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ブルームバルト
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「平和だな」と煙を燻らせながら彼は呟いた。
ウィンザー公国が滅んだことで、オークランド王国が大義名分という拳を振りかざし、殴りかかってくるかと思っていたが、かの国もそれどころではなかったらしい。
あのブルーフォレストの役から平穏な生活が二年近くも続いていた。
その間に旧ウィンザー領も普段の生活を取り戻しつつあった。
小競り合いは続いているが、大規模な侵攻や戦闘は今の所ない。
「傭兵を辞めてよかったな」と皮肉混じりに俺が呟くと、彼は「違いねぇ」と笑った。
「領主様がこんな所で一人で油売ってて良いのか?」と訊ねると、彼は「いいさ」と煙草を口に咥えた。
彼の拝領したブルームバルトは、俺たちが戦ったブルーフォレストの山裾に広がる、のどかな田園地帯だ。
頼れる鍛冶屋が無いからと、わざわざシュミットシュタットの俺の工房にまでやって来た。
「なあ、ギル。俺の所に移ってくれよ」
「俺を召抱える気か?御免だ」
「傭兵じゃなくて、鍛冶屋としてさ。
ここよりずっと田舎だが、いい所だぜ。嫁さんも親父さんも不自由させねぇよ」
「親方も歳だし、新しいところに移るのは負担だ。アニタにも無理をさせたくない」
「まあ、知らない土地に移るのは難しいかもしれんが…」
「そうじゃない。アニタはこれだ」とジェスチャーで伝えた。
ロンメルは「マジか!」と驚きながらも、めでたいと祝福してくれた。
「いつ産まれる?」と、この人の良い男は自分の事のように喜んでくれた。
「まだ半年くらいだから、今年の秋頃か…」
「そうか、来年には俺の所に来れそうだな!」
「…お前…話聞いてたか?」
「何だよ?俺の町に腕のいい鍛冶屋が来て、ガキも着いてくるってんなら大歓迎だぞ。テレーゼも喜ぶ」と勝手に話を進めた。
彼に嫁いだ小さな奥方は、町に小さな無料の診療所と子供に文字等を教える学校を用意したらしい。
貴族としての奉仕活動に熱心で、領主より人気があるようだ。
「まあ、お前のところの親方に相談してくれ。
俺のところはいつでも待ってる」
彼はそう言って「産まれたら教えてくれ」と人懐っこく笑っていた。
彼は一人で勝手に喋って、勝手に「またな」と約束して帰って行った。
「なんか、貴族と言うより、近所の友達みたいな人だね」とアニタが腹を擦りながら笑っていた。その手には俺の贈った指輪が光っていた。
目立ち始めた腹の中には俺の子がいる。
彼女の腹に手を伸ばして触れた。時々動くのを感じる。赤ん坊は彼女の中で無事に育っていた。
「無理するなよ?」と働き者の彼女の身体を心配した。
「あたしはそんなにヤワじゃないよ」と笑う明るい彼女が愛おしい。
吸い寄せられるようにキスをした。
人並みの幸せに浸る生活ができるのは、あの男のおかげだ。感謝している。
遅かれ早かれ、俺の存在がバレれば、この土地を追われることは必至だったろう。そうなれば、彼女らにも迷惑をかけたはずだ。
オークランドに戻れば、《祝福》を持つ者として、人間を辞める道しか残されていない…
ようやく出来た家族とも別れねばならない…
それは死ぬより辛かった…
「アニタ。お前と親方に相談することがある」と告げ、彼女の腰に手を回して、支えながら家に入った。
いつの間にか、あの男の魅力に取り憑かれている俺がいた。
彼の親切に報いる方法を探していた。
✩.*˚
弓弦を引き絞って矢を放った。
「ギャン!」悲鳴を上げ、狼は引きずっていこうとした子牛を放した。
その場にしゃがみ込んだ子牛に、また別の狼が牙を剥いた。
二本目の矢がそれを許さなかった。
若い狼の群れは子牛を諦め、すごすごと森に帰って行った。
「ありがとうございます」牛の飼い主が礼を言って頭を下げた。
「被害は?」と訊ねると、彼は「あの子牛だけです」と答えた。
「犬が気付いてすぐに逃がしてくれたので他の牛は無事です。生まれてすぐのこの子牛だけ逃げ遅れてしまったので、もう助からないと思っておりました」
「へぇ、君は優秀だな」と足元で尻尾を振っている、毛足の長い大きな犬を褒めた。
狼に襲われていた子牛に歩み寄ると、恐怖で立つこともできず、プルプルと震えていた。睫毛の並ぶ大きな黒い瞳は、目の前の物全てを恐ろしく映しているのだろう。
牛飼は慣れた様子で子牛を抱えると、お辞儀をして、犬を連れ、その場を後にした。
「ユッタ!帰るぞ!」乗り捨てた馬を呼ぶと、馬は小走りで戻って来た。その背に跨って、人と獣の境界を確認した。
「柵が要るかな?」後でワルターたちに相談しよう。
「俺たちも帰ろう」とユッタに声をかけた。愛馬は言葉を理解して、ゆっくりした足取りで屋敷に向かって歩き始めた。
ワルターに与えられた領地に移って、既に半年が経過していた。
ロンメル夫妻は人気者だ。
領主なのに、小作人たちと一緒になって働いているワルターを、ブルームバルトの人たちは、戸惑いながらも安堵して喜んで受け入れた。
テレーゼの美しさと聡明さも、彼の人気に一役買った。
彼女は自分の資産を使って、町に診療所と小さな学校を用意した。小さな町は新しい領主夫妻を歓迎した。
ハンスは家宰としてロンメル家に残ってくれた。彼が残ってくれてよかった。ワルターだけじゃ不安しかない。
ドライファッハから来たエルマーの部下だった奴らと、ロンメルと縁のある騎士が二組ワルターの部下に加わった。
ギートら元傭兵組と、騎士たちの間でトラブルは多少あったが、ワルターが上手く収めていた。
そのうち軋轢もなくなって、今では上手くやっている。
ワルターには人を纏め上げる才能があるのだろう。彼を慕う人は多かった。
「何処に行ってた?」
屋敷に戻った俺を見て、ソーリューが訊ねた。彼の傍には花壇の柵につかまり立ちをする幼児の姿があった。
「森の近くで狼が出たから追い払って来た」と答えて馬を降りた。
俺に気付いたルドが、「あー」と、言葉にならない声を上げ、危なげな足取りで寄ってきた。
「少し歩くようになった。目が離せん」とソーリューはボヤいていたが、その言葉とは裏腹に、彼はルドの成長を楽しんでいた。
疲れたのか、ペタンと座り込んだルドを抱き上げて、柔らかい頬に頬ずりした。ルドからは乳飲み子の特有の幸せな甘い香りがする。
「ちょっとエルマーに似てきた?」
「目元がな。親子だ」とソーリューが頷く。
垂れた目元はエルマーにそっくりだ。
「じゃあ、強くなるな、ルド」日に日に重くなる子供の成長を喜んだ。
ルドを抱いたまま、馬の手綱を引いて馬房に馬を預けに行くと、馬房の掃除をしていたギートが俺たちに気付いて手を止めた。
「よお、スー、ルド」ギートが笑顔でエルマーの子供を撫でた。ルドも彼に懐いていた。
「お疲れ様。ユッタを預けても良いかな?」
「おう」と応えて彼は馬を引き受けた。
「何か手伝うことあるかい?」
「いや、特にねぇや」と彼は笑って、ルドのほっぺを触って癒されていた。
「兄貴に似てきた」と、彼もルドの成長を喜んでいた。
ルドを連れて、裏口から屋敷に入ると、厨房にシュミット夫人とミアの姿があった。
「ルド、スーと一緒だったの?」
ルドはミアに気づくと小さな手を一生懸命伸ばして、母親を求めた。
ミアにルドを渡すと、親子は再会を喜んで、厨房に笑顔が満ちた。
「ラウラ、調子はどう?」と笑顔でミアとルドを眺めていた夫人に声をかけた。
彼女は笑顔でお腹を撫でながら「順調ですよ」と答えた。ハンスの三人目の子供がお腹にいる。
「触っても良い?」
「いいですよ。足癖が悪い子なので、時々足の形がわかるくらい蹴飛ばしてきます」と彼女は幸せそうに笑った。
暖かい、幸せが詰まったお腹に手のひらを当てた。お腹から衝撃が伝わった。
「あ!」
「蹴りましたね」
「すごい!元気だ!」お腹の子供の反応に嬉しくなる。この子は確かに生きている。
「スー、夕餉までルドを預かっててくれない?」とミアが僕にルドを託した。
ルドは悲しそうな声を上げたが、ミアも仕事で忙しい。彼女は身重な夫人の分まで働いていた。
厨房を後にし、ルドを抱いて長い廊下を自分の部屋に向かって歩いた。
グズグズ泣いていた幼児は、いつの間にか疲れて眠ってしまったようだ。
歩く振動が揺りかごの代わりになったのだろう。
スースーと寝息を立てて眠るルドはじっとり汗をかいていた。
守られるだけの幼子は、俺たちを幸せで満たしてくれる。
この温もりを守ると心に誓って、汗ばむ子供の額に接吻を贈った。
✩.*˚
「柵かぁ…」
帰って来るなりコレだよ…
郊外に時々狼が姿を見せるとは聞いていたが、人への被害がなかったから後回しになっていた。
「作るのはいいがよ…先立つものは金だぜ?」世知辛い返事になってしまった。
狼対策の柵となると丈夫で背の高いものでなければ意味が無い。予算はまあまあ必要になる。
領民の為ならまだ分かるが、牛のために予算出せるのか?
