燕の軌跡

猫絵師

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息子

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「大丈夫か、ゲルト?」

怪我をしたと聞いたので彼を訪ねた。

彼は不機嫌な顔で俺を睨んだ。

「馬鹿野郎、お前ら大袈裟なんだ!この程度の怪我ぐらい普通だろうが!」

「そりゃそうだけどさ…

君がお爺さんだから問題なんだよ」

そう告げて、身体に包帯を巻いたゲルトに近づくと指輪を嵌めた手を翳した。

「俺よりカミルを診てやってくれ」と彼は俺に言った。

カミルは近くにいなかった。ゲルトの傍に居ないから、治療を受けに行ってるのだろう。

「カミルも診るよ。でも君が先だ」と答えて、ゲルトの傷を癒した。傷は深くなかったから、すぐに塞がった。本当に大したこと無さそうだ。

「…悪いな」

「謝るのは俺だよ」とゲルトに答えた。

「引退した君を、またこんな場所に引きずり出したのは俺たちだ」

「あのまま引っ込んでたら、ボケて死んじまう」とゲルトはぶっきらぼうな声で答えた。

「お前らが俺を呼んでくれて良かったと思ってる…

俺はベッドで静かに死ぬのは性に合わん。

クソうるせぇガキ共に囲まれて、喧騒の中でぽっくり逝きてぇよ」

「君らしいね」

「だろう?

でもな、そのためにはクソうるせぇガキ共には、俺より1秒でも長く生きてもらわにゃやらんのだ。これが案外難しくてな…」

ゲルトはそう言ってため息を吐き捨てた。

「どいつもこいつも、俺を年寄り扱いして、勝手に庇いやがる。俺はもう十分だってのに…」

「そんなの、誰も認めるわけないだろ?

