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弟の危篤と聞いて来てみれば…
「どういう呼びつけ方だ?私は忙しいのだぞ!」
「ハッハッハ!お久しぶりです、兄上!」
相変わらず腹の底から轟くような声で、瀕死のはずの弟は元気そうに笑った。久しぶりと言うほどでも無いはずだが…
「いやはや、もうバレましたか?」と、どこか他人事のような物言いの弟に苦く口を開いた。
「バレましたか?だと?
伝令の話を聞いて慌てて来てみれば、お前は元気だし、本営だったはずの場所は焼け野原!おまけに何故テレーゼがここにいる!説明しろ!」
「いやいや、兄上、姪殿をお叱りくださいますな!
彼女は私の命の恩人です。慈悲深い美しい女神に感謝しております!」とカールはその場に居合わせたテレーゼを庇った。
「貧しき子供たちのためにと健気に奔走する姿、フィーア貴族の鏡です!この私も心動かされました!
私も彼女の後援者として助力を約束した次第です!」と語った。
どうやらこの場の名のある者たちから、後援の約束を取り付けたらしい…
我が娘ながら恐ろしい行動力だ…
ため息を吐いてテレーゼに向き直った。彼女には確認せねばならないことがあった。
「テレーゼ、《白い手》を使ったな?」
私の追求に、彼女は気落ちしたように小声で謝罪を口にした。
「お父様…言いつけを破って、申し訳ございません…」その返事は、《祝福》を使ったという事だ。
このような場所でその《祝福》を使えば、どうなるか分からない訳では無いだろう?
「全く…仕方の無い子だ…」と苦く呟きながらテレーゼに歩み寄った。
母親によく似たその姿を前にして、苦い言葉を飲み込んだ。
「箝口令は敷いておろうな?」とカールに確認した。
弟は頷いて望んだ答えを返した。
「私にも内緒だったのでしょう?
箝口令は敷いております。
本営の失火で火傷を負いました。私は負傷して前線を一時離れて退屈な療養中です」
「なるほど…元気な重傷者だ…」
「ところで兄上。兄上には秘密が多すぎやしませんか?エインズワースと姪殿のおかげで死に損ないましたが、危うかったのは確かです。
兄上の秘密を、少しは弟に共有してください」
「エインズワース?彼が何をした?」意外な名前に驚いた。兄の方か?
「《祝福持ち》を二人相手に引かずに、私を狙った刺客を退けました。
彼に恩賞を与えたいのですが、応じてくれません」
「なるほど。それは私からも報いてやらねばならんな」
「お父様。ギル様の事は私にお任せ下さい」とテレーゼが口を挟んだ。
「ギル様は良い方です。叔父様をお救いくださいました。
それでも戦う事を望んでおりません。私の護衛として、ブルームバルトに帰ることをお許しくださいませ」
「…ふむ…」
「姪殿、それは難しい話だ。
兄上、エインズワースをご説得頂けませんか?彼が居てくれればカナルの守りは難しくはありません」と弟は娘と真逆の願いを申し出た。
私としてもカールと同意見だが、ロンメルとの約束がある。
「彼と会って話す」と答えて、明言を避けたが、テレーゼは落胆した様子だった。カールと目を合わせて、ため息を吐いて肩を竦めた。
現状は河を挟んでいる事で戦線は膠着しているが、いつ動きがあるか知れない。
しかも相手は大国だ。
国力も人的資源もまるで違う。
質で勝っていても、数で負けることは十分にありうる事だ。
ひとつでも手駒が多いに越したことはない。
それでも、ロンメルとの約束を反故にする理由にはならない。約束は約束だ…
山積した問題に頭が痛くなるのを感じたが、この頭痛も《白い手》では癒せそうになかった。
✩.*˚
「閣下。対岸の準備は整いました」
コーエン卿が作戦の進捗を伝えた。
《黄金樹の騎士団》の存在無くしてはこの作戦はなりえなかっただろう。正に天啓だ。
「敵には悟られてはないであろうな?」
「それどころではないかと…
リューデル伯爵不在とあれば、あるかも知れない橋のことなど眼中にありますまい」とコーエン卿は楽観的な考えを口にした。
全てが順調に思えるが、向こう岸には厄介な存在がいる。あの若い侯爵も油断がならない。
「対岸を制圧して、橋頭堡を確保したら私は一度領地に戻る。後のことは卿に任せる」
「…ご子息もですか?」とコーエン卿が控えめに訊ねた。
「そうだ」と答えてため息を吐いた。
未だにアーサーは私に心を許さない。相変わらず、私を父と呼ぶことを頑なに拒んでいた。
それでも、異母弟の前では優しく心を砕いて接しているようだった。喜ぶダニエルの姿を見て、私もそれでいいと思うようになっていた。
息子が手元に戻っただけで良いでは無いか…
アーサーが子を成せば、その子を次のフェルトンに据えれば良い。
アーサーは領内に匿い、教会から隠せば問題にはならないはずだ。
「コーエン卿」
「はっ!」畏まった返事をする信頼できる部下に、自らの弱さを晒した。
「私は間違っているか?」
私の問いに、彼は驚いた顔をした。
短い沈黙を挟んで、彼は答えた。
「私には判断しかねます。
確かに、閣下は独断の多い方ではありますが、それは閣下の武器でもあります。
私にできるのはご不興を買う覚悟でお諌めすることくらいです。
それに、我が子を愛することが間違いであるとは思いません」
「…そうか」
「そうですとも」と彼は耳に優しい言葉を締め括った。
雑念を振り払うように、ため息を吐いて、また我儘で傲慢な老人の仮面を顔に貼り付けた。
この仮面を装うのもそろそろ疲れていた。
私がフェルトンという荷を下ろせる日は、まだ当分先のようだ…
✩.*˚
目が覚めて、狭い視界に代わり映えのない景色を眺めた。
夢の中に現れた巨大な黒い獣は、俺を『傲慢な者』と呼んだ。
何故、俺が《傲慢》なのだ?
夢は深層心理と言うが、思い当たる節など無い。そんなに俺は思い上がっているか?
