燕の軌跡

猫絵師

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落日

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後退を続け、伏兵を隠したポイントに傭兵たちを誘い込む事に成功した。

《顔剥ぎ》の戦利品は絶大な効果を発揮した。気持ちとしては複雑な思いだが、彼には感謝せねばなるまい。

斜面に生える木々に身を隠した弓兵は忠実に伏兵の任務を遂行した。

伏兵の矢に晒され、血を流し倒れながらも、仲間の死体を使ってまで尚も食い下がる敵の姿は賞賛にあたうものだ。

普通なら、もうとっくに見切りをつけて敗走している。

「思っていたよりしぶといな…

デニス、現状は?」

隣に控えたデニスに戦況を訊ねた。

彼は連絡役と物見を兼ねて、ネズミを方々に散らしている。

「《氷鬼》は《烈火》との戦闘で戦闘不能です。《烈火》の行方がわかりませんが、ネズミたちを捜索に向かわせましたのでそちらは問題ないかと…

つい先程、ウェイド卿に預けたネズミが戻ってきました。騎獣隊が配置に着いたようです」

「頃合か」と頷いた。

「反転攻勢に出る!《落日》の旗を掲げよ!」

死んだ太陽を抱く鷲の旗が攻めの合図となった。

反撃を許された兵士たちが鬨の声を上げて、尚も交戦を続ける傭兵たちを襲った。

倒れる敵の中に、異彩を放つ二人の戦士の姿が目に留まった。

逞しい赤毛の戦士はハルバードを振るいながら仲間を鼓舞し、鳶色の髪を後ろに流したトゥーハンドソードの偉丈夫も、怯むことなくその勇を奮った。

その体躯と武勇に優れた二人を見て、武人として純粋に彼らを惜しく思った。

彼らの勇姿に興奮すら覚えたのは、私自身武人であるからに他ならない。

馬の手綱を握る手が震え、今すぐにでも彼らと剣を交えたいという欲が私の中で疼いた。

もう少し若ければ、何も考えずに、あの血風の舞う戦場に身一つで飛び込んだかもしれない。

ただ、今の私には背負うものが多すぎた。

今の私にはそのような勝手は許されない。湧き上がる闘志を必死に堪え、指揮官としての任に励んだ。

ここでできる限り敵の戦力を削り、ウィンザーの意地を知らしめる。我ら亡霊の怨念を後世までの語り草とするための戦いだ。

「騎獣隊が対岸にて善戦しております」と追加の吉報が届く。ウェイド卿もよく働いてくれる。

ウェイド卿は水を得た魚のように生き生きと戦っていることだろう。少しだけ彼を羨ましく思った。

不意に押していたはずの自陣にてどよめきが起こった。

何事かと声の上がった方に視線を巡らせた。

目に飛び込んできたのは、木々の隙間から現れた、全身黒ずくめの仮面の男が、兵士らを踏み台にして宙に舞う姿だった。

兵士を踏み抜いて宙を翔る姿は軽やかで、その一歩は驚くほど遠くまで届いた。

「返してもらう」

唖然とする兵士らを飛び越えて、彼は顔の縫い付けられた板を攫った。

「いかん!取り返せ!」と命じた頃には、既にその姿はそこにはない。

黒い影は、跳躍すると来た道とは反対に逃げ、守りの薄い林の中に逃げ込んだ。

慌てて騎馬に追わせるが、木々や草が邪魔をして、その姿を捉えることができなかった。

「閣下、お任せを」とデニスがネズミを放った。

ネズミが群れになって、《顔》を奪った男を追いかける。

「…くっ!早い!」デニスが外套のフードの下から苦々しく呟いた。どうやらネズミたちも目標を見失ったようだ。

「申し訳ございません、すぐに探させます」

「よい。それより状況把握と報告に努めよ」

デニスの失態を水に流した。

今はあれに固執している場合ではなかった。

川に向かってすり潰すように兵士らを前進させた。

残っていた《金百舌鳥》の傭兵たちも、隊長の不在にも関わらず善戦していた。

攻勢に転じたウィンザーの兵士らは、兎を追う狼のように無慈悲にフィーア勢を圧倒した。

敵の傭兵団の戦列に綻びができ、もういつ瓦解してもおかしくない状況にまで追い込まれていた。勝利は目前だ。

デニスが兵士らの足元を掻い潜って戻ったネズミを拾った。

「閣下!対岸に新手です!」とデニスがネズミの報告を人の言葉に変えて伝えた。

「何者だ?」

「騎馬隊としか…詳細は不明ですが、ウェイド卿は接触せずに騎獣隊を引かせたそうです」

ウェイド卿にはできる限り騎獣隊は温存するように伝えている。彼が引くべきと判断したのであれば、それなりの理由があるように思えた。

「…是非に及ばず」と苦い呟きが呪詛のように漏れた。掴めたはずの勝利を目前に、退くことほど口惜しいものは無い…

しかし、この攻勢も対岸との挟撃を前提にしたものだ。前提が崩れたのであれば潔く退かねばならない。

目前の勝利を投げ出す私を、ウェイド卿は臆病だと苦言を呈するだろうか?

