燕の軌跡

猫絵師

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夕刻、カナルにボロボロの姿の伝令が届いた。

「遅くなり…申し訳ございません…」と謝罪するのは朝に送り出したツィーラー卿の部下だ。

彼は鎧を捨てて、軽装になっていた。苦しそうな呼吸を繰り返しながら、彼は必死に何かを伝えようとしていた。

「閣下!ツィーラー卿からの伝令です!」と彼の代わりに、肩を貸した騎士が通訳した。

「カナルを抜けたオークランド軍が、密かに《騎行作戦》を展開中です。

既にフェアデフェルデの一部が奪われたとの事です!途中、いくつかの村は壊滅、オークランド軍は恐らくブルームバルト、もしくはその東のライヘンベルクに向かっているとの事!」

「何だと?!一体いつの話だ?!」

通訳が確認して顔を歪めた。その苦い表情に肝が冷えた。

「恐れながら…本日の昼頃の話と…」

「なっ!何だと?!」言葉を失った…

既に夕刻だ。オークランドの軍隊に、南部侯爵領が蹂躙されるのを、知らずにいたという事実に愕然とした…

「…申し訳…ござ…ございません」と伝令役が嗚咽混じりの声で謝罪の弁を述べた。

彼の話によると、敵は統率の取れた手際の良い軍隊だったという。

既に街道が封鎖されていて、使い潰した馬と重い鎧を捨て、自分の足でカナルまで走ったという。

「途中、我が軍と思われる兵士の死体も確認しました…恐らく、知らせようにも…」

「ツィーラー卿は?」

「私を送り出した後に、ロンメル夫人を送る任務に戻りました…まだ、お戻りではありませんか?」

帰りの道が通れないのか、それとも既に全滅したか…

「すぐに軍の手配を…」とエアフルト卿が討伐の軍を出そうとした。

「待て!敵の数は?」カナルの防衛はギリギリだ。

中途半端な数を出して、兵を無駄にすることは出来なかった。

「恐らく二千から三千程かと…」と伝令が答えた。

同数以上の兵が必要になる…

誰を出すかも悩んだ。カナルからごっそりと兵が抜ける。その穴も埋めねばならない…

「…閣下、ロンメル男爵には…」

「言うな!今、婿殿に抜けられたら、カナルの最前線を入れ替えねばならなねばならん!」

あの睦まじい姿を見れば分かる。不器用だが、ロンメル男爵は夫人を愛していた。

この事態を知れば、軍令を無視してでも、彼はブルームバルトに走るだろう…

あの男は既にカナル防衛の要になっている。おいそれと動かすことは出来ない。

「ロンメル男爵は討伐軍から外せ」とエアフルトに指示を出した。

「後の方が恐ろしいですよ」

「分かっている…」と苦く答えたが、決定を覆す気は無かった。

「彼には私から話す。

エアフルト、侯爵から預かった飛竜の部隊を斥候に出せ。オークランドにはもちろんだが、味方にも悟られぬように討伐の軍を向かわせよ」

「随分な無理難題でございますな…」

「ボヤくな、私はもっと大変な役をせねばならん」

《神紋の英雄》など、敵に回せばこれ以上に恐ろしいものは無い…

大人しく繋がれているうちはいいが、もしあの大人しい男の手綱が切れることがあれば、私でも無事では済まないだろう…

下手をすれば、カナルを挟んだ両軍が死に絶えるかもしれない…

数年前の秋に、ひと足早い冬もたらし、一時とはいえカナルの岸は凍り、空からは雪が降り注いだ。

あれはすぐに治まったからいい…

治まらなかったら?

