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幕引き
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抑えようのない怒りが腸を焦がした。
俺たちの街が汚された…
皆で小さな町から作り上げてきた街だ!
ワルターが!テレーゼが!俺たちが育てた街だ!
グスタフの腕に支えられたレオンの姿が、あの岸で見たオーラフに重なった…
あんな寂しい思いはもうしたくない。
俺の不甲斐ない苦い過去と向き合った。
オーラフを死なせ、ソーリューの助けにもなれなかったあの時とは違う。
俺は強くなったから…皆を守るよ…
「さて、どうするかな?」とアーサーがため息混じりに呟いた。彼も、この街の惨状に怒っていた。
「これ以上、連中がこの街に出入りできないようにしてくれ」
「了解」と要求を快諾した男は包帯を取った。
包帯の下から覗いたのは、あの不気味に変わった目玉だ。黒くなった左目の瞳が赤く光った。
「まぁ、ものは試しだ。使ってみるか…
《拒絶の城砦》」
言葉を合図に、《祝福》で構築された防殻がアーサーの足元から青白い波のように広がった。
広がった青白く光る波は街を飲み込んで、ブルームバルトを囲うカーテンウォールの壁を上り、ドームのような屋根を作った。
そこまで求めてなかったんだけど…
「…やるじゃん」
「…俺も人間やめちまったみたいだ」と彼はボヤいた。自分でも驚いているようだ。
いつもの『神様に愛されてる』云々はどうしたよ?
「スー、どうやら俺は神様じゃなくて悪魔に好かれたらしい…」
「何だよ?藪から棒に…話なら後で聞いてやるよ」とアーサーの話を遮って、目の前の敵に向き直った。
「加減しないからな」と断って弓を構えた。
「お好きにどうぞ」
アーサーはもう諦めたように肩を竦めて苦く笑った。
「ワルターがキレるよりマシさ」と言い訳して矢のない弓を引いた。指輪の魔石から白く光る雷光の矢を放った。
矢は《ネーレーイス》から逃げる兵士に降り注いだ。
さすがに魔力の消費がエグイな…
バタバタと倒れるオークランド兵を一瞥して、また弓弦に手をかけた。
「スー!」急にアーサーが声を上げた。
緊迫した警告の声に気を引かれて、半歩足を引いた瞬間、飛んできた矢が顔を掠めた。
「あっぶね!」矢の飛んできた方に視線を向けると、次の矢を構える男の姿があった。
他の兵士らよりいい装備をしているから、ここを預かってる隊長か何かだろう。
「あの乱入者を始末しろ!」と彼は声高に叫んで、また矢を番えた弓弦を引き絞った。
「…弓勝負か、いいね」と笑って、飛んでくる矢を躱した。
「受けてやるよ、魔法は無しだ!」
自分の矢筒から白い矢を一本取り出して構え、魔法を乗せずに矢を放った。
雪鷹の矢は、一筋の軌跡を描いて男に届いた。喉元を矢で貫かれ、彼は何も無い場所に矢を放って動かなくなった。
「次は誰だ?!」
俺の問いかけに応えたのは、リーダーを失った群れの悲鳴だ。
狼に追われる羊の群れのように、オークランドの兵士たちは我先にと逃げ出した。
その逃げる背中に容赦なく魔法の矢を放った。
逃げ場はない。
彼らは鳥籠の中で泣き喚きながら羽ばたく金糸雀だ…
お前たちは、ここで死ぬ運命なんだよ…
そんな風に腹の中で笑った俺の口元に、嘲笑が張り付いていた。
✩.*˚
「降りてこい!」と男は何度も叫んでいたが、地上に降りるつもりは無かった。
相手の《祝福》が地面を操るものである以上、おいそれと地に足をつける訳にはいかなかった。
地面から生える腕は、相変わらず俺に向かって伸び続けていた。
どうしたものか…
このまま逃げ回っているだけでも埒が明かない。
あの男にも何度も火の玉をぶつけているが、隆起する地面に阻まれて届かない。
地属性の魔法とはあんなに硬いものなのか?
《地獄炎》では無いにしても、《炎獅子》の炎だぞ…
「貴様の存在は《悪》だ!
お前の存在が人の心を惑わし、ルフトゥ神への信仰を奪ったのだ!私は断じて貴様を許すことは出来ぬ!」
「…グルルル」
喉の奥で唸り声が洩れた。
全く…俺の苦労も知らずに好き勝手言って…
俺が好きでこんな《祝福》を手に入れて、《神紋》まで刻まれて、こんな姿で戦ってるとでも思ってるのか?
炎で出来た翼を羽ばたかせながら、くそ真面目で面倒くさい男の姿を辟易して見下ろした。
彼は俺に向かって右手を伸ばした。
また地面がゴッソリと抉れて太い腕が出現する。
彼の左手は、自分の首から提げたルフトゥの十字架を握っていた。
大袈裟に神を賛美しながら《祝福》を操る姿は、俺のうんざりさせた。
自分のために生きようとしている、今の俺とは正反対な男だ…
《祝福》と《信仰》に囚われた哀れな男だ…
この男は死ぬまでこうなのだろう…
引き摺り落とそうとする土の腕に火球を見舞った。腕は姿を保てずに大量の土砂が地に降り注いだ。
「何度やっても同じだ」
獣の姿で言葉を発した俺に、彼は少し驚いたようだった。
見上げていた燃えるような色の瞳は、すぐに怒りの色を取り戻して俺を睨んだ。
「貴様を倒すまで私の役目は終わらない!」と、彼はよく通る声で叫んだ。
「私はこの戦場に、ウィンザーの民を救うために来たのだ!
