燕の軌跡

猫絵師

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扇子

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不気味だった。

今朝の定例報告でもオークランドが仕掛けてくる気配はなかった。

20年ほど前に、異世界から召喚した《勇者》を失ってからというもの、あの国はどうもおかしくなっていた。

「引き続き警戒せよ」と指示を出し、近侍のバルテルを伴い、臥せっている妻の元に向かった。

「パウル様」

少し痩せた夫人が病床から見舞った私を迎えた。

ヴォルフラムを亡くしてから彼女は鬱を患ってしまっていた。

元より責任感が強く、慈愛に富んだ女性だ。彼女は息子を救えなかった事を深く悔やんでいた。

「ガブリエラ、体調はどうだ?」

見舞った私に、彼女は「このような姿で申し訳ございません」と詫びた。

「少しずつ良くはなっています。

新年会までには整えますのでお許しください」

「よい、養生せよ」と彼女の手を握った。

もう彼女との子は望めない。

彼女は私より五歳も年上で、子を産むには不向きな体質だった。

それでも彼女との間に四人の子を為したが、一人は死産で、ヴォルフラムは最近亡くなった。

残っているのはアレクシスと彼の姉のフロレンツィアの二人だけだ。あの二人が健康なのが唯一の救いだった。

「アレクシスは元気にしておりますか?」と彼女は残された息子を案じていた。

「うむ。案ずるな、君よりは元気だ。良い乳兄弟を持ったおかげで、第一公子の重責にも耐えている。バルツァーもあの子を良く支えてくれている」

その言葉に安心したように、彼女は穏やかな笑みを見せた。

親が決めた許嫁同士だったが、彼女のおおらかさは私にとって心地よいものだった。

二人目の子供を死産した際に、彼女は私に《妾》を取るように勧めた。

ヴェルフェルの血筋が途切れることはなくても、私の子が続かなければ後継問題が浮上する。

そうでなくとも、他家との縁組や政治を円滑に進めるためにはどうしても子供が必要だった。

父上は快く思わなかったようだが、気がつけば彼女の勧めで十人もの《妾》を抱えていた。数人は子を為して若くして亡くなったが、子供には多く恵まれた。

私が自分で望んだ《妾》はただの一人だけだ。

しかしそれがガブリエラを深く傷付けた。

ユーディット・フォン・ロンメル。

ヘルゲン子爵家に仕える下級騎士の娘で、行儀見習いの侍女として彼女に仕えていた。

若く美しい彼女に惚れ込んで、妻に《妾》として傍に置きたいと申し入れたが、彼女は珍しく嫉妬した。

今まで一度もそんなことは無かったのに、私が自分からガブリエラ以外の女性を選んだという事実に、彼女は嫉妬したのだ。

難色を示す妻に『今いる《妾》全員に暇を出してでも彼女が欲しい』と我儘を言うと、彼女は渋々譲ってくれた。

しかし、その一方で、私の軽はずみな発言が、ユーディットの立場を悪くした。そして、後に産まれるテレーゼの立場も…

他の《妾》たちから邪険にされながらも、俯かず顔を上げ、背中を真っ直ぐに気丈に振る舞う彼女は、心労から肺を患い、幼いテレーゼを遺して逝ってしまった。

私たち夫婦が、ユーディットを死なせてしまった…

後悔から、私たちは幼いテレーゼと関わることを恐れた。

良いものを与え、立派な教師をつけ、ささやかな罪滅ぼしをしながらも向き合うことは無かった。

城の隅で、目立たぬようにひっそりと過ごす少女を、異母兄弟姉妹は意地悪く仲間外れにしていた。

異母兄弟の中で唯一、アレクシスだけがテレーゼを妹のように扱った。

アレクシスは良い子だ。

温和や温厚な類いでは無いが、正義感が強く愛情深い。やや冷静さには欠けるが、熱のある真っ直ぐな男に育った。

『父上!テレーゼを傭兵に与えるなど、私は反対です!』と憤然としながらアレクシスはクルーガーとの縁談に意を唱えた。

アレクシスは、私が譲らないと伝えても、しつこく説得しに来た。今思えば、私の怒りを買うかもしれないのに、健気に妹を思って行動する姿は兄の鏡だったろう。

もう少し冷静さを身につけて欲しいが、それはまだ難しそうだ…

まだ幼さが見立つが、弟のコンラートの元で政治や軍事を学ばせている。

あの子は必ず良い侯爵になる…そう信じたい…

「ガブリエラ、君はヴェルフェル家の母で、素晴らしい女性だ。私にはまだ君が必要だ」と言って彼女の手を強く握った。柔らかく握り返す手に彼女を感じた。

