燕の軌跡

猫絵師

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西に日が傾いた頃、両陣営共に軍を引いた。

「惜しかったですな…」と悔しげにコーエン卿が呟いた。

対岸の制圧は叶わず押し返されたが、それでも対岸に渡る術を確保し、フィーア側にも相当な出血を強いることに成功した。

相手は猛将と知られるリューデル伯爵だが、兵の数で勝っているオークランド側が圧倒的に有利だ。このままジワジワと出血を強いれば、勝算は十分にある。

後は我々の生命線となるあの橋を守りきる事だ。

敵に渡せば厄介だ。そうなるようなら落とすより他ない。

「橋の警備は多めに付けておけ」

「心得ております。

既に歩兵1500、騎兵500を送って配置しております」とコーエン卿が答える。さすが仕事が早い。

「《黄金樹の騎士団》も対岸にて待機させております」

「彼らはよく働いてくれた。

労うとしよう。団長を呼んでくれ」とマクレイ卿を呼び寄せるように近侍に命じた。

素早く一礼した甲冑を着た騎士は、戦況の流れを変えた《英雄》を連れにテントを後にした。

その後も各方面の被害報告を受け、事後処理をして明日に備えた。

対岸の異教徒らが降伏するまでこの戦争は続くのだ。

明日もその先も…

この河の流れのように、止まることなく血が流れ続けるのだろう…

「失礼致します!マクレイ卿をお連れ致しました!」と二時間ほど前に出て行った近侍が戻ってきて報告した。

「遅かったでは無いか?」とコーエン卿が眉をひそめた。身支度に手間取ったのだろうか?それとも何か問題でも起きたのだろうか?

問われた近侍は「はっ!」と応え、待たせた申し開きをした。

「申し訳ございません。

マクレイ卿率いる《黄金樹の騎士団》が撤退の殿を務めていたところ、《冬将軍》と交戦にになりこれを退けたとの事。その際 《冬将軍》の従者を捕虜として捉えたとの事です。

マクレイ卿は捕虜を本陣に引き渡したいとの仰せで、護送に時間を要しました」

「待て!たかが従者であろう?何故その場で切り捨てなかった?

それを捕虜にして本陣に連れてくる必要など無かろう?」とコーエン卿が声を上げた。

「しかし…マクレイ卿はフェルトン閣下ご本人に是非ご確認頂きたいとの事で…」

「あの男は一体何を考えておるのだ?

閣下、如何なさいます?」

「よい。彼は本日一番の功労者だ。捕虜も通せ」と許可し、マクレイ卿と彼の部下が連れた捕虜をテントに招いた。

すぐに元気な声で「失礼致します!」と若者がテントの入口をくぐって現れた。一日中駆けずり回っていたとは思えないほど元気だ。若さとは良いものだと心底思う。

「マクレイ卿、今日はよく働いてくれた」と彼を労った。

「勿体ないお言葉!全ては大神ルフトゥの思し召しでしょう!

惜しむらくは、敵将リューデル伯爵を討ち漏らし、《冬将軍》なる悪魔の首級を上げられなかったことです…」と彼は残念そうに頭を振った。

「閣下。捕虜を捕えたのですが、面をご確認頂けますでしょうか?」と彼は意外なことを言った。

大袈裟な鎖で幾重いくえにも縛り上げられた捕虜が、鎖を握った団員に押されて私の前に引き出された。

薄汚れた貧相な身なりの男はまだ若そうだった。頭に兜を被せられた捕虜は私の前で無言のまま大人しく膝を折った。

「何者かね?」と訊ねると、マクレイ卿は男の傍らに立って兜に手をかけ答えた。

「それをご確認頂きたいのです。

彼はブルームバルトのアーサーと名乗っておりますが、閣下の知る、他のアーサーやもしれませぬ…」

「…アーサー…」なぜその名が出てくるのかと訝った。もう随分前に、息子はカナルの向こうで死んだと聞かされていた。

まさか、と思いつつ、複雑な感情が胸を過った。私はどんな顔をしていたのだろうか…?