君は彼らの《親父さん》なんだから」

「なら、《親父》より先に死ぬのは不孝者だって、お前があいつらに教えてやれ」

「はいはい…

君は思ってたより元気そうだ。カミルの所に行ってくるよ」

話を勝手に打ち切って、手を振って彼と別れた。

「爺さん感傷的になってるじゃねぇか?」と俺の護衛として着いてきてたアルノーが呟いた。

「そりゃそうだろうさ」と応えて彼を連れて歩き出した。

自分の子供が目の前で死んでいくのを見てるんだから…そりゃ辛いだろうさ…

そんな人生、辛すぎるだろうさ…

「カミルは救護所か?」

「まぁ、だいたいそうだろうな。

でも、カミルの兄さんがやられるなんてらしくねぇな…」

「ゲルトを助けようとしたんだろ?カミルはゲルトの事になると頭に血が上るからな…」

「ふぅん…なぁ、スー。爺さんいつまで置いとくんだ?そろそろ前に出しておくのも限界だろ?」

「それは俺だけでは決められない」

ゲルトには《祝福》がある。それに俺たちなんかよりずっと経験もある。

俺やワルターにじゃなくて、ゲルトだから着いてきてる奴らもいる。

まだ売り出し中の無名の傭兵団だ。

ゲルトたちに抜けられるのは正直キツい…

救護所のテントに着くと、ちょっとした騒ぎになっていた。

怪我の治療をしてるはずのカミルが怒り狂っていた。

「何で親父さん一人で帰した!何かあったらどうすんだよ!」

「お前が庇ったから親父さんは大したことねぇよ!お前の方が重傷だろうが!」とヤーコプの声が聞こえてきた。

「そうだぜ、カミル!傷が開いたらどうすんだよ!スーが来るまで大人しく待ってろ!」

「はいはい、お待ちのスーが来たよ」と、喧しいテントの入口をくぐった。

カミルは髪を振り乱して、酷い顔色だった。巻かれた包帯にも血が滲んでる。確かにゲルトなんかよりずっと重傷だ。

「カミル。ゲルトのところに寄ってきたけど、ゲルトは君の方を心配してたよ。ちゃんと治療した方がいい」

「親父さんは?」とカミルは相変わらずゲルトの身を案じていた。

「もう治療したよ。今度は君の番だ。

あんまりゲルトを心配させるなよ」と伝えると、カミルは安堵したのか、ため息を吐いてその場に座り込んだ。

「全く…めんどくせぇ野郎だ」

「世話の焼ける奴だよ」

双子が交互にボヤいた。苦笑いしながら彼らの間に入ると、彼らは俺に場所を譲った。

傷を確認するために、血の滲んだ包帯を外した。

「酷いな、何針縫ったんだよ?」

「いちいち数えてねぇよ」

「全く…柄にもなく無茶したね」

「親父さんが狙われたんだ。無茶だってする」カミルは苛立たしげに棘のある口調で言った。

彼は舌打ちして、矢傷を見せると怪我した状況を語った。

「親父さんを庇った時にやられた。

矢を射った奴はヨハンが仕留めたが、相手が多かったからな…

結局、最後には親父さんに助けられた…」

「ゲルトの《祝福》はエグいからな…」と苦笑いを浮かべた。

ゲルトの毒を喰らって変色した死体は、放置され、河原に転がっていた。下手に触れるのも危険なので、片付けられずにいたが、ギルが纏めて火葬してくれた。

「まぁ、生きててよかったよ」

そう言って、カミルの一番大きな傷跡に手を翳した。指輪に魔力を注いで、治癒に集中した。

「完全には治せないから、明日一日ゆっくり休めよ?」

「休んでなんかいれるかよ?

オークランドの連中は休んじゃくれねぇよ」

「君ってば、働きすぎだよ…

明日はゆっくり休めよ」

「それこそ死んじまうよ」

「本当に動けなくなったら、ゲルトの世話も他の人に譲ることになるよ」と言うと、カミルは舌打ちして、拗ねたようにそっぽを向いた。

ゲルトの世話役は彼の生き甲斐だ。

「絶対譲らねぇ」

「じゃあ、休めよ。

ゲルトも休ませるつもりだ。穴は俺やギルで何とかするよ」

「…分かった」ゲルトを休ませることを条件に、彼は渋々要求を飲んだ。

「君って本当にゲルトにベッタリだよね?」と苦笑いで指摘すると、彼は「当たり前だ」と答えた。

「親父さんさえ無事なら、俺なんかどうなってもいいんだ。どうせ親父さんに拾ってもらった命だ…」

「へぇ、そうなんだ。

ゲルトとは長いんだろ?」

「…長いな…もう三十年くらい、俺は親父さんの息子だ」と答えて、彼は懐かしそう、ゲルトの話をしてくれた。

ゲルトは良い奴だ。それは知ってたけど、カミルにとって、ゲルトは父親以上の存在だった。

「あの人にとっちゃ、俺なんか、今まで世話した《クソガキ》の一人だろうけどよ。俺にとっちゃたった一人の《親父さん》なんだ…」

「そうだな…」と頷いた。

「親父さんが行くってんなら地獄だって着いてくよ。親父さんが俺の居場所だ」と呟いて、カミルは口を閉ざした。

傷の痛みが和らいで、今度は眠くなってきたみたいだ。かなり出血してる様子だったから当然だ。

「治療が終わったら、俺たちが担いでテントに放り込んでくるよ」とヤーコプが言った。隣でヨハンも頷いて引き受けてくれた。

「明日は休みだからな」とカミルに念を押して、救護所を後にした。

「親父さんか…」とアルノーが呟いた。

「何だよ?羨ましいのか?」と訊ねると、彼は「まぁな」と答えた。

「俺のお袋は娼婦だったからさ、誰が親父か分かんねぇんだよ…何人か親父の変わりはいたけど、ろくでなしばかりだったよ」

「へぇ…」と相槌を打ちながら話を聞いていた。他人事には思えず、彼の話を聞いた事を少しだけ後悔した。

「結局、そんな生活が嫌で逃げ出してきたんだ。まさか《犬》になるとは思ってなかったけどな…」

「拾ってやったんだ、文句言うな」

「ワンワンって尻尾でも振るか?」と、アルノーは悲壮感を追い払うように、おどけて見せた。

「スーは?ロンメルの旦那が親父の代わりか?」

「ワルターはどっちかっていうと友達だ」

「歳で言ったら息子でも十分通じるだろ?」と彼は言ったが、彼は俺の本当の年齢を知らない。

むしろ逆なんだけどな…と一人で腹の中で笑った。

そろそろ信用出来る奴には話すべきなんだろう…

どっちみち、そのうち彼らも俺の違和感に気付くだろうから…

そういえば、ワルターは大丈夫だったかな?