「私一人では侯爵は重すぎる。

私の傍で共に荷を負ってくれる人が必要だ」

「あらあら、大きな坊やですね…」彼女はそう言って笑った。

初めて出会った時のように、彼女は私を子供扱いした。

7歳と12歳の許嫁は春の庭で初めて顔を合わせた。

年上の彼女が常に私をリードした。

大人になっても変わらず、子供の抜けない私を見て、彼女は笑いながら道を示した。

戦で不在がちの家を預かり、女主人として彼女は常に私を支えてきた。

幾年月を経て、私たちは共に年を取った…

まだこの先もあるはずだ。

「宮中の新年会まで日はある。養生せよ。

君でなければ私の隣は埋まらないのでな。よろしく頼む」

「名誉ある大役ですわ。誰にも譲れませんわね」

彼女はそう言って、乙女のようにふふっと笑った。

✩.*˚

「奥様、大丈夫ですか?」と訊ねるアンネに「ええ」と頷いた。

馬車を途中で降りて宿に泊まった。

キレイな佇まいの宿を選んでくれたのは私たちの為だろう。

月のものは相変わらずまだだったが、あまり先送りにすると冬になってしまう。先方にもご迷惑になる。

シュミット夫人に知恵をもらって、アンネに伴してもらうことにした。

「ドライファッハは温泉が有名なんだ。

少し足を伸ばしたら良い湯治場がある。帰りに寄ろう」とワルター様はご機嫌だったが、困ったな…

「何それ?俺も行ったことないよ」

「僕も温泉初めて!」

スー様とケヴィンが楽しみにしてる姿を見ると、月のものが来てないとも言い出しづらい…

来たら来たで仕方ないと腹を括っていると、従者として同行していたアーサーが馬と馬車を預けて戻ってきた。

スー様も以前のようにアーサーを拒否することは無くなっていたが、相変わらず微妙な距離を保っていた。

「お疲れ様です、アーサー」と彼を労った。

「勿体ないお言葉で…」と彼は謙遜に応えた。彼は良家の子息とは思えないほどよく働いてくれる。

「部屋が三つしか空いてなかった」とフロントで話しをつけていたワルター様が鍵を持って戻ってきた。

「アンネ、ケヴィンと同じ部屋でもいいか?」

「はい」と頷いてアンネが鍵を預かる。

「お前ら二人な」とワルター様がスー様とアーサーを指さして、鍵を投げた。アーサーの手に鍵が収まる。

「はぁ?!」分かりやすいスー様の反応に、ワルター様もアーサーも苦笑いをしてる。

「お前、アンネと寝る気か?勘弁してくれよ…」

「違う!ケヴィンと寝る!」

「そしたらアーサーとアンネが同室になるだろうが?」

「ワルターとアーサーが一緒に寝ればいいじゃないか!」

「やだね、俺はテレーゼと寝るんだ!コレは譲らんぞ!」とワルター様は私を腕の中に引き寄せた。

「このっ…愛妻家!」

「…それは…悪口か?」拍子抜けしたような、ポカンとした表情でワルター様が訊ねた。アーサーは咳き込む振りをして笑いを誤魔化している

私が居るから悪口を控えたのか、スー様の中途半端な悪口に、アンネと二人顔を見合わせて笑った。可愛い。

「俺ならアイリスと寝るよ」とアーサーは鍵をスー様に投げた。

「俺も寝るなら別嬪さんとの方が良いんでね」と言い残して、彼はまた来た道を戻って行ってしまった。

拗ねた顔の青年が、手のひらに乗った鍵を黙って見つめていた。

✩.*˚

「ふぅ…」馬房に歓迎してくれたアイリスの傍らに腰を下ろした。彼女は子馬にでも寄り添うように傍に膝を折った。

頑固だな…

いつも睨んでくる菫色の瞳を思い出した。

勝気な気の強い瞳に、艶やかな黒髪の美しい青年はなかなか心を許してはくれなかった。

話しかけても挨拶すら受け入れてくれない。

近頃は突っかかってくることは無くなったが、それでもギスギスした空気はそのままだ。

そんなにオークランドが嫌いかね…

またため息を吐いた俺の顔を、アイリスが長いまつ毛の澄んだ瞳で覗き込んだ。

大丈夫?と心配してくれる彼女の首元を叩いて、大丈夫、と応えた。

俺はオークランド人で、フェルトンだ…

この肩書きは生まれ変わるまで変わらない。

人の心は、壁の色を塗り替えるように簡単にはいかないと知っている。それでも拒否し続ける彼の態度は堪えた。

何をどうしたらいい?

割と人付き合いは得意なのだがな…

つまらない感傷に浸っていると、柱をノックする音で顔を上げた。

「話がある」とぶっきらぼうに呟いた青年は、視線も合わさずに馬の寝藁の上に腰を下ろした。

彼から来るなんて珍しい…ロンメル夫妻に言われたのだろうか?