死んでいった部下のためにも私は貴様を倒す!
ルフトゥ神の名代として、断じて貴様らの存在を許す訳にはいかぬ!」
「全て他人のせいか?」
「なん…だと?」
「俺は俺のために戦うと決めた」と告げて、少しだけ彼に近付いた。
「この街は、俺の友の街で、ここには俺の家族も暮らしている。
この街が無くなったら困るのは俺自身だ。
だから戦っている」
彼はさっきまで雄弁に語っていた口を閉ざして、俺を睨んでいた。返す言葉を探しているように見えた。
握った左手は相変わらず首元にあった。
「…私は…あの人のために…」
この男は自分がないのか?
聖職者の鏡のような男だが、人間としては未熟に思えた。
「私はルフトゥ神の使徒だ!
神と国にこの身を捧げ、心を尽くしてお仕えする聖騎士だ!
貴様のような《悪魔》に耳を傾ける事は無い!」
彼は必死に決まり文句のようなつまらない言葉を並べた。それは自分に言い聞かせるようなセリフで、冷めた俺の感情を動かすことは無かった。
この哀れな聖職者の生真面目な言葉より、ロンメルの呆れるような馬鹿げた言葉の方が俺の心には沁みた…
悪かったな…
そんな感情が湧いた。
もしかしたら、ロンメルならこの男を救えたかもしれない…
あのどうしようもないお人好しは、無駄に広すぎる懐で掻き集めた奴らを救っているのだ…
俺には、このどうしようもなく哀れな男の心を救うには役不足だった…
✩.*˚
何故だ!
なぜそんな哀れむような目で私を見る?!
目の前の《悪魔》は私の敵だ!それなのに…
縋るようにシェリル様の十字架を握った。
『全て他人のせいか?』
その言葉が私の脆弱さを暴いた。
どんなに強がって振舞っても、私には私が無いのだ…
これまでの人生で、嫌という程知っていた。目を逸らし続けていた…
《献身》とは名ばかりで、自分さえ無ければ、傷つくこともないから…
全ての良い事も、悪い事も…他人のせいにできるのだ…
だから私はずっと…大丈夫じゃないのに、《大丈夫》と言い聞かせて生きてきた…
歪んだ精神のまま神に仕えていた…
胸の奥で泣く、幼いままの自分を無視し続けていた…
『僕を捨てないで』と押さえ込んでいた子供の心の声が溢れた。
『シェリル様と…一緒に居たかった…』
『彼らに生きてて欲しかった…』
『戦争なんて行きたくなかった…』
『殺したくない』
『帰りたい』
子供の声は次第に大きくなる。
そんな事言えるはずもない!お前の我儘など聞きたくもない!
『もう止めよう?ね?』
「…黙れ」黙ってくれ…弱く囁く声は私のものでは無い…
囁くな!私の中の《悪魔》め!
握っていた十字架から手を離し、自らを奮って拳を握った。
私の戦おうとする姿を見て、目の前の獣が警戒するように翼を持ち上げた。また空に逃げるつもりだ。
地面から伸びた腕が獅子に届く前に、翼から放たれた熱風に負けて姿を保てなくなる。
《祝福》が弱くなっている。
人としての限界に近づいていた。
これ以上は命に関わるだろう…それでも…
「ルフトゥ神に誓って、貴様を倒す!」
まだそんな事を言っている自分が滑稽だった。
私は死ぬその瞬間まで、シェリル様の誇れる息子として振る舞わねばならないのだ!
さらに《御腕》を伸ばそうとした時、足元を青い波が通り抜けた。
「何?!」駆け抜けた青白い光はカーテンウォールにぶつかって壁を駆け上がった。
そのまま光は空に昇って、ドーム状の天井を作った。
目の前の獣が慌てて空中に舞い上がって、青白く光る天井に火球を放った。
壁にぶつかって火球は霧散した。
強力な一撃を受けても、青白い壁は揺らぐことは無かった。
炎の獅子は、突如できた檻の中で慌てふためいている。私など眼中に無い。
今なら、と青白く光る地面から《御腕》を呼んだ。
「…なんだと?」《御腕》が伸びない…
「マクレイ卿、どうされたのです?」と私の異変に気づいた兵士が問いかけた。
視線を巡らすと、門の内側と外側で隔たりができていた。
門の外で叫んでいる声さえ届かない。こちらからも同じだろう。
完全に隔離された…
地面に触れたが、青い光に阻まれて、大地と切り離されてしまった。
「…くそっ!」
最後の抵抗と、剣を手に取った。
こんな終わり方か?こんな不名誉な…
「止めろ」と獅子が呟いて地面に降りてきた。壁を壊すのを諦めたらしい。
「お前の相手をしていられなくなった。
これが何なのか分からない以上、お前らに関わっている余裕はない」
「私はまだ負けていない!」と叫んだ私に、獅子は面倒くさそうにため息を吐いた。
「剣を抜いたということは、あの腕は使えないのだろう?
外の奴らとも隔絶されて孤立しているのだろう?諦めろ」
私の強がりを悟って、獣は翼を広げた。
熱風を巻き起こして、舞い上がった獅子は、見下すように説教した。
「誰かのせいにするのは楽だ…
だが、それではお前はいつまで経っても子供のままだぞ。大人なら、自分の意思をもち、責任を果たせ。
お前は子供じゃないだろう?」
耳に痛い言葉を残して、炎を纏った獣は空に消えた。
✩.*˚
あの男が諦めれば良いのだが…
そう思いながら空から街を見下ろした。
少し焦っていた…
あの青い波が駆け抜けた後、俺が地面に引いた《地獄炎の境界》が消えたからだ。
つまり、もうひとつの炎の壁も消えてる可能性があった…
「アニタ…エドガー…」
ロンメルの屋敷の守りが消えてしまったとしたら一大事だ!
