伝えてよ」と彼の背中にテレーゼへの見舞いを伝言した。

ワルターは何も言わなかったが、軽く手を上げて応えた。

「奥方そんなに悪いのか?」と話を黙って聞いていたディルクが訊ねた。

「さぁね。俺は医者じゃないからそんなの分からないよ。

でも、彼女は強いから大丈夫さ」

そう言ってまた砂利に視線を戻した。

「スー!これどうよ?」とイザークが灰色の石ころを投げて寄こした。

綺麗な円盤型の、よく水の上を走る石だ。

「煙草奢ってやるよ」とイザークを褒めた。

「よぉし!」

「えー!俺のは?」と既に幾つか拾っていたカイが石を持って来た。でもイザークのがやっぱり形がいい。

「何でお前こういうのは要領いいんだよ?」と、カイに続いて、持って来た石を却下されたアルノーが恨みがましく呟いた。

イザークは自慢げだ。

「ふふーん!俺ってばやればできる子なのよ!」

「じゃあ、普段からやれよ」とディルクが苦言を呈したが、本人には響かないようだ。

「そんなの俺っぽくないじゃん!」と開き直る始末だ。

「じゃあ、煙草は普段迷惑かけてるディルク行きだな」と意地悪く景品の行き先を変えると、イザークは慌てた。

「えっ!ちょっ!ズルくない?!」

「いいな、それ」とカイとアルノーが頷いて賛成した。イザークがいい思いするのが面白くないのだろう。

賑やかに喧嘩する彼らから視線を外して、イザークの拾ってきた石ころを眺めた。

クラウスは石ころなんてどうでもいいはずだ。

多分、彼はアレクに手紙を書く口実をくれたんだろう。そうでもなければ、忙しい彼が手紙を返してくれることは無かったかもしれない。

石を大事にポケットにしまった。

「仕方ないから全員着いてこいよ」と付き合いのいい奴らを誘って、馴染みの酒保の姐さんが店番する店に足を向けた。

✩.*˚

今更面倒臭いな…

かねてより国王から約束のあった、援軍とやらがアインホーン城に到着した。

編成に時間がかかるのは仕方ない。問題はそれを連れてきた人間だ…

部下からの報告を聞いて耳を疑った。

「グルムバッハ伯ではなかったのか?!よりによって、第三王子だと?!」

悪い噂の耐えない男だ。

爵位は伯爵だが、実質的な権力と発言力は侯爵に並ぶ。

「国王陛下は何をお考えか…

よりによって、ワーグナー公子の長女との婚約を破棄して、アレクの結婚を邪魔した相手を送ってくるとは…」

頭痛と目眩を覚えながらも、南部を預かる身として、出迎えぬ訳にもいかなかった。

「あら、まあ」とガブリエラも呆れた様子だ。

「よく顔が出せたものですわ」と、王子相手にも関わらず彼女は手厳しい…

それも、そのはずだ。彼女は第三王子の生母トリシャ妃の従姉妹で、最も親しい間柄だ。

二人ともワーグナー公爵家の出身でもある。

珍しく不快感を露わにする彼女に、同調したくなるのを堪えてなだめる側に回った。

「姪っ子たちとアレクの顔に泥を塗られたのです。幾らトリシャの息子で王子とはいえ、許せるものではありませんわ」

テレーゼから貰ったお気に入りの扇子をヒラヒラとさせながら、彼女は不満を口にした。

珍しくご立腹な彼女に苦笑いで応じて、彼女を伴って挨拶に向かった。

「これは、小母様。お元気そうで何より」と、姿だけ立派な王子は、作法を無視して、まず夫人に声をかけた。

「殿下、作法がなっておりませんよ。

まずは侯爵様にご挨拶してから、私に声をかけるべきではございませんか?」

「これは失礼、侯爵ごきげんよう」と、彼はふざけた様子で挨拶した。年上で、しかも南部侯爵を相手に、無礼を詫びる様子もない。厄介な相手だ…

私とガブリエラに対する態度の差も、苛立ちを募らせる材料だが、この我儘な男をまともに相手するほど私も若くない。

「コースフェルト伯爵もご健勝の事とお喜び申し上げます」と型通りの挨拶をした。

「うむ。マリアンネの件では迷惑をかけたな」と悪びれる様子もなく言い放った伯爵に、ガブリエラが眉を顰めた。

「別に彼女が嫌いではないが、あの容姿では正室にするには恥ずかしい。やはり並ぶなら見栄えのする女性が良い」とまだ若い伯爵は我儘を並べた。

無思慮な言葉の数々に、ガブリエラは不快感から扇子で顔を隠した。かなり怒っている様子だ。

「あんな眼鏡の、みっともない髪の色の女性を連れて歩く身にもなって欲しいものだ。

しかも痩せてて、女性らしさがまるで無いのだから全く困ったものだ…