「…俺の事、ワルターから聞いてるか?」と彼は訊ねた。

「いや…俺の事が嫌いという以外ほとんど何も知らんよ」と答えた。詮索する気もない。俺自身、探られていい過去なんて無い。

「じゃあ教えてやるよ」と言って彼はいつも下ろしていた髪を掻き上げて耳元を晒した。

人のとは違う耳が晒された。

「俺はハーフエルフだ」

「…ハーフエルフ?」その容姿でか?と耳を疑った。

エルフの黒髪は見た事も聞いたこともない。

奴隷のエルフは何度か見たことがあるが、黒髪もハーフエルフも見たことがなかった。かなりの希少な存在であることは間違いなかった。

俺の驚いた表情を見て、彼は鼻で笑った。

「驚いた?珍しいもん見た気分はどうだよ?」と皮肉っぽく言って彼は髪を下ろした。

「…すまん。初めて見たもんで…」

「ふん」彼は不愉快そうに鼻を鳴らして、干し草の山に身を預けた。

「オークランド人が…俺にした事教えてやる…」と言って、ポツリポツリと途切れながら彼は話し始めた。

吐き気のするような嫌な話に、嫌悪を覚えた。

言葉を失った俺を、美しい青年は怒りを含んだ瞳で睨んだ。

「何だよ?あんたも俺を女の代わりみたいに扱うか?」皮肉っぽく語る彼は傷付いていた。自ら晒した傷跡はいびつに歪む心を作るに事足りた。

「…すまん」

「『俺には関係ない』ってくらい言えよ」そう吐き捨てた青年は、泣くのを堪えるように腕で目元を覆った。

「あんたが嫌な奴だったら…俺はずっと楽だったんだ…

あんたを嫌いになれた…俺だって、こんなに無様な嫌な奴にならなくて済んだのにさ…」

随分複雑な感情を隠してたようだ。

「すまん」と謝ると「うるさい」と返事が帰ってくる。黙った。すると今度は「なんか言えよ」と言う。

苦笑いが漏れた。

この青年はどうにも俺を嫌な奴に仕立てたいらしい。

「…俺は…オークランド人でフェルトンっていうんだ」

「…何だよ急に?」急に語り出した俺に、スペースは怪訝そうに訊ねた。

「フェルトンは代々伯爵家でな…俺も何不自由ないお坊ちゃんだった…

食うに困った事も無いし、欲しいもんは何でも与えられた。周りにあるものは全て一流だ。衣食住、召使い、教育、娯楽全て、子供に与えられるようなレベルじゃなかった…」

「自慢かよ」

「そうかもな」と苦く笑った。

「全て満たされた人形のような生活が幸せなら…自慢だろうな…」

全てが勝手に湧いてくる。

欲しいなどと思う間もなく与えられる。

フェルトン家の嫡男で、一人息子。

子供にでも分かる、異常な溺愛の中で俺は育った。

病的なまでに愛を注ぐ母親と、過剰な期待を押し付ける父親に応えるのは子供ながらに気疲れした。

それでも子供の頃は良かったのだ…子供だったから受け入れられた…

厳しい両親の目を盗んで、庭師の整えた一流の庭で花を愛でるのが好きだった。

季節で彩りを変え、どんなに長く咲いてて欲しいと願っても、移ろう花々は自然の厳しさを俺に教えた。

俺に有限を教えたのは花々だ。

7歳の時に縁談が持ち上がった。同じ伯爵家の令嬢アイリーン。母の弟の娘だ。従兄弟同士だが、珍しい話でもない。

すぐに彼女とは友達になった。

笑顔を見せると笑窪ができる顔が愛らしかった。

