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ソーリュー
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国を平定するのに長い時間を費やしてしまった。
150年に一度、異世界から召喚される勇者が、アーケイイックフォレストの攻略に失敗した事に端を発し、長い時間と内乱を経て、私はこの玉座を手に入れた。
王の威厳を知らしめる特別な椅子は、長い間正しい主を待っていた。
先王であった兄は玉座というものを理解していなかった。
それがどれほど尊いものであり、力を持ち、神に近しいものであるかを理解していなかったのだ。
それに伴う責任もまるで理解してなかった…
嘆かわしいことだ…
誰も居ない玉座の間で、暫しその姿を眺めた。
一段しかない階段は、臣下と線を引くためのものだ。
この国で最も尊い豪奢な椅子に歩み寄り、身体を預けた。
この椅子を手に入れるために、兄を暗殺し、甥を亡き者にした。血は流れ、犠牲を強いられたが、神は私を玉座の主に据えた。
恍惚…
私は全てを手に入れた…
だが、これでは兄と同じだ。まだ先がある。偉業を刻むには不足だ。
私はまだ簒奪者なのだ。反対派を多く粛清し、圧政を敷いたが、それではまだ磐石な地位には至らない。
偉大な王として歴史に名を刻まねば、汚名は雪ぐ事はできない。
父王は失敗とはいえ、《勇者》を召喚した。
私にはそれ以上の偉業が求められる。兄と甥からの簒奪という汚名を打ち消す程の偉業が…
玉座の肘掛に肘を置き、頬杖を着いた。
見据える先はカナル運河の先の土地…
長くオークランドの親類のものであったが、それも変わった。
近しい他人の持ち物は、赤の他人のものになった。
それなら遠慮なく、力ずくで奪ったところで問題はなかろう…
私は貪欲を正当化した。
飽くことのない強欲が、この後ろめたい背を押し続けるのだ…
椅子の座り心地を確認して、玉座の間を後にした。
私は神聖オークランド王国の正しい王だ。
「テューダー公とワイズマン侯を私の部屋に呼べ」と近侍に命じ、自室に戻った。
✩.*˚
「テレーゼは?」出かけようとして彼女の姿が無いので探していた。
「あれ?会わなかった?彼女、学校行ったよ」と飛竜の雛とじゃれてるスーが答えた。
「知ってるなら何で止めねぇんだよ!」
悪阻は収まっていたが、少しずつお腹が膨らんできていた。
本人はあまり気に留めて無いようだが、見てるこっちはハラハラする。過保護と言われるが、大事にして何が悪い!
「大きな声出すなよ。アルマが驚くだろ?
ちゃんと約束通り馬車で行ったよ。
アンネとアーサーも一緒だから平気だ」とスーはやれやれと肩を竦めた。
「旦那様!何してるんですか?視察に出発しますよ!」
「ほら、ハンスが呼んでるよ。
今日は領内の視察だろ?遅れると帰るのが遅くなるんじゃないか?」とスーに送り出された。
シュミットやトゥルンバルトらが馬の用意をして待っていた。
「シュミット!学校に寄るぞ!」
「はいはい、時間が無いので最後ですね」と軽くあしらわれた。
「春になる前に領内の田園、牧草地、水路の確認、エインズワースの工房の用意もあるでしょう?
することは山ほどあるんですから、寄り道してる暇はありませんよ。
奥様なら大丈夫ですから、帰ってからお話し合いして下さい」
「まぁ、心配する気持ちも分からなくはありませんが、こればかりは男には何もできませんから待つしかありませんなぁ」とトゥルンバルトも苦笑いしている。
彼の妻も同じ頃に二人目の子供を授かっていた。順調に産まれれば、彼女が乳母を引き受けてくれる事になっていた。
「そういえば、侯爵様からのお手紙にはお返事したのですか?」
「したよ。ソーリューの船の件だろ?
春の第一月の二週目の吉日に出る船だ。もうすぐだな」
「また寂しくなりますな」とシュミットが呟いた。
「寂しがってる暇なんてないぜ。
傭兵団を立ち上げるんだ。忙しくなる」
「大ヴィンクラーもなかなか引退できませんね」とシュミットが馬の背で苦笑いした。
「ご老人は労るべきですよ」
「引退して暇にしてたらボケちまうよ。
ゲルトにもいい刺激だろ?それにしばらく大きな戦闘も無かったから雇い口ができて連中喜んでたぜ」
暇な奴らを幾らか引き連れて来るらしい。そいつらの住む所も用意してやらにゃいかん。
「それに俺の子も抱くと約束してるしな」と笑った。
「親父もゲルトと楽しみにしてる。元気な子を産んでもらわにゃ困る。
だから学校寄るぞ」
「だからそんな時間ありませんって」とシュミットは俺の話を一蹴した。ダメか…
「家宰殿が居て助かりましたよ。私では閣下に振り回されて予定通りに進まないところでした」とトゥルンバルトが笑っていた。
「本当に、手のかかる旦那様ですよ…」とボヤいてシュミットはヤレヤレと頭を振った。
✩.*˚
「《ありゅ》」
「そうだよ、アルマだ」とルドに飛竜の雛を見せてやった。まだ小さな飛竜の雛は、雛鳥のようにピヨピヨと可愛い声で鳴いて、ルドの手から餌を貰った。
「《ありゅ》かーいーね」と飛竜を撫でるルドはこの小さな友達を気に入ったようだ。
子供は新しいものをどんどん吸収する。
ケヴィンも興味があるようで、ちょこちょこアルマの小屋に顔を出していた。
「いいの?残飯なんかで?」とミアは言っていたが、野菜の切れ端や余った肉をやるとよく食べた。
「なんか鶏みたいね」
「成獣になるまで三、四年前かかるらしいよ。乗れるようになるのはまだ先だね」
「本当にこれに乗るの?危なくない?」
「そんなことないよ。馬と変わらないさ」と答えると、彼女は「ふーん」と言いながらアルマを撫でた。
指先で頭を撫でると、小さな飛竜はうっとりと目を閉じてミアの指先を受け入れた。
「ママ、《ありゅ》かーいーね」
「そうだね、かーいーね」とミアはルドの言葉に合わせて答えた。
忙しい彼女は、ルドと過ごせるちょっとした時間を大切にしていた。二人は幸せそうに視線を合わせて笑った。
「ルド、ママお仕事戻るね」と言ってミアは餌を入れて来た籠を持って立ち上がった。
「やー!」行かせまいとルドがミアのエプロンにしがみついた。
「いるー!ママァ!」
「ごめん、スー。ルドのことお願いね」彼女は困った顔でルドを俺に預けた。
ルドはまだ二歳にも届いていない。
近頃は自我が強くなってきて嫌がることが多くなった。これも成長らしいが、なかなか大変だ…
ルドはミアの姿を見ると後ろに着いて回る。見てる分には可愛いが、ミアは困っていた。
本当は手をかけてやりたいだろうが、仕事がある。そうも言っていられない。
泣きながら母親を求める姿は可哀想だった。
「ママ…ルド、やーなの?」幼児の呟きに驚いて目を見開いた。
目尻の垂れた目から涙が零れる。小さな身体を抱き締めた。
「違うよ…ルド、違うから…ミアは君の事大好きだ」
父親が居ないから、彼の分まで、ミアは働かないといけない。子供を養うために彼女は真面目に働いていた。養ってくれる相手を探しても良いのに、彼女がそうしない理由は分かってる…
まだ好きだから…
彼女がそれほどまでに愛した相手を失うきっかけを作ったのは俺だ…
「ごめんな、ルド…」
この子もいずれ、父親の事を知るだろう。
エルマーの死んだ理由を知ったら、ルドは俺の事をどう思うんだろう…
俺は、この二人にどうやって償えばいいのだろう?