「おはようございます、《若様》」
同居人の挨拶に「おはよう」と返した。
メリッサ嬢は、既に身支度を終えていた。
「お食事のご用意を致しますので、席を外します」と告げ、彼女はテントを出て行った。
兜を取って顔を洗い、髭が引っかかる顔を撫でた。
嫌いなんだよな、無精髭…老けて見える…
面倒がって、無精髭をそのままにしていたあの男は、まだそのままだろうか?傭兵のような姿になってないか心配だ…
気が付けば、ここに来て一月程経過していた。
いつまでこの不毛な生活が続くのか分からないが、この生活に慣れつつある自分が腹立たしい。
髭を剃り落として、髪を整え、再び兜を被って顔を隠した。
この仮面との生活も早くおさらばしたかった。
テントの入口で、「《若様》」と呼ぶ声がした。彼女が戻って来たようだ。
彼女も慣れた様子で、食事の用意を済ませると、俺に背を向けて立った。
フェルトン伯爵家のメイドとあって、彼女はよくわきまえていた。
いつか俺の方から顔を晒すのを楽しみにしているらしい。物好きな娘だ。
食事を終えると、彼女は皿を下げて身の回りの世話を焼いた。
俺の足枷の鍵は必要な時には外された。彼女が父から預かってくる。
鍵を奪うことも、逃げることもできたが、父は俺が逃げないと知っていて彼女に鍵を預けていた。
俺の本当の枷は彼女自身だった。
置いて行くことも、一緒に逃げることも出来ない。
過去にアイリーンと駆け落ちすることも出来なかった臆病な息子を、父はよく理解していた。
着替えを済ますと、彼女は「失礼します」と断って足枷を元の位置に戻した。
「ダニエル様に、お支度が済みました、とお伝えしてよろしいでしょうか?」
「あぁ、伝えてくれ」と答えて彼女を送り出した。
テントに積まれた本を手にしてページを捲った。
異母弟が貸してくれた本はどれも面白かった。
わかりやすいハッピーエンドの物語は、気を紛らわすのにちょうど良かった。
「《若様》、戻りました」とまたテントの入口でメリッサ嬢の声がした。
テントの中に足を踏み入れた彼女は花を抱いていた。
白い大輪の山百合と赤いジニアを手にした彼女は、自慢げな笑顔で「お土産です」と花を差し出した。
長さの全く違う、対象的な花は難しい取り合わせだ…
生けることを考えない少女のように、目に着いたものを持って帰ったのだろう。彼女らしい…
多分、ジニアの花言葉も知らないのだろう。
《不在の友を思う》、《あなたの不在を悲しむ》の言葉を含んだ花は、俺に向こう岸の日々を思い出させた。
「ありがとう」と花を受け取ると、彼女はアイリーンとそっくりな笑顔で笑った。
✩.*˚
「やったー!当たりー!」
色の付いた籤を引き当てて、イザークがはしゃいでいた。
「それハズレだぞ」と教えてやったが、あいつは《当たり》だと言う。
「おもしれぇ事には一枚噛みたくなるだろ?
ディルク、お前も貧乏くじ引けよ!」とイザークは嫌な事を言った。
お前と一緒に居るだけで貧乏くじだよ…
うんざりした顔でため息を吐いた。
スーが《犬》を集めて、『色付きを引いた奴は今夜俺と散歩だ。ワルターには黙ってろよ』と言って、籤を引かせた。
『黙ってろ』って言ってる時点でどうせろくな事じゃない。
「なぁ、スー。何するつもりだ?」
「色付き引いた奴にしか教えない。
お前もさっさと引けよ、無くなるぞ」
「最後に残ったやつでいいよ」と答えて、他の奴に先を譲った。
近くのちょうど良い岩に腰掛けて、煙草を咥えると、籤が無くなるのを待った。
「ディルク、スーは何するって?」と《ハズレ》を手にしたアルノーが俺に訊ねた。お前もか…
「知らねぇよ」と答えると、彼は「ふーん」と勘ぐるような視線を寄越した。
こいつもイザークと同じく、スーに喧嘩を売った奴だ。俺以外の《犬》は問題児しか居ない…
「あんたなら『知ってんじゃね?』ってイザークが言ってたぜ」
「あいつ…また適当に…」と呟いて頭を掻きむしった。
「あいつと一緒とか、あんた苦労するね」とアルノーが苦笑いしながら、俺の傍に腰を下ろして煙草を咥えた。
「好きで一緒にいねぇよ。あいつが勝手に着いて回ってんだ」
「へぇ…じゃあそういうことにしておいてやるよ」と生意気な口を利いて、アルノーは指先で《ハズレ》を弄んでいた。
「何だ?お前らと一緒かよ?」ともう一人運の悪い奴がやって来た。手にはあの籤が握られている。
「一体何させられるんだ?」とカイも同じことを訊ねた。
「知るかよ。相手はスーだぜ」と素っ気なく返事を返した。俺の知ったことか…
「魔法の実験台とかじゃなければいいけどな…」
「マジか…やべぇな…」とアルノーとカイがヒソヒソ話し合っている。
「あーあー、あん時噛みつかなきゃ良かったよ…」
「全くだ」
「お前らは自分のせいだろう?俺なんてイザークのとばっちりだぞ!」
「そりゃ、ご愁傷さま」と言って彼らは笑っていた。
諸悪の根源が、スーと一緒にこちらに歩いて来るのが見えた。
イザークのニヤけ顔を見て、嫌な予感がした…
「ほら、お望み通り、最後の一本だ」と差し出されたスーの手から、籤を嫌々引いた。
…マジかよ…やっぱりな…
「お前らホントに仲良しだよな」とスーが笑った。
不本意だ。俺は別にイザークと仲がいい訳じゃない。
「お前ら四人は散歩だ。逃げんなよ」と言い残してスーは踵を返して去って行った。
「な?言ったろ?」とイザークが俺の手の中に残った忌々しい《ハズレ》を指して言った。
何となく腹が立ったから殴っておいた。
殴り飛ばされたふざけた男を見て、「馬鹿だな」とアルノーとカイは苦く笑っていた。
✩.*˚
「本当に来てくれるとはね」と彼は私を迎えてくれた。
トレードマークの帽子と派手な戦闘服から、貧相で薄汚れた服に着替えていた。目立たない皮の鎧は彼には少し大きかった。
彼は、その辺で拾った、鎧とちぐはぐな兜で綺麗な顔を隠していた。
オークランドの傭兵から奪ったものだろう。
彼の部下も同じような格好をしていた。
「ネズミだけ貸してくれたら良かったのに…」と彼は私の心配をしてくれた。
「通訳が必要でしょう?君にはネズミの言葉は分からないはずですよ、スー」
「まあ、君がいてくれたら助かるけどさ…
ギルにバレたら、また殺されそうになるだろうな…」とスーがため息を吐いた。
「兄さんのためです」と答えて、来た道を振り返った。
ギルが心配だった…
昼頃に、ギルを訪ねてきたヴェルフェル侯爵は、彼に助力を願い出た。
あくまでお願いとしてだが、ギルはリューデル伯爵を助けた際に、《戦える》と証明してしまった。
今更断るのは難しかった。
ヴェルフェル侯爵が引き下がっても、他の人たちは納得しないだろう。
ギルもそれを理解していた。
私が彼を巻き込んだせいだ…
アニタとエドガーの許に帰すと約束したのに、結果的に、彼を追い詰めて、戦場に繋ぎ止める結果になってしまったのは私のせいだ…
ロンメル夫妻は、ギルに『嫌なら断っていい』と言ったが、彼らの立場が悪くなるのは否めない。
ギルもそれが分かっているから、侯爵への返事を保留にしていた。
この戦争を早く終わらせなければ、彼はまた望まぬ生活に戻らねばならなくなる。
だから私はスーの無謀な計画に乗ったのだ…
「行くか!」と彼は歩き出した。
「ロンメル様には何と言ってきたのですか?」
「え?ワルター?
