燕の軌跡

猫絵師

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兄弟ごっこ

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月明かりがやけに明るくて、寝床から出て空を見上げた。

『スーが攫われた!』

あの人はそう言って取り乱していた。

また言い損ねてしまった…

お腹に触れた。

月のものが遅れていた。

まだ膨らんでないけど、多分居る…

彼の子供だといいけど、違ってたらどうしよう…

あんな仕事をしてたんだ。気を付けてはいたけど、産んでみなきゃ分からない。

窓から離れて広い寝床に腰を下ろした。

フカフカであの人は『寝にくい』って言ってたけど、お姫様にでもなった気分だった。

長い腕を枕にして、煙草の匂いのする胸に顔を埋めて眠った。

『なあ、別嬪さん。明日からちょっと出かけるんだ。疲れてるとこ悪いけど抱いていい?』

ふざけたようにそう言って、彼は何処かで摘んできた鮮やかなピンクのコスモスを差し出した。そうやって出かける前の晩にも愛し合った。

寝床にあの人が居ないだけで何だか落ち着かない。

早く帰ってきてよ…

飾った花は、切り方が悪かったのか萎れて俯いている。

帰ってくるって願いを込めて花占いをした。

やらなきゃ良かった…

花びらを一つを残して手を止めた。

占いの結果を、月だけが見てた…

✩.*˚

突然梟の声がした。

驚いて顔を上げると、幌の縁に羽を休めた梟が一羽こちらを覗き込んでいる。

「…何でこんな所に?」

馬車は森や林から少し離れた街道を進んでいた。

迷い梟か?

喉を鳴らしながら首を傾げる梟に嫌なものを感じた。

月明かりを反射する大きな瞳は俺を睨んでいる。気味が悪い…

手にした馬の鞭を振るって、幌に留まった梟を追い払った。

「どうした、クリス?」

仲間が馬を寄せた。

「梟が居たから追い払っただけだ」

「まだ乗ってるぜ」と仲間が言った。

梟は戻って来て、また幌の上で羽を休めた。

「やめとけよ、森以外で梟を殺すと悪い事があるぜ」鞭を振るおうとした俺を仲間が諌めた。

梟はオークランドの主神であるルフトゥの使いだ。

お役目のある、森から離れた個体を殺すと祟られると言われていた。

「梟がこのまま乗ってたら目立つ。追い払え」

「仕方ねぇな…」と矢を番え、彼は梟を射落とした。

「ブォォ」と角笛のような悲鳴を上げて梟は幌から転がり落ちて道端でもがいた。

梟の声に反応した狼が檻の中で暴れた。

馬が狼の声に怯えて足並みが乱れた。道を外れて逃げようとする。

「ちっ!」舌打ちをして手綱を引いた。

「どうどうっ!」仲間が馬車を引く馬を掴んで落ち着かせると、元の道に馬車を戻した。

「らしくねぇな?」

「すまん」

「疲れてるんじゃねぇか?少し休憩するか?」

「いや、先を急いだ方がいい」

あいつらが馬鹿じゃなければ、アジトに残してきた警告に気付くはずだ。

ダイアウルフは完全に手懐けている訳じゃない。

あまり使いたくないが、仕方なければ使う。

道を進んだ先にずぶ濡れの男が待っていた。

「何だ?そのなりは…」

「炎に囲まれてたから水路で逃げた」とアランは答えて、水の滴る袋を掲げて見せた。

「喜べ、紙切れが化けた」と彼はニヤリと笑った。

「良くあいつらから逃げきれたな」

「まぁな…でもよ、かなりヤバかったんだぜ。まさかあいつがあっちに付いてるなんてな」

「あいつ?」

「ブルーフォレストで死んだはずの《烈火》だよ。

俺が昔 《金百舌鳥》で世話してやってたガキだ」

「嘘だろ?」

「俺だってそう思ったさ。でも間違えるわけねぇ。向こうも俺が誰か分かってた。さっさとずらかるぞ」

アランはそう言って馬車に乗り込んだ。

「おう、犬っころ、邪魔すんぞ」

そう言ってアランは子供の入った木箱に腰掛けた。木箱の中から小さな悲鳴が漏れた。

「乱暴に扱うな、子供は繊細なんだ!」

「ははっ!可愛いじゃねぇか?ビビってらぁ」と彼は面白そうに箱を叩いた。

「やめろ!」慌てて御者台を離れ、箱に座ったアランを突き飛ばした。

アランは面白そうにニヤニヤと笑っていた。

「大丈夫か、リリィ!」よりにもよってリリィを…

慌てて箱を開けて彼女を出した。

彼女は声も上げれずに、引き攣った呼吸をしながら固まっている。瞳は恐怖で滲んでいた。

今後箱に入らなくなったらどうしてくれるんだ!大切な商品だぞ!

