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パパ
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「…おい、あの腑抜けはなんだ?」
久々にブルームバルトを訪ねたヨナタンが、旧友の変わり様を見て引いていた。
ワルターが抱いているのは、彼がこの世で一番大切にしてる宝物だ。
「ヨナタン、俺の娘だ!どうだ!可愛いだろう?!」
「分かったから落ち着け」
「顔立ちはテレーゼに似てるがな、この巻き毛は多分俺のだ!」
「もうかれこれ一ヶ月、毎日こんな感じだよ…」
「なんというか…人って変わるものだな…」とヨナタンは苦笑いしながらしみじみと呟いた。
夏の第一月の一周目に産まれたロンメル家の長女は、ヴェルフェル侯爵から直々にフィリーネと名付けられた。
ワルターは乳母にも渡さないくらい娘を溺愛していた。さすがに仕事はちゃんとしてるが、ゲルトと二人で時間さえあればメロメロだ。
「《フィー》、この仏頂面のおっさんは俺のダチのヨナタンだ」と何も分からない赤ん坊にヨナタンを紹介した。
「よろしくなお姫様」とヨナタンは苦笑いで赤ん坊に会釈した。
「奥方はどうした?」
「テレーゼは休ませてる。まだ貧血が続いててな、すぐ無理しようとするから困る」
「そうか…そういえば、大御所が孫を見たいと言ってたぞ。近いうちに顔を出しに来るだろう。
あと、お前ら夫婦のおかげで、ドライファッハは今大変なことになってる…」
「何の話だ?」
「《扇子》さ」とヨナタンはそう言って手紙を取り出した。
「ヴェルフェル侯爵夫人が新年会で使用してた物を、と貴族の間で爆発的に広まってな…
まさかあれが爆発的に売れるとは思わなかった…
その手紙はドライファッハの商業組合のお偉いさんから預かった礼状だ。奴ら左団扇らしい。
大御所のところにも直々に礼に来てたぞ」
「はぁ…何か知らんが、侯爵夫人ってすげぇな…」
「当たり前だろ?あのちっさな工房に、国王と七大貴族から依頼が来るなんて思わなかったろうよ」
一時的なブームだろうが、ヴェルフェル侯爵夫人とテレーゼの名前は絶大だった。
「フィリーネの分も頼むか?」とワルターは笑っていた。
「伝えておいてやるよ」とヨナタンも笑って応えた。
「で?俺にはお姫様は抱かせてくれんのか?」
「良いけど、変な気起こすなよ?」
「『落とすな』とか『大事に扱え』とは言われるかもしれんが、その文句は初めて聞いたな」
「馬鹿言え!こんなに可愛いんだ!連れて帰られちゃかなわん!」
「はいはい、分かったよ。こりゃ嫁に出す時は苦労しそうだな…」
「ヨナタン、それハンスも同じこと言ってたよ…」
「フリッツの所も女の子だったからな。
まぁ、あいつも似たような感じだ…」
「見てられないね…」
「ホントにな…」とボヤきながらヨナタンはワルターからフィーを受け取った。
「お姫さん、良かったなぁ、母親が器量良しの別嬪さんで。
親父に似たらとんでもない不幸を背負わされるぞ」
「お前な…」
「おっと、身に覚えがないとは言わさんぞ。
お前に似たら、意地っ張りで頑固で、問題事を背負い込む、恋を拗らした面倒な女になる」
「うっわー…面倒くさ…」それは困る。
ワルターは苦い顔をして「そんなんなってたまるか!」と言いながら愛娘を引き取った。
ヨナタンはしてやったみたいな顔で笑いながら煙草を取り出して咥えた。
マッチを擦ろうとした彼に慌てて声をかけた。
「ヨナタン。悲報だけど、ロンメル家は室内全禁煙になったんだよ」
「何だ?そうなのか?」
「ワルターもフィーのために禁煙してるんだ。
庭の喫煙所に案内するよ」
「禁煙?この煙草でできた燻製みたいな男がか?」とヨナタンが驚いていたが、本当にワルターは禁煙してた。まだ一ヶ月だけど…
「はー…娘ってすげぇな」
「だよね」と二人で苦笑いしながら中庭に出た。
厨房の裏の近くに煙草を吸うためのベンチが出来た。
厨房の裏のベンチには、ルドが脚をプラプラさせながら座っていた。
ルドは俺には気付いてベンチから降りると駆け寄ってきた。
「スー!」
「あら、スー…とヨナタン?」ルドの様子に気付いたミアが厨房から顔を出した。ヨナタンに気付いて一瞬驚いた顔をしたが、彼が来るのはいつも突然だ。
彼女は「いらっしゃい」と来客を歓迎した。
「また今年も世話になる」
「一人分追加ね」と彼女は嫌な顔ひとつせずに「用意するわ」と言ってくれた。
「急でいつもすまんな」
「いいよ、でも残さず食べてね」とミアは笑った。
「ママー、だれぇ?」母親と親しく話している相手が気になったようで、ルドは母親に訊ねた。
「覚えてないよな」とヨナタンはルドの前にしゃがんで頭を撫でた。その姿を見上げて、ルドは目を輝かせて、思い当たる言葉を口にした。
「…ルドのパパ?」
さすがのヨナタンも言葉を失って、口をポカンと空けたまま固まった。
「ちょっ!違うわよ!何言って…」
「ちがう?」
「あなたのパパは…」と言いかけてミアが口を噤んだ。言えなかった。まだルドは父親のことを知らない。『理解できるようになってから伝えたい』と彼女は言っていた。
「いい、ミア。いいから」とヨナタンはそう言って、ルドに視線を落とすと「知りたいよな、自分の親だもんな」と小さく呟いてルドの頭を撫でた。
ヨナタンは捨て子だったらしいから、親を求める気持ちは分かったのだろう。
「パパ?」とルドは再びヨナタンに訊ねた。
「いや、パパの友達だ」とヨナタンはルドに答えた。ルドは悲しそうに俯いて黙った。
「お前はパパにそっくりだよ」と言ってヨナタンはルドを抱き上げた。
「ミア、ルドを少し借りるぞ」
「…でも…」
「大丈夫だ。任せておけ」と頼もしく応えて、ヨナタンはルドを抱いてベンチに腰掛けた。
「俺はヨナタンってんだ」とヨナタンはルドに優しくゆっくりと語りかけた。
「俺の恋人の墓参りに来てた。
年に一度顔を出してる。覚えておいてくれ」
「ヨナタン?」
「そうだ。お前のパパとは一緒に仕事してた。まあ、素直じゃないが良い奴だったよ。