ガッカリして帰ってくるんじゃないか?慰めてやらないとな…

「あれが親父なら、相当手のかかる親父だよ」と笑った。

✩.*˚

傭兵たちは、俺の働きを酒を飲む口実にした。

酒は昔から好きじゃない。人付き合いも苦手だ。

そのうち珍しがって絡む奴らも居なくなった。

温くなった酒を飲むか捨てるか考えあぐねていた。

「なんだ?飲まないのか?」

取り巻きを連れた男がやって来て、勝手に俺の隣の席に座った。

このでかい男はロンメルの古い友人だったな…

以前、スーを助けた時に顔を合わせていたが、あまり話をした覚えはなかった。

彼が肩に担いだ、使い古されたハルバードが目を引いた。業物ではないが、扱い慣れているのだろう。

仕事柄、得物にばかり目がいく。

「ほっといてくれって顔に書いてある」と彼は陽気な顔で笑いながら俺の仏頂面を指摘した。

彼は部下に酒を持ってこさせると、勝手に「乾杯」と宣言して一気に飲み干した。

「ギル、あんたに礼を言いたくてな」

「褒められる事など何もしてない」

「本当に愛想のねぇ野郎だな?」と彼は少し呆れたようだった。

「まぁ、いいさ。

ワルターと代わってくれてありがとうよ。おかげであいつは夫人に会いに行けた」

彼はそう言って、また取り巻きに酒を要求した。

「あいつはな、ちょいと女々しい過去があってな…」と彼は勝手にロンメルの秘密を暴露した。

「だから、あんたがあいつと代わってくれて良かったよ。もし知らないままでいたら、あいつは死ぬほど後悔するだろうからな…

それこそ最悪、絶望とまた再会することになる」

ロンメルが酷く取り乱していたのは、前の女の事を思い出したからか?

あいつの人生もろくでもないな…

「良いのか?本人の了承無しにそんな話して?」

「兄貴が妹の話をしちゃいけねぇのか?」と彼は話をすり替えた。ずるい奴だ…

「まぁ、そういう事だ」と言って、彼は俺の背を軽く叩いた。力強い手は、彼の人柄を現したように暖かかった。

「父上、飲み過ぎですよ」と取り巻きの一人が彼に声をかけた。息子か?体躯は立派だが父親にはあまり似てない。

「叔父様に叱られても知りませんからね」と叱る若者に、ビッテンフェルトの息子は笑って応えた。

「お前も飲んでいいぞ」

「私は結構です。 エインズワース殿、さっきの話は叔父様の名誉のためにも聞かなかったことにしてください」

「酔っぱらいの話は、冗談半分にしか聞かないことにしてる」と返すと、「なるほど」と青年は苦笑いで頷いた。

俺に話をした酔っ払いは不満そうだ。

「父上、明日に響くほど飲まないでくださいよ?

母上やジビラたちが心配します」

家族の話が出ると、大男は諸手を挙げて息子に降参した。仲の良さそうな親子だ。

「分かった分かった、終いにするよ」とロンメルの親友は席を立った。

「また、明日な」と俺の肩を叩いて、飲み干したビアジョッキを二つ残して彼は去って行った。

父親の背を追う青年も会釈してその場を離れた。

親子か…

エドガーもあんな風になるのか?