マクレイ卿は私を一瞥して、捕虜から兜を取った。

「この男は、閣下のご子息でお間違いございませんか?」

糾弾するような響きを孕んだ言葉は、同時に朗報でもあった。

投げ捨てられた黒鉄の兜が、硬質な音を立てて床に転がった。

兜の下から現れた顔は、長い間望んでいた存在だった…

十数年の歳月が、頼りなかった青年を大人に変えていた。

日に焼けた浅黒い肌は彼の印象を変えていたが、母親から継いだ青い瞳と、私譲りの硬質な黒髪は失った青年の面影を残していた…

間違えるものか…自分の血を分けた息子だ…

肯定か否定か…

マクレイ卿は私の答えを注視していた。

「アーサーか?」と声を絞り出して目の前の男に訊ねた。

彼はひざまづいたまま、肯定も否定もせず沈黙していた。

「答えよ!」と痺れを切らしたように声を荒らげたのは、鎖を握っていた騎士だった。怒声と耳障りな鎖の音が不愉快にテントに響いた。

息子を乱暴に扱われ、怒りを覚えた。

「手を…」と声を上げようとした時、コーエン卿が騎士の前に進み出て、相手の手に持っていた鎖を奪い取った。

「不愉快だ!閣下の前で無礼であろう!控えよ!」

「何をなさいますか!?」

「この悪趣味な見世物を、ここでする必要はあるまい!この捕虜はこちらで預かる!」

「お待ちください!彼を裁く権利は我々聖騎士団にあります!」

「彼は一言も《アーサー・フェルトン卿》とも、《元聖騎士団副団長》とも述べてはいないはずだ!

ならばブルームバルトのアーサーと信じる他あるまい!

此度の戦働いくさばたらき、誠に見事であった。大儀である!

此度の働きと捕虜を捕えた恩賞は追って与える。卿らの所属する大聖堂にも寄進を贈らせていただく所存だ。

この場での無礼も無かったこととするゆえ、今日は下がられよ」

「承服致しかねます!教会の自治権に関わる問題です!」と抗議した部下をマクレイ卿が片手で制した。

「止せオルセン、無礼であろう?」

「しかし!これでは教会の威信が…」

「フェルトン伯爵閣下ともあろうお方が、ルフトゥ正教会を敵に回すようなことはすまいよ。

そのアーサーなる男は閣下にお預けせよ。

戦況が落ち着いてから、話し合いの場を頂戴したく存じます」

マクレイ卿の炎のように燃える視線が私を射抜いた。

「閣下。我々は自らの行いを神の御前にて申し開きできるようにせねばなりません。

その選択が、閣下にとっても《最善》であり、我らの父なる神ルフトゥにも《是認》される事であることを願っております」と耳に痛い言葉を残して、マクレイ卿は部下を連れテントを後にした。

