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さよならの前に
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「なあ、クリス…面白い噂を聞いたんだが…」
賑やかな酒場の片隅で、エールを手に、仕事仲間のアランは話を切り出した。
「それは仕事の話か?それとも世間話か?」
「仕事になりうる世間話さ」そう言って、酒を傾けた彼は、先だってのブルーフォレスト戦役の話題を振った。
どこかのお偉いさんが、傭兵団・《金百舌鳥》を使ってウィンザー領での戦闘に介入したらしい。
しかし、大した戦果も上がらず、ウィンザーは地図から消えた。
《金百舌鳥》の隊長は死んだって噂だったし、連れて行った傭兵たちの大半は戻らなかった。
《金百舌鳥》は団としてもとんだ恥を晒したもんだ…
「フィーア勢に、変わった傭兵の子供がいたらしいぜ」
「傭兵なんて興味ねぇよ」
俺の本職は奴隷商だ。エルフの子供を捕まえて調教して、金持ちに売るので金を稼いでる。
ハイリスクハイリターンな仕事だが、いい稼ぎで、何よりそれが面白かったから続けていた。
アランは興味の失せた俺に「まぁ、聞けよ」と話を続けた。
「エルフに黒髪って居ると思うか?」
「馬鹿言え、黒髪なんて…」
一般的な常識では、黒髪のエルフは存在しない。
ハーフだとしても、黒髪は聞いたことないし、ハーフ自体、珍しい存在だ。
「確認は取れてないが、ウィンザー帰りの連中の話じゃ、それっぽい子供が戦列で戦ってたと言うことだった。
白い見たことない形状の弓と精霊魔法を使って、水精を操ってたとか…
あの《金百舌鳥》の《烈火》ともやりあったらしいぜ」
「…ほぉ…」興味が湧いた。
それが本当なら、良いしのぎになる。
「国内も王弟派が優勢だ。王太子派は粛清される。
アーケイイックでの仕事もまた再開だ、嬉しいだろ?」
「まぁな」
王太子派は奴隷制度を良く思ってないそうだ。
王太子を旗印に、国内の改革に出ようとしゃしゃり出たデイヴィス公爵はテューダー公爵の前に風前の灯火だ。
いくら善行だとしても、支持者の伴わない改革など、妄言や暴挙に等しい。結局は国内の秩序を乱す賊として処断される運命だ。
奴隷制度は必要悪なのだ。
神聖オークランド王国はそうやって国を支えてきた。これからもその《飴》を、上流階級のご褒美としてチラつかせ続けるのだろう。
「乗るか?相棒?」アランが俺を仕事に誘った。
危ない橋ほど渡ってみたくなるものだ。
俺の原動力は好奇心だ。黒髪のエルフに興味があった。他のとどう違うのか?なぜそうなのか?性格は?商品価値は?
乗らない手はない。
彼と握手を交わし、協力を約束した。
✩.*˚
「ミア!間に合わなくなるよ!」
ビアンカがあたしの手を引いた。
輜重隊と一緒に、最寄りの街まで戻る日になったのに、エルマーは顔を出してくれなかった。
彼は中隊長だ。女と遊んでる暇などないのだろう…
「いいよ、迷惑になるよ…」
「まだ追い返されてもないでしょ!」
及び腰のあたしにビアンカが叱咤して励ました。
傭兵団の宿営地は、昨日まで並んでいたテントのほとんどが撤去され、元の何も無い更地に変わっていた。
どこに行って、彼を探したらいいのか分からず、二人で目の前の更地を眺めた。
「お前ら、こんな所で何してんだ?」
見咎めた傭兵に声をかけられた。
「置いて行かれんぞ、早く仲間のところに帰れ」
追い返されそうになったところに、大柄な剣を背負った男がやって来て、親切に用向きを訊いてくれた。
「おいおい、別嬪さんたち、何の用だい?」
「クライン中隊長に会いたいんだけど…」とビアンカが勝手に言った。相手は「エルマーの奴か?」とすぐに分かってくれたようだ。
「なんだよ、あいつ。可愛い子ばかり囲いやがって…」と腕を組んで不服そうに愚痴をこぼしたが、大男は「着いてきな」と案内してくれた。
「ありがとう」と大きな背に礼を伝えると、大男は人の良さそうな笑顔で笑った。
「気にするな。あんたらには部下も含めてみんな世話になった。
それに別嬪さんのお願いなら叶えてやるのが男だろ?」
「へぇ、良い男じゃん」ビアンカは大男を褒めて、太い腕に自分の腕を絡めた。懐っこい仕草で身体を密着させるビアンカに、大男は気を良くしたらしい。
「惚れたか?」
「ちょっとね」と彼女は彼を見上げて笑った。
ビアンカは器量も愛想もいい。男を喜ばせるお喋りだってあたしより上手だ。
「まだこんな別嬪さんたちがいたとはな。
惜しいことしたぜ、もっと遊んどきゃ良かった」
「旦那になら今からでも良いよ」
「ハハッ!ありがとよ」彼はご機嫌な様子で応えた。
何故か意気投合してしまった二人を眺めながら歩いた。
楽しそうだな…
少しだけ羨ましく思った。
ヘンリックと名乗った大男は、あたしたちを馬車の並んだ場所に案内した。ほかの傭兵たちに混ざって、あの派手な装いの、背の高い傭兵の姿があった。
ヘンリックの呼び掛けに、エルマーが振り向いて驚いた顔を見せた。
「ミア、なんで?輜重隊と帰るんだろ?」
「だって…来てくれなかったから…」
あたしはまた来て欲しかったのに…
そんな余計な言葉は飲み込んだ。
エルマーは「悪ぃ」と短く言い訳した。
別に約束したわけじゃない。でもお別れくらい言いに来てくれても良かったんじゃない?
「隅に置けんな」とヘンリックが茶化して、ビアンカと笑ってた。
彼女があたしの背を押した。前のめりによろけた身体を、反射的に長い腕が伸びて支えた。
「あっぶねぇな」とエルマーはビアンカに睨んで文句を言ったが、あたしの事は優しく受け止めてくれた。おかげで転ばずに済んだ。
「…ありがと」礼を言いながら腕に縋った。
「ドライファッハに帰るの?」エルマーの顔を見上げた。
「当たり前だろ?