お前のパパじゃなくてガッカリさせたな、悪いな」
「…パパ…いない」
「そうだな…俺もパパいないから同じだ…
分かるよ、寂しいよな?」ヨナタンはルドにそう言ってクシャクシャと頭を撫でた。
「でも、両方とも居ない俺と違って、ルドにはママは居るだろ?優しい美人のママだ。困らしちゃいけねぇな」
「ママこまる?」
「お前は悪くねぇよ。だけどな、パパが居なくなって、ママだって悲しいんだ。ママ好きだろ?」
「うん」
「パパの変わりはそのうちできるさ。だからもう少し待ってやんな」
「ルドまつ、パパくる?」
「パパは無理だが、パパみたいな人ならできるさ。きっとな」と告げて、ヨナタンはルドの背に大きな男の手のひらを添えて引き寄せた。
「今日はパパで居てやるよ」と言いながら彼はルドの背を撫でながら小さな身体を抱いた。
傍から見たら本当に彼らは親子に見えた。
「…何だよ?」と俺の視線に照れくさそうにヨナタンが訊ねた。
「君って子供好きだった?」と訊ねると、彼は「別に」と答えた。
「俺は子供は望めないからな…」と寂しげに呟いて抱いた子供の背を撫でた。
「無責任に他人の子供を甘やかすくらいは良いだろ?」と自嘲気味に応え、彼は自分で諦めたものを愛でていた。
「歳をとるとな、ガキが可愛くなってくるんだ…」と呟いて彼は寂しげに笑った。
ヨナタンは煙草を諦めて、ポケットから取り出した置物を眺めた。ミミズクの置物はクルクルと首を回して、彼の大切な人の居場所を教えた。
「あいつもガキが好きだった…」と呟く声は恋人を偲びながら夏の空気に溶けて消えた。
「子供って抱いてると暑いな」と彼はボヤいた。
今日は風があって涼しいが、やっぱり暑い。汗がじわりと浮かんで雫になって落ちた。
「ちと早いが、一緒に風呂屋にでも行くか」
「いいね」と答えた。
ミアに断ってルドを連れ、町の公衆浴場に足を運んだ。
彼は一時の父親ごっこを楽しんでいるようだった。
ルドもヨナタンに甘えて嬉しそうだった。
来年に彼が来る時、ルドは彼を覚えてるかな?
覚えてなくても、ヨナタンは知らないフリをするのだろう。彼は大人だから、子供が自分を忘れても、涼しい顔でまた名乗るのだろう…
俺だったら…耐えられないだろうな…
「寝ちまったよ」と苦笑いしながら、彼はルドを抱いて帰り道を歩いた。
涼しい風が山から降りてきて、町を撫でて行く。
町を照らす街灯と、家から漏れる明かりに照らされ、夕陽が影を伸ばす黄昏の町は少しだけ装いを変えた。
「ヨナタン」
「何だ?」少し高い位置から返事が返ってきた。彼になら話せた。
「俺、ミアのことが好きなんだ」
「…そうか」と応え、彼は眠るルドの身体を抱き直して、「それで?」と促した。
「俺じゃ…ルドの父親にはなれないかな?」
「不安か?」と視線を合わせずにヨナタンは訊ねた。
「だって…エルマーは俺のせいで…」
「エルマーはそうは言わないさ。
あいつは自分の意思でお前を守って死んだんだ。
お前のせいじゃない。あれはエルマーの選択だ」ヨナタンはそう言って、足を止めた。
「オーラフだってそうだ…誰も恨めない…
あいつは自分の意思で戦場に立って、死んだんだ」そう言いながら、彼の視線はルドを抱く自分の手首に注がれていた。古傷は相変わらず彼の腕に残っていた。
「俺たちは、不器用に生きるしかない…俺たちは生かされたんだからな…
エルマーはもう居ない。お前はまだ先が長いんだから、亡霊を引きずって生きるのは止めろ」
「じゃあ、君は何で毎年墓参りに来るのさ?」と訊ねた俺に、彼は夕陽の逆光に照らされながら答えた。
「俺は不器用だからさ…それだけだ」
黄昏の逆光で表情は窺い知れないが、ヨナタンの声には哀愁の響きがあった。
✩.*˚
喫煙所に煙草を咥えたヨナタンが座っていた。
ルドはヨナタンの事を勝手に『パパ』と呼んでいた。
「ごめんなさい、ルドが…」
「謝るな。成長してるんだ。親父が欲しいのは当然だ」とヨナタンは素っ気ない感じで返事をした。
「…そうだよね」としか言えなかった。
旦那様と奥様がお嬢様を可愛がる姿を見て、自分が片親だという違和感に子供なりに気が付いたのだろう。
自分に《お父さん》がいないと、あの子は気が付いてしまった…
その疑問はこれからさらに強くなっていくのだろう…
子供の成長が怖くなった。
「ルドも…パパ欲しいよね」と呟くと、彼は「まぁ、そうだろうな…」と応えた。
彼は煙草の煙を吐き出すと、私に訊ねた。
「次の春にはあの子も三歳だろ?」
「うん」
「誰かいないのか?」と彼は駆け引きなしに訊ねた。
居ると言えば居る…でも自分でも、それでいいのか分からない。
ルドにとっても、相手にとっても、あたしにとっても…
でもその選択は、あたしが責任持ってしなきゃいけないことだ…
「分かんないよ…」道に迷った子供のように、心細くなる。
まだあの腕を覚えてる。彼の声も、笑う顔も、匂いも、優しかった事も、心と身体が全て覚えてる…
その記憶が、他の誰かに変わるのが嫌だ。
「まだ好きなんだ」と答えるしか無かった。
せっかく『待つよ』って言ってくれたのに…
あたしの足は前に出ない。彼の手を取るのに罪悪感を覚える自分がいる。それが《弟》なら尚更だ…
ヨナタンは何も言わなかった。
静かな暗い庭に、煙草の火が、まるで蛍のように瞬いた。
沈黙の後、ため息と紫煙を吐き出して、彼は煙草の火を靴底ですり潰して消した。
ヨナタンはベンチを立った。部屋に戻るのだろう。
彼はすれ違う時にあたしの肩を叩いて呟いた。
「気持ちは分かる…俺もあんたの事なんか、言えた義理じゃないからな」
彼はそう言って、ため息を残して歩き去った。
彼は何も教えてくれなかった…
どうしたらいいのか言わなかった。
本当はあたしがどうすべきか知ってるから、彼は何も言わないんだ…
自分にその言葉が帰ってくるから…言えないんだ…
「ミア、終わった?」厨房の裏口からスーの声がした。
不意をつかれたので驚いて振り返ったあたしに、今度はスーが驚いた顔を見せた。
「何時から居たの?」話を聞かれてたかもと思ったが、スーは惚けた様子で首を傾げた。
「今来たところだけど?
