燕の軌跡

猫絵師

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俺に頼み事なんて珍しい…

ワルターからの手紙を手に取った。

また南部侯に引き止められているらしい。

どうしたもんか…

苦笑いが漏れた。

馬鹿な奴だ。ビッテンフェルトなんかより、ずっと好条件じゃないか?何を嫌がる事がある?

やっぱりお前は俺の息子だな…

姿は似てなくても、その不器用な性格と生き方は間違いなく俺の子だ。

ワルターからすれば、俺は酷い親父だった。

あいつの母親を、端金で家から追い出して、貴族の娘を貰ってビッテンフェルトの名を継いだ。

実際そうだからな…なんとも言えんな…

祖父母も両親も、男爵の家の娘を選んだ。

ビッテンフェルトの名を上げるのに丁度いい相手だったから、当然の選択だろう。

それでも、貴族だと傘に着て、俺を馬鹿にし、鼻持ちならない態度を取る女に興味はなかった。

本気で一緒になりたかった女は、腹に子供を抱えたまま、黙って俺の前から姿を消した。

探して呼び戻した頃には、ワルターはもう赤ん坊ではなかった。

お前の親父だと名乗ることは出来なかった。

一度だけ幼い息子を抱いた。

いきなり現れた知らない男に抱かれて、ワルターは舌っ足らずな声で母に助けを求めた。俺はあいつにとって他人でしか無かった。

彼女らに会いに行ったのがバレて、静かに暮らしてた二人の生活を壊したのも俺だ。

プライドばかり高い貴族の娘は、あの二人を見逃してくれなかった。

ギュンターが産まれると、余計に彼女を追い詰めた。

親友に頼んで二人にできる限りのことをしたが、大した助けにはなれなかった。

優しかった彼女は少しずつ心を病んで、挙句の果てに、ワルターと心中しようとして一人だけ死んだ。

ワルターの《祝福》が彼女を殺した。

あいつは最悪な形で、自分が普通でないことを知った…

母親を失った息子を、一度は手元に引き取ったが、父親らしいことは何一つしてやれなかった。

俺が何か手心を加えれば、正妻の嫌悪がワルターに向かい、幼い子供の体に痣を作った。

母親が煽るので、いつしかギュンターもワルターを殴るようになった。

兄に向かって、罵声を浴びせ、暴力を振るうギュンターに嫌悪感すら抱いた。

助けてくれない父親に、あいつは失望していただろう。

子供の頃、あいつは俺を呼ぶ時、必ず『旦那様』
と呼んでいた。

《息子》と呼ぶことすら出来ない俺にはそれが皮肉に聞えた。

あいつの中で、俺は《父親》ですらないのだ。

あいつは何で産まれてきたのだろうと、何度も思った。まともに愛される事も出来ない哀れな子だ。

しかし、その不幸の原因が全て俺にあるという事実は、余計にワルターに向き合うことから心を遠ざけた。

ゲルトがワルターを引き取ってくれた時、どれほど安堵したことだろう…

フリッツがワルターの友になってくれた時、どれほど感謝したことか…

エマとの事も、本当は祝福してやりたかった…

苦い思い出に浸る俺を、扉を叩く音が現実に引き戻した。

「父上、何の用だ?」

ギュンターは居心地悪そうに俺の部屋を訪れた。

「お前に話がある」と告げて本妻の子に向き合った。

嫌な事だが、ビッテンフェルト家の当主として、この馬鹿な息子とも向き合わねばならない。

頭が重くなるのを感じながら、自分の過去を精算するために、父として息子たちと向き合う覚悟を決めた。

✩.*˚

「お!スーだ!」

「《妖精》、元気か?」

することも無く一人で歩いていると、長い弓を持った同じ顔の兄弟に声を掛けられた。

ゲルトの部隊の長弓を使う猟師兄弟だ。

どっちがどっちか分からない。

それでも僕を《妖精》と呼ぶのは兄のヤーコプで、名前で呼ぶのは弟のヨハンだ。