それより、お前ら早く戻らねぇと…」
エルマーはあたしを引き剥がそうとした。忙しいのだろう…でも拒否された気がして、涙が滲んだ。
「お前な、女にそこまでさせて追い返すなんてねぇだろ?」ヘンリックが大仰なため息を吐いてエルマーを叱った。
「はあ?何言ってやがる!」エルマーは彼に向かって凄んだが、ヘンリックは何処吹く風だ。彼はお節介な一言を追加して小さく笑った。
「惚れさせたんなら責任持てよ、男だろ?」
「ミア、あんたもちゃんと言いなよ」
ビアンカが二の足を踏むあたしに言葉を促した。
「この先ないよ、逃がしちゃダメだ」
彼女の言葉に背中を押されて、顔を上げた。
「好きって言ったら、あんたは迷惑かな?」
「…ミア?」
「商売女じゃ…ダメかな?」好きで春を売る仕事を始めた訳じゃない。仕方なかったんだ…
胸を張って、人を愛せるような女じゃないけど、気持ちは、あんたが特別だって言ってる…
「何言ってんだよ?そんな事言うなよ」
エルマーはそう言ってあたしの涙を拭った。
「俺は元々お尋ね者だぜ。
碌でなしのクソ野郎で人殺しだ。人並みの幸せなんて願っちゃいねぇよ。
あんたもうちょっと男を見る目を養った方がいいぜ」
そう言ってあたしを見下ろす顔は、複雑な表情を浮かべていた。
嬉しいような、困ったような、寂しいような…
涙を拭った手が頭に伸びて、ゆっくりと髪を撫でた。
「あんた可愛いんだ。もっと良い男探しな」
「…無理だよ、あんたが好きだもん」
「ありがとよ」
エルマーはそう言って苦笑いしながら、あたしを抱き寄せてくれた。 優しく緩く抱く彼の腕が好きだ。
金を貰ってるから、乱暴にされたり、気持ち悪かったり、痛いのも我慢した。早く終われって思いながら、金のために、男たちに身体を開いた。
そんな中、彼だけはあたしに『大丈夫か?』って訊いてくれた。
優しくしてくれた…
あんたに買われたはずなのに、満足したのはあたしの方だった…
「ダメかな?あたしじゃ…嫌かな…?」
「…嫌ならあんなに何度も行くかよ」そう言ってエルマーはあたしを抱いたまま、小さな声で「あんたは綺麗だ」と言ってくれた。
その言葉が嬉しくて、彼の腕の中で泣いた。
やっぱり、あんた優しいや…
優しい手のひらが、髪をそっと撫でた。
「置いていかれちまったな…
仕方ねぇから近くの街まで送ってやるよ」
エルマーの視線の先には、商人たちの輜重隊の馬車が遠ざかっていく姿があった。
彼の胸に顔を埋めて、離れて行く輜重隊を見送った。
また優しい手のひらが髪を撫でた。
あたしはあんたが、どうしようもなく好きなんだ…
✩.*˚
馬車に乗って、ドライファッハから元ユニコーン城まで戻った。
新たに、シュタインシュタットと名を変えた街には、これまたアインホーン城と名を改めた石造りの古城が城下を見渡している。
「よぉ!待ちくたびれたぜ!」
馬車から降りた俺をヘンリックたちが出迎えた。
固い握手を交わし、俺たちを送り出してくれたヘンリックに感謝した。彼もドライファッハに行きたかったはずだが、俺たちに譲ってくれた。
「団長の具合は?」
「もう大丈夫だ。さすが、フィーア屈指の治癒魔導士だ」
親父の容態も安定し、視力も生活に支障のない程度には回復していた。
馬車に戻って、中に声を掛けた。
「降りれるかい?」
「大丈夫だ」と馬車から返事が返って来る。
スーが親父に手を貸して馬車から降りると、仲間から歓声が上がった。
「大ビッテンフェルト!」と口々に叫ぶ傭兵たちに、親父は手を挙げて応えた。
傭兵団から更なる歓声が上がる。
「相変わらず大人気じゃねぇか」と笑いながらゲルトが親父の隣に立った。二人の老人は満足そうに歓声に応えた。
「すごい。二人とも人気者だね」とスーが驚いていた。
「親父さんたちに比べりゃ、俺たちはおまけみたいなもんだ」とカミルも嬉しそうに笑っている。
ヘンリックがカミルに歩み寄って手を差し出した。二人で握手を交わし、背中に腕を回してハグした。
「叔父貴が世話んなった」
「子供が親の世話すんのは当然だろ、兄貴?」
カミルの返事に、ヘンリックは嬉しそうに笑った。
「ガキ共の新しい母ちゃん見つかったぜ」
「マジか?あんたも懲りねぇな…」二人で仲良さげに笑いながら冗談を言っている。
別の賑やかな方に視線を向けると、エルマーやソーリューらとスーが再会を喜んでいた。
「一件落着か?」と歩み寄ってきたヨナタンが俺に訊ねた。
「あぁ、終わったよ」とスッキリした顔で笑った。
「そうみたいだな」とヨナタンも笑った。仏頂面はいくらか解消されたようだ。
「俺も後でお前と親父さんに話がある。
フリッツの件でだ。時間をくれ」
「分かった」
「お前はもう心配なさそうだな」とヨナタンは煙草を咥えて、スーの方に向きを変えて歩き去った。
スーもヨナタンに気付いて手を振って笑った。
ずっと昔から仲間だったみたいな顔して、図々しい少年は仲間たちに囲まれて楽しそうに笑っていた。
「ワルター!」
スーが大声で俺を呼んだ。
「エルマーに先越されたよ!」と訳の分からんことを言って、エルマーに「バカ!」と叱られて口を塞がれてる。
やれやれ、と肩を竦めた。
その肩を、いつの間にか隣に立っていたフリッツが軽く叩いた。
「お前も報告あるだろ?」と背を押して、彼らの元に歩み寄る。
この喧騒ともお別れとは、なんとも寂しいような気がした。
✩.*˚
「テレーゼ・フォン・ロンメルです」
可愛らしく、囀るような声で名乗った少女は、顔を上げた。
女ってのは表情一つでこんなに変わるもんかね?
俯いて怯えていた少女は、まるで別人だ。
薄い茶色の瞳は、長いまつ毛に縁取られた瞼の下でキラキラと輝いて俺を見上げている。
淡い色の金髪は髪飾りでまとめられていて、顔の小ささがさらに強調されていた。
可愛らしいレースとリボンのドレスは、彼女に良く似合う淡いピンクで、緑に囲まれた庭園の白いテラスに立つ姿は花の妖精みたいだ。
改めて見ると、子供というのに完成された美人だ。
「《神紋の英雄》のクルーガー様にお会いできて光栄です」
「…あ、はぁ、どうも…」
美少女を目の前にして、語彙力の無くなった俺を親父が肘で小突いた。
いや、マジで言葉が出んのよ…変な汗かくわ…
だって俺、冴えないおっさんよ?こんなにお姫様と何話せってんだよ?