マクレイ卿らを見送って、コーエン卿は大きなため息を吐いて緊張を解いた。

「すまん、コーエン卿…」

「いえ…」と歯切れ悪く答え、私を守った男は足元に落ちていた兜を拾った。

「本当に…ご子息なのですか?」と彼は声を潜めて訊ねた。

彼も確信がないのだろう。父親の私ですら信じられない。

「アーサー」と声をかけると息子は少しだけ顔を上げた。彼の表情には、家を出て行った時と同じ、苦い感情が張り付いていた。

息子は私を許してはいないのだろう。

「…息災か?」と何とも場違いな言葉が出た。

「ご覧の通りです」と彼は短く答えた。拗ねた子供のような返事をして、鎖で縛り上げられた肩を少し竦めた息子はまた沈黙した。

「席を外しましょうか?」とコーエン卿は気を利かせた。

さすがにこの状態で、私に手を出すことは無いはずと踏んだのだろう。

「あまり近付きすぎませんように…」と念を押して、コーエン卿は鎖の端を柱に繋いで、テントを後にした。

外から、親衛隊らに、少しテントから離れるように指示するコーエン卿の声が聞こえた。

息子と2人でその場に残された。

気まずい沈黙の時間が訪れる。

息子から口を開くことは無いだろう。意を決して私から口を開いた。

「手紙は…読んでくれなかったのか?」

「手紙など知りません」と私を拒絶する答えが返ってきた。

そうだろうな…

私の手紙にも、彼女の手紙にも返事はなかった。

弟の誕生にも、彼女の訃報にも返事はなかった…

還俗けんぞくし、家督を継いで欲しいと願う手紙も彼は封を切ることすらなかったのだろう…

彼の所属していた教会も訪ねたが、会うことは叶わなかった。

私がそれだけの過ちを犯したのだ…

息子は未だに私を拒絶し続けている。

「アーサー…私が間違っていた…

すまなかった…」

十数年の時間を無駄にして、やっと息子に謝罪することが叶った。見開かれた青い瞳が私を映しながら揺れた。

「フェルトン伯爵…」

「アーサー…もう私を父とは呼んでくれないのか?」他人を貫こうとする息子に、図々しい願いを口にした。

「私とお前だけだ…」

年老いて気弱になったせいだろう。

愚かな行動だとは分かっていた。それでもこの息子を二度と手放したく無かった。

鎖に繋いででも、檻に入れてでも、手元に置いておきたかった…

アーサーは口を開こうとしては言葉を飲み込んだ。

やっと絞り出した言葉は、やはり私を受け入れてはくれなかった。

「…閣下の息子、アーサー・フェルトン卿はお亡くなりになられました…」

またも拒絶された。

溝が埋まらない。どんなに私が求めても、彼は私の望む言葉を口にしてはくれなかった。

子供の頃のお前は、私を失望させることはなかった…

聡く、思いやりがあり、私の望む答えをいつも返した息子は別人になっていた。私がそうしたのだ…

「ならお前は!お前は一体誰だ?!」焦りと苛立ちが語気を荒くした。

「私の子は!あの子はこんな問答をする息子ではなかった!私の子は…」

アーサーは私の自慢だった。

彼は、彼の代わりに手に入れた息子などと、比べ物にならないほど優秀で、品があり、器用に何事もそつなくこなした。

お前はもう私の子では無いのか?

見失った宝物が、見つかったそばから指先をすり抜けてまた消えようとしている。

唇を噛み締める私に、アーサーは小さく呟いた。

「貴方の息子は他にいるはずだ…」

その言葉は慰めなのか皮肉なのか判別出来なかった。

ただ、その言葉に胸が痛んだのは事実だ。

「お前も、私の息子だ…」と呟いてアーサーに歩み寄った。コーエン卿はああ言ったが、彼を目の前にしてそれは出来なかった。

彼の目の前で、同じように膝を折った。

覗き込んだ顔は若い頃の自分に幾らか似ていた。視線を外そうとする息子に手を伸ばした。

暖かな頬に触れることが出来た…

「アーサー、私を見てくれ…

こんな老いた父を、お前は見捨てる気なのか?」

「…伯爵」

「何だ?」呼び掛けに応じると、彼は僅かに逡巡しゅんじゅんして小声で私に訊ねた。

「夫人は…息災でしょうか?」

「随分昔に亡くなった…すまない…」産後の肥立ちが悪く、息子の誕生日を迎える前に彼女は亡くなった。

私の返答を聞いた彼の目に悲しみが滲んだ。

「お前の弟のダニエルは、生まれつき足が不自由でな…杖がないと歩くこともできない身体だ…

彼にフェルトンを継がせることはできない。

私が犯した罪の報いだ…

妻を失い、子も満足でない…私は神罰を与えられたのだ…」

「…そんな…」と息子はショックを受けて、また言葉を失った。私を拒否し続けた息子は、過去に取り残されていたようだ…

彼は私が幸せに暮らしていたとでも思っていたのだろうか?自分を忘れるほど、幸福な家庭を築いていたとでも思っていたのだろうか?

それとも、そうであって欲しいと願っていたのだろうか?