ルド、疲れてたみたいですぐに寝たよ」
「あ…ありがとう…」
「何か残り物ある?少しお腹空いちゃった」とスーは夜更かしする子供みたいなことを言った。
「あるよ。待ってて」と笑って応え、処分しようとしていた残り物をパンに挟んで渡した。
スーは嬉しそうに「ありがとう」と言ってパンを受け取った。屈託のない笑顔は彼を幼く見せた。
残り物を挟んだパンはすぐに彼のお腹の中に消えた。
「ご馳走様、美味しかった」
「あ、うん」どこか上の空の状態のあたしの顔を覗き込んでスーは「どうしたの?」と訊ねた。
「何?考え事?」
「なんでもないよ」と答えたが、スーはベンチの傍に落ちてた煙草の吸殻に気付いて拾った。
「ヨナタンと何かあったの?」匂いで分かるのだろうか?スーは彼がさっきまでもいた事を言い当てた。
「何も」と、できるだけ平静を装って答えた。
スーは「ふーん」と指先で摘んだ吸殻を眺めながら呟いた。
「ルドはヨナタンの事気に入ってたよ。『パパ』だってさ…本当に親子みたいだった…」
「やめてよ…意地の悪い言い方して…」
「僻みだよ。俺はいつも《スー》ってしか呼んでもらえないからさ…」とスーは呟いて吸殻を捨てた。
「いつも傍にいるのにダメなんだ…近すぎるのかな?」
「スー…」捨てた吸殻を見詰めて、彼は肩を落とした。
「『待つ』って言ったのにごめん…もう行くよ」
スーはばつ悪そうにそう言って、「おやすみ」と言葉を残すと歩き出した。
「待ってよ!ごめん、スー!待って…」慌てて彼を追いかけて引き止めた。腕を掴まれて引き止められたスーは驚いた目であたしを見下ろしていた。
「ミア?」
「ほんとに…」じわっと顔の中心から熱を帯びた。鼻が痛くなって涙が滲んだ。
「ほんとに…エルマーの次でいいの?」と彼に訊ねた。
目の前の濃い紫の瞳はあたしを見てた。
「あたしの一番はエルマーだよ。これから先も…ずっと変わらないかもしれない…
二番で…本当にいいの?」
「いいよ」とスーは優しい目であたしを見下ろして腕を伸ばした。
あたしの身体を包むように抱けるほど、彼の肩幅は広くなっていた。あの人を少し思い出した…
「ミアの好きな人の一番は《兄貴》でいいよ…
俺は《弟》だから、二番目でいいよ」
「ごめん…ごめんね、スー…」
ずるいと思う…最低だと思う…
でも…
「ありがとう」
腕の中でべそをかきながら、あたしを受け入れてくれた彼に礼を言った。スーはあたしの頭を撫でて、手のひらで涙を拭った。
「うん…ありがとう、ミア…」
綺麗な顔が近づいた。
「待って」と言って髪留めを外してポケットにしまった。スーは苦笑いしてまた顔を寄せた。
スーの接吻は、彼と同じ煙草の味がした…
✩.*˚
ヨナタンは気を使ったのか、早々に帰って行った。
ルドはヨナタンを引き止めてぐずっていた。
あいつがヨナタンを『パパ』と呼んでいるのを見て、複雑な気分だった。フィーを可愛がる一方で、ルドに寂しい思いをさせたと反省した。
フィーを抱いて庭を散歩していると、アーサーの声が聞こえてきた。
「アルマ!待てだ、待て!」アーサーが飛竜の雛に手のひらを見せてジリジリと下がって距離をとっていた。
「何してるんだよ、アーサー?」
「躾ですよ。デカくなる前にしておかないと…」と言いながら、ある程度の距離で止まって肉を見せてアルマを呼んだ。
まだ飛べないが、翼としっぽでバランスをとりながら頑張って走ってくる姿は必死だ。
「よしよし、良い子だなアルマ」
「プルルクルル」肉を貰った飛竜は、ご機嫌な声で喉を鳴らしてアーサーに甘えた。彼は慣れた様子で、アルマの両足に繋いだ紐を掴んで肩に乗せた。
「懐いてるな」
「手間かけてるんでね」とアーサーは自慢げだ。
「飛竜には興味がある。賢いし、割と従順だ。上手く扱えれば確かに役に立つだろうな…
戦闘向きではなくても、伝令や火急の用向きには役に立つはずだ」
「空飛ぶ騎士でもなるか?」と冗談を言うと彼は「いいな」と応じた。
「子供らの時代にはそれが普通になるかもな」と言って彼はアルマの喉を指先で撫でていた。
「んん~」と腕の中でフィーがむずかった。足を止めたのが気に入らなかったようだ。それを見てアーサーが苦笑いした。
「《神紋の英雄》が子守りか?乳母殿から仕事を取るのは程々にな」
「親父が娘の世話して何が悪い?」
「あんたの仮にも男爵だぞ」
「男爵なんて好きでなったんじゃねぇよ、俺はフィーの親父って肩書きの方が好きだ」
「しつこくすると年頃になったら嫌われるぞ」とアーサーが肩を竦めてやれやれと頭を振った。アルマは首を捻りながら俺の腕の中を覗き込んだ。
「子供に噛みつかないように躾とけよ」と言葉を残し、アーサーと別れて歩き出した。
眩しそうな顔のフィーは、歩き出すとまた大人しくなった。外の世界を珍しそうに眺めるが、まだ据わってない首を動かすから心配になる。
『よく動くからお転婆になりそうですね』とテレーゼは言っていた。
立ち寄ったクローバーの畑で四葉を探して摘んだ。
「テレーゼに届けに行こう」とフィーに四葉を見せて裏口から屋敷に戻った。
「あ、居た。ワルター、ちょっといいか?」と廊下で顔を合わせたスーが俺を呼び止めた。
「ミアとルドを連れて町に行ってくるよ。新しい服買ってやろうと思って」
「あぁ、行ってこい」
「何かいるかい?」と言ってくれたが、特に用事もない。
まだ拗ねているルドを肩車して、スーはミアと出かけて行った。彼女はいつも纏めている髪を下ろしていて、それが珍しかった。
寝室のドアをノックしてドアを開けた。
「起きてるか?」