彼女には俺の気持ちを伝えたが、それは図々しかったかもしれない。
答えなんて分からないまま、泣いてるルドの背を抱いた。
✩.*˚
時間はあっという間に過ぎた。
俺がブルームバルトを発つ日は着実に近づいていた。
「少し出かけてくる」とシュミット夫人に声を掛けて馬小屋に向かった。
「ソーリューどこ行くの?」馬を引き出した姿を見咎めて、ユリアが訊ねた。
「町に必要な物を買いに行く」
「ユリアも行きたい」と彼女は伴を申し出た。
あの月の晩から、彼女は俺の身の回りの世話を買って出ていた。母親がやっていたことを、小さいながらも頑張って健気にこなしていた。
「来るか?」と訊ねると彼女は顔を輝かせて頷いた。
「夫人の許可が出たら連れて行ってやる。
まだ寒いから上着も持ってこい」と言うと、彼女は慌てて「おかあさーん!」と駆け出していった。
暫くして、暖かい格好で戻って来た少女は嬉しそうな顔をしていた。
一緒に馬に乗って町に出た。小さな身体は湯たんぽの代わりに役に立った。
「ソーリュー寒くないの?」と手袋を履いてない手を見てユリアが訊ねた。
「慣れてる」と答えた俺に、ユリアは大きな瞳で見上げ、自分の手袋を片方外した。
「ユリアの手、暖かいでしょ?」と少女は冷たい俺の手に小さな手のひらを重ねた。
子供の温もりが冷たい手に沁みたが、それでは今度は彼女の指先が凍えてしまう。
「冷たいだろ?身体が冷える。手袋をしろ」
「うふふ」とユリアは嬉しそうに笑っていた。
「ソーリュー優しいね」
ユリアはそう呟いて、笑顔を見せた。寒さで赤くなった頬は少女を愛らしく見せていた。
「ユリアね」と彼女は勝手に語り始めた。
「ソーリューのこと大好きだよ。
だってかっこいいし、優しいもん。
一緒にお月様見たでしょ?おまじない効いたかな?ユリアのこと好きになってくれた?
ユリア、まだ子供だから…
ソーリューのお嫁さんにはなれないけど、ちょっとでも好きになって貰えたら…忘れないで貰えたら、我慢するから…」
「そうか…」
「嫌?」と訊ねる彼女に首を横に振って応えた。
「お前は美人だ。気立てもいい。嫁にするならそういう女がいい」と答えると彼女は頬を染めた。
「気持ちは嬉しいがな、俺はお前を嫁にもらう気はない。悪いが、他を探してくれ」
「…うん、分かってる…ユリア、子供だもんね…」
少女は寂しげにそう呟いて、あっさりと身を引いた。
「幸せにな、ユリア」
「うん。ありがとう、ソーリュー」幼い女はそう応えて黙った。繋いだ手から温もりだけ受け取った。
買い物のついでに、髪留めの櫛と手鏡を買ってやった。
エルマーの二番煎じのようだが、高価な装飾品では少女には似合わないし、親が心配するだろう。
少女は小鳥と花の意匠の髪飾りを喜んで着けた。
「ありがとう、ソーリュー!」
背中に少しかかるくらいの長さの髪を結い上げると、少女は少しだけ大人っぽくなった。
俺も礼を言わねばならん…
お前たちのおかげで、良い旅になった…
ただの人殺しではなく、多少は人らしく生きられた。
温もりとは良いものだな…
そう思いながら帰りの道、馬の背で少女の身体を抱きながら、その温もりを忘れぬように心に刻んだ。
✩.*˚
春告鳥が鳴いた。
ブルームバルトにも春が訪れ、鮮やかな緑と花々が芽吹き始めた。
そしてさよならの日はすぐにやって来た…
「世話になった」と短く告げて、ソーリューは最低限の荷物を馬に積んだ。
ずっと前から分かってた事なのに、いざこの時が来ると寂しいものだ。子供たちはソーリューとの別れを嘆いていた。
「足らないものはないか?」とワルターがソーリューに訊ねた。
「さすがに忘れもんはジュホンまで届けられねぇぞ」
「その必要は無い。残りは処分してくれ」とソーリューはいつも通り素っ気なく答えた。でもその姿は強がってるように見えた。
「達者でな」
「あぁ。お前もな」と二人はハグして別れを惜しんでいた。
「港まで見送ってやれなくてすまんな」
「構わん。通行証や侯爵の書状がある。
港までは、スーとトゥルンバルトが送ってくれるから問題ない」
「ソーリュー」とユリアが彼の袖を引いた。
「これ」とユリアは土に汚れた小さな麻袋をソーリューに差し出した。
「何だ?」と訊ねながら、ソーリューはユリアの手から袋を受け取った。
「リコリスの根っこ。帰ったら植えて」
「リコリス?」
「秋に絶対咲く白い花。
同じ時期に毎年咲くよ。咲いたら私たちの事思い出してね、絶対だよ」とユリアはソーリューに伝えた。
アーサーがどんな花か教えると、思い当たるものがあったらしい。「あぁ、あれか」と頷いていた。
「花言葉知りたいか?」とアーサーが訊ねた。
「いいの!アーサー!言わないで!」
ユリアが慌ててアーサーの袖を引いて黙らせた。
「ダメらしい」と肩を竦めた彼は「じゃあ、元気でな」と挨拶を残して去って行った。
ダメと言われると気になるな…後でこっそり聞いてみようかな…
ワルターはニヤニヤ笑っていたから、もしかしたら意味を知ってるのかもしれない。
「俺からもお前に渡すものがあってな。
荷物になるが持って帰れ」と言って、ワルターはソーリューに短剣を二振り手渡した。
「何だこれは?」
「お前の相棒だった奴だよ。
俺が勝手に拾って、エインズワースの親方に預けたら作り直してくれた。元には戻らなかったが、良いだろ?」
「…《カワセミ》」ソーリューが小さく呟いて短剣を鞘から抜いた。
彼の持っていた剣と同じ刃が煌めいた。
「礼を…」と呟く声は震えていた。嬉しかったのだろう。ずっと一緒に戦ってきた大切な相棒だ。
「伝えておくよ」とワルターは嬉しそうに応えてソーリューの肩を叩いた。
「無事に帰れる事を祈ってる。お前の事は忘れねぇよ」
「俺も忘れんよ、ワルター。
後はスーに任せた。扱き使ってくれ」
「もう十分扱き使われてるんだけどなぁ」と俺がボヤくとソーリューは目元だけで笑った。
「長く世話になった。良い父になれよ」
「お前にそれを言われると思わなかったよ」
「子供が産まれても、ルドやシュミット家の子供らを大事にしてくれ」