空から眺めた街の西側に、巨大な女の姿をした化け物が見えた。
「…あれは」どこかで見たことがある気が…
ロンメルの屋敷か、あちらに行くべきか迷った…
でも、守るならロンメルの屋敷が優先だ。
あそこには女子供や老人しか居ない。
守りもほとんど残してなかった…
「何だ!あの化け物は!」と下から声が上がった。
視線をめぐらすと、眼下に広がる街並みに、武装した男たちの姿があった。彼らを守るように、小さな獣たちが壁を作っていた。
「大ビッテンフェルトか?!」
「何者だ?!」とデカい誰何が返ってくる。やっぱりあの男だ。
「俺だ!ギルバート・エインズワースだ!」と答えて、彼らの前に降りた。
「エ、エインズワース?!その姿は一体…」
「レオンはどうした?!お前たちの加勢に行ったはずだ!」
「やあ、兄さん…」と弱々しい声がでかい爺さんの背から聞こえた。背負われていたレオンの口元には血の跡があった。
「ちょっと油断してて…」と言い訳をしたレオンに、爺さんが簡単に言葉を付け足した。
「胸に矢を受けた。
タイミングよくスーとアーサーが来なかったら危なかった…」
「スー?アーサー?」何であいつらが?
クソっ!訳の分からないことばかりだ!
「怪我は?」とレオンの顔を覗き込むと彼は困った顔で笑った。
「スーが傷口を塞いでくれました、大丈夫です。
私より兄さんの方がおかしなことになってませんか?」
「…言うな」
「かっこいいですよ。エドガーが喜びそうだ」と、レオンは弱った声で俺を茶化した。
軽口を叩けるくらいには元気らしい…
「さっきの青い波はあいつらの仕業か?」と爺さんに訊ねた。
「分からん。俺たちもあいつらと別れた後の事だからな…とにかく、俺たちはロンメル邸に向かってる途中だ。
お前の方は片付いたのか?」
「いや、片付いたとは言えないが…
ロンメルの屋敷の周りに施した、炎の壁が消えた可能性がある。急いで確認に向かうところだ」
「なるほど、了解した。そっちが優先だ。俺たちも後から追いつく」と爺さんが頷いた。
「大丈夫か?」と確認すると、レオンが大ビッテンフェルトの背から応えた。
「私もネズミたちもいますから」
「お前が一番心配だ」
「これは手厳しい…」と彼は苦笑いした。
「レオンを頼む」と彼らに任せて、また空に戻った。
遠くに見えたあのデカい女はスーの精霊か…
前に戦った時より大きい気がするが、あいつの力がそれだけ大きくなったということか?
《祝福》もないくせに、なんて奴だ…
ロンメルの屋敷に着くと、やはり炎の壁が消えていた。
僅かな手勢だが、ロンメルの屋敷に到達してる兵士の姿があった。
どこかが抜かれたらしい。
屋敷に残していた連中では対処しきれない。
屋敷の門は既に破壊されて、その役目を失っていた。
敷地内に入ろうとするオークランド兵の姿にゾッとした。
「止めろ!」と怒鳴って翼を畳むと、兵士らの向かう先に急降下して道を塞いだ。
いきなり現れた化け物の姿に、敵味方から悲鳴が上がった。
屋敷の前に立ち塞がって、オークランド兵に燃える翼を見せつけた。
「死にたくなかったらこの屋敷から出て行け!」と獅子の姿で吼えた。
炎の翼を広げて立ち塞がる獣の姿に、オークランドの兵士らは恐れを為して逃げ出した。
それはそうだろう…今の俺は化け物だ…
少し凹んだ…
でもそうも言っていられない…
急いで屋敷の周りを確認した。
まだ屋敷の出入口も、勝手口も塞がれたままだ。
安堵したのも束の間、二階の大きな窓が開いていた。まさかあそこからも…
「ママー!ライオンだよォ!燃えてる!」と子供が窓から顔を出した。
あの子供は…
ロンメルがエドガーの遊び相手にと、何度か連れて来た子供だ。
「ダメ!ルド危ないわよ!」母親が慌てて子供を部屋に引っ張りこんだ。
翼を広げて舞い上がると、開いたままの窓に近付いた。
「きゃー!」
俺の姿を見た母親は、金切り声を上げながら、部屋にあるものを手当り次第投げてきた。
「待て!敵じゃない!」と言った俺の声を聞いた子供が首を傾げた。
「おじさん、エドガーのパパ?」
「えっ?」子供の言葉に、物を投げつけてくる母親の手が止まった。俺と子供を交互に見て驚いている。
「お声が同じだよ」と子供は無邪気な笑顔で笑った。
「エドガーのパパだ」と子供に答えて、「皆無事か?」と確認した。
「みんなね、下にいるよ」と子供は答えてくれた。
「そうか、ありがとう」と答えて、答えてくれた礼に、「スーとアーサーも来てるらしい。今戦っている」と教えてやった。
「スーが?!」と母親は驚いていた。
「パパ帰ってきたの?」と子供は嬉しそうに母親を見上げた。
「俺が空から屋敷を守ってやる。
屋敷の奴らに、俺の事は怖がらなくていいと伝えてくれ」と伝言を残して、窓から離れた。
「エドガーのパパ!」と子供の声が俺を呼んだ。
「がんばって!」と言う子供の声援に頷いて、空に戻った。
あの一言で、全て報われたような気がした。
✩.*˚