花が大好きで、いつも図鑑の花言葉の本を持って、一緒に庭で遊んだ。

彼女と花束を作って遊んで愛を育んだ。

彼女は庭木に登るようなお転婆だったが、そういうところもお坊ちゃんだった俺には刺激的で好きだった。

母が亡くなるまでは、それで良かった…

俺は16でアイリーンは15だった。もうすぐ結婚するという時に、縁談はいきなり破談になった。

父がアイリーンを後妻にと、指名したからだ…

異常な行動だったが、それでもそれが通ったのは、父がオークランドでも重要な貴族だったからだ。

フェルトン家はそれほど影響力があった。

別の女を妻と宛てがわれた。

望まぬ全てを与えられ、望んだたった一つを失った少年は、《拒絶》を覚えた。

絶望して全てを拒絶した。

無理通した父も、それに従った彼女も、それを可能にしたフェルトンも、非道を許したオークランドも…

それから父の反対を押し切って、聖職の騎士になった。問題のある聖騎士にも関わらず、俺が聖騎士として副団長にまでなったのは、《祝福》を有し、《フェルトン家》の人間だったからだ…

結局このフェルトンからは自由になれなかった…

この国に来てもフェルトンは着いて回った…

「どうだい?」と青年に話の感想を求めた。

「最悪…」と短い感想を口にして、彼は足を組んだ。

「で?君が居なくなったフェルトンはどうなったんだ?」

俺を指す言葉は《お前》とか《あんた》より柔らかい呼び方になっていた。

「さあな…彼女からも父からも手紙は来たが、全部読まずに捨てた」

気の迷いで読まないように、届いて直ぐに、全て火にくべた。火刑に処された手紙は、悲しくその身を捩りながら灰に変わった。

俺は《拒絶》し続けた。

風の噂で、俺の弟が産まれたと聞いた。

それから手紙は途切れた…

俺は必要とされなくなった…

捨てたものに捨てられて、帰る場所もなく、銀色の鎧を黒く染めた。

あの装いは、死人のような俺の喪服だ。

《白蘭の騎士団》で、俺の姿を揶揄して《黒薔薇ブラックローズ》と呼ぶ奴も居たが、《黒薔薇》の花言葉は「憎しみ」「恨み」「あなたはあくまで私のもの」「決して滅びることのない愛」「永遠」だ。

何とも皮肉の効いた花言葉だ。俺にぴったりな花だ…

「君って意外と不器用なんだな」

「そうかもな」

「ワルターが君を手放さないのは、君が有能だからだけじゃなさそうだ」と言ってため息を吐いた。

「で?ロンメル家で扱き使われて、下男になったお坊ちゃんは今幸せか?」

「まぁ、割と楽しんでる」と苦笑いしながら答えた。

「物好きだな」

「まぁ、坊ちゃんだったからな」と肩を竦めて答えた。

「フィーアの濃い味の食事も、安っぽい汚れてもいい服も、毎日くたびれるまで働く生活も、俺には無かったもんだ。

それに庭を好きに弄っていいし、屋敷だって金さえかけなきゃ好きに飾っていいと言われてる。

何の文句がある?」

「全く…タチの悪い使用人だよ」

「ははっ!楽しいぞ、花は良い」と笑うと、青年は少しだけ口の端を持ち上げた。

彼は黙って俺に銀色の鍵を投げてよこした。

「飯食ったら寝ろ。明日も早いんだ」

「…俺なら此処で…」

「俺が虐めたみたいになるだろ!

テレーゼが悲しい顔するから仕方なくだ!

