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「暇だろう?」と決めつけて、父は差し入れに本を持ってきた。
「着替えだ」と与えられたのは光沢のある絹製の貴族の装いだ。上から下まで一式揃えた着替えを何着も用意していた。
呆れてため息を吐く俺に、彼はさらに「侍女はいるか?」と訊ねたが、おそらくそれももう既に用意しているのだろう。
「虜囚には必要ありません」と答えると、彼は寂しげに「そうか」と項垂れた。
昔から過度に物を与える人だったが、そこも変わってないらしい。
ブルームバルトで過ごした質素な生活が、俺には合っていた。
残してきた百合はもう咲いただろうか?
薔薇も咲く頃だ。綺麗に咲いたろうか?
新しい庭師はちゃんと雇っただろうか?
あの安らげる場所に帰りたかった…
「何か欲しいものはないか?何でもいい、言ってくれ」と要求を繰り返す父に辟易した。こんな事のために戻ったのではない。これでは意味が無い…
「フェルトン伯爵」
「何だ?」
「自分は捕虜です」と何度目か分からぬ言葉を口にした。
「またそんな事を…私はお前を諦める気は毛頭ない」と彼も意固地になっていた。
勘弁してくれ…
この問答になんの意味がある?
俺の苛立ちを無視し、父は「ダニエルに手紙を出した」と告げた。兜の下で眉を寄せたが父には伝わらなかった。
「すぐにでも来るはずだ」
勝手な事を!と口にした出かかった苦い言葉をどうにか飲み込んだ。
「アーサー、フェルトンに戻れ。
それがお前のためでもあり、弟のためでもある」
馬鹿な事を!そんな事、誰の為にもなりはしない!
暴走する父は誰にも止められない。
それが破滅に向かっていると何故気付かない?!気付いていて無視し続けているのか?
「欲しいものはありません。私に兄弟もおりません。私は《ブルームバルトのアーサー》です」
「お前はそればかりだな…」と呆れながら、頑なに振る舞う俺に、「また来る」と言い残して父はテントを後にした。
もう来るな!とも言えず、腹の中に怒りを溜め込んだまま、兜の下から父の背を見送った。
戻ったのは間違いだったか…?
そんな思いが頭をよぎる。
それでもあのまま逃げるわけにもいかなかった。
このままでは何もかも悪い方に転がって行ってしまう。何とかしてフェルトンから切り捨てて貰わねば…
「失礼致します」とテントの入口で女の声がした。
テントに入ってきたのはエプロンを付けた若い侍女だ。
「《若様》のお世話を仰せつかりました。メリッサと申します」と彼女は挨拶した。美人だ。それがまた気に障る。
やっぱりか、とため息を吐いた。
「…お、お気に召しませんでしたでしょうか?」と彼女は俺のため息に怯えていた。粗相があったとでも思ったのだろうか?
彼女に文句はない。ただ、この扱いに文句がある…
「すまない、しばらく一人にしてくれ」と彼女をテントから追い出そうとした。
「…お独りにさせないようにと…今戻ったら、伯爵様に叱られてします」と彼女は俯きながら哀れな声で呟いた。
彼女も父のわがままの被害者だ…
同情した。
「…分かった、用事は特にない。その辺で静かに時間を潰してくれ」と頼んで重いため息を吐き出した。
彼女はお辞儀をして、邪魔にならないようにテントの隅に置物のように立っていた。
それも可哀想な気がしたが、できるだけ視界に入れないように視線を外した。
父の置いて行った本が目に留まる。
流行りものだろうか?
真新しい背表紙は読まれた形跡も無かった。差し入れるために取り寄せたのか?
手に取って苦笑いする。
適当に見繕わせたのだろう。
それは息子に差しいれるような本じゃなかった。
乙女の読むような恋愛小説を持ってきたとは滑稽で、父の見当違いな行動に少しだけ笑みが零れた。
✩.*˚
伯爵様の命令でほかの若いメイドたちと御屋敷から呼び出された。
伯爵様はメイドたちの中から私を選んで、ある方のお世話をするように命じた。
それが誰なのかは聞かされなかった。
ただ、《若様》と呼ぶように指示され、彼の要求には全て応じるようにと命じられた。詰まるところは、私は《若様》とやらの《お人形》になれということだ…
私に拒否権などあるはずもなかった…
彼を見張るように言い含められ、『口外したら命はない』と脅かされた後、《若様》のテントに通された。
「《若様》のお世話を仰せつかりました。メリッサと申します」と挨拶すると、《若様》は落胆したようなため息を吐いた。
粗相があったのだろうか?それとも彼の好みではなかったのだろうか?
どちらにせよ、彼の機嫌を損ねる訳にはいかなかった。
彼らからすれば、私の代わりなんていくらでもいる。
貴族の機嫌を損ねれば、折檻されるか、もしくは最悪命はない…
「一人にしてくれ」と速攻でテントを追い出されそうになった。
彼は黒鉄の兜を被って顔を隠していた。手足を拘束する長い鎖がテントの中央の柱に固定されていた。
声からしてまだ若い男性のようだ。上質な絹の貴族の装いは板に付いていた。
下がれない旨を伝えると、彼はその場に留まることを渋々承諾してくれた。
「…分かった、用事は特にない。その辺で静かに時間を潰してくれ」とだけ指示すると、《若様》は静かに与えられた本を読んで過ごしていた。
何も手のかからない人だ。
私への要求は《静か》であることだけだ。
食事もお清めもお着替えも私は必要なかった。
床を共にするようにとも言われなかった。少しだけ安堵したが、これは私は必要ないということだ。
「メリッサ嬢も休まれるが良かろう」と告げて私に暇を与えた。
出て行け、ということなのだろうか?
それともここにいていいのだろうか?
御屋敷なら自分に宛てがわれた部屋に戻るが、ここは行く所がない。
ここに来てからずっと立っていたから、足が棒のようだ…
失礼してその場に座り込んだ。
「控えのテントに戻らないのか?」
「ありません」と答えて俯いた。その返事に彼は少し驚いたようだった。
「メリッサ嬢。貴女は乙女だろう?男の寝所で一夜を過ごせば良い縁組を無くしてしまう」と《若様》は私の心配をしてくれた。
思ってもいなかった言葉に驚いていると、彼は「…伯爵は何と?」と訊ねた。
「《若様》のお世話をするようにと…
要求は全てお応えするようにと…伺いました…」
「…すまない」と謝った彼は、兜の頭を抱えて、辛そうにため息を吐きだした。その姿は演技には見えなかった。
「伯爵に、私から話があると伝えてくれ…」
「しかし、もうお時間が…」
「構わない。伯爵なら喜んで訪ねてくるはずだ」と《若様》が言った通り、伝言を伝えると、伯爵はすぐに彼のテントを訪ねた。本当にこの《若様》は何者なのだろう?