「奥様!奥様!」スカートをたくし上げた姿のミアが走ってきた。彼女はルドとスー様の部屋に居たはずだ…
「どうしたの?」嫌な報告かもと、胸がざわついた…
私の不安とは裏腹に、駆け寄ってきたミアの表情は明るかった。
「スーとアーサーが来てくれました!」
「…本当に?」と確認すると、彼女は興奮した顔で何度も頷いた。
「エインズワースのお兄さんの話です。
彼も屋敷の周りを守ってくれています」
「ギル様が…」ワルター様から彼の事は聞かされていた。
ワルター様と同じ、《神紋》を持った《英雄》だ。
彼の存在は心強かった…
戦いから遠のいていたのに、私たちのために戦ってくれている…
「何故か姿が変わってしまってましたが、そういう能力なのでしょうか?」とミアは首を傾げていた。
「私も《祝福》はよく分からないわ…」と答えた。
でも以前、ワルター様もお姿を変えたことがあったから、案外あることなのかも…
そんな事を考えていると、お義父様が戻られたと報告があった。
私たちのために戦ってくれていた彼らは酷い有様だ。
屋敷まで来れた人たちはまだ良い方だ…
ラウラたちに庭に並んだ怪我人の手当を頼んで、私も重傷者の治癒を引き受けた。
「怪我の酷い人から《白い手》で治療します」と告げた私を、アンネが引き留めた。
「いけません奥様…」彼女の目は真剣だった。
「アンネ、私はロンメル夫人よ」
「でも…」と彼女は私の身を案じた。彼女の瞳が潤んだ。彼女の言いたいことは分かっている…
「終わったら、ちゃんと休むから…無理しないから…ね?」
「…約束ですよ」
「ありがとう、アンネ」
渋々譲ってくれた彼女に、眠ってしまっていたフィーを預けて、屋敷の外に出た。
屋敷の空を見上げると、屋敷の上を、鳥のような姿の何かが滑空していた。
屋敷を見守ってくれているようだ…
その姿が心強く感じられた…
庭に並んだ重傷者の元に向かった。
「テレーゼ様…」
「この場の誰も死なせません」と告げて、傷の酷い人から治癒を開始した。
「ブルームバルトのために戦って下さり、ありがとうございます」と一人一人に言葉をかけながら《白い手》を翳した。
私は…少しは彼らの役に立てたのだろうか…
ワルター様…私は《英雄》の妻として、相応しい働きができてますか?
✩.*˚
「ダメです!完全に分断されました!」
部下の報告に舌打ちをして、目の前の青白い壁を睨んだ。
突如出現した青白い壁に阻まれて、中に入った兵士らとの連携が取れなくなってしまった。
入る事も、出てくる事もできない。
試しに穴を掘らせてみたか無理だったようだ…
南門から入ったはずのマクレイ卿は何をしているのだ?
西門は一度落ちたはずだが、その後、制圧したなどの報告は一切なかった。
時間は刻一刻と過ぎていく。暁までのタイムリミットは確実に近づいていた。
やはり無理だったのか?
ただの街と軽く見て侮っていた自分を恥じた。
今、私の前には、中に入った兵士らを諦めて撤退するか、ここでブルームバルトへの援軍を迎え撃つかの二択しか無かった。
「メイヤー閣下、ご決断を…」
部下たちに決断を迫られる…
中に送り込んだ部隊より、外に控えさせている者の方が圧倒的に多い…
しかし、中には、あの《黄金樹の騎士団》がいる…
あの男を失うのは痛手だ…
しかし、そのために軍隊を心中させる訳にもいかない…
思考は堂々巡りを続けた。
「伝令!」
山の中腹で街道を見張らせていた、伝令が駆け込んできた。
「街道の北に明かりを確認しました。
恐らく方角から見て南部侯からの援軍かと…詳細についてはまだ分かりかねます」
「早すぎる…」と呻いたが、結果は変わらないだろう…
「閣下!ご決断を!」裁可を迫る声が鬼気迫るものに変わる。
「…止むを得まい」と自分に言い聞かせるように呟いて命令を下した。
「ブルームバルトの包囲を解け。
ブラウバルトの裏から回って、別の経路でカナルの本陣に合流する」
ここまでの作戦で兵も疲弊している。数の分からない南部侯の軍を正面から相手にすることは出来なかった。
失敗とまでは言わないが、欲を言えばもう少し結果を残したかったのも事実だ…
ため息を吐いて、青白く光る壁を睨んだ。
「また来る」と短く吐き捨て、ブルームバルトからの《撤退》を命じた。
包囲が解け、軍隊が向きを変えた。
この屈辱はいつか雪がねばならない…
ヴェルフェルめ…随分と良い手札を揃えているではないか?
父親も食えない男だったが、息子たちもなかなか一筋縄にはいかんな…
「口惜しい結果ですな…」と側近が悔しさを滲ませた。ここまで上手くいっていただけに、この挫折は堪えた。
「嘆くな、予定調和とならぬのが戦だ…
《騎行》は続ける。最後まで気を抜くでないぞ」
「お供致します」と僅かに明るくなった声で応えて、騎士は佇まいを正した。
遠くなるブルームバルトの明かりを睨み、再戦を誓って背向けた。
俺たちの街が汚された…
皆で小さな町から作り上げてきた街だ!