「当たり前だろ?皆大事な俺の家族だ」そう答えたワルターの傍らで、微笑んでいたテレーゼが口を開いた。
「ソーリュー様。子供たちは何があっても私が立派に育てます。いざとなったら持ち物を売ってでもこの子達の未来は守ります」
「お前よりしっかりしてる」とソーリューがワルターに言った。ワルターは「まぁな」と苦笑いした。
「ここは何も心配いらないようだ…」ソーリューは小さく笑って、安堵したような、寂しいような呟きを残した。
「もう行く」
「そうだな…随分引き止めちまったな…
元気でな、ソーリュー」
「あぁ」
「ソーリューおじさん!」ケヴィンが涙を拭いながら叫んだ。
「僕も強くなって皆を守るよ!おじさんみたいなるから!だから…僕らのこと忘れないで…」
ソーリューは答えなかったが優しい顔で頷いた。
そんな顔できたんだ…いつもの仏頂面はどこ行ったのさ?
ソーリューは馬の背に跨って、思い出したように、懐から銀色の光る何かを取り出してケヴィンに投げた。
「お前はしっかりワルターを見張っててくれ」
あの戦場で手に入れた戦利品の単眼鏡は、ケヴィンに渡った。
ケヴィンは「ありがとう、任せて」とソーリューに応えた。
ケヴィンの隣で、泣くまいと唇を噛んで堪えるユリアの姿があった。
幼い兄弟の傍らにはハンスが複雑な表情で立っている。
「行こう」と告げてソーリューは馬に合図した。ゆっくりと彼を乗せた馬が歩き出す。その後ろに荷物を乗せた馬が続いた。
「じゃぁ、頼んだぞ」とワルターが、俺とトゥルンバルトを送り出した。
ソーリューは一度も振り向かなかった。
春の心地よい風が、旅の門出を祝福するように背を押した。
✩.*˚
白いリコリスの花言葉は、《思うのはあなた一人》《また会う日を楽しみに》なの…
初恋の人は振り向きもせずに行ってしまった。
ユリアは子供だけど、悲しい花言葉は言わない方がいいって分かってる。
ソーリューの姿が見えなくなった。
ソーリューのこと、ちゃんと見送ったよ…だから…もういいかな…
我慢してた涙が溢れた。悲しくてその場に蹲った。
「ユリア…」お父さんが心配そうに抱き寄せて、大きな腕が私を抱き上げてくれた。
「偉かったな」と褒めてくれた。
空っぽになるまで泣いた。
その日はソーリューのくれた髪留めと手鏡を抱いて眠った。
あの日結んだクローバーは私の宝物だから、瓶に入れて残してある。
リコリス…見る度に私を思い出してね…
私も、ずっと覚えてるから…
✩.*˚
海と空が交わる水平線へ、カモメが滑るように飛び立っていく。
「海って初めて見たよ」とスーが驚いていた。
海を見るのは久々だ。海から吹き上げる風は懐かしい潮の匂いを届けた。
ゼーアドラーの港には沢山の大型の商船が並んでいる。皆一様に白い帆を畳んで、船を見分けるための旗を掲げている。
「ハフリ殿、ございましたよ」とトゥルンバルトが目的の船を見つけて教えた。
同じように白い帆を畳んだ船の船首には、乙女の姿をした人魚の像が飾られている。
「俺も乗ってみたいな」とスーが船を見上げて言っていたが、それは困る。 お前は残ってくれ。
トゥルンバルトが船員に船長の居場所を訊ねた。
「俺の《歌姫号》へようこそ、船長のベイルだ」と船を降りてきた男は海賊のようななりをしていた。
「へぇ、話には聞いてたが…本当にこんな所に《ジュホン人》がいるとはな…」
「よろしく頼む」と握手を差し出すと、彼はニッと笑って応じた。
「あいよ。俺も仕事はきちんとする男だ。
商人ってのは信用が一番大事なんでな」
「何を扱ってるんだ?」
「主に煙草だよ。フィーアの煙草は高く化けるんでな。その逆もありだ。あとは、香水とかアクセサリーとか、珍しそうなものを安く買って高く売る、真っ当な商人さ」と彼は答えた。
「あんたが到着するまでは天候が微妙だったが、いい感じに雲も消えた。風向きも良いし、天候が変わらないうちに出航したい」
「なるほど、承知した」
「あんたの荷物は?部下に手伝わせようか?」
「いや、これだけだ。自分らで十分だ」と荷物を乗せた馬を指さした。
「おいおい、随分遠慮したんだな?船室を一つ空けておいたんだぜ。そんなもんで良いのかい?」
「最低限でいい。必要なものがあれば寄港した時に店に寄らせてくれ」
「あんた随分シンプルな人間だな」と船長は驚いていた。
「だいたい、帰国ってなったら、どいつもこいつも馬鹿みたいに土産物を持って帰るもんだぜ。
あんたそんなんで良いのかい?」
「俺一人だ。大事なものは持っている。この荷物だけで十分だ」と答えると、彼は理解できないと言ったふうに頭を振って苦笑いを見せた。
彼は俺を船室に案内した。
狭い窓のない部屋だが、扉もあるし、寝床も用意されていた。
「狭くて息苦しいかもしれんが、これでも俺の船では最高のおもてなしだ。我慢してくれ」
「いや、一室用意してもらえるとは思っていなかった。感謝する」
船という限られた空間で部屋を与えられるとは、かなりの厚遇だ。
素直に感謝を述べると、彼は嬉しそうに笑った。見た目は賊のようだが快い人物のようだ。
「まあ、三、四ヶ月の船旅だ。仲良くしよう」と握手して、船長は翌日の出航の時間を伝えて去って行った。
残りの荷物を積んで、明日の朝一番で発つらしい。
「出航の時間までは好きにしててくれ」と言ってくれたので、一度船を降りた。
「ゼーアドラーの海鮮料理でも堪能しましょう」とトゥルンバルトが誘った。
「なかなか内地まで新鮮な魚介は届きませんからね」
「俺も食べてみたい」スーもトゥルンバルトに続いた。
活気のある港町の市を眺め、商店に並んだ珍しい鮮やかな色の魚にスーは驚いていた。
「海ってこんな色の魚が居るの?しかもデカいね!」
「もっと大きな魚もいる。船に乗ってるとイルカや他の海の動物も見れるぞ」
「あのカモメって鳥も初めて見た。まだ、知らないことばかりだ」スーはそう言いながら目を輝かせていた。
「エルマーは海辺の出身だと言ってたけど、この貝もこの海の生き物なのかな?」そう言いながらスーは首から提げた夜光貝の殻を取り出した。