戸惑う俺の様子を見て、テレーゼ嬢は小さな指先でくすくすと笑う口元を隠した。その仕草一つでもたおやかで愛らしく、いかにもお嬢様だ。
「お前の美しさに言葉も無いようだ」とパウル様が笑いを噛み殺しながらテレーゼ嬢に言った。
あぁ、そうですよ!
腹の中で悪態ついた。全く、無様の一言に尽きる。早くここから逃げ出したい…
なんなら《烈火》相手の方がマシだ!
俺の無様な姿に耐えられなくなったようで、親父の方が口を開いて彼女に賛辞を贈った。
「まことに、噂に違わぬ美しさですな。
《白鳥姫》とは、白鳥の方が恥じ入って隠れてしまいそうだ」
「ありがとうございます、ビッテンフェルト様」
恥ずかしそうに頬を染めて答える姿が可愛らしい。
「ですが、クルーガー様のお姿に比べれば、私など霞んでしまいますわ」
「ご冗談を!」と親父は笑い飛ばしたが、テレーゼ嬢は世辞などでなく本気で言ってるようだ。
「お姉様たちに嫉妬されてしまいますわ」と心配していた。
そんな事ないと思うが…むしろあんた貧乏くじだぜ?異母姉ちゃんらは胸をなでおろしてることだろう…
「さて、私は忙しいので席を外させて頂こう。
ビッテンフェルト殿、卿も疲れておろう?
客間で少し休まれるといい」
「それはありがたいお申し出です。何しろもう歳ですので…」
そう言って二人で連れ立って席を外した。
白い大理石のテラスに少女と二人で置いてけぼりにされた…
えぇ…どうするんだよ、これ…
ちらりとテレーゼ嬢に視線を向けると、彼女は少し首を傾げながら親しげに微笑んだ。
えぇ…何その変わりよう…
「クルーガー様」と呼ぶ声も、怯えた様子は一切なかった。むしろビビってんのは俺の方だ…
マジでいきなり泣くとかは勘弁してくれよ?
彼女は嬉しそうに笑って「お散歩しませんか」と俺を庭に誘った。
子供にリードされてる…情けねぇ…
テラスの階段の前で、彼女は少しもたついた。
スカートとヒールが足元をおぼつかなくさせている。
このままじゃ転ぶと思い、「どうぞ」と支えるために手を差し出した。
「ありがとうございます」とテレーゼ嬢は手を取った。お嬢様でもちゃんと礼を言うんだな、と変なところで感心した。
白い小さな手は華奢で柔らかい。
このお姫様は、まるで俺とは違う生き物みたいだ…
少しでも下手に扱ったら、壊れてしまいそうでヒヤヒヤする。
少ない階段をひとつずつゆっくりと降りるのを待った。焦らせて転んだら事だ。
階段を降りたテレーゼ嬢は、足元に落としていた視線を上げて微笑むとまた礼を言った。
もういいかと思って貸していた手を離した。
もう歩けるだろ?
テレーゼ嬢は離れた手を見て、少し戸惑った様子を見せたが、隣に並ぶと俺の腕に手を伸ばした。
白い指が腕に絡む。大胆な行動に身体が固まった。
「参りましょう」と笑顔で促され、腕を組んだままギクシャクと歩き始めた。
嘘だろ?俺、お姫様と腕組んで歩いてるよ…
エマとだってこんな風には歩かなかったよ。
俺が恥ずかしがったからだけどさ…
俺ってば、ダサいな…
こういうの、どうしたらいいのか分かんねぇよ。
✩.*˚
話には聞いていたけど、久しぶりにお会いしたクルーガー様は別人みたいだった。
先日はお顔をあまり見てなかった。改めて見ると整った顔をしていた。
冷たい印象は拭えないけど、少し目じりの下がった目元は涼しげで、不思議なラピスラズリのような藍色の双眸が印象的だった。
髪はくすんだ色の金髪だったのに、太陽を反射する雪原のような白銀に変わっていた。
髭も剃って、髪も整え、逞しい長駆を礼服を包んだ姿は、騎士と名乗っても恥ずかしくない出で立ちだ。
一目で印象が変わった。
お手紙をやり取りしたことも印象を変えるのに一役買ったと思う。
クルーガー様は無口なお人だった。あまり視線も合わせてくれない。
それでも話しかけると短くだが応えてくれた。
そんなクルーガー様を見上げていると、不意に彼の方が口を開いた。
「疲れたのか?」
「え?」
「いや、歩きにくそうだったから…」と言って彼は歩く速度を弛めた。
めかしこんだドレスは少し重く、動きを制限していた。新しい靴も、背伸びするために少し高いヒールを選んだ。
少しでも大人に近づきたくて、少しだけ無理をした結果だ。
舗装された石畳でも、その無理が表に出るのに時間はかからなかった。
「大丈夫です」と強がった。
クルーガー様は辺りを見回して、ベンチを見つけると「あそこまで頑張れ」と私を励まし、エスコートしてくれた。
「待ちな、ドレスが汚れる」と言って、上着を脱ぐと椅子に敷いて、その上に私を座らせた。
言葉は少し乱暴だけど、行動は優しい。
「ありがとうございます」
「…いいよ」ふいっと顔を背けた彼は隣に座った。
急に沈黙が訪れる。
木漏れ日の当たるベンチで二人、話すことも無く、手入れの行き届いた庭を眺めた。
「…変か?」不意にクルーガー様が口を開いた。
「《祝福》のせいで、変わっちまったから…爺さんみたいな髪だろ?」そう言いながら、彼は髪を掻き上げた。
手袋を外して袖を捲って見せた。
刺青のような魔法陣の模様が晒される。
「これもそうだ。
自分でした訳じゃないからさ、怖がらないでくれよ?」
「《神紋》…ですか?」
「胸や背中にも出てる。迷惑なこった」と彼は困ったように呟いて袖を元に戻した。本当に迷惑してるようで、意外だった。
「お嫌なのですか?」と訊ねた。
「やだよ」と子供みたいに答え、クルーガー様は腕を組んで、背もたれに体を預けた。ベンチが少し軋んだ。
「元々、俺は《英雄》や《騎士》って柄じゃねぇんだ。
あんたにも、悪いことしたなって…そう思ってる」
結婚のことだろうか?