『ちょっと《犬》と散歩して来る』って言って来た」と子供みたいに答えて、彼はイタズラを企む少年のように笑った。
「そんなのでいいんですか?」
「いいよ。だって今、彼はテレーゼに夢中だからさ。
俺がいたら邪魔だよ」
「君が居ないと皆困るんじゃないですか?」
「大丈夫さ。ゲルトもカミルもいる。
《雷神の拳》の連中だっているんだ。一日くらい居なくたって構いやしないさ」
そう言って、彼は跳ねるような軽い足取りで砂利の多い河原を歩いた。
少し暗い三日月が空を照らしていた。
フィーアの宿営地から充分離れた頃に、スーは足を止めた。
「ここいらでいいかな」と一人で呟いて、スーは左手の手袋を外した。指に並んだ指輪が、月明かりに反射して煌めいた。
「《水乙女の靴》」
スーが魔法を発動させると、足元に少しだけ違和感を覚えた。
「何したんだよ?」と彼の部下がスーに訊ねた。
「水面を渡れるようにしたんだよ。ほら」と答えて、スーは河に向かって足を踏み入れた。
「どうなって…」と驚く大人たちの視線は、水の上を歩く青年に注がれていた。
まるで水溜まり歩くかのように、彼は水の上を歩いていた。
「早くしろよ!効果が切れたら泳いで渡れよ!」
振り返ったスーが仲間を急かした。大人たちは目の前の出来事に戸惑っていた。
「これって、足踏み入れたら、いきなりドボンするとかないよな…?」
「お前らな…俺の事何だと思ってるわけ?」
彼は河から戻って来て、私の手を握った。
「行くよ、レオン」と兜の下から覗いた紫の瞳に魅せられた。手を引かれるまま、河に足を踏み入れた。
ピシャッ、と水を叩くような音と跳ね返すような感覚が足の裏に伝わって、私は水から嫌われた。
「お前らいつまで渋ってんだよ!置いてくぞ!」と部下には手厳しい。
「はいはい、仰せのままに」と年長の傭兵か皮肉っぽく応えて、彼も水の上に足を踏み入れた。彼に続いて水面に足を載せようとした男がスーに訊ねた。
「これって俺だけ沈むとかある?」
「沈めて欲しいのか?」と意地悪く答えるスーに、彼は降参とばかりに諸手を挙げて、足を水面に乗せた。
「うっわ!すっげぇ!マジで浮いてる!」
子供みたいにはしゃいで、水の上で跳ねる男に、スーは「ガキだな」と呆れたように呟いた。
「スー、ありがとう。もう大丈夫だから、手を離してくれていいよ」と繋いだ手から力を抜いた。
それでもスーの手は離れなかった。
「…昔、親友とこうやって河で散歩した」
彼は独り言のような声が耳に届いた。
誰の事だろう?私の知らない人だろうか?
気難しい彼が親友と呼ぶような人を私は知らなかった。
スーはそのまま私の手を引いて歩いた。
水面を叩くような音が重なって夜闇に響いた。
「あの事件から…もうずっと会ってないんだ…」とスーが口を開いた。
あの事件とは、彼にとっての最悪の出来事の事だろう。もうそれなりに時間が経っていた。
「時間が経てば、俺たちはどんどん離れていってしまうんだ…
彼とはかろうじて繋がってるけど、手紙のやり取りも随分減ったよ。
あの夏の河を、手を繋いで渡ったのも、俺の事も…彼の記憶から消えるのは案外早いかもね…
俺と彼の時間は違うから…」
スーの寂しい言葉を黙って聞いた。
「離れてる時間が長ければ長いほど、会いづらくなる。だから、アーサーは気不味くなる前に連れ返す」
「いいと思いますよ」と答えた私にスーは少し振り返った。暗くて伺いしれない顔は、少し笑っているように見えた。
ギルの事を思っていた。
あの河原で、死体を抱いて泣き腫らした顔を知ってるのは私だけだ…
彼という人間を知って、もうあの顔は見たくなかった…
✩.*˚
「レオンを知らないか?」
深夜にギルがテントを訪ねてきた。
一緒に寝ていたテレーゼを起こさないように、ゆっくり身体を起こして腕を抜いた。
「『スーの所に行く』と言って出て行った」とギルが小声で言葉を付け足した。
「ならスーのテントだろ?」と答えると、ギルは苛立たしげに口を開いた。
「居ないから来たんだ。お前の所じゃないのか?」
「スーは?」嫌な予感がした。あいつまさか…
「居ない。お前のテントで寝泊まりしてたろう?今日はいないのか?」
「…あのバカ…ちょっと待ってろ、探してくる」と答えて上着を羽織った。
「…ワルター様?」テレーゼの声がした。起こしちまったか?