ワルターが!テレーゼが!俺たちが育てた街だ!
グスタフの腕に支えられたレオンの姿が、あの岸で見たオーラフに重なった…
あんな寂しい思いはもうしたくない。
俺の不甲斐ない苦い過去と向き合った。
オーラフを死なせ、ソーリューの助けにもなれなかったあの時とは違う。
俺は強くなったから…皆を守るよ…
「さて、どうするかな?」とアーサーがため息混じりに呟いた。彼も、この街の惨状に怒っていた。
「これ以上、連中がこの街に出入りできないようにしてくれ」
「了解」と要求を快諾した男は包帯を取った。
包帯の下から覗いたのは、あの不気味に変わった目玉だ。黒くなった左目の瞳が赤く光った。
「まぁ、ものは試しだ。使ってみるか…
《拒絶の城砦》」
言葉を合図に、《祝福》で構築された防殻がアーサーの足元から青白い波のように広がった。
広がった青白く光る波は街を飲み込んで、ブルームバルトを囲うカーテンウォールの壁を上り、ドームのような屋根を作った。
そこまで求めてなかったんだけど…
「…やるじゃん」
「…俺も人間やめちまったみたいだ」と彼はボヤいた。自分でも驚いているようだ。
いつもの『神様に愛されてる』云々はどうしたよ?
「スー、どうやら俺は神様じゃなくて悪魔に好かれたらしい…」
「何だよ?藪から棒に…話なら後で聞いてやるよ」とアーサーの話を遮って、目の前の敵に向き直った。
「加減しないからな」と断って弓を構えた。
「お好きにどうぞ」
アーサーはもう諦めたように肩を竦めて苦く笑った。
「ワルターがキレるよりマシさ」と言い訳して矢のない弓を引いた。指輪の魔石から白く光る雷光の矢を放った。
矢は《ネーレーイス》から逃げる兵士に降り注いだ。
さすがに魔力の消費がエグイな…
バタバタと倒れるオークランド兵を一瞥して、また弓弦に手をかけた。
「スー!」急にアーサーが声を上げた。
緊迫した警告の声に気を引かれて、半歩足を引いた瞬間、飛んできた矢が顔を掠めた。
「あっぶね!」矢の飛んできた方に視線を向けると、次の矢を構える男の姿があった。
他の兵士らよりいい装備をしているから、ここを預かってる隊長か何かだろう。
「あの乱入者を始末しろ!」と彼は声高に叫んで、また矢を番えた弓弦を引き絞った。
「…弓勝負か、いいね」と笑って、飛んでくる矢を躱した。
「受けてやるよ、魔法は無しだ!」
自分の矢筒から白い矢を一本取り出して構え、魔法を乗せずに矢を放った。
雪鷹の矢は、一筋の軌跡を描いて男に届いた。喉元を矢で貫かれ、彼は何も無い場所に矢を放って動かなくなった。
「次は誰だ?!」
俺の問いかけに応えたのは、リーダーを失った群れの悲鳴だ。
狼に追われる羊の群れのように、オークランドの兵士たちは我先にと逃げ出した。
その逃げる背中に容赦なく魔法の矢を放った。
逃げ場はない。
彼らは鳥籠の中で泣き喚きながら羽ばたく金糸雀だ…
お前たちは、ここで死ぬ運命なんだよ…
そんな風に腹の中で笑った俺の口元に、嘲笑が張り付いていた。
✩.*˚
「降りてこい!」と男は何度も叫んでいたが、地上に降りるつもりは無かった。
相手の《祝福》が地面を操るものである以上、おいそれと地に足をつける訳にはいかなかった。
地面から生える腕は、相変わらず俺に向かって伸び続けていた。
どうしたものか…
このまま逃げ回っているだけでも埒が明かない。
あの男にも何度も火の玉をぶつけているが、隆起する地面に阻まれて届かない。
地属性の魔法とはあんなに硬いものなのか?
《地獄炎》では無いにしても、《炎獅子》の炎だぞ…
「貴様の存在は《悪》だ!
お前の存在が人の心を惑わし、ルフトゥ神への信仰を奪ったのだ!私は断じて貴様を許すことは出来ぬ!」
「…グルルル」
喉の奥で唸り声が洩れた。
全く…俺の苦労も知らずに好き勝手言って…
俺が好きでこんな《祝福》を手に入れて、《神紋》まで刻まれて、こんな姿で戦ってるとでも思ってるのか?
炎で出来た翼を羽ばたかせながら、くそ真面目で面倒くさい男の姿を辟易して見下ろした。
彼は俺に向かって右手を伸ばした。
また地面がゴッソリと抉れて太い腕が出現する。
彼の左手は、自分の首から提げたルフトゥの十字架を握っていた。
大袈裟に神を賛美しながら《祝福》を操る姿は、俺のうんざりさせた。
自分のために生きようとしている、今の俺とは正反対な男だ…
《祝福》と《信仰》に囚われた哀れな男だ…
この男は死ぬまでこうなのだろう…
引き摺り落とそうとする土の腕に火球を見舞った。腕は姿を保てずに大量の土砂が地に降り注いだ。
「何度やっても同じだ」
獣の姿で言葉を発した俺に、彼は少し驚いたようだった。
見上げていた燃えるような色の瞳は、すぐに怒りの色を取り戻して俺を睨んだ。
「貴様を倒すまで私の役目は終わらない!」と、彼はよく通る声で叫んだ。
「私はこの戦場に、ウィンザーの民を救うために来たのだ!