「すまない…全ては私が招いた事だ…アーサー…許してくれ…」

息子に心から詫びた。アーサーはただ黙って顔を伏せた。

「どうかお願いだ、戻って来てくれ…この愚かな父を憐れに思って欲しい…」

「…できませぬ」と彼は苦しそうに言葉を絞り出した。その目元は涙が滲んでいた。

「お前の怒りは尤もだ…

だが、このままではお前は裏切り者として断罪されるだろう。死刑は免れぬ…

必ず私が何とかする。お前の身を教会から守ってやる。だから私を父と…」

「私は…フェルトンの息子でないと証明するために来たのです」とアーサーは頑なに私を拒絶した。

ただ、その声は苦悩の色を滲ませていた。

「フェルトン伯爵、《白蘭の黒騎士》は力及ばす、フィーアのカナルの岸で散りました。

せめて生き恥を晒さぬようにと、自害なさいました。

息子の名誉ある死をお認め下さいませ」

「いいや、お前は生きていてこそ価値がある」と食い下がった。

「私が望めば、どうとでもできることだ!

お前と引き換えなら教会への寄進も惜しまぬ!私はフェルトン辺境伯だ!」

「…貴方は何も変わってない」

残念そうに呟いた息子は、目の前の老人を憐れむように深いため息をこぼした。

「私がフェルトンであれば、その罪は親類に及びます。このままでは最悪、教会から破門され、家は取り潰されるでしょう…

幸いなことに、私はブルームバルトのアーサーです。それをお認めになれば、息子の名誉は守られ、フェルトン伯爵家はオークランドの重臣でいられます」

「…お前は…その為だけにここに来たのか?」

私の問いかけに、彼は頭を垂れて沈黙した。

憎い私と、フェルトンを守るために?その為だけにか?

それではあんまりではないか…

最初から、私がお前を切り捨てることを前提で、お前は私を救いに来たのか?

「認めぬ…」と声を絞り出した。

「私はお前の父だ!」

「フェルトン伯爵、お声が…」

「アーサー!私を父と認めろ!私を父と呼べ!」

「お止め下さい!それでは…」

「お前の方こそ!いつまでも意地を張るのを止めよ!」語気が荒くなる。

さすがに十数年も意地を張り続けた男だ。彼は頑として私を父と呼ぶのを拒んだ。

だからといって私も引く気は無かった。

「しばらく頭を冷やしておれ!」と言い残し、忌々しく入口の布をはね上げてテントを後にした。

「コーエン卿!」と腹心の部下を呼び寄せた。

「テントを一つ用意させよ」と命じた。

「着替えと食事もだ。捕虜のものではなく、私と同じものを用意せよ。ただ、逃げ出したりせぬよう、手枷と足枷も用意して繋いでおけ」

「お宜しいのですか?」

「あれは私の息子だ」と答えてため息を吐いた。

彼が認めずともよい。大切なのは、息子をどうやって守るかだ。

「信頼出来る部下を見張りとしてつけておけ。

私以外は通してはならん。世話係も決められた者のみとせよ」

「かしこまりました。そのように取り急ぎ手配致します」

「よろしく頼む」

息子の事を彼に預け、今出てきたテントに視線を向けた。

『父上』とあの頃のように呼んで欲しかった。

優しい子だった。武人には向かないと思っていたが、彼は常に私の望む結果出した。

勉学や武術を収め、オークランド式の礼儀作法を幼くして身に着けていた。

足繁く教会に足を運び、信仰を示し、子供ながらに聖典の暗唱までできるようになっていた。

教養もあり、音楽、芸術、文芸に関しても人並み以上の才能があった。

誰もが彼が次のフェルトン伯爵になると信じて疑わなかった…

私の非道な行いが、彼の心を遠ざけたのに、息子は私のために命を危険に晒してまで戻って来た。

聡く優しい息子は変わってなどいなかった。

フィーアでの生活がどのようなものかは知らないが、健康的で、やつれた様子などはなかった。

おそらく上手く立ち回っていたのだろう。

《冬将軍》は、アーサーの身の上を知った上で従者としていたのだろうか?

