燕の軌跡

猫絵師

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呪い

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オリヴァーが一人で先に進んだと聞いて、いてもたってもいられなくなった。

「先にオリヴァーと合流します」と団長に断って、部下を連れて馬を進めた。

何故私を置いて行った、と苛立ちを覚えた。

確かに、《黄金樹の騎士団》に入団してから、彼は私の従者ではなくなった。

彼も一団員だ。役目があれば私から離れても何もおかしなことは無い。

それでも…

「酷い有様ですな」と顔を顰める部下の言葉に、沈黙で返した。兜の下の私の表情は変わらなかった。

もういいのだ…残るウィンザーは私しかいないのだ…

彼らは、憎い仇のフィーア人だ…

馬の向きを変えてオリヴァーを探した。

「副団長。オリヴァー殿は先に進んだそうです」

「我々を待たずにか?」勝手をするような男ではない。彼の行動に違和感を覚えた。

「メイヤー閣下の指示だそうです。この先の道を塞いでいる正体不明の障害物の確認だそうです」

「それはオリヴァーが行かなければいけないものなのか?」

オリヴァーの事だ、断らなかったのだろう。それでも彼をいいように扱き使われて、苛立ちを覚えた。

彼は私のものなのに…

そんな子供のような嫉妬を覚えた。

彼を連れ戻そうと馬の足を街道に向けた時、道の先から悲鳴が聞こえてきた。

「何事だ?!」と声を上げたが、その答えを持ってる者がいるはずもなく、ただ動揺が広がった。

緩い曲線を描く道の先から、逃げてくる兵士の姿と、木々の隙間から赤い炎の揺らぎが見えた。

「化け物が…」と彼らは口々にそう叫んでいた。この先で何かが起きたことは間違いなかった。

あの一瞬見えた炎の揺らめきに胸騒ぎを覚えた…

逃げてくる兵士らの中にオリヴァーの姿はなかった。

「クィン卿!オリヴァー殿の馬が…」

逃げてきた兵士らに混ざって、オリヴァーの馬が逃げてきたのを部下が捕まえた。私が与えた馬だ…

軍馬として訓練された馬が主を捨てて逃げてきた。馬は酷く怯えていた。

彼を行かせたことを後悔したがもう遅い…

馬の腹を蹴って兵士の逃げてきた道を逆走した。

数人、避けきれなかった兵士らを撥ねたが、そんな事どうでもいい!

彼らはオリヴァーを残して逃げてきたのだ!

腹の中で彼らを呪った。彼らは生きる価値もない!

「オリヴァー!」無事でいてくれ…

彼は優秀な魔導師だが、彼の性格は戦いに向いていなかった。

『あー、ヤダヤダ…』とボヤく姿を幾度となく見ていた。

『私はそんな物騒で野蛮な事は向いてないんですよ…

争い事は嫌いなんです。なんせ無駄ですからね』

そんな事を呟いてたのが頭を過ぎった。

『やっぱり、私はジョージ様のお世話係の方が気楽で良いです』などとふざけた事を言って、穏やかに笑う彼が好きだった…

お前以外何も要らないから…私から消えるな!

街道に残ったオリヴァーの姿を見つけた。

彼の前には炎が揺らめいていた。

「オリヴァー!無事か?!」

振り返った彼の顔は青ざめていた。

「クィン卿!撤退を!」

叫ぶオリヴァーの後ろに覗いた、炎の魔人はあの日リューデルの傍に居た男だ!

オルセンの命を奪った男は、今、オリヴァーの命をも奪おうとしている。

「《風刃…》」馬上で剣を構えたのを見て、男は背中から伸びた炎の腕を構えた。

オリヴァーが必死に何が叫んでいる。男の視線が彼に向いた。

「《裂破》!」

放った風が男を襲った。血を撒きながら、数歩下がって、男はオリヴァーから離れた。

夢中でその間隙に馬をねじ込んだ。

伸びる炎の腕を風で振り払った。

オリヴァーは渡さない!彼を渡すなら、死んだ方がまだマシだ!

私からこれ以上何も奪うな!もう何もないじゃないか?!

