燕の軌跡

猫絵師

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新生活

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風の噂で、《氷鬼》が騎士になったと聞いた。

「新しい領主様は太っ腹だな」

世話になってる鍛冶屋の親方は、新領主の政策を歓迎していた。

「一年目は生活を保証するために税を免除するとよ。以後も二年は半額と来りゃ、文句を言うやつなんて居ないだろうよ」

ウィンザー公領の民はヴェルフェル侯爵を歓迎している。

侯爵はウィンザー領の民の生活を保証し、復興のために身を切る政策を打ち立てた。

早々に禁制を発布し、領民の保護を厳命した。

「おかげで俺たちは呑気に酒が飲めるって訳だ」と赤ら顔でご機嫌な親方は饒舌だ。

侯爵家から各地の職人組合ギルドに公共事業の割り当てもある。

親方の小さな工房にも仕事の割り当てがあり、毎日忙しなく鉄を打つ音が工房に響いていた。

「ギル、お前も飲め!休憩はいい仕事に必要だぞ!」

親方はご機嫌な様子で俺にも酒を勧めた。

「丁度人手が足らない時に来てくれたからよ。助かったぜ」

レオンと名を変えたデニスと二人で、職人組合に仕事を求めに行ったが、過去を捨てた訳ありの余所者に仕事はなかなか見つからなかった。

どうするか悩んでいるところに、若い女がやって来て俺たちを呼び止めた。

『あんたたち仕事探してるの?うちの親父の手伝いしてくれない?』

彼女は小さな鍛冶屋の工房に俺たちを案内した。

『兄貴たちは戦に出て死んじまったからさ、今はあたしと親父しかいないのさ。

手伝いを斡旋してくれるように頼んでるんだけど、大きいところにみんな行っちまうから、来てくれると助かるよ』

いかにも下町の元気のいい娘だ。

アニタと名乗った娘の申し出に甘え、この工房に住み着いた。

親方は火の前に座ってる時は寡黙だが、一度工房を離れると娘に負けず劣らず陽気に喋る人だった。

父親を知らない俺としてはそれが新鮮だった。

「ちょっと!親父!ギルだって疲れてんのよ!」

アニタが父親を叱りながら、机に食事を並べた。

彼女の料理はお世辞にも美味いとは言えないが、温かいだけで十分だ。

「悪いね、ギル。あんたが来てくれて親父は嬉しいのさ」と彼女は明るく笑った。

夕食を用意しているところに、出来上がった蹄鉄を納品しに行っていたレオンが帰ってきた。

「おかえり、レオン」アニタが笑顔で《弟》を迎えた。

「ただいま。いい匂いですね」

「腹減ったろ?いっぱい作ったから食べな」とアニタは作り過ぎな食事をテーブルに並べる。

量が量だけに、レオンは苦笑いした。

「だ、そうですよ《兄さん》」

「…何で俺に言う」

「お前らしっかり食わなきゃ仕事にならんぞ!

アニタの飯は、味は微妙だが量なら十分だ。しっかり食え!」

「親父!」口の悪い親父に娘が声を上げたが、彼はそれを笑い飛ばした。

「男の心は胃袋で掴むんだ。まだまだ嫁貰い手がねぇな」と親父に言われてアニタはへそを曲げた。

「もう!作らないわよ!」と怒る姿は笑いを誘った。

「アニタ」

「何よ、ギル?塩が足りないの?!」彼女はふくれっ面で台所に戻ると、塩入れを叩き割りそうな勢いで机に置いた。怪我するぞ?