「俺はもうおっさんだし、大して男前でもないし、だらしないし、礼儀だってなっちゃいねぇよ。そんなの俺がいちばんよく分かってるよ。
あんたみたいなお姫様と釣り合うような人間じゃねえや」
随分悲観的だ。彼はチラリと私を見てまた目を逸らした。
「その…なんだ…
嫌なら嫌で構わないから…そういうの、我慢しないで言ってくれ」
私が無理してるように感じてるのだろうか?
手紙と同じような事を言って、彼は自分の握った手袋に視線を落としてまた沈黙した。
クルーガー様の手袋には刺繍の燕が飛んでいた。
私が意地悪をした手袋だ…
「その手袋…」
「ん?あぁ、これか?」と応えてクルーガー様は手袋をはめ直した。
「やっと馴染んできた」と言って、クルーガー様は手袋の甲に綴られた刺繍を撫でた。
クルーガー様は「上手だ」と刺繍を褒めてくださった。でも、そのままでは燕はそっぽを向いたままだ。
「お直しさせて頂けませんか?」とお願いした私に、「何で?」とクルーガー様は笑った。燕の意匠が偏ってるのに気づいてないのだろうか?
あまりに子供じみた意地悪だったので、気づかなかったのだろうか?
「俺は気に入ってるよ。
これな、こうすると番になるんだ」と笑って、小指を合わせて私に見せた。
「あっ!」と声を上げた私を見て、クルーガー様はいたずらっぽく笑った。
小指側に偏った燕たちは顔を合わせて番になった…
普通は親指を揃えて見るものだ。
そんな事思っても見なかった…
そんな私に、「直しは必要ないだろう?」と彼は笑って見せた。
その笑顔に胸が高鳴った。
親子ほど年の離れたこの男性に恋をした。
✩.*˚
クルーガーに手を引かれ、戻ったテレーゼは、恋を知った女の顔になっていた。
俯いてばかりだった少女は顔を上げ、伴侶となるべき男性を愛おしげに見つめている。
その笑顔に、彼女の母親の面影を見た…
「息子は、お嬢様のお眼鏡にかないましたかな?」
ビッテンフェルト殿が私に訊ねた。
「…そのようだ」と答え、ビッテンフェルト殿に向き直った。
「ご子息の生涯は、私が一切の責任を持つ。ご安心召されよ」
「よろしくお願いいたします」と父親は頭を下げた。
「私に似て不器用で頑固な扱いにくい男です」と父親は息子を評し、不器用に血の繋がりを主張した。
「真面目で一途で義理堅い男だ。そうだろう?」と言葉を返した。
それを聞いた父親は嬉しそうに笑った。
「貴殿は彼の父上だ。それは変わらぬ」
「ならば胸を張って、我が子を生涯の自慢と致しましょう」
彼は、可愛い義理の娘ができたと喜んでいた。
クルーガーは正式に娘婿として、《騎士》ロンメルとなる。
ロンメルの《騎士号》の次は、私の推薦で、正式に王宮から《英雄》の称号と《爵位》が贈られ、南部侯の直臣として南部侯の麾下に組み込まれる事になる。
彼には旧ウィンザー領の小領主として仕事が待っていた。
「急くようで悪いが、取り急ぎ正式に婚約を公表する。
オークランドが体勢を立て直す前に、新しい対オークランドの体勢を整えねばならんのでな」
旧ウィンザー公領は未だ不安定なことは変わりない。
父上の代から引き継いだ、対オークランドを想定した城郭都市 《ラーチシュタット》の建造も未だ未完だ。
このままオークランドが手をこまねいているはずがない。
フィーアに攻め込むのは、新王として即位した王太子か王弟か…たかだかその程度の違いだ。
「クルーガー…いや、ロンメルには大いに期待している」
過度な期待だと彼は眉を顰めるだろうか?
それでも父に誓った理想のため、《孫子の代まで続く安寧》の犠牲として道連れにするのにこれほどまで心強い存在はないだろう。
ビッテンフェルト殿は私の心中を察するように、頼もしく笑いながら息子の活躍を約束した。
「息子は与えられた仕事には必ず結果を出す男です。
必ずや、ワルターは閣下のお役に立つことでしょう」
惜しげも無く最良な宝を差し出した老人に、感謝の意を込めて深く頭を下げた。
私を支える全ての者への感謝を忘れぬよう、深く心に刻んだ。
✩.*˚
「スー、ドライファッハに帰ってしまうのか?」
残念そうにアレクが僕に訊ねた。
隠れるようにこっそりと宿屋を訪ねてくれた友達の手を握って約束した。
「ワルターたちとまたすぐ戻ってくるよ」
残って待ってる事もできたけど、一人で残るのが嫌だったから、みんなと一緒に帰るのを選んだ。
フリッツとヨナタンはドライファッハの団長の元に残るらしい。
ゲルトたちも最初に合流した街に戻る。
みんなそれぞれの生活に戻るのだ。
「アレクシス様、早く城に戻らないと心配されますよ」とクラウスがアレクを急かした。
「分かってる」と拗ねたように答え、アレクは持っていた剣を僕に差し出した。
白い鞘に収まった剣を「受け取って欲しい」と言って、アレクは僕に贈り物を握らせた。
柄には細かな細工が施され、白い鞘にも繊細な花の模様が刻まれている。
一目で高価なものだと分かる。受け取っていい物か迷った。
「本当は馬の方が喜ぶかと思ったけど、目立ってしまうから…私との友情の証として受け取って欲しい」
アレクはそう言って僕の手を強く握った。
「戻ったら必ず顔を出して、待ってるから」と言ってくれた。
「うん。ありがとう、アレク」
「絶対だ。約束だぞ、スー」
二人とハグして別れを惜しんだ。
帰ろうとしたアレクを呼び止め、「これ」と剣の代わりに、馴染んだ短剣を差し出した。
僕から渡せる品はこれだけだ。
「君も受け取って」と受け取るように促した。
彼ははにかんで「ありがとう」と受け取ってくれた。
城に帰っていく二人を見送って宿に戻った。
傭兵たちで満室の宿屋は騒がしい。
それも僅かな期間だけだ…
数日もすればここも空になってしまう…
この喧騒にも人混みにもすっかり慣れてしまった。
なければ寂しく感じるくらいだ。