息子はなぜ彼の従僕としてこの戦場に出ていたのだろうか?

洗脳や魔法で操られている様子は感じられなかった。

自分の意思でロンメル男爵に臣従を誓ったのか?そんな馬鹿な…

考えれば考えるほど深みに嵌っていく。

息子の行動が理解できなかった。

しばらくして鎖に繋がれ、兜で顔を隠したアーサーが私のテントから別のテントに移された。

誰も居なくなったテントに戻り、椅子に腰掛けた。

歳のせいか、酷く疲れていた。

✩.*˚

アイリスに乗って《燕の団》に戻ったワルターの傍らに、アーサーの姿が無かった。

「ワルター!怪我してるじゃないか!」馬から降りてよろけた彼を支えた。

致命傷では無さそうだが、血が止まらない。特に脇腹の出血が酷かった。

「んなもん、どうでもいい…」と言いながらどこかに行こうとする。

「いいわけないだろ!すぐ治療するから動くな!」

「リューデル閣下は戻られたか?」

「彼は無事だよ。今は本営に戻って指揮を執っている」と答えながらワルターをその場に座らせて、邪魔な防具を外した。痛みのせいか、彼の額には汗が滲んでいた。

シャツを裂いて傷を確認した。

骨や内蔵に損傷は無さそうだが、腹部の傷はかなり大きかった。

「《治癒ベハンドルング》」

レプシウス師から習った治癒魔法をかけたが、傷の治りが悪い。

「魔法の傷?」

「聖騎士団の《祝福》を使う奴に付けられた…

他に地精を操る奴と、俺の氷を拳で砕く奴かいた…」

「《祝福》が絡むと厄介だな…」多少油断もあったかもしれないが、ワルターの氷は並ではない。

彼の氷に対抗できるのは《烈火》の炎くらいだと思っていた。それを砕いて見せたのだから、相手は相当の使い手だ。

「アーサーは…俺に戻れと言って残った…」とワルターは悔しそうに呟いた。

アーサーはワルターを逃がすために残ったのだろう。

アーサーの《祝福》は守るための能力だ。

アーサーの《祝福》は決して弱くなどないが、戦うには向いていない。敵を倒すには、決め手にかける能力だ。

嫌な想像が頭を過ぎった…

「あいつらアーサーを知っていた。

向こう岸にアーサーの親父さんが従軍しているらしい…」とワルターは俺にだけ聞こえる声で耳打ちした。

「…それって」

「あいつは逃げる気がない…逃げたらフェルトンは破滅だ」

「なんでアーサーが残るんだよ!あいつは!帰る場所なんてないって言ってたじゃないか!

あんな酷い父親のために戻るなんて馬鹿か?!」

ワルターを逃がすためなら分かる。嫌でも彼の決定を飲み込める。

でも、彼を苦しめた家族を守るために死にに行くと言うなら、許すことはできない!