死んでいった部下のためにも私は貴様を倒す!
ルフトゥ神の名代として、断じて貴様らの存在を許す訳にはいかぬ!」
「全て他人のせいか?」
「なん…だと?」
「俺は俺のために戦うと決めた」と告げて、少しだけ彼に近付いた。
「この街は、俺の友の街で、ここには俺の家族も暮らしている。
この街が無くなったら困るのは俺自身だ。
だから戦っている」
彼はさっきまで雄弁に語っていた口を閉ざして、俺を睨んでいた。返す言葉を探しているように見えた。
握った左手は相変わらず首元にあった。
「…私は…あの人のために…」
この男は自分がないのか?
聖職者の鏡のような男だが、人間としては未熟に思えた。
「私はルフトゥ神の使徒だ!
神と国にこの身を捧げ、心を尽くしてお仕えする聖騎士だ!
貴様のような《悪魔》に耳を傾ける事は無い!」
彼は必死に決まり文句のようなつまらない言葉を並べた。それは自分に言い聞かせるようなセリフで、冷めた俺の感情を動かすことは無かった。
この哀れな聖職者の生真面目な言葉より、ロンメルの呆れるような馬鹿げた言葉の方が俺の心には沁みた…
悪かったな…
そんな感情が湧いた。
もしかしたら、ロンメルならこの男を救えたかもしれない…
あのどうしようもないお人好しは、無駄に広すぎる懐で掻き集めた奴らを救っているのだ…
俺には、このどうしようもなく哀れな男の心を救うには役不足だった…
✩.*˚
何故だ!
なぜそんな哀れむような目で私を見る?!
目の前の《悪魔》は私の敵だ!それなのに…
縋るようにシェリル様の十字架を握った。
『全て他人のせいか?』
その言葉が私の脆弱さを暴いた。
どんなに強がって振舞っても、私には私が無いのだ…
これまでの人生で、嫌という程知っていた。目を逸らし続けていた…
《献身》とは名ばかりで、自分さえ無ければ、傷つくこともないから…
全ての良い事も、悪い事も…他人のせいにできるのだ…
だから私はずっと…大丈夫じゃないのに、《大丈夫》と言い聞かせて生きてきた…
歪んだ精神のまま神に仕えていた…
胸の奥で泣く、幼いままの自分を無視し続けていた…
『僕を捨てないで』と押さえ込んでいた子供の心の声が溢れた。
『シェリル様と…一緒に居たかった…』
『彼らに生きてて欲しかった…』
『戦争なんて行きたくなかった…』
『殺したくない』
『帰りたい』
子供の声は次第に大きくなる。
そんな事言えるはずもない!お前の我儘など聞きたくもない!
『もう止めよう?ね?』
「…黙れ」黙ってくれ…弱く囁く声は私のものでは無い…
囁くな!私の中の《悪魔》め!
握っていた十字架から手を離し、自らを奮って拳を握った。
私の戦おうとする姿を見て、目の前の獣が警戒するように翼を持ち上げた。また空に逃げるつもりだ。
地面から伸びた腕が獅子に届く前に、翼から放たれた熱風に負けて姿を保てなくなる。
《祝福》が弱くなっている。
人としての限界に近づいていた。
これ以上は命に関わるだろう…それでも…
「ルフトゥ神に誓って、貴様を倒す!」
まだそんな事を言っている自分が滑稽だった。
私は死ぬその瞬間まで、シェリル様の誇れる息子として振る舞わねばならないのだ!
さらに《御腕》を伸ばそうとした時、足元を青い波が通り抜けた。
「何?!」駆け抜けた青白い光はカーテンウォールにぶつかって壁を駆け上がった。
そのまま光は空に昇って、ドーム状の天井を作った。
目の前の獣が慌てて空中に舞い上がって、青白く光る天井に火球を放った。
壁にぶつかって火球は霧散した。
強力な一撃を受けても、青白い壁は揺らぐことは無かった。
炎の獅子は、突如できた檻の中で慌てふためいている。私など眼中に無い。
今なら、と青白く光る地面から《御腕》を呼んだ。
「…なんだと?」《御腕》が伸びない…
「マクレイ卿、どうされたのです?」と私の異変に気づいた兵士が問いかけた。
視線を巡らすと、門の内側と外側で隔たりができていた。
門の外で叫んでいる声さえ届かない。こちらからも同じだろう。
完全に隔離された…
地面に触れたが、青い光に阻まれて、大地と切り離されてしまった。
「…くそっ!」
最後の抵抗と、剣を手に取った。
こんな終わり方か?こんな不名誉な…
「止めろ」と獅子が呟いて地面に降りてきた。壁を壊すのを諦めたらしい。
「お前の相手をしていられなくなった。
これが何なのか分からない以上、お前らに関わっている余裕はない」
「私はまだ負けていない!」と叫んだ私に、獅子は面倒くさそうにため息を吐いた。
「剣を抜いたということは、あの腕は使えないのだろう?
外の奴らとも隔絶されて孤立しているのだろう?諦めろ」
私の強がりを悟って、獣は翼を広げた。
熱風を巻き起こして、舞い上がった獅子は、見下すように説教した。
「誰かのせいにするのは楽だ…
だが、それではお前はいつまで経っても子供のままだぞ。大人なら、自分の意思をもち、責任を果たせ。
お前は子供じゃないだろう?」
耳に痛い言葉を残して、炎を纏った獣は空に消えた。
✩.*˚
あの男が諦めれば良いのだが…
そう思いながら空から街を見下ろした。
少し焦っていた…
あの青い波が駆け抜けた後、俺が地面に引いた《地獄炎の境界》が消えたからだ。
つまり、もうひとつの炎の壁も消えてる可能性があった…
「アニタ…エドガー…」
ロンメルの屋敷の守りが消えてしまったとしたら一大事だ!