何故か双子は僕を気に入って、勝手に弟みたいに扱った。

「お前も鹿狩りに行くか?」とヤーコプの方が僕を狩りに誘った。

「鹿?」

「ブルーフォレストの鹿は角が王冠みたいで立派なんだ。毛皮も花みたいなキレイな模様で高値で取引される」

「親父さんの誕生祝いだ」

「ゲルトの?」

「そうだよ。歳を言うと嫌がるけどさ、もう66になるんだぜ!元気だろ?親父さん!」

「ふぅん…」偉そうな割に僕と大して変わらないんだな…

「で?スー、来るのか?」とヨハンが僕に訊ねた。

「行きたいけど、ワルターに確認してからでいい?」

「そうだな、俺らも後でワルターの兄貴に怒られんのは御免だ。訊いてこいよ」

「弓も持ってこいよー!」

「うん」返事を返して双子と別れた。

ワルターのテントに行って、自分の弓と矢を持って出た。テントに彼の姿はなかった。

忙しいのかな?

ヨナタンの仕事場のテントに寄って、彼に伝言を頼んだ。ヨナタンだけはほとんどテントから動かないし、伝言を頼むなら丁度いい。

「分かった、気を付けてな」と見送ってくれた彼の机には、あのミミズクの姿があった。

少し気になった僕が「左手見せて」と言うと、彼は苦笑いしながら袖をまくって手首を見せた。手首に傷は増えてなかったので安心した。

「花があったらつんできてくれ、駄賃ならやる」とヨナタンは僕に依頼を出した。

誰のかなんて聞く必要はなかった。

「分かった」と了解して彼の仕事場を出て、双子のところに戻った。

戻ってきた僕を見て、双子は嬉しそうに手を振った。

獲物を乗せて運ぶための荷馬車も用意して待っていてくれたようだ。

僕の矢筒を見てヨハンが「ヘンリックの兄貴から貰ったやつだろ?」と訊いた。

「うん。もう三本しか残ってない」

「お前は大活躍だったもんな」とヨハンが褒めてくれた。

「俺たちも頑張ったんだぜ」

「聞いたよ。すごい弓だよね」

「飛ばすだけなら400メートルは飛ぶ。狙って当てるならその半分以下だな」

「僕の弓じゃそんなに飛ばないよ」

「当たり前だ。お前の腕じゃ弦も引けないだろうよ」とヤーコプがからかうように笑った。

彼らは、腕はもちろん、背中や肩の筋肉も逞しく盛り上がっていた。

僕の細い腕ではこの長弓の弦はビクともしない。

剣士とは違う筋肉を使うのだろう。ワルターたちとも体つきは少し異なっていた。

「どうやって鍛えるの?」

「少しずつ慣らして強い弓に変えていくんだよ」

「そしたらこうなる」と二人は自慢げに自分たちの身体を指さした。息のあった掛け合いのような双子のやり取りが面白い。彼らは仲良しだ。

馬車に揺られながら話をするうちに、ヨハンがこんなことを呟いた。

「時間があったら教えてやれたけどよ、もう俺たち親父さんたちと帰るからさ」

「帰るの?」そんな話は聞いてなかったから驚いた。

「知らなかったのか?」とヤーコプが教えてくれた。

「お前ら本隊はまだ侯爵の所に残るってことだったけど、俺たちは用済みだから帰るんだ。

今回は短かったから思ってたより稼ぎが悪かったな…

カミさんにどやされなきゃ良いけど」

「俺のところも怖いけど、義姉さんも怖ぇもんな」とヨハンが笑った。

どうやら彼らは世帯を持っているようだ。何だか傭兵も普通の人みたいで、不思議な気分だ。

「ガキもいるよ。

まだチビだけど、そのうちこの弓だって引けるようになるさ」と嬉しそうに子供の話をした。

「親父さんは、最初お前にキツく当たったけど、あの人本当は子供が大好きなんだぜ。嫌わないでくれよな」

「そうなの?」

「あぁ、そうさ。

俺のガキが産まれた時も、いつもの顔はどうした?って思うくらい、善良な爺ちゃんみたいな顔しててよ。赤ん坊を抱いてあやしてた」とヤーコプが言うと、ヨハンも「あれは見物だよな」と含むように笑った。