「兄ちゃん珍しいもん持ってるな」と店の主人がスーに声をかけた。
「それ、夜光貝だろ?しかも東北の滑らかで硬い殻を作る種類の奴だ」そう言って主人は「土産物屋にそれを加工したのが売ってるぜ」と知り合いの土産屋を教えてくれたので立ち寄った。
「妻と奥様の土産に」とトゥルンバルトが青い硝子玉の首飾りを買い求めていた。硝子玉の中にもう一つ小さな硝子玉が見える。
「へぇ、綺麗だね」
「安産の御守りだそうです」
「俺もワルターに何か買っていこう」とスーも土産を眺めて煙草入れを手に取った。木製の筐体に螺鈿が施されている。
「これなんかどうかな?」
「煙草入れか?いいんじゃないか?」
「でも目移りするな…どれにしようかな…」
「何探してるんだい?」と店主が声をかけてきた。
「誰への土産かね?」と訊ねられてスーは「友達の」と答えた。
「それは良い品だよ。煙草呑みなら喜ぶだろうよ。木が煙草の風味を守ってくれるからね。船乗りにも人気の品だ。湿気にも強い。
ただ、土産にしてはちょっと値が張るよ。大銀三枚だ」
「じゃあ二つ貰うよ…いや、やっぱり四つにしてくれ」とスーは煙草入れを四つ買った。
「パウル様とアレクにもあげよう」と言っていた。
この男にかかれば侯爵や公子も友達なのだろう…
「お兄ちゃん、金払いが良いね。女の子にもモテそうだからこれオマケしてあげるよ」と店主は土産物の中から女物の首飾りを取ると包んでスーに渡した。
買い物を済ませ、海辺の街を歩いた。
潮風に背を押されながら、食事処に入った。
海の幸を楽しんで、店の給仕係が教えてくれた、丘の上の灯台に足を運んだ。
沈む夕陽が海と空を染め、白い壁の町は色を変えた。
赤と紫に続き、夜の藍色が空に広がる。
「星が見えてきたね」と目の良いスーが呟いた。
空の色が落ちるにつれ、月がくっきりと姿を見せた。
「先に宿に戻ってます」と言ってトゥルンバルトは先に帰って行った。
スーと二人で灯台の下で空を眺めた。
「なんか…まだしっくり来ないや」とスーが口を開いた。
「明日にはもう君は居ないんだね…」
「あぁ…本当にさよならだ…」
感慨深いものだ。
あれほど望んだ帰郷が、現実となると、今度は別れが辛くなる。長居し過ぎたせいだろう。俺は随分変わった…
「俺は思い上がった若者だった」と語り出した。
「俺の一族は傭兵みたいな生業をする一族でな。
子供の頃から人を殺すように育てられた…
自分で言うのもなんだが、俺はその中でも優秀な部類だった。同世代だけでなく、年上の奴らでも、俺より強いのは数える程しか居なかった」
語りながら懐からあの頬当てを取り出した。
傷だらけになった頬当てを指先で撫で、また月を眺めた。
「一族の中で一番偉い大爺様が、俺に外の世界を見てくるように勧めた。
実際、俺はあの狭い島国で学べる事は限られてるように思えたから、その勧めに応じて、武者修行として外の世界に向かった…
結果、俺は大して強くもないと知ったよ…
上には上がいる。若者のつまらん矜持は簡単にへし折れた。そして他から学ぶことを覚えた。
俺はそうしてまた少しずつ強くなれた…」
「だから君は強いんだな」とスーは小さく笑った。
「お前も、良いものを学べ。悪いことからも教訓を得ろ。自信を持つ事は良い事だが、油断はするな。
猜疑的になる必要は無いが、用心深いことはお前の身を守ることに繋がる。
お前は俺の一番弟子だ…」
「なんか最後の言葉みたいだ」
「まぁ、そんなものだ」と応えて苦笑いした。
歳をとると説教臭くなる。
若者に残す言葉はこれくらいにしておこう…
あまり語りすぎると鬱陶しがられる。年寄りの悪い所だ。
「これは片方お前にやる」と、相棒だった《翡翠》の片割れをスーに差し出した。
「良いのか?」
「俺には《叢雲祓》もある。《翡翠》も一本で十分だ。受け取ってくれ」
「…ありがとう」
「お前はまだ強くなる。
俺より、ワルターより強くなるはずだ。そして誰よりも長く生きて、あの子らも守ってくれると信じている」
「責任重大だ。なんか損だな」とスーは苦笑いしながら手を伸ばした。
スーは、俺の願いと共に《翡翠》の片割れを受け取った。彼に残して行くもの全てを託した。
もう思い残すことは何も無い。
灯台の丘を煌々と照らす月が見下ろしている。
雲は殆どない。明日は船出には良い日になるだろう…
✩.*˚
翌日、フィーア王国を発った祝師蒼竜は、半年後寿本国の《氷野岐》に帰郷を果たした。
その後、編纂した《異国放浪記》を《氷野岐》の領主源家に献じ、《祝師流蒼竜派》の祖として武術指南役として源家に仕えた。
彼は生涯独身を貫いたが、その一方で親のない子供らを屋敷で育て、多くの弟子をとった。
彼の屋敷は秋になると、庭に白く輝く彼岸花が咲き誇った。彼はそれを愛でながら子供らに御伽噺のような昔話を語った。
その弟子の中から、彼に憧れ、海に出る青年が現れるのはそれからずっと後の話となる。
《蒼馬・フォン・ヴェストファーレン》と呼ばれることになる青年の物語はいずれまた…
150年に一度、異世界から召喚される勇者が、アーケイイックフォレストの攻略に失敗した事に端を発し、長い時間と内乱を経て、私はこの玉座を手に入れた。
王の威厳を知らしめる特別な椅子は、長い間正しい主を待っていた。
先王であった兄は玉座というものを理解していなかった。
それがどれほど尊いものであり、力を持ち、神に近しいものであるかを理解していなかったのだ。
それに伴う責任もまるで理解してなかった…
嘆かわしいことだ…
誰も居ない玉座の間で、暫しその姿を眺めた。
一段しかない階段は、臣下と線を引くためのものだ。
この国で最も尊い豪奢な椅子に歩み寄り、身体を預けた。
この椅子を手に入れるために、兄を暗殺し、甥を亡き者にした。血は流れ、犠牲を強いられたが、神は私を玉座の主に据えた。
恍惚…
私は全てを手に入れた…
だが、これでは兄と同じだ。まだ先がある。偉業を刻むには不足だ。
私はまだ簒奪者なのだ。反対派を多く粛清し、圧政を敷いたが、それではまだ磐石な地位には至らない。