空から眺めた街の西側に、巨大な女の姿をした化け物が見えた。
「…あれは」どこかで見たことがある気が…
ロンメルの屋敷か、あちらに行くべきか迷った…
でも、守るならロンメルの屋敷が優先だ。
あそこには女子供や老人しか居ない。
守りもほとんど残してなかった…
「何だ!あの化け物は!」と下から声が上がった。
視線をめぐらすと、眼下に広がる街並みに、武装した男たちの姿があった。彼らを守るように、小さな獣たちが壁を作っていた。
「大ビッテンフェルトか?!」
「何者だ?!」とデカい誰何が返ってくる。やっぱりあの男だ。
「俺だ!ギルバート・エインズワースだ!」と答えて、彼らの前に降りた。
「エ、エインズワース?!その姿は一体…」
「レオンはどうした?!お前たちの加勢に行ったはずだ!」
「やあ、兄さん…」と弱々しい声がでかい爺さんの背から聞こえた。背負われていたレオンの口元には血の跡があった。
「ちょっと油断してて…」と言い訳をしたレオンに、爺さんが簡単に言葉を付け足した。
「胸に矢を受けた。
タイミングよくスーとアーサーが来なかったら危なかった…」
「スー?アーサー?」何であいつらが?
クソっ!訳の分からないことばかりだ!
「怪我は?」とレオンの顔を覗き込むと彼は困った顔で笑った。
「スーが傷口を塞いでくれました、大丈夫です。
私より兄さんの方がおかしなことになってませんか?」
「…言うな」
「かっこいいですよ。エドガーが喜びそうだ」と、レオンは弱った声で俺を茶化した。
軽口を叩けるくらいには元気らしい…
「さっきの青い波はあいつらの仕業か?」と爺さんに訊ねた。
「分からん。俺たちもあいつらと別れた後の事だからな…とにかく、俺たちはロンメル邸に向かってる途中だ。
お前の方は片付いたのか?」
「いや、片付いたとは言えないが…
ロンメルの屋敷の周りに施した、炎の壁が消えた可能性がある。急いで確認に向かうところだ」
「なるほど、了解した。そっちが優先だ。俺たちも後から追いつく」と爺さんが頷いた。
「大丈夫か?」と確認すると、レオンが大ビッテンフェルトの背から応えた。
「私もネズミたちもいますから」
「お前が一番心配だ」
「これは手厳しい…」と彼は苦笑いした。
「レオンを頼む」と彼らに任せて、また空に戻った。
遠くに見えたあのデカい女はスーの精霊か…
前に戦った時より大きい気がするが、あいつの力がそれだけ大きくなったということか?
《祝福》もないくせに、なんて奴だ…
ロンメルの屋敷に着くと、やはり炎の壁が消えていた。
僅かな手勢だが、ロンメルの屋敷に到達してる兵士の姿があった。
どこかが抜かれたらしい。
屋敷に残していた連中では対処しきれない。
屋敷の門は既に破壊されて、その役目を失っていた。
敷地内に入ろうとするオークランド兵の姿にゾッとした。
「止めろ!」と怒鳴って翼を畳むと、兵士らの向かう先に急降下して道を塞いだ。
いきなり現れた化け物の姿に、敵味方から悲鳴が上がった。
屋敷の前に立ち塞がって、オークランド兵に燃える翼を見せつけた。
「死にたくなかったらこの屋敷から出て行け!」と獅子の姿で吼えた。
炎の翼を広げて立ち塞がる獣の姿に、オークランドの兵士らは恐れを為して逃げ出した。
それはそうだろう…今の俺は化け物だ…
少し凹んだ…
でもそうも言っていられない…
急いで屋敷の周りを確認した。
まだ屋敷の出入口も、勝手口も塞がれたままだ。
安堵したのも束の間、二階の大きな窓が開いていた。まさかあそこからも…
「ママー!ライオンだよォ!燃えてる!」と子供が窓から顔を出した。
あの子供は…
ロンメルがエドガーの遊び相手にと、何度か連れて来た子供だ。
「ダメ!ルド危ないわよ!」母親が慌てて子供を部屋に引っ張りこんだ。
翼を広げて舞い上がると、開いたままの窓に近付いた。
「きゃー!」
俺の姿を見た母親は、金切り声を上げながら、部屋にあるものを手当り次第投げてきた。
「待て!敵じゃない!」と言った俺の声を聞いた子供が首を傾げた。
「おじさん、エドガーのパパ?」
「えっ?」子供の言葉に、物を投げつけてくる母親の手が止まった。俺と子供を交互に見て驚いている。
「お声が同じだよ」と子供は無邪気な笑顔で笑った。
「エドガーのパパだ」と子供に答えて、「皆無事か?」と確認した。
「みんなね、下にいるよ」と子供は答えてくれた。
「そうか、ありがとう」と答えて、答えてくれた礼に、「スーとアーサーも来てるらしい。今戦っている」と教えてやった。
「スーが?!」と母親は驚いていた。
「パパ帰ってきたの?」と子供は嬉しそうに母親を見上げた。
「俺が空から屋敷を守ってやる。
屋敷の奴らに、俺の事は怖がらなくていいと伝えてくれ」と伝言を残して、窓から離れた。
「エドガーのパパ!」と子供の声が俺を呼んだ。
「がんばって!」と言う子供の声援に頷いて、空に戻った。
あの一言で、全て報われたような気がした。
✩.*˚