変な真似したらぶっ殺すからな!」

冗談か本気か分からない言葉を残して、彼は馬小屋を後にした。

「すまんな、アイリス」

一緒に過ごすはずだった美人に謝って、顔を撫でた。

彼女は小さく「いいよ」と言うように嘶いて、俺を見送った。

せっかく譲ってくれたのに、部屋に戻らなかったらまた馬房まで来て怒られそうだ。

宿の広いラウンジで、新聞を読みながら寛いでいるロンメルが俺に気付いて笑った。

「スーが、お前のこと『ずるい』って言ってたぜ」

「『ずるい』?」なんの事だ?

「『嫌いになれない』ってさ…なら仲良くしろよってな?」と笑うロンメルは少し嬉しそうだ。

「俺みたいに、この歳になってやっと人並に幸せになる奴だっているんだ。お前だってまだこれからだろ?」

あの青年はロンメルに何か吹き込んだのだろうか?

「一緒に飲むか?」と酒の伴に誘われたが、断った。明日の朝も早い。

「夫人はちゃんと休ませてやって下さいよ」と余計な世話を焼いた。

「夫婦の事に口を挟む気は無いが、ご婦人にはなれない長旅だ。あんたの体力に付き合わせるのは可哀想だ」

「…分かってるよ、お前結構辛辣な…」

「お節介な性分なんでね」と答えて宛てがわれた部屋に向かった。

食事は冷めてたが下げられていなかった。

同室の青年は、相変わらず馴れない猫のように距離を取っていた。

まぁ、聞いた話がその通りなら、それも仕方の無いことだろう…

本当に下手に近付いたら剣を抜いて襲ってきそうだ。それは困る…

寝支度を済ませて、さっさと休んだ。

俺が寝床に入って、背中を向けると、ため息を吐く音が聞こえた。

もうひとつの寝床が軋む音がする。

しばらくすると、離れたベットから寝息が聞こえてきた。

少しだけ許された気がして、そのまま目を閉じた。

やはり、ロンメル家は俺にとって居心地の良い場所だった…

✩.*˚

ドライファッハの屋敷に到着すると、フリッツが出迎えてくれた。彼は女の人を連れていた。

「俺の妻のマヌエラだ」とフリッツは俺たちに彼女を紹介してくれた。後で子供たちも紹介してくれるらしい。

マヌエラはラウラのような、優しいお母さんみたいな雰囲気の女性だった。彼女は今、フリッツの子を身篭っている。

「シュミットの子だな」とフリッツはケヴィンの事も覚えていた。

「あの仏頂面が、この子が来るのを楽しみにしてた。仕事場も見せてやると言ってたぞ」とヨナタンの話をした。

彼は今、事務所に居るらしい。傭兵団の経理もだが、ビッテンフェルト家の財務も任されていた。

「経理を仕込んでくれるんならありがたい」とワルターは機嫌良さそうに笑った。

「で?その兄ちゃんが例の拾いモンか?お前も物好きだな…」

フリッツは荷物を運ぶアーサーに視線を向けた。

「アーサー・フェルトンだ。頼りになる男さ」とワルターはアーサーをフリッツに紹介した。

フリッツは「まあ、よろしくな」と言ってアーサーと握手した。

「ヨナタンから聞かされてビビったが、あの気難しい男が認めたんなら俺は四の五の言わねぇよ。

ワルターがあっちこっちで人間を拾ってくるのは慣れてんだ」とフリッツはこの不思議な縁の男を笑い飛ばした。

ワルターと長い付き合いの彼はもう諦めているのだろう。

屋敷に案内すると、応接間にお爺さんが居た。

「久しぶりだ」と《雷神の拳》の団長だった男は息子夫婦を歓迎していた。彼は目が悪くなってから眼鏡をかけていた。それが余計に歳をとって見せていた。