「悪い。少し出てくる」
「何かありましたか?」と言って彼女は身体を起こした。
「なんでもねぇよ、すぐに戻るから寝てな」と言い残して彼女に歩み寄って毛布をかけた。
「ギル、テレーゼと待ってろ」と言ってテントを出た。
ゲルトのテントを訪ねると、カミルが俺に気付いて用向きを訊ねた。
「スー?見てないな…」と彼も眠そうな顔で首を傾げていた。
「何時から見てない?」
「飯食って…《犬》集めて何かしてたな…
《アタリ》だの《ハズレ》だの言ってた気がするが…
何かあったのか?」
「あのバカの姿がねぇんだよ。レオンも居ないってギルが俺に知らせた…他に行きそうな所あるか?」
「フリッツの兄貴やヨナタンは?」
「分からんが、一応声をかけてくる」
「分かったよ。俺は《犬》の連中に確認して来る」と言ってカミルは毛布を脇に寄せて立ち上がった。
「すまんな」
「いいさ」と軽く応えて、カミルは欠伸をしながら立ち去った。
「…何だ?スーがどうしたって?」と不機嫌そうな声が聞こえた。
「何だよ、起きてたのか?」
「爺はな、眠りが浅いんだ…
それより、あの糞ガキ抜けやがったのか?」
「分からん。でも姿がない…何か聞いてるか?」
「いや、初耳だ…
まさか、あん時みたいに河を渡ったりしてないよな?」
「まさか!?」と答えたがあながち無くはない。あいつにはそれが可能だ。
「とりあえずフリッツたちにも確認して来る。爺は寝てろ!」
そう言い残してフリッツの元に向かった。
案の定フリッツもヨナタンも何も知らなかった。
「何事ですか、父上?」と騒ぎを聞きつけたブルーノが現れたので、スーの事を訊ねた。
「手紙の事ですか?」と彼は首を傾げた。
「朝になったら叔父様にお渡しするように頼まれたのです。何でこんなこと頼むのか謎でしたが…」と言いながらブルーノは俺にスーからの手紙を差し出した。
手紙を受け取って封を開けると短い文章に絶句した。
『向こう岸を散歩して来る』
「アホか!!」
ゲルトの勘が当たっていた。あのバカ、カナルを越えて、オークランド側に行ったようだ。
「スーには首輪と鎖がいるな」とヨナタンが煙草の煙と一緒に辛辣な言葉を吐き出した。
「あいつ!またやりやがったのか?!」とフリッツも呆れ顔だ。状況が飲み込めないブルーノだけがオロオロしている。
「これ、何時預かった?」
「確か、寝に行く前だったかと…10時頃です」
「今、3時だぞ…」とヨナタンが自分の時計を取り出して確認した。
「今頃向こう岸だな」と彼は嫌な一言を添えた。
そこにカミルが来て、さらに面倒な事を告げた。
「おい!スーの《犬》も何人かいないぞ!」
「…連れてったのか?」
「連れてった?何か分かったのか?」と訊ねるカミルに手紙を見せた。
「…マジかよ…」と彼も絶句した。
「どうすんだ?」
「どうしようもねぇよ… 」と苦く答えた。
「戻るのを待つしかねぇだろ…あのバカ」
全く!何考えてやがる!
アーサーの事で進捗が無くてイライラしてるのはお前だけじゃないんだぞ!
苛立たしく舌打ちしたが現状は変わらない。
まんまと出し抜かれた、自分の間抜けさに歯噛みした。
あいつら帰ってきたら覚えてろよ!!
✩.*˚
「きゃっ!」
驚いた声を上げて、メリッサ嬢は手に持っていた皿を落とした。大きな音を立てて陶磁器の皿が割れて、破片が飛び散った。
「大丈夫か?」と声をかけると、彼女の足元をネズミが駆け抜けて行った。こいつが原因か…
「も、申し訳ありません!ネズミが…」
「いや、いい。それより怪我はないか?」
割れた皿を拾い集めながら訊ねると、彼女は手伝いを拒んだ。
「おやめ下さい《若様》!もし指でも切ったら…」
「平気だ。誰も私に傷一つ付けられない」と答えて破片を拾った。怪我をするなら彼女の方だろう。
「メリッサ嬢は箒を用意してくれ」と指示して、隙間に入り込んだネズミを睨んだ。
朝にネズミの訪問があるのは珍しかった。
全く、彼女が叱られたらどうするつもりだ?ネズミはお構い無しで隙間で毛繕いを始めた。
「私が割ったことにしてくれ」と言って彼女に割れた食器渡した。
食べ終わったパンの皿でよかった。パン屑を撒いただけで済んだ。絨毯も汚れてない。
俺が不注意で皿を割っただけで済むことだ。
「申し訳ありません」と謝って彼女はテントを後にした。
彼女が出ていった後に、ネズミが隙間から這い出して来て、いつもの紙切れをポンと吐き出した。
紙切れを拾って広げると、手紙の文字はいつもと違っていた。
『今夜迎えに行く』と一方的に告げる文字はロンメルのでは無い。スーの字に似てた。
ネズミは返事が無いと知っているのか、俺が手紙を見たのを確認して走り去った。
急過ぎやしないか?
今まで進捗がなかったのに、何故急に迎えに来る気になったのだ?何か動きがあったのか?
まさか、あいつの独断では無いだろうな?
嫌な予感がしたが、同時に、まさかそこまで馬鹿じゃないだろう?とも思う。
メリッサ嬢が戻る前に手紙を処分した。
迎えが来るとして、どうやって逃げる気だ?