「奥様!奥様!」スカートをたくし上げた姿のミアが走ってきた。彼女はルドとスー様の部屋に居たはずだ…
「どうしたの?」嫌な報告かもと、胸がざわついた…
私の不安とは裏腹に、駆け寄ってきたミアの表情は明るかった。
「スーとアーサーが来てくれました!」
「…本当に?」と確認すると、彼女は興奮した顔で何度も頷いた。
「エインズワースのお兄さんの話です。
彼も屋敷の周りを守ってくれています」
「ギル様が…」ワルター様から彼の事は聞かされていた。
ワルター様と同じ、《神紋》を持った《英雄》だ。
彼の存在は心強かった…
戦いから遠のいていたのに、私たちのために戦ってくれている…
「何故か姿が変わってしまってましたが、そういう能力なのでしょうか?」とミアは首を傾げていた。
「私も《祝福》はよく分からないわ…」と答えた。
でも以前、ワルター様もお姿を変えたことがあったから、案外あることなのかも…
そんな事を考えていると、お義父様が戻られたと報告があった。
私たちのために戦ってくれていた彼らは酷い有様だ。
屋敷まで来れた人たちはまだ良い方だ…
ラウラたちに庭に並んだ怪我人の手当を頼んで、私も重傷者の治癒を引き受けた。
「怪我の酷い人から《白い手》で治療します」と告げた私を、アンネが引き留めた。
「いけません奥様…」彼女の目は真剣だった。
「アンネ、私はロンメル夫人よ」
「でも…」と彼女は私の身を案じた。彼女の瞳が潤んだ。彼女の言いたいことは分かっている…
「終わったら、ちゃんと休むから…無理しないから…ね?」
「…約束ですよ」
「ありがとう、アンネ」
渋々譲ってくれた彼女に、眠ってしまっていたフィーを預けて、屋敷の外に出た。
屋敷の空を見上げると、屋敷の上を、鳥のような姿の何かが滑空していた。
屋敷を見守ってくれているようだ…
その姿が心強く感じられた…
庭に並んだ重傷者の元に向かった。
「テレーゼ様…」
「この場の誰も死なせません」と告げて、傷の酷い人から治癒を開始した。
「ブルームバルトのために戦って下さり、ありがとうございます」と一人一人に言葉をかけながら《白い手》を翳した。
私は…少しは彼らの役に立てたのだろうか…
ワルター様…私は《英雄》の妻として、相応しい働きができてますか?
✩.*˚
「ダメです!完全に分断されました!」
部下の報告に舌打ちをして、目の前の青白い壁を睨んだ。
突如出現した青白い壁に阻まれて、中に入った兵士らとの連携が取れなくなってしまった。
入る事も、出てくる事もできない。
試しに穴を掘らせてみたか無理だったようだ…
南門から入ったはずのマクレイ卿は何をしているのだ?
西門は一度落ちたはずだが、その後、制圧したなどの報告は一切なかった。
時間は刻一刻と過ぎていく。暁までのタイムリミットは確実に近づいていた。
やはり無理だったのか?
ただの街と軽く見て侮っていた自分を恥じた。
今、私の前には、中に入った兵士らを諦めて撤退するか、ここでブルームバルトへの援軍を迎え撃つかの二択しか無かった。
「メイヤー閣下、ご決断を…」
部下たちに決断を迫られる…
中に送り込んだ部隊より、外に控えさせている者の方が圧倒的に多い…
しかし、中には、あの《黄金樹の騎士団》がいる…
あの男を失うのは痛手だ…
しかし、そのために軍隊を心中させる訳にもいかない…
思考は堂々巡りを続けた。
「伝令!」
山の中腹で街道を見張らせていた、伝令が駆け込んできた。
「街道の北に明かりを確認しました。
恐らく方角から見て南部侯からの援軍かと…詳細についてはまだ分かりかねます」
「早すぎる…」と呻いたが、結果は変わらないだろう…
「閣下!ご決断を!」裁可を迫る声が鬼気迫るものに変わる。
「…止むを得まい」と自分に言い聞かせるように呟いて命令を下した。
「ブルームバルトの包囲を解け。
ブラウバルトの裏から回って、別の経路でカナルの本陣に合流する」
ここまでの作戦で兵も疲弊している。数の分からない南部侯の軍を正面から相手にすることは出来なかった。
失敗とまでは言わないが、欲を言えばもう少し結果を残したかったのも事実だ…
ため息を吐いて、青白く光る壁を睨んだ。
「また来る」と短く吐き捨て、ブルームバルトからの《撤退》を命じた。
包囲が解け、軍隊が向きを変えた。
この屈辱はいつか雪がねばならない…
ヴェルフェルめ…随分と良い手札を揃えているではないか?
父親も食えない男だったが、息子たちもなかなか一筋縄にはいかんな…
「口惜しい結果ですな…」と側近が悔しさを滲ませた。ここまで上手くいっていただけに、この挫折は堪えた。
「嘆くな、予定調和とならぬのが戦だ…
《騎行》は続ける。最後まで気を抜くでないぞ」
「お供致します」と僅かに明るくなった声で応えて、騎士は佇まいを正した。
遠くなるブルームバルトの明かりを睨み、再戦を誓って背向けた。
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