偉大な王として歴史に名を刻まねば、汚名は雪ぐ事はできない。
父王は失敗とはいえ、《勇者》を召喚した。
私にはそれ以上の偉業が求められる。兄と甥からの簒奪という汚名を打ち消す程の偉業が…
玉座の肘掛に肘を置き、頬杖を着いた。
見据える先はカナル運河の先の土地…
長くオークランドの親類のものであったが、それも変わった。
近しい他人の持ち物は、赤の他人のものになった。
それなら遠慮なく、力ずくで奪ったところで問題はなかろう…
私は貪欲を正当化した。
飽くことのない強欲が、この後ろめたい背を押し続けるのだ…
椅子の座り心地を確認して、玉座の間を後にした。
私は神聖オークランド王国の正しい王だ。
「テューダー公とワイズマン侯を私の部屋に呼べ」と近侍に命じ、自室に戻った。
✩.*˚
「テレーゼは?」出かけようとして彼女の姿が無いので探していた。
「あれ?会わなかった?彼女、学校行ったよ」と飛竜の雛とじゃれてるスーが答えた。
「知ってるなら何で止めねぇんだよ!」
悪阻は収まっていたが、少しずつお腹が膨らんできていた。
本人はあまり気に留めて無いようだが、見てるこっちはハラハラする。過保護と言われるが、大事にして何が悪い!
「大きな声出すなよ。アルマが驚くだろ?
ちゃんと約束通り馬車で行ったよ。
アンネとアーサーも一緒だから平気だ」とスーはやれやれと肩を竦めた。
「旦那様!何してるんですか?視察に出発しますよ!」
「ほら、ハンスが呼んでるよ。
今日は領内の視察だろ?遅れると帰るのが遅くなるんじゃないか?」とスーに送り出された。
シュミットやトゥルンバルトらが馬の用意をして待っていた。
「シュミット!学校に寄るぞ!」
「はいはい、時間が無いので最後ですね」と軽くあしらわれた。
「春になる前に領内の田園、牧草地、水路の確認、エインズワースの工房の用意もあるでしょう?
することは山ほどあるんですから、寄り道してる暇はありませんよ。
奥様なら大丈夫ですから、帰ってからお話し合いして下さい」
「まぁ、心配する気持ちも分からなくはありませんが、こればかりは男には何もできませんから待つしかありませんなぁ」とトゥルンバルトも苦笑いしている。
彼の妻も同じ頃に二人目の子供を授かっていた。順調に産まれれば、彼女が乳母を引き受けてくれる事になっていた。
「そういえば、侯爵様からのお手紙にはお返事したのですか?」
「したよ。ソーリューの船の件だろ?
春の第一月の二週目の吉日に出る船だ。もうすぐだな」
「また寂しくなりますな」とシュミットが呟いた。
「寂しがってる暇なんてないぜ。
傭兵団を立ち上げるんだ。忙しくなる」
「大ヴィンクラーもなかなか引退できませんね」とシュミットが馬の背で苦笑いした。
「ご老人は労るべきですよ」
「引退して暇にしてたらボケちまうよ。
ゲルトにもいい刺激だろ?それにしばらく大きな戦闘も無かったから雇い口ができて連中喜んでたぜ」
暇な奴らを幾らか引き連れて来るらしい。そいつらの住む所も用意してやらにゃいかん。
「それに俺の子も抱くと約束してるしな」と笑った。
「親父もゲルトと楽しみにしてる。元気な子を産んでもらわにゃ困る。
だから学校寄るぞ」
「だからそんな時間ありませんって」とシュミットは俺の話を一蹴した。ダメか…
「家宰殿が居て助かりましたよ。私では閣下に振り回されて予定通りに進まないところでした」とトゥルンバルトが笑っていた。
「本当に、手のかかる旦那様ですよ…」とボヤいてシュミットはヤレヤレと頭を振った。
✩.*˚
「《ありゅ》」
「そうだよ、アルマだ」とルドに飛竜の雛を見せてやった。まだ小さな飛竜の雛は、雛鳥のようにピヨピヨと可愛い声で鳴いて、ルドの手から餌を貰った。
「《ありゅ》かーいーね」と飛竜を撫でるルドはこの小さな友達を気に入ったようだ。
子供は新しいものをどんどん吸収する。
ケヴィンも興味があるようで、ちょこちょこアルマの小屋に顔を出していた。
「いいの?残飯なんかで?」とミアは言っていたが、野菜の切れ端や余った肉をやるとよく食べた。
「なんか鶏みたいね」
「成獣になるまで三、四年前かかるらしいよ。乗れるようになるのはまだ先だね」
「本当にこれに乗るの?危なくない?」
「そんなことないよ。馬と変わらないさ」と答えると、彼女は「ふーん」と言いながらアルマを撫でた。
指先で頭を撫でると、小さな飛竜はうっとりと目を閉じてミアの指先を受け入れた。
「ママ、《ありゅ》かーいーね」
「そうだね、かーいーね」とミアはルドの言葉に合わせて答えた。
忙しい彼女は、ルドと過ごせるちょっとした時間を大切にしていた。二人は幸せそうに視線を合わせて笑った。
「ルド、ママお仕事戻るね」と言ってミアは餌を入れて来た籠を持って立ち上がった。
「やー!」行かせまいとルドがミアのエプロンにしがみついた。
「いるー!ママァ!」
「ごめん、スー。ルドのことお願いね」彼女は困った顔でルドを俺に預けた。
ルドはまだ二歳にも届いていない。
近頃は自我が強くなってきて嫌がることが多くなった。これも成長らしいが、なかなか大変だ…
ルドはミアの姿を見ると後ろに着いて回る。見てる分には可愛いが、ミアは困っていた。
本当は手をかけてやりたいだろうが、仕事がある。そうも言っていられない。
泣きながら母親を求める姿は可哀想だった。
「ママ…ルド、やーなの?」幼児の呟きに驚いて目を見開いた。
目尻の垂れた目から涙が零れる。小さな身体を抱き締めた。
「違うよ…ルド、違うから…ミアは君の事大好きだ」
父親が居ないから、彼の分まで、ミアは働かないといけない。子供を養うために彼女は真面目に働いていた。養ってくれる相手を探しても良いのに、彼女がそうしない理由は分かってる…
まだ好きだから…
彼女がそれほどまでに愛した相手を失うきっかけを作ったのは俺だ…
「ごめんな、ルド…」
この子もいずれ、父親の事を知るだろう。
エルマーの死んだ理由を知ったら、ルドは俺の事をどう思うんだろう…
俺は、この二人にどうやって償えばいいのだろう?