もう…何も…残ってない…

戦っている最中、馬がいきなり棹立ちになった。

体勢を支えきれずに、そのまま馬の背から投げ出される。

「ギル!」と声がした。仲間がいたのか?!

邪魔に入った男に向けて刃を放った。しかし刃は意外な物に阻まれて、役目を果たし損なった。

血を流したのは私の乗っていた馬だ。馬は何故か男を庇った。

外套のフードで顔を隠した男は硬い声音で警告した。

「私の家族とウィンザーを害するなら、今度はオークランド中にネズミを放ちますよ」

何だと…?それは…私に言ったのか?

ウィンザーを害すると…この私が?

溜め込んでいた怒りと憎悪が一気に流れ出た。堤を切った川の流れのように、抑えきれない感情が爆発した。

こんな馬鹿な話があるか?!

「私がウィンザーだ!」と叫んだ。

たしなめるオリヴァーの声も届かないほど、怒りが私の全てを支配した。

悲しかった…虚しさだけが押し寄せ、怒りに還元され、溢れた…

私は呪われているのだ…

ウィンザーさえも私の敵になったのか?

なら…私は…誰だ?

「ウィンザーを守るというなら、この私を救ってみせろ!」

救いを求める言葉と、呪いの言葉が交錯した。私は既に呪われているのだ。

気が付けば、私は取り返しの無い言葉を口にしていた…

「それとも最後のウィンザーを殺して、滅ぼすか?!

貴様らが選ぶがいい!

私は私たちを裏切った《ウィンザーの民》など、もう必要ない!」

『ジョージ。離れても、美しいウィンザーを忘れないで…

常にウィンザーのために、民のために祈ってください。私たちは家族なのですから…』

お母様…申し訳ありません…

『来年も必ず…』と離れた優しい腕は約束を反故にした。お父様もお母様も…二度と私の前に現れなかった…

それなら、私が約束を破っても、貴方たちに私を責めることはできないはずだ…

「《呪われろ》!ウィンザー!土地も民も!」

身体の奥で、何かが砕ける感覚を覚えた。

私は言葉を発しただけだ。

それなのに、言葉は現実に影を落とした。私の影がドロリと姿を変え、タールのように広がりながら腐臭を放った。

土が腐り、大地が呪われた…

こんな能力、私には無かったはずだ…なんだこれは?

「クィン卿!」

オリヴァー叫んで手を伸ばした。この黒いタールの影から私を助けようとしたのだろう。

タールに触れた彼の足が絡め取られ、彼の顔が苦悶に歪んだ。タールに沈んだように見えた彼の足が腐って崩れた。

「オリヴァー!」

違う!これは望んだことじゃない!

朽ちる彼の身体を抱き寄せた。

足元からボロボロと黒く腐って崩れる彼をどうしたら救えるのか分からなかった…

「…ジョージ」

「違う!そんなつもりじゃ…」言い訳をしようとした私に、オリヴァーは小さく笑って言葉を残した…

「ごめんなさい…約束が…」

彼の言葉は途中で途切れた。

凍えるように震えた身体は命を手放した…

オリヴァーが死んだ…

神は…越えられない試練は与えないのでは無かったのか?

ならこれは何だ?

私が何をした?神に《呪われる》ような事をしたとでも言うのか?