「全く…」嫌なことを思い出させる…

心を慰めたくとも、常に寄り添っていた黒い影の姿はどこにもない。

『私の代わりにこの子をお連れください』と彼女から預かった黒い犬は、見事に役目を果たした。

犬だが、ロローは戦友であり、私の一人息子だった…

見事に大役を果たした忠犬に報いるためにも、私はこんな場所で立ち止まる訳にはいかなかった…

✩.*˚

「囲まれたな」

固く閉ざしたカーテンウォールの向こう側を、背の高い塔から見下ろした。

既に夕刻も過ぎ、灯りは松明等の人工的な明かりだけになっている。

その明かりが、ブルームバルトの街を囲むようにズラリと並んでいた。

「大ビッテンフェルト卿」と呼ばれて振り返った。

シュミットは既に戦支度を整えていた。

「ほう、なかなか板に着いているな」と彼の出で立ち褒めた。

褒められた男は苦笑いを浮かべて礼を言った。

「前の主人に拝領した品です。私には身に余る品でしたので、長く眠っておりました」

「眠らせておくにはもったいない。今度からその姿で務めるのはいかがかな?」

「ロンメル家で剣を持つ者は間に合っておりますゆえ、私はこの姿でペンを取らねばなりません」

「なるほど!それは滑稽な姿になりそうだ!」と豪快に笑った。

戦いを前にして、馬鹿話でもしていなければやっていられなかった。傭兵の頃からの悪い癖だ。

「敵は…ざっと見積って二千は下らないかと…」

「おう!武勇伝には丁度良いでは無いか?!」

これで全部ではないだろう?

この先のために余力を残しての二千のはずだ…

ブルームバルトとて、小さな村ではない。

ドライファッハ程までとはいかないが、外壁にも囲まれている。数年で町は豊かになり、街と呼んでも遜色ない程の発展を遂げていた。

その町を逃げる隙なく取り囲むための二千だ。見えてるのはこの街に対して必要最低限の戦力だろう。

ブルームバルトには、周辺の村から避難してきた者たちを入れても余裕があった。有事の際の備蓄もある。息子は一応領主としての務めを果たしているようだった。

「それにしても、このカーテンウォール…ドライファッハの物よりずっと頑丈だな。ウィンザーの石工は腕が良いと聞くが、これは苦戦しそうだ」

「元ウィンザー公国は職人の多い国ですから、石工の技術も高いのです。

侯爵家の指示で、ある程度の大きさのある街には、公共事業としてカーテンウォールの設置や修復を義務付けました。これもそのひとつです。

アインホーン城やラーチシュタットも簡単には攻略できませんよ」とシュミットは自慢した。

「ふむ…では、この戦が終わったら、息子から融通してもらうか」と談笑していると、方々を駆け回っていたウェリンガーが状況の報告に現れた。

「配置完了致しました」

「ご苦労」

「イキイキしておいでですね」とウェリンガーは俺を形容した。

間違ってはいない。この久々の緊張感に高揚していた。

居合わせたシュミットにウェリンガーが伝言を伝えた。

「シュミット殿、鍛冶屋のエインズワースが話があると探しておりましたよ」

「エインズワースの親方ですか?」

「いえ、若い男でした。

自分も戦うと言ってくれたのですが、この街で一軒しかない鍛冶屋を失うのは痛手でしょう?断ったのですが、納得いただけなかったようで…」

「多分レオンでしょう。彼は役に立ちます。」

「レオン?いえ、たしかギルバートと名乗ってましたが?」

「彼が?確かですか?!」驚くシュミットに「何者だ?」と訊ねた。

シュミットはすぐには答えなかった。悩むような素振りを見せたが、「内密に」と前置いて重い口を開いた。

「旦那様のご友人です…」

「友人なら良いではそんなに勿体ぶる必要は無いでは無いか?それ以外に何か?」

「元オークランド人です…

傭兵団、《金百舌鳥ゴールデンシュライク》の隊長だった男でして、《烈火のアルフィー》が彼が傭兵だった時の通り名です」

「《烈火》…」聞いたことがあるような気もするが…

何で息子はそんな男を匿っている?

「ブルーフォレスト戦役で相棒を失ってから、傭兵を辞めたそうです。

ずっと戦うことを渋っていたのですが…今になってどうして…」

「その男は信用できるのか?」

「経歴だけを見れば危険視されても仕方ないですが、彼は真面目な男です。

私は信頼して良いと思っています」とシュミットは断言した。

全く…ワルターめ…

あっちこっちで厄介事をかき集めて、何やっているのだ?