彼女の前でそう言う訳にもいかず、アランを睨んだ。

彼は黙って肩を竦めると、俺が放り出した御者台に座って手綱を握った。

「怖かったな。もう大丈夫だ、あいつはあっちにやったから…」

「うぇぇ…」背を撫でてあやすとやっと声を出して泣いた。これで感情を消化するはずだ。泣きすらしなくなったら危ない。

泣いて落ち着いたリリィを箱に戻し、アランの襟首を掴んで小声で抗議した。

「てめぇ…俺との約束はどうなってる?!」

協力する条件として、勝手に俺の商品に手を出さないよう約束していた。

「悪ぃ、可愛くてな、ついだ…」

「ふざけるなよ!あの子らは俺の作品だ!二度とするな!」

「分かったよ。頼まれた時だけ虐めてやるさ。

そんなに怒るなよ」彼は反省した様子もなくへらへらしている。

怒りを押し殺して、他の箱でも怯えているベスとスペースの様子も確認した。

ベスはリリィを心配してたが、無事と知って安心したみたいだ。

「スペース、大丈夫か?」

「…あの人は?」とスペースはアランに怯えていた。

スペースに手を出したのはアランたちだ。

商品として、少女らが《処女》であることと同じくらい、男子なら《精通》しているかが重要視される。アランたちに確認させたが、彼は確実にやり過ぎていた。

「あいつは近づけないようにするから、俺を信じろ」と諭すと縋るような目で頷いた。いい目だ…

彼の心は確実に依存した奴隷に近付いていた。

「いい子だ」とスペースを褒めて木箱に蓋をした。

月明かりに照らされた道を進んだ。

逃走は概ね順調だ。

問題は無いかに思えた。

✩.*˚

馬で駆け抜ける視界の片隅に、コスモスの花が揺れていた。

どこにでもある花だ。金を払わなくても、すぐに手に入るそんな花…

何でそんなんで良いんだよ?

もっといいものを強請ねだったって良いんだぜ?

土産を選ぶ時、指輪か首飾りか悩んだ。

指輪は大きさが分からなかったから、首飾りを探したが、よく考えりゃ首飾りは使用人の服の下に隠れちまうし、使用人が飾り立てるのも変な話だ。

そんなことをしてたら、店先で花の飾りが付いた銀の髪飾りがあった。髪をまとめる櫛の形の髪飾り…

あいつの黒い髪にピッタリだった。花も付いてるし、着けたらきっと可愛いだろう。

渡すどころじゃなかったから、ポケットに入れてそのままになっていた。

取り乱してる情けないところを見られたから、男として幻滅されたかもしれない。

早く帰って、謝って、格好つけて髪飾りを渡してやらにゃ、旦那として格好がつかない。

あのそばかすの顔に、俺のお袋の姿を重ねた。

『そばかす女の方が、キレイな女よりよく働くんだ』と親父は誇らしげに言った。もちろんいい意味だ。

親父の言った通りだ。

ミアは良い女だ。

可愛い可愛い俺の嫁だ。

今まで苦労して生きてきたんだから、あいつは幸せにしてやらなきゃいけねえ。

こんな俺を好いてついてきてくれたんだ。

可愛いじゃねぇか?

馬の脚が蹴散らした花びらが、手綱を握る手に乗って伴を申し出た。

捨てる気にもならず、花びらを、櫛の入ったポケットに一緒にしまった。

「落ちていた梟が幌馬車を見つけてます。もうすぐ追いつけるはずです」とレオンが言った。

彼はギルと名を変えた《烈火》と一緒に馬に乗っていた。《烈火》は馬に乗るのが得意じゃないらしい。

この中で一番強い男はお荷物になっていた。

「あんた、馬に乗る練習しろよ」

「一人で乗れるような身体じゃなかったんだ。仕方ないだろう?」と彼は不本意な状態に不満を漏らした。

「馬に乗るどうこうなんて今言ってる場合か?!見ろ!」フリッツが前方を指さした。

月明かりに馬車と馬に乗った一行が見えた。

馬に乗った奴らは護衛役だろう。

メッサーを抜いて馬の腹を蹴った。嘶いた馬が速度を上げ一行に迫った。

スー!今助ける!