彼女には俺の気持ちを伝えたが、それは図々しかったかもしれない。
答えなんて分からないまま、泣いてるルドの背を抱いた。
✩.*˚
時間はあっという間に過ぎた。
俺がブルームバルトを発つ日は着実に近づいていた。
「少し出かけてくる」とシュミット夫人に声を掛けて馬小屋に向かった。
「ソーリューどこ行くの?」馬を引き出した姿を見咎めて、ユリアが訊ねた。
「町に必要な物を買いに行く」
「ユリアも行きたい」と彼女は伴を申し出た。
あの月の晩から、彼女は俺の身の回りの世話を買って出ていた。母親がやっていたことを、小さいながらも頑張って健気にこなしていた。
「来るか?」と訊ねると彼女は顔を輝かせて頷いた。
「夫人の許可が出たら連れて行ってやる。
まだ寒いから上着も持ってこい」と言うと、彼女は慌てて「おかあさーん!」と駆け出していった。
暫くして、暖かい格好で戻って来た少女は嬉しそうな顔をしていた。
一緒に馬に乗って町に出た。小さな身体は湯たんぽの代わりに役に立った。
「ソーリュー寒くないの?」と手袋を履いてない手を見てユリアが訊ねた。
「慣れてる」と答えた俺に、ユリアは大きな瞳で見上げ、自分の手袋を片方外した。
「ユリアの手、暖かいでしょ?」と少女は冷たい俺の手に小さな手のひらを重ねた。
子供の温もりが冷たい手に沁みたが、それでは今度は彼女の指先が凍えてしまう。
「冷たいだろ?身体が冷える。手袋をしろ」
「うふふ」とユリアは嬉しそうに笑っていた。
「ソーリュー優しいね」
ユリアはそう呟いて、笑顔を見せた。寒さで赤くなった頬は少女を愛らしく見せていた。
「ユリアね」と彼女は勝手に語り始めた。
「ソーリューのこと大好きだよ。
だってかっこいいし、優しいもん。
一緒にお月様見たでしょ?おまじない効いたかな?ユリアのこと好きになってくれた?
ユリア、まだ子供だから…
ソーリューのお嫁さんにはなれないけど、ちょっとでも好きになって貰えたら…忘れないで貰えたら、我慢するから…」
「そうか…」
「嫌?」と訊ねる彼女に首を横に振って応えた。
「お前は美人だ。気立てもいい。嫁にするならそういう女がいい」と答えると彼女は頬を染めた。
「気持ちは嬉しいがな、俺はお前を嫁にもらう気はない。悪いが、他を探してくれ」
「…うん、分かってる…ユリア、子供だもんね…」
少女は寂しげにそう呟いて、あっさりと身を引いた。
「幸せにな、ユリア」
「うん。ありがとう、ソーリュー」幼い女はそう応えて黙った。繋いだ手から温もりだけ受け取った。
買い物のついでに、髪留めの櫛と手鏡を買ってやった。
エルマーの二番煎じのようだが、高価な装飾品では少女には似合わないし、親が心配するだろう。
少女は小鳥と花の意匠の髪飾りを喜んで着けた。
「ありがとう、ソーリュー!」
背中に少しかかるくらいの長さの髪を結い上げると、少女は少しだけ大人っぽくなった。
俺も礼を言わねばならん…
お前たちのおかげで、良い旅になった…
ただの人殺しではなく、多少は人らしく生きられた。
温もりとは良いものだな…
そう思いながら帰りの道、馬の背で少女の身体を抱きながら、その温もりを忘れぬように心に刻んだ。
✩.*˚
春告鳥が鳴いた。
ブルームバルトにも春が訪れ、鮮やかな緑と花々が芽吹き始めた。
そしてさよならの日はすぐにやって来た…
「世話になった」と短く告げて、ソーリューは最低限の荷物を馬に積んだ。
ずっと前から分かってた事なのに、いざこの時が来ると寂しいものだ。子供たちはソーリューとの別れを嘆いていた。
「足らないものはないか?」とワルターがソーリューに訊ねた。
「さすがに忘れもんはジュホンまで届けられねぇぞ」
「その必要は無い。残りは処分してくれ」とソーリューはいつも通り素っ気なく答えた。でもその姿は強がってるように見えた。
「達者でな」
「あぁ。お前もな」と二人はハグして別れを惜しんでいた。
「港まで見送ってやれなくてすまんな」
「構わん。通行証や侯爵の書状がある。
港までは、スーとトゥルンバルトが送ってくれるから問題ない」
「ソーリュー」とユリアが彼の袖を引いた。
「これ」とユリアは土に汚れた小さな麻袋をソーリューに差し出した。
「何だ?」と訊ねながら、ソーリューはユリアの手から袋を受け取った。
「リコリスの根っこ。帰ったら植えて」
「リコリス?」
「秋に絶対咲く白い花。
同じ時期に毎年咲くよ。咲いたら私たちの事思い出してね、絶対だよ」とユリアはソーリューに伝えた。
アーサーがどんな花か教えると、思い当たるものがあったらしい。「あぁ、あれか」と頷いていた。
「花言葉知りたいか?」とアーサーが訊ねた。
「いいの!アーサー!言わないで!」
ユリアが慌ててアーサーの袖を引いて黙らせた。
「ダメらしい」と肩を竦めた彼は「じゃあ、元気でな」と挨拶を残して去って行った。
ダメと言われると気になるな…後でこっそり聞いてみようかな…
ワルターはニヤニヤ笑っていたから、もしかしたら意味を知ってるのかもしれない。
「俺からもお前に渡すものがあってな。
荷物になるが持って帰れ」と言って、ワルターはソーリューに短剣を二振り手渡した。
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「お前の相棒だった奴だよ。
俺が勝手に拾って、エインズワースの親方に預けたら作り直してくれた。元には戻らなかったが、良いだろ?」
「…《カワセミ》」ソーリューが小さく呟いて短剣を鞘から抜いた。
彼の持っていた剣と同じ刃が煌めいた。