《嘲笑のエルマー》といい、スーといい、アーサーといい…ワルターのあの拾い癖は何とかならんもんか?

我が子ながら厄介な男だ…

「相分かった」と答えて、シュミットにその男を紹介してもらった。

鍛冶屋に顔を出すと、目的の男がいた。

背は高くない。黒い長めの髪を束ね、不思議な色の瞳をした優男だった。ワルターより若そうだ。

腕には幼い息子を抱いていた。

シュミットが俺の事を「旦那様の実父の大ビッテンフェルト卿グスタフ様です」と紹介した。

それを聞いて、彼は「ギルバート・エインズワースだ」と名乗った。

彼と居たもう一人の若い男は俺の視線に気づいて、「弟のレオンです」と簡単な自己紹介をした。

「一緒に戦うと聞いた」とギルバートに単刀直入に訊ねた。

彼は俺の質問に迷わず頷いて、「そのつもりだ」と答えて、息子を弟に預けて息子と弟を母屋に帰した。

「俺は《祝福》がある。そんじょそこらの奴らより戦い慣れているつもりだ」

「俺はワルターのように甘くないぞ。

お前の過去は聞いている。その上で、俺がお前を信用できるだけの根拠を示してみろ」と厳しい口調で質した。

「この街には俺の家族がいる。ロンメル夫妻にも世話になった。あいつには恩を返すつもりだ」

「戦う理由はそれだけか?」

「それだけだ。それ以上の答えを俺は持ち合わせていない。金でも無心すれば満足か?」

「その方がいっそ扱いやすいがな…」ため息を吐いた。

嘘を言ってる様子はない。安い男だ…

どこか息子に似てる気がした…

「《祝福》は?見せてみろ」と促した。

「《炎獅子》の《祝福》だ」と答えて、ギルバートは上に着てた服を脱いで身体を晒した。その肌に刻まれた刺青のような模様に言葉を失った。

「…お前…それは」

「あんたの息子と同じものだ」と答えて、ギルバートは右手を差し出した。

彼は手のひらに赤い炎を呼ぶと、色を変えて見せた。

炎は赤から青に揺らめく色を変え、最後に黒く姿を変えた。

「《地獄炎インフェルノ》。

ただの炎じゃない。生きた人間を骨も残さずに数秒で灰にできる」と彼は手の内を明かした。

「なるほどな…黒い炎を見たのは初めてだ」

「この炎は制御出来ている。味方を焼くことは無い。

俺も戦わせてくれ」

「俺たちだけでは不安と見える」と皮肉った。

「俺だって好きで戦いたいわけじゃない」と答えてギルバートは視線を外した。彼は、自分の家に視線を向けた。

「俺は自分の《祝福》が好きじゃない…あまり使いたくはないが、そうも言っていられない状況だからな…」

「…家族か」俺が守れなかったものだ。

この男はそれを守るために、秘密を晒してまで戦うと言っているのだ。

クソっ!無下にできるものか!

「ウェリンガー、使ってやれ」と俺が折れた。

「よろしいのですか?」と不安を口にするウェリンガーに、「なんかあったらワルターのせいにするだけだ。俺は知らん」と丸投げした。

「俺に内緒があったんだ。不都合があろうがそれは黙ってたあいつの責任だ」

「ロンメル夫人も困ります」

「む、それはいかんな」息子は多少雑に扱ってもいいが、あの可愛らしい《白鳥姫》には迷惑はかけられんな…

「と、いうわけだ。息子はいいが、ロンメル夫人に迷惑はかけるなよ?」

「ロンメル夫人は俺の妻を救ってくれた命の恩人だ。迷惑にはならん」と義理堅い男は約束した。

彼に頷いて、ウェリンガーにギルバートをどこに配するか確認した。

「何処が不安だ?」

「どこも似たようなものですが、強いて言うなら、南門でしょうか?