「怒るなよ?俺はこれで満足してる。いつも用意してくれて感謝している」

彼女の働きに労いの言葉をかけると、アニタは頬を赤らめた。

「…食べよ」と言って彼女も椅子に座った。

少し焦げた鶏肉を口に運んだ。

確かに塩気は少し足らんな…

そう思って少しだけ笑った。

✩.*˚

ヴェルフェル侯爵から、シュタインシュタットの城下の屋敷を仮の住まいとして与えられた。

「これ…本当にワルターの家?」とスーが俺に訊ねたが、俺が訊きたいくらいだ…

親父の屋敷と大差ない。豪邸と言っても過言ではない。

あの狭い宿の部屋が懐かしい…

「お待ちしておりました、旦那様」と俺たちを出迎えたのは見覚えのある顔だった。

スーがすぐに反応した。

「ハンス!何でここにいるの?!」

「ヘルゲン子爵家からロンメル家復興に力を貸すようにと申し付けられましたので、御助力申し上げる所存です」

「へぇ、あんたが来てくれるなら頼もしいねぇ」とエルマーが笑ってシュミットに手を差し出した。

シュミットも嬉しそうにその手を取って、固い握手を交わした。

シュミットは俺たちを屋敷の中を案内した。

スーは面白っていたが、大人は苦笑いしか出ない。案内が終わる頃には揃ってゲンナリした顔になっていた。

「どうです?仮のロンメル邸は?お気に召しましたか?」

「なんだかなぁ…」

「仮住まいにしてもデカすぎる…」

「全くだ…」エルマーとソーリューの感想に素直に頷いた。部屋ひとつが小さめの家くらいの広さがある。

エルマーは、「俺、前の宿の方がいいや」と言うし、ソーリューに至っては「物置でも広すぎる」と落ち着かない様子だ。

まぁ、ソーリューは本当に物置に住んでたしな…

「ねぇ!ハンス!僕も部屋ある?」スーがシュミットに部屋をねだった。

「空いてる所を好きに使うといいよ」

「エルマー!ソーリュー!どこの部屋にする?!」

「…子供はいいよな」とエルマーは苦笑いをして、部屋を選ぶのを辞退した。

「俺はミアと住むから他所でいいよ」

「何で?一緒に住めばいいじゃないか?どうせ部屋だって余ってんだ」

「さすがにこの屋敷じゃ気ぃ使うわ」

「おや?クライン殿のご内儀ですか?」

「まぁ、成り行きでな」とエルマーはシュミットに答え、照れくさそうに笑った。

俺も紹介されたが、なかなか可愛い娘だった。

「もし良かったら、ご内儀に屋敷のお手伝いをお願いできませんか?」とシュミットが提案した。

「もちろんお給金も出ます。女手はあった方が何かと助かります。

住み込みの家政婦を集めてる最中ですので、良い返事を頂けると助かるのですが…如何でしょう?」

「そりゃ…仕事まで世話してくれるってんなら助かるけどよ…

ミアは最近まで輜重隊に着いて回ってたんだ、こんなお屋敷のことなんて分かんねぇよ」

「なるほど、他所の癖が付いてないということですね。すぐに馴染むでしょう」とシュミットは譲る気は更々無いようだ。

しばらくは城で手の空いている小間使いが通ってくれるらしいが、住み込みの女中がいてくれるならありがたい。

気負わなくていい相手なら尚更だ。

「私も妻をこちらに呼んでおります。しばらくご厄介になりますよ」

シュミットはそう言って、屋敷の中で用事をしていた夫人を呼んで俺たちに紹介した。

「私の最愛の妻ラウラです。どうです?美人でしょう?」と愛妻家振りをアピールしつつ、しっかり惚気けていた。

シュミット夫人はおっとりした感じのふくよかな美人だった。

「元はヘルゲン子爵家でお仕えしておりました。

礼儀作法から料理、裁縫、掃除のどれをとっても完璧です。しばらく侍女長として取りまとめ役や指南役を務めますので、気になることがあればなんなりとお申し付けください」

「子供たちは?」とスーが訊ねると、シュミットは「親戚に預かってもらっています」と答えた。

「連れてこいよ」とエルマーが言った。

「親父やお袋が居ないんじゃ可哀想だろ?」とエルマーは子供たちの心配をしていた。

「僕も会いたいな」とスーも賛同した。

「…よろしいのですか?ご迷惑では?」

「どうせ空き部屋ばっかだろ?賑やかでいいじゃねぇか?」と俺も賛成した。

親がいなくて寂しい思いをする子供の気持ちは、誰よりも分かってるつもりだ。