エルマーたちの待つテーブルに戻ると、エルマーが椅子を引いて迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま」と応えて席に着いた。
僕の帰る場所はここだ。
ワルターが『何度でも帰ってきてしまう』と言ってた意味が、少しだけ分かった気がした。
賑やかな酒場の片隅で、エールを手に、仕事仲間のアランは話を切り出した。
「それは仕事の話か?それとも世間話か?」
「仕事になりうる世間話さ」そう言って、酒を傾けた彼は、先だってのブルーフォレスト戦役の話題を振った。
どこかのお偉いさんが、傭兵団・《金百舌鳥》を使ってウィンザー領での戦闘に介入したらしい。
しかし、大した戦果も上がらず、ウィンザーは地図から消えた。
《金百舌鳥》の隊長は死んだって噂だったし、連れて行った傭兵たちの大半は戻らなかった。
《金百舌鳥》は団としてもとんだ恥を晒したもんだ…
「フィーア勢に、変わった傭兵の子供がいたらしいぜ」
「傭兵なんて興味ねぇよ」
俺の本職は奴隷商だ。エルフの子供を捕まえて調教して、金持ちに売るので金を稼いでる。
ハイリスクハイリターンな仕事だが、いい稼ぎで、何よりそれが面白かったから続けていた。
アランは興味の失せた俺に「まぁ、聞けよ」と話を続けた。
「エルフに黒髪って居ると思うか?」
「馬鹿言え、黒髪なんて…」
一般的な常識では、黒髪のエルフは存在しない。
ハーフだとしても、黒髪は聞いたことないし、ハーフ自体、珍しい存在だ。
「確認は取れてないが、ウィンザー帰りの連中の話じゃ、それっぽい子供が戦列で戦ってたと言うことだった。
白い見たことない形状の弓と精霊魔法を使って、水精を操ってたとか…
あの《金百舌鳥》の《烈火》ともやりあったらしいぜ」
「…ほぉ…」興味が湧いた。
それが本当なら、良いしのぎになる。
「国内も王弟派が優勢だ。王太子派は粛清される。
アーケイイックでの仕事もまた再開だ、嬉しいだろ?」
「まぁな」
王太子派は奴隷制度を良く思ってないそうだ。
王太子を旗印に、国内の改革に出ようとしゃしゃり出たデイヴィス公爵はテューダー公爵の前に風前の灯火だ。
いくら善行だとしても、支持者の伴わない改革など、妄言や暴挙に等しい。結局は国内の秩序を乱す賊として処断される運命だ。
奴隷制度は必要悪なのだ。
神聖オークランド王国はそうやって国を支えてきた。これからもその《飴》を、上流階級のご褒美としてチラつかせ続けるのだろう。
「乗るか?相棒?」アランが俺を仕事に誘った。
危ない橋ほど渡ってみたくなるものだ。
俺の原動力は好奇心だ。黒髪のエルフに興味があった。他のとどう違うのか?なぜそうなのか?性格は?商品価値は?
乗らない手はない。
彼と握手を交わし、協力を約束した。
✩.*˚
「ミア!間に合わなくなるよ!」
ビアンカがあたしの手を引いた。
輜重隊と一緒に、最寄りの街まで戻る日になったのに、エルマーは顔を出してくれなかった。
彼は中隊長だ。女と遊んでる暇などないのだろう…
「いいよ、迷惑になるよ…」
「まだ追い返されてもないでしょ!」
及び腰のあたしにビアンカが叱咤して励ました。
傭兵団の宿営地は、昨日まで並んでいたテントのほとんどが撤去され、元の何も無い更地に変わっていた。
どこに行って、彼を探したらいいのか分からず、二人で目の前の更地を眺めた。
「お前ら、こんな所で何してんだ?」
見咎めた傭兵に声をかけられた。
「置いて行かれんぞ、早く仲間のところに帰れ」
追い返されそうになったところに、大柄な剣を背負った男がやって来て、親切に用向きを訊いてくれた。
「おいおい、別嬪さんたち、何の用だい?」
「クライン中隊長に会いたいんだけど…」とビアンカが勝手に言った。相手は「エルマーの奴か?」とすぐに分かってくれたようだ。
「なんだよ、あいつ。可愛い子ばかり囲いやがって…」と腕を組んで不服そうに愚痴をこぼしたが、大男は「着いてきな」と案内してくれた。
「ありがとう」と大きな背に礼を伝えると、大男は人の良さそうな笑顔で笑った。
「気にするな。あんたらには部下も含めてみんな世話になった。
それに別嬪さんのお願いなら叶えてやるのが男だろ?」
「へぇ、良い男じゃん」ビアンカは大男を褒めて、太い腕に自分の腕を絡めた。懐っこい仕草で身体を密着させるビアンカに、大男は気を良くしたらしい。
「惚れたか?」
「ちょっとね」と彼女は彼を見上げて笑った。
ビアンカは器量も愛想もいい。男を喜ばせるお喋りだってあたしより上手だ。
「まだこんな別嬪さんたちがいたとはな。
惜しいことしたぜ、もっと遊んどきゃ良かった」
「旦那になら今からでも良いよ」
「ハハッ!ありがとよ」彼はご機嫌な様子で応えた。
何故か意気投合してしまった二人を眺めながら歩いた。
楽しそうだな…
少しだけ羨ましく思った。
ヘンリックと名乗った大男は、あたしたちを馬車の並んだ場所に案内した。ほかの傭兵たちに混ざって、あの派手な装いの、背の高い傭兵の姿があった。
ヘンリックの呼び掛けに、エルマーが振り向いて驚いた顔を見せた。
「ミア、なんで?輜重隊と帰るんだろ?」
「だって…来てくれなかったから…」
あたしはまた来て欲しかったのに…
そんな余計な言葉は飲み込んだ。
エルマーは「悪ぃ」と短く言い訳した。
別に約束したわけじゃない。でもお別れくらい言いに来てくれても良かったんじゃない?
「隅に置けんな」とヘンリックが茶化して、ビアンカと笑ってた。
彼女があたしの背を押した。前のめりによろけた身体を、反射的に長い腕が伸びて支えた。
「あっぶねぇな」とエルマーはビアンカに睨んで文句を言ったが、あたしの事は優しく受け止めてくれた。おかげで転ばずに済んだ。
「…ありがと」礼を言いながら腕に縋った。
「ドライファッハに帰るの?」エルマーの顔を見上げた。
「当たり前だろ?