ここは本営だぞ。見張りの目が厳しい。
それに…
「《若様》、戻りました」とテントの外でメリッサ嬢の声がした。
戻ってきた彼女は俺の悩みなど知らずに、テントに戻るといつもの笑顔を見せた。
彼女を置いていくのは気が引けた。俺が逃げれば、父は容赦なく彼女を罰するだろう。
かと言って、連れて行くのも身勝手に思えた。
彼女は恋人でも何でもない。ただ、父から世話をするように命じられてここに来た使用人だ。
あんな事を言っていたが、カナルの向こうに渡る理由など、彼女には無かった。
《一緒に来てくれ》とは言えなかった…
それが彼女のためだと、勝手に思い込んで、自分が傷つかずに済む方法を探していた。
俺という人間は、あの時から大して成長していないのだ…
「どういう呼びつけ方だ?私は忙しいのだぞ!」
「ハッハッハ!お久しぶりです、兄上!」
相変わらず腹の底から轟くような声で、瀕死のはずの弟は元気そうに笑った。久しぶりと言うほどでも無いはずだが…
「いやはや、もうバレましたか?」と、どこか他人事のような物言いの弟に苦く口を開いた。
「バレましたか?だと?
伝令の話を聞いて慌てて来てみれば、お前は元気だし、本営だったはずの場所は焼け野原!おまけに何故テレーゼがここにいる!説明しろ!」
「いやいや、兄上、姪殿をお叱りくださいますな!
彼女は私の命の恩人です。慈悲深い美しい女神に感謝しております!」とカールはその場に居合わせたテレーゼを庇った。
「貧しき子供たちのためにと健気に奔走する姿、フィーア貴族の鏡です!この私も心動かされました!
私も彼女の後援者として助力を約束した次第です!」と語った。
どうやらこの場の名のある者たちから、後援の約束を取り付けたらしい…
我が娘ながら恐ろしい行動力だ…
ため息を吐いてテレーゼに向き直った。彼女には確認せねばならないことがあった。
「テレーゼ、《白い手》を使ったな?」
私の追求に、彼女は気落ちしたように小声で謝罪を口にした。
「お父様…言いつけを破って、申し訳ございません…」その返事は、《祝福》を使ったという事だ。
このような場所でその《祝福》を使えば、どうなるか分からない訳では無いだろう?
「全く…仕方の無い子だ…」と苦く呟きながらテレーゼに歩み寄った。
母親によく似たその姿を前にして、苦い言葉を飲み込んだ。
「箝口令は敷いておろうな?」とカールに確認した。
弟は頷いて望んだ答えを返した。
「私にも内緒だったのでしょう?
箝口令は敷いております。
本営の失火で火傷を負いました。私は負傷して前線を一時離れて退屈な療養中です」
「なるほど…元気な重傷者だ…」
「ところで兄上。兄上には秘密が多すぎやしませんか?エインズワースと姪殿のおかげで死に損ないましたが、危うかったのは確かです。
兄上の秘密を、少しは弟に共有してください」
「エインズワース?彼が何をした?」意外な名前に驚いた。兄の方か?
「《祝福持ち》を二人相手に引かずに、私を狙った刺客を退けました。
彼に恩賞を与えたいのですが、応じてくれません」
「なるほど。それは私からも報いてやらねばならんな」
「お父様。ギル様の事は私にお任せ下さい」とテレーゼが口を挟んだ。
「ギル様は良い方です。叔父様をお救いくださいました。
それでも戦う事を望んでおりません。私の護衛として、ブルームバルトに帰ることをお許しくださいませ」
「…ふむ…」
「姪殿、それは難しい話だ。
兄上、エインズワースをご説得頂けませんか?彼が居てくれればカナルの守りは難しくはありません」と弟は娘と真逆の願いを申し出た。
私としてもカールと同意見だが、ロンメルとの約束がある。
「彼と会って話す」と答えて、明言を避けたが、テレーゼは落胆した様子だった。カールと目を合わせて、ため息を吐いて肩を竦めた。
現状は河を挟んでいる事で戦線は膠着しているが、いつ動きがあるか知れない。
しかも相手は大国だ。
国力も人的資源もまるで違う。
質で勝っていても、数で負けることは十分にありうる事だ。
ひとつでも手駒が多いに越したことはない。
それでも、ロンメルとの約束を反故にする理由にはならない。約束は約束だ…
山積した問題に頭が痛くなるのを感じたが、この頭痛も《白い手》では癒せそうになかった。
✩.*˚
「閣下。対岸の準備は整いました」
コーエン卿が作戦の進捗を伝えた。
《黄金樹の騎士団》の存在無くしてはこの作戦はなりえなかっただろう。正に天啓だ。
「敵には悟られてはないであろうな?」
「それどころではないかと…
リューデル伯爵不在とあれば、あるかも知れない橋のことなど眼中にありますまい」とコーエン卿は楽観的な考えを口にした。
全てが順調に思えるが、向こう岸には厄介な存在がいる。あの若い侯爵も油断がならない。
「対岸を制圧して、橋頭堡を確保したら私は一度領地に戻る。後のことは卿に任せる」
「…ご子息もですか?」とコーエン卿が控えめに訊ねた。
「そうだ」と答えてため息を吐いた。
未だにアーサーは私に心を許さない。相変わらず、私を父と呼ぶことを頑なに拒んでいた。
それでも、異母弟の前では優しく心を砕いて接しているようだった。喜ぶダニエルの姿を見て、私もそれでいいと思うようになっていた。
息子が手元に戻っただけで良いでは無いか…
アーサーが子を成せば、その子を次のフェルトンに据えれば良い。
アーサーは領内に匿い、教会から隠せば問題にはならないはずだ。
「コーエン卿」
「はっ!」畏まった返事をする信頼できる部下に、自らの弱さを晒した。
「私は間違っているか?」
私の問いに、彼は驚いた顔をした。
短い沈黙を挟んで、彼は答えた。
「私には判断しかねます。
確かに、閣下は独断の多い方ではありますが、それは閣下の武器でもあります。
私にできるのはご不興を買う覚悟でお諌めすることくらいです。
それに、我が子を愛することが間違いであるとは思いません」
「…そうか」
「そうですとも」と彼は耳に優しい言葉を締め括った。
雑念を振り払うように、ため息を吐いて、また我儘で傲慢な老人の仮面を顔に貼り付けた。
この仮面を装うのもそろそろ疲れていた。
私がフェルトンという荷を下ろせる日は、まだ当分先のようだ…
✩.*˚
目が覚めて、狭い視界に代わり映えのない景色を眺めた。
夢の中に現れた巨大な黒い獣は、俺を『傲慢な者』と呼んだ。
何故、俺が《傲慢》なのだ?