あのまま結婚していたら、私が恥をかくところだった」

眉を潜めたくなる暴言の数々に、耳を覆いたくなる。仮にも元婚約者に向けられるような言葉ではない。

「それは大変失礼ではございませんか、殿下?」と、ガブリエラが苦言を呈した。

「小母様の事ではございません。マリアンネの話です。

あぁ、もう婚約も解消されたのですから、《嬢》とつけねばなりませんでしたね。これは失礼」

ガブリエラの注意も、彼にとっては些細な小言でしかない。この男を前線に送るのは不安でしかない。

「殿下。失礼ながらお訊ね致します。何故殿下がこの前線に?」

「決まっておろう」と王子は胸を張って答えた。

「ブルームバルトに立ち寄るためだ」

「…は?」耳を疑って、言葉を失った。

確かに、行軍する経由地として、ブルームバルトは通ることになる。しかし何故ブルームバルトなのかが分からない…

我々の困惑をよそに、彼はまた勝手に話し始めた。

「数年前には、興味がなかったので放置していたのだがな…

何でも、貴殿の娘、ロンメル男爵夫人は《白鳥姫》と呼ばれるほどの絶世の美女だそうだな。

私の妻より美しいのか確認に来たのだ」

「…は?」ここまで来ると空いた口が塞がらない。

ガブリエラも同じ様子だ。

「私が王都を離れるのに、ちょうど良い口実になったので、乗っかったのだ」と彼は恐ろしく素直に、自分の欲にまみれた目的を暴露した。

怒りすら忘れ、物言わぬ人形のようになってしまった私たちに、身勝手な男は嬉しそうに言葉を並べ立てた。

その姿に次第に怒りが湧いた…

カナルの前線では、国を守るために、臣が、民が命懸けで戦っているというのに…

女を見に?よりにもよって臣の妻を?物見遊山の心持ちで?巫山戯ているのか?!

頭に血が昇った。怒気が言葉に乗った。不敬と言われようが、この怒りだけは正しいと確信している!

「殿下!南部を…カナルの前線で命懸けで国を守る者たちを侮辱しておいでか?!」

「何を怒っているのだ、ヴェルフェル侯爵?無礼であろう?」

「パウル様…」

止めに入ろうとしたガブリエラを押し退けて、自分の息子ほど年の離れた王子に食ってかかった。

「仮にも王族が!戦のどさくさに紛れて、己の欲を優先するなど恥を知れ!」

「貴様!それが王子に対する臣下の礼か?!」

「南部の男を馬鹿にしないで頂きたい!

私は国の代表として、責務を果たす国王陛下に臣従を誓い申した身!

殿下のそれは身勝手極まりない!

残念ながら私は、女漁りをし、臣を辱め、陛下のご威光を地に落とそうとする輩に捧げる礼など持ち合わせておりません!

我々は、フィーア王国とそこに住む民のために、このカナルで血を流し、命を懸けて戦っております!

それを、女を見るために来たと?!巫山戯るのもいい加減にして頂きたい!」

叱られた青年は怒りに震えていた。その姿にさらに落胆した。

己を恥じて、俯くくらいすればまだ救いがある。恥をかかされた程度にしか受け取っていないのだろう。

彼をカナルに行かせることはできないと判断した。

「せっかくの援軍ですが、お引き取り頂きたい」とはっきり告げた。

今後の援軍を求めにくくなるにしても、この男をカナルに向かわせるよりは遥かに賢明な判断だろう。

少なくとも、この馬鹿な王子の面倒を見て、尻拭いをして回る余裕など、我が軍には無い。

「陛下には私が申し開き致します」

「待て!いくらガブリエラ小母様の伴侶とはいえ、この無礼は許さぬぞ!

これは国王陛下への…」

言葉を遮るように、扇子の閉じるピシャリという音が響いた。

我々が視線を向けると、冷ややかな視線のヴェルフェルの女主人が口を開いた。

「恐れながら、殿下。私も同意見でございます」

「小母様まで!」

「カナルにて、殿下の実績を作らせたい陛下のお気持ちは理解できます。ですが、殿下はあまりに無知、無思慮で配慮のかけた言動ですわ。

その様子では、お兄様方には遠く及びませんよ。

私も、伯父様やトリシャ妃殿下とお話し合いが必要なようですわね」

そうまで言われて、さっきまで威勢の良かった王子は悔しそうに口を噤んだ。

宰相のワーグナー公爵と母のトリシャ妃には頭が上がらないのだろう。あの二人に告げ口されるのは避けたいようだ。

「分かりました…でも王都に戻る前に、ロンメル男爵夫人を一目見たい。そうすれば大人しく帰ります」

私たちの話しは無駄だったのか?