シュミット夫妻は嬉しそうに礼を言って頭を下げた。

「俺も、ミアを連れてくるよ」

エルマーも屋敷に腰を据えるらしい。

仮住まいの屋敷の部屋が少し埋まった。

✩.*˚

翌日、ワルターはスーを連れて城に向かった。

残されたエルマーを連れ、城下をあちこち見て回った。石造りの街並みはよく手入れが行き届いている。

「お前から誘うなんて珍しいじゃねぇか?」屋敷を出て、エルマーは嬉しそうに煙草を咥えた。

この男も一応気を使っているのだろう。

律儀にも、屋敷の庭に出て煙草を吸っていた。

「あんなキレイなところで煙草なんて吸えるかよ。

それになんだよあのベッドは?柔らかすぎて逆に寝れねぇよ」

「俺は床で寝てる」と答えた。柔らかい寝台より、固く冷たい床の方が寝やすいとは如何なものか…

長年染み付いた習慣というものはそうそうに変えられないものだ。

「マジか?そうしよっかな?」とエルマーは笑って紫煙を吐き出した。

「で?なんの用だったんだ?スーにナイショの話か?」

「まぁな…」運河に架かる橋の上で足を止めた。

荷物を乗せた小舟が運河を行き来している。

「ワルターと…フリッツやヨナタンにはもう話した。

あとはお前とスーだけだ…」

「何だよ?勿体ぶって…」とエルマーは眉を顰めて話の先を促した。

「金が十分貯まった」

河を行き来する舟を目で追いながら小さくそう言った。

エルマーの息を飲む空気が伝わった。

「…帰んのか?」

「…あぁ」短く答え、沈黙が訪れる。

二人で石造りの橋の上から河を眺めた。

エルマーは、「こんな時に」とか「行くな」とかは言わなかった。ただ少し寂しそうに笑って「良かったじゃねぇか」と言った。

「十年も頑張ったんだ…あんたスゲェや」

エルマーからの賞賛を素直に受け止めて頷いた。

俺の故郷の《寿本国》は遠い。

そこまで一度の航海で辿り着く船はない。一度南下して船を乗り継ぎ、《リョウ》という小さな国から《龍淵リュウエン》という島を乗り継いでやっと故郷に帰れる。

ざっと見積もって半年…

それも問題なく順調にいけばの話だ…

「お前にも世話になった」と礼を口にした。

「よせやぃ…世話してもらったのは俺の方だ…」苦笑いしながら、エルマーは背中を丸めて橋の欄干にもたれた。

「あんたがワルターを影で支えてたから、あいつも俺も今こうして生きてんだ」

彼の吸い込んだ煙草の火がチリチリと音を立て、涙の代わりに灰が散った…

「俺なんかじゃ、ワルターの足手まといにしかなんねぇよ」とエルマーはボヤいた。

「お前が居るから俺は安心して帰れるんだ」

最初は危なっかしい奴だったが、随分まともになったもんだ…

スーとの出会いがこいつを癒し、成長させたのだろう。

今のこいつになら後を託せる。

「ワルターとスーを頼む」

「…あぁ…」と短くエルマーは応えた。

彼は寂しそうに、涙をこらえるように、空を仰いで「昼飯、奢るよ」と呟いた。

小さく笑って、彼の申し出に甘えた。

食費が一食分浮いた。

✩.*˚

「ごきげんよう、クルーガー様」

スカートを指先で摘んでお辞儀する少女に目を奪われた。

お辞儀と一緒に、彼女の豊かな金髪が光を含んで波打った。

キラキラと輝くガーネットのような瞳は、嬉しそうにワルターの姿を映し、薔薇の花弁のような唇は上品な笑みを浮かべている。

ワルターは彼女を「テレーゼ様」と呼んだ。

この子がワルターの奥さんになる子なんだ…

親子みたいな姿なのに、恋人同士にも見えるのは、彼女の瞳が恋人を見つめる熱を持った眼差しだからだ。

少し僕を振り返って、ワルターは彼女を紹介した。

「スー、彼女がテレーゼ様だ。挨拶を…」

「まぁ!」

僕が挨拶をする前に、テレーゼは声を上げて僕に歩み寄った。

「本当に《妖精》みたいな方ですわ。

アレクシスお兄様が夢中になるのも無理ありませんわ」

嬉しそうな笑顔にドキッとする。

君も花の妖精みたいじゃないか?

「お父様から美味しいお紅茶を頂戴致しましたの。

御一緒してくださいませんか?」

「頂戴します」とワルターはいつもとは別人みたいに丁寧に答えた。彼もまた、彼女を優しい眼差しで見つめていた。

『死んだ事にしてくれ』とか言ってたくせに、好き同士じゃないか?