いや、牛は牛で必要だが、町の連中がいいと言うかどうかだ…
「とりあえず、町長たちと相談の上だな…」
「そうか…」とスーは肩を落とした。
「まあ、町の連中が必要だと思ったら対策はするさ」
そう言ったものの、いい返事は難しいだろうな…
翌朝町長の家に相談に向かった。
俺の憂鬱な気分とは裏腹に、町の代表はあっさり「いいですよ」と二つ返事で応じた。
「実は以前から領主様にお願いをしておりましたが、いつも『検討する』の一点張りで放置されておりました」
欲しかったのか…なら話は早いが、問題は金だ。
「悪いが俺の所もあまり大きな事業には出来んのだ。予算はどのくらいになる?」
「何を仰いますか?領主様が奉仕作業として呼びかけていただければ、手の空いてるものが皆でお手伝い致します」
「は?」それはタダ働きしろって命令しろってことか?傭兵だった俺からは考えられない事だ…
「いや、でも、報酬は…」
「それは我々で何とかします。領主様は奉仕作業の呼び掛けと、御領地の木材の採取の許可を頂戴するだけで結構です。
牛がいなければ生活できないのは我々の方です。
これまで何度も牛や羊が狼に襲われています。
その都度、乳製品や肉などが値上がりして苦しい思いをするのは我々の方なのですから、放牧地の柵作りくらいお手伝いします」
「そうか。俺にできることがあればなんでも言ってくれ」
「後回しになるようなことを気にかけて頂き、感謝致します。すぐに手配致します」と町長は喜んでいた。
どうやら前の領主は放牧地の整備を渋っていたらしい。
「奥方様のおかげで、子供たちは文字を学び、怪我や病気の者も気負わずに医者の世話になることができています。
これだけのことをして頂いて、奉仕作業を渋る者などおりません。むしろ自分たちの為と喜んで集まります」
「それはテレーゼの手柄だな」と笑うと、町長は「それだけじゃございません」とさらに感謝を口にした。
「ご領主様の存在のおかげで、賊もこの周辺で騒ぎを起こすことも無くなりました。
道の安全も確保されたので、物流も安定しております。おかげで生活しやすくなりました」
「そりゃ、山賊たちには悪いことしたな」とおどけてみせると、町長も髭の下で笑った。
「まぁ、細かいことは牛飼たちと相談してやってくれ。
必要なら木を切る許可も出すし、作業に護衛が必要なら俺の部下を送る。
あんたらの良いようにやってくれ」
「感謝致します」
「よせよ、俺はなんにもしてねぇや。面倒事を持ってきただけだ」と苦く笑って、町長の家を後にした。
もう昼になりつつある。
町には人が溢れていた。
馬に乗って屋敷に帰る途中、馴染んだ町の連中と挨拶して通り過ぎる。中には収穫したばかりの野菜や果物を差し入れてくれる奴もいた。
良い町だ…
ドライファッハも活気のあるいい街だったが、ここもいい所だ…
子供たちが元気な歓声を上げて俺に手を振った。
今日はテレーゼの学校はないらしい。
「ご領主様!あれ見せて!」とはしゃぐ子供たちに「いいぜ」と応えて馬を降り、氷の像をこしらえた。
氷もだいぶ細かく制御できるようになったから、形も自在に変えることが出来た。
氷で馬を作ってやると、子供たちから歓声が上がる。
子供相手に得意げになって、オマケに犬も作ってやった。
「ねえ!テレーゼ様も作って!」とリクエストがあったが、「そいつは無理だ、難しすぎる」と答えた。
「この国で一番の美女だぜ、難しすぎらぁ」
そう言いながら彼女を思った。
彼女は日を追う事に美しくなる。背も少し伸び、女性らしい成長も見られた。
相変わらず、理性と本能のギリギリの攻防が続いていたが、まだもうしばらく約束の日まで時間がある。
彼女の顔が見たくて、子供らと別れて、また家路を急いだ。
✩.*˚
「これはまた…領民から搾り取る悪徳領主ですね」
ワルター様の持ち帰った籠を受け取って、シュミット様が笑いながら意地悪を言った。
「人聞き悪ぃな、貰ったんだよ」
「用事に出てって、食べ物もらって帰ってくるなんて子供みたいだ」とスー様も笑っている。
「全く…なんて奴らだ…」とボヤきながら、ワルター様はすぐに私のところに来て、腕の中に招いてくださった。
「テレーゼ、お前のおかげで町長との話がスムーズに済んだ。ありがとうよ」
「お役に立てて何よりです」とお応えすると、ワルター様は嬉しそうなお顔を見せてくださった。
「柵は?作るって?」とスー様がワルター様に話し合いの結果を訊ねられた。
郊外の放牧地に狼が来るらしく、その対策として、ということらしい。
「あぁ、町の連中も前から欲しかったらしい。
前の領主が渋ってたみたいだな。まぁ、多少木を切ることになるから、仕方ないと言えば仕方ないんだろうが…」
「良かったね」
「しかしな、あいつら奉仕作業にするから報酬要らんとか言うんだ…
俺からしたら信じられねぇよ、欲のない奴らだ…」
「領民も、自分たちの生活に直結する事には関心がありますからね。木材の入手さえ目処が立てばするつもりだったのでしょう。
彼らにとっても渡りに船だったのでしょうね」とシュミット様がお答えになられた。
「良心が痛むなら、酒でも振る舞われればよろしいではないですか?」
「そんなんで良いのか?」
「節約できるところは甘えさせて頂きましょう。
しばらく人頭税と地代での収入がないですからね。侯爵家が無利子でお貸し下さいますが、それでも現状はかなり厳しいですよ…
子供も増えるというのに、いつまでもこんな薄給では妻に愛想をつかれてしまいます…」
「…悪かったな、頼りない旦那様で…」
「お祝いさせていただきますわ」
「奥様はお構いなく。旦那様には家長としてしっかりして頂かねば…」
皮肉の効いた言い回しをしながらも、シュミット様は旦那様をよく補佐してくださっている。
この皮肉の効いたやり取りが、お二人の仲の良さを物語っていた。
「まあ、今日は食材を調達してきたので良しとしましょう。酒の調達も何とか致します」
「世話をかけるな」
「本当に、手のかかる旦那様だ」とシュミット様はわざと意地悪く言って笑っていた。
話を終えた頃にミアがルドをスー様に預けに来た。
「俺にも抱かせてくれよ」とワルター様は自分からルドを抱いた。
子供を抱くのに抵抗の無くなったワルター様は、ルドを高く抱いて子供の笑い声を楽しんでいた。
「あうー」
「何だ?足りないか?」
本当の父親のように赤ん坊をあやす姿に、少しだけ嫉妬してしまう自分がいた。
「ほら、別嬪さんだぜ」とワルター様はルドを私に向けて笑った。ルドが私の方に移ろうと手を伸ばした。
「おいで、ルド」
旦那様の手からルドを受け取る。
ワルター様が軽々と抱いていた赤ん坊は、幸せを詰め込んでずっしりと重く、大きくなっていた。
甘いミルクの香り…幸せの香りだ…
「ふふっ」と小さく笑ってルドのふわふわのほっぺを堪能した。小さな手も肉付きが良く触り心地が良い。
ルドも可愛いけれど、やっぱり自分の子供が欲しい…
16の誕生日が待ち遠しかった…
✩.*˚
「もしかしてスーか?」
特に目的もなく、ブルームバルトの町をブラブラと歩いていたら声をかけられた。
聞き覚えのある声に振り向くと、それはやはり知った顔だった。
「ヘンリック?!」
「やっぱりスーだ、久しぶりだな!元気になったみたいだな!」ヘンリックは嬉しそうに破顔して手を差し出した。その手を取って再会を喜んだ。
「何で君がここに?」
「しばらく戦がなくて暇でな…
暇ついでに、ワルターの町を見に来た」
「君だけ?ゲルトは?」
「叔父貴も来てる。エルマーの子供を見にな」と彼は笑って、来た道を振り返って手を振った。
眼帯をつけた白髪の老人は、目立っていたからすぐに見つけられた。
彼の取り巻きに背の高いカミルの姿と、あの猟師兄弟の姿があった。
「よお!スー!」「心配してたんだぜ、元気か?」とヨハンとヤーコプが代わる代わる僕に手を差し出して握手をした。
「俺はもう大丈夫だよ、ありがとう」と礼を言って、今度はゲルトに向き直った。彼の隣にはカミルの姿が影のようについて回っている。
「元気か?」
「ゲルトこそ、年寄りだから心配したよ」
「相変わらず口の減らんガキだ」と彼も相変わらず悪態を吐いた。
「まだ、町に着いたばかりでな。屋敷まで案内してくれないか?」とヘンリックが僕に案内を頼んだ。
「いいよ」と応えて目立つ一行を連れてロンメルの屋敷に案内した。
「おや?珍しいお客さんですね」と彼らを見つけたハンスが驚きながら客人をもてなした。
「だれー?」好奇心の強い子供たちがやって来て訊ねた。
「ワルターの友達で俺の友達」と答えると、子供たちも「じゃあ友達」と笑い声を上げながらヘンリックらに挨拶した。
「挨拶もできて懐っこい、いい子たちだな」とゲルトは嬉しそうに子供たちの頭を撫でたが、俺はその言葉にゾッとした。
《いい子》の呪いはまだ俺の中に残っていた…
もう随分時間が経っているのに、時折、クリスのあの声が鮮明に聞こえることがあった…
「どうした?」固まった俺にヘンリックが訊ねた。慌てて「何にも…」と誤魔化したが、動揺していた。
「まだ辛いのか?」
「大した事じゃない」とできるだけ平静を装って、屋敷の中に彼らを案内した。
「ワルターは出かけてるし、テレーゼも学校に行ってるよ」
「学校?」
「無償で子供たちに読み書きを教えてる。他にも簡単な計算とかも教えてるらしいよ。
そのうち魔導師も呼んで、少しずつ科目を増やして大きく出来たらって話してたな」
「へぇ、うちのガキどもも預けに来るか?」とヤーコプたちも感心していた。
「この子らは行かんのか?」とゲルトが子供を両手にぶら下げて訊ねた。本当に子供が好きなんだな…
こう見ると孫を可愛がるおじいちゃんだ…
「僕たちは絵本の日だけ行くー」
「私はお兄ちゃんの行く日だけ行くー」と二人でケラケラ笑っている。
「おいおい?勉強は?」
「その子たちには簡単すぎてダメなんだ。
その子たちには別の家庭教師がついてるから」
「何の勉強だ?」
「三ヶ国語と詩の暗記、暗算、礼儀作法とか」と俺が答えると、二人は自慢げに追加した。
「あと僕は簿記してるよー」
「音楽もー」
「おいおい、まだガキだぜ?詰め込みすぎだろ?」
「優秀なんだよ。両親共に優秀だからね」驚いているヘンリックたちの元に、ハンスから来客を聞いた夫人が夫と挨拶に現れた。
「何だ?ご内儀はおめでたか?」
夫人の大きくなったお腹と、ハンスの気遣う様子から察したゲルトが訊ねた。
「無理しちゃいけねぇ。迷惑になるようなら外で宿をとる」
「迷惑など…せっかくお越しくださいましたのに」
「無理させて子供に何かあったらどうする気だ?