そう思いながら、ポケットから石を取り出して眺めた。

赤くぼんやりと光る魔石には、俺の炎を覚えさせている途中だ。

これが俺の代わりになってくれたら、エドガーやその子供たちに炎を残してやれる。

石を撫でてまた元のようにポケットにしまった。

することもないし、もう休もう。

そう思って、温い酒を無理やり流し込んで、席を立った。

仮住まいにしているテントに戻ると、その前に待ち人の姿があった。

「おつかれさん」と声をかけてきたのはスーの取り巻きの二人組だ。

「スーからか?」と訊ねると、背の高い男が頷いた。

「今日、中隊長のゲルトとカミルが怪我したんでな、明日一日休ませることにした。

あんたの負担になって悪いが、爺さんの抜けた穴を埋めて欲しいんだと…」

「分かった」どうせ明日だけの代役だ。それくらいなら引き受けても構わない。

「えらいあっさり引き受けてくれんのな?」ともう一人が口を開いた。

「悪いんだけどさ、あんた親切だけでしてくれてるわけじゃないだろ?」と若い男が俺に絡んだ。

「やめろ、イザーク。絡むなとスーに言われたろ?」

連れが止めたが、イザークと呼ばれた男は俺を睨んで不信感を口にした。

「親切ってのはいいことだけどよ、俺らはそれだけって奴が一番怖ぇんだよ。信用ならねぇ…

あんた何目的だよ?」

随分絡んでくる。しかも攻撃的だ。何事だ?

「そんだけの力があって、ずっと隠してたんだろ?

しかもコソコソ鍛冶屋なんかで暮らしてさ?

あんたなら仕官する先だってあるだろうにさ、何を好き好んで貧乏な暮らししてんのさ?

今頃になって、スーやロンメルの旦那に近付いて、何も無い方が気持ちわりぃだろうがよ?」

「イザーク!」連れの男が彼を叱った。それでも彼は追及を緩める気は無いようだ。

「ディルク、お前だって気になってんだろ?!

このままこいつに命預けれるのか?!

こいつの返事次第じゃ、俺はこいつを追い出すぜ」

「それを決めるのはスーたちだ。お前じゃない」と冷静に、ディルクと呼ばれた方の男は連れをたしなめた。

「これ以上絡むなら、俺はお前を許さないからな」

そうまで言われてイザークは口を噤んだ。

「ギルバートさんよ、連れが悪かったな」とディルクが謝罪した。

「でもよ、そういうことだから、悪い考えがあったらやめておくことを勧めるぜ。

あんた悪い人じゃなさそうだし、俺はスーにキレられるのは御免だからな」

「俺はロンメルの代わりでここにいるだけだ。あいつが戻ったらすぐに帰る。

お前たちが心配するような事は何も無い」

「なら良いんだ、悪かったよ」とディルクは人の良さそうな顔を見せて緊張を解いた。

「詫びに酒でもどうだ?」と誘われたが、もう酒は要らない。

「酒はあまり好きじゃない」と答えると、ディルクは「そうかい」と肩を竦めた。

また愛想のない返事になってしまった…

「じゃあ今度ブルームバルトで会ったら飯奢るよ」と勝手に約束して、彼は不満げなイザークの首根っこを捕まえて立ち去った。

飯は家で食う主義なんだが…

そんな事を思いながら宛てがわれたテントに入った。

毛布を手に、硬い床に転がる。なんだかんだで他人に気を使って疲れていた。

いつも行動を共にしていたレオンも居ないし、一人きりのテントは静かなもんだ。人の気配が全く無いのも寝にくいもんだ…

寝返りを打って、服のポケットに固いものを見つけた。

寝にくいので取り出した石を眺めた。

明かりのないテントの中、暖炉の炎のように赤く光る石を眺め、うつらうつらと眠気に誘われた。

礼金を貰ったら、二人に何か買ってやろう…

何がいいかと頭を悩ませた。

そういえば、アニタの靴が古くなっていたな…

まだ履けるって言ってたけど、新しいのを用意しよう。

エドガーは、また少し大きくなったから、冬が来る前に暖かい上着を用意してやろう。他にも足らないものがあったら買い揃えないとな…

明日、用事が済めば、あの家に帰れる。

家族を想いながら、赤く光る魔石を抱いて眠りについた。

✩.*˚

ある程度離れた場所で、イザークの首根っこを掴んでいた手を離した。ついでに拳骨も落とした。

「お前な!誰に絡んでるんだ?!

あの男がやろうと思えば、お前なんて相手になんねぇんだぞ!」

「…悪ぃ」と殴られた頭を抑えて、バツが悪そうにイザークは謝った。イザークは子供みたいに拗ねた顔をしていた。

あの男がイザークを相手にしなかったから良かったものの、もし挑発に乗っていたらと思うとゾッとする。

昼間に散々あの男の力は見たじゃねぇか!