黒く蝕む《呪い》の勢いは止まらない。

《呪い》は、地面と彼の死体をゆっくりと蝕み続けた。止まって欲しくても、溢れた水のように、《呪い》は容赦なく染み込み続けた。

「《呪い》を口にしたのだな?若きウィンザーよ…」

その場に無かったはずの声がして、歪んだ空間から男が現れた。

不遜にも、彼はウィンザーの大公の正装をしていた。

「残念だよ、我が子に手をかけるのは…」と彼は悲しげに呟いた。

彼と一緒に現れた黒猫が後ろ足で立つと、女の姿に変わった。

黒い毛並みが黄金色に輝いた。

長いまつ毛の並んだ瞼の下に、深い緑から外に向けて黄色に変わる不思議な瞳が覗いた。

長い尖った耳は人のものではない…

彼女は黒い影の前で祈りを捧げるように、両の手のひらを合わせて握った。

「ウィンザーの大地よ。

世界を見守る者スペクタートル》の《アナベル》が、呪われた地を《祝福》します。

浄化ミヌス》」

鈴のような声を合図に、彼女から湧いた金色に輝く粒が、慈雨のように地に注がれた。

広がり続けた《呪い》に、金色の光の粒が染み込んで相殺した。

黒く蝕まれ続けていたオリヴァーの腐食も止まった…

奇跡を見せた《アナベル》と名乗った女は、深く一礼して大公の正装に身を包んだ男に場所を譲った。

「愚かなことをしたな、最後のウィンザー、ジョージ・エドワード・クィン…

其方そなたには、父母の願い通り、ささやかに生き残る道が残されていたというのに…」

目の前の男は私の名を呼んだ。この男は私を知っているのか?何者だ?

「私はこの男の身体を借りている身でね。

失礼だが、このまま話をさせてもらう。

私はウィンザー大公、シルヴェスター・スチュアート・ウィンザーだ。《初代》と名乗った方が分かりやすいかね?」

男はつらつらと澱みなく名乗った。

言葉を失って、視線を外すことも出来ない私に、彼は言葉を続けた。

「最後のウィンザー。

罰を与える前に、其方そなたにウィンザーの秘密を話そう」

「待て、お前…カーティスじゃないか?」と炎使いの男が口を挟んだ。

その言葉に、《初代ウィンザー大公》を名乗った男は「左様」と頷いた。

「私は《初代ウィンザー》で《初代カーティス》だ。

私は、大公となる存在に《ウィンザー》に継がせ、そのついとなる存在に《カーティス》を継がせた。

二つは元は同じものだ」と彼は説明した。

「そんな話は聞いてない!」と反論した私に、彼は静かに答えた。

「当たり前だ。ウィンザー大公にのみ、口伝で伝えられる話なのだから…

三百年も前の話だ…世界のあり方を変えた男に抗って、私はオークランドを去った…

彼は大賢者として改革を行い、様々なものを変えた。

その中には変革すべきではなかったものも少なからず存在していた…

それに抗い、私とアナベルで建てた国、それがウィンザー公国だ」

にわかには信じられない話を、彼は淀むことなく続けた。

「私と彼女はオークランドから、ウィンザーの向こう側の土地と民を守り続けた。決して楽な道ではなかったよ…

しかし、その役目ももう終わった。新しい、若い国が完成したのでね…

ヴォルガ様の願い通り、《傲慢な老人》を終わらせる、《新しく来る者》に《ウィンザー》は道を譲るのだ」

「そんな話!信じない!それでは《ウィンザー》は踏み台ではないか!」

私の言葉に苦笑いで返した男は、ただをこねる子を諭す親のように話を続けた。その声音は優しかった。

「ふむ…《踏み台》は酷いな。

《礎》か《基礎石》とでもしてくれ。

私は、オークランドの《人間至上主義》を打ち砕くことが出来れば満足だ。喜んで次の者に踏まれよう」

「それでは…ウィンザーは…私の家族は…何のために」兜の中で溢れる涙は頬を伝って隙間から落ちた。

初代ウィンザー大公は、その問いに残酷な答えを返した。

「其方を愛するがゆえに、ウィンザーはフィーアと戦わねばならなかった。オークランドは人質である其方を盾に、ウィンザーに剣を持たせた。

何も無く、道を譲ることは出来ぬ。

それに、ウィンザーに敗北するようでは、まだフィーアは力不足だ。ウィンザーの先に進む事は叶わぬ。

全ては運命…

ウィンザーが滅んだのも、ウィンザーの滅びの果てに生まれた二人の《神紋の英雄》も、フィーアを訪れた《世界を見守る者スペクタートル》の子もまた運命…

オークランドは自らの滅びの鐘を鳴らしたのだ。もう後戻りは出来ぬ」

運命を語る男の言葉の理不尽に、涙が溢れた。

それなら、オリヴァーも私も、運命に殺されるのか?

そんなのあんまりだ!理不尽では無いか?!