「スー、お前も久しぶりだな」

「久しぶりだね。団長」

「もう団長はフリッツに譲った。今は隠居の爺だ」と彼は大きな声で笑って、俺に名前で呼ぶこと許可した。

「お義父様」とテレーゼに呼ばれてグスタフは嬉しそうだ。彼はこの義理の娘を、溺愛と言っていいほど可愛がっていた。

「テレーゼ様に」と贈り物を取り出してテレーゼに捧げた。テレーゼは礼を言って細長い箱を手に取ると中身を確認した。

「ドライファッハの伝統工芸の《モーゼル扇》です。いつか贈ろうと思っておりました」

「ありがとうございます。とても美しいですね」

真っ白な扇子には、水色と銀の刺繍とで絵付けが施されている。テレーゼにぴったりな品だった。

「職人に《白鳥姫》への贈り物と伝えたら、気合いの入れようが違いましたよ。

お気に召していただければ、彼らも一生の自慢とすることでしょう」

「職人の皆さんに、良い品でしたとお伝えください」

テレーゼはそう言って、思い出したようにワルターに贈り物として買い求めていいか確認した。

「ガブリエラ様に」とテレーゼは継母への贈り物として扇子を求めた。

アレクのお兄さんが亡くなってから伏せっていると聞いていた。

アレクとも、それ以来文のやり取りが乏しくなっていた。俺が一方的にテレーゼたちの近況を送る日々だ。

俺たちはあべこべになっていた。

「明日選びに行こう」とワルターはテレーゼと約束していた。

「寄りたい場所もある」と言っていた。

談笑していると、マヌエラの連れ子たちが学校から帰って来た。

「兄のブルーノと妹のジビラだ」とフリッツが二人を紹介した。

ビッテンフェルト家の血筋を思わせる、赤みがかった金髪の兄弟は行儀よくお辞儀をして、ロンメル夫妻に挨拶した。

「あら可愛い」ジビラがケヴィンを見て可愛がっていた。年上の彼女からすれば年下の少年は可愛い弟のようだったろう。

ケヴィンはジビラをキラキラした目で見上げていた。

「君がスー?」とブルーノが俺に話しかけてくれた。

彼は二十歳前後だろうか?実父の面影があったが、真面目そうな青年は、実父より祖父に似ている気がした。

「実父が君に酷いことをしたと聞いた。どうか謝罪させて欲しい」と彼は大真面目に頭を下げた。

「いいよ、済んだことだし、君には関係ない」と応えたが、彼は真剣な顔で言葉を続けた。

「そういうわけにはいかない。

君に謝罪を受け入れてもらわないと、私は君と友情を育めない。どうか私の為に謝罪を受け入れて貰えないだろうか?」

ブルーノはそう言って手を差し出した。

彼の謝罪を受け入れて手を握った。

「ありがとう。よろしく、ブルーノ」

「こちらこそ、よろしく」と彼は爽やかな笑顔を見せた。彼はとても真面目な青年だった。

「君の弓の腕を見てみたい」

「いいよ。君は何が得意?」

「剣の方が得意だが、最近は父上からハルバードを習っている。まだ全然敵わないけどね」

「それだけ恵まれた身体をしてるんだ、強くなるさ」と話を聞いていたワルターが口を挟んだ。

彼の言葉にブルーノは「ありがとうございます、叔父様」と笑った。

「良い子たちだろ?」とフリッツが嬉しそうに継子を自慢した。マヌエラも自慢げに微笑んでいる。

フリッツはビッテンフェルトとして幸せそうだった。

血の繋がりがなくても、幸せそうな彼らに憧れて、俺の脳裏にミアとルドの顔が過ぎった。

俺も彼女らと幸せになれるかな?