おい、シュミット!お前も亭主なら止めねぇか!」
「ご安心を、使用人なら他にもおります。何も彼女一人に全部させたり致しませんよ」と言いつつ、ゲルトの気遣いに感謝を述べていた。
「叔父貴は子供と妊娠中の女性には優しいんだ」
「みたいだね」とヘンリックの言葉にクスクスと笑った。
「スー、ミアは?元気か?」とヘンリックはミアのことを訊ねた。
「俺がエルマーに余計な世話を焼いたからな…
あんなことになって残念だ」とヘンリックは悔しさを滲ませた。
「まぁ、ね…」歯切れの悪い返事をして苦笑いした。
彼が責任を感じることなどないのだ…
全部俺のせいなんだから…
滅入るような重い気持ちが湧いたが、それを打ち消すように幼児の泣く声が聞こえた。
「ルド、起きちゃった」とケヴィンが、ゲルトの膝から滑るように降りて駆け出した。
しばらくして、涙目になってる幼子の両手を引きながらケヴィンが戻ってきた。
「おお!よく来たなチビ助!おいでおいで!」
よちよち歩きのルドを見て、ゲルトが椅子から立ってルドを呼んだ。
知らないお爺さんを見て驚いてしまったらしい。
ルドはまたわーんと泣き出した。
「叔父貴…」見てられないと言わんばかりに、ヘンリックが片手で目元を覆った。カミルは黙って苦笑いだ。
「親父さん…チビ助ビビってますぜ…」
「初めてご対面なんだから、向こうから来るの待ってやった方が…」と双子も何とも言えない顔をしている。
「ルド!どうしたの?」
いつもと違う鳴き声を聞きつけたミアが、濡れた手のまま走ってきて、ルドを抱き上げた。
「やあ、ミア」とヘンリックが彼女に挨拶した。
「…ヘンリック」
「元気そうで安心した。ビアンカにいい報告ができそうだ」ヘンリックはそう言って、懐から小さな包みを取り出して彼女に歩み寄った。
ヘンリックに怯えたルドが、母親に強くしがみつくのを見て、彼は少し苦笑いした。
「遅くなったが、ビアンカと俺からプレゼントだ」と包みを開けて銀のスプーンをルドの視界にチラつかせた。
「あー」キラキラのスプーンに釣られてルドが手を出した。小さな手にスプーンを受け取ると、すぐに口に運んでしゃぶった。
「いっぱい食ってデカくなれよ」
大きな手のひらが、スプーンを頬張るルドの頭を優しく撫でた。
「ありがとう…ビアンカにも…」とミアは言葉を詰らせながら礼を言った。
「伝えるよ」とヘンリックは人の良い笑顔で応じた。
「ビアンカも来たがったが、腹に二人目がいるから置いてきた。
ガキどももウチの奴らもケツ叩かれてビビってら。スゲェ肝っ玉母ちゃんやってるよ」
「あの子らしいや」とミアは懐かしい友達の話を聞いて嬉しそうに笑った。
ルドがヨダレまみれのスプーンをミアに見せて「うー!あー!」と大きな声を上げた。贈り物を自慢しているみたいだ。
「良かったね、ルドのだよ」
ミアの言葉に、「きゃー!」と歓声を上げ、スプーンを手にケラケラ笑う幼児はご機嫌になっていた。
「気に入ったか?食いしん坊?」
プレゼントを気に入ってもらえて、ヘンリックも嬉しそうだ。
「抱っこしていいか?」と彼は、ミアに子供を貸してくれるように交渉した。
「いいよ。いいよね、ルド?」
ミアがヘンリックにルドを手渡した。
身体の大きなヘンリックに抱かれると、まるで大きな木の空洞に収まった梟の雛のように見える。
彼はルドの顔の作りを見て「親父に似たな」とルドを褒めた。
「叔父貴がさっきから、お前を抱きたくて堪らんらしい。泣かんでやってくれよ」とおどけた台詞を口にして、彼はルドをゲルトに対面させた。
ルドはお気に入りのスプーンを宝物のように握って、ご機嫌な様子だ。
ゲルトに抱かれてももう泣かなかった。
「堪らんなぁ」と、お爺さんは嬉しそうに、他人の子供をあやしている。俺の知ってるゲルトとはまるで別人だ…
その姿にヘンリックが苦笑いを浮かべて肩を竦めた。
嬉しいような恥ずかしいようなそんな顔…
賑やかにしていると、そこにワルターが帰って来た。
「何だ?客か?」と応接間を覗いて彼も驚いていた。
「何だよ?久しぶりな顔が並んでるじゃねぇか!」
「おう!ワルター、邪魔してるぜ!」
彼らは、手を打ち合って再会を喜んだ。
「ちと暇でな。遅くなったが、お前の町とエルマーの子を見に来た」
「なるほど…で?あれか?」とワルターの指さす先には孫たちと遊ぶお爺さんが居る。
「まぁ、そんなところだ」とヘンリックも苦笑いで応えた。
ワルターは猟師兄弟を見つけて、嬉しそうに彼らに歩み寄って挨拶を交わした。
「いい所にちょうどいい連中がいるじゃねぇか!」
「どういう意味で?」とヤーコプが首を傾げる。
「実はちょっと家畜の狼害で困っててな。町の連中と放牧地を柵で囲う話し合いをしてきたところだ。
お前ら狼も狩るんだろ?駆除を頼んだらしてくれるか?」
「まぁ、必要ならやりますがね」とヤーコプはあまり乗り気では無さそうだ。
「やりすぎると今度は森が荒れるから、必要最低限に留めておかにゃなりませんぜ」
ヤーコプとヨハンは狼を狩るのに慎重なようだ。
「狼は森の番人だ。あいつらが居なくなると、鹿が好き勝手するし、猪も里に降りてくる」
「やっぱり柵の方が良いか…」
「まぁ、人間襲うようなら駆除も考えた方が良いでしょうな。でも狼は大事にした方がいい」と猟師兄弟はワルターにアドバイスした。
「どうせ暇なんだ。何かするなら逗留する間、俺たちも手伝うよ」とカミルが言ってくれた。
「そいつは助かる。
なんせ駆け出しの貧乏貴族なもんでな、金がねぇんだ。無駄遣いすると、そこの怖い顔に睨まれるんでな」
「奥様のクローゼットが空になってもよろしいのでしたら勝手にどうぞ」とハンスに言われてワルターはぐうの音も出ない。
実際に、やり繰りをする上で、テレーゼは自分の嫁入りに持って来ていた品の一部を売ってお金に替えていた。
彼女はロンメル家のために、惜しみなく、自分の大切な宝飾品を売り払った。その中には、彼女の母親が残してくれたものも含まれていた。
『三年乗り切れば、何とかなりますわ』と彼女は明るく振舞っていたが、本当は手放したくなかったはずだ。
ワルターもそんな彼女に応えようと、できる限りの事はやっていた。
そんな彼らだからこそ、町の人たちも柵作りを奉仕作業として引き受けてくれたのだろう。
「じゃあ、狼は諦めるから、鹿を三頭ばかり狩って来てくれねぇか?