腕の中で変わり果てた姿のオリヴァーに、落ちた涙が滲んだ。

足から腐って崩れた亡骸は、腹部より下を失った無惨な姿をしていた。

もう彼は私を呼ばない。微笑まない。手を握り返してはくれない…

「…彼の死も…運命と…そう片付けるのか…」

「そうとも言える」と告げて、《初代ウィンザー》は私の前に膝を折った。

「時間が無い。話は終わりだ、《最後のウィンザー》…

私は、ウィンザーを呪った其方を生かしておくことは出来ぬ。我が子の過ちは、親である私が正す。

其方はその者共々、退場してもらう。其方らは、《ニクセの船》に乗るのだ」

《初代ウィンザー》の手が伸びて、指先が鎧の上から左の胸に触れた。

「安らかに眠れ」

祈るような言葉を最後に、目の前の風景がゆっくりと意識から遠ざかった。

夢に落ちるようなそんな視界に、最後に映ったのはオリヴァーの死に顔だった…

幼い頃の、寝る前のやり取りが脳裏を過った…

小さな手のひらを握る、彼の手から伝わる暖かい温もり…

『ここにいて』という子供の我儘を、彼はいつも笑顔で承諾した。彼は求められて嬉しかったのだろうか?

『ウィンザーにお帰りになるまで、私はジョージ様と一緒ですよ』

『やだよ、君も来てよ』と言った私に、少しだけ驚いた顔をして、彼は笑顔を作ると『良いですよ』と答えた。

私は死んだのか?