夢は深層心理と言うが、思い当たる節など無い。そんなに俺は思い上がっているか?
「おはようございます、《若様》」
同居人の挨拶に「おはよう」と返した。
メリッサ嬢は、既に身支度を終えていた。
「お食事のご用意を致しますので、席を外します」と告げ、彼女はテントを出て行った。
兜を取って顔を洗い、髭が引っかかる顔を撫でた。
嫌いなんだよな、無精髭…老けて見える…
面倒がって、無精髭をそのままにしていたあの男は、まだそのままだろうか?傭兵のような姿になってないか心配だ…
気が付けば、ここに来て一月程経過していた。
いつまでこの不毛な生活が続くのか分からないが、この生活に慣れつつある自分が腹立たしい。
髭を剃り落として、髪を整え、再び兜を被って顔を隠した。
この仮面との生活も早くおさらばしたかった。
テントの入口で、「《若様》」と呼ぶ声がした。彼女が戻って来たようだ。
彼女も慣れた様子で、食事の用意を済ませると、俺に背を向けて立った。
フェルトン伯爵家のメイドとあって、彼女はよくわきまえていた。
いつか俺の方から顔を晒すのを楽しみにしているらしい。物好きな娘だ。
食事を終えると、彼女は皿を下げて身の回りの世話を焼いた。
俺の足枷の鍵は必要な時には外された。彼女が父から預かってくる。
鍵を奪うことも、逃げることもできたが、父は俺が逃げないと知っていて彼女に鍵を預けていた。
俺の本当の枷は彼女自身だった。
置いて行くことも、一緒に逃げることも出来ない。
過去にアイリーンと駆け落ちすることも出来なかった臆病な息子を、父はよく理解していた。
着替えを済ますと、彼女は「失礼します」と断って足枷を元の位置に戻した。
「ダニエル様に、お支度が済みました、とお伝えしてよろしいでしょうか?」
「あぁ、伝えてくれ」と答えて彼女を送り出した。
テントに積まれた本を手にしてページを捲った。
異母弟が貸してくれた本はどれも面白かった。
わかりやすいハッピーエンドの物語は、気を紛らわすのにちょうど良かった。
「《若様》、戻りました」とまたテントの入口でメリッサ嬢の声がした。
テントの中に足を踏み入れた彼女は花を抱いていた。
白い大輪の山百合と赤いジニアを手にした彼女は、自慢げな笑顔で「お土産です」と花を差し出した。
長さの全く違う、対象的な花は難しい取り合わせだ…
生けることを考えない少女のように、目に着いたものを持って帰ったのだろう。彼女らしい…
多分、ジニアの花言葉も知らないのだろう。
《不在の友を思う》、《あなたの不在を悲しむ》の言葉を含んだ花は、俺に向こう岸の日々を思い出させた。
「ありがとう」と花を受け取ると、彼女はアイリーンとそっくりな笑顔で笑った。
✩.*˚
「やったー!当たりー!」
色の付いた籤を引き当てて、イザークがはしゃいでいた。
「それハズレだぞ」と教えてやったが、あいつは《当たり》だと言う。
「おもしれぇ事には一枚噛みたくなるだろ?
ディルク、お前も貧乏くじ引けよ!」とイザークは嫌な事を言った。
お前と一緒に居るだけで貧乏くじだよ…
うんざりした顔でため息を吐いた。
スーが《犬》を集めて、『色付きを引いた奴は今夜俺と散歩だ。ワルターには黙ってろよ』と言って、籤を引かせた。
『黙ってろ』って言ってる時点でどうせろくな事じゃない。
「なぁ、スー。何するつもりだ?」
「色付き引いた奴にしか教えない。
お前もさっさと引けよ、無くなるぞ」
「最後に残ったやつでいいよ」と答えて、他の奴に先を譲った。
近くのちょうど良い岩に腰掛けて、煙草を咥えると、籤が無くなるのを待った。
「ディルク、スーは何するって?」と《ハズレ》を手にしたアルノーが俺に訊ねた。お前もか…
「知らねぇよ」と答えると、彼は「ふーん」と勘ぐるような視線を寄越した。
こいつもイザークと同じく、スーに喧嘩を売った奴だ。俺以外の《犬》は問題児しか居ない…
「あんたなら『知ってんじゃね?』ってイザークが言ってたぜ」
「あいつ…また適当に…」と呟いて頭を掻きむしった。
「あいつと一緒とか、あんた苦労するね」とアルノーが苦笑いしながら、俺の傍に腰を下ろして煙草を咥えた。
「好きで一緒にいねぇよ。あいつが勝手に着いて回ってんだ」
「へぇ…じゃあそういうことにしておいてやるよ」と生意気な口を利いて、アルノーは指先で《ハズレ》を弄んでいた。
「何だ?お前らと一緒かよ?」ともう一人運の悪い奴がやって来た。手にはあの籤が握られている。
「一体何させられるんだ?」とカイも同じことを訊ねた。
「知るかよ。相手はスーだぜ」と素っ気なく返事を返した。俺の知ったことか…
「魔法の実験台とかじゃなければいいけどな…」
「マジか…やべぇな…」とアルノーとカイがヒソヒソ話し合っている。
「あーあー、あん時噛みつかなきゃ良かったよ…」
「全くだ」
「お前らは自分のせいだろう?俺なんてイザークのとばっちりだぞ!」
「そりゃ、ご愁傷さま」と言って彼らは笑っていた。
諸悪の根源が、スーと一緒にこちらに歩いて来るのが見えた。
イザークのニヤけ顔を見て、嫌な予感がした…
「ほら、お望み通り、最後の一本だ」と差し出されたスーの手から、籤を嫌々引いた。
…マジかよ…やっぱりな…
「お前らホントに仲良しだよな」とスーが笑った。
不本意だ。俺は別にイザークと仲がいい訳じゃない。
「お前ら四人は散歩だ。逃げんなよ」と言い残してスーは踵を返して去って行った。
「な?言ったろ?」とイザークが俺の手の中に残った忌々しい《ハズレ》を指して言った。
何となく腹が立ったから殴っておいた。
殴り飛ばされたふざけた男を見て、「馬鹿だな」とアルノーとカイは苦く笑っていた。
✩.*˚