そう思いを馳せながら、彼らと暖かな時間を共有した。

✩.*˚

次の日、ビッテンフェルトの馬車で扇子職人の工房を訪れた。

「邪魔する」と古めかしい工房に親父が顔を出すと、いかにも繊細そうなか細い初老の職人が出迎えた。

「これは、ビッテンフェルト卿」

「親方、先日は世話になったな」

握手を交わして、親父は俺たちを親方に紹介した。

どうやら彼がこの工房の親方らしい。

職が違えば同じ親方でもえらい違いだ。

「俺の息子夫婦だ。《白鳥姫》は贈り物を気に入ってくれたよ」

「これは…気付かず大変無礼を…」と親方は慌てて頭を下げた。

「この工房は昔から付き合いがあってな。十二代目のディルク・バーナーだ」と親父が彼を紹介した。

テレーゼが親父から贈られた扇子を取り出して、親方の前で開いて見せた。

「初めまして。テレーゼ・フォン・ロンメルです。

バーナー殿の作品は素晴らしい品ですわ」

「勿体ないお言葉で…《白鳥姫》を飾る品を作ることが出来て光栄です」と彼はまた頭を下げた。

「お顔を上げてくださいな、バーナー殿。

この素晴らしい扇子をもうひとつお譲り頂けませんか?」とテレーゼは扇を求めた。

「お気に召しませんでしたでしょうか?」と親方はガッカリしたように眉を寄せて肩を落とした。

落胆の色を見せる職人に、テレーゼは笑顔で答えた。

「いいえ、大変気に入っております。私のでなく、継母であるガブリエラ様に差し上げる品を頂戴したいのです」

「こ、侯爵夫人に?!」

喜びを通り越して驚愕する親方に、テレーゼは相変わらず笑顔で「お願いできますか?」と謙虚な姿勢で訊ねた。

「良かったな」と親父がバーナーの肩を叩いた。

「わ、私で宜しいのですか?」

侯爵夫人に献上される品と聞いて、彼は恐縮していた。

「こんなにも素敵な品ですもの。ガブリエラ様もお喜びになりますわ」と彼に依頼した。

「二、三日したら帰るつもりだ。作るには時間が足らないから、あるものでいい。幾つか見せてくれないか?」と俺からも頼むと、彼は慌てて高そうな品を掻き集めて並べた。

「どれも品評会に出して賞を取った品です。お好きなものをお持ち下さい。お代は結構です!」

「そんな…それはいけませんわ、きちんとお代は支払います」と言いながらテレーゼは扇子を幾つか開いて眺めた。

流石、品評会に出した品だ…

幾らするんだよ…これ…

金粉をあしらった物や宝石で飾った物、細かな刺繍が施された物と扱いに困る品が並ぶ。

テレーゼはその中から一番シンプルなものを手に取った。

「それでいいのか?」

「はい。絵付けが丁寧で羽飾りが素敵でしたので、ガブリエラ様もお気に召して頂けるかと」と答え、テレーゼは扇子を広げて眺めた。

「やはりお目が高い」と親方は嬉しそうに目を輝かせた。

「それは一昨年品評会で金賞を取った品です!

材質には良質の柘植つげと品質の高い《ザクセン絹》を使用しております。明かりに透かすと別の絵が浮かぶ隠し絵を施しております。

他にもこだわりが…」

興奮した親方の長い作品の解説が始まる。

とにかく良い品ということは分かった…

高いということも分かった…

「どうぞお持ち下さい」と彼は惜しげも無く良品を献上しようとした。

「いけませんわ、職人の仕事を無下にするようなことはできません」

「いいえ、この作品はこの工房で飾られて終わるはずの品でした!私にもこの品にも、侯爵夫人にお使い頂く事の方が価値がございます!

お代は私の銘を刻むことをお許し頂くだけで結構です!」

「でも…」頑なに謝礼を固辞する親方に、テレーゼは困った様子だった。

「なら、これでどうだ?」と身に着けていた指輪を外して親方に握らせた。

「昔、ある貴族から詫びに貰ったもんだが、俺には似合わん。扇子の礼に受け取ってくれ」

「これは…ブルーダイヤですよ!こんな大粒の品見たことない!」

「俺は善し悪しは分からん。あんたの好きにしてくれ」と告げてテレーゼの手を取った。

「買い物は済んだから、寄り道して帰ろうか?」と促した。

「…宜しいのですか?」

「いいさ。俺にとっちゃただの綺麗でちょっと硬い石ころだ。価値の分かる奴が持ってる方が良いだろ?