こっそりと笑った僕を見咎めて、ワルターは恥ずかしそうに、小声で「笑うなよ」と叱った。

「お似合いだよ」

「ばっ、馬鹿!そんなわけねぇだろ!」

「イイなぁ、僕も可愛い彼女欲しいな」

エルマーもワルターも幸せそうだし、ハンスみたいな家族が羨ましい。

僕もあんな風になりたい。

「お前みたいなガキんちょにはまだ早ぇよ!」と耳を真っ赤にしたワルターが悪態吐いた。

なんかちょっと必死で笑いを誘う。

君の方が子供みたいだけど?と言う言葉を飲み込んで、テレーゼに促されるまま紅茶の並んだお茶会に呼ばれた。

甘い香りに、少しスパイスの効いた紅茶は恋人たちにはピッタリだ。

これを用意したパウル様はオシャレだな、と思いながら珍しい紅茶を楽しんだ。

✩.*˚

「君はどれも似合うね。これなんかはどうだ?」

アレクはそう言って緋色の上着を僕に合わせた。

黒と金のアクセントの入った上着は派手な赤色なのに、上品な仕立てだ。きっと高価なものだ。

アレクが僕にお下がりをくれると言って、僕を部屋に案内してくれた。凄い数の服に驚いた。

「これ全部着るの?」と訊ねると、彼は「まあね」と笑った。

「殆ど父上や兄上のお下がりだ。私用に仕立てたのはごく一部だよ」

「凄いね」

「父上は身なりには厳しいんだ。

いつ誰が我々のことを見ているか分からない。恥ずかしくない身なりと振る舞いが求められる。

子供でも、侯爵家の恥にならないよう振る舞わなければ…」

「大変だね」

「私だけじゃないさ」と言ってたけど、アレクの表情は少し悲しそうに見えた。

彼はまだ子供だ。色々我慢しないといけないのは辛いだろう…

「スー、君と遊んだ川の散歩はとても楽しかった。

久しぶりに、公子の立場を忘れてはしゃいでしまったよ。父上の耳に入ったらお叱りを受けそうだ」

「じゃあ内緒だね」

「そうだな」と僕に頷いてアレクは嬉しそうに笑った。少年らしい明るい笑顔に戻った彼は、そのまま服選びを続けた。

彼の見立てた衣装をいくつか試した。

服を選ぶアレクは楽しそうだ。

「髪もリボンで結んだ方が良い。スーの髪は真っ黒で綺麗だから強い色でも似合うはずだ」

彼はそう言って、鏡台の引き出しからリボンを幾つか取り出して並べた。

「これなんか似合いそうだ」と紫の光沢のある絹のリボンを手にして、アレクは僕の後ろに回った。

彼の手が髪に触れた。

「サラサラだ」と言いながらアレクは手櫛で髪を梳いて纏めた。指先が耳に当たってつい大声を出してしまった。

「あっ!ダメ!」慌てて耳を抑えた僕にアレクは驚いていた。

「すまない、痛かった?」

「違う、けど…耳は見せちゃダメなんだ」