「本当に来てくれるとはね」と彼は私を迎えてくれた。
トレードマークの帽子と派手な戦闘服から、貧相で薄汚れた服に着替えていた。目立たない皮の鎧は彼には少し大きかった。
彼は、その辺で拾った、鎧とちぐはぐな兜で綺麗な顔を隠していた。
オークランドの傭兵から奪ったものだろう。
彼の部下も同じような格好をしていた。
「ネズミだけ貸してくれたら良かったのに…」と彼は私の心配をしてくれた。
「通訳が必要でしょう?君にはネズミの言葉は分からないはずですよ、スー」
「まあ、君がいてくれたら助かるけどさ…
ギルにバレたら、また殺されそうになるだろうな…」とスーがため息を吐いた。
「兄さんのためです」と答えて、来た道を振り返った。
ギルが心配だった…
昼頃に、ギルを訪ねてきたヴェルフェル侯爵は、彼に助力を願い出た。
あくまでお願いとしてだが、ギルはリューデル伯爵を助けた際に、《戦える》と証明してしまった。
今更断るのは難しかった。
ヴェルフェル侯爵が引き下がっても、他の人たちは納得しないだろう。
ギルもそれを理解していた。
私が彼を巻き込んだせいだ…
アニタとエドガーの許に帰すと約束したのに、結果的に、彼を追い詰めて、戦場に繋ぎ止める結果になってしまったのは私のせいだ…
ロンメル夫妻は、ギルに『嫌なら断っていい』と言ったが、彼らの立場が悪くなるのは否めない。
ギルもそれが分かっているから、侯爵への返事を保留にしていた。
この戦争を早く終わらせなければ、彼はまた望まぬ生活に戻らねばならなくなる。
だから私はスーの無謀な計画に乗ったのだ…
「行くか!」と彼は歩き出した。
「ロンメル様には何と言ってきたのですか?」
「え?ワルター?
『ちょっと《犬》と散歩して来る』って言って来た」と子供みたいに答えて、彼はイタズラを企む少年のように笑った。
「そんなのでいいんですか?」
「いいよ。だって今、彼はテレーゼに夢中だからさ。
俺がいたら邪魔だよ」
「君が居ないと皆困るんじゃないですか?」
「大丈夫さ。ゲルトもカミルもいる。
《雷神の拳》の連中だっているんだ。一日くらい居なくたって構いやしないさ」
そう言って、彼は跳ねるような軽い足取りで砂利の多い河原を歩いた。
少し暗い三日月が空を照らしていた。
フィーアの宿営地から充分離れた頃に、スーは足を止めた。
「ここいらでいいかな」と一人で呟いて、スーは左手の手袋を外した。指に並んだ指輪が、月明かりに反射して煌めいた。
「《水乙女の靴》」
スーが魔法を発動させると、足元に少しだけ違和感を覚えた。
「何したんだよ?」と彼の部下がスーに訊ねた。
「水面を渡れるようにしたんだよ。ほら」と答えて、スーは河に向かって足を踏み入れた。
「どうなって…」と驚く大人たちの視線は、水の上を歩く青年に注がれていた。
まるで水溜まり歩くかのように、彼は水の上を歩いていた。
「早くしろよ!効果が切れたら泳いで渡れよ!」
振り返ったスーが仲間を急かした。大人たちは目の前の出来事に戸惑っていた。
「これって、足踏み入れたら、いきなりドボンするとかないよな…?」
「お前らな…俺の事何だと思ってるわけ?」
彼は河から戻って来て、私の手を握った。
「行くよ、レオン」と兜の下から覗いた紫の瞳に魅せられた。手を引かれるまま、河に足を踏み入れた。
ピシャッ、と水を叩くような音と跳ね返すような感覚が足の裏に伝わって、私は水から嫌われた。
「お前らいつまで渋ってんだよ!置いてくぞ!」と部下には手厳しい。
「はいはい、仰せのままに」と年長の傭兵か皮肉っぽく応えて、彼も水の上に足を踏み入れた。彼に続いて水面に足を載せようとした男がスーに訊ねた。
「これって俺だけ沈むとかある?」
「沈めて欲しいのか?」と意地悪く答えるスーに、彼は降参とばかりに諸手を挙げて、足を水面に乗せた。
「うっわ!すっげぇ!マジで浮いてる!」
子供みたいにはしゃいで、水の上で跳ねる男に、スーは「ガキだな」と呆れたように呟いた。
「スー、ありがとう。もう大丈夫だから、手を離してくれていいよ」と繋いだ手から力を抜いた。
それでもスーの手は離れなかった。
「…昔、親友とこうやって河で散歩した」
彼は独り言のような声が耳に届いた。
誰の事だろう?私の知らない人だろうか?
気難しい彼が親友と呼ぶような人を私は知らなかった。
スーはそのまま私の手を引いて歩いた。
水面を叩くような音が重なって夜闇に響いた。
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スーの寂しい言葉を黙って聞いた。
「離れてる時間が長ければ長いほど、会いづらくなる。だから、アーサーは気不味くなる前に連れ返す」
「いいと思いますよ」と答えた私にスーは少し振り返った。暗くて伺いしれない顔は、少し笑っているように見えた。
ギルの事を思っていた。
あの河原で、死体を抱いて泣き腫らした顔を知ってるのは私だけだ…
彼という人間を知って、もうあの顔は見たくなかった…
✩.*˚
「レオンを知らないか?」
深夜にギルがテントを訪ねてきた。
一緒に寝ていたテレーゼを起こさないように、ゆっくり身体を起こして腕を抜いた。
「『スーの所に行く』と言って出て行った」とギルが小声で言葉を付け足した。
「ならスーのテントだろ?」と答えると、ギルは苛立たしげに口を開いた。
「居ないから来たんだ。お前の所じゃないのか?」
「スーは?」嫌な予感がした。あいつまさか…
「居ない。お前のテントで寝泊まりしてたろう?今日はいないのか?」
「…あのバカ…ちょっと待ってろ、探してくる」と答えて上着を羽織った。
「…ワルター様?」テレーゼの声がした。起こしちまったか?