「ワルター」

それまで黙っていたゲルトが口を開いた。

「アーサーは…『戻る』と言ったのか?」

「それは約束した」とワルターは強い口調で答えた。

「あいつは『ブルームバルトに帰りたい』って言ったんだ。絶対に俺の所に戻ってくる…戻ってこなけりゃこっちから行ってやる」

ワルターの藍色の瞳は怒りを宿していた。

「俺はアーサーを諦めたりしない。

あいつは仲間だ。逃げることも出来たのに、わざわざリューデル閣下たちを逃がしてから、足止めしてた俺の所に戻って来た。

相手は聖騎士団で、身元がバレる可能性があったのに…あいつは俺を守るために戻って来た…

あいつは俺に必要な人間だ」

「《燕の団》にもな」とカミルが言った。

「あいつは調整役として頼りになる。アーサーがいないと俺の負担が増える」と彼は嘆いてみせた。

「アーサーの兄さんがいないと誰が副団長をなだめるんだよ?」とイザークが冗談を言った。同調した奴らを睨むと、彼らは視線を合わせないようにそっぽを向いた。

《燕の団》の団員は皆アーサーを仲間だと思っている。彼の人となりを知って、裏切るような人間じゃないと信じている。

「アーサーの穴はみんなで埋めるぞ。

あいつが戻ってきて、「俺がいないとダメだな」なんて調子に乗らせるなよ!」と呼び掛けると、元気な「応!」という返事が返ってくる。

「明日も戦争だ!やることは分かってるな?!」

「応!」

「カナルを越えたヤツらはぶっ殺せ!」とゲルトが荒っぽい檄を飛ばした。

「《燕》と聞いたら逃げ出すくらい、あいつらに恐怖を叩き込んでやれ!」

「仲間を取り返すぞ!」

「アーサーは《燕の団》だ!」と仲間たちから声が上がる。

「いい仲間だろ?」とワルターに笑いかけた。

「あぁ」と応えた彼の顔色は、戻った時より幾分か良くなっていた。その目は絶望などとは無縁だった。

✩.*˚

河を挟んでの矢の応酬が止まった。

久しぶりの雨に、戦争は一時中断された。

カナルの上流でもかなりの雨が降っていて、河の水かさが一気に増したせいだ。

河の流れは勢いを増し、船が渡れるような状態ではなかった。

「クソッ!」と悪態吐いたが雨は止む気配すらない。

ワルターの傷口は一応塞がったものの、思いのほか出血が多く、リューデル伯爵から直々に、2、3日の安静を言い渡された。大事をとってとの事だ。

彼の失くした剣の代わりも必要だった。

彼の《祝福》に耐えられるように特別にこしらえたもので、カーティスのお墨付きの特級品だ。

「2、3日も寝てられっか!」とテントに押し込まれて、ワルターは悪態吐いていた。雨さえなかったら本当に飛び出して行ってしまいそうだ。

「スー、煙草くれ」と彼は病床から不健康な物を求めた。

「止めたんだろ?」と応えると彼は舌打ちした。

「ムシャクシャしてんだよ!いいから!」

「あーあー…テレーゼが聞いたらガッカリするよ…」

「お前が黙ってりゃ済む話だろ?いいから、よこせよ」とワルターは苛立たしげに手を差し出して、煙草を催促した。

煙草入れから一本取り出して、彼の手のひらに乗せた。

煙草を手にした彼は身体を起こして、久々の煙草を口に咥えた。

「火ィ」と当たり前のように催促する彼に、マッチを摩って近付けると、マッチの火は彼の煙草に移って先っぽを焦がした。

口に含んだ紫煙が屋根に向かって立ち昇る。

苦い香りがテントに充満した。

「何だよ?」

「別に…俺も吸う」と断って自分の分も煙草を取り出した。火をつけて煙を口に含んで吐き出した。

嫌な感情を少しだけ追い出した気分だ。

「具合どうなのさ?」と訪ねると、ワルターは苦い顔で煙草を咥えて答えた。

「お前ら皆で寄って集って俺を重傷人みたいに言うがな、こんなの普通だ。もっとやばい時だってあった」

「男爵になる前だろ?」

「俺自身は何も変わっちゃいねぇよ」と彼は不貞腐れた。この扱いに納得してない様子だ。

「《祝福》使って心臓止まったのだって一度や二度じゃねぇよ。それに比べたら多少血を失ったのくらい屁でもねえよ」

「下品な男爵だな…

アーサーやハンスが聞いたら小言言われるぞ」

「お前だから言ってんだよ。