あの恐ろしい伯爵様が、《若様》の機嫌を取ろうと必死に話しかける姿は現実とは信じがたかった。
「彼女の処遇があんまりではありませんか?」と《若様》は苦言を呈した。
「そうか、彼女の事は気に入ったようだな。お前のために用意したのだ。好きにして構わん」
伯爵は、子供に人形でも与えるように気軽さで、私を《若様》に勧めた。
「彼女は乙女でしょう?自分と同じテントで夜を過ごすなど、彼女の不名誉となります。どうかお考え直し下さい」
「不名誉だと?」と伯爵の恐ろしい声がテントに響いた。怒気を孕んだ視線が私に向けられた。
「ひっ!」引きつった悲鳴しか出ない。足から力が抜けてその場に崩れ落ちた。
鋭い視線に動けなくなった私を捕まえて、伯爵は平手を振り上げた。叩かれると身構えて身体を固くした。
「使用人の分際で!分をわきまえよ!不名誉などとよく言えたものだ!」
「おやめ下さい!父上!」慌てて静止する声がテントに響いた。伯爵様の手が止まる。掴みかかった手が緩んで私は解放された。
「…あ…」兜の下から苦い声が漏れた。
今…伯爵様を《父上》と呼んだ?
「アーサー…今 《父》と呼んだな?」
伯爵様の声は興奮したように上擦っていた。
「やはり!お前はアーサーだ!私のアーサーだ!」伯爵様の喜ぶ姿に狂気を感じた。何が起きてるのだろう?
「やっと呼んでくれたな!嬉しいぞ!」
狂喜して《若様》を抱き締める伯爵様…
それとも対照的に、黙って項垂れる《若様》の姿を見て理解した。
事情は分からないが、このお二人は親子なのだ…
「先の無礼は許す」と伯爵様は私にあの視線を向けた。秘密を知ってしまった私に、伯爵様は厳しい口調で告げた。
「よいか?今後、我が息子に無礼があれば、死ぬより恐ろしい事が待っていると心せよ…
秘密を外に漏らせば容赦せんぞ、覚えておれ。
その逆に、息子に惜しみなく尽くすとあらば、如何様にでも遇してやろう」
「か、かしこまりました…」震えながら何とかそう答えた。
この貴族らしい性質の伯爵は、満足気に頷いて《若様》に向き直った。
「気に入らなければ新しい娘を用意する」と玩具を取り替えるような気軽さで伯爵は言った。
「…いえ…彼女で十分でございます」
「ふむ。気が変わったら申せ。
彼女の処遇だったな。見苦しくないように多少改善させよう」
「ありがとう存じます…」と《若様》は私の代わりに礼を言った。兜の下の声はどこか悲しげだった…
「もう遅い。休め」
伯爵様は幾分か優しい声でそう言って、《若様》の背を叩いてテントを後にした。
「…すまない」と《若様》は謝罪を口にした。
父親とは全く違う謙虚な人柄に違和感を覚える。
「私の伝え方が悪かった…
メリッサ嬢に怖い思いをさせてすまなかった」
「…あの…」
「何だ?」
「《若様》は…フェルトン伯爵家の《若様》なのですか?」と訊ねた。
私がお屋敷に入るずっと昔に、フェルトンのお屋敷を出たご子息の話は知っていた。
眉目秀麗で才色兼備、お優しく、非の打ち所のない貴公子と噂されていた。出ていった事で、話が美化されて尾ひれが付いたのだろうと思っていた。
「それを聞いてどうするのだ?」と《若様》は寂しげに兜の下で呟いた。
「これ以上、秘密を知っても良い事はないぞ」と彼は私の好奇心を牽制した。それでもその口調は父親のものとは違い、穏やかで気遣うような響きがあった。
「フェルトン伯爵はあのご気性だ。大変かと思うが、堪えてくれ」と言って彼は自分の寝床に私を呼んだ。
「疲れてるだろう?使いなさい」
寝床を譲ってくれるらしい。彼は寝床を離れて椅子に腰掛けた。
「そんな…これは《若様》のための…」
「ささやかな詫びだ。こんなことくらいでしかメリッサ嬢を報いることが出来ずに不甲斐ない。許してくれ」
彼はそう言って寝床を譲ってくれたが、それでも「はい、そうですか」と受け入れる事は出来なかった。
もしそんな事がバレたら伯爵様が何と仰るか分からない。怖かった…
そんな私の気持ちを察してか、彼はさらに私が寝床を使うように勧めた。
「私は《白い手の女神》の信奉者なのだ。
もし、私がメリッサ嬢を差し置いて、寝床で寝たら、ブルームバルトで待つ女神に合わす顔がない」
女神とは恋人か奥様の比喩なのだろうか?
「ずっと立たせていて悪かった。明日は楽なように座っているといい」
兜の下から優しい声が紡がれる。
これ以上固辞するのも申し訳なかったので、礼を述べて寝床を借りた。
心も身体もクタクタだった…
恥ずかしいが、着の身着のままで、男の人の寝床で気を失うように眠ってしまった。
✩.*˚
悪いことに巻き込んでしまった…
簡易的なベッドの中で寝息を立てている、若い女性を見て罪悪感が募った。
彼女がよく寝ているのを確認して兜を取った。
兜の重みで肩が凝っていた。動かすと、身体が錆びたように軋む音を立てた。
ため息を吐いて顎に手を当てると、伸びた髭が指先に引っかかる。髪も兜を被ったままで過ごしていたから、ベタついていてどうにも気持ち悪い。
一人で戦争でもしていたような姿をしていた。
いつの間にかテントを打ち付ける雨の音は弱くなっていた。
数日続いた雨のせいで、戦争は一時中断されていたが、河の水かさが減ったらすぐにでも戦を再開するだろう。
『父上』と呼んでしまった…
後悔したがもう遅い。出た言葉はもう戻らない。
父は喜んで機嫌を直したが、彼女を守った代償はあまりに大きかった。
それでもあのままでは彼女が折檻されていただろう…
もう少し上手くやることができたはずなのに、情に流されて、つい言葉が出てしまったのだ。
俺も存外不器用だな…
自嘲して兜をまた手に取った。
顔は見せない方がいい…彼女の抱える秘密が増えるだけだ…
テントの入口が少し揺れた。
風かと思ったが、少し揺れた入口の隙間から、小さなボールのような何かが転がるように中に入って来た。
「…何だ、ネズミか…」と呟いて追い出そうと椅子を立った。
ネズミは髭をひくつかせながら俺を見上げて、口から何かを吐き出した。
頬袋に入っていたのだろうか?