真っ白になる意識の中、私の前に困り顔の彼の姿があった。

『おやまあ、随分お早いお着きで』と彼は苦く笑った。

『待っていたのか?』

『残念ながら、大して待ってませんよ。

慌てん坊ですねぇ…

私はのんびりしようと思ってたのに、なにもこんなに早く追いかけて来ることないじゃないですか?』と彼はボヤいた。

死後の世界とも思えない、いつも通りの彼の姿に笑顔が零れた。

二人で霧の向こうから現れた船に足を向けた。

✩.*˚

何がどうなったのか分からない。

俺は魔法は門外漢だ。

『ウィンザーを守ってくれた礼をせねばな』と言って、カーティスは俺とレオンの腕を掴んで魔法陣を召喚した。

気が付くと、魔法陣は消えて、風景は不気味な地下室に場所を変えた。

「傷の手当を」と黒猫から姿を変えた女が手を伸ばして、風に裂かれた傷を癒した。

「彼もウィンザーです。《呪い》の力がこもった《祝福》の傷はきちんと手当しなければ塞がりません」

「あの男は…」

「彼は元ウィンザーの公子です。

ジョージは、私たちの可愛い子供でした…」と彼女は残念がった。

「エインズワース」と男が俺を呼んだ。

「感謝と謝罪を」と言ってカーティスは頭を下げた。

姿はカーティスだが、所作も言葉も全くの別人だ。

「其方の《黒い炎》が無ければ、《呪い》はもっと遠くにまで及んでいた。私の民を救ってくれて、感謝する。

オークランド人の其方に、私の後始末を押し付けて申し訳なかった」

「何故、それを知っている?」

「私は亡霊なのでね」とふざけた返事を返した男は小さく笑った。

「カーティスとアナベルが、私に全て教えてくれるのだよ。世俗に疎くなってしまうと、介入することもままならぬゆえ」と彼は説明した。

カーティスは視線を動かして、俺からレオンに視線を向けた。

「最後のウィンザーの忠臣よ。其方の忠義もこれまでだ」と彼はレオンに終わりを告げた。

「残りは自分のために生きるが良い。ウィンザーはもう終わったのだ」

「でも…私はスペンサー様と…」

「ユージンは望んでいない。彼もまた既に《船》に進んだ身だ」そう言って彼は思い出したように「そういえば」と言葉を付け足した。

「ユージンに頼まれていたのだった…

『デニス、お前のおかげで私は心残りなく《ニクセの船》に乗れる。感謝する』と、伝えて欲しいと私に伝言を残した」

「でも…私は、スペンサー様に殉することなく…」

「それはユージンの望みだ。其方を誰も咎めることはできぬよ。

それに…ユージンは喜んでいた。生き残った全ての者に感謝していた」

カーティスの言葉に、レオンは崩れ落ちるように膝を折った。

親を亡くした子供のように泣くレオンに、カーティスが諭すように語りかけた。

「《デニス》に戻ることは無い。其方は《レオン》として生きろ。それがユージンの望みだ」

カーティスがレオンの震える背に手を添えた。

「ささやかな礼だ…

その姿では生きづらいだろう?其方に色を与えよう」

カーティスの手のひらが輝いて、レオンの身体に染み込んだように見えた。

「…何が」とレオンが顔を上げた。

顔を隠していたローブのフードがズレて、レオンの顔が晒された。

儚げに白かった顔色が、赤みの差した健康的な色に変わっていた。

顔にかかっていた髪の色が透き通る白から、色を含んた亜麻色に変わり、色素の薄い赤い瞳が濃さを増した。

彼はどこにでもいるような若者の姿になった。

「もう珍しくもないだろう?

ネズミのように人目を忍んで、隠れて生きることは無い」とカーティスは満足気に笑ってレオンの肩を叩いた。

「ギルバート、其方にも報いよう」

カーティスは今度は俺に向かってそう言った。

「エインズワースの《波紋の剣》を其方の血縁に継がせれるようにしてやろう」と言って、部屋の奥から大粒の黒い魔石を取り出して来た。

彼は握りこぶしほどもある黒い魔石を差し出した。

「炉に入れて、其方の炎を覚えさせるがいい。其方の亡き後も、この魔石がエインズワースの剣を作り続けるだろう」

差し出された魔石を受け取ると、石は俺の意志とは関係なく、《祝福》の力を吸って焼ける様な色に姿を変えた。

「その《祝福》の炎が残る限り、エインズワースの《波紋の剣》は失われない。石は家宝として、大切に炉の奥にしまって置く事だ」

「あの剣は…」

「精霊の炎に鍛えられた特別なものだ。失われるには惜しいだろう?

其方の死後、エインズワースの名が廃れるのは私の望むところではない」

この魔石があれば、エドガーにも炎を残してやることができるのか?

俺が死んだら廃れるものだと思っていた…

「其方には不要であろうが、子には必要なものだろう?」と言って、俺の心を見透かした男は笑っていた。

「我々亡霊はそろそろ退散するとしよう。

最後に、この男をよろしく頼むよ」と言って、彼は自分を指さした。

「《ウィンザー》はアナベルと共にこの地を去る。

《カーティス》はフィーアに残していく。彼が寂しくないように、よろしく頼むよ」

気軽に押し付けるものだ…

これだから偉い奴は好かん…

「ギルバート」とカーティスに取り憑いた亡霊は、馴れ馴れしく俺の名を呼んだ。

「其方が《神紋の英雄》に選ばれたのは、《冬の王》の《英雄》を引き立てるためではない。

ヴォルガ様が、今この時に二人の《英雄》を欲したからに他ならない。

其方は必要とされた存在なのだ。

受け入れ難いだろうが、卑屈になることは無い。

今一度、その《炎獅子》の《祝福》と向き合って欲しい」

「俺に…生き残った価値はあるのか?」この不思議な男の言葉に、胸にわだかまっていた悩みが溢れた。

エドガーを死なせた…

戦いから逃げ出した、こんな俺に生きる価値があるのか?

こんな過剰な《祝福》を与えられるような身ではないのではないか?

「価値などというものを見出すのは他人の役目だ。

己に価値が欲しくば、それに見合った結果を出す事だな。

其方の成した事に、正当な評価が与えられる事を私は願っている」

ようには、《自分で考えろ》と言うことか?

随分いい加減な返事ではないか?