酒と一緒に奉仕作業してくれた奴らに振る舞うからよ」
「へぇ…だってよ兄貴」
「あんたの頼みなら構わねぇがよ、俺らがやっていいのか?ここの猟師だっているだろ?」
「前の戦で徴兵されて死んじまったらしい。
管理する奴が居なくて正直困ってんだ」
「なら断る理由もねぇな…
《妖精》、お前も来るか?」とヤーコプが僕も誘ってくれた。「行くよ」と即答した。
食べ物の話に釣られたのか、ルドが大きな声で叫びながらスプーンを振り回している。
「お前にも食わせてやるよ」とワルターが笑いながら軽々とルドを抱き上げた。
「おい、食いしん坊。いいスプーン持ってるじゃねぇか?」
「ヘンリックとビアンカからだって」と彼に教えた。
「銀のスプーンか。ルドにはちょうどいいな」
「お前のガキが産まれたらまた用意してやるよ」とヘンリックに言われて、ワルターはまた苦笑いを浮かべていた。
✩.*˚
「田舎だがいい町だな」と、ヘンリックは俺の町を褒めた。
庭で夜風に当たりながら、煙草を呑んで二人で話をしていた。
「戦のせいで人も少なくなってるし、まだ足りないものだらけだけどな…
あいつら頑張ってんだ。俺もできることはするさ」
「いい領主様じゃねぇか」と彼は笑って煙草を咥えた。
「テレーゼとシュミットのおかげだ」
あの二人が居なかったら、こんなスムーズにいかなかったろう。
傭兵上がりの、うだつの上がらないおっさんが、いきなり領主になったんだ。難なく受け入れる方がどうかしてる…
しかもごく最近まで、戦争してた国の人間だ。
石を投げられてもおかしくないと、覚悟していた。
到着して早々に挨拶に回ったが、最初は良い顔はされなかった。田舎は余所者に厳しい。
そんな歓迎されない中でも、テレーゼはシュミット連れて、市や広場に足を運んでは熱心に町に必要な物を確認して回っていた。
町医者も徴兵されていたから、ほかの町から医者を呼び寄せ、無料の診療所を手配し、食うに困っている孤児や病気の者を保護する施設も用意した。
彼女は子供たちのために絵本を寄付したが、字が読める人間なんて限られている。
そう気づいた彼女はすぐに私塾を開いて、本の読み聞かせをしながら、子供らに読み書きを教え始めた。
熱心に奉仕活動をする彼女に、町の連中も『奥様』と慕うようになった。
彼女は煌びやかなドレスはクローゼットの奥にしまいこんだ。
その辺の町娘が着るような質素な服にエプロンを身に付け、侍女のアンネを連れて出かける姿は生き生きしていた。
その姿に、似てないのに、エマの姿が重なった。
彼女の事がますます好きになっていた。
俺も暇だから、手の必要な時は色々と手伝いに行った。そのうちに、子供と関わるのが楽しくなった。
彼女の塾は大きくなり、町の連中も手伝うと申し出る者も現れ、学校と呼べるほどの規模になっていた。
町の連中で、ロンメルの悪口を言うような奴は居なくなった。
「俺は彼女のオマケだ」とヘンリックに言って笑った。
全部彼女の手柄だ。俺はそれに乗っかっただけだ。
「でもお前も良いと思ったから止めなかったんだろ?彼女もお前も、街の奴らからしたら良い領主様さ」
「だといいな」
「そうさ。俺が保証してやるよ」と彼は景気づけるように俺の背を殴った。衝撃で煙草を落としそうになる。
「痛ってえな、加減しろ!」
「悪い悪い。まぁ、順調そうで良かった」と悪びれもせず、明るく笑い飛ばして、ヘンリックは屋敷の方に視線を向けた。
「スーの事も心配だったが…少し擦れちまったが、わりと元気そうだ」
「いつの間にか煙草を覚えやがった。
酒も飲むようになったし、最近は誰に教えられたか知らんが、女を口説くようになったよ…」
「お前より成長してるじゃねぇか?
毎回違う女友達を連れ込んでも大目に見てやれよ」
「馬鹿野郎!それこそ変な噂が立つだろうが!」
「真面目な保護者だな…」肩を竦めて、ヘンリックはやれやれとため息を吐いた。
「あいつだって連れ合いが欲しいだろうさ。
お前らが幸せそうにしてるのを、指を食わえて見てるだけなんて可哀想だろう?」
「ガキには早ぇよ」
「何言ってんだよ。久しぶりに会ったら顔も少し男らしくなったじゃねぇか?背だってちょっと伸びた」
言われてみれば確かに…
背は少し伸びたかもしれん。ソーリューと並ぶと少しだけ高くなった気がする。
あいつは、いつまでも子供のような気がしていた…
「あいつの成長も喜んでやれよ」とヘンリックはニッと歯を見せて笑った。
「いや、でも、女を連れ込むのはちょっと…」
「何だよ?猫みたいに路地裏で済ませて来いってか?」
「そんな事言ってねぇだろ!」
「しゃーねーな…俺が教えてくるか?この辺に妓館はないのか?」
「お前な!嫁さんに告げ口するぞ!」
嫁のいない所で羽を伸ばそうとするヘンリックを一喝すると、彼は「それは…お前、ちょっと…」と鼻白んだ様子で口篭った。
何だよ、こんな大男を尻に敷いてんのか?
とんでもねぇ姐さんだな。
笑う俺にヘンリックは「笑えねぇよ」とボヤいて煙草の煙を口に含んだ。
「まぁ、これが気が強くてな…」と彼は愚痴をこぼした。
「お前の嫁さんは控えめで羨ましいよ」
「何だよ?替えてやんねぇぞ?」
「頼まれたって御免だ。あのお姫さんは綺麗すぎらぁ…
俺にはビアンカくらいが丁度いい」と彼は笑った。
何だよ、しっかり気に入ってるじゃないか…
そう茶化す言葉は、煙草の煙と一緒に飲み込んだ。
俺たちみたいなおっさんになっても成長するもんだな…
そんな事を思った俺の口元に笑みが漏れた。
✩.*˚
翌朝、早くに起こされて、森に入った。
「いい森だな」とヤーコプが呟いた。
「大きな木が沢山残っている。前の領主は木を大事にしてたみたいだな」
「アーケイイックの森はもっと大きな木があるよ」
「そうか…一度は行ってみたいが、生きて帰れる気がしないから遠慮する」と彼は静かに笑った。
「剛山羊には興味があるけどよ。俺達には無理な獲物だ」とヨハンが弓弦の張りを確かめながら言った。
プライチェプスの毛皮は高値で取引されるらしい。
アーケイイックの山の断崖に住む、大型の山羊みたいな姿をした牛の仲間で、丈夫な毛皮は魔法を刻むのに適している。気性は荒く、飼い慣らせないので、毛皮が必要なら狩猟で手に入れるしかない。
俺も生きてる姿は見たことはなかった。
「お前はアーケイイックには戻らないのか?」とヨハンが思ったことを口にした。
彼らは俺が帰れなくなった事を知らない。
悪気のない、むしろ気遣う言葉が俺の胸の傷を抉った。
「…帰るための腕輪を失くした」と答えて唇を噛んだ。あの腕輪がなければ、父さんの所には戻れない。
ワルターたちも探してくれていたが、手がかりは全く無かった。
腕輪を失くした俺に、レプシウス師は魔法の制御を丁寧に指導してくれたが、勝手が違うので苦戦していた。
あの腕輪に依存していたツケが回ってきたのだ。俺は今までずっと父さんに守られていたのだと知った。
「大変じゃねぇか!どんなんだよ?!」その辺で落としたものを探すような慌てた様子のヨハンを、ヤーコプが拳で黙らせた。
「例の奴らか?」と短い言葉に全てを詰め込んで、ヤーコプは俺の返事を待った。
「まあ、そんなところだよ…」
「ヨハン、お前はもう少し考えてから物を言え。
…すまんな、スー。こいつには悪気はねぇんだ…」彼は弟の失言を謝った。同じ日に生まれた同じ顔の双子でも、兄は兄なんだ、と思って少し感心した。
「良いよ。ヨハンは心配してくれたんだ」と笑ってみせたが、上手く笑えたかは分からなかった。
この話は終わりにしたかった。
「そういえば《雌鹿笛》はないのか?」とあの便利な道具を期待した。
「あぁ、そういえば置いてきたな」
「まさかこんなことになるなんて思ってなかったしな。自力で探すっきゃねぇな」と双子は顔を見合わせて、はははっと他人事のように笑った。
「なんとかなるよ、そういうもんだ」
「なるようにしかならねぇよ、そういうもんだ」
二人で合言葉のようにそう言って、さらに森の奥に向かって歩き出す。
「三頭だよ、大丈夫?」
「へーきへーき」とヨハンは余裕そうだ。
「ワルターの兄貴は今日明日中にとは言わなかったぜ。気長にやろうや」とのんびりとした様子だ。
「今日は下見程度になっても良いだろう?