「起きてますよ」とベッドから返事が返ってきた。
テレーゼはベッドで半身を起こして本を読んでいた。
元気そうに見せていたが、顔色はまだ儚げだ。《白い手》は自分自身には効果が無いのだという。
「フィーを連れてきた」と娘をテレーゼに渡した。
彼女は嬉しそうに娘を腕の中に招いた。
「いいわね、フィー。お父様とお散歩してたの?」
娘を愛でる彼女は母親の顔をしていた。
彼女はフィーを抱きながら俺に謝った。
「申し訳ありません、トゥーマン様をおもてなしできずに…」どうやら気にしていたようだ。
「いいんだよ、あいつは。ふらっと現れて宿屋代わりに泊まっていくだけだ」
「でも…」
「そう思うなら元気になって、次来る時にもてなしてやってくれ」
無理して倒れでもしたら大変だ。そうなるくらいなら次にしてくれたらいい。幸い、そんな事を気にするような相手ではない。
摘んできた四葉を彼女に渡した。
「ありがとうございます」と彼女は笑顔で見舞いを受け取った。その姿が愛おしくて、ベッドに腰掛けると娘を抱いたままの妻を抱き締めた。
彼女は「甘えん坊ですね」と言って、擽ったそう笑った。
愛する妻がいて、可愛い娘もできた。
俺みたいな人間が、これ以上の幸せを望むのは欲張りだろう。
ならばこの時間が長く続く事を祈った…
✩.*˚
「ルド、美味しい?」
ミアが焼き菓子を頬張るルドの顔を覗き込んで、優しく顔に付いた食べかすを払った。
「うん!」リスみたい頬を膨らませ、笑顔で答えるルドはご機嫌だ。彼はヨナタンとの別れを忘れていた。
ミアは「良かったね」と笑っていたが、俺は少し寂しく感じた。子供はすぐ忘れる…
ヨナタンのことも、ソーリューも、エルマーも…
時間が経てば、子供の記憶から彼らも消えていくのだろう…
当たり前の事だが、とても残酷な現実だ。
「スー、おいしいよぉ!あーん、して」
ルドは嬉しそうに幸せを俺にも分けてくれた。
嬉しそうに目尻の下がった目は俺を見てる。
君ら親子だな、エルマー…
いつも何かしら持ってきて、『食えよ』と言ってくれた君と同じ顔で、ルドは俺に自分のおやつを分けてくれるんだ…
この子は君を知らないのに、確実に君の子だ…
「ありがとう、ルド」
「ママも…あーん」
「ママはもういいよ。ルドの分が無くなっちゃうよ?」
「ルドたべてるよ。ママもたべて、おいしいよぉ」誰かの喜ぶ顔が嬉しいのだろう。ルドは手にしたお菓子をミアの口に入れたがった。
「優しいね、ルド…」ミアは涙ぐんでいた。彼女も俺と同じ事を思っていたのかもしれない。
この子はエルマーの子だ…
手を繋いで歩き出した。
ミアは少し長めの休憩を貰ってたが、あまり遅くなるとあとが大変だ。しなきゃいけないことは沢山ある。
「スー。ルドの服と靴、買ってくれてありがとう」
「どういたしまして」と応えた。
ルドはケヴィンが昔着ていたお下がりを貰ってたが、それだけじゃ可哀想だ。真新しいシャツは白くて肌触りが良さそうだった。
「気に入った?」とルドに訊ねると、ルドは「うん!」と嬉しそうに頷いた。
道ですれ違った親子を見て、ルドは目で追っていた。
明るい笑い声を上げながら、子供たちは少し離れた場所にいた父親を呼んだ。
呼ばれた父親は、手を挙げて子供たちに居場所を教えた。そこを目掛けて、子供たちは競争するように駆け込むと、少し遅れて、子供たちの後ろを歩いていた母親が到着して親子は集合した…
そこまで見て、ルドは視線を落とした。
「パパ…いなくなっちゃった…」と呟く彼は、ヨナタンを思い出したようだ。
その姿にミアが悲しそうに眉を寄せた。
ミアが手を伸ばすより先に、俺がルドを抱き上げた。
「ルドにとって、パパってどんなんだ?」と訊ねた。
ルドは首を傾げて、「おとこ?」と答えた。彼にとって精一杯の答えだったろう。思うところはもっと沢山あるだろうが、この子の語彙力じゃそれが精一杯だ。
「俺も男だよ」と言うとルドは俺の顔をまじまじと見た。
「スー…パパなの?」子供の口からシンプルな問いが漏れた。そんなふうに思ったことはなかったのだろう。そうだよなって思いながら苦笑いして答えた。
「本当のパパとは違うけど、そうなれたらいいなって思ってる。
俺はルドのこともミアのことも大好きだから…
ルドは、俺がパパだと嫌か?」
「嫌じゃないよ」とルドは答えた。
「ママ、スーがパパだって」
無くしてた玩具でも見つけたような、そんな感じでルドはミアに報告した。
ごっこ遊びの延長のような会話に、ミアは少し寂しそうに笑って、「良かったね」とルドと俺に言った。
「うん!」と笑顔で答えた幼児には、母親の複雑な想いはまだ理解できないだろう。
ルドも成長したら、俺が本当の《パパ》じゃないと気付くはずだ。
それまでの仮の存在でもいい。
「帰ろうか」と呟いて、二人と一緒に家路についた。
久々にブルームバルトを訪ねたヨナタンが、旧友の変わり様を見て引いていた。
ワルターが抱いているのは、彼がこの世で一番大切にしてる宝物だ。
「ヨナタン、俺の娘だ!どうだ!可愛いだろう?!」
「分かったから落ち着け」
「顔立ちはテレーゼに似てるがな、この巻き毛は多分俺のだ!」
「もうかれこれ一ヶ月、毎日こんな感じだよ…」
「なんというか…人って変わるものだな…」とヨナタンは苦笑いしながらしみじみと呟いた。
夏の第一月の一周目に産まれたロンメル家の長女は、ヴェルフェル侯爵から直々にフィリーネと名付けられた。
ワルターは乳母にも渡さないくらい娘を溺愛していた。さすがに仕事はちゃんとしてるが、ゲルトと二人で時間さえあればメロメロだ。