「頑張れってことですよ、兄さん」とレオンが泣き顔で笑った。

姿は変わってしまったが、笑顔はいつもと同じものだ。

いつものレオンだ…

「さて、我々もそろそろ行かねばならぬ。

話はこれでお開きと致そう…

其方らの帰りを待ちわびてる者たちもいるであろう?」

そう言って、亡霊と名乗る男はいきなり魔法陣を召喚した。

彼は有無を言わさず魔法陣を起動させた。完成した魔法陣の光に包まれ、また何処かに飛ばされる。

「帰りを待つ者たちがいて、其方らは幸せだな」

光の中で、そんな羨む声を聞いた。

✩.*˚

「よろしいのですか?」とアナベルが訊ねた。

心配そうな彼女に歩み寄って、手を差し出した。彼女は迷わず招きに応じた。

「《炎獅子》は《冬の王》の兄弟だ。彼だけを戦わせるようなことは無いさ…」

「シルヴェスター様は《炎獅子》を信頼なさっているのですね」

「迷うのは考えているからだ。熟考する時間は大事だろう?悩まぬ者より信頼できると思うがね」と答えて、彼女の頬に触れた。

彼女の白い柔い手が手のひらに重なった。

「もういいかね?」

「十分です、シルヴェスター様」と彼女は笑顔で答えた。

美しい彼女に唇を重ねた。

これで最後だ…

「《船》に乗る時間だ」と告げた私に、「お供致します」と彼女は優雅なお辞儀で応えた。

「《彼》に別れを告げなくて良いのかね?」

「彼は『さよなら』は言いませんよ。彼は意地っ張りですからね」

アナベルは残念そうにそう言って、悲しげに微笑んだ。

彼女を抱き寄せ、二人で身体を重ねた。

「ありがとう」が彼女と交わした最後の言葉になった。

彼女も私も、別れの言葉は言わなかった…

✩.*˚

中庭の井戸の傍で洗濯していた。

汗ばむほどの陽気だが、洗濯にはちょうどいい。

井戸のポンプから出た水を触って、エドガーが気持ちよさそうに笑っている。

「石鹸ちょうだい」

「あい!」ニュルニュル逃げる、生き物みたいな石鹸を捕まえて、エドガーは誇らしげに差し出した。

「ありがと」と笑って受け取った。

「かか、あわあわ」手に付いた石鹸の泡を見せてエドガーが笑っていた。ご機嫌だな…

この子の瞳は父親似だ。

『すぐ帰る』って言ってたくせに…

兄貴たちと一緒だ…男の『すぐ帰る』は当てにならない。

「みずー」と言って、エドガーが重いポンプを押そうとした。

「無理だよ、かかが…」慌ててエドガーを止めたが間に合わなかった。

石鹸の付いた手でしたから、手が滑って派手に転んだ。ひっくり返って驚いたエドガーがわっと声を上げて泣いた。

「痛い?怪我した?」泥んこになってしまったエドガーを抱き上げて、綺麗な水を汲んだ。

泥を落として、怪我がないか確認したが、少し腕を擦りむいただけだったみたいだ。このくらいならすぐ治るだろう。胸をなで下ろした。

「よかったぁ…」とエドガーを抱っこしながら頭を撫でた。

「なんだぁ?!エドガー、どうした?!」エドガーの泣き声に驚いた親父が、慌てた様子で作業場を飛び出してきた。

親父はエドガーに甘い。泣いただけで仕事の手を止めてまで来るなんてあたしらの時は無かった。

「転んだだけよ」

「じーじ」べそをかいていたエドガーが親父に手を伸ばした。

「おー、エドガー、痛かったなぁ。爺が抱っこしてやる」

「仕事は?」

「んなもん、後でいくらでもできる。エドガーは今泣いてんだ」と親父はエドガーをあやしていた。

「ギルとレオンが居ねぇんだ、こいつだって寂しいだろうが?」

ホントに甘いんだから…

ため息を吐いて肩を竦めた。

あたしも寂しいんだけどな…

そんな事を心の中で呟いたあたしの後ろで、何かが光って派手な水飛沫が上がった。

「うおっ!」

「冷たっ!」

背後で上がった悲鳴に、思わず振り返った。

「何でこんな所に…」と苛立たしげにボヤく声は聞きたかった声だ…

「あーあ、洗濯物が…」水に落ちずに済んだ彼は、苦く笑って運の悪い兄を覗き込んでいた。

「とと?れお?」

空いた口が塞がらない親父の腕の中で、舌っ足らずな声が、洗濯物の桶に湧いた二人を呼んだ。

ズルズルと滑るように親父の腕を離れたエドガーが、ギルの元に走った。

「…エドガー」