「お前がスーを心配する気持ちは分からんでもないがな、ちと先走りすぎだろう?死にてぇのか?」

「でもよ…あんだけの力があって、今まで隠してたなんておかしいだろ?しかもオークランド人だったって言うじゃねぇか?

いつ裏切ったっておかしくねぇだろ?

あいつがスーを襲わないって保証なんかねえよ!」

「…お前な」

「スーやロンメルの旦那を倒せるとしたらあの男くらいだろ?なら白か黒か、はっきりさせなきゃなんねえだろ?」

「間違いなくあの男は白だよ…」

そう言ってため息を吐いた。

こいつは、こいつなりにスーのために動いたんだろうが、アホだから仕方ない…

「スーは俺たちを信用してヤバい秘密だって話してくれた…

だったらあいつに応えてやるのが筋ってもんだろ?」

「まぁな」

スーは対岸に連れてった連中だけに、自分の秘密を教えた。

『そのうち隠しきれなくなるから』と言って、飯の後に俺たちを集めると、スーは長い髪に隠れた耳を見せた。

他人の耳なんて気にしないから、全く気が付かなかった。相手が隠してるなら尚更だ…

半分人間なのだとスーは言っていた。残りは何かを確認するまでもない。耳の先は少し尖ってるように見えた。

純粋な人間じゃないと聞いて、心のどこかで、やっぱりな、と思った。あいつの強さは人間離れしていたし、綺麗な顔も、人間じゃないと聞いたら納得だ。

『何で話す気になったんだ?』と訊ねると、スーは『さあな』と言葉を濁した。

少し間を空けて、スーは俺たちに嫌な命令を出した。

『俺はオークランドにだけは捕まりたくない。

俺は珍しい存在だから、高く売れるんだってさ…変態に買われるなんてそんなの御免だ…

もしやばかったら…お前たちの誰かが俺を殺してくれ』

あいつはそう言いながら強がって笑っていた。

《助けろ》じゃなくて《殺せ》なんだな…

その言葉がイザークの中で引っかかっていたのだろう。イザークはスーを気に入っていたから尚更だ。

黙り込んだ俺たちの中で、イザークだけが『やだね』と呟いて、スーに逆らった。

『スー、あんたが敵の手に渡るくらいやばい状況になってんなら、とっくに俺は死んでるよ。そういうのはディルクに譲るよ』

『それな』とカイも頷いた。

『俺も死んでそうだから関係ねぇや』とアルノーは早々に役目を放棄した。

『じゃー、ディルクの仕事ってことで』と嫌な仕事を押し付けて、あいつらはスッキリしてた。モヤモヤしてるのは俺だけか?!

『悪いな』とスーは苦笑いしながら、やっぱり俺に嫌な仕事を押し付けた。

そんな事あってたまるか!