ため息を吐き出して、彼の望みが叶わぬことを告げた。

「ロンメル男爵夫人は病気療養のため、今はブルームバルトにはおりません。残念ながら本当です」

「そんな馬鹿な…」何やらショックを受けていたようだが、こちらとしては好都合だ。

「戦の心労で持病が悪化致しましたので、義父の元で療養させております」

「それは何処だ?」

「病気の療養のためです。お伝えすることはできません」

この様子だとドライファッハにも押しかけそうだ。

面倒な…と腹の中で悪態ついた。

つまらんことを吹き込んだのは何処の誰だ?

「今日はもう遅いので、こちらにてご逗留ください。明日の朝、お見送り致します。

ガブリエラ、殿下のお世話を頼む」

「かしこまりました」と頷いたガブリエラが侍女を呼んで部屋や食事の用意を指示した。

また幼さを滲ませる王子は不機嫌そうに「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

その姿に、ガブリエラと視線を交わして、こっそりとため息を吐いた。

✩.*˚

テレーゼへの手紙を用意しようとしていると、テントにフリッツが訪ねてきた。

「何だよ?用事か?」

「あぁ。ドライファッハに手紙を出すんだろ?俺のもついでに頼もうと思ってな」

テントにズカズカと上がり込んだフリッツは、テントの奥にある、テレーゼの絵を見つけて笑った。

「良い絵だ」

「やらねぇよ」と答えるとフリッツは笑っていた。彼は絨毯の上に勝手に座り込んだ。

「マヌエラとジビラ、エマに書いてくれ」

「出来のいい息子がいるだろ?手伝ってもらえ」と右筆を推薦した。ブルーノは字が綺麗だし、文章も間違いなさそうだ。

「息子に書かせれるかよ?俺だって、彼女に《愛してる》の一言ぐらい送るさ」

「へえ…」と呟いて、ペンと便箋を用意した。

「お前にはエマへの手紙を書いてもらってたな…」

フリッツが懐かしそうに呟いた。

文章が苦手な彼の代わりに、エマに彼の分まで手紙を書いていた。

あの頃は、恥ずかしくて《愛してる》なんて綴れなかったが、俺たちも大人になったもんだ…

「『マヌエラ、ジビラ、エマ、元気か?

大御所も、変わりないか?』」と彼は手紙の内容をゆっくりと口にした。

言われた通りに、ペンを走らせる。

フリッツは自分たちの無事を知らせて、家族への愛を口にした。

へぇ…お前ってそんな奴だったのかよ?などと意地の悪い事を考えながら、紙の上にフリッツの言葉を綴った。

『テレーゼ様を支えてやって欲しい』と妻と娘に彼女の世話を頼んでくれた。

「『俺はここで、ブルーノと一緒にロンメル男爵の支えになる。こういう時に支えてこその親友だ。頼んだぞ。

お前たちを誇りに思う。

愛している。俺たちの帰りを待っていてくれ』

以上だ」

「…格好つけやがって…」

「人の手紙にケチつけるな」とフリッツは照れくさそうに笑った。

俺を安心させるためだけに来たんだろ?嫁と娘たちは口実か?兄貴風ばかり吹かせやがって…

「吸うか?」と差し出された煙草を貰った。手紙の代筆代だ。

「まあ、大御所も付いてる。問題なかろうさ」

「まあな…ドライファッハで親父の名前を知らねぇ奴なんかいねぇよ。

それより、親父の奴、息子の居ない間に勝手に上がり込んで、しっかり孫を甘やかしてたぞ」

「どうせお前がいても甘やかす側だろ?変わらんだろうが?」

「エマも甘やかしてるんだろ?」

「あぁ、甘々だ」とフリッツは苦笑いしながら紫煙をくくゆらせた。

「エマに似てるぜ」とフリッツは娘に妹の面影を重ねた。

「赤毛で青い目だ…きっと美人になる」

「良かったな、お前に似なくて」と悪態ついたが、彼は頷いて笑った。

「俺もそう思ってるよ」と言っていた。娘の話をするあいつは楽しそうだった。

「フィーはテレーゼそっくりだよ」と俺も話に乗っかった。

「髪質だけ俺に似てる。ちょっとだけ巻いてて人形みたいだよ。だいぶお転婆だ。よく動くから目が離せねぇけどよ、可愛いんだ」

「へぇ、そうかい?