「とと、みずあそぶ?」機嫌を治したエドガーが、ギルに手を伸ばした。

ギルがエドガーを腕の中に抱き寄せた。

「エドガー…」と子供の名前を呼びながら、ギルは泣いていた。そんな姿は初めて見たから驚いた。

「やぁ、アニタ、お義父さん、ただいま」とギルの傍らに立つ男が笑った。彼は外套に飛んだ水を払って何事も無かったような顔をしていた。

「え?レオン?」

「どうしたんだ?その姿は…」

「ちょっとややこしい話が必要に…」とレオンは苦笑いしながら自分の髪を弄った。

真っ白だった肌も髪も、色塗りしたみたいに変わっていた。

ウサギみたいだった赤い瞳も、可愛い栗色に変わっている。

それでも、姿は変わっても、控えめに優しく笑う顔はやっぱりレオンだ。

「とと、いーこ、よーしよし」

さっきまで泣いていた子供が父親を慰めていた。

「ギル、あんたどうしちゃったのよ?」

子供みたいに泣きじゃくっているギルに歩み寄ると、いきなり腕を掴まれて、エドガーの時みたいに、すごい力で引っ張られた。

不意打ちで水に引っ張りこまれ、ずぶ濡れになった。

「ギル!あんたね!」

「…会いたかった」

あんたね…

言葉が引っ込んでしまう。そんな事言うような男じゃなかったろ?ちょっとズルくない?

夏の日差しのせいじゃない、熱に目眩を覚えた。

「…おかえり」と彼の腕の中で拗ねたように呟いた。

エドガーも真似をして「おかえりぃ」と笑った。

「ただいま」と泣きべそかいてる男が応えた。

『遅かった』とか、『何してたの』とか、そんな話は後でいいや…

彼の涙を止めるのが先だ。

「もう!いつまで泣いてんのよ?

ほら、そこから出て!洗濯物が増えちゃったでしょう?!

あたしまで濡れたじゃない!だいたい、何でこんなところにいきなり湧いたわけ?!

洗濯桶が壊れるから早くどいてよ!」

「すまん…」とか言いながら全然離さないじゃん!

「とと、かか、なかよしだね」と息子にまで言われる始末だ。

濡れた頭を叩いて無理やり引き剥がした。

「ほら!さっさと動く!

全く!男ってすぐ動かなくなるんだから!

エドガーも着替えるよ!ととと身体拭いて着替えな!」

「アニタ」

「何よ!ギル!」

「好きだ」

ズルくない?!そんなの言われたら、何も言えないじゃん!そうでなくてもあんた男前なんだから…

「かか、あかいよ」と幼児に指摘された。

だって、おかしな事ばかりで…この熱はギルのせいだ!

「とと、かか、かわいいねぇ」

「うん」とエドガーに頷いて、ギルはやっと洗濯物の桶から出てきた。

彼の居なくなった桶の中に、見覚えのない物を見つけた。

「ん?これ何?」拳くらいの大きさの黒い石は内側に赤い光を宿していた。焼けた石炭みたいな石を拾って、ギルは「土産だ」と答えた。

「後で話す。信じて貰えるかは分からんが…」

「ふーん…まぁ、着替えが先ね。こんな格好、見られたら恥ずかしいよ」

「エドガーはもうすっぽんぽんですよ」とレオンが笑った。服が気持ち悪くて自分で脱いだのだろう。

裸の小僧は叔父に捕まっていた。楽しそうに笑っているエドガーを抱えて、レオンが母屋に入って行った。

「仕事だ」と言って親父も作業場に戻って行った。

ずぶ濡れの二人だけ残された。

ギルの手がこっそり伸びて指先が触れた。

指が絡んで手のひらが重なる。

久しぶりだから、やたら積極的に触れてくる。嫌じゃないけど恥ずかしい…

「会いたかった」と言われて、誰もいないのを確認して、「あたしも…」と答えた。

ギルは泣き腫らした顔で照れくさそうに笑った。

ずるいじゃん…そんな顔…

仕方ないな…生きて帰ってきたから許してやるよ…

そんな強がりの言葉を飲み込んで、近づいた顔に唇を重ねて再会のキスをした。
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五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

野球部の女の子

S.H.L
青春
中学に入り野球部に入ることを決意した美咲、それと同時に坊主になった。

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