僕が人間とは違うと知られてしまう。ワルターたちとの約束だった。

「驚かせてごめん…」

リボンを手に呆然とするアレクに謝った。彼は親切でしてくれたのに…なんだか申し訳ない…

俯いた僕に歩み寄って、アレクは耳を隠した手に自分の手を添えた。

「…スー、私にも君の秘密を教えて」

「でも…」と躊躇う僕の顔を真っ直ぐ見つめ、アレクは耳を隠す手を握った。

「大丈夫、秘密は守るから…君の秘密は私が守ってあげる。

ヴェルフェル公子として、君の友人として約束する」

「アレク…」

「私は君のことが好きだ…秘密なんて言わないでくれ」

アレクはそう言って、僕の手を耳から引き離した。

彼があまりにも真剣な顔で言うので、伸びた手を払うことも忘れてしまっていた。

そっと触れた指先が髪を掻き分けて、耳があらわになる。

人間のものとは違う、少し尖った耳が晒された。アレクの驚く顔を見て、やっぱり少し傷付いた…

僕は彼とは違うから、友達でいられなくなる気がした…

「君は…やっぱり《妖精》だったのか?」

「…半分は《人間》だよ」と彼とは反対の言葉を言った。

アレクは笑顔を見せて僕を抱き締めた。

「ありがとう、君は特別な友人だ」

彼はそう言って僕を受け入れた。その言葉は嬉しかったが、同時に戸惑った。

「…友達で…いいの?僕は…」

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僕は《どちらでもない》から…

「君は特別だ」アレクは僕の頬を両手で包むように触れた。彼の澄んだ青い瞳が僕の顔を覗き込んだ。その目に迷いはなかった。

「君はどちらにもなれるんだよ」と素敵な言葉をくれた。そんなふうに思ったことは無かった。

いつも宙ぶらりんな感覚でいた僕には、その言葉が特別に感じられた。

「私は《妖精》のスーも、《人間》のスーも大好きだ。君の秘密を知っても、この気持ちは変わらない。

君は特別なんだ」

そう言ってアレクは僕の額に接吻くちづけを贈った。

驚いて戸惑う僕に、アレクは照れたように笑った。

「額の接吻は《親愛なる友》への《友愛》と《祝福》だよ。フィーアの貴族は男同志でも《特別》な関係の相手には接吻するんだ」

「…クラウスとも?」

「もちろん。私からすると彼は喜んでくれるよ。

フィーアの貴族の間では普通だよ」

少し変わった文化だな…

ちょっと恥ずかしいや…

「何か困ったことがあったら私に頼って欲しい。必ず君の助けになるから」と彼は約束してくれた。

頼りになる友人に頷いて礼を言った。

彼ははにかむように笑って、紫色のあのリボンを勧めた。

「やっぱり少しだけリボン試してみてくれないか?