あいつら俺が傭兵だったって事忘れてんだ」

「頑張ってらしくさせようとしてるんだろ?」

「大きなお世話だ!俺はこのままでいいんだよ!」

「アーサーの方が貴族っぽいよ…」と苦笑いした。

「あいつは純粋なお坊ちゃまだぞ?敵うわけないだろ?」とワルターは鼻で笑った。

アーサーからは育ちの良さが滲んでいた。

彼は俺たちの前ではわざと粗野な言葉を使っていたが、テレーゼと話す時には上流階級の優雅なライン語を使っていた。

食事の時は音を立てないし、歩き方も佇まいも上品だった。薄汚れたシャツを着てても、アレクのような貴公子の佇まいをしていた。

彼の真似してみたが、すぐに無理だと音を上げた。彼と俺たちじゃ根本的なものが違うのだ。まだ、ソーリューの修行の方が楽だった…

「君たちはあべこべだ」と言って笑った。

ワルターとアーサーは全く違うのに、よく似ていた。

そんな彼に、俺も気持ちを許していた。

「ちょっといいか?」とテントの外で声がして、ディルクが顔を覗かせた。

「あんたらに客だ」と言った彼の表情は硬かった。

「誰だ?」

「お化けみたいな気持ち悪い男だよ…

イザークの野郎さっさと逃げやがった」と彼は後ろをチラチラと確認しながら答えた。

ワルターと二人で顔を見合わせて「あ!」と声を上げた。どうやら彼も同じ人物を思い出したようだ。

「…あいつか?」と嫌な顔をする。

「俺も《お化けみたいな》知り合いは一人しかいないな…」

「おい!さっさと引き取ってくれよ!俺は取り憑かれるのは御免だぞ!」

「うふふ…ふふっ…」

テントの外で不気味な笑い声が聞こえた。ディルクが悲鳴を上げてテントに転がり込んだ。

「感心しませんねぇ…悪口…ふふっ」と不気味な笑い声と共に黒い影がずるりとテントに滑り込んできた。

ずぶ濡れのローブから黒猫が飛び出して、窮屈を振り払うように大きく伸びをした。

「あたしですよォ、お久しぶりですねぇロンメル男爵。

悪い《報せ》があったのでねぇ、心配で来てみたらこの有様…ふふっ」

「《報せ》?」

「あたしの鑑定した剣を失くしたでしょォ?」とカーティスが呟いて黒い外套の下から、鞘の無い剣を一振取り出して見せた。

「ダメですよォ、こんな《美人》を原っぱに放り出して泣かせちゃァ」

「お前…どこでそれを…」とワルターが驚いた顔でカーティスの手元を注視していた。

「あたしは意外と世話焼きなんですよォ?

この子を打った《ギルバート》はとぉってもいい腕ですよォ、失くすなんて勿体ない…」と彼は刀身を撫でながらうっとりと笑っていた。

《エインズワース工房》から納品された剣は、木の年輪のような模様が浮かんでいる珍しい姿をしていた。

たまたま出た模様で、同じ波紋のものは二度と作れない。ギルの炎で焼き上げた剣はワルターの《祝福》にも耐えうるものだった。

剣は無事にワルターの元に戻った。

「ありがとうよ」と彼はカーティスから剣を受け取って礼を言った。

「うふふ…次は貴方ですよ、スー」

不気味な笑顔が今度は俺の方に向いた。

幽霊みたいな足取りでずぶ濡れの男が寄ってくる。思わず後退りそうになる。

「うふふふふ…」

「その笑い方止めろよ!気持ち悪いだろ?!」

「おやおや…せっかく《失せ物》を届けてあげようと思ったのにつれないですねぇ…」

カーティスが残念そうに首を振って、小さな黒い正方形の箱を取り出した。

「あたしは世話焼きなんですよォ」と呟いて彼は箱の蓋をとって中身を見せた。

中には青い宝石の嵌った指輪が収まっていた。

「貴方のでしょう?」と訊ねるカーティスの手から箱をひったくるように手にした。

水を表す《ラーグ》の紋が刻まれている。父さんの腕輪の魔石がまた一つ戻った。

「あたしが鑑定の依頼で預かった品ですよォ。

侯爵閣下が依頼主から買い取ってくださったんですよォ。貴方に届けて欲しいと預かりました。

確かにお渡し致しましたよォ」

「あ、ありがとう…」

「うふふ。良かったじゃぁないですか?

雨まで降らせて来た甲斐があったと言うものですよォ」とカーティスはサラリととんでもないことを言った。

「…雨?」

「晴れてたら太陽が辛いじゃぁないですか?