「ヘンリックの兄貴のガキ共だって、親父さんによく懐いてるよ」

「ヘンリック、子供いるの?!」意外だ…

僕が驚いていると、ヨハンが笑いながら教えてくれた。

「ホントの子か分かんねぇけどな。

兄貴、あんな性格だろ?

女に『あなたの子よ』って言われたら、『そうか』って四の五の言わずに引き取っちまうんだよ」

「へぇ…そうなんだ…」

「いいもんだぜ、家族って」と彼らは自慢した。

「お前がどういうふうになるのか分かんねぇけどな、ガキって大事だぜ」

「そうそう。最悪、墓くらいは入れてくれるからよ」とヤーコプとヨハンは楽しそうに冗談を言い合っていた。

彼らは僕の知らない事を沢山教えてくれた。

僕は彼らより年上のはずなのに、彼らの当たり前を全然知らない。

人間は短命なのに、その命は充実しているように思えた。

「ワルターの兄貴は何か言ってたか?」とヤーコプが唐突に僕に訊ねた。

「何が?」

「あの人、侯爵に召し上げられるんだろ?」

「あーあ…《雷神の拳》の次期団長はワルターの兄貴だと思ってたのによ…ギュンターじゃお先真っ暗だ」

「親父さんには、大ビッテンフェルトが引退したら独立しろよって勧めたんだけどさ…

あの人は頑固だから聞かねえよ。

返事はこれだ」とヤーコプが拳を作って見せた。

「親友だもんな」とヨハンも苦笑いで答えた。

「いっそヘンリックの兄貴か、フリッツの兄貴が団長になってくれりゃ良いのにさ」

双子は言いたい放題だ。

それでも、確かにあのワルターの異母弟が団長なら残る気にはなれなかった。

苦笑いしながら黙って二人の話を聞いていた。

ワルターは誰よりも良く働いていた。

時々ぼんやりしてる時もあるけど、雑用みたいな仕事を部下に混ざってやっている姿は、連隊長らしくなかった。

みんな彼のそういう所が好きなのだろう。

『偉そうにふんぞり返ってるのは性に合わねぇよ。

そんなの時間の無駄だ。俺が動いた分、部隊の金が浮くんなら、薪割りでも水汲みでもするさ』

照れくさいのか、貧乏性をかこつけて、彼はそう言っていた。

「もし、行くとこ無くなったら俺たちの所に来いよ」

ヤーコプたちはそう言って世話を焼いてくれた。

「親父さんの《息子》になるなら歓迎するぜ」

「そしたら弓も教えてやるよ」

「そうだね」と返事を返した。

その《もし》が無ければ良いが、先の事なんて分からない。

ギュンターが団長になったら、ドライファッハに帰ると言っていたフリッツはどうするんだろう?そう思いながら青い空を見上げた。

「僕は…ワルターのいるところに行くよ」

そう答えて、まだ先の事だと自分に言い聞かせた。

夏の香りを含んだ風が、馬車に揺られる僕たちを撫でて通り過ぎた。季節は確実に夏に変わっていた。

時間はいつの間にか、僕の上をも通り過ぎていた。

別れる時が必ず来るけど、できる限り先のことであって欲しいと願った。

「ねえ、鹿は?」と話を変えた。

「どうやって探すの?」

「雌鹿笛を鳴らしながら探すのさ」とヨハンが金属の筒を取り出して僕に見せた。

「雄はこの音に釣られてホイホイやってくるよ」

「用意のできた若い雌の鳴き声に似てるんだ」

「用意?」

「子供を作る用意さ」僕の質問にヤーコプが教えてくれた。

「本当は秋にしか使わないけど、とりあえずなんとかなるだろ?