絶対に君の髪に似合うと思うんだ」

「いいよ」もう秘密を共有したし、断る理由もない。

彼の勧めに応じて、髪を束ねてリボンをかけた。

「やっぱりよく似合ってる」

自分の見立てに満足したのか、アレクは嬉しそうに笑って、僕を大きな鏡の前に連れて行った。

僕が赤い衣装で、アレクは深い緑の衣装だ。

「舞踏会で君と並んで、友達だって自慢したいよ」と、アレクは鏡の中で嬉しそうに笑っていた。

✩.*˚

アレクシス様がスーを連れて行った後、二人で庭に出た。少し汗ばむくらいの日差しが眩しい。

テレーゼ嬢はひさしの広い白い帽子を被っていた。

顔があまり見えないな、と思っていたら、彼女は帽子のひさしを摘んで顔を覗かせた。

「日傘にすればよかったです」と帽子を選んだことを嘆いていた。

「似合ってるよ」と褒めたが、そういうことではないようだ。

「でも、クルーガー様のお顔を見てお話できません」

彼女は残念そうにそう言って、また帽子の下に隠れてしまった。その仕草が少女らしくて愛らしい。

可愛いな…

腕にぶら下がるように手を組んだ少女を微笑ましく思った。娘でも見てる気分だ。

ゆっくりと庭を散歩していると、先日、両家の顔合わせに使ったテラスが目に入った。

風通りの良い場所に、薔薇の蔓を這わせた緑のカーテンが日差しを遮っている。

「休憩するか?」と訊ねると彼女は帽子のひさしを摘んで顔を上げた。

彼女は「是非」と答えて笑顔を見せた。

肌の覗く首筋に、少しだけ汗が滲んでいる。顔も少しだけ赤く見えた。

帽子の下で分からなかったが、お嬢様にはこの日差しは少しきつかったらしい。

「悪ぃ、気付かなかった」

彼女相手だと、つい素の言葉が出てしまう。

無作法な俺の言葉を咎めることもできるのに、少女は俺の無礼に目を瞑ってくれた。

陽の光を避け、円形のドームに彼女を避難させた。

テレーゼ嬢を椅子に座らせ、帽子を取った顔を覗き込んだ。白い肌は少し上気して赤くなっている。

「気分は?」

「少しだけ疲れただけです。ありがとうございます」

「顔が赤いぞ、無理すんな」

「お優しいんですね」

テレーゼ嬢がふふっと小さく笑った。子供なのに大人顔負けの美しさだ。

光を反射する宝石みたいな瞳には俺が映っている。

澄んだ瞳は虹彩まではっきり見て取れる。レースのように目を縁取る長い睫毛は白い頬に影を落としていた。

少し赤く色付いた頬や汗ばんだ肌は艶っぽい。

こんな子供相手に、見蕩れるなんてどうかしてる。

慌てて「お嬢様に何かあったら一大事だ」と言い訳して合わせていた視線を外した。

気恥しさからぶっきらぼうな口を利いてしまう。

これじゃどっちがガキか分からん…

あぁ!煙草が欲しい!落ち着かない!

「クルーガー様」と小さな淑女は俺を呼んで、身振りで自分の隣の席を勧めた。

渋々それに従った。

立っている時より顔が近くなる。非の打ち所のない完璧な顔がそこにある。

手袋の上から小さな手が重なり、白い細い指が女の手が固い男の手を握った。

「大きな手…伯父様の手みたいです」と彼女は笑った。彼女は俺の手を握ったまま、亡くなった伯父の話をしてくれた。

シュミットから差し障りの無い程度の話は聞いていたが、彼女の話すロンメルという騎士はシュミットから聞いたものとは少し違っていた。

姪っ子を溺愛する優しい伯父の話を黙って聞いた。

膝を草の汁で染めながら、姪っ子のためにクローバーを探してくれた話を聞かされた。

「クルーガー様からクローバーを頂戴した時、伯父様にまた会えたような気がして…嬉しかったんです」

俺、そんなに苦労してないけどな…

あったから入れただけだし…なんか悪いな…

「伯父様はテレーゼの憧れでした。伯父様みたいな方と一緒になりたいと思っていました」

「そりゃ…俺みたいなんですまないな…」

女の子の夢を台無しにしちまった。罪悪感しかない…

俺の謝罪に、テレーゼ嬢は驚いた顔で俺を見上げた。

「伯父様みたいな男が良かったんだろ?」と訊ねると彼女は頷いた。それなら俺なんかお呼びじゃない。なんなら一番縁遠い存在だと思うぞ?