「エルマー!無理するな!」とフリッツの声が背中に飛んだが、スーの為なら無理も無茶もする。

俺のせいで連れて行かれたんだ。

俺が油断してたから…

あんなにそばに居たのに守れなかった…兄貴なのに…また弟を失いそうになった…

馬に乗った一行は「賊だ!」と騒いで馬を返して馬車を逃がそうとした。

交差した一瞬で、馬に乗った男を一人切り捨てた。

悲鳴を上げながら馬から転がり落ちた男は、自分の馬に蹴られて退場した。

「スー!俺だ!」馬車に向かって叫んだ。すぐに行先を次の奴が塞いだ。

馬上で切り合いになる。剣がぶつかり合って火花が散った。

メッサーは短い剣だがその分扱いやすい。俺の腕は長いから馬上の間合いでも十分に戦える。

二人目の腹に突き立てた刃を乱暴に切り上げた。固いものに引っかかる手応えを感じ、相手は血と臓物を撒きながら馬の背を後にした。

「死ね!《嘲笑》の!」

馬に乗ったメイスを振るう大男が前に立ち塞がった。

男はメイスをかざすと馬の頭に振り下ろした。

鈍器を食らった馬は悲鳴を上げ、前のめりに倒れ込んだ。危うく自分の馬に潰される所だった。

だがそんな事どうでもいい。目の前の男は俺を知ってる奴だ!

「その声!」聞き覚えがある。不快な思い出が蘇った。

「てめぇ、ギュンターか?!」

顔は少しやつれて、髭も髪も伸びていたが間違えるわけが無い。

ギュンターは馬を操って向きを変えると、馬上で再びメイスを振るった。

「ちぃっ!」

慌てて避けた。メイス相手じゃメッサーが負ける。しかも相手は馬上だ。見上げる俺の方が不利だ!

「どけ!エルマー!」後から追い付いたフリッツが、叫んでギュンターに自分の馬をぶつけた。

フリッツを見たギュンターの目の色が変わった。

「この盗人の片棒が!」

ギュンターの怒鳴り声にメイスの唸りが重なった。

「お前らはどこまで俺をコケにするっ!

あの女は俺の女だ!子供も俺のもんだ!」

フリッツはギュンターの言葉に驚いたが、怒りを顕に怒鳴り返した。

「お前が彼女らに何をした!旦那として!親父として!胸を張って名乗れるようなことをしたのか?!」

「うるせぇ!盗人が!」

「大御所はな!お前のために涙を流して、俺たちに減刑を嘆願したんだぞ!それを裏切りやがって!勘弁ならねぇ!」

フリッツは振り下ろされたメイスを握る手を掴んで、ギュンターを馬上から引きずり下ろした。

荒っぽい奴だ。

馬上じゃ得意のハルバードが振るえないからだろう。

背負っていたハルバードを構えたフリッツが檄を飛ばした。

「エルマー!俺の馬を使え!馬車を止めろ!」

「おう!後から来いよ!」

ギュンターの相手をフリッツに任せて、再び馬に跨って馬車を追った。

先を行った《烈火》が残っていた二人を倒した。燻っていたとはいえ、ワルターと互角に渡り合った男だ。

味方なら頼りになる。

馬車の前方に炎の壁が伸びて進路を塞いだ。

馬車を引いていた馬が炎に怯えて暴れた。

暴れた馬の勢いで、馬車が傾き、おかしな方向に負荷がかかって車軸が折れてしまった。

ドンッと大きな音がして幌を被った馬車が倒れた。

「スー!」馬を捨てて馬車に駆け寄った。

「クライン!ダメだ!」レオンの静止する声が飛んだが身体は止まらない。

目隠しになっている幌をはね上げると「よぉ」とボサボサ髪の鋭い目の男が顔を出した。その傍らで獣の唸り声が低く響いた。

「犬っころ、餌の時間だぜ」

ニィと笑った男が足元の檻を蹴っ飛ばした。

黒い大きな獣が放たれ、男は獣の影に吸い込まれるように消えた。

「グルル…」でかい赤い口が裂けて襲いかかってきた。

「ダイアウルフ!」レオンが叫んだ。

コレが?!嘘だろ!狼の大きさじゃねぇぞ!

熊じゃねえか!

メッサーに食らいついた狼は、顎の力だけで小枝のように剣を鉄クズに変えた。

捨てなかったら腕ごと持っていかれてた...