初めて来る場所だしよ、森に挨拶に来たってことで構わんだろ?」
「猟師なんてな、せっかちな奴じゃ務まらんのよ。
山の神様なんて気紛れなんだ、女と一緒で気長に付き合ってやらにゃならんのさ。
機嫌を損ねりゃ振り向いてもくれなくなるぜ」
交互にそう口にする彼らは全然焦っていない。
「そんなもんかな?」
「そんなもんさ、世の中なるようになってんだ。
俺たちだって、出会うべくして出会ったんだ。世界はそうやって何となくで回ってんのさ。
時が来れば、その時の次第で物事は進んでく。お前はお前で大きく構えてろよ、《妖精》」
「探し物も、慌てて探してると見つからんもんさ。諦めずに、腐らず、気長に構えてりゃ、向こうから転がってくるぜ」
ヘラヘラと尤もらしく語る彼らの視線の先に、大きな角の雄鹿が現れた。
言った通りだろ?と言わんばかりに、双子は同じ顔で俺に笑って見せ、申し合わせたように、息ぴったりで弓を引いた。
「まず一頭」と二人が同じ顔で俺に向かって笑った。三人で僥倖に手を叩きあった。
仕留めた雄鹿を荷馬車まで運んで車に乗せた。その頃にはもう昼も過ぎて、西の空に太陽が吸い込まれていく所だった。
「明日も気長にやろうぜ」と双子はニッと笑って俺に言った。彼らの言う通り、俺は焦り過ぎなのだろうか…
「俺も…諦めなければ帰れるか?」腕輪は見つかるだろうか?そう信じたい自分がいた。
俺の心の内を察するように、双子は「諦めんなよ」と励ましをくれた。
「諦めたらそこで終いだからよ、気長に探そうぜ」
「仲間が居るんだ。きっと見つかるさ」
二人の心強い返事に胸の奥が熱くなる。
仲間の言葉を信じていたい。そう強く思って、俺は帰り道に煙草を咥えた。
煙草の煙は、馬車を追いかけて来る黄昏に溶けて消えた。
ウィンザー公国が滅んだことで、オークランド王国が大義名分という拳を振りかざし、殴りかかってくるかと思っていたが、かの国もそれどころではなかったらしい。
あのブルーフォレストの役から平穏な生活が二年近くも続いていた。
その間に旧ウィンザー領も普段の生活を取り戻しつつあった。
小競り合いは続いているが、大規模な侵攻や戦闘は今の所ない。
「傭兵を辞めてよかったな」と皮肉混じりに俺が呟くと、彼は「違いねぇ」と笑った。
「領主様がこんな所で一人で油売ってて良いのか?」と訊ねると、彼は「いいさ」と煙草を口に咥えた。
彼の拝領したブルームバルトは、俺たちが戦ったブルーフォレストの山裾に広がる、のどかな田園地帯だ。
頼れる鍛冶屋が無いからと、わざわざシュミットシュタットの俺の工房にまでやって来た。
「なあ、ギル。俺の所に移ってくれよ」
「俺を召抱える気か?御免だ」
「傭兵じゃなくて、鍛冶屋としてさ。
ここよりずっと田舎だが、いい所だぜ。嫁さんも親父さんも不自由させねぇよ」
「親方も歳だし、新しいところに移るのは負担だ。アニタにも無理をさせたくない」
「まあ、知らない土地に移るのは難しいかもしれんが…」
「そうじゃない。アニタはこれだ」とジェスチャーで伝えた。
ロンメルは「マジか!」と驚きながらも、めでたいと祝福してくれた。
「いつ産まれる?」と、この人の良い男は自分の事のように喜んでくれた。
「まだ半年くらいだから、今年の秋頃か…」
「そうか、来年には俺の所に来れそうだな!」
「…お前…話聞いてたか?」
「何だよ?俺の町に腕のいい鍛冶屋が来て、ガキも着いてくるってんなら大歓迎だぞ。テレーゼも喜ぶ」と勝手に話を進めた。
彼に嫁いだ小さな奥方は、町に小さな無料の診療所と子供に文字等を教える学校を用意したらしい。
貴族としての奉仕活動に熱心で、領主より人気があるようだ。
「まあ、お前のところの親方に相談してくれ。
俺のところはいつでも待ってる」
彼はそう言って「産まれたら教えてくれ」と人懐っこく笑っていた。
彼は一人で勝手に喋って、勝手に「またな」と約束して帰って行った。
「なんか、貴族と言うより、近所の友達みたいな人だね」とアニタが腹を擦りながら笑っていた。その手には俺の贈った指輪が光っていた。
目立ち始めた腹の中には俺の子がいる。
彼女の腹に手を伸ばして触れた。時々動くのを感じる。赤ん坊は彼女の中で無事に育っていた。
「無理するなよ?」と働き者の彼女の身体を心配した。
「あたしはそんなにヤワじゃないよ」と笑う明るい彼女が愛おしい。
吸い寄せられるようにキスをした。
人並みの幸せに浸る生活ができるのは、あの男のおかげだ。感謝している。
遅かれ早かれ、俺の存在がバレれば、この土地を追われることは必至だったろう。そうなれば、彼女らにも迷惑をかけたはずだ。
オークランドに戻れば、《祝福》を持つ者として、人間を辞める道しか残されていない…
ようやく出来た家族とも別れねばならない…
それは死ぬより辛かった…
「アニタ。お前と親方に相談することがある」と告げ、彼女の腰に手を回して、支えながら家に入った。
いつの間にか、あの男の魅力に取り憑かれている俺がいた。
彼の親切に報いる方法を探していた。
✩.*˚
弓弦を引き絞って矢を放った。
「ギャン!」悲鳴を上げ、狼は引きずっていこうとした子牛を放した。
その場にしゃがみ込んだ子牛に、また別の狼が牙を剥いた。
二本目の矢がそれを許さなかった。
若い狼の群れは子牛を諦め、すごすごと森に帰って行った。
「ありがとうございます」牛の飼い主が礼を言って頭を下げた。
「被害は?」と訊ねると、彼は「あの子牛だけです」と答えた。
「犬が気付いてすぐに逃がしてくれたので他の牛は無事です。生まれてすぐのこの子牛だけ逃げ遅れてしまったので、もう助からないと思っておりました」
「へぇ、君は優秀だな」と足元で尻尾を振っている、毛足の長い大きな犬を褒めた。
狼に襲われていた子牛に歩み寄ると、恐怖で立つこともできず、プルプルと震えていた。睫毛の並ぶ大きな黒い瞳は、目の前の物全てを恐ろしく映しているのだろう。
牛飼は慣れた様子で子牛を抱えると、お辞儀をして、犬を連れ、その場を後にした。
「ユッタ!帰るぞ!」乗り捨てた馬を呼ぶと、馬は小走りで戻って来た。その背に跨って、人と獣の境界を確認した。
「柵が要るかな?」後でワルターたちに相談しよう。
「俺たちも帰ろう」とユッタに声をかけた。愛馬は言葉を理解して、ゆっくりした足取りで屋敷に向かって歩き始めた。
ワルターに与えられた領地に移って、既に半年が経過していた。
ロンメル夫妻は人気者だ。
領主なのに、小作人たちと一緒になって働いているワルターを、ブルームバルトの人たちは、戸惑いながらも安堵して喜んで受け入れた。
テレーゼの美しさと聡明さも、彼の人気に一役買った。
彼女は自分の資産を使って、町に診療所と小さな学校を用意した。小さな町は新しい領主夫妻を歓迎した。
ハンスは家宰としてロンメル家に残ってくれた。彼が残ってくれてよかった。ワルターだけじゃ不安しかない。
ドライファッハから来たエルマーの部下だった奴らと、ロンメルと縁のある騎士が二組ワルターの部下に加わった。
ギートら元傭兵組と、騎士たちの間でトラブルは多少あったが、ワルターが上手く収めていた。
そのうち軋轢もなくなって、今では上手くやっている。
ワルターには人を纏め上げる才能があるのだろう。彼を慕う人は多かった。
「何処に行ってた?」
屋敷に戻った俺を見て、ソーリューが訊ねた。彼の傍には花壇の柵につかまり立ちをする幼児の姿があった。
「森の近くで狼が出たから追い払って来た」と答えて馬を降りた。
俺に気付いたルドが、「あー」と、言葉にならない声を上げ、危なげな足取りで寄ってきた。
「少し歩くようになった。目が離せん」とソーリューはボヤいていたが、その言葉とは裏腹に、彼はルドの成長を楽しんでいた。
疲れたのか、ペタンと座り込んだルドを抱き上げて、柔らかい頬に頬ずりした。ルドからは乳飲み子の特有の幸せな甘い香りがする。
「ちょっとエルマーに似てきた?」
「目元がな。親子だ」とソーリューが頷く。
垂れた目元はエルマーにそっくりだ。
「じゃあ、強くなるな、ルド」日に日に重くなる子供の成長を喜んだ。
ルドを抱いたまま、馬の手綱を引いて馬房に馬を預けに行くと、馬房の掃除をしていたギートが俺たちに気付いて手を止めた。
「よお、スー、ルド」ギートが笑顔でエルマーの子供を撫でた。ルドも彼に懐いていた。
「お疲れ様。ユッタを預けても良いかな?」
「おう」と応えて彼は馬を引き受けた。
「何か手伝うことあるかい?」
「いや、特にねぇや」と彼は笑って、ルドのほっぺを触って癒されていた。
「兄貴に似てきた」と、彼もルドの成長を喜んでいた。
ルドを連れて、裏口から屋敷に入ると、厨房にシュミット夫人とミアの姿があった。
「ルド、スーと一緒だったの?」
ルドはミアに気づくと小さな手を一生懸命伸ばして、母親を求めた。
ミアにルドを渡すと、親子は再会を喜んで、厨房に笑顔が満ちた。
「ラウラ、調子はどう?」と笑顔でミアとルドを眺めていた夫人に声をかけた。
彼女は笑顔でお腹を撫でながら「順調ですよ」と答えた。ハンスの三人目の子供がお腹にいる。
「触っても良い?」
「いいですよ。足癖が悪い子なので、時々足の形がわかるくらい蹴飛ばしてきます」と彼女は幸せそうに笑った。
暖かい、幸せが詰まったお腹に手のひらを当てた。お腹から衝撃が伝わった。
「あ!」
「蹴りましたね」
「すごい!元気だ!」お腹の子供の反応に嬉しくなる。この子は確かに生きている。
「スー、夕餉までルドを預かっててくれない?」とミアが僕にルドを託した。
ルドは悲しそうな声を上げたが、ミアも仕事で忙しい。彼女は身重な夫人の分まで働いていた。
厨房を後にし、ルドを抱いて長い廊下を自分の部屋に向かって歩いた。
グズグズ泣いていた幼児は、いつの間にか疲れて眠ってしまったようだ。
歩く振動が揺りかごの代わりになったのだろう。
スースーと寝息を立てて眠るルドはじっとり汗をかいていた。
守られるだけの幼子は、俺たちを幸せで満たしてくれる。
この温もりを守ると心に誓って、汗ばむ子供の額に接吻を贈った。
✩.*˚
「柵かぁ…」
帰って来るなりコレだよ…
郊外に時々狼が姿を見せるとは聞いていたが、人への被害がなかったから後回しになっていた。
「作るのはいいがよ…先立つものは金だぜ?」世知辛い返事になってしまった。
狼対策の柵となると丈夫で背の高いものでなければ意味が無い。予算はまあまあ必要になる。
領民の為ならまだ分かるが、牛のために予算出せるのか?