それより、お前ら早く戻らねぇと…」
エルマーはあたしを引き剥がそうとした。忙しいのだろう…でも拒否された気がして、涙が滲んだ。
「お前な、女にそこまでさせて追い返すなんてねぇだろ?」ヘンリックが大仰なため息を吐いてエルマーを叱った。
「はあ?何言ってやがる!」エルマーは彼に向かって凄んだが、ヘンリックは何処吹く風だ。彼はお節介な一言を追加して小さく笑った。
「惚れさせたんなら責任持てよ、男だろ?」
「ミア、あんたもちゃんと言いなよ」
ビアンカが二の足を踏むあたしに言葉を促した。
「この先ないよ、逃がしちゃダメだ」
彼女の言葉に背中を押されて、顔を上げた。
「好きって言ったら、あんたは迷惑かな?」
「…ミア?」
「商売女じゃ…ダメかな?」好きで春を売る仕事を始めた訳じゃない。仕方なかったんだ…
胸を張って、人を愛せるような女じゃないけど、気持ちは、あんたが特別だって言ってる…
「何言ってんだよ?そんな事言うなよ」
エルマーはそう言ってあたしの涙を拭った。
「俺は元々お尋ね者だぜ。
碌でなしのクソ野郎で人殺しだ。人並みの幸せなんて願っちゃいねぇよ。
あんたもうちょっと男を見る目を養った方がいいぜ」
そう言ってあたしを見下ろす顔は、複雑な表情を浮かべていた。
嬉しいような、困ったような、寂しいような…
涙を拭った手が頭に伸びて、ゆっくりと髪を撫でた。
「あんた可愛いんだ。もっと良い男探しな」
「…無理だよ、あんたが好きだもん」
「ありがとよ」
エルマーはそう言って苦笑いしながら、あたしを抱き寄せてくれた。 優しく緩く抱く彼の腕が好きだ。
金を貰ってるから、乱暴にされたり、気持ち悪かったり、痛いのも我慢した。早く終われって思いながら、金のために、男たちに身体を開いた。
そんな中、彼だけはあたしに『大丈夫か?』って訊いてくれた。
優しくしてくれた…
あんたに買われたはずなのに、満足したのはあたしの方だった…
「ダメかな?あたしじゃ…嫌かな…?」
「…嫌ならあんなに何度も行くかよ」そう言ってエルマーはあたしを抱いたまま、小さな声で「あんたは綺麗だ」と言ってくれた。
その言葉が嬉しくて、彼の腕の中で泣いた。
やっぱり、あんた優しいや…
優しい手のひらが、髪をそっと撫でた。
「置いていかれちまったな…
仕方ねぇから近くの街まで送ってやるよ」
エルマーの視線の先には、商人たちの輜重隊の馬車が遠ざかっていく姿があった。
彼の胸に顔を埋めて、離れて行く輜重隊を見送った。
また優しい手のひらが髪を撫でた。
あたしはあんたが、どうしようもなく好きなんだ…
✩.*˚
馬車に乗って、ドライファッハから元ユニコーン城まで戻った。
新たに、シュタインシュタットと名を変えた街には、これまたアインホーン城と名を改めた石造りの古城が城下を見渡している。
「よぉ!待ちくたびれたぜ!」
馬車から降りた俺をヘンリックたちが出迎えた。
固い握手を交わし、俺たちを送り出してくれたヘンリックに感謝した。彼もドライファッハに行きたかったはずだが、俺たちに譲ってくれた。
「団長の具合は?」
「もう大丈夫だ。さすが、フィーア屈指の治癒魔導士だ」
親父の容態も安定し、視力も生活に支障のない程度には回復していた。
馬車に戻って、中に声を掛けた。
「降りれるかい?」
「大丈夫だ」と馬車から返事が返って来る。
スーが親父に手を貸して馬車から降りると、仲間から歓声が上がった。
「大ビッテンフェルト!」と口々に叫ぶ傭兵たちに、親父は手を挙げて応えた。
傭兵団から更なる歓声が上がる。
「相変わらず大人気じゃねぇか」と笑いながらゲルトが親父の隣に立った。二人の老人は満足そうに歓声に応えた。
「すごい。二人とも人気者だね」とスーが驚いていた。
「親父さんたちに比べりゃ、俺たちはおまけみたいなもんだ」とカミルも嬉しそうに笑っている。
ヘンリックがカミルに歩み寄って手を差し出した。二人で握手を交わし、背中に腕を回してハグした。
「叔父貴が世話んなった」
「子供が親の世話すんのは当然だろ、兄貴?」
カミルの返事に、ヘンリックは嬉しそうに笑った。
「ガキ共の新しい母ちゃん見つかったぜ」
「マジか?あんたも懲りねぇな…」二人で仲良さげに笑いながら冗談を言っている。
別の賑やかな方に視線を向けると、エルマーやソーリューらとスーが再会を喜んでいた。
「一件落着か?」と歩み寄ってきたヨナタンが俺に訊ねた。
「あぁ、終わったよ」とスッキリした顔で笑った。
「そうみたいだな」とヨナタンも笑った。仏頂面はいくらか解消されたようだ。
「俺も後でお前と親父さんに話がある。
フリッツの件でだ。時間をくれ」
「分かった」
「お前はもう心配なさそうだな」とヨナタンは煙草を咥えて、スーの方に向きを変えて歩き去った。
スーもヨナタンに気付いて手を振って笑った。
ずっと昔から仲間だったみたいな顔して、図々しい少年は仲間たちに囲まれて楽しそうに笑っていた。
「ワルター!」
スーが大声で俺を呼んだ。
「エルマーに先越されたよ!」と訳の分からんことを言って、エルマーに「バカ!」と叱られて口を塞がれてる。
やれやれ、と肩を竦めた。
その肩を、いつの間にか隣に立っていたフリッツが軽く叩いた。
「お前も報告あるだろ?」と背を押して、彼らの元に歩み寄る。
この喧騒ともお別れとは、なんとも寂しいような気がした。
✩.*˚
「テレーゼ・フォン・ロンメルです」
可愛らしく、囀るような声で名乗った少女は、顔を上げた。
女ってのは表情一つでこんなに変わるもんかね?
俯いて怯えていた少女は、まるで別人だ。
薄い茶色の瞳は、長いまつ毛に縁取られた瞼の下でキラキラと輝いて俺を見上げている。
淡い色の金髪は髪飾りでまとめられていて、顔の小ささがさらに強調されていた。
可愛らしいレースとリボンのドレスは、彼女に良く似合う淡いピンクで、緑に囲まれた庭園の白いテラスに立つ姿は花の妖精みたいだ。
改めて見ると、子供というのに完成された美人だ。
「《神紋の英雄》のクルーガー様にお会いできて光栄です」
「…あ、はぁ、どうも…」
美少女を目の前にして、語彙力の無くなった俺を親父が肘で小突いた。
いや、マジで言葉が出んのよ…変な汗かくわ…
だって俺、冴えないおっさんよ?こんなにお姫様と何話せってんだよ?