「そんな立派な伯父様みたいにはなれねぇよ。

つい最近まで荒くれ者の隊長だったんだ。そう簡単に騎士様なんかになれねぇ…

テレーゼ様の望みには応えられねぇや…悪ぃな」

我ながら後ろ向きな発言だ。でもそんなすげぇ人間になれる気もしない。

俺の言葉に、さっきまで輝いていた瞳が陰った。しくじったと思ったが遅い。潤んだ目を伏せ、彼女は手を離した。

「…テレーゼがお嫌いですか?」

湿っぽい震える声に言葉を失った。

「テレーゼは…クルーガー様が好きです」と小さな声で、彼女は確かにそう言った。

小さな手が目元に運ばれ、涙がドレスを濡らした。

慌てて弁解しようとしたが、適当な言葉が出てこない。触れようとした手も、出しては引っ込めた。

脆く儚げな少女に触れるのが怖かった…

その二の足を踏む俺の姿に、少女はまたガッカリしたように涙を零した。

「私には…お応え頂けないのでしょうか…

テレーゼが子供だから…ただ憐れと優しくしてくださるのでしょうか?」

「…いや…その…」応えるって…何をどうする?

あんたの伯父さんみたいに立派な騎士になるとでも約束するか?

そんな無責任な約束するほど俺は若くないぞ!

「えっと…テレーゼ様…いっぺん落ち着きましょう?」彼女の足元に膝を着いて顔を覗き込んだが、顔を背けて目も合わせてくれない。

「見ないでください…こんな惨めな顔して…恥ずかしい…」と彼女は手のひらで顔を隠した。

泣き方まで筋金入りのお嬢様だ。

帽子を手にしようとした彼女の手を握って止めた。

それを手にしたら逃げて行ってしまいそうだった。

彼女を引き留めようと必死だった。気がつけば、「あんたの事は好きだ」なんて歯の浮くような台詞を口にしていた。

「上手く言えないけどよ、あんたの事は好きだ。

だから泣かんでくれ、俺が悪かったよ」

なんか涙を拭う物を探したが、お生憎様、そんな良いもんない。

仕方なく、スカーフを外して彼女の顔を拭いた。涙がマーブル模様のスカーフに新しい模様を作った。

「いけません、こんなの…汚れてしまいます」

「いいよ、誰も気づきゃしねえよ」そういったものの、スカーフの結び方がよく分からない。

結局手ぬぐいみたいに肩にかけた。

風呂帰りみたいな格好だ…さすがにこれにはシュミットから小言を貰いそうだ…

俺の姿に見かねたテレーゼ嬢が手を伸ばし、スカーフの両端を握った。

「もう少し近くに…」と言うので、膝を着いた姿で少し前に出た。彼女は上手にスカーフを整え、ついでに襟も直してくれた。

「助かった、ありがとうよ」

「淑女の嗜みです」と微笑むと、彼女は俺の頬に両手を添えた。

椅子から少しだけ腰を浮かせた彼女の唇が額に押される。ほんの一瞬の出来事に、理解出来ずに固まった。

何?今の…キスした?

確認も出来ずに、呆けた姿の俺に、彼女はクスクスと笑った。

これも淑女の嗜みか?全く、大人をからかいやがって…

ませた少女を抱き寄せて、額に仕返しのキスをした。

擽ったそうに笑う声がテラスの屋根の下に響いた。

✩.*˚

「全てを失ったと言ったところだな…」

格子越しに立っている見張りは皮肉っぽく笑った。

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腸が煮えくり返るような怒りが湧く。

あいつのせいで、俺は全てを失って、今ここにいる…

ふざけやがって!てめぇが手に入れた全ては俺のためにあるはずの物だ!

《英雄》だと?!この盗人が!

憤怒を覚える俺の耳に、鉄格子をノックする音が届き、顔を上げた。

さっき俺をバカにした看守がニヤニヤと笑いながら格子にもたれている。

「なぁ、ものは相談なんだが…」と言いながら、彼は牢の鍵をチラつかせた。

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「欲しいもんがあるのさ。あんたの持ってる情報をくれるなら出してやるよ」と男は言った。

この男、看守では無いのか?

男はさらに囀った。

「あんたこんな所で燻ってて良いのかい?

こんなところにぶち込んだ兄貴は、全て満たされ、今幸せの絶頂だ。悔しくないのかい?」

男の言葉に怒りが激しく燃え上がった。

それを察したのか、男の口元がニヤリと笑った。

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