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「伝えておくよ」とワルターは嬉しそうに応えてソーリューの肩を叩いた。
「無事に帰れる事を祈ってる。お前の事は忘れねぇよ」
「俺も忘れんよ、ワルター。
後はスーに任せた。扱き使ってくれ」
「もう十分扱き使われてるんだけどなぁ」と俺がボヤくとソーリューは目元だけで笑った。
「長く世話になった。良い父になれよ」
「お前にそれを言われると思わなかったよ」
「子供が産まれても、ルドやシュミット家の子供らを大事にしてくれ」
「当たり前だろ?皆大事な俺の家族だ」そう答えたワルターの傍らで、微笑んでいたテレーゼが口を開いた。
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「お前よりしっかりしてる」とソーリューがワルターに言った。ワルターは「まぁな」と苦笑いした。
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「そうだな…随分引き止めちまったな…
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「あぁ」
「ソーリューおじさん!」ケヴィンが涙を拭いながら叫んだ。
「僕も強くなって皆を守るよ!おじさんみたいなるから!だから…僕らのこと忘れないで…」
ソーリューは答えなかったが優しい顔で頷いた。
そんな顔できたんだ…いつもの仏頂面はどこ行ったのさ?
ソーリューは馬の背に跨って、思い出したように、懐から銀色の光る何かを取り出してケヴィンに投げた。
「お前はしっかりワルターを見張っててくれ」
あの戦場で手に入れた戦利品の単眼鏡は、ケヴィンに渡った。
ケヴィンは「ありがとう、任せて」とソーリューに応えた。
ケヴィンの隣で、泣くまいと唇を噛んで堪えるユリアの姿があった。
幼い兄弟の傍らにはハンスが複雑な表情で立っている。
「行こう」と告げてソーリューは馬に合図した。ゆっくりと彼を乗せた馬が歩き出す。その後ろに荷物を乗せた馬が続いた。
「じゃぁ、頼んだぞ」とワルターが、俺とトゥルンバルトを送り出した。
ソーリューは一度も振り向かなかった。
春の心地よい風が、旅の門出を祝福するように背を押した。
✩.*˚
白いリコリスの花言葉は、《思うのはあなた一人》《また会う日を楽しみに》なの…
初恋の人は振り向きもせずに行ってしまった。
ユリアは子供だけど、悲しい花言葉は言わない方がいいって分かってる。
ソーリューの姿が見えなくなった。
ソーリューのこと、ちゃんと見送ったよ…だから…もういいかな…
我慢してた涙が溢れた。悲しくてその場に蹲った。
「ユリア…」お父さんが心配そうに抱き寄せて、大きな腕が私を抱き上げてくれた。
「偉かったな」と褒めてくれた。
空っぽになるまで泣いた。
その日はソーリューのくれた髪留めと手鏡を抱いて眠った。
あの日結んだクローバーは私の宝物だから、瓶に入れて残してある。
リコリス…見る度に私を思い出してね…
私も、ずっと覚えてるから…
✩.*˚
海と空が交わる水平線へ、カモメが滑るように飛び立っていく。
「海って初めて見たよ」とスーが驚いていた。
海を見るのは久々だ。海から吹き上げる風は懐かしい潮の匂いを届けた。
ゼーアドラーの港には沢山の大型の商船が並んでいる。皆一様に白い帆を畳んで、船を見分けるための旗を掲げている。
「ハフリ殿、ございましたよ」とトゥルンバルトが目的の船を見つけて教えた。
同じように白い帆を畳んだ船の船首には、乙女の姿をした人魚の像が飾られている。
「俺も乗ってみたいな」とスーが船を見上げて言っていたが、それは困る。 お前は残ってくれ。
トゥルンバルトが船員に船長の居場所を訊ねた。
「俺の《歌姫号》へようこそ、船長のベイルだ」と船を降りてきた男は海賊のようななりをしていた。
「へぇ、話には聞いてたが…本当にこんな所に《ジュホン人》がいるとはな…」
「よろしく頼む」と握手を差し出すと、彼はニッと笑って応じた。
「あいよ。俺も仕事はきちんとする男だ。
商人ってのは信用が一番大事なんでな」
「何を扱ってるんだ?」
「主に煙草だよ。フィーアの煙草は高く化けるんでな。その逆もありだ。あとは、香水とかアクセサリーとか、珍しそうなものを安く買って高く売る、真っ当な商人さ」と彼は答えた。
「あんたが到着するまでは天候が微妙だったが、いい感じに雲も消えた。風向きも良いし、天候が変わらないうちに出航したい」
「なるほど、承知した」
「あんたの荷物は?部下に手伝わせようか?」
「いや、これだけだ。自分らで十分だ」と荷物を乗せた馬を指さした。
「おいおい、随分遠慮したんだな?船室を一つ空けておいたんだぜ。そんなもんで良いのかい?」
「最低限でいい。必要なものがあれば寄港した時に店に寄らせてくれ」
「あんた随分シンプルな人間だな」と船長は驚いていた。
「だいたい、帰国ってなったら、どいつもこいつも馬鹿みたいに土産物を持って帰るもんだぜ。
あんたそんなんで良いのかい?」
「俺一人だ。大事なものは持っている。この荷物だけで十分だ」と答えると、彼は理解できないと言ったふうに頭を振って苦笑いを見せた。
彼は俺を船室に案内した。
狭い窓のない部屋だが、扉もあるし、寝床も用意されていた。
「狭くて息苦しいかもしれんが、これでも俺の船では最高のおもてなしだ。我慢してくれ」
「いや、一室用意してもらえるとは思っていなかった。感謝する」
船という限られた空間で部屋を与えられるとは、かなりの厚遇だ。