戸惑う俺の様子を見て、テレーゼ嬢は小さな指先でくすくすと笑う口元を隠した。その仕草一つでもたおやかで愛らしく、いかにもお嬢様だ。
「お前の美しさに言葉も無いようだ」とパウル様が笑いを噛み殺しながらテレーゼ嬢に言った。
あぁ、そうですよ!
腹の中で悪態ついた。全く、無様の一言に尽きる。早くここから逃げ出したい…
なんなら《烈火》相手の方がマシだ!
俺の無様な姿に耐えられなくなったようで、親父の方が口を開いて彼女に賛辞を贈った。
「まことに、噂に違わぬ美しさですな。
《白鳥姫》とは、白鳥の方が恥じ入って隠れてしまいそうだ」
「ありがとうございます、ビッテンフェルト様」
恥ずかしそうに頬を染めて答える姿が可愛らしい。
「ですが、クルーガー様のお姿に比べれば、私など霞んでしまいますわ」
「ご冗談を!」と親父は笑い飛ばしたが、テレーゼ嬢は世辞などでなく本気で言ってるようだ。
「お姉様たちに嫉妬されてしまいますわ」と心配していた。
そんな事ないと思うが…むしろあんた貧乏くじだぜ?異母姉ちゃんらは胸をなでおろしてることだろう…
「さて、私は忙しいので席を外させて頂こう。
ビッテンフェルト殿、卿も疲れておろう?
客間で少し休まれるといい」
「それはありがたいお申し出です。何しろもう歳ですので…」
そう言って二人で連れ立って席を外した。
白い大理石のテラスに少女と二人で置いてけぼりにされた…
えぇ…どうするんだよ、これ…
ちらりとテレーゼ嬢に視線を向けると、彼女は少し首を傾げながら親しげに微笑んだ。
えぇ…何その変わりよう…
「クルーガー様」と呼ぶ声も、怯えた様子は一切なかった。むしろビビってんのは俺の方だ…
マジでいきなり泣くとかは勘弁してくれよ?
彼女は嬉しそうに笑って「お散歩しませんか」と俺を庭に誘った。
子供にリードされてる…情けねぇ…
テラスの階段の前で、彼女は少しもたついた。
スカートとヒールが足元をおぼつかなくさせている。
このままじゃ転ぶと思い、「どうぞ」と支えるために手を差し出した。
「ありがとうございます」とテレーゼ嬢は手を取った。お嬢様でもちゃんと礼を言うんだな、と変なところで感心した。
白い小さな手は華奢で柔らかい。
このお姫様は、まるで俺とは違う生き物みたいだ…
少しでも下手に扱ったら、壊れてしまいそうでヒヤヒヤする。
少ない階段をひとつずつゆっくりと降りるのを待った。焦らせて転んだら事だ。
階段を降りたテレーゼ嬢は、足元に落としていた視線を上げて微笑むとまた礼を言った。
もういいかと思って貸していた手を離した。
もう歩けるだろ?
テレーゼ嬢は離れた手を見て、少し戸惑った様子を見せたが、隣に並ぶと俺の腕に手を伸ばした。
白い指が腕に絡む。大胆な行動に身体が固まった。
「参りましょう」と笑顔で促され、腕を組んだままギクシャクと歩き始めた。
嘘だろ?俺、お姫様と腕組んで歩いてるよ…
エマとだってこんな風には歩かなかったよ。
俺が恥ずかしがったからだけどさ…
俺ってば、ダサいな…
こういうの、どうしたらいいのか分かんねぇよ。
✩.*˚
話には聞いていたけど、久しぶりにお会いしたクルーガー様は別人みたいだった。
先日はお顔をあまり見てなかった。改めて見ると整った顔をしていた。
冷たい印象は拭えないけど、少し目じりの下がった目元は涼しげで、不思議なラピスラズリのような藍色の双眸が印象的だった。
髪はくすんだ色の金髪だったのに、太陽を反射する雪原のような白銀に変わっていた。
髭も剃って、髪も整え、逞しい長駆を礼服を包んだ姿は、騎士と名乗っても恥ずかしくない出で立ちだ。
一目で印象が変わった。
お手紙をやり取りしたことも印象を変えるのに一役買ったと思う。
クルーガー様は無口なお人だった。あまり視線も合わせてくれない。
それでも話しかけると短くだが応えてくれた。
そんなクルーガー様を見上げていると、不意に彼の方が口を開いた。
「疲れたのか?」
「え?」
「いや、歩きにくそうだったから…」と言って彼は歩く速度を弛めた。
めかしこんだドレスは少し重く、動きを制限していた。新しい靴も、背伸びするために少し高いヒールを選んだ。
少しでも大人に近づきたくて、少しだけ無理をした結果だ。
舗装された石畳でも、その無理が表に出るのに時間はかからなかった。
「大丈夫です」と強がった。
クルーガー様は辺りを見回して、ベンチを見つけると「あそこまで頑張れ」と私を励まし、エスコートしてくれた。
「待ちな、ドレスが汚れる」と言って、上着を脱ぐと椅子に敷いて、その上に私を座らせた。
言葉は少し乱暴だけど、行動は優しい。
「ありがとうございます」
「…いいよ」ふいっと顔を背けた彼は隣に座った。
急に沈黙が訪れる。
木漏れ日の当たるベンチで二人、話すことも無く、手入れの行き届いた庭を眺めた。
「…変か?」不意にクルーガー様が口を開いた。
「《祝福》のせいで、変わっちまったから…爺さんみたいな髪だろ?」そう言いながら、彼は髪を掻き上げた。
手袋を外して袖を捲って見せた。
刺青のような魔法陣の模様が晒される。
「これもそうだ。
自分でした訳じゃないからさ、怖がらないでくれよ?」
「《神紋》…ですか?」
「胸や背中にも出てる。迷惑なこった」と彼は困ったように呟いて袖を元に戻した。本当に迷惑してるようで、意外だった。
「お嫌なのですか?」と訊ねた。
「やだよ」と子供みたいに答え、クルーガー様は腕を組んで、背もたれに体を預けた。ベンチが少し軋んだ。
「元々、俺は《英雄》や《騎士》って柄じゃねぇんだ。
あんたにも、悪いことしたなって…そう思ってる」
結婚のことだろうか?