「…スーってさ、やっぱり昔何かあったのかな?」とイザークはスーの心配をしていた。

「あんな事言うなんて…

余程のことがないと《殺してくれ》なんて言わねぇよ、普通…」

イザークの言うことは一理ある。

悪夢を追い払った夜の事を思い出した。普通じゃない怯え方だった。あいつはあいつで苦しんでんだ…

「何もねぇ奴なんていねぇよ」と答えて煙草を咥えた。

皆生きてんだ…何かしらあるさ…

長く生きれば余計にな…

「だよねぇ…」と頷いて、イザークも煙草を取りだした。いつものヘラヘラした調子に戻って、彼は口に含んだ煙を空に放った。

「俺もなんだかんだで色々あったしィ…」

「聞かねぇからな」と宣言して煙草を咥えた。

イザークは笑いながら「ケチ」と呟いて、煙草で口を塞いだ。

黙って歩く俺たちの足はスーのテントに向かっていた。

✩.*˚

夜、テレーゼの咳で目が覚めた。

同じベッドで寝るのは良くないと言われたが、離れるのが嫌で、寝室のソファで寝ていた。

「大丈夫か?」とベッドに駆けつけると、彼女は「ごめんなさい」と謝った。

苦しそうなのに、俺を気遣う姿が痛々しかった。

「そんなの気にするなよ。水飲むか?」とベッドの脇に置かれた水差しを手に取ってグラスに注いだ。

「ありがとうございます」

少し落ち着いてから水を受け取ると、彼女は少しずつ口に含んで、噛むようにゆっくり飲み込んだ。

苦しかっただろうと、彼女の背を撫でた。華奢な身体は咳に負けて折れてしまいそうで心配だった…

「大丈夫か?」

口を開けばそればかりが出る。

俺は明日の昼過ぎにはここを出なきゃならない。

それから先は、全く何の助けにもなれない…

彼女に水を差し出すことも、背を撫でることも、声をかけることもできないのだ…

何の役にも立たない、不甲斐ない旦那だ…

「お水、ありがとうございます」と彼女は俺に空になったグラスを返した。

グラスを受け取らずに、彼女を抱き締めた。

泣きそうな顔を見られたくなかった…

「ごめんな…」また置いて行かねばならない。

明日別れれば、彼女は遠くに行ってしまう…

次に会える保証もない。

それがどうしようもなく俺を苦しませるのだ…

「なんか、目が冴えちゃいましたね」と彼女は話を逸らして笑った。

俺がこんなんだから、彼女は強く振舞ってるのだろう…俺なんかより辛いはずなのに、彼女の方がずっと強い…

「寝れないからお喋りしましょう」と提案して、テレーゼは俺の身体をそっとを押し返した。

「楽しい話をしましょう」と提案した彼女は笑顔だった。

何で笑ってんだよ?俺ばっか女々しく悲しんでダセェだろ?

彼女は俺がいなかった間のフィーたちの話をして、子供たちの様子を思い出しながら笑った。

「ルドがフィーに世話を焼いて、兄妹みたいで可愛いんですよ」

「あいつら兄弟ないしな…」と頷くと、彼女は「欲しいですね」と寂しそうに呟いた。

「次は男の子だと良いですね」

「そんなのどっちでも良いだろ?」

「でも…」

「女の子しかいないなら、俺みたいに婿をとったら良いだろ?

そんなの産まれるまで分からないし、どっちだからってガッカリすることないだろ?

俺にとって大事なのは、お前と俺の子供かって事だけだ」

本心から言った言葉だが、彼女は悲しそうに瞳を潤ませた。

「怒らないで、聞いてください…」と彼女は震える声で嫌な提案をした。

「お妾をお取りください…」

彼女は精一杯勇気をだして言ったのだろう…

でも、その言葉は俺を突き放すような響きを含んでいて悲しかった…

「ワルター様…お子様が成せる時間を無駄にしてはなりません。私に遠慮しないで下さい」

「…嫌だ」ガキのように答えた。

その幼稚な返事に、彼女はまた悲しそうな顔をした。

「んな顔しても、俺は嫌だからな」

譲る気は無くて、彼女の要らん気遣いを突っぱねた。

「だいたいな…お前、失礼だぞ。旦那に歳だ歳だって…

んな事、言われなくても、俺が一番よく知ってるっての…」

「気にしてたんですか?」

「…それなりに」

そりゃ27も離れてたら気にするっての…

「それにさ、《ロンメル》は俺じゃねえだろ?

俺の子じゃダメだ。《ロンメル》はお前が産まなきゃ成り立たねぇだろ?」

「でも…」と彼女はまだ、何か言おうとした。

面倒くさいし聞きたくないから、手を翳して彼女の口を塞いだ。

「でもじゃねぇよ。話はまだだ。

フィーだっている。お前みたいに婿を取る方法だってある。

それに、もし妾なんか取って、男の子が産まれたら、フィーは肩身の狭い思いをするんだぞ?お前はそれでいいのか?