「《フィー》、この仏頂面のおっさんは俺のダチのヨナタンだ」と何も分からない赤ん坊にヨナタンを紹介した。
「よろしくなお姫様」とヨナタンは苦笑いで赤ん坊に会釈した。
「奥方はどうした?」
「テレーゼは休ませてる。まだ貧血が続いててな、すぐ無理しようとするから困る」
「そうか…そういえば、大御所が孫を見たいと言ってたぞ。近いうちに顔を出しに来るだろう。
あと、お前ら夫婦のおかげで、ドライファッハは今大変なことになってる…」
「何の話だ?」
「《扇子》さ」とヨナタンはそう言って手紙を取り出した。
「ヴェルフェル侯爵夫人が新年会で使用してた物を、と貴族の間で爆発的に広まってな…
まさかあれが爆発的に売れるとは思わなかった…
その手紙はドライファッハの商業組合のお偉いさんから預かった礼状だ。奴ら左団扇らしい。
大御所のところにも直々に礼に来てたぞ」
「はぁ…何か知らんが、侯爵夫人ってすげぇな…」
「当たり前だろ?あのちっさな工房に、国王と七大貴族から依頼が来るなんて思わなかったろうよ」
一時的なブームだろうが、ヴェルフェル侯爵夫人とテレーゼの名前は絶大だった。
「フィリーネの分も頼むか?」とワルターは笑っていた。
「伝えておいてやるよ」とヨナタンも笑って応えた。
「で?俺にはお姫様は抱かせてくれんのか?」
「良いけど、変な気起こすなよ?」
「『落とすな』とか『大事に扱え』とは言われるかもしれんが、その文句は初めて聞いたな」
「馬鹿言え!こんなに可愛いんだ!連れて帰られちゃかなわん!」
「はいはい、分かったよ。こりゃ嫁に出す時は苦労しそうだな…」
「ヨナタン、それハンスも同じこと言ってたよ…」
「フリッツの所も女の子だったからな。
まぁ、あいつも似たような感じだ…」
「見てられないね…」
「ホントにな…」とボヤきながらヨナタンはワルターからフィーを受け取った。
「お姫さん、良かったなぁ、母親が器量良しの別嬪さんで。
親父に似たらとんでもない不幸を背負わされるぞ」
「お前な…」
「おっと、身に覚えがないとは言わさんぞ。
お前に似たら、意地っ張りで頑固で、問題事を背負い込む、恋を拗らした面倒な女になる」
「うっわー…面倒くさ…」それは困る。
ワルターは苦い顔をして「そんなんなってたまるか!」と言いながら愛娘を引き取った。
ヨナタンはしてやったみたいな顔で笑いながら煙草を取り出して咥えた。
マッチを擦ろうとした彼に慌てて声をかけた。
「ヨナタン。悲報だけど、ロンメル家は室内全禁煙になったんだよ」
「何だ?そうなのか?」
「ワルターもフィーのために禁煙してるんだ。
庭の喫煙所に案内するよ」
「禁煙?この煙草でできた燻製みたいな男がか?」とヨナタンが驚いていたが、本当にワルターは禁煙してた。まだ一ヶ月だけど…
「はー…娘ってすげぇな」
「だよね」と二人で苦笑いしながら中庭に出た。
厨房の裏の近くに煙草を吸うためのベンチが出来た。
厨房の裏のベンチには、ルドが脚をプラプラさせながら座っていた。
ルドは俺には気付いてベンチから降りると駆け寄ってきた。
「スー!」
「あら、スー…とヨナタン?」ルドの様子に気付いたミアが厨房から顔を出した。ヨナタンに気付いて一瞬驚いた顔をしたが、彼が来るのはいつも突然だ。
彼女は「いらっしゃい」と来客を歓迎した。
「また今年も世話になる」
「一人分追加ね」と彼女は嫌な顔ひとつせずに「用意するわ」と言ってくれた。
「急でいつもすまんな」
「いいよ、でも残さず食べてね」とミアは笑った。
「ママー、だれぇ?」母親と親しく話している相手が気になったようで、ルドは母親に訊ねた。
「覚えてないよな」とヨナタンはルドの前にしゃがんで頭を撫でた。その姿を見上げて、ルドは目を輝かせて、思い当たる言葉を口にした。
「…ルドのパパ?」
さすがのヨナタンも言葉を失って、口をポカンと空けたまま固まった。
「ちょっ!違うわよ!何言って…」
「ちがう?」
「あなたのパパは…」と言いかけてミアが口を噤んだ。言えなかった。まだルドは父親のことを知らない。『理解できるようになってから伝えたい』と彼女は言っていた。
「いい、ミア。いいから」とヨナタンはそう言って、ルドに視線を落とすと「知りたいよな、自分の親だもんな」と小さく呟いてルドの頭を撫でた。
ヨナタンは捨て子だったらしいから、親を求める気持ちは分かったのだろう。
「パパ?」とルドは再びヨナタンに訊ねた。
「いや、パパの友達だ」とヨナタンはルドに答えた。ルドは悲しそうに俯いて黙った。
「お前はパパにそっくりだよ」と言ってヨナタンはルドを抱き上げた。
「ミア、ルドを少し借りるぞ」
「…でも…」
「大丈夫だ。任せておけ」と頼もしく応えて、ヨナタンはルドを抱いてベンチに腰掛けた。
「俺はヨナタンってんだ」とヨナタンはルドに優しくゆっくりと語りかけた。
「俺の恋人の墓参りに来てた。
年に一度顔を出してる。覚えておいてくれ」
「ヨナタン?」
「そうだ。お前のパパとは一緒に仕事してた。まあ、素直じゃないが良い奴だったよ。
お前のパパじゃなくてガッカリさせたな、悪いな」
「…パパ…いない」
「そうだな…俺もパパいないから同じだ…
分かるよ、寂しいよな?」ヨナタンはルドにそう言ってクシャクシャと頭を撫でた。
「でも、両方とも居ない俺と違って、ルドにはママは居るだろ?優しい美人のママだ。困らしちゃいけねぇな」
「ママこまる?」
「お前は悪くねぇよ。だけどな、パパが居なくなって、ママだって悲しいんだ。ママ好きだろ?」
「うん」
「パパの変わりはそのうちできるさ。だからもう少し待ってやんな」