「俺はもうおっさんだし、大して男前でもないし、だらしないし、礼儀だってなっちゃいねぇよ。そんなの俺がいちばんよく分かってるよ。
あんたみたいなお姫様と釣り合うような人間じゃねえや」
随分悲観的だ。彼はチラリと私を見てまた目を逸らした。
「その…なんだ…
嫌なら嫌で構わないから…そういうの、我慢しないで言ってくれ」
私が無理してるように感じてるのだろうか?
手紙と同じような事を言って、彼は自分の握った手袋に視線を落としてまた沈黙した。
クルーガー様の手袋には刺繍の燕が飛んでいた。
私が意地悪をした手袋だ…
「その手袋…」
「ん?あぁ、これか?」と応えてクルーガー様は手袋をはめ直した。
「やっと馴染んできた」と言って、クルーガー様は手袋の甲に綴られた刺繍を撫でた。
クルーガー様は「上手だ」と刺繍を褒めてくださった。でも、そのままでは燕はそっぽを向いたままだ。
「お直しさせて頂けませんか?」とお願いした私に、「何で?」とクルーガー様は笑った。燕の意匠が偏ってるのに気づいてないのだろうか?
あまりに子供じみた意地悪だったので、気づかなかったのだろうか?
「俺は気に入ってるよ。
これな、こうすると番になるんだ」と笑って、小指を合わせて私に見せた。
「あっ!」と声を上げた私を見て、クルーガー様はいたずらっぽく笑った。
小指側に偏った燕たちは顔を合わせて番になった…
普通は親指を揃えて見るものだ。
そんな事思っても見なかった…
そんな私に、「直しは必要ないだろう?」と彼は笑って見せた。
その笑顔に胸が高鳴った。
親子ほど年の離れたこの男性に恋をした。
✩.*˚
クルーガーに手を引かれ、戻ったテレーゼは、恋を知った女の顔になっていた。
俯いてばかりだった少女は顔を上げ、伴侶となるべき男性を愛おしげに見つめている。
その笑顔に、彼女の母親の面影を見た…
「息子は、お嬢様のお眼鏡にかないましたかな?」
ビッテンフェルト殿が私に訊ねた。
「…そのようだ」と答え、ビッテンフェルト殿に向き直った。
「ご子息の生涯は、私が一切の責任を持つ。ご安心召されよ」
「よろしくお願いいたします」と父親は頭を下げた。
「私に似て不器用で頑固な扱いにくい男です」と父親は息子を評し、不器用に血の繋がりを主張した。
「真面目で一途で義理堅い男だ。そうだろう?」と言葉を返した。
それを聞いた父親は嬉しそうに笑った。
「貴殿は彼の父上だ。それは変わらぬ」
「ならば胸を張って、我が子を生涯の自慢と致しましょう」
彼は、可愛い義理の娘ができたと喜んでいた。
クルーガーは正式に娘婿として、《騎士》ロンメルとなる。
ロンメルの《騎士号》の次は、私の推薦で、正式に王宮から《英雄》の称号と《爵位》が贈られ、南部侯の直臣として南部侯の麾下に組み込まれる事になる。
彼には旧ウィンザー領の小領主として仕事が待っていた。
「急くようで悪いが、取り急ぎ正式に婚約を公表する。
オークランドが体勢を立て直す前に、新しい対オークランドの体勢を整えねばならんのでな」
旧ウィンザー公領は未だ不安定なことは変わりない。
父上の代から引き継いだ、対オークランドを想定した城郭都市 《ラーチシュタット》の建造も未だ未完だ。
このままオークランドが手をこまねいているはずがない。
フィーアに攻め込むのは、新王として即位した王太子か王弟か…たかだかその程度の違いだ。
「クルーガー…いや、ロンメルには大いに期待している」
過度な期待だと彼は眉を顰めるだろうか?
それでも父に誓った理想のため、《孫子の代まで続く安寧》の犠牲として道連れにするのにこれほどまで心強い存在はないだろう。
ビッテンフェルト殿は私の心中を察するように、頼もしく笑いながら息子の活躍を約束した。
「息子は与えられた仕事には必ず結果を出す男です。
必ずや、ワルターは閣下のお役に立つことでしょう」
惜しげも無く最良な宝を差し出した老人に、感謝の意を込めて深く頭を下げた。
私を支える全ての者への感謝を忘れぬよう、深く心に刻んだ。
✩.*˚
「スー、ドライファッハに帰ってしまうのか?」
残念そうにアレクが僕に訊ねた。
隠れるようにこっそりと宿屋を訪ねてくれた友達の手を握って約束した。
「ワルターたちとまたすぐ戻ってくるよ」
残って待ってる事もできたけど、一人で残るのが嫌だったから、みんなと一緒に帰るのを選んだ。
フリッツとヨナタンはドライファッハの団長の元に残るらしい。
ゲルトたちも最初に合流した街に戻る。
みんなそれぞれの生活に戻るのだ。
「アレクシス様、早く城に戻らないと心配されますよ」とクラウスがアレクを急かした。
「分かってる」と拗ねたように答え、アレクは持っていた剣を僕に差し出した。
白い鞘に収まった剣を「受け取って欲しい」と言って、アレクは僕に贈り物を握らせた。
柄には細かな細工が施され、白い鞘にも繊細な花の模様が刻まれている。
一目で高価なものだと分かる。受け取っていい物か迷った。
「本当は馬の方が喜ぶかと思ったけど、目立ってしまうから…私との友情の証として受け取って欲しい」
アレクはそう言って僕の手を強く握った。
「戻ったら必ず顔を出して、待ってるから」と言ってくれた。
「うん。ありがとう、アレク」
「絶対だ。約束だぞ、スー」
二人とハグして別れを惜しんだ。
帰ろうとしたアレクを呼び止め、「これ」と剣の代わりに、馴染んだ短剣を差し出した。
僕から渡せる品はこれだけだ。
「君も受け取って」と受け取るように促した。
彼ははにかんで「ありがとう」と受け取ってくれた。
城に帰っていく二人を見送って宿に戻った。
傭兵たちで満室の宿屋は騒がしい。
それも僅かな期間だけだ…
数日もすればここも空になってしまう…
この喧騒にも人混みにもすっかり慣れてしまった。
なければ寂しく感じるくらいだ。
エルマーたちの待つテーブルに戻ると、エルマーが椅子を引いて迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま」と応えて席に着いた。
僕の帰る場所はここだ。
ワルターが『何度でも帰ってきてしまう』と言ってた意味が、少しだけ分かった気がした。
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