拾って見ると、ネズミが左右の頬袋から一つずつ押し出した何かは、小さく丸められた紙切れだった。
ネズミは逃げずに「読め」とでも言うように俺を見上げている。
紙切れを広げると、雑にちぎった紙の両端には《YES》《NO》と書いてあった。
真ん中には見覚えのある文字で『無事か?』とあった。
よく分からんが、このネズミはロンメルの使いらしい。スーの仕業か?それとも他の誰かか?
《YES》をちぎってネズミに返した。
もう一つも広げてみた。
『帰ってくるか?』と俺の意志を確認するものだった。
当たり前だ…
ネズミに《YES》を返した。
ネズミは、さらに小さくなった紙切れを拾って、頬袋に詰め込んだ。よく躾られている。ネズミにこんな事ができたとは驚きだ。
用向きが済むと、小さな珍客は早々に退散した。
控えめな寝息と、弱く当たる雨音だけがテントの中でやけに鮮明になった。兜を手に、寝息の元に少しだけ近寄った。
父が選んだだけあって、彼女は少しだけ過去に愛した女に似ていた…
苦く甘酸っぱい思い出に耐えかねて、現実から目をそらすように再び兜を被った。
✩.*˚
緩み始めた雨足を睨んで、ぬかるんだ土を踏んだ。
「もう止みそうだな…」とディルクが呟いた。
「止んだらまたおっぱじめるんだろ?」と傘を差したイザークが俺に訊ねた。差し出された傘は俺しか守ってくれなかった。
「俺らは行けと言われたら行くまでだ」と答えて、酒保の姐さんの店に顔を出して煙草や酒を求めた。
俺が言い出したとはいえ、彼らは俺の《番犬》としての役割をしっかり果たしていた。エッダの連中は意外と面倒見がいいらしい。
彼らは、俺の事を知らずに声を掛けてくる面倒な奴らの露払いをしてくれた。
俺もそんな彼らが気に入っていた。
彼らを連れて歩いてると、オーラフやエルマーがいた、賑やかだった頃を思い出す。
商人の輜重隊の連中とも顔見知りになっていた。
「《燕の兄さん》、いつものだけかい?可愛い子も用意してやろうか?」と女将さんは女遊びを勧めたが、そんな気分じゃない。
「あいにく美人は間に合っててね」と答えて、紙袋に詰めた荷物と釣りを受け取った。ミアと離れてそんなに経ってない。彼女を裏切る気は無かった。
「残念。女の子たちはあんたが遊びに来るのを楽しみにしてるんだよ」と酒保は商売熱心に女の子たちを勧めた。
「おいおい、姐さん。ウチの副団長が相手じゃ、金を払うのはそっちだぜ」とイザークが口を挟んだ。
「確かに」とディルクが笑いながら、並んでた煙草を手に取って買い求めた。彼も俺と同じ安い煙草を吸っていた。
「奢ってやるよ」とさっきの釣りから出してやった。
「あ、ズリい!」とイザークが子供みたいな声を上げた。苦笑いして彼にも煙草を一箱馳走した。
「珍しい、スーが優しいよ」とおどけて見せる彼に、ディルクが笑いながら「明日は雪が降るかもな」と言っていた。
「夏の雪なんて珍しいもんか」と笑った。
ワルターのせいでそんなの珍しくもない。
彼は夏に学校の子供らと雪玉を作って遊んでた。巻き込まれて酷い目にあったのは一度や二度じゃない…
さすがにテレーゼが参戦しようとした時は慌てて止めていた。彼女は意外とお転婆だ。
屋敷に残してきた皆は元気だろうか?
ハンスがいるから大丈夫だろうけど、早く帰ってルドとミアを抱きたい。『ただいま』って言いたい…
首から提げた貝殻に触れた。
必ず帰ると彼女らに約束した。約束は守るためにあるんだ…
荷物を持って、自分に宛てがわれたテントに戻ると、二人とも何処かに行ってしまった。
ワルターの所にでも行こうかと思っていると、誰かがテントを訪ねて来た。
「少しお時間とれますか?」と訊ねた男は、赤い目を細めて柔らかく笑った。
「何?」と訊ねると、レオンは「ネズミが帰ってきたのでご報告に…」と答えた。
アーサーに手紙を届けたネズミのことか?
「すぐ行くから待って」と答えて上着を手に取った。
緩んだとはいえ、雨はまだ降り続いている。帽子を被るのは諦めてテントを出た。
「今日は被らないんですね」と彼は俺の頭を指さした。
「ワルターの所に行くだけだろ?」と答えると、彼は「そうですが」と頷いた。
「君も苦労するでしょう?」
「何が?」
「見た目ですよ。私はこの通りなので…」とレオンは少しだけ外套のフードをずらした。
色の乏しいその顔の中で、色素の薄い赤い瞳だけが色彩を放っていた。
「私のような珍しい容姿の人間は狙われますから…」と彼は悲しそうに微笑んだ。
「だから、ギルは過保護なのか?」
「まあ、そんなところです。
以前、私が死体でも高値で取引されると聞いて、不安になったのでしょうね…
兄さんもロンメル様も超過保護ですよ」
「言えてる」と二人でこっそり笑った。
話しながら歩いていると、機嫌の悪そうな男が現れて、腕組みしながら俺たちを睨んだ。
「何で誰も連れてない?」
その言葉に二人で視線を合わせて苦笑いした。
怖い顔をしているが、これでもギルは心配しているのだ。
「おっ!来たな!」とテントで待っていたワルターが迎えてくれた。
テントの中には既にゲルトやカミルたちの姿があった。
「どこに行ってた?」とカミルが俺に訊ねた。
「煙草が切れたから酒保の所に行ってた」
「そうか、立ち寄ったが居なかったから心配した」とカミルは俺の背を叩いた。どうやら彼とは入れ違いになったようだ。
「前科持ちだからな」とワルターが茶化した。
「さすがにもうしないって…」
「いーやー!お前は何するか分からないからな!アーサーに見張らせておかないと心配だ」とワルターはわざと大袈裟に言った。
「まぁ、揃ったみたいだから始めるぞ」と仕切り直すと、ワルターは地図を用意させた。
「まずは、援軍の話だ」とワルターがトゥルンバルトに話を促した。
「侯爵閣下からカナル防衛に、騎兵5000、歩兵18000の援軍をさし向ける旨が通達されました。
中央からの援軍も調整中です」
「大所帯になるな」とカミルが呟くとゲルトが苦い顔をした。
「お上品な中央の連中なんか使えるのか?」
「オークランドの聖騎士団の存在を重く見た、宰相のワーグナー公爵の判断のようです」
「まぁ、そっちは間違っても俺たちの方には来ないだろ?