「クライン!下がれ!」《烈火》が炎を纏った手を狼に向けた。

「おっと、そいつは困ったなぁ…」と、どこからか声がして、彼らの乗った馬の足元からさっきの男が現れた。

どういう仕組みだ?!

男の手にした刃物が馬の腹を抉った。

「ビィィイッ!」馬の悲鳴と血の匂いが狼の意識を引き付け、馬の背から二人が投げ出された。

「へぇ、珍しい。人間のアルビノだ」

影から湧いた男が、地面に転がったレオンを押さえ込んで馬の血の付いたダガーを喉元に押し当てた。

「レオン!」

「変な真似すんなよ?俺がビビってこいつの喉を掻っ切るといけねぇからよ」と笑った男はレオンの白い喉を晒した。

「誰から狼の餌になる?」と男は嫌な下卑た笑みを浮かべてレオンの頬にキスした。

「こいつは俺が貰っとくよ。アルビノは珍しいから高く売れそうだ」

「アラン!貴様!」

「アルフィー、知ってるか?アルビノは死体でも高く売れるんだぜ?腕だけ、足だけ、首だけでもな」

胸糞悪い男だ。でもこいつにだけかまってる訳にもいかない。

狼の唸り声と土を踏む音が迫った。

「俺もうかうかしてられんな」

影男が笑って自分の影にレオンを引きずり込んだ。

水にでも落ちたかのようにレオンの体が影を沈んで消える。

「じゃぁ、俺はこれで」と男は馬の影に消えようとした。半分影に沈んだ背中にボールのようなものが跳ねて男の背中にぶつかった。

「なっ?!」

「ヂヂ」ボールが鳴いた。

「ネズミ?!」レオンのネズミだ。大きいネズミが男に爪を立てて齧り付いた。

「クソッ!何だこりゃ!」

ネズミを振り払おうした男に隙ができる。

もう一本のメッサーを抜いて男を襲った。

《烈火》は炎の壁で人と獣の間に線を引いた。ダイアウルフは忌々しげに唸って、炎の壁から逃げ出した。

勢いをつけて振り下ろしたメッサーが男を切り裂いた。

「あぁぁぁ!」悲鳴をあげた男の影からレオンが吐き出される。ネズミがレオンに駆け寄った。

「畜生!クソが!ああッ!」悲鳴と怒号を上げながら男はよろめいて炎の中に身を投じた。

断末魔とも、炎の燃え上がる音とも取れる残響を残して男は絶命した。

「レオン!無事か?!」《烈火》が慌ててレオンに駆け寄った。レオンの手には彼の命の恩人の大きなネズミが収まっていた。

「エドのおかげで…何とか」首筋には赤い線が引かれていたが、たいした傷じゃない。

「あのダイアウルフは?倒したんですか?」

「炎にビビって逃げてった」と答えて片割れだけになってしまったメッサーを鞘にしまった。

俺の返答に、レオンは慌てた様子で立ち上がって叫んだ。

「ダメだ!捕まえないと!誰かが襲われたら大変です!」

「それよりスーだ。

《烈火》、炎を消してくれ。馬車はどうなってる?」

炎の壁を消して、《烈火》が馬車に歩み寄った。彼は持っていた剣で慎重に幌を跳ね上げた。

「誰も居ないぞ」と言って《烈火》は倒れた馬車に乗り込んだ。何かおかしい…

「待て、馬車を引いてた馬はどこ行った?」

馬車と繋いであったはずの馬の姿がない。あるのは馬がいたと思われる痕跡だけだ。

引き棒を繋いでいた革のベルトは、鋭利な刃物で断ち切られた跡がある。

狼と影男に気を取られている間に逃げられた!