「撤退の合図を出せ」と側近に命じた。

撤退を告げる太鼓の音が響いた。

兵士らを逃がし、殿しんがりに指示を出しながら、ウェイド卿たちと合流地点に向かおうと馬首を返した。

「スペンサー!」

よく通る声が戦場を去る軍隊に追いすがった。

視線を巡らすと、先程までの戦場に、数騎の軽装騎兵の姿があった。

馬に鞭を入れて突進するその男に見覚えがあった。

ヘルゲン子爵の親衛隊長だった男だ。

「逃げるな!ヘルゲン子爵閣下の仇だ!私と一騎打ちしろ!」

彼は馬上で剣を振るい、見事な手綱捌きで殿に迫った。

あっという間に二人の騎士を馬上から叩き落とすと、自分の手足のように馬を操り、歩兵を蹴散らした。

「逃がさん!」と吠えて剣を振るう姿は鬼気迫るものがあった。突如現れたこの武人の存在が、抑えていた私の闘争心を掻き立てた。

「閣下、お下がりを…」

「よい、あの男の通り道を開けよ」と命令した。

「お前の探しているスペンサーはここに居る!」と馬上で声を上げ、一騎打ちに応じた。

私の姿を見つけた男が剣を手に馬を寄せた。

「ヘルゲン子爵閣下付き従者、ハンス・シュミット」と彼は名乗った。

騎士では無いのかと疑問に思ったが、彼は何よりも誇らしげに《ヘルゲン子爵の従者》と名乗った。彼にとってそれが至上の名誉であることに疑いはなかった。

守るべき主を失った私とよく似た男は、復讐に燃えた瞳で私を睨んだ。

「私がウィンザー公国、スペンサー男爵ユージンである」と名乗って剣を抜き、一騎打ちの礼儀として敬礼を捧げた。

シュミットと名乗った男は大真面目に一騎打ちの敬礼を返した。

「フィーアの南部の男は剣でお返しする!我が主を辱めた報いを受けよ!」と馬の腹を蹴った。

「誰も手を出すな」と厳命し、馬の足を進めた。

馬上での一騎打ちが始まった。

✩.*˚

多分死んだわ…

《祝福》を使いすぎたのだろう。

白い霧か雲の中にでも居るようなそんな感じだった。

あれだけ騒がしかったのに、周りには人っ子一人いやしない。

背中を預けた地面からは緑の匂いがし、白い小さな花が辺り一面に咲いていた。

天国なんて贅沢は言えないだろうが、死んだならせめて彼女に会いたかった…

寝転がったまま死を噛み締めていると、すぐ近くで四足の交互に土を踏む足音がした。

踏まれると思って、足音の方に視線を向けると、そこには真っ白い大きな雄鹿の姿があった。

「やあ、試練に打ち勝った者」

威厳のある姿をした鹿は人の口を利いた。

霧の中から軽やかな足取りで、すぐ目の前に立った雄鹿は異形の姿をしていた。

白い体から垂れた飾り毛は氷柱つららのように半透明で、樹氷のような角と白い背には、無数の鳥たちが羽を休めていた。

背には雪の結晶のような斑紋が刻まれ、尾っぽの毛は馬のように長く引き摺っていた。

鹿の足が地面を踏むと、地面は音を立てて凍り、氷の足跡そくせきを残した。

「《受難者》よ、私が《冬の王》だ」と雄鹿が名乗った。