アイツらも男なんだし、女と遊びたいはずさ」

彼らは笑いながら笛を僕に預けた。彼らの話を聞きながら首を傾げた。

女の人と話したこともほとんどない。何が違うのかもよく分からなかった。

「お前も男ならそのうち分かるさ」

「もうちょい背が伸びたら、遊び方も教えてやるよ」

二人はそう言って僕を子供扱いした。

少しだけムッとして、膨れそうになったが、それも子供っぽいと笑われる気がした。

誤魔化すように、雌鹿の笛を口に咥えて息を注いだ。

雄に応える甲高い雌鹿の声に似た音が、夏の日差しを受けた木漏れ日に響いて消えた。

夏の湿った空気に乗って、嘘の音は遠くまで届いたようだった。

✩.*˚

「おや、これは大物だ」と侯爵は献じられた雄鹿を見て喜んでいた。

背中は蒼く、薄い黄色の斑点が並んでいる。

角は大きく左右に湾曲し、先は見事に枝分かれして、まるで王冠みたいだ。

猟師兄弟と狩りに行って、二頭捕れたので、スーの矢が刺さった方を侯爵の土産にくれたらしい。

「卿の部下には、腕の良い射手が居るようだな」とパウル様は狩人の腕を褒めた。白い羽の矢は急所を正確に射止め、余計な傷をつけずに毛皮を美しいままに留めていた。

パウル様は、部下に頭部を剥製にするように命じ、鹿を片付けさせた。

「素晴らしい贈り物だ。

私も狩りは大好きでね。是非これを捕った者の武勇伝を聞きたいものだ」

「申し訳ありません。

侯爵閣下にご紹介できるような人間では…」

「おや?どんな荒くれ者かね?」

パウル様は興味を持ったようで、鹿を捕った人物について説明を求めた。

「躾のなってないガキです」と簡潔に答えた。

「それはシュミットが言っていた、卿が引き取ったという子供かね?」

「まぁ、そんなところです」

「レプシウスも褒めていた。

面白い子供だそうだな。私も会ってみたい」

シュミットたちからどう伝わっているのか分からないが、パウル様はスーとの面会を求めた。

「子供だ。無礼と気にする事はない。是非連れてきてくれ。褒美を与えよう」

パウル様は相変わらず、有無を言わせずに自分の主張を通した。シュミットを呼びつけるとスーを連れて来るように命令した。

「どんな子供かね?」

パウル様は待っている間もスーについて訊ねた。

一体どんな風に伝わっているのだろうか…不安しかない…

「本当に子供です。

落ち着きはないし、思ったことはすぐに口にするし、礼儀だって知りません。

お考え直した方が…」

「良い。それも一興だ」と機嫌よく笑っていた。

シュミットに連れてこられたスーは、侯爵相手に軽く会釈しただけだった。

教えてない俺が悪いけど、さすがにそれは…

「スー、侯爵閣下の前だぞ。ちゃんと挨拶を…」

「なんて?」とスーは小さく首を傾げた。

その姿を見てパウル様は「確かに子供だ」と小さく笑った。

「こんなに大きな鹿を仕留めたからどんな猛者かと思ったが、なんとも愛らしい少年じゃないか?本当に君があの鹿を採ったのかね?」

「うん。僕の矢が刺さってたから僕のだ」

スーが矢筒を侯爵に見せた。

《雪鷹》の矢はもう最後の一本になっていた。

「確かに」とパウル様は破顔した。

「素晴らしい贈り物をありがとう」

「気に入った?」

「あぁ、とても。

それにしても幼いな。幾つかね?」

歳を聞かれてスーは俺の方を見た。実年齢は言うなよと散々釘を刺していたが、こいつを見てるとハラハラする。

「…15?」バカ!俺を見て訊くな!