「どこに…」そんなに時間は経ってない。遠くには行ってないはずだ。

街道から少し外れた場所に雑木林が茂って視界を遮っていた。逃げ込むならあそこだろう。

俺たちの馬は、元々フリッツが乗っていた一頭しか残っていない。

「クライン、先に行ってください」とレオンが言った。

「私たちが行っても、スーという少年は助けが来たと思わないでしょう。

まだ使える馬が残ってるはずです。呼び寄せてから貴方を追います。

だからこの馬は貴方が使ってください」

「いいのか?」

「どうせ俺は乗れん」と《烈火》は拗ねたように呟いて、自分の持っていた剣を俺に投げて寄こした。

「使え。無いよりマシだ」

見覚えのあるファルシオン…

「相棒が使ってたものだ。必ず返せ」

《烈火》から《顔剥ぎ》は死んだと聞かされていた。自分を守って死んだと…それならこれは彼にとって特別な物だ…

「悪ぃな、二人とも」

「結果を出せ、それだけだ」と《烈火》は愛想のない返事を返した。彼なりの檄だろう。

「《エド》です。この子は役に立ちます。連れて行ってください」とレオンはネズミを差し出した。

馬の鬣をよじ登ったネズミは、馬の頭に乗って「チチチ」と鳴いた。

「ありがとよ」と二人に礼を言って馬に合図した。

「狼もあそこに逃げ込んでるかもしれません。お気を付けて」とレオンの声が背中に飛んだ。

悪い奴らじゃねぇや…

そう思いながら、危険を承知で、ネズミの案内に従って雑木林に飛び込んだ。

✩.*˚

「逃げるぞ!」クリスは慌てていた。

馬車はひっくり返って天井が側面になっていた。

「賊に襲われてる!お前たち捕まったら酷い目にあうぞ!」彼はそう言って箱を開けて僕を外に出した。

酷い目にあうという言葉だけが重く耳に響いた。

馬車の前には赤く伸びた炎の壁が行く先を阻んでいる。

「スー、この子たちを頼む」と彼は別の箱から女の子を二人出して僕に預けた。

彼女らは泣きそうな顔で「クリス様ぁ」と彼に縋っていた。

「スー、お前は馬に乗れるか?」

馬車馬を馬車から外して、彼は訊ねた。

「乗るだけなら…」と答えると、彼は僕の足枷を手早く外して馬の背に乗せた。

「お前たちは俺が抱っこしてやる」と彼は優しく少女たちを馬の背に乗せ、自分も馬の背に跨った。

背後であの男の声と誰かの言い争う声が聞こえた。

聞こえた声はずっと欲しかった声だ…

「…エル…」

「幻を作る魔法だ!騙されるな!」

「…でも…」

「俺には女の声が聞こえる。足止めする、よくある手だ!」

クリスはそう言って炎の壁を避けて馬を動かした。

「後ろを見るな。お前はいい子だ」

《いい子》と言う言葉が僕の思考を制限する。

後ろを向いたら、いい子じゃない…

馬の鬣を掴む手だけを見た。

あの声はエルマーに似てたけど、他の声はワルターでもソーリューでもない。なら、あれは彼じゃないんだ…そう言い聞かせた。

目の前が滲んだ…

なんて酷い魔法だ…最低だよ、こんなの…

僕が後ろを見なかったから、クリスは「いい子だ」と僕を褒めた。

欲しいのはそんな言葉じゃないのに、何故か安堵してる僕がいた…

助けに来てくれるって、信じてたのは僕だけだった。

『俺がお前を見ててやるからさ。

お前が俺から離れていくまで』

あの日テントでした約束はどうなったの?

僕は…君の事が大好きだったのに…

炎の壁を避けて、道から外れた雑木林に逃げ込んだ。

馬は少し早足でクリスの指示した方向に向かって歩いた。

「クリス様」女の子が不安そうな声で呟いた。

「お家は?」

「大丈夫だ、リリィ。

ちょっと遠回りするけど、必ず新しいお家に連れて行ってやるよ。俺を信じろ」クリスは優しくリリィと呼んだ女の子をなだめた。

この子たちは何なんだろう?