素直に感謝を述べると、彼は嬉しそうに笑った。見た目は賊のようだが快い人物のようだ。
「まあ、三、四ヶ月の船旅だ。仲良くしよう」と握手して、船長は翌日の出航の時間を伝えて去って行った。
残りの荷物を積んで、明日の朝一番で発つらしい。
「出航の時間までは好きにしててくれ」と言ってくれたので、一度船を降りた。
「ゼーアドラーの海鮮料理でも堪能しましょう」とトゥルンバルトが誘った。
「なかなか内地まで新鮮な魚介は届きませんからね」
「俺も食べてみたい」スーもトゥルンバルトに続いた。
活気のある港町の市を眺め、商店に並んだ珍しい鮮やかな色の魚にスーは驚いていた。
「海ってこんな色の魚が居るの?しかもデカいね!」
「もっと大きな魚もいる。船に乗ってるとイルカや他の海の動物も見れるぞ」
「あのカモメって鳥も初めて見た。まだ、知らないことばかりだ」スーはそう言いながら目を輝かせていた。
「エルマーは海辺の出身だと言ってたけど、この貝もこの海の生き物なのかな?」そう言いながらスーは首から提げた夜光貝の殻を取り出した。
「兄ちゃん珍しいもん持ってるな」と店の主人がスーに声をかけた。
「それ、夜光貝だろ?しかも東北の滑らかで硬い殻を作る種類の奴だ」そう言って主人は「土産物屋にそれを加工したのが売ってるぜ」と知り合いの土産屋を教えてくれたので立ち寄った。
「妻と奥様の土産に」とトゥルンバルトが青い硝子玉の首飾りを買い求めていた。硝子玉の中にもう一つ小さな硝子玉が見える。
「へぇ、綺麗だね」
「安産の御守りだそうです」
「俺もワルターに何か買っていこう」とスーも土産を眺めて煙草入れを手に取った。木製の筐体に螺鈿が施されている。
「これなんかどうかな?」
「煙草入れか?いいんじゃないか?」
「でも目移りするな…どれにしようかな…」
「何探してるんだい?」と店主が声をかけてきた。
「誰への土産かね?」と訊ねられてスーは「友達の」と答えた。
「それは良い品だよ。煙草呑みなら喜ぶだろうよ。木が煙草の風味を守ってくれるからね。船乗りにも人気の品だ。湿気にも強い。
ただ、土産にしてはちょっと値が張るよ。大銀三枚だ」
「じゃあ二つ貰うよ…いや、やっぱり四つにしてくれ」とスーは煙草入れを四つ買った。
「パウル様とアレクにもあげよう」と言っていた。
この男にかかれば侯爵や公子も友達なのだろう…
「お兄ちゃん、金払いが良いね。女の子にもモテそうだからこれオマケしてあげるよ」と店主は土産物の中から女物の首飾りを取ると包んでスーに渡した。
買い物を済ませ、海辺の街を歩いた。
潮風に背を押されながら、食事処に入った。
海の幸を楽しんで、店の給仕係が教えてくれた、丘の上の灯台に足を運んだ。
沈む夕陽が海と空を染め、白い壁の町は色を変えた。
赤と紫に続き、夜の藍色が空に広がる。
「星が見えてきたね」と目の良いスーが呟いた。
空の色が落ちるにつれ、月がくっきりと姿を見せた。
「先に宿に戻ってます」と言ってトゥルンバルトは先に帰って行った。
スーと二人で灯台の下で空を眺めた。
「なんか…まだしっくり来ないや」とスーが口を開いた。
「明日にはもう君は居ないんだね…」
「あぁ…本当にさよならだ…」
感慨深いものだ。
あれほど望んだ帰郷が、現実となると、今度は別れが辛くなる。長居し過ぎたせいだろう。俺は随分変わった…
「俺は思い上がった若者だった」と語り出した。
「俺の一族は傭兵みたいな生業をする一族でな。
子供の頃から人を殺すように育てられた…
自分で言うのもなんだが、俺はその中でも優秀な部類だった。同世代だけでなく、年上の奴らでも、俺より強いのは数える程しか居なかった」
語りながら懐からあの頬当てを取り出した。
傷だらけになった頬当てを指先で撫で、また月を眺めた。
「一族の中で一番偉い大爺様が、俺に外の世界を見てくるように勧めた。
実際、俺はあの狭い島国で学べる事は限られてるように思えたから、その勧めに応じて、武者修行として外の世界に向かった…
結果、俺は大して強くもないと知ったよ…
上には上がいる。若者のつまらん矜持は簡単にへし折れた。そして他から学ぶことを覚えた。
俺はそうしてまた少しずつ強くなれた…」
「だから君は強いんだな」とスーは小さく笑った。
「お前も、良いものを学べ。悪いことからも教訓を得ろ。自信を持つ事は良い事だが、油断はするな。
猜疑的になる必要は無いが、用心深いことはお前の身を守ることに繋がる。
お前は俺の一番弟子だ…」
「なんか最後の言葉みたいだ」
「まぁ、そんなものだ」と応えて苦笑いした。
歳をとると説教臭くなる。
若者に残す言葉はこれくらいにしておこう…
あまり語りすぎると鬱陶しがられる。年寄りの悪い所だ。
「これは片方お前にやる」と、相棒だった《翡翠》の片割れをスーに差し出した。
「良いのか?」
「俺には《叢雲祓》もある。《翡翠》も一本で十分だ。受け取ってくれ」
「…ありがとう」
「お前はまだ強くなる。
俺より、ワルターより強くなるはずだ。そして誰よりも長く生きて、あの子らも守ってくれると信じている」
「責任重大だ。なんか損だな」とスーは苦笑いしながら手を伸ばした。
スーは、俺の願いと共に《翡翠》の片割れを受け取った。彼に残して行くもの全てを託した。
もう思い残すことは何も無い。
灯台の丘を煌々と照らす月が見下ろしている。
雲は殆どない。明日は船出には良い日になるだろう…
✩.*˚
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