エマはマヌエラに似ておっとりしてるからな…

何も無いところをずっと眺めてるから、時々心配になる。

あれってガキにはなにか見えてんのか?」

「小さい虫でもいるんじゃねぇのか?ガキなんてそんなもんだろ?」と返すとフリッツは「なるほど」と頷いていた。

大人には見えないものが見えるとか、それはそれで心配だろう…

確かにフィーもそういうところがあるな…

今度観察してみよう。

煙草を吸い終えたフリッツが、ハルバードを担いで立ち上がった。

「お前も手紙書いて、さっさと送ってくれ」と彼はテントを出て行こうとした。

「ありがとうよ」と広い背中に声をかけた。

フリッツは熊みたいな背中越しに、少しだけ振り返って「また明日」と言葉を残し、少し屈んでテントを後にした。

フリッツが出て行った後、ハンカチに挟んだ四葉を懐から取り出し、机に乗せた。

『元気か?』と便箋にペンを走らせる。

あいつが元気になれるように、悲壮感に蓋をして、明るい言葉を綴った。

最後にあの頃のように、手紙に萎れたクローバーを添えて、封を押した。

俺たちらしい手紙が出来上がった。

✩.*˚

「殿下、さすがにこれはまずいですよ…」

「うるさい、アルバ」と引き留めようとする親衛隊長を黙らせた。

彼は、これみよがしに肩を竦めて、ため息を吐いた。

「侯爵が、私に意地の悪い嫌がらせをしなければ、こんなことにはならなかったのだ。

全部ヴェルフェル侯爵のせいだ」と言いながらアルバの用意した白馬の背に跨った。

「そんな事無いと思いますけどねぇ…」とボヤきながら、アルバも自分の馬に乗った。

「打首だけはご勘弁ください」とふざけた様子で、彼は私の脱走に付き合った。

行先はブルームバルトだ。

せっかくここまで来たのに、何もせずに帰るなんて馬鹿げてる。

せめて、《白鳥姫》の顔くらいは見て帰りたい。

そうでなければ、苦労してこんな所まで来た意味が無い。

「殿下には殿下のお考えがおありでしょうがね、私のような凡夫には全く理解できませんよ」と嫌味を言うアルバを睨んで、「行くぞ」と馬に合図を出した。

明日の朝には大騒ぎになっているだろう。

それでもつまらない王宮を抜け出して、勝手をする機会など滅多にないのだから、このくらい羽を広げたところで問題あるまい。

出来の良い兄上たちと比べられるのは慣れている。私は私のしたいようにする。

宰相や妃の顔色を伺ってばかりの父上のようになるのは嫌だ。

「退屈はしませんが、苦労はしますね」とボヤきながら、私の脱走を手助けする男は苦笑いしながら馬を寄せた。

✩.*˚

早朝、慌てたバルテルに叩き起された。

「侯爵閣下!一大事にございます!」

「うるさい…何事だ?」

「殿下が…殿下の馬がございません!」

「…嘘だろ?」月並みな返事を返して、慌ててバルテルの差し出した上着を羽織っただけの姿で寝所を出た。

既に身支度を済ませていたガブリエラが家宰のデューラー卿と青い顔で立っていた。

「パウル様…」

「殿下は?」私の質問に二人とも「申し訳ございません」と頭を下げた。

「殿下の御料馬のお世話をする者が、馬房に向かったところ、御料馬のお姿がなくなっておりました。

慌てて確認したところ、殿下と殿下のお気に入りの部下の姿がないとの事で…」

「まさか…

出奔したにしても、誰かは気付くだろう?!」

馬に乗って出たというのに、誰も気付かないなど、そんなことがあるものか?!

「一緒に出奔した親衛隊長が《祝福》を有しているとの事です。詳しくは分かりませんが、関係しているかもとの事でした…」

「パウル様、私が至らないばかりに申し訳ございません…いかが致しましょうか?」

「ガブリエラ、君のせいではない。そんなに気に負わないでくれ。

デューラー卿、急ぎ殿下の行方を探すよう指示を出せ。飛竜の伝令を出して、カナルの前線と王都にも報せよ」

「既に捜索しております。

伝令は閣下の指示ひとつでいつでも出れます」

「よし、すぐに手紙を用意する」

着替えを後回しにして、そのままの姿で執務室に向かおうとした私を、ガブリエラが止めた。

「お待ちください、パウル様。

是非、ブルームバルトにも使いを送ってくださいませ」

彼女の言葉に、昨晩の殿下とのやり取りを思い出した。

「…まさか」

私の驚愕する視線に、彼女は困った顔で頷いた。

「そのやも知れません…

テレーゼに会いに、ロンメル男爵邸に向かったかも知れません…」

彼女の言葉に目眩がした…

だが、あの様子からして、それもありえない話ではない。

「バルテル、卿はブルームバルトに向かってくれ。土地勘のない殿下の事だ。ブルームバルトに向かった可能性は高いだろう。

全ての責任は私が持つ。

何としても殿下を連れ戻してくれ」

「御意」と頷いたバルテルはすぐに支度に向かった。

「全く…迷惑な男だ…」とボヤきながら、手紙を用意するために、デューラー卿と足早に執務室に向かった。
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