「ルドまつ、パパくる?」
「パパは無理だが、パパみたいな人ならできるさ。きっとな」と告げて、ヨナタンはルドの背に大きな男の手のひらを添えて引き寄せた。
「今日はパパで居てやるよ」と言いながら彼はルドの背を撫でながら小さな身体を抱いた。
傍から見たら本当に彼らは親子に見えた。
「…何だよ?」と俺の視線に照れくさそうにヨナタンが訊ねた。
「君って子供好きだった?」と訊ねると、彼は「別に」と答えた。
「俺は子供は望めないからな…」と寂しげに呟いて抱いた子供の背を撫でた。
「無責任に他人の子供を甘やかすくらいは良いだろ?」と自嘲気味に応え、彼は自分で諦めたものを愛でていた。
「歳をとるとな、ガキが可愛くなってくるんだ…」と呟いて彼は寂しげに笑った。
ヨナタンは煙草を諦めて、ポケットから取り出した置物を眺めた。ミミズクの置物はクルクルと首を回して、彼の大切な人の居場所を教えた。
「あいつもガキが好きだった…」と呟く声は恋人を偲びながら夏の空気に溶けて消えた。
「子供って抱いてると暑いな」と彼はボヤいた。
今日は風があって涼しいが、やっぱり暑い。汗がじわりと浮かんで雫になって落ちた。
「ちと早いが、一緒に風呂屋にでも行くか」
「いいね」と答えた。
ミアに断ってルドを連れ、町の公衆浴場に足を運んだ。
彼は一時の父親ごっこを楽しんでいるようだった。
ルドもヨナタンに甘えて嬉しそうだった。
来年に彼が来る時、ルドは彼を覚えてるかな?
覚えてなくても、ヨナタンは知らないフリをするのだろう。彼は大人だから、子供が自分を忘れても、涼しい顔でまた名乗るのだろう…
俺だったら…耐えられないだろうな…
「寝ちまったよ」と苦笑いしながら、彼はルドを抱いて帰り道を歩いた。
涼しい風が山から降りてきて、町を撫でて行く。
町を照らす街灯と、家から漏れる明かりに照らされ、夕陽が影を伸ばす黄昏の町は少しだけ装いを変えた。
「ヨナタン」
「何だ?」少し高い位置から返事が返ってきた。彼になら話せた。
「俺、ミアのことが好きなんだ」
「…そうか」と応え、彼は眠るルドの身体を抱き直して、「それで?」と促した。
「俺じゃ…ルドの父親にはなれないかな?」
「不安か?」と視線を合わせずにヨナタンは訊ねた。
「だって…エルマーは俺のせいで…」
「エルマーはそうは言わないさ。
あいつは自分の意思でお前を守って死んだんだ。
お前のせいじゃない。あれはエルマーの選択だ」ヨナタンはそう言って、足を止めた。
「オーラフだってそうだ…誰も恨めない…
あいつは自分の意思で戦場に立って、死んだんだ」そう言いながら、彼の視線はルドを抱く自分の手首に注がれていた。古傷は相変わらず彼の腕に残っていた。
「俺たちは、不器用に生きるしかない…俺たちは生かされたんだからな…
エルマーはもう居ない。お前はまだ先が長いんだから、亡霊を引きずって生きるのは止めろ」
「じゃあ、君は何で毎年墓参りに来るのさ?」と訊ねた俺に、彼は夕陽の逆光に照らされながら答えた。
「俺は不器用だからさ…それだけだ」
黄昏の逆光で表情は窺い知れないが、ヨナタンの声には哀愁の響きがあった。
✩.*˚
喫煙所に煙草を咥えたヨナタンが座っていた。
ルドはヨナタンの事を勝手に『パパ』と呼んでいた。
「ごめんなさい、ルドが…」
「謝るな。成長してるんだ。親父が欲しいのは当然だ」とヨナタンは素っ気ない感じで返事をした。
「…そうだよね」としか言えなかった。
旦那様と奥様がお嬢様を可愛がる姿を見て、自分が片親だという違和感に子供なりに気が付いたのだろう。
自分に《お父さん》がいないと、あの子は気が付いてしまった…
その疑問はこれからさらに強くなっていくのだろう…
子供の成長が怖くなった。
「ルドも…パパ欲しいよね」と呟くと、彼は「まぁ、そうだろうな…」と応えた。
彼は煙草の煙を吐き出すと、私に訊ねた。
「次の春にはあの子も三歳だろ?」
「うん」
「誰かいないのか?」と彼は駆け引きなしに訊ねた。
居ると言えば居る…でも自分でも、それでいいのか分からない。
ルドにとっても、相手にとっても、あたしにとっても…
でもその選択は、あたしが責任持ってしなきゃいけないことだ…
「分かんないよ…」道に迷った子供のように、心細くなる。
まだあの腕を覚えてる。彼の声も、笑う顔も、匂いも、優しかった事も、心と身体が全て覚えてる…
その記憶が、他の誰かに変わるのが嫌だ。
「まだ好きなんだ」と答えるしか無かった。
せっかく『待つよ』って言ってくれたのに…
あたしの足は前に出ない。彼の手を取るのに罪悪感を覚える自分がいる。それが《弟》なら尚更だ…
ヨナタンは何も言わなかった。
静かな暗い庭に、煙草の火が、まるで蛍のように瞬いた。
沈黙の後、ため息と紫煙を吐き出して、彼は煙草の火を靴底ですり潰して消した。
ヨナタンはベンチを立った。部屋に戻るのだろう。
彼はすれ違う時にあたしの肩を叩いて呟いた。
「気持ちは分かる…俺もあんたの事なんか、言えた義理じゃないからな」
彼はそう言って、ため息を残して歩き去った。
彼は何も教えてくれなかった…
どうしたらいいのか言わなかった。
本当はあたしがどうすべきか知ってるから、彼は何も言わないんだ…
自分にその言葉が帰ってくるから…言えないんだ…
「ミア、終わった?」厨房の裏口からスーの声がした。
不意をつかれたので驚いて振り返ったあたしに、今度はスーが驚いた顔を見せた。
「何時から居たの?」話を聞かれてたかもと思ったが、スーは惚けた様子で首を傾げた。
「今来たところだけど?