「歳がわからないのか?幼い頃から苦労したのだな」とパウル様は同情を口にした。

「アレクと同じくらいだな。なかなか整った顔をしている。気に入ったよ。

鹿のお礼に褒美を用意しよう。何か欲しいものはあるかね?」

「矢が欲しい。もう残ってないから」とスーは図々しく答えた。

「それだけかね?無欲な子だな」

パウル様はスーの無礼を見逃してくれたが、こいつは後で説教だ。

「良い腕をしている。一級の矢を用意してやろう。

それにしても、随分汚れているな。

身体を洗って着替えたら食事を用意しよう。君も磨き甲斐がありそうだ」

パウル様はそう言って、世話係の侍女を呼んだ。

…あいつも侍女たちの洗礼か…可哀想に…

「適当に新しい服を見繕ってやりなさい」

「かしこまりました」と主人に答え、侍女はスーの手を引いて出て行った。

あいつ大丈夫か?気が気ではない…

俺の気持ちを察してか、「私が着いてますから」とシュミットがスーを引き受けてくれた。

後で遠くからスーの悲鳴が聞こえてきたが、聞こえない振りをした…

✩.*˚

「ちょっと待ってよ!」

連れていかれた先で女の人に囲まれて簡易式のお風呂に通された。

彼女らは手際よく服を剥ぎ取ると、泡立てた石鹸を取り出した。

「自分でするよ!」と恥ずかしくて抗議したが、女の人たちは聞いてくれなかった。

「大丈夫ですよ、優しく致しますから」と微笑みながら泡で僕の大切な所にも手を伸ばした。

身体中念入りに洗われる。

みんな綺麗な女性で、服は着てるけど、濡れて透けている。すごく近い…

なんかムズムズする…

居心地の悪さを感じて身体を引いたが、彼女らは「可愛い」と笑って仕事を続けた。

初めて感じる感覚に戸惑った。身体を洗い終わっても身体の違和感は残ったままだ。

何だか頭がジンジンする。恥ずかしい…

少し泣きそうになった。

「どうしたんだい?」

リネンにくるまって彼女らを拒んでいる僕に、ハンスが心配して声をかけてくれた。

「…だって、恥ずかしい…」

「ああ、そうか。分かったよ」と何か察したようで、ハンスは彼女らとなにやら話して僕の世話を代わった。

「男の子だからね。何もおかしくはないさ」

「でも、変だ」と恥ずかしくて、いたたまれずにべそをかいた。下腹部は相変わらず熱を持ったような疼きが残っている。

おかしくなってしまった自分のモノを抑えて俯いた。

そんな僕に、ハンスは「そんなことないよ。大人になりつつあるだけだ」と言って、今まで誰も教えてくれなかった、男性の身体のことを教えてくれた。

「これは悪いことではないんだよ」

「…君も…そうなの?」

「そうだよ。男はみんなそうだ」とハンスは言った。

「子供もいつか次の子供を作るための体に変わっていくのだよ。スーは今その変わり目なんだ。

最初は変化に戸惑うものだが、何も怖くない。

女性は女性の、男性には男性の生まれついた役割を果たすために変わるんだ。これはとても自然な事だ」

そう言いながらハンスは僕の髪を拭いた。

「いつまでも閣下をお待たせする訳にはいかないからね。また後で話を…おや?これは…」

髪を拭いていたハンスの手が止まる。彼は戸惑った様子で、僕の耳を見ていた。

まずいと思って耳を隠してももう遅い。

「スー…君は…」

「…言っちゃダメなんだ…ごめん、ハンス…」

「なるほど、私にも秘密かね?」困ったように笑うハンスに、申し訳無さを覚えながら「ごめん」と謝った。

ハンスは無理に秘密を聞き出そうとはしなかった。

優しい彼に隠し事をするのが申し訳ない。

「君が少し他と違う理由が分かったよ」と父親のように笑って、また僕の世話を再開した。

「黒髪だから気づかなかったよ」

「髪?」

「おっと、お喋りが過ぎたね。風邪を引く前に着替えよう」とハンスは僕の質問をはぐらかした。

黒髪だとなんなんだろう?