あそこは入口は封鎖出来ても通り道はそのままですし、入口になる門も一番大きいですから…」

「じゃあ、そこの人数を減らして他に回せ」

「レオンを付けてくれるなら、俺の持ち場は二人だけでも構わない」

「ほお?大層な自信だな?」

俺の皮肉に、ギルバートは大真面目に答えた。

「俺はあんたの息子を一番追い詰めた男だ」

「なるほど、自慢か?」

「あぁ、自慢だ」と答えながら、彼は脱いだ服を肩にかけた。持ち場に向かうのだろう。

不器用で真面目な男は、立ち去る前に、自分に言い聞かせるように宣言した。

「俺は俺のためにブルームバルトを守る。

誰かに認められたいわけじゃない。

この力は俺自身のために使う」

✩.*˚

なるほど…と目の前の街を眺めて頷いた。

ここまで小さな村ばかりだったから、やっとまともな蓄えのありそうで、利用価値のある街に辿り着いて安堵した。

街を囲むカーテンウォールは古い箇所と新しく繋げた箇所がある。

備えはあるが、所詮街だ。

軍隊に抵抗する勢力などありはしないように思えた。

「メイヤー閣下、攻撃の許可を」と進言した部下に頷いた。

今夜中にこの街を落として、仮の拠点にするつもりだった。

街に繋がる道は、石造りの大きな南門の橋を残して、他は破壊されていた。守りを考えての事だろう。

この街には戦慣れした者が預かっているようだ。

近くに控えていた《黄金樹の騎士団》の団長を呼んだ。

「マクレイ卿。簡易的なもので構わん、反対側にも、落とされた橋の代わりを頼む」

「閣下。私は職務として、この作戦に参加致します。

ですが、その前に街を明け渡すよう、彼らに投降する機会をお与えください!」

彼の嘆願に、周りから責めるような言葉が飛び交った。

「…マクレイ卿、我々は《騎行》の最中だ」

「是非!」と燃えるような瞳でマクレイ卿は迫った。己の立場を悪くしてまで、敵国の人間に慈悲を与えようとする姿勢に、僅かながら心を動かされた。

彼の優秀な部下を死なせた後ろめたさが、私の意志を鈍らせたのだろう。

私とて、あのオリヴァーという魔導師は惜しかった…

「…許す」と苦く呟いた私に、マクレイ卿は深く頭を下げ、「ご温情に感謝」と感謝の言葉を口にした。

「投降し、街を捨てるのであれば、命だけは助ける」と約束した。

「ここは《冬将軍》の本拠地だったな。

もう一つ条件を伝えよ。

ロンメル男爵夫人、及び子供は差し出すように…抵抗すれば容赦せぬ」

「…畏まりました」

「マクレイ卿、この街への降伏勧告は、我々の仮宿とするためだ。今後は無いと思え」と念を押した。

度々このようなことがあれば、今後に差し支える。

これでは《騎行》の意味がなくなってしまう。

側近が「恐れながら」と進言した。

「閣下、マクレイ卿は《騎行》には向きません。カナルに戻した方が…」

「我が軍に、彼以上の《祝福》を持つ者が居ればの話だ」とその意見を突っぱねた。

「これで最後と約束させた。

最後だ。満足のいくように好きにさせてやれ」と部下を黙らせ、マクレイ卿が勧告する時間を与えてやった。

「ブルームバルトの者に告ぐ!」と、よく響く声が夜の空気を震わせた。

彼の声に反応した見張りが、壁の向こうの櫓に立った。

「私は《黄金樹の騎士団》団長、アダム・マクレイである!

ブルームバルトの民に勧告である!

知っての通り、今、この街は完全に包囲されている!

元ウィンザーの民よ!メイヤー子爵閣下の慈悲により、救われる機会を与える!

街を明け渡し、領主ロンメル男爵の妻子を差し出して投降せよ!

さすれば、命だけは奪わないと約束しよう!