「悪い。少し出てくる」
「何かありましたか?」と言って彼女は身体を起こした。
「なんでもねぇよ、すぐに戻るから寝てな」と言い残して彼女に歩み寄って毛布をかけた。
「ギル、テレーゼと待ってろ」と言ってテントを出た。
ゲルトのテントを訪ねると、カミルが俺に気付いて用向きを訊ねた。
「スー?見てないな…」と彼も眠そうな顔で首を傾げていた。
「何時から見てない?」
「飯食って…《犬》集めて何かしてたな…
《アタリ》だの《ハズレ》だの言ってた気がするが…
何かあったのか?」
「あのバカの姿がねぇんだよ。レオンも居ないってギルが俺に知らせた…他に行きそうな所あるか?」
「フリッツの兄貴やヨナタンは?」
「分からんが、一応声をかけてくる」
「分かったよ。俺は《犬》の連中に確認して来る」と言ってカミルは毛布を脇に寄せて立ち上がった。
「すまんな」
「いいさ」と軽く応えて、カミルは欠伸をしながら立ち去った。
「…何だ?スーがどうしたって?」と不機嫌そうな声が聞こえた。
「何だよ、起きてたのか?」
「爺はな、眠りが浅いんだ…
それより、あの糞ガキ抜けやがったのか?」
「分からん。でも姿がない…何か聞いてるか?」
「いや、初耳だ…
まさか、あん時みたいに河を渡ったりしてないよな?」
「まさか!?」と答えたがあながち無くはない。あいつにはそれが可能だ。
「とりあえずフリッツたちにも確認して来る。爺は寝てろ!」
そう言い残してフリッツの元に向かった。
案の定フリッツもヨナタンも何も知らなかった。
「何事ですか、父上?」と騒ぎを聞きつけたブルーノが現れたので、スーの事を訊ねた。
「手紙の事ですか?」と彼は首を傾げた。
「朝になったら叔父様にお渡しするように頼まれたのです。何でこんなこと頼むのか謎でしたが…」と言いながらブルーノは俺にスーからの手紙を差し出した。
手紙を受け取って封を開けると短い文章に絶句した。
『向こう岸を散歩して来る』
「アホか!!」
ゲルトの勘が当たっていた。あのバカ、カナルを越えて、オークランド側に行ったようだ。
「スーには首輪と鎖がいるな」とヨナタンが煙草の煙と一緒に辛辣な言葉を吐き出した。
「あいつ!またやりやがったのか?!」とフリッツも呆れ顔だ。状況が飲み込めないブルーノだけがオロオロしている。
「これ、何時預かった?」
「確か、寝に行く前だったかと…10時頃です」
「今、3時だぞ…」とヨナタンが自分の時計を取り出して確認した。
「今頃向こう岸だな」と彼は嫌な一言を添えた。
そこにカミルが来て、さらに面倒な事を告げた。
「おい!スーの《犬》も何人かいないぞ!」
「…連れてったのか?」
「連れてった?何か分かったのか?」と訊ねるカミルに手紙を見せた。
「…マジかよ…」と彼も絶句した。
「どうすんだ?」
「どうしようもねぇよ… 」と苦く答えた。
「戻るのを待つしかねぇだろ…あのバカ」
全く!何考えてやがる!
アーサーの事で進捗が無くてイライラしてるのはお前だけじゃないんだぞ!
苛立たしく舌打ちしたが現状は変わらない。
まんまと出し抜かれた、自分の間抜けさに歯噛みした。
あいつら帰ってきたら覚えてろよ!!
✩.*˚
「きゃっ!」
驚いた声を上げて、メリッサ嬢は手に持っていた皿を落とした。大きな音を立てて陶磁器の皿が割れて、破片が飛び散った。
「大丈夫か?」と声をかけると、彼女の足元をネズミが駆け抜けて行った。こいつが原因か…
「も、申し訳ありません!ネズミが…」
「いや、いい。それより怪我はないか?」
割れた皿を拾い集めながら訊ねると、彼女は手伝いを拒んだ。
「おやめ下さい《若様》!もし指でも切ったら…」
「平気だ。誰も私に傷一つ付けられない」と答えて破片を拾った。怪我をするなら彼女の方だろう。
「メリッサ嬢は箒を用意してくれ」と指示して、隙間に入り込んだネズミを睨んだ。
朝にネズミの訪問があるのは珍しかった。
全く、彼女が叱られたらどうするつもりだ?ネズミはお構い無しで隙間で毛繕いを始めた。
「私が割ったことにしてくれ」と言って彼女に割れた食器渡した。
食べ終わったパンの皿でよかった。パン屑を撒いただけで済んだ。絨毯も汚れてない。
俺が不注意で皿を割っただけで済むことだ。
「申し訳ありません」と謝って彼女はテントを後にした。
彼女が出ていった後に、ネズミが隙間から這い出して来て、いつもの紙切れをポンと吐き出した。
紙切れを拾って広げると、手紙の文字はいつもと違っていた。
『今夜迎えに行く』と一方的に告げる文字はロンメルのでは無い。スーの字に似てた。
ネズミは返事が無いと知っているのか、俺が手紙を見たのを確認して走り去った。
急過ぎやしないか?
今まで進捗がなかったのに、何故急に迎えに来る気になったのだ?何か動きがあったのか?
まさか、あいつの独断では無いだろうな?
嫌な予感がしたが、同時に、まさかそこまで馬鹿じゃないだろう?とも思う。
メリッサ嬢が戻る前に手紙を処分した。
迎えが来るとして、どうやって逃げる気だ?
ここは本営だぞ。見張りの目が厳しい。
それに…
「《若様》、戻りました」とテントの外でメリッサ嬢の声がした。
戻ってきた彼女は俺の悩みなど知らずに、テントに戻るといつもの笑顔を見せた。
彼女を置いていくのは気が引けた。俺が逃げれば、父は容赦なく彼女を罰するだろう。
かと言って、連れて行くのも身勝手に思えた。
彼女は恋人でも何でもない。ただ、父から世話をするように命じられてここに来た使用人だ。
あんな事を言っていたが、カナルの向こうに渡る理由など、彼女には無かった。
《一緒に来てくれ》とは言えなかった…
それが彼女のためだと、勝手に思い込んで、自分が傷つかずに済む方法を探していた。
俺という人間は、あの時から大して成長していないのだ…
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