俺たちはもっと似合の連中が合流だ」とワルターはご機嫌でトゥルンバルトに話を促した。
「ヴェルフェル侯爵閣下の計らいで、《雷神の拳》団が前線に加わります」
「フリッツたちが!」
「おう!ヘンリックたちも合流だ!」とワルターも嬉しそうだ。
「手柄はくれてやるなよ」とゲルトが意地悪を言う。その言葉にカミルも笑っていた。彼も譲る気はサラサラないらしい。
「競走だな」
「まぁ、到着まではしばらくかかるがな。詳細は追って報告する。
あと、もう一件。レオン報告してくれ」
「はい」と頷いてレオンがネズミを取り出して、地図を広げた机の上に放った。
「出して」と彼が促すと、ネズミは頬を擦って紙切れを二つ吐き出した。
「《YES》だ」とワルターが嬉しそうに紙切れを拾った。
「この子の話だと、アーサー殿は元気そうだったみたいですよ」とレオンはネズミの通訳をした。
「鎖に繋がれていたようですが、良い服を着て、《番》まで用意されてたとか…」
「…は?」
「ネズミは嘘は言いません」とレオンは涼しい顔をしてたが、皆引いていた…
「彼、何者なんですか?」とレオンがワルターに確認した。ワルターは苦い顔をした。
「ただの元聖騎士ならすぐに処刑されてもおかしくないはずです。冷遇されるならともかく、ここまで手厚く扱われる程の人物なんですか?」
「オークランドの東部辺境伯フェルトン家の嫡男…だった男だ」
「嫡男?ご冗談を…」
「待て!まさか本家の嫡男では無いよな?!」と今まで黙ってたギルが声を上げた。
「…そのまさかだよ」とワルターがバツ悪そうに答えた。それを知ってるのはおそらくロンメル夫妻とハンス、俺くらいのものだ。
「でもあいつはそう呼ばれるのを嫌ってたし、もう実家とは縁を切ってた。言う必要は無いと思ってた…」とワルターが釈明した。
「アーサーはもう《ブルームバルトのアーサー》だ。あいつはそれしか望んでない」そう言ってワルターは紙切れを握りしめた。
「あいつの事を信じてやってくれ。
アーサーはまだ俺の所に《帰って来る》気でいる。
俺はあいつを仲間だと思ってる」と彼は力強く言った。
「アーサーは仲間だ」と俺もワルターに応えた。
「俺もアーサーを諦める気は無い。あんな使い勝手のいい奴手放す気は無いよ」
「当たり前だ。元より傭兵なんて訳アリの奴ばっかりだ」とカミルがそう言って笑うと、ゲルトも、「あいつはもう俺の《息子》みたいなもんだ」と腕を組んで譲らない意志を示した。
「我々とて異存はございません」とトゥルンバルトが口を開くと、若いケッテラーも頷いた。
「アーサー殿は、騎士としても学ぶ事の多い方です」と彼らは騎士としてアーサーに敬意を表した。
ロンメル家の面々はアーサーを必要としていた。
「余計な詮索をしました」とレオンはワルターに頭を下げた。
「彼が無事に戻るよう、私も最善を尽くします」と彼は約束してくれた。
「しかしなぁ…女まで持ち出すなんて、思いもしなかったぜ…」
「逆にある種の拷問だな…」とワルターの言葉にカミルが相槌を打った。
「ちなみにそれって美人か?」
「ネズミに人間の美醜は分かりませんよ。
彼と同じテントに女性がいたとしかこの子も言ってませんしね」とレオンは肩を竦めて答えた。
「まぁ、なんにせよ、無事と分かったから一歩前進だ。あいつが女にマジになる前に首根っこ引っ掴んで連れ戻さなきゃならねぇな」とワルターがふざけた感じで言った。
「どれ、こっちでも用意しておいてやるか?」とゲルトが意地悪を言うと笑いが起こった。
彼はもう《ブルームバルトのアーサー》だ。
それにケチをつけるような奴は、この場には居なかった。
「で?どうやって取り戻すんだ?
アーサーは対岸だろう?ネズミみたいに身軽に行けねぇぞ」とゲルトが訊ねると、ワルターは自信満々に「ノープランだ」と答えた。
「…お前な…」
「だからレオンに探って貰ってんだろ?」
「私に丸投げされても困りますよ。私はただの情報屋なんですから」
「何が《ただ》のだよ。お前より《優秀な》情報屋がいるもんか」とワルターはレオンを褒めた。
彼も満更でないようで嬉しそうな笑顔を見せた。
「貴方は人たらしだ」と呟いた彼は、何処かに懐かしそうな顔でワルターを見ていた。
「ウィンザーの民の為なのに、貴方の為に働きそうになってしまいますよ…」
「俺の専属の情報屋になってもいいんだぜ」
「ふふ、考えておきますよ。兄さんが怖い顔してるので保留ですね」
「レオン!お前…」
「兄さんだってなんだかんだでロンメル様にたらしこまれた一人でしょう?」
「なんだよ、お前もこっち側来るか?」とワルターがふざけた感じでギルを誘った。
「いらん!俺は鍛冶屋だ!レオンの用が済んだら工房に戻る!」
「素直じゃねぇの…」
「可愛いでしょう?兄さんはいい人なんですよ」とレオンが兄を自慢した。彼らの姿に、少しだけエルマーと過ごした時間を思い出した。
服の上から首飾りに触れた。
俺たちは、皆でブルームバルトに帰るのだ…
もう失うのは御免だ…
エルマー…君がいたら、絶対にアーサーを助けるだろう?そうだろう?