それにそれをタダで貰っちゃ、お前がまた俯いちまうだろ?お前の笑顔を買えるなら安いもんだ」

「…もう、後で後悔しないで下さいね」

「しないって」と笑った。

価値がわからんのに後悔のしようも無い。

あれを寄越した男も、テレーゼのためなら大目に見てくれるだろう。

親方は何度も指輪を返そうとしてくれたが、一度渡したものを返されるのは格好がつかない。

「また頼む時はよろしくな」と言って馬車に乗った。

「この隠し絵、ガブリエラ様はきっとお気に召して下さいますわ」と、テレーゼは嬉しそうに俺に扇子の絵を透かして見せた。

日傘をさした女性と手を繋ぐ子供の姿が花園に浮かんだ。

なるほど、いい絵だ…

「きっと気に入るよ」と答えて笑った。

その言葉に彼女は嬉しそうに笑った。

テレーゼの嬉しそうな笑顔は、大粒の宝石の付いた金の指輪より価値があった。

✩.*˚

「ガブリエラ、調子はどうだ?」

先日と変わらぬ病床の妻を見舞った。

精神的な病は彼女を蝕んでいた。レプシウスも打つ手がない。

彼女のベッドの隣に置かれた椅子に腰掛けて、今日あったことを伝えた。

「今日、ロンメル夫妻が見舞いに立ち寄ってくれたのだが、面会を断るとテレーゼがこれを置いて行った。

ドライファッハの工芸品だそうだ。君への見舞いの品と言っていた」

「何でしょうか?」彼女が細長い黒塗りの木の箱を開けると、中から扇子が転がり落ちた。

「おっと…」ベッドから床に滑り落ちそうになった扇子を捕まえた。

「まぁ…もしかして《モーゼル扇》でしょうか?」

彼女は驚きながら扇子を受け取って開いた。

「すごいわ…とっても綺麗…」

美しい絵付に彼女は感嘆のため息を漏らした。

美しい花園の絵付けが目を引いた。扇を縁取る白い飾り羽が雲のように絵を引き立たせた。

素晴らしい一級品だ。彼女は少女のように喜んで扇を眺め、私にも翳して見せた。

「あら?」

「どうした?」彼女は不思議そうに呟くと、ベッドを出て、明るい窓辺に向かった。席を立って彼女の傍らに立った。

「…ヴォルフ」彼女は確かに亡くなった息子の名を呼んだ。扇子を抱いて泣き崩れた彼女を慌てて抱き締めた。

「どうしたんだ?何事だ?」

彼女の背を撫でて訊ねた。彼女は赤ん坊を抱くように大事に扇子を抱いていた。

「テレーゼ…ごめんなさい…」

「どうしたんだ?急に…」

「これを…」彼女はそう言って扇を広げて窓の明かりに透かした。

花園の絵に、隠し絵が浮かんだ。

母子の姿…仲良く手を繋いでいる…

少年の姿が、幼いヴォルフラムに重なったのだろう。確かに少年はあの子の幼い時に少し似ていた。

「私は…あの子の母の仇ですのに…こんな…こんな素敵な贈り物を…」

「良かったな、ガブリエラ…」

彼女もまた、自分の嫉妬でユーディットを追い詰めてしまったことを後悔していたのだろう。

兄弟たちから仲間外れにされていた理由すら、あの子は知らないのだ。

「謝らなければ…」と彼女は懺悔を口にした。

「あの子は優しい子に育ちましたね」

「うむ」頷きながら、あの男に嫁がせてよかったと思った。運命とは不思議なものだ…

「新年会にはこれを持って行きますわ」と彼女は涙に濡れた顔を上げて笑顔を見せた。

テレーゼからの贈り物で、少し癒されたようだ。

「素晴らしい品だ。皆羨ましがるだろう」

「流行りますかね?」と少女のように笑う彼女に、娘夫婦の残していった言葉を思い出した。

「ガブリエラ、ドライファッハのヘッセンに行かないか?」

「あら?どうしましたの?」

「温泉の湯治場が有名らしい。ロンメル夫妻が立ち寄ったそうだが、落ち着いた良い場所だったそうだ。

療養を兼ねて一緒に行ってみないか?」

「ご公務は?宜しいのですか?」

「君のためなら誰も文句は言うまい。私もずっと書類と睨めっこで飽き飽きしてたところだ。お忍びで、少しくらい足を伸ばしても良いだろう?」

「あら、いけない人。病気の妻をダシにして…」と彼女はクスクスと笑った。

ガブリエラは少し調子を取り戻していた。

「そうね、たまにはゆっくり休みを取りましょうか?」

「冬になる前に行こう」と二人で旅行の約束した。

「君が元気になったら、ブルームバルトにも足を伸ばそうじゃないか?」

「それもお忍びですか?ロンメル夫妻が驚きますよ」

「たまには良いだろう?気の抜けてる時に行って驚かせてやろう」サプライズは好きだ。相手の驚く顔は面白い。

「養生せよ」と彼女に告げると、彼女は扇を広げて笑顔で応えた。
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