ルド、疲れてたみたいですぐに寝たよ」
「あ…ありがとう…」
「何か残り物ある?少しお腹空いちゃった」とスーは夜更かしする子供みたいなことを言った。
「あるよ。待ってて」と笑って応え、処分しようとしていた残り物をパンに挟んで渡した。
スーは嬉しそうに「ありがとう」と言ってパンを受け取った。屈託のない笑顔は彼を幼く見せた。
残り物を挟んだパンはすぐに彼のお腹の中に消えた。
「ご馳走様、美味しかった」
「あ、うん」どこか上の空の状態のあたしの顔を覗き込んでスーは「どうしたの?」と訊ねた。
「何?考え事?」
「なんでもないよ」と答えたが、スーはベンチの傍に落ちてた煙草の吸殻に気付いて拾った。
「ヨナタンと何かあったの?」匂いで分かるのだろうか?スーは彼がさっきまでもいた事を言い当てた。
「何も」と、できるだけ平静を装って答えた。
スーは「ふーん」と指先で摘んだ吸殻を眺めながら呟いた。
「ルドはヨナタンの事気に入ってたよ。『パパ』だってさ…本当に親子みたいだった…」
「やめてよ…意地の悪い言い方して…」
「僻みだよ。俺はいつも《スー》ってしか呼んでもらえないからさ…」とスーは呟いて吸殻を捨てた。
「いつも傍にいるのにダメなんだ…近すぎるのかな?」
「スー…」捨てた吸殻を見詰めて、彼は肩を落とした。
「『待つ』って言ったのにごめん…もう行くよ」
スーはばつ悪そうにそう言って、「おやすみ」と言葉を残すと歩き出した。
「待ってよ!ごめん、スー!待って…」慌てて彼を追いかけて引き止めた。腕を掴まれて引き止められたスーは驚いた目であたしを見下ろしていた。
「ミア?」
「ほんとに…」じわっと顔の中心から熱を帯びた。鼻が痛くなって涙が滲んだ。
「ほんとに…エルマーの次でいいの?」と彼に訊ねた。
目の前の濃い紫の瞳はあたしを見てた。
「あたしの一番はエルマーだよ。これから先も…ずっと変わらないかもしれない…
二番で…本当にいいの?」
「いいよ」とスーは優しい目であたしを見下ろして腕を伸ばした。
あたしの身体を包むように抱けるほど、彼の肩幅は広くなっていた。あの人を少し思い出した…
「ミアの好きな人の一番は《兄貴》でいいよ…
俺は《弟》だから、二番目でいいよ」
「ごめん…ごめんね、スー…」
ずるいと思う…最低だと思う…
でも…
「ありがとう」
腕の中でべそをかきながら、あたしを受け入れてくれた彼に礼を言った。スーはあたしの頭を撫でて、手のひらで涙を拭った。
「うん…ありがとう、ミア…」
綺麗な顔が近づいた。
「待って」と言って髪留めを外してポケットにしまった。スーは苦笑いしてまた顔を寄せた。
スーの接吻は、彼と同じ煙草の味がした…
✩.*˚
ヨナタンは気を使ったのか、早々に帰って行った。
ルドはヨナタンを引き止めてぐずっていた。
あいつがヨナタンを『パパ』と呼んでいるのを見て、複雑な気分だった。フィーを可愛がる一方で、ルドに寂しい思いをさせたと反省した。
フィーを抱いて庭を散歩していると、アーサーの声が聞こえてきた。
「アルマ!待てだ、待て!」アーサーが飛竜の雛に手のひらを見せてジリジリと下がって距離をとっていた。
「何してるんだよ、アーサー?」
「躾ですよ。デカくなる前にしておかないと…」と言いながら、ある程度の距離で止まって肉を見せてアルマを呼んだ。
まだ飛べないが、翼としっぽでバランスをとりながら頑張って走ってくる姿は必死だ。
「よしよし、良い子だなアルマ」
「プルルクルル」肉を貰った飛竜は、ご機嫌な声で喉を鳴らしてアーサーに甘えた。彼は慣れた様子で、アルマの両足に繋いだ紐を掴んで肩に乗せた。
「懐いてるな」
「手間かけてるんでね」とアーサーは自慢げだ。
「飛竜には興味がある。賢いし、割と従順だ。上手く扱えれば確かに役に立つだろうな…
戦闘向きではなくても、伝令や火急の用向きには役に立つはずだ」
「空飛ぶ騎士でもなるか?」と冗談を言うと彼は「いいな」と応じた。
「子供らの時代にはそれが普通になるかもな」と言って彼はアルマの喉を指先で撫でていた。
「んん~」と腕の中でフィーがむずかった。足を止めたのが気に入らなかったようだ。それを見てアーサーが苦笑いした。
「《神紋の英雄》が子守りか?乳母殿から仕事を取るのは程々にな」
「親父が娘の世話して何が悪い?」
「あんたの仮にも男爵だぞ」
「男爵なんて好きでなったんじゃねぇよ、俺はフィーの親父って肩書きの方が好きだ」
「しつこくすると年頃になったら嫌われるぞ」とアーサーが肩を竦めてやれやれと頭を振った。アルマは首を捻りながら俺の腕の中を覗き込んだ。
「子供に噛みつかないように躾とけよ」と言葉を残し、アーサーと別れて歩き出した。
眩しそうな顔のフィーは、歩き出すとまた大人しくなった。外の世界を珍しそうに眺めるが、まだ据わってない首を動かすから心配になる。
『よく動くからお転婆になりそうですね』とテレーゼは言っていた。
立ち寄ったクローバーの畑で四葉を探して摘んだ。
「テレーゼに届けに行こう」とフィーに四葉を見せて裏口から屋敷に戻った。
「あ、居た。ワルター、ちょっといいか?」と廊下で顔を合わせたスーが俺を呼び止めた。
「ミアとルドを連れて町に行ってくるよ。新しい服買ってやろうと思って」