だから、俺もそうするよ…
俺たちに、仲間を《捨てる》なんて選択は無いんだ。
「着替えだ」と与えられたのは光沢のある絹製の貴族の装いだ。上から下まで一式揃えた着替えを何着も用意していた。
呆れてため息を吐く俺に、彼はさらに「侍女はいるか?」と訊ねたが、おそらくそれももう既に用意しているのだろう。
「虜囚には必要ありません」と答えると、彼は寂しげに「そうか」と項垂れた。
昔から過度に物を与える人だったが、そこも変わってないらしい。
ブルームバルトで過ごした質素な生活が、俺には合っていた。
残してきた百合はもう咲いただろうか?
薔薇も咲く頃だ。綺麗に咲いたろうか?
新しい庭師はちゃんと雇っただろうか?
あの安らげる場所に帰りたかった…
「何か欲しいものはないか?何でもいい、言ってくれ」と要求を繰り返す父に辟易した。こんな事のために戻ったのではない。これでは意味が無い…
「フェルトン伯爵」
「何だ?」
「自分は捕虜です」と何度目か分からぬ言葉を口にした。
「またそんな事を…私はお前を諦める気は毛頭ない」と彼も意固地になっていた。
勘弁してくれ…
この問答になんの意味がある?
俺の苛立ちを無視し、父は「ダニエルに手紙を出した」と告げた。兜の下で眉を寄せたが父には伝わらなかった。
「すぐにでも来るはずだ」
勝手な事を!と口にした出かかった苦い言葉をどうにか飲み込んだ。
「アーサー、フェルトンに戻れ。
それがお前のためでもあり、弟のためでもある」
馬鹿な事を!そんな事、誰の為にもなりはしない!
暴走する父は誰にも止められない。
それが破滅に向かっていると何故気付かない?!気付いていて無視し続けているのか?
「欲しいものはありません。私に兄弟もおりません。私は《ブルームバルトのアーサー》です」
「お前はそればかりだな…」と呆れながら、頑なに振る舞う俺に、「また来る」と言い残して父はテントを後にした。
もう来るな!とも言えず、腹の中に怒りを溜め込んだまま、兜の下から父の背を見送った。
戻ったのは間違いだったか…?
そんな思いが頭をよぎる。
それでもあのまま逃げるわけにもいかなかった。
このままでは何もかも悪い方に転がって行ってしまう。何とかしてフェルトンから切り捨てて貰わねば…
「失礼致します」とテントの入口で女の声がした。
テントに入ってきたのはエプロンを付けた若い侍女だ。
「《若様》のお世話を仰せつかりました。メリッサと申します」と彼女は挨拶した。美人だ。それがまた気に障る。
やっぱりか、とため息を吐いた。
「…お、お気に召しませんでしたでしょうか?」と彼女は俺のため息に怯えていた。粗相があったとでも思ったのだろうか?
彼女に文句はない。ただ、この扱いに文句がある…
「すまない、しばらく一人にしてくれ」と彼女をテントから追い出そうとした。
「…お独りにさせないようにと…今戻ったら、伯爵様に叱られてします」と彼女は俯きながら哀れな声で呟いた。
彼女も父のわがままの被害者だ…
同情した。
「…分かった、用事は特にない。その辺で静かに時間を潰してくれ」と頼んで重いため息を吐き出した。
彼女はお辞儀をして、邪魔にならないようにテントの隅に置物のように立っていた。
それも可哀想な気がしたが、できるだけ視界に入れないように視線を外した。
父の置いて行った本が目に留まる。
流行りものだろうか?
真新しい背表紙は読まれた形跡も無かった。差し入れるために取り寄せたのか?
手に取って苦笑いする。
適当に見繕わせたのだろう。
それは息子に差しいれるような本じゃなかった。
乙女の読むような恋愛小説を持ってきたとは滑稽で、父の見当違いな行動に少しだけ笑みが零れた。
✩.*˚
伯爵様の命令でほかの若いメイドたちと御屋敷から呼び出された。
伯爵様はメイドたちの中から私を選んで、ある方のお世話をするように命じた。
それが誰なのかは聞かされなかった。
ただ、《若様》と呼ぶように指示され、彼の要求には全て応じるようにと命じられた。詰まるところは、私は《若様》とやらの《お人形》になれということだ…
私に拒否権などあるはずもなかった…
彼を見張るように言い含められ、『口外したら命はない』と脅かされた後、《若様》のテントに通された。
「《若様》のお世話を仰せつかりました。メリッサと申します」と挨拶すると、《若様》は落胆したようなため息を吐いた。
粗相があったのだろうか?それとも彼の好みではなかったのだろうか?
どちらにせよ、彼の機嫌を損ねる訳にはいかなかった。
彼らからすれば、私の代わりなんていくらでもいる。
貴族の機嫌を損ねれば、折檻されるか、もしくは最悪命はない…
「一人にしてくれ」と速攻でテントを追い出されそうになった。
彼は黒鉄の兜を被って顔を隠していた。手足を拘束する長い鎖がテントの中央の柱に固定されていた。
声からしてまだ若い男性のようだ。上質な絹の貴族の装いは板に付いていた。
下がれない旨を伝えると、彼はその場に留まることを渋々承諾してくれた。
「…分かった、用事は特にない。その辺で静かに時間を潰してくれ」とだけ指示すると、《若様》は静かに与えられた本を読んで過ごしていた。
何も手のかからない人だ。
私への要求は《静か》であることだけだ。
食事もお清めもお着替えも私は必要なかった。
床を共にするようにとも言われなかった。少しだけ安堵したが、これは私は必要ないということだ。
「メリッサ嬢も休まれるが良かろう」と告げて私に暇を与えた。
出て行け、ということなのだろうか?
それともここにいていいのだろうか?
御屋敷なら自分に宛てがわれた部屋に戻るが、ここは行く所がない。
ここに来てからずっと立っていたから、足が棒のようだ…
失礼してその場に座り込んだ。
「控えのテントに戻らないのか?」
「ありません」と答えて俯いた。その返事に彼は少し驚いたようだった。
「メリッサ嬢。貴女は乙女だろう?男の寝所で一夜を過ごせば良い縁組を無くしてしまう」と《若様》は私の心配をしてくれた。
思ってもいなかった言葉に驚いていると、彼は「…伯爵は何と?」と訊ねた。
「《若様》のお世話をするようにと…
要求は全てお応えするようにと…伺いました…」
「…すまない」と謝った彼は、兜の頭を抱えて、辛そうにため息を吐きだした。その姿は演技には見えなかった。
「伯爵に、私から話があると伝えてくれ…」
「しかし、もうお時間が…」
「構わない。伯爵なら喜んで訪ねてくるはずだ」と《若様》が言った通り、伝言を伝えると、伯爵はすぐに彼のテントを訪ねた。本当にこの《若様》は何者なのだろう?