繰り返す!降伏して、街を明け渡し、ロンメル男爵の妻子を差し出すように!」

必死に街に向けて呼びかけるマクレイ卿は、本当に彼らを救いたいと思っているのだろう。

変わった男だ…

この良心の塊のような若者が、疎ましくもあり、羨ましくもあった。

マクレイ卿による勧告から、二十分程で街の代表者が櫓に登った。

熊のような巨躯を揺らしながら櫓に立った老人は、既に戦の用意を整えていた。

彼は「この街の連中の総意を伝える!」とマクレイ卿以上の声で返した。

リューデル伯爵を思わせる、落雷のように響く声に動揺が走った。

一部のカリスマが持つ声だ。この声一つで人が従う、そんな声だった。

「街は渡さぬ!」と老人は声高らかに宣言した。

これだけの軍隊に囲まれながらも、彼は自信に溢れた声でもうひとつの要求も拒否した。

「この街の連中は、《女神》を貴様らオークランドに渡す気は無い!

俺の息子の街に手出ししてみろ!地獄にたたき落としてくれる!

てめぇらにくれてやるものなど一つも無い!クソ喰らえ!オークランド!」

壁の内側でわっと歓声が上がる。

「大ビッテンフェルト!」と彼を褒め讃える声が街の抵抗の意志を示した。

マクレイ卿が残念そうに肩を落とした。

彼の慈悲は無駄になった。

✩.*˚

「なん…だと?」

《祝福》で凍えることは無くなったはずなのに、リューデル伯爵のたった一言で全身が凍るような寒気を覚えた。

「今伝えた通りだ、ロンメル男爵。

既に討伐軍を派遣した。婿殿の役目は、その抜けた穴を埋めるだけの働きをすることだ」

リューデル伯爵は淡々と事務的な答えを返した。

「そんなの!俺が…」あの時のように、《冬の王》の力を借りて走れば間に合うはずだ!

そう言おうとした俺の口を厳しい怒声が阻んだ。

「それは私が許さん!

婿殿はカナルの最前線に必要な存在だ!

婿殿がカナルを離れる事は許さぬ!これはカナル防衛を任された最高指揮官としての命令だ!」

人の良さそうな陽気な叔父の顔を封印して、リューデル伯爵は公人としての厳しい態度で臨んだ。

彼の息は白く濁っていた。

「…承服しかねます」

譲れなかった…

テレーゼやフィー、ブルームバルトの連中を失うかもしれなかった…

「やむを得ん。その返事は軍令違反と取るがよろしいか?」

リューデル伯爵はいつもの陽気さを潜めて、譲らぬ姿勢だ。

さすが、パウル様の弟だ…俺の《祝福》の一端を体感してもリューデル伯爵は怯まなかった。

「ブルームバルトにはエインズワースの兄弟も一緒に帰ったはずだ。それに、シュミットも付いている。多少は時間を稼いでくれるはずだ。

先程、兄上からも飛竜の報せが届いた。

兄上も事態を重く見て兵を向かわせている。今は間に合うことを祈るしか出来ぬ」

「…間に合わなければ…」と呟いた俺に返ってきた答えは残酷だった…

「ロンメル男爵、腹をくくれ」

「そんな…俺が行けば助かるかもしれないんだぞ!それを…」

「そうなれば、カナルが突破される」と低い脅すような声が俺を責めた。

「冷静になれ、ロンメル男爵…

私も、婿殿も、この前線を離れる事は許されぬ。

オークランドが三倍以上の兵力を持ってしても、カナルを奪えないのは何故だと思う?

河を渡れないからでは無い。

南部侯の旗印である私と、過去に大河を凍らせ、気候すら変える程の《祝福》を持った《神紋の英雄》に由来する士気の高さが、オークランドの大軍を阻んでいるのだ。

我々のどちらかが倒れるか、前線を離れれば、どうなるか…それが理解できない婿殿ではあるまい?」

諭すような声は幾分か柔らかくなっていたが、それでも俺の要求に応えることはなかった。

「私は何が起きようともこのカナルの地を守らねばならぬ。それが私の背負う責任だ!