いや、牛は牛で必要だが、町の連中がいいと言うかどうかだ…
「とりあえず、町長たちと相談の上だな…」
「そうか…」とスーは肩を落とした。
「まあ、町の連中が必要だと思ったら対策はするさ」
そう言ったものの、いい返事は難しいだろうな…
翌朝町長の家に相談に向かった。
俺の憂鬱な気分とは裏腹に、町の代表はあっさり「いいですよ」と二つ返事で応じた。
「実は以前から領主様にお願いをしておりましたが、いつも『検討する』の一点張りで放置されておりました」
欲しかったのか…なら話は早いが、問題は金だ。
「悪いが俺の所もあまり大きな事業には出来んのだ。予算はどのくらいになる?」
「何を仰いますか?領主様が奉仕作業として呼びかけていただければ、手の空いてるものが皆でお手伝い致します」
「は?」それはタダ働きしろって命令しろってことか?傭兵だった俺からは考えられない事だ…
「いや、でも、報酬は…」
「それは我々で何とかします。領主様は奉仕作業の呼び掛けと、御領地の木材の採取の許可を頂戴するだけで結構です。
牛がいなければ生活できないのは我々の方です。
これまで何度も牛や羊が狼に襲われています。
その都度、乳製品や肉などが値上がりして苦しい思いをするのは我々の方なのですから、放牧地の柵作りくらいお手伝いします」
「そうか。俺にできることがあればなんでも言ってくれ」
「後回しになるようなことを気にかけて頂き、感謝致します。すぐに手配致します」と町長は喜んでいた。
どうやら前の領主は放牧地の整備を渋っていたらしい。
「奥方様のおかげで、子供たちは文字を学び、怪我や病気の者も気負わずに医者の世話になることができています。
これだけのことをして頂いて、奉仕作業を渋る者などおりません。むしろ自分たちの為と喜んで集まります」
「それはテレーゼの手柄だな」と笑うと、町長は「それだけじゃございません」とさらに感謝を口にした。
「ご領主様の存在のおかげで、賊もこの周辺で騒ぎを起こすことも無くなりました。
道の安全も確保されたので、物流も安定しております。おかげで生活しやすくなりました」
「そりゃ、山賊たちには悪いことしたな」とおどけてみせると、町長も髭の下で笑った。
「まぁ、細かいことは牛飼たちと相談してやってくれ。
必要なら木を切る許可も出すし、作業に護衛が必要なら俺の部下を送る。
あんたらの良いようにやってくれ」
「感謝致します」
「よせよ、俺はなんにもしてねぇや。面倒事を持ってきただけだ」と苦く笑って、町長の家を後にした。
もう昼になりつつある。
町には人が溢れていた。
馬に乗って屋敷に帰る途中、馴染んだ町の連中と挨拶して通り過ぎる。中には収穫したばかりの野菜や果物を差し入れてくれる奴もいた。
良い町だ…
ドライファッハも活気のあるいい街だったが、ここもいい所だ…
子供たちが元気な歓声を上げて俺に手を振った。
今日はテレーゼの学校はないらしい。
「ご領主様!あれ見せて!」とはしゃぐ子供たちに「いいぜ」と応えて馬を降り、氷の像をこしらえた。
氷もだいぶ細かく制御できるようになったから、形も自在に変えることが出来た。
氷で馬を作ってやると、子供たちから歓声が上がる。
子供相手に得意げになって、オマケに犬も作ってやった。
「ねえ!テレーゼ様も作って!」とリクエストがあったが、「そいつは無理だ、難しすぎる」と答えた。
「この国で一番の美女だぜ、難しすぎらぁ」
そう言いながら彼女を思った。
彼女は日を追う事に美しくなる。背も少し伸び、女性らしい成長も見られた。
相変わらず、理性と本能のギリギリの攻防が続いていたが、まだもうしばらく約束の日まで時間がある。
彼女の顔が見たくて、子供らと別れて、また家路を急いだ。
✩.*˚
「これはまた…領民から搾り取る悪徳領主ですね」
ワルター様の持ち帰った籠を受け取って、シュミット様が笑いながら意地悪を言った。
「人聞き悪ぃな、貰ったんだよ」
「用事に出てって、食べ物もらって帰ってくるなんて子供みたいだ」とスー様も笑っている。
「全く…なんて奴らだ…」とボヤきながら、ワルター様はすぐに私のところに来て、腕の中に招いてくださった。
「テレーゼ、お前のおかげで町長との話がスムーズに済んだ。ありがとうよ」
「お役に立てて何よりです」とお応えすると、ワルター様は嬉しそうなお顔を見せてくださった。
「柵は?作るって?」とスー様がワルター様に話し合いの結果を訊ねられた。
郊外の放牧地に狼が来るらしく、その対策として、ということらしい。
「あぁ、町の連中も前から欲しかったらしい。
前の領主が渋ってたみたいだな。まぁ、多少木を切ることになるから、仕方ないと言えば仕方ないんだろうが…」
「良かったね」
「しかしな、あいつら奉仕作業にするから報酬要らんとか言うんだ…
俺からしたら信じられねぇよ、欲のない奴らだ…」
「領民も、自分たちの生活に直結する事には関心がありますからね。木材の入手さえ目処が立てばするつもりだったのでしょう。
彼らにとっても渡りに船だったのでしょうね」とシュミット様がお答えになられた。
「良心が痛むなら、酒でも振る舞われればよろしいではないですか?」
「そんなんで良いのか?」
「節約できるところは甘えさせて頂きましょう。
しばらく人頭税と地代での収入がないですからね。侯爵家が無利子でお貸し下さいますが、それでも現状はかなり厳しいですよ…
子供も増えるというのに、いつまでもこんな薄給では妻に愛想をつかれてしまいます…」
「…悪かったな、頼りない旦那様で…」
「お祝いさせていただきますわ」
「奥様はお構いなく。旦那様には家長としてしっかりして頂かねば…」
皮肉の効いた言い回しをしながらも、シュミット様は旦那様をよく補佐してくださっている。
この皮肉の効いたやり取りが、お二人の仲の良さを物語っていた。
「まあ、今日は食材を調達してきたので良しとしましょう。酒の調達も何とか致します」
「世話をかけるな」
「本当に、手のかかる旦那様だ」とシュミット様はわざと意地悪く言って笑っていた。
話を終えた頃にミアがルドをスー様に預けに来た。
「俺にも抱かせてくれよ」とワルター様は自分からルドを抱いた。
子供を抱くのに抵抗の無くなったワルター様は、ルドを高く抱いて子供の笑い声を楽しんでいた。
「あうー」
「何だ?足りないか?」
本当の父親のように赤ん坊をあやす姿に、少しだけ嫉妬してしまう自分がいた。
「ほら、別嬪さんだぜ」とワルター様はルドを私に向けて笑った。ルドが私の方に移ろうと手を伸ばした。
「おいで、ルド」
旦那様の手からルドを受け取る。
ワルター様が軽々と抱いていた赤ん坊は、幸せを詰め込んでずっしりと重く、大きくなっていた。
甘いミルクの香り…幸せの香りだ…
「ふふっ」と小さく笑ってルドのふわふわのほっぺを堪能した。小さな手も肉付きが良く触り心地が良い。
ルドも可愛いけれど、やっぱり自分の子供が欲しい…
16の誕生日が待ち遠しかった…
✩.*˚
「もしかしてスーか?」
特に目的もなく、ブルームバルトの町をブラブラと歩いていたら声をかけられた。
聞き覚えのある声に振り向くと、それはやはり知った顔だった。
「ヘンリック?!」
「やっぱりスーだ、久しぶりだな!元気になったみたいだな!」ヘンリックは嬉しそうに破顔して手を差し出した。その手を取って再会を喜んだ。
「何で君がここに?」
「しばらく戦がなくて暇でな…
暇ついでに、ワルターの町を見に来た」
「君だけ?ゲルトは?」
「叔父貴も来てる。エルマーの子供を見にな」と彼は笑って、来た道を振り返って手を振った。
眼帯をつけた白髪の老人は、目立っていたからすぐに見つけられた。
彼の取り巻きに背の高いカミルの姿と、あの猟師兄弟の姿があった。
「よお!スー!」「心配してたんだぜ、元気か?」とヨハンとヤーコプが代わる代わる僕に手を差し出して握手をした。
「俺はもう大丈夫だよ、ありがとう」と礼を言って、今度はゲルトに向き直った。彼の隣にはカミルの姿が影のようについて回っている。
「元気か?」
「ゲルトこそ、年寄りだから心配したよ」
「相変わらず口の減らんガキだ」と彼も相変わらず悪態を吐いた。
「まだ、町に着いたばかりでな。屋敷まで案内してくれないか?」とヘンリックが僕に案内を頼んだ。
「いいよ」と応えて目立つ一行を連れてロンメルの屋敷に案内した。
「おや?珍しいお客さんですね」と彼らを見つけたハンスが驚きながら客人をもてなした。
「だれー?」好奇心の強い子供たちがやって来て訊ねた。
「ワルターの友達で俺の友達」と答えると、子供たちも「じゃあ友達」と笑い声を上げながらヘンリックらに挨拶した。
「挨拶もできて懐っこい、いい子たちだな」とゲルトは嬉しそうに子供たちの頭を撫でたが、俺はその言葉にゾッとした。
《いい子》の呪いはまだ俺の中に残っていた…
もう随分時間が経っているのに、時折、クリスのあの声が鮮明に聞こえることがあった…
「どうした?」固まった俺にヘンリックが訊ねた。慌てて「何にも…」と誤魔化したが、動揺していた。
「まだ辛いのか?」
「大した事じゃない」とできるだけ平静を装って、屋敷の中に彼らを案内した。
「ワルターは出かけてるし、テレーゼも学校に行ってるよ」
「学校?」
「無償で子供たちに読み書きを教えてる。他にも簡単な計算とかも教えてるらしいよ。
そのうち魔導師も呼んで、少しずつ科目を増やして大きく出来たらって話してたな」
「へぇ、うちのガキどもも預けに来るか?」とヤーコプたちも感心していた。
「この子らは行かんのか?」とゲルトが子供を両手にぶら下げて訊ねた。本当に子供が好きなんだな…
こう見ると孫を可愛がるおじいちゃんだ…
「僕たちは絵本の日だけ行くー」
「私はお兄ちゃんの行く日だけ行くー」と二人でケラケラ笑っている。
「おいおい?勉強は?」
「その子たちには簡単すぎてダメなんだ。
その子たちには別の家庭教師がついてるから」
「何の勉強だ?」
「三ヶ国語と詩の暗記、暗算、礼儀作法とか」と俺が答えると、二人は自慢げに追加した。
「あと僕は簿記してるよー」
「音楽もー」
「おいおい、まだガキだぜ?詰め込みすぎだろ?」
「優秀なんだよ。両親共に優秀だからね」驚いているヘンリックたちの元に、ハンスから来客を聞いた夫人が夫と挨拶に現れた。
「何だ?ご内儀はおめでたか?」
夫人の大きくなったお腹と、ハンスの気遣う様子から察したゲルトが訊ねた。
「無理しちゃいけねぇ。迷惑になるようなら外で宿をとる」
「迷惑など…せっかくお越しくださいましたのに」
「無理させて子供に何かあったらどうする気だ?