それに雨が降ったら戦争はお休みでしょう?」

「待てよ!これってお前がやったって事か?」

「まあ、そんなところですねぇ…

お出かけする時は天気を《呪って》出るので…」

「げっ!」とテントの隅に逃げていたディルクが悲鳴を上げた。彼も結構濡れていた。

「あぁ、雨自体はただの雨ですよォ」

「あんたホントに何者なんだよ…」

「貴方が次の《カーティス》になってくれるなら教えてあげますよォ」

不気味な男はそう言って、あの気持ち悪い含むような笑い声を漏らした。

彼はテントの中で寛いでいた黒猫を拾い上げると、「あたしはこれで」と挨拶して帰ろうとした。

「待てよ、ちょっと頼まれてくれないか?」とワルターがカーティスを呼び止めた。

「帰りにブルームバルトに寄って、《エインズワース工房》のレオンって奴に、来てくれって伝えてくれないか?」

「お使いですか?まぁ、あたしは構いませんが…」とカーティスは応じてくれた。

「レオンに何させるんだよ?」とワルターに確認した。

動物を操る《祝福》を持った彼は、元ウィンザー公国の斥候として働いていた経歴がある。

「あいつは使える。あいつのネズミにアーサーの無事を確認してもらう」

「対岸だぞ。ネズミにできるのか?」

「分からんが、あいつなら何とかするだろう?」

雑だな…

「あの時みたいにお前が勝手をするといけないからな」とワルターは俺を見て意地悪く笑った。

「さすがにもうしないよ」と言ったが保証はしかねる…

水の精霊を操る魔法石が戻ったので、《水乙女の靴》が使えるようになったし、水精を味方にすることができる。

「レオンを使うとギルが怒るぞ」

「別にあいつに対岸に行けっていうんじゃないから大丈夫だろ?」とワルターはしれっと答えた。

「アーサーはオークランドから取り返す。

カナルのこっち側も守りきるし、あいつらにはお帰り頂く」

「欲張りだな」

「悪いかよ?」とワルターが笑った。

「いいや」と答えて笑って見せた。ワルターとなら何だってできる気がした。

「なあ、カーティス。この雨ってどのくらいで止むんだ?」とワルターがカーティスに訊ねた。

「あたしが望む限りといったところですかねぇ…」

「なら、もうしばらく続けてくれ」

「うふふふふ、いいですよォ」と彼は安く請け負ってくれた。

「じゃぁ、あたしはこれで」と呟いて、彼は猫を抱いてテントを後にした。

「な、何だよ、あの男は?」とディルクが訊ねた。

「一応人間だよ。《鑑定師》で《元ウィンザー公国の神官》らしい」

「うぇぇ…マジか…」と彼はあからさまに嫌な顔で呟いた。

「さっきからチラチラと《カーティス》の名前が出るからまさかとは思ってたけどよ…

あの有名な《鑑定師》の《カーティス》があんな幽霊みたいな男だったとは…」

「有名なのか?」

「あんたら、なんで知らねぇんだよ…

《カーティス》のサインがある鑑定品は相場の倍の値が付くんだぜ…

俺たちじゃ手も出せねぇよ」

「へぇ…」と感心して黒い箱から指輪を取り出して、小指に嵌めた。

作りからして女物のようだが、それは後で直せばいいだけの話だ。何にせよ魔石が戻って来てくれて助かった。

ちょうど濡れてる奴が居たから、ディルクに指輪を嵌めた手を翳した。

「《集えコリジェンス》」

水滴がディルクの服や髪から離れ、指先に集まって小さな水の玉を作った。

「いい感じだ」久しぶりだがあの頃と変わらない。むしろあの頃より俺自身の魔力も技術も上がっている。

「ご機嫌だな」とワルターが茶化したが、その通りだ。

「今からでも試したいくらいだよ」と笑った。

「抜けがけすんなよ?今度はオーラフじゃなくて俺が拳骨するからな」とワルターは俺に釘を刺した。

それは痛そうだ…

言葉では答えずに肩を竦めて笑った。

アーサー、待ってろよ。俺たちはお前を諦めたりしないからな!
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