あの恐ろしい伯爵様が、《若様》の機嫌を取ろうと必死に話しかける姿は現実とは信じがたかった。
「彼女の処遇があんまりではありませんか?」と《若様》は苦言を呈した。
「そうか、彼女の事は気に入ったようだな。お前のために用意したのだ。好きにして構わん」
伯爵は、子供に人形でも与えるように気軽さで、私を《若様》に勧めた。
「彼女は乙女でしょう?自分と同じテントで夜を過ごすなど、彼女の不名誉となります。どうかお考え直し下さい」
「不名誉だと?」と伯爵の恐ろしい声がテントに響いた。怒気を孕んだ視線が私に向けられた。
「ひっ!」引きつった悲鳴しか出ない。足から力が抜けてその場に崩れ落ちた。
鋭い視線に動けなくなった私を捕まえて、伯爵は平手を振り上げた。叩かれると身構えて身体を固くした。
「使用人の分際で!分をわきまえよ!不名誉などとよく言えたものだ!」
「おやめ下さい!父上!」慌てて静止する声がテントに響いた。伯爵様の手が止まる。掴みかかった手が緩んで私は解放された。
「…あ…」兜の下から苦い声が漏れた。
今…伯爵様を《父上》と呼んだ?
「アーサー…今 《父》と呼んだな?」
伯爵様の声は興奮したように上擦っていた。
「やはり!お前はアーサーだ!私のアーサーだ!」伯爵様の喜ぶ姿に狂気を感じた。何が起きてるのだろう?
「やっと呼んでくれたな!嬉しいぞ!」
狂喜して《若様》を抱き締める伯爵様…
それとも対照的に、黙って項垂れる《若様》の姿を見て理解した。
事情は分からないが、このお二人は親子なのだ…
「先の無礼は許す」と伯爵様は私にあの視線を向けた。秘密を知ってしまった私に、伯爵様は厳しい口調で告げた。
「よいか?今後、我が息子に無礼があれば、死ぬより恐ろしい事が待っていると心せよ…
秘密を外に漏らせば容赦せんぞ、覚えておれ。
その逆に、息子に惜しみなく尽くすとあらば、如何様にでも遇してやろう」
「か、かしこまりました…」震えながら何とかそう答えた。
この貴族らしい性質の伯爵は、満足気に頷いて《若様》に向き直った。
「気に入らなければ新しい娘を用意する」と玩具を取り替えるような気軽さで伯爵は言った。
「…いえ…彼女で十分でございます」
「ふむ。気が変わったら申せ。
彼女の処遇だったな。見苦しくないように多少改善させよう」
「ありがとう存じます…」と《若様》は私の代わりに礼を言った。兜の下の声はどこか悲しげだった…
「もう遅い。休め」
伯爵様は幾分か優しい声でそう言って、《若様》の背を叩いてテントを後にした。
「…すまない」と《若様》は謝罪を口にした。
父親とは全く違う謙虚な人柄に違和感を覚える。
「私の伝え方が悪かった…
メリッサ嬢に怖い思いをさせてすまなかった」
「…あの…」
「何だ?」
「《若様》は…フェルトン伯爵家の《若様》なのですか?」と訊ねた。
私がお屋敷に入るずっと昔に、フェルトンのお屋敷を出たご子息の話は知っていた。
眉目秀麗で才色兼備、お優しく、非の打ち所のない貴公子と噂されていた。出ていった事で、話が美化されて尾ひれが付いたのだろうと思っていた。
「それを聞いてどうするのだ?」と《若様》は寂しげに兜の下で呟いた。
「これ以上、秘密を知っても良い事はないぞ」と彼は私の好奇心を牽制した。それでもその口調は父親のものとは違い、穏やかで気遣うような響きがあった。
「フェルトン伯爵はあのご気性だ。大変かと思うが、堪えてくれ」と言って彼は自分の寝床に私を呼んだ。
「疲れてるだろう?使いなさい」
寝床を譲ってくれるらしい。彼は寝床を離れて椅子に腰掛けた。
「そんな…これは《若様》のための…」
「ささやかな詫びだ。こんなことくらいでしかメリッサ嬢を報いることが出来ずに不甲斐ない。許してくれ」
彼はそう言って寝床を譲ってくれたが、それでも「はい、そうですか」と受け入れる事は出来なかった。
もしそんな事がバレたら伯爵様が何と仰るか分からない。怖かった…
そんな私の気持ちを察してか、彼はさらに私が寝床を使うように勧めた。
「私は《白い手の女神》の信奉者なのだ。
もし、私がメリッサ嬢を差し置いて、寝床で寝たら、ブルームバルトで待つ女神に合わす顔がない」
女神とは恋人か奥様の比喩なのだろうか?
「ずっと立たせていて悪かった。明日は楽なように座っているといい」
兜の下から優しい声が紡がれる。
これ以上固辞するのも申し訳なかったので、礼を述べて寝床を借りた。
心も身体もクタクタだった…
恥ずかしいが、着の身着のままで、男の人の寝床で気を失うように眠ってしまった。
✩.*˚
悪いことに巻き込んでしまった…
簡易的なベッドの中で寝息を立てている、若い女性を見て罪悪感が募った。
彼女がよく寝ているのを確認して兜を取った。
兜の重みで肩が凝っていた。動かすと、身体が錆びたように軋む音を立てた。
ため息を吐いて顎に手を当てると、伸びた髭が指先に引っかかる。髪も兜を被ったままで過ごしていたから、ベタついていてどうにも気持ち悪い。
一人で戦争でもしていたような姿をしていた。
いつの間にかテントを打ち付ける雨の音は弱くなっていた。
数日続いた雨のせいで、戦争は一時中断されていたが、河の水かさが減ったらすぐにでも戦を再開するだろう。
『父上』と呼んでしまった…
後悔したがもう遅い。出た言葉はもう戻らない。
父は喜んで機嫌を直したが、彼女を守った代償はあまりに大きかった。
それでもあのままでは彼女が折檻されていただろう…
もう少し上手くやることができたはずなのに、情に流されて、つい言葉が出てしまったのだ。
俺も存外不器用だな…
自嘲して兜をまた手に取った。
顔は見せない方がいい…彼女の抱える秘密が増えるだけだ…
テントの入口が少し揺れた。
風かと思ったが、少し揺れた入口の隙間から、小さなボールのような何かが転がるように中に入って来た。
「…何だ、ネズミか…」と呟いて追い出そうと椅子を立った。
ネズミは髭をひくつかせながら俺を見上げて、口から何かを吐き出した。
頬袋に入っていたのだろうか?