手櫛でまだ湿った髪を梳いた。漆黒の髪はサラサラと指からこぼれ落ちた。

「着替えは自分でできるかい?」

ハンスは真新しい着替えを僕の前に並べた。

群青と黄色が目を引く綺麗な色合いのジャケットはすごく高そうだった。煌びやかな刺繍も目を引く。

ワルターが侯爵に貰った服もこんな感じだったな…

お揃いみたいで少しだけ嬉しかった。

着替えに袖を通して「どうかな?」と彼に訊ねた。

「よく似合ってるよ。スーは派手な色も良く似合うのだね」

ハンスから褒められて嬉しかった。彼のおかげで、さっきまでの居心地の悪さは消えていた。

✩.*˚

「エルマー、あなたももう帰るの?」

何回か通った商売女は身体を重ねたままそう訊ねた。

「さぁ?どうかな?」

傭兵として必要とされなくなったら、ドライファッハに帰るだけだが、今回は少し事情が変わっていた。

ワルターとスーがどうするのか見定めてから、二人に着いていくつもりだった。

「あなたの事、結構気に入ってたのに…」

「そりゃどうも」と彼女のリップサービスに応えた。

帰り支度をしようと身体を起こした。

いつまでも邪魔してると次の客来る。

俺の胸に手を這わせてしなだれた女の身体から、心地よい温もりを味わった。肩に手を回したが、彼女は嫌がらず、俺に身体を預けた。

「あたしこの商売始めたばかりなんだ。

始めはどんな怖い人かと思ったけど、全然そんなこと無かったよ。

金払いいいし、優しいし上手だったから、あなた特別なお客だったのに…」

「へぇ、そうか?」

「また来てよ」

「したくなったらな」と素っ気なく答えた。

結局俺は客の一人だ。本気なわけない。

服を手にしようとすると、彼女は邪魔をした。

「他の客も来るんだろ?俺に時間とって良いのか?」

「いいよ、今日は店仕舞いにするもん」と彼女は笑った。茶色の黒目がちな目が上目遣いで見上げている。

「朝まで居てよ」と誘われた。

黒い癖のある髪を撫でながら「良いのか?」と尋ねると、彼女は笑顔で頷いた。

ぬるくなった狭いテントの中で彼女を抱き、毛布を敷いただけの床に寝かせた。

「金払うからもう一回しても良いか?」

「今日はもう店仕舞いって言ったじゃん」と言って、彼女は俺の首に腕を絡めた。

彼女はイタズラっぽく笑いながら「お金はいらないよ」と言った。

「代わりに《ミア》って名前で呼んでよ」

「そんなんで良いのか?」

「良いよ」

「ミア」と名前で呼んだ。

彼女は恋人みたいに笑った。黒く波打つ髪に指を通して髪を梳いた。

「やっぱり優しいや」そう言って、くすぐったそうに笑うミアを抱いた。

商売女に夢中になるつもりは無いが、彼女のくれた夜を楽しむことにした。

✩.*˚

侯爵のテントを辞した後、スーは矢継ぎ早に変な質問をした。

綺麗な格好になっても中身は相変わらずスーのままだ。

「ねえ、君も身体洗ってもらったの?

どんな感じ?ねぇ?ムズムズした?」

思春期か?!ムズムズって言い方やめろ!

 頭を抱えた。俺が答えないのでスーはさらに追求を続けた。

「男の人はあれしてもらうと嬉しいの?

恥ずかしくないの?