不安になるのは分かるがな、お前は一人で先走りすぎだ」

そう告げた俺の手のひらの下で、彼女は不満げにまた何か言おうとした。

「楽しい話するんだろ?こんな話、全然楽しくねぇぞ。それ以上その話したら俺も怒るからな?」

珍しく俺に叱られて、テレーゼは言葉を失っていた。

彼女はしばらく黙り込んでいたが、少し迷って口元を塞いでいた俺の手を取った。

「びっくりしました」と彼女は口を開いた。

「ワルター様は、私のお願いならなんでも聞いてくれると思ってました」

「お前な…ずるくねぇか、それ?」

呆れた。そこまで馬鹿じゃねえよ…

「それはお前が今まで無茶なお願いをしなかったからだろ?俺だって嫌なもんは嫌だよ」

「うふふ…嬉しい」

お願いを断られたのに、彼女は何故か嬉しそうだった。

「よく考えてみろ。結婚してから二年も待ったんだ。

今更新しい女を作る甲斐性なんかねぇよ」

「そんな事もありましたね」と彼女は懐かしそうに笑った。ガーネットの瞳が複雑な感情を映して煌めいた。

「…また…お待たせしても良いですか?」

「いいよ…待つだけでいいなら、俺はお前を待つよ…」

お前が生きて、俺の所に帰ってきてくれるなら、そんだけで上等だ。それ以上望むもんか…

「お前も寂しいからって浮気すんなよ?」

「まぁ、酷い!ワルター様が思ってる以上に、私はワルター様を愛してますのに…」

「へぇ、良い事聞いたよ。

でも俺の方もお前が思ってる以上に愛してると思うぜ」

「私は負けず嫌いなんですよ。絶対譲りませんから!」そう言ってむくれる彼女が可愛い。浮気の心配は無さそうだ…

全く…こんなおっさんのどこがいいんだか?

やれやれ、とため息を吐いた俺に、彼女はまた「楽しいお話しましょう」とお喋りに誘った。

「寝ないのか?」

「このまま寝れませんよ。

それより、相談したいことがあるんです」

「何だよ?」と返すと、彼女は笑顔を見せた。

「名前です。今度はどうしますか?」

誰の名前かは聞く必要が無いだろう。ここには俺と彼女しかいない。

「今度はワルター様が付けてください」と彼女は言った。

フィーはパウル様が名付けた。侯爵家に縁のある名前を特別に与えてくれたらしい。それはフィーが侯爵家にとって特別な存在だというメッセージだ。

「俺はセンスがないからお前が考えろよ」と彼女に丸投げした。

「じゃあ、男の子ならワルター様が、女の子なら私がつけましょう?」そう言って彼女は幾つか名前の候補を上げた。

彼女は読書家だから、色んな名前が出てくる。

嬉しそうに由来を語りながら、彼女は時々咳をした。

「無理すんな」

「でも楽しいんですもの」涙目になりながらテレーゼは笑っていた。

「もっと未来の話をしましょう?孫の名前はいかがです?」と言う彼女に呆れた。それは先すぎやしないか?

「ワルター様は?男の子ならなんて付けますか?」

「…男の子」なんか想像つかないな…

「次会う時の宿題にしといてくれ」と誤魔化した。

テレーゼはその返事に「きっとですよ」と念を押した。

そんなに急がなくて良いだろ?まだもうちょっと先の話だ…

彼女の額に接吻て、ベッドに寝かせた。

「もういい加減寝ろよ?隣にいてやるからさ…」

「でも…」

「本当は抱きたいけどさ、無理だから、めちゃくちゃ我慢して手を繋いでるよ。良いだろ?そのくらい許してくれよ?」

俺の最大限の譲歩を、彼女は少し困ったような笑顔で許してくれた。

「ありがとうございます」とベットの中で笑う姿を目に焼き付けた。

またこうやって過ごせると信じたかった…

✩.*˚

ワルター様の帰る時間はあっという間に来てしまった。

一緒に昼食を食べて、見送りに出た。

カナルへの帰り支度を済ませたワルター様は、アイリスの背に乗る前に最後にハグをくれた。

「身体を大事にな」と言う彼の言葉が沁みた。

「…はい…お手紙書きます…きっと」

「待ってる」と彼は笑って頭を撫ででくれた。その手の優しさに涙が出そうになる。

ワルター様は苦笑いして、一緒に見送りに出ていた、お義父様に視線を向けた。

「親父。世話になる。テレーゼを頼む」

「任せろ。できる限りの事はする」とお義父様は頼もしく応じて下さった。

それに頷いて、ワルター様はアイリスの背に乗った。

もう行ってしまう…

「…あ、そうだ」と間の抜けた声で言って、ワルター様は乗馬用の手袋を脱ぐと、中から取り出したものを私に投げた。

放物線を描きながら手のひらに収まったのは1枚のコインだ。

「それ投げてな、表が出ると叶うらしいぞ」と彼は笑った。

知ってますよ…私があげたんですから…

表しか出ないコインは私の元に帰ってきた。

「毎日投げ続けろ」と言葉を残して彼は振り返りもせずに行ってしまった…

それで格好つけたつもりですか?