拾って見ると、ネズミが左右の頬袋から一つずつ押し出した何かは、小さく丸められた紙切れだった。
ネズミは逃げずに「読め」とでも言うように俺を見上げている。
紙切れを広げると、雑にちぎった紙の両端には《YES》《NO》と書いてあった。
真ん中には見覚えのある文字で『無事か?』とあった。
よく分からんが、このネズミはロンメルの使いらしい。スーの仕業か?それとも他の誰かか?
《YES》をちぎってネズミに返した。
もう一つも広げてみた。
『帰ってくるか?』と俺の意志を確認するものだった。
当たり前だ…
ネズミに《YES》を返した。
ネズミは、さらに小さくなった紙切れを拾って、頬袋に詰め込んだ。よく躾られている。ネズミにこんな事ができたとは驚きだ。
用向きが済むと、小さな珍客は早々に退散した。
控えめな寝息と、弱く当たる雨音だけがテントの中でやけに鮮明になった。兜を手に、寝息の元に少しだけ近寄った。
父が選んだだけあって、彼女は少しだけ過去に愛した女に似ていた…
苦く甘酸っぱい思い出に耐えかねて、現実から目をそらすように再び兜を被った。
✩.*˚
緩み始めた雨足を睨んで、ぬかるんだ土を踏んだ。
「もう止みそうだな…」とディルクが呟いた。
「止んだらまたおっぱじめるんだろ?」と傘を差したイザークが俺に訊ねた。差し出された傘は俺しか守ってくれなかった。
「俺らは行けと言われたら行くまでだ」と答えて、酒保の姐さんの店に顔を出して煙草や酒を求めた。
俺が言い出したとはいえ、彼らは俺の《番犬》としての役割をしっかり果たしていた。エッダの連中は意外と面倒見がいいらしい。
彼らは、俺の事を知らずに声を掛けてくる面倒な奴らの露払いをしてくれた。
俺もそんな彼らが気に入っていた。
彼らを連れて歩いてると、オーラフやエルマーがいた、賑やかだった頃を思い出す。
商人の輜重隊の連中とも顔見知りになっていた。
「《燕の兄さん》、いつものだけかい?可愛い子も用意してやろうか?」と女将さんは女遊びを勧めたが、そんな気分じゃない。
「あいにく美人は間に合っててね」と答えて、紙袋に詰めた荷物と釣りを受け取った。ミアと離れてそんなに経ってない。彼女を裏切る気は無かった。
「残念。女の子たちはあんたが遊びに来るのを楽しみにしてるんだよ」と酒保は商売熱心に女の子たちを勧めた。
「おいおい、姐さん。ウチの副団長が相手じゃ、金を払うのはそっちだぜ」とイザークが口を挟んだ。
「確かに」とディルクが笑いながら、並んでた煙草を手に取って買い求めた。彼も俺と同じ安い煙草を吸っていた。
「奢ってやるよ」とさっきの釣りから出してやった。
「あ、ズリい!」とイザークが子供みたいな声を上げた。苦笑いして彼にも煙草を一箱馳走した。
「珍しい、スーが優しいよ」とおどけて見せる彼に、ディルクが笑いながら「明日は雪が降るかもな」と言っていた。
「夏の雪なんて珍しいもんか」と笑った。
ワルターのせいでそんなの珍しくもない。
彼は夏に学校の子供らと雪玉を作って遊んでた。巻き込まれて酷い目にあったのは一度や二度じゃない…
さすがにテレーゼが参戦しようとした時は慌てて止めていた。彼女は意外とお転婆だ。
屋敷に残してきた皆は元気だろうか?
ハンスがいるから大丈夫だろうけど、早く帰ってルドとミアを抱きたい。『ただいま』って言いたい…
首から提げた貝殻に触れた。
必ず帰ると彼女らに約束した。約束は守るためにあるんだ…
荷物を持って、自分に宛てがわれたテントに戻ると、二人とも何処かに行ってしまった。
ワルターの所にでも行こうかと思っていると、誰かがテントを訪ねて来た。
「少しお時間とれますか?」と訊ねた男は、赤い目を細めて柔らかく笑った。
「何?」と訊ねると、レオンは「ネズミが帰ってきたのでご報告に…」と答えた。
アーサーに手紙を届けたネズミのことか?
「すぐ行くから待って」と答えて上着を手に取った。
緩んだとはいえ、雨はまだ降り続いている。帽子を被るのは諦めてテントを出た。
「今日は被らないんですね」と彼は俺の頭を指さした。
「ワルターの所に行くだけだろ?」と答えると、彼は「そうですが」と頷いた。
「君も苦労するでしょう?」
「何が?」
「見た目ですよ。私はこの通りなので…」とレオンは少しだけ外套のフードをずらした。
色の乏しいその顔の中で、色素の薄い赤い瞳だけが色彩を放っていた。
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「だから、ギルは過保護なのか?」
「まあ、そんなところです。
以前、私が死体でも高値で取引されると聞いて、不安になったのでしょうね…
兄さんもロンメル様も超過保護ですよ」
「言えてる」と二人でこっそり笑った。
話しながら歩いていると、機嫌の悪そうな男が現れて、腕組みしながら俺たちを睨んだ。
「何で誰も連れてない?」
その言葉に二人で視線を合わせて苦笑いした。
怖い顔をしているが、これでもギルは心配しているのだ。
「おっ!来たな!」とテントで待っていたワルターが迎えてくれた。
テントの中には既にゲルトやカミルたちの姿があった。
「どこに行ってた?」とカミルが俺に訊ねた。
「煙草が切れたから酒保の所に行ってた」
「そうか、立ち寄ったが居なかったから心配した」とカミルは俺の背を叩いた。どうやら彼とは入れ違いになったようだ。
「前科持ちだからな」とワルターが茶化した。
「さすがにもうしないって…」
「いーやー!お前は何するか分からないからな!アーサーに見張らせておかないと心配だ」とワルターはわざと大袈裟に言った。
「まぁ、揃ったみたいだから始めるぞ」と仕切り直すと、ワルターは地図を用意させた。
「まずは、援軍の話だ」とワルターがトゥルンバルトに話を促した。
「侯爵閣下からカナル防衛に、騎兵5000、歩兵18000の援軍をさし向ける旨が通達されました。
中央からの援軍も調整中です」
「大所帯になるな」とカミルが呟くとゲルトが苦い顔をした。
「お上品な中央の連中なんか使えるのか?」
「オークランドの聖騎士団の存在を重く見た、宰相のワーグナー公爵の判断のようです」
「まぁ、そっちは間違っても俺たちの方には来ないだろ?