妻や娘が死のうとも、カナルを離れる事は許されぬ!」

「…何を?」困惑する俺に、リューデル伯爵は「事実だ」と伝えた。

「この私が何も失わず、苦しむことなく生きてきたとでも思うのか?」と呟いて、リューデル伯爵は自分の古傷をさらした。

「もう昔の話だ…私がカナルの上流の守りに着いていた留守中に、何者かが妻と娘を攫った。

オークランドの手の者だった。

要求は私がカナルを離れる事…それだけだった」

リューデル伯爵は断腸の思いで要求を拒否した。

結果、二人は助からなかった…

山奥の洞窟で、無惨な姿の亡骸が見つかったのは、攫われて一年も経過した後だった。その間、彼はカナルの岸で責任を果たし続けた。

「我々が負っている責任とはそういうものだ…」

話し終えたリューデル伯爵は懐から犬の首輪を取り出した。贅沢な宝石まで付いた特別な犬の首輪は、少し重そうだった。

「私には息子がなくてな…

妻から贈られたロローは私の息子同然だった。幾度となく私の窮地を救ってくれた。

鼻の利く奴で、私を害そうとする者を看破し、私を守ってくれた…最後までな…

私はこやつにも報いねばならん…」

そう言って、リューデル伯爵は俺に歩み寄った。

太い腕が伸びて、氷のように冷たくなった俺の身体を抱いた。

「婿殿に、私と同じ轍を踏ませるつもりは無い。

《白い手の女神》を、私の妻のように死なせはしない…娘も必ず救ってみせる…

ブルームバルトの一件は、我ら兄弟に任せて欲しい」

ずりぃだろうがよ?!

泣きそうになるのを必死にこらえた。

「…俺以外を向かわせるのは?」と確認した。

リューデル伯爵は「うむ」と頷いてその要求を飲んだ。

「分かった、それは許す。

人選は任す。急ぎ向かわせよ」

悲壮感を振り払った男は、元の陽気な叔父に戻った。

✩.*˚

「久しいな、《傲慢な者》」

うたた寝した隙に、夢の中にあの大きな黒い狼が現れた。

「…俺は《傲慢》かね?」と問い返すと、獣は赤い口で笑ったようだった。

「ふふ、不遜な貴様らしい《祝福》であろうが?」

「《祝福》?俺は《拒絶》するだけの《祝福》のはずだ」

「ふっ、笑わせる…人の身で、《祝福》を理解しているつもりか?

腹黒いルフトゥの神殿の連中が、その不遜な《祝福》を正しく伝えるとでも思ったか?愚か者め」

俺を罵倒した狼は、赤く裂けた口で嘲るように笑った。

「せっかく我輩が《祝福》をくれてやったのに、貴様は《祝福》の表面だけで満足している。

全く《傲慢》な男ではないか?

この《驕慢きょうまんのアロガンティア》が選んだだけの事はある」と獣は喜んでいた。

「お前が何もかも、全て思った通りに体現できるのは何故か分からなかったのか?

容姿も、才能も、力さえ我輩から贈られたというのに、お前は《傲慢》にも、我輩を受け入れなかった。

それがまた我輩を喜ばせる。さらに与えて様子を見た」

「はあ…ようには、俺は上手くいく全ての事を、あんたに感謝しろっていうことかね?」

「ファハッハッ!少し違う!我輩が求めるのは崇拝ではない!」

そう言って獣は「《興》だよ」と笑った。

「悪さが過ぎて、封印されて久しいのでな。随分暇にしている。

貴様は私の《窓》だ。

世界と繋がるのは面白い、人もまた面白い、そうだろう?」

「あんた、あまり良いものでは無さそうだ」

「ふふ、そうとも、《悪》と呼ばれるたぐいだろうよ。

だが、自信家のお前には似合の存在さ」と獣は上機嫌でペラペラと喋った。

参ったな…俺はそんなに自分勝手か?

獣は前足を組んで「まぁ、聞け」と話を続けた。

「貴様は《冬の王》と《白い手の女神》の力になりたいのだろう?