拍子抜けするほどあっさりと、ワルター様はカナルに帰って行ってしまった。

「もっとごねると思いましたがね…」と傍らでシュミット様が呟いた。私もそう思ってた。少し寂しい…

それを察したシュミット夫人が私の肩に手を添えて慰めてくれた。

「奥様の負担にならないように、お別れを早めに済まされたのでしょう?

奥様も早くお屋敷にお戻りくださいませ。疲れては身体に障ります」

ラウラのおっとりとした優しい声は耳に優しい。

アンネの心配そうな視線に苦笑いを返して、屋敷に向けて踵を返した。

本当は、お別れに四葉をお渡ししたかったのに、渡せなかったな…

今度会うまでの私の宿題だ…

アイリスは知ってて邪魔したのかしら?まさかね…

手の中に収まったコインを眺めて、久しぶりにお願い事をして宙に投げた。

私の元に戻ってきたコインは、やっぱり表だった。

✩.*˚

「良いんですか?あれだけで?」とレオンが俺に訊ねた。

良いわけねぇだろ…でもあそこでダラダラしたら、今度こそ離れられなくなる…

「仕方ねぇだろ?二日の約束だ…

約束に遅れたらギルにキレられちまうよ」

「兄さんは意外と情が深いんですよ。そんな事では怒りませんよ」とレオンは笑った。

彼はこの仕事が済んだら、カーティスとシュタインシュタットに向かうらしい。

「エドガーが師匠を見て『おばけー!』って叫んでましたよ。おねしょしないと良いんですが…」と楽しそうに話して笑いを誘った。

確かに、あの男は人間よりおばけの方がしっくりくるな…

「私もしばらくお別れですね。

忘れないでくださいよ?」

「忘れねぇよ。お前は使えるやつだからな。またヤバくなったら呼び出すさ」

「人使いが荒いなぁ…」とボヤきながら、レオンは楽しそうに笑った。

「暇しねぇだろ?いい事じゃねぇか?」

「まぁ、お役に立てるなら馳せ参じますよ。可能な限りでね」

レオンは人の良い笑顔でそう答えた。

「ところで、これはもう外していいのか?」と手首に結んだままの紐を見せて訊ねた。

「いやぁ…勝手にするのはちょっと…」とレオンは回答を避けた。

「あたしのいない所で、外しちゃァダメですよォ…」

ゾッとする声が背後から聞こえた。ビビった…

カーティスは、気味の悪い薄ら笑いを浮かべながら、馬の背に揺られていた。

「スーとあたしがいる時の方がいいでしょうねェ…

《冬の王》はロンメル男爵を見失って、今頃ご立腹でしょうから」

そういえば使う必要がなかったから、気にしてなかったが、これをしてる間は《祝福》が暴走することはなかった。

「それはねェ、本当は《祝福》を持った人間の処刑用の道具なんですよォ」とカーティスは物騒な事を告げた。こいつの口から聞くと余計にゾッとする。

「この秘術も、全部レオンに継がせます。

うふふ…頼もしい限りですねェ…」

カーティスはそう言って嬉しそうに不気味に笑った。

「彼は物覚えも良さそうだし、良い《カーティス》になるでしょうねェ…うふふ」

「だ、そうです。

しばらくブルームバルトには戻れないでしょうが、私の家族をよろしくお願いします」

「分かってるよ。心配すんな」とレオンの頼みを安請負した。

「あれは俺とテレーゼの街だ。誰にも渡さねぇよ」

俺とテレーゼの帰る場所だ…

必ず守ると心に誓った。
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