大事なところ触られるの変な感じしなかった?ねえ!答えてよ!」

「あーもー!落ち着け!」

俺には、子供の好奇心に対する答えを持ち合わせちゃいない。グイグイ来るスーの頭を、手のひらで乱暴に押し返した。

「ハンスは答えてくれたよ」

俺に頭を抑えられながらも、スーは気にも留めずに俺に答えを促した。

「じゃあそれでいいだろ?」

「良くないよ、情報不足だ」

スーは大真面目だ。これ、みんなに訊いて回る気か?!シャレにならんぞ!俺まで赤っ恥だ!

「あれどうしたらいいの?」と手のひらの下からスーが質問した。

「あれって?」嫌な予感がしたが、返事しないとさらに面倒くさい…とりあえず聞き返した。

「…あそこ…ムズムズした時」

「…何で俺に訊くんだよ…」

「君は大人だから知ってるでしょ?どうしてるの?」

「シュミットに訊けよ」

「訊いたよ。

『自分でするか、女の人と交わる』って言ってたけどよく分からなかった」

あの野郎!そこまで教えるならその先まで責任持てよ!中途半端な事しやがって!

「男になるってどういうこと?ねぇ!」

「…面倒くせぇな…勘弁してくれ」

スーの質問に辟易して、頭から手を離して煙草を咥えた。

元々好奇心の強い奴だ。自分の言ってる事の意味も分からないくせに、大人になろうと背伸びする姿はガキだった。

「答えてくれないならヨナタンに訊く。

彼は訊いたらなんでも答えてくれるもん」

「ヨナタンはやめとけ…」ヨナタンはまずい…

あいつは女より男が好きなのは知っていた。答えるくらいなら良いが、それ以上があったらシャレにならん!

「え?じゃあエルマー?フリッツ?」

「…それもなぁ…」後で俺が殴られそうだ。

「ソーリュー?」

「…うーん」あいつのそういう話は聞かないな…相手にもしてくれ無さそうだ。

「ヘンリック?」

「絶対ダメだな」まずいことになる気しかしない…

背筋がゾワッとした。

「じゃあ誰さ?ゲルト?隊の誰か?」

周りが碌でもない連中しかいない…

堂々巡りで、「じゃあやっぱり君しかないじゃないか」とスーは結論づけた。

「あーもー!だからシュミットに訊けよ!」

「だって彼忙しいし…」

「ったく!お前みたいなガキには早いんだよ!」

「僕の方が年上だ!」

「そういう所がガキってんだ!」

「ちゃんと教えてくれないと分かんないもん!」

これだからガキは嫌なんだ…

スーは膨れながら俺を睨んだ。

「君、そんなのでお父さんになれるの?」

「はあっ?!」

いきなり何言いやがる!

「ハンスが言ってたよ。お父さんは、そういうこともちゃんと教えなきゃダメなんだからね」

「バ、バカ!まだそんな事…」

「テレーゼ姫と手紙のやり取りしてるんでしょ?

お姫様、君の手紙を大事にしてるって言ってたよ。結婚するなら子供だって作るんでしょ?

君だってお父さんになるんだ」

あまりにストレートな物言いに言葉が出てこない。

水に上げられた魚みたいに、苦しそうに口が動くだけで、発声する事さえ出来なかった。

顔は耳まで熱を持ち、手に変な汗が滲んだ。

「…も…もう知らん!」いたたまれなくて小走りでスーから離れようとしたが、あいつはまだ終わっちゃいないとばかりに追いかけてきた。

「逃げないでよ!」

「逃げてない!お、お前が!変なことばかり言うから!」

「そうやってお姫様からも逃げてるんだ!」

「や!止めろって!」あーもー!散々だ!

月明かりを含んだ菫色の瞳が、妖精のように悪戯っぽく輝いた。服も侯爵から貰った服のせいで余計に幻想的な雰囲気を含んでいる。

「君だって子供だ」スーはそう言って女みたいな顔で笑った。

何も言い返せずに煙草で自分の口を塞いだ。

苦い煙草の味に眉をしかめ、懐に隠した花の香りのする手紙を服の上から抑えた。
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