我輩を楽しませてくれた礼に、少しばかり力になってやろうじゃないか」

そう言って、ふっふと笑うご機嫌な狼は、何かを咥えて俺に投げてよこした。

何かと思いながら手を伸ばした。

「我輩はヴォルガに封印された身。不仲ゆえ、貴様に《神紋》を与えることは叶わぬ。だから、少しずるい形で貴様を《祝福》してやる。面白そうだしな」

丸い何かを拾って顔に近付けた。

それが何か分かった瞬間、丸いものから触手が生えて俺の頭に張り付いた。

左目に激痛を覚えて悲鳴を上げた。痛みなんて久しく感じた。

「《傲慢の魔眼》だ。この我輩がくれてやったのだ。新しい目を大事にしろよ」

そう言い残して、獣は消えた。


「おい!アーサー!大丈夫か?」

狭い視界がスーの顔を捉えた。彼は慌てていた。

「何やってんだ?!見せろ!怪我したのか?!」

「何が…」と呟いて、無意識に左目を抑えていることに気が付いた。

「血が出てる」と指摘されて、左手を掴まれた。顔から離れた手から何が転がり落ち、スーが「げぇ!」と悲鳴を上げた。

落ちたのは溶けた青い瞳の目玉だった…

二人で言葉を失って固まった…

「何やってんだ?」

「なー、飯食いに…」

ディルクとイザークがスーを誘いに来た。

俺たちの視線の先に落ちた物を見つけて、「何これ?卵?」とイザークが手を伸ばした。

自分の手にしたものが目玉だと気づいて、イザークが悲鳴を上げて放り出した。

投げた目玉がディルクの手のひらに収まった。

「お、おい、これ、アーサーのか?」と彼も珍しく慌てて俺の顔を覗き込んだ。その顔が歪に引きつった。

「…何だよ、それ…どういう冗談だ?」

「…どうなってる?」まだ痛む左目の状態を訪ねると、ディルクは剣を抜いて磨かれた刀身を俺に見せた。

目元を確認するのにはそれで十分だった。

「えー…何?何?どうなってんのぉ?」とビビってるイザークが離れて様子を伺っている。

「アーサー、お前、それなんだ?」と豪胆なスーもさすがに引いていた。

俺が聞きたいよ…

剣に映る新しい目玉は、白目が黒く瞳が赤かった…

獣の耳障りな哄笑を聞いたような気がした。

✩.*˚

「すまん」とワルターは俺たちに謝った。強く握った拳は震えていた…

本当は君が一番行きたいだろう?

そんな言葉を飲み込んだ。

「頼んだぞ、スー、アーサー」

「時間ないから行くよ」と素っ気なく答えて、飛竜の背に乗った。

「ワルターを頼むよ」とフリッツらに後を任せた。

俺もミアやルドが心配だった。

飛竜で飛ぶのが一番早いが、肝心の飛竜も、乗れる人間も少ないのが欠点だ。

結局、ブルームバルトに縁のある人間で、飛竜の扱いに慣れている、俺とアーサーで向かうことになった。

「俺は初めてだぞ」とアーサーが乗り方を訊ねた。

「俺が前を飛ぶから、お前は何もせずに着いてこい。動きはアルマと同じだ。逆らわなきゃ問題ない」

「なるほど、おまかせか」とアーサーは頷いた。

彼に「落ちるなよ」と念を押した。

なんかよく分からないが、《祝福》の延長で手に入れた左目はまだ馴染んでいないらしい。

包帯で視界を塞いでいるから、少し不安もあるが、連れて行くなら《犬》の誰かより、彼の方が役に立つはずだ。

まぁ、アーサーなら落ちても死なないだろうな…

「エリスは従順で賢い子だ。練習した通りに乗れば問題ない」と飛竜を貸してくれたウェイドが言った。

「ありがとう、ウェイド。エリスは必ず返すよ」と彼に約束した。

「そうしてくれ、彼女は私の娘みたいなものだ」と彼は娘の顔を撫でて、彼女の無事を祈った。

「ワルター」

「何だよ」不機嫌そうに応じた彼に意地悪く笑って見せた。

「勝手なことするなよ」

「お前にだけは言われたくねぇ!」と怒鳴られた。

何だよ、意外と元気じゃないか?

「お前こそちゃんと戻れよ!」

「分かってるよ」と笑って見せた。

「《燕》は戻る鳥だ」と格好をつけて、エリスに合図をした。

彼女は鷹のような声で鳴いて、大きな翼を羽ばたかせて飛び立った。

アーサーの乗った飛竜がそれに続いた。
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 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

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