「いい子なら俺が守ってやる。だから言う事聞いて、大人しくしてな」

「うん」と彼女は頷いた。

「ベスもいい子だよ」ともう一人の少女がクリスの服を引っ張った。

彼女らはクリスによく懐いていた。

彼は《いい子》には優しい。

《いい子》には…

僕は彼にとっての《いい子》でいるしかなかった…

✩.*˚

「エルマーだけで行かせたのか?!」

やっと追い付いた先遣隊は足止めを食らっていた。

「仕方ないだろう?俺はこれを放り出して行くわけに行かんし、馬を殆どやられちまった。

エルマーと別れてそんなに時間は経ってない、追いつけるはずだ」

フリッツはギュンターを捕まえていた。異母弟は一目見ただけでは分からないほど見窄らしくなっていた。

顔は痩せて、目は窪み、浮浪者のような出で立ちの異母弟の変わりように驚いた。

「何でこいつが…」

「アランというオークランド人が、スーを攫うための情報と交換に脱獄させたらしい」とフリッツが答えるとギルが口を開いた。

「金を受け取りに来た男だ。《祝福》持ちの危険な男で、過去に《金百舌鳥》で隊長をやってた。生かして捉えられなかった、すまん」

「逃げたのは何人だ?」

「分からん。でも馬車はもぬけの殻だ。

金も探したが無かった」

「持って逃げたんだろうな。逃げるにも金がいる」とソーリューは冷静だった。

「もう一つ問題が」とレオンが口を挟んだ。

「彼らが連れていたダイアウルフが逃げてます」

「あれか…」とソーリューが呟いた。

「知ってるのか?」

「探ったアジトの跡に痕跡があった。

人間を食わせてた可能性がある」

「何だと?!人の味を覚えてるってのか?!」ソーリューの言葉にフリッツが驚愕の声を上げた。

ますますやばい状況だ。

「エルマーはどっちに行った?!」

「私のネズミを連れています。案内します」とレオンが申し出た。

「俺のを使ってくれ、俺は足手まといだ」

ヨナタンが馬を降りてレオンに手綱を預けた。

「ありがとうございます」

「気をつけてな」とヨナタンはレオンを気にしていた。あんなこと言ってた割に彼はレオンを気に入っていた。

「こいつらは俺が預かる。狼が戻ってきた時にコイツらだけじゃ腹に納まるしかないからな」

ギルがヨナタンとフリッツの護衛を申し出た。

「すまん、頼む」

「レオンを頼む」とギルはレオンを俺に預けた。

ギルに頷いてまた馬に跨った。時間が一秒でも惜しい。

「こっちです」と案内するレオンの背をソーリューと一緒に追った。

✩.*˚

「どっちに行った?」

「チチッ」ネズミは馬の鬣を口で引っ張って、器用に馬の向きを変えた。コイツすげぇな…

「確かにお前は役に立つよ」とネズミを褒めた。

馬は迷惑そうだったが、ネズミの示した方向に脚を向けた。

足元の草が折れて道になってる。

ここを通ったのは間違いなさそうだ。

狼だけがどこから来るか分からない。辺りを気にしながら馬を走らせた。

「スー!返事しろ!

俺だ!エルマーだ!」

暗い森に反響する声に返事は無い。

もう声も届かない程遠くに行ってしまったのか?

それとも俺にはもう応えてくれないのか?

首から下げた夜光貝の欠片に触れた。唇を噛んだ。

あの日、お前は俺を『家族だから』って言ってくれたじゃないか!

嬉しかったんだ!

俺が勝手に始めた兄弟ごっこだ。

それでも、それに応えてくれたお前を特別に思っていた…

「スー…」弟を失うのはもう御免だ!

謝って、許して貰えなくても…

もう俺の事を兄貴と思ってくれなくても、俺は勝手に兄弟ごっこを続けてやる!

俺はお前の兄貴だ!

滲んだ視界を拭って前を向いた。

植物に阻まれた林の先で馬の嘶きと子供の悲鳴を聞いた。

「おい、エド!捕まってろ!」ネズミに声をかけて馬を蹴った。馬の脚が勢いよく地面を蹴って速度を上げた。

折れた草の道を掻き分け、駆けた先で黒い大きな獣と再会した。

ダイアウルフは口に咥えた獲物を左右に揺さぶって牙を深くくい込ませた。

ボロ布のようになった男が狼の口からダラりと力なくぶら下がっている。

「クリス様ぁ…」視界の端に、ガタガタ震える少女たちと、彼女らを庇うように抱いている少年の背中を見た。

震える背に、流れる乱れた黒髪…

その名前を呼ぶ前に、獣が咥えた肉塊を捨てて子供らに向きを変えた。全身が総毛だった。

「おらァ!」怒号と共にメッサーを抜いて狼に目掛けて投げ付けた。

回転する刃がその勢いだけで狼の横腹に突き刺さった。

「ギャオ!」犬みたいな悲鳴を上げた狼が怯んで飛び退った。その隙に子供らと狼の間に滑り込んだ。

「…嘘だ」少年の驚く声を背中で聞いた。

あぁ…やっぱりスーだ…

視線を目の前の獣に合わせたまま、《烈火》から借りたファルシオンを抜いた。

「エルマー…?」

「よく頑張ったな、スー。流石俺の弟だ」

「幻覚だ…違う…そんなわけ…」

スーは俺がここに居るのが信じられないようだ。怯えるような声に胸が傷んだ。

そんなの似合わねぇだろ?