おい、シュミット!お前も亭主なら止めねぇか!」
「ご安心を、使用人なら他にもおります。何も彼女一人に全部させたり致しませんよ」と言いつつ、ゲルトの気遣いに感謝を述べていた。
「叔父貴は子供と妊娠中の女性には優しいんだ」
「みたいだね」とヘンリックの言葉にクスクスと笑った。
「スー、ミアは?元気か?」とヘンリックはミアのことを訊ねた。
「俺がエルマーに余計な世話を焼いたからな…
あんなことになって残念だ」とヘンリックは悔しさを滲ませた。
「まぁ、ね…」歯切れの悪い返事をして苦笑いした。
彼が責任を感じることなどないのだ…
全部俺のせいなんだから…
滅入るような重い気持ちが湧いたが、それを打ち消すように幼児の泣く声が聞こえた。
「ルド、起きちゃった」とケヴィンが、ゲルトの膝から滑るように降りて駆け出した。
しばらくして、涙目になってる幼子の両手を引きながらケヴィンが戻ってきた。
「おお!よく来たなチビ助!おいでおいで!」
よちよち歩きのルドを見て、ゲルトが椅子から立ってルドを呼んだ。
知らないお爺さんを見て驚いてしまったらしい。
ルドはまたわーんと泣き出した。
「叔父貴…」見てられないと言わんばかりに、ヘンリックが片手で目元を覆った。カミルは黙って苦笑いだ。
「親父さん…チビ助ビビってますぜ…」
「初めてご対面なんだから、向こうから来るの待ってやった方が…」と双子も何とも言えない顔をしている。
「ルド!どうしたの?」
いつもと違う鳴き声を聞きつけたミアが、濡れた手のまま走ってきて、ルドを抱き上げた。
「やあ、ミア」とヘンリックが彼女に挨拶した。
「…ヘンリック」
「元気そうで安心した。ビアンカにいい報告ができそうだ」ヘンリックはそう言って、懐から小さな包みを取り出して彼女に歩み寄った。
ヘンリックに怯えたルドが、母親に強くしがみつくのを見て、彼は少し苦笑いした。
「遅くなったが、ビアンカと俺からプレゼントだ」と包みを開けて銀のスプーンをルドの視界にチラつかせた。
「あー」キラキラのスプーンに釣られてルドが手を出した。小さな手にスプーンを受け取ると、すぐに口に運んでしゃぶった。
「いっぱい食ってデカくなれよ」
大きな手のひらが、スプーンを頬張るルドの頭を優しく撫でた。
「ありがとう…ビアンカにも…」とミアは言葉を詰らせながら礼を言った。
「伝えるよ」とヘンリックは人の良い笑顔で応じた。
「ビアンカも来たがったが、腹に二人目がいるから置いてきた。
ガキどももウチの奴らもケツ叩かれてビビってら。スゲェ肝っ玉母ちゃんやってるよ」
「あの子らしいや」とミアは懐かしい友達の話を聞いて嬉しそうに笑った。
ルドがヨダレまみれのスプーンをミアに見せて「うー!あー!」と大きな声を上げた。贈り物を自慢しているみたいだ。
「良かったね、ルドのだよ」
ミアの言葉に、「きゃー!」と歓声を上げ、スプーンを手にケラケラ笑う幼児はご機嫌になっていた。
「気に入ったか?食いしん坊?」
プレゼントを気に入ってもらえて、ヘンリックも嬉しそうだ。
「抱っこしていいか?」と彼は、ミアに子供を貸してくれるように交渉した。
「いいよ。いいよね、ルド?」
ミアがヘンリックにルドを手渡した。
身体の大きなヘンリックに抱かれると、まるで大きな木の空洞に収まった梟の雛のように見える。
彼はルドの顔の作りを見て「親父に似たな」とルドを褒めた。
「叔父貴がさっきから、お前を抱きたくて堪らんらしい。泣かんでやってくれよ」とおどけた台詞を口にして、彼はルドをゲルトに対面させた。
ルドはお気に入りのスプーンを宝物のように握って、ご機嫌な様子だ。
ゲルトに抱かれてももう泣かなかった。
「堪らんなぁ」と、お爺さんは嬉しそうに、他人の子供をあやしている。俺の知ってるゲルトとはまるで別人だ…
その姿にヘンリックが苦笑いを浮かべて肩を竦めた。
嬉しいような恥ずかしいようなそんな顔…
賑やかにしていると、そこにワルターが帰って来た。
「何だ?客か?」と応接間を覗いて彼も驚いていた。
「何だよ?久しぶりな顔が並んでるじゃねぇか!」
「おう!ワルター、邪魔してるぜ!」
彼らは、手を打ち合って再会を喜んだ。
「ちと暇でな。遅くなったが、お前の町とエルマーの子を見に来た」
「なるほど…で?あれか?」とワルターの指さす先には孫たちと遊ぶお爺さんが居る。
「まぁ、そんなところだ」とヘンリックも苦笑いで応えた。
ワルターは猟師兄弟を見つけて、嬉しそうに彼らに歩み寄って挨拶を交わした。
「いい所にちょうどいい連中がいるじゃねぇか!」
「どういう意味で?」とヤーコプが首を傾げる。
「実はちょっと家畜の狼害で困っててな。町の連中と放牧地を柵で囲う話し合いをしてきたところだ。
お前ら狼も狩るんだろ?駆除を頼んだらしてくれるか?」
「まぁ、必要ならやりますがね」とヤーコプはあまり乗り気では無さそうだ。
「やりすぎると今度は森が荒れるから、必要最低限に留めておかにゃなりませんぜ」
ヤーコプとヨハンは狼を狩るのに慎重なようだ。
「狼は森の番人だ。あいつらが居なくなると、鹿が好き勝手するし、猪も里に降りてくる」
「やっぱり柵の方が良いか…」
「まぁ、人間襲うようなら駆除も考えた方が良いでしょうな。でも狼は大事にした方がいい」と猟師兄弟はワルターにアドバイスした。
「どうせ暇なんだ。何かするなら逗留する間、俺たちも手伝うよ」とカミルが言ってくれた。
「そいつは助かる。
なんせ駆け出しの貧乏貴族なもんでな、金がねぇんだ。無駄遣いすると、そこの怖い顔に睨まれるんでな」
「奥様のクローゼットが空になってもよろしいのでしたら勝手にどうぞ」とハンスに言われてワルターはぐうの音も出ない。
実際に、やり繰りをする上で、テレーゼは自分の嫁入りに持って来ていた品の一部を売ってお金に替えていた。
彼女はロンメル家のために、惜しみなく、自分の大切な宝飾品を売り払った。その中には、彼女の母親が残してくれたものも含まれていた。
『三年乗り切れば、何とかなりますわ』と彼女は明るく振舞っていたが、本当は手放したくなかったはずだ。
ワルターもそんな彼女に応えようと、できる限りの事はやっていた。
そんな彼らだからこそ、町の人たちも柵作りを奉仕作業として引き受けてくれたのだろう。
「じゃあ、狼は諦めるから、鹿を三頭ばかり狩って来てくれねぇか?