「あぁ、行ってこい」
「何かいるかい?」と言ってくれたが、特に用事もない。
まだ拗ねているルドを肩車して、スーはミアと出かけて行った。彼女はいつも纏めている髪を下ろしていて、それが珍しかった。
寝室のドアをノックしてドアを開けた。
「起きてるか?」
「起きてますよ」とベッドから返事が返ってきた。
テレーゼはベッドで半身を起こして本を読んでいた。
元気そうに見せていたが、顔色はまだ儚げだ。《白い手》は自分自身には効果が無いのだという。
「フィーを連れてきた」と娘をテレーゼに渡した。
彼女は嬉しそうに娘を腕の中に招いた。
「いいわね、フィー。お父様とお散歩してたの?」
娘を愛でる彼女は母親の顔をしていた。
彼女はフィーを抱きながら俺に謝った。
「申し訳ありません、トゥーマン様をおもてなしできずに…」どうやら気にしていたようだ。
「いいんだよ、あいつは。ふらっと現れて宿屋代わりに泊まっていくだけだ」
「でも…」
「そう思うなら元気になって、次来る時にもてなしてやってくれ」
無理して倒れでもしたら大変だ。そうなるくらいなら次にしてくれたらいい。幸い、そんな事を気にするような相手ではない。
摘んできた四葉を彼女に渡した。
「ありがとうございます」と彼女は笑顔で見舞いを受け取った。その姿が愛おしくて、ベッドに腰掛けると娘を抱いたままの妻を抱き締めた。
彼女は「甘えん坊ですね」と言って、擽ったそう笑った。
愛する妻がいて、可愛い娘もできた。
俺みたいな人間が、これ以上の幸せを望むのは欲張りだろう。
ならばこの時間が長く続く事を祈った…
✩.*˚
「ルド、美味しい?」
ミアが焼き菓子を頬張るルドの顔を覗き込んで、優しく顔に付いた食べかすを払った。
「うん!」リスみたい頬を膨らませ、笑顔で答えるルドはご機嫌だ。彼はヨナタンとの別れを忘れていた。
ミアは「良かったね」と笑っていたが、俺は少し寂しく感じた。子供はすぐ忘れる…
ヨナタンのことも、ソーリューも、エルマーも…
時間が経てば、子供の記憶から彼らも消えていくのだろう…
当たり前の事だが、とても残酷な現実だ。
「スー、おいしいよぉ!あーん、して」
ルドは嬉しそうに幸せを俺にも分けてくれた。
嬉しそうに目尻の下がった目は俺を見てる。
君ら親子だな、エルマー…
いつも何かしら持ってきて、『食えよ』と言ってくれた君と同じ顔で、ルドは俺に自分のおやつを分けてくれるんだ…
この子は君を知らないのに、確実に君の子だ…
「ありがとう、ルド」
「ママも…あーん」
「ママはもういいよ。ルドの分が無くなっちゃうよ?」
「ルドたべてるよ。ママもたべて、おいしいよぉ」誰かの喜ぶ顔が嬉しいのだろう。ルドは手にしたお菓子をミアの口に入れたがった。
「優しいね、ルド…」ミアは涙ぐんでいた。彼女も俺と同じ事を思っていたのかもしれない。
この子はエルマーの子だ…
手を繋いで歩き出した。
ミアは少し長めの休憩を貰ってたが、あまり遅くなるとあとが大変だ。しなきゃいけないことは沢山ある。
「スー。ルドの服と靴、買ってくれてありがとう」
「どういたしまして」と応えた。
ルドはケヴィンが昔着ていたお下がりを貰ってたが、それだけじゃ可哀想だ。真新しいシャツは白くて肌触りが良さそうだった。
「気に入った?」とルドに訊ねると、ルドは「うん!」と嬉しそうに頷いた。
道ですれ違った親子を見て、ルドは目で追っていた。
明るい笑い声を上げながら、子供たちは少し離れた場所にいた父親を呼んだ。
呼ばれた父親は、手を挙げて子供たちに居場所を教えた。そこを目掛けて、子供たちは競争するように駆け込むと、少し遅れて、子供たちの後ろを歩いていた母親が到着して親子は集合した…
そこまで見て、ルドは視線を落とした。
「パパ…いなくなっちゃった…」と呟く彼は、ヨナタンを思い出したようだ。
その姿にミアが悲しそうに眉を寄せた。
ミアが手を伸ばすより先に、俺がルドを抱き上げた。
「ルドにとって、パパってどんなんだ?」と訊ねた。
ルドは首を傾げて、「おとこ?」と答えた。彼にとって精一杯の答えだったろう。思うところはもっと沢山あるだろうが、この子の語彙力じゃそれが精一杯だ。
「俺も男だよ」と言うとルドは俺の顔をまじまじと見た。
「スー…パパなの?」子供の口からシンプルな問いが漏れた。そんなふうに思ったことはなかったのだろう。そうだよなって思いながら苦笑いして答えた。
「本当のパパとは違うけど、そうなれたらいいなって思ってる。
俺はルドのこともミアのことも大好きだから…
ルドは、俺がパパだと嫌か?」
「嫌じゃないよ」とルドは答えた。
「ママ、スーがパパだって」
無くしてた玩具でも見つけたような、そんな感じでルドはミアに報告した。
ごっこ遊びの延長のような会話に、ミアは少し寂しそうに笑って、「良かったね」とルドと俺に言った。
「うん!」と笑顔で答えた幼児には、母親の複雑な想いはまだ理解できないだろう。
ルドも成長したら、俺が本当の《パパ》じゃないと気付くはずだ。
それまでの仮の存在でもいい。
「帰ろうか」と呟いて、二人と一緒に家路についた。
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