お前は元気に生意気言って、大口開けて笑ってるのがお前らしいや…

「帰るぞ。みんなお前を心配して、迎えに来てる」と伝えた。背後で息を飲む音がした。

「…でも…僕…」

「何があったかは後でどんだけでも聞いてやる。俺を責めるならどんだけだって受け止めてやる」

それもこれも、お前を守れなかった俺のせいだから…

「でもこれだけは譲らねぇ。

俺はお前の《家族》で《兄貴》だ!」

狼と睨み合ったまま、スーに宣言した。

お前の方がガキだから、俺が兄貴だ!だから全て受け止めて、守ってやる!

狼の凶暴な瞳と睨み合いが続く。

吠えて襲いかかった狼にファルシオンを振るった。

かなり力を込めて奮ったが、硬い毛並みに刃が弾かれ、毛皮は傷一つつかなかった。

メッサーが刺さったのは余程運が良かったと見える。

「くっそぉ!」

象牙のような狼の牙が迫った。

血腥い獣の吐息に、背後で子供たちが引き攣った悲鳴を上げた。

俺が逃げたらガキ共が食われる!

効かないと分かっていても剣を振るった。時間が稼げれば、《烈火》が助けに来るはずだ!

敵だった男を信じていた。

あいつも俺と同じだ。今まで失ってたものを取り戻そうとして、今を懸命に生きている。

そうでなきゃ、あんなに他人を心配しないはずだ。

迫る死を引き伸ばすために左腕を犠牲にした。

厚く重ねた革と鉄を仕込んだ戦闘服も、この狼の前には薄く透けた紗々の布と変わらない。

牙が服にくい込んで肉を裂いて骨を砕いた。

痛いなんてもんじゃねぇ!

激痛に全身が震えた。もう左腕は使い物にならない。

持っていくなら持って行きやがれ!

ただ、腕の代わりを置いていけ!

「おあぁぁ!」

雄叫びを上げて、食らいついた狼の急所に渾身の一撃をくれてやった。

ファルシオンの刃が狼の守りようのない場所を貫いた。

「ギャンッ!」左目を抉られた獣は、悲鳴を上げて飛び退った。吐き出された左腕は、辛うじて繋がっている程度のものだ。大きな血管を傷つけたのか、血が溢れて止まらない。

「エルマー!」

スーの声が飛びそうな意識を連れ戻した。

まだだ、狼は引いただけで逃げちゃいない。

低い唸り声を上げながら傷を気にしている。

剣もある、右手も動く。俺はまだコイツらを守れる!

ミア、すまん。

五体満足で帰れねぇ…なんなら生きて帰るのは無理だ…

未来を知っていたら、お前とは一緒にならなかった…

でも、お前と一緒になって、幸せだったのは嘘じゃない…

「グルル…」狼が唸りながら残った右目で俺を睨んだ。

てめぇも痛てぇだろうがな、俺も無茶苦茶痛てぇわ!なんなら俺の方が重傷だ!

ファルシオンが重い。頭がおかしくなりそうな激痛に耐えながら剣を構えた。呼吸が乱れる。

早く誰か来てくれ!俺が食われるだけながらいい!

ただ、死ぬのが無駄になるのは嫌だ!こいつらは逃がしてやりてぇ!

ここで逃げたら、俺の背中は一生曲がったままだ。

前を向いて、胸を張って生きるチャンスを逃してしまう!

「オオン!」狼が吠えて地面を蹴って跳躍した。

上から覆い被さるように地面に押し倒された。簡単に押し負け、足と剣を持った右手で必死に抵抗したが、それも無駄な足掻きだ。

ガチガチと剣に食らいつく、赤い口に並んだ巨大な牙がすぐ目の前にある。足にも力が入らない。

死にたくねぇ!まだ死ねねぇだろうがよ!