俺たちはもっと似合の連中が合流だ」とワルターはご機嫌でトゥルンバルトに話を促した。
「ヴェルフェル侯爵閣下の計らいで、《雷神の拳》団が前線に加わります」
「フリッツたちが!」
「おう!ヘンリックたちも合流だ!」とワルターも嬉しそうだ。
「手柄はくれてやるなよ」とゲルトが意地悪を言う。その言葉にカミルも笑っていた。彼も譲る気はサラサラないらしい。
「競走だな」
「まぁ、到着まではしばらくかかるがな。詳細は追って報告する。
あと、もう一件。レオン報告してくれ」
「はい」と頷いてレオンがネズミを取り出して、地図を広げた机の上に放った。
「出して」と彼が促すと、ネズミは頬を擦って紙切れを二つ吐き出した。
「《YES》だ」とワルターが嬉しそうに紙切れを拾った。
「この子の話だと、アーサー殿は元気そうだったみたいですよ」とレオンはネズミの通訳をした。
「鎖に繋がれていたようですが、良い服を着て、《番》まで用意されてたとか…」
「…は?」
「ネズミは嘘は言いません」とレオンは涼しい顔をしてたが、皆引いていた…
「彼、何者なんですか?」とレオンがワルターに確認した。ワルターは苦い顔をした。
「ただの元聖騎士ならすぐに処刑されてもおかしくないはずです。冷遇されるならともかく、ここまで手厚く扱われる程の人物なんですか?」
「オークランドの東部辺境伯フェルトン家の嫡男…だった男だ」
「嫡男?ご冗談を…」
「待て!まさか本家の嫡男では無いよな?!」と今まで黙ってたギルが声を上げた。
「…そのまさかだよ」とワルターがバツ悪そうに答えた。それを知ってるのはおそらくロンメル夫妻とハンス、俺くらいのものだ。
「でもあいつはそう呼ばれるのを嫌ってたし、もう実家とは縁を切ってた。言う必要は無いと思ってた…」とワルターが釈明した。
「アーサーはもう《ブルームバルトのアーサー》だ。あいつはそれしか望んでない」そう言ってワルターは紙切れを握りしめた。
「あいつの事を信じてやってくれ。
アーサーはまだ俺の所に《帰って来る》気でいる。
俺はあいつを仲間だと思ってる」と彼は力強く言った。
「アーサーは仲間だ」と俺もワルターに応えた。
「俺もアーサーを諦める気は無い。あんな使い勝手のいい奴手放す気は無いよ」
「当たり前だ。元より傭兵なんて訳アリの奴ばっかりだ」とカミルがそう言って笑うと、ゲルトも、「あいつはもう俺の《息子》みたいなもんだ」と腕を組んで譲らない意志を示した。
「我々とて異存はございません」とトゥルンバルトが口を開くと、若いケッテラーも頷いた。
「アーサー殿は、騎士としても学ぶ事の多い方です」と彼らは騎士としてアーサーに敬意を表した。
ロンメル家の面々はアーサーを必要としていた。
「余計な詮索をしました」とレオンはワルターに頭を下げた。
「彼が無事に戻るよう、私も最善を尽くします」と彼は約束してくれた。
「しかしなぁ…女まで持ち出すなんて、思いもしなかったぜ…」
「逆にある種の拷問だな…」とワルターの言葉にカミルが相槌を打った。
「ちなみにそれって美人か?」
「ネズミに人間の美醜は分かりませんよ。
彼と同じテントに女性がいたとしかこの子も言ってませんしね」とレオンは肩を竦めて答えた。
「まぁ、なんにせよ、無事と分かったから一歩前進だ。あいつが女にマジになる前に首根っこ引っ掴んで連れ戻さなきゃならねぇな」とワルターがふざけた感じで言った。
「どれ、こっちでも用意しておいてやるか?」とゲルトが意地悪を言うと笑いが起こった。
彼はもう《ブルームバルトのアーサー》だ。
それにケチをつけるような奴は、この場には居なかった。
「で?どうやって取り戻すんだ?
アーサーは対岸だろう?ネズミみたいに身軽に行けねぇぞ」とゲルトが訊ねると、ワルターは自信満々に「ノープランだ」と答えた。
「…お前な…」
「だからレオンに探って貰ってんだろ?」
「私に丸投げされても困りますよ。私はただの情報屋なんですから」
「何が《ただ》のだよ。お前より《優秀な》情報屋がいるもんか」とワルターはレオンを褒めた。
彼も満更でないようで嬉しそうな笑顔を見せた。
「貴方は人たらしだ」と呟いた彼は、何処かに懐かしそうな顔でワルターを見ていた。
「ウィンザーの民の為なのに、貴方の為に働きそうになってしまいますよ…」
「俺の専属の情報屋になってもいいんだぜ」
「ふふ、考えておきますよ。兄さんが怖い顔してるので保留ですね」
「レオン!お前…」
「兄さんだってなんだかんだでロンメル様にたらしこまれた一人でしょう?」
「なんだよ、お前もこっち側来るか?」とワルターがふざけた感じでギルを誘った。
「いらん!俺は鍛冶屋だ!レオンの用が済んだら工房に戻る!」
「素直じゃねぇの…」
「可愛いでしょう?兄さんはいい人なんですよ」とレオンが兄を自慢した。彼らの姿に、少しだけエルマーと過ごした時間を思い出した。
服の上から首飾りに触れた。
俺たちは、皆でブルームバルトに帰るのだ…
もう失うのは御免だ…
エルマー…君がいたら、絶対にアーサーを助けるだろう?そうだろう?
だから、俺もそうするよ…
俺たちに、仲間を《捨てる》なんて選択は無いんだ。
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