酒と一緒に奉仕作業してくれた奴らに振る舞うからよ」
「へぇ…だってよ兄貴」
「あんたの頼みなら構わねぇがよ、俺らがやっていいのか?ここの猟師だっているだろ?」
「前の戦で徴兵されて死んじまったらしい。
管理する奴が居なくて正直困ってんだ」
「なら断る理由もねぇな…
《妖精》、お前も来るか?」とヤーコプが僕も誘ってくれた。「行くよ」と即答した。
食べ物の話に釣られたのか、ルドが大きな声で叫びながらスプーンを振り回している。
「お前にも食わせてやるよ」とワルターが笑いながら軽々とルドを抱き上げた。
「おい、食いしん坊。いいスプーン持ってるじゃねぇか?」
「ヘンリックとビアンカからだって」と彼に教えた。
「銀のスプーンか。ルドにはちょうどいいな」
「お前のガキが産まれたらまた用意してやるよ」とヘンリックに言われて、ワルターはまた苦笑いを浮かべていた。
✩.*˚
「田舎だがいい町だな」と、ヘンリックは俺の町を褒めた。
庭で夜風に当たりながら、煙草を呑んで二人で話をしていた。
「戦のせいで人も少なくなってるし、まだ足りないものだらけだけどな…
あいつら頑張ってんだ。俺もできることはするさ」
「いい領主様じゃねぇか」と彼は笑って煙草を咥えた。
「テレーゼとシュミットのおかげだ」
あの二人が居なかったら、こんなスムーズにいかなかったろう。
傭兵上がりの、うだつの上がらないおっさんが、いきなり領主になったんだ。難なく受け入れる方がどうかしてる…
しかもごく最近まで、戦争してた国の人間だ。
石を投げられてもおかしくないと、覚悟していた。
到着して早々に挨拶に回ったが、最初は良い顔はされなかった。田舎は余所者に厳しい。
そんな歓迎されない中でも、テレーゼはシュミット連れて、市や広場に足を運んでは熱心に町に必要な物を確認して回っていた。
町医者も徴兵されていたから、ほかの町から医者を呼び寄せ、無料の診療所を手配し、食うに困っている孤児や病気の者を保護する施設も用意した。
彼女は子供たちのために絵本を寄付したが、字が読める人間なんて限られている。
そう気づいた彼女はすぐに私塾を開いて、本の読み聞かせをしながら、子供らに読み書きを教え始めた。
熱心に奉仕活動をする彼女に、町の連中も『奥様』と慕うようになった。
彼女は煌びやかなドレスはクローゼットの奥にしまいこんだ。
その辺の町娘が着るような質素な服にエプロンを身に付け、侍女のアンネを連れて出かける姿は生き生きしていた。
その姿に、似てないのに、エマの姿が重なった。
彼女の事がますます好きになっていた。
俺も暇だから、手の必要な時は色々と手伝いに行った。そのうちに、子供と関わるのが楽しくなった。
彼女の塾は大きくなり、町の連中も手伝うと申し出る者も現れ、学校と呼べるほどの規模になっていた。
町の連中で、ロンメルの悪口を言うような奴は居なくなった。
「俺は彼女のオマケだ」とヘンリックに言って笑った。
全部彼女の手柄だ。俺はそれに乗っかっただけだ。
「でもお前も良いと思ったから止めなかったんだろ?彼女もお前も、街の奴らからしたら良い領主様さ」
「だといいな」
「そうさ。俺が保証してやるよ」と彼は景気づけるように俺の背を殴った。衝撃で煙草を落としそうになる。
「痛ってえな、加減しろ!」
「悪い悪い。まぁ、順調そうで良かった」と悪びれもせず、明るく笑い飛ばして、ヘンリックは屋敷の方に視線を向けた。
「スーの事も心配だったが…少し擦れちまったが、わりと元気そうだ」
「いつの間にか煙草を覚えやがった。
酒も飲むようになったし、最近は誰に教えられたか知らんが、女を口説くようになったよ…」
「お前より成長してるじゃねぇか?
毎回違う女友達を連れ込んでも大目に見てやれよ」
「馬鹿野郎!それこそ変な噂が立つだろうが!」
「真面目な保護者だな…」肩を竦めて、ヘンリックはやれやれとため息を吐いた。
「あいつだって連れ合いが欲しいだろうさ。
お前らが幸せそうにしてるのを、指を食わえて見てるだけなんて可哀想だろう?」
「ガキには早ぇよ」
「何言ってんだよ。久しぶりに会ったら顔も少し男らしくなったじゃねぇか?背だってちょっと伸びた」
言われてみれば確かに…
背は少し伸びたかもしれん。ソーリューと並ぶと少しだけ高くなった気がする。
あいつは、いつまでも子供のような気がしていた…
「あいつの成長も喜んでやれよ」とヘンリックはニッと歯を見せて笑った。
「いや、でも、女を連れ込むのはちょっと…」
「何だよ?猫みたいに路地裏で済ませて来いってか?」
「そんな事言ってねぇだろ!」
「しゃーねーな…俺が教えてくるか?この辺に妓館はないのか?」
「お前な!嫁さんに告げ口するぞ!」
嫁のいない所で羽を伸ばそうとするヘンリックを一喝すると、彼は「それは…お前、ちょっと…」と鼻白んだ様子で口篭った。
何だよ、こんな大男を尻に敷いてんのか?
とんでもねぇ姐さんだな。
笑う俺にヘンリックは「笑えねぇよ」とボヤいて煙草の煙を口に含んだ。
「まぁ、これが気が強くてな…」と彼は愚痴をこぼした。
「お前の嫁さんは控えめで羨ましいよ」
「何だよ?替えてやんねぇぞ?」
「頼まれたって御免だ。あのお姫さんは綺麗すぎらぁ…
俺にはビアンカくらいが丁度いい」と彼は笑った。
何だよ、しっかり気に入ってるじゃないか…
そう茶化す言葉は、煙草の煙と一緒に飲み込んだ。
俺たちみたいなおっさんになっても成長するもんだな…
そんな事を思った俺の口元に笑みが漏れた。
✩.*˚
翌朝、早くに起こされて、森に入った。
「いい森だな」とヤーコプが呟いた。
「大きな木が沢山残っている。前の領主は木を大事にしてたみたいだな」
「アーケイイックの森はもっと大きな木があるよ」
「そうか…一度は行ってみたいが、生きて帰れる気がしないから遠慮する」と彼は静かに笑った。
「剛山羊には興味があるけどよ。俺達には無理な獲物だ」とヨハンが弓弦の張りを確かめながら言った。
プライチェプスの毛皮は高値で取引されるらしい。
アーケイイックの山の断崖に住む、大型の山羊みたいな姿をした牛の仲間で、丈夫な毛皮は魔法を刻むのに適している。気性は荒く、飼い慣らせないので、毛皮が必要なら狩猟で手に入れるしかない。
俺も生きてる姿は見たことはなかった。
「お前はアーケイイックには戻らないのか?」とヨハンが思ったことを口にした。
彼らは俺が帰れなくなった事を知らない。
悪気のない、むしろ気遣う言葉が俺の胸の傷を抉った。
「…帰るための腕輪を失くした」と答えて唇を噛んだ。あの腕輪がなければ、父さんの所には戻れない。
ワルターたちも探してくれていたが、手がかりは全く無かった。
腕輪を失くした俺に、レプシウス師は魔法の制御を丁寧に指導してくれたが、勝手が違うので苦戦していた。
あの腕輪に依存していたツケが回ってきたのだ。俺は今までずっと父さんに守られていたのだと知った。
「大変じゃねぇか!どんなんだよ?!」その辺で落としたものを探すような慌てた様子のヨハンを、ヤーコプが拳で黙らせた。
「例の奴らか?」と短い言葉に全てを詰め込んで、ヤーコプは俺の返事を待った。
「まあ、そんなところだよ…」
「ヨハン、お前はもう少し考えてから物を言え。
…すまんな、スー。こいつには悪気はねぇんだ…」彼は弟の失言を謝った。同じ日に生まれた同じ顔の双子でも、兄は兄なんだ、と思って少し感心した。
「良いよ。ヨハンは心配してくれたんだ」と笑ってみせたが、上手く笑えたかは分からなかった。
この話は終わりにしたかった。
「そういえば《雌鹿笛》はないのか?」とあの便利な道具を期待した。
「あぁ、そういえば置いてきたな」
「まさかこんなことになるなんて思ってなかったしな。自力で探すっきゃねぇな」と双子は顔を見合わせて、はははっと他人事のように笑った。
「なんとかなるよ、そういうもんだ」
「なるようにしかならねぇよ、そういうもんだ」
二人で合言葉のようにそう言って、さらに森の奥に向かって歩き出す。
「三頭だよ、大丈夫?」
「へーきへーき」とヨハンは余裕そうだ。
「ワルターの兄貴は今日明日中にとは言わなかったぜ。気長にやろうや」とのんびりとした様子だ。
「今日は下見程度になっても良いだろう?
初めて来る場所だしよ、森に挨拶に来たってことで構わんだろ?」
「猟師なんてな、せっかちな奴じゃ務まらんのよ。
山の神様なんて気紛れなんだ、女と一緒で気長に付き合ってやらにゃならんのさ。
機嫌を損ねりゃ振り向いてもくれなくなるぜ」
交互にそう口にする彼らは全然焦っていない。
「そんなもんかな?」
「そんなもんさ、世の中なるようになってんだ。
俺たちだって、出会うべくして出会ったんだ。世界はそうやって何となくで回ってんのさ。
時が来れば、その時の次第で物事は進んでく。お前はお前で大きく構えてろよ、《妖精》」
「探し物も、慌てて探してると見つからんもんさ。諦めずに、腐らず、気長に構えてりゃ、向こうから転がってくるぜ」
ヘラヘラと尤もらしく語る彼らの視線の先に、大きな角の雄鹿が現れた。
言った通りだろ?と言わんばかりに、双子は同じ顔で俺に笑って見せ、申し合わせたように、息ぴったりで弓を引いた。
「まず一頭」と二人が同じ顔で俺に向かって笑った。三人で僥倖に手を叩きあった。
仕留めた雄鹿を荷馬車まで運んで車に乗せた。その頃にはもう昼も過ぎて、西の空に太陽が吸い込まれていく所だった。
「明日も気長にやろうぜ」と双子はニッと笑って俺に言った。彼らの言う通り、俺は焦り過ぎなのだろうか…
「俺も…諦めなければ帰れるか?」腕輪は見つかるだろうか?そう信じたい自分がいた。
俺の心の内を察するように、双子は「諦めんなよ」と励ましをくれた。
「諦めたらそこで終いだからよ、気長に探そうぜ」
「仲間が居るんだ。きっと見つかるさ」
二人の心強い返事に胸の奥が熱くなる。
仲間の言葉を信じていたい。そう強く思って、俺は帰り道に煙草を咥えた。
煙草の煙は、馬車を追いかけて来る黄昏に溶けて消えた。
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