血の混ざった唾液がダラダラと落ちてくる。

死は目前だ。

死を覚悟した時に冷たい風が吹いた。狼の唸り声がピタリと止まった。

「そこを退け」パキパキと空気の凍る音がして、草の緑に白が縁どりを作った。

「お前が踏んでいるのは俺の仲間だ」

冬の気配を纏った男は狼より怖い声で凄んだ。

巨大な狼が犬のように怯えて尾を腹に巻き付けてジリジリと下がった。

「…ワルター」

「遅くなってすまん」スーの声に短く応えて、ワルターは狼に向かって手をかざした。

「《氷の記録アイス・レコード》」

狼が子犬のような悲鳴を上げた。

黒い身体の末端から白く氷漬けになってゆく。パリパリと凍る音が進むにつれ、キャンキャンと許しを乞う悲鳴も途切れた。

白く氷で装飾された大きな狼の氷像だけが残った。

「無茶しやがって…」ワルターが俺の傍らに膝を着いた。ワルターは左腕を氷で止血した。

ワルターの表情は暗かった。その意味はもう分かってる。どうしようもない事だ…

「…悪ぃ…な」身体から緊張していた力が抜けていく。痛みだけが鮮明になる。

「…スーは?」

「お前はそればっかりだな」とワルターは少しだけ笑った。

「スーも、一緒にいた子供も無事だ」とソーリューの声がした。お前も一緒に居たのか…

「エルマー…」心細い、消えそうな声がした。

「…ごめん…ごめん…」スーは何故か謝っていた。謝んのは俺の方なのに…

「君の…役に立てなかった…」暖かい水滴が落ちて顔に触れた。役に立つとか、立たないとか、そんなんじゃねぇよ、バカ…

「ごめんなぁ…」俺も涙が溢れて、スーの姿が滲んだ。

「お前は…なんも悪くねぇんだ…

守ってやれなくてごめんな…偉そうに《兄貴》とか言っといて…役立たずは俺の方だ…」

スーの手が伸びて顔や髪に触れた。本当に俺か、確認してるみたいだった。

「俺は、お前の《兄貴》だ…そうだろ?」ぼやける視界の中、スーは頷いてくれた。

なら良いんだ。兄貴なら、弟を守るのは当然だ…

「スー…頼まれてくれ」そう言って上着のポケットを指した。そこには銀の髪留めが納まっている。

「ミアに…届けてくれ…」

「…でも…」

「《弟》なら、《兄貴》のお使いくらいしろ、な?」

無理やり仕事を押し付けた。俺はもう無理だから…

スーは頷いてくれたようだった。

少しだけ心が穏やかになった。あとはお前が笑ってくれりゃ文句なしだ…

「ワルター…頼みが…」

「聞いてる。なんでも言え」頼もしい返事をする声は硬かった。そんなに身構えるなよ。

「ミアを…輜重隊に戻さないでくれ…可哀想だ…」

俺がいなくなったら、彼女があの屋敷にいる理由もなくなる。

そうしたら彼女はまたどこかで知らない誰かに身体を売るしか無くなる…それではあまりに無責任だ…

「頼む…愛してんだ…」

「馬鹿野郎…ミアが居なくなったら俺の方が困るってんだ」乱暴な言葉でワルターは俺の望みを聞いてくれた。

「悪ぃな…」と笑ったつもりだが、表情すらもう思うように動かなくなっていた。

「スー…ありがとよ」

弟が死んで、空っぽだった心の隙間に滑り込んだ妖精は、俺のかけがえのない宝物になっていた…

もし、巡って来れるなら…

必ずお前の元に巡ってくるよ。そしたらまた《家族》になろう…

今度はお前の《息子》かもしれないな…もしかしたら《孫》かもしれない…

強くて、賢くて、完璧な人間になって帰ってくるから、それまで苦しくても生きてて欲しい…

「…俺の分も、生きろよ…スー」勝手に自分の分の寿命を押し付けだ。


消える意識の中、最後に弟の『兄ちゃん』と呼ぶ声を聞いた。

幼い日の手を繋いだ記憶が蘇る。

波の音が止まない小さな漁村の景色が瞼に浮かんだ。

笑いながら弟を連れ、長く伸びる海岸線を、家路に向かって手を繋いで歩いた。

弟は手を繋いでるのとは反対の手に、小さな光る貝殻を握っていた。

『兄ちゃんがくれた宝物だから』といつも持っていた。

可愛い小さな手を引いて、ボロいが幸せな家に帰った。

そばかす顔のお袋が、砂の付いた手を見て『洗ってきなさい』と言った。

『エルマー、後で夕飯のお手伝いしてちょうだい』

『分かった』頼られるのが嬉しくて笑って答えた。

親父がでかい立派な魚を手に帰って来た。

『スゲー!』と弟と二人で親父を褒め称えた。

親父は『だろう?』と嬉しそうに言って俺たちを抱えて肩に乗せた。広い大きな肩は子供の特等席だ。

ずっと忘れようとしてた、幸せだった頃の思い出が過ぎる。

こんなに穏やかに死ねるなら、死ぬのも悪くないなと思った…
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