「…《冬の王》?」その呼び名に聞き覚えがある気がした。

スーが俺の周りに《冬の王》の眷属が居ると言っていたのを思い出した。

「そうだ、人の子。

私が氷の精霊の統括者。最上位の精霊にして、ヴォルガの吐息から生まれた息子の一人だ」

「その《冬の王》が死んだ人間になんの用です?」と問いただした。お迎えにしちゃ大袈裟な人選だ。

鹿の姿をした《冬の王》は、俺の質問に答えた。

「数ある《受難者》の中から本物の《英雄》が生まれた。その偉業を称えるために来た」

《受難者》という言葉が引っかかるが、ようには《祝福持ち》の事を言っているのだろうか?

なんかこの神様みたいな生き物に、また厄介な事を押し付けられそうな気がして、ものすごく嫌な感じがした。

「それにしても、随分尊大な男だ。

神に次ぐ存在に敬意を払いたまえ」

雄鹿がそう言って、俺の寝たままの姿に苦言を呈した。

まぁ、それもそうかと起き上がると、《冬の王》は満足気に頷いて、また勝手に喋り始めた。

正直言って、鹿が喋ってる姿はなんだかシュールだ。

「《英雄》は神から選ばれた特別な存在だ。

近頃は勝手に《英雄》を名乗る者も多い、嘆かわしいことだ…

その身に《祝福》を持って生まれた人間の中から、《試練》を超えた《受難者》に与えられる栄誉だ」

「はあ…そうですかい」

「この《冬の王》の力を恐れず我がものとした其方そなたを、《神々の母ヴォルガ様》は|《英雄》に迎えると仰せだ」

《冬の王》は叙勲を行う王様のような上からな態度で厄介事を押し付けた。

天邪鬼な俺としては「はい、そうですか」と受けいれる気には到底ならない。

「いいですよ、いらないですよ《英雄》なんて」と断った。鹿は信じられなさそうに首を傾げた。

なんならこの《祝福》だっていらないのだ。取り上げてもらっても一向に構わなかった。

そしたら俺は普通の人間として生きられるのだ…

「…無欲な男よ」と嘆く雄鹿は天を仰いだ。

無欲とはなんかちょっと違う気がする。

《英雄》にならなければ《騎士》になることもないし、ビッテンフェルトも継がずに済む。ロンメルの姫と結婚する必要もなくなるし、ギュンターに絡まれる理由もなくなる。

俺としては良い事ずくめじゃないか?むしろその方がいい気がしてきた…

「其方はこの栄誉を理解しておらんようだ」と白いため息を吐いて、《冬の王》は冬の夜空のような深い藍色の瞳で俺の顔を覗き込んだ。

まつ毛に縁取られた大きな青いまなこは、有無を言わせない迫力があった。

結局拒否権なしかよ!畜生め!

腹の中で不敬な態度で悪態吐くが、神様相手に喧嘩を売るのは流石に気が引けた。

「まぁ、よい…いつか感謝する日も来るであろう」

フッと短い息を吐いて、《冬の王》の顔が離れた。

「我らの《母》は世界の調和を望んでおられる。

その礎として励め」と言って、《冬の王》は背に乗った白銀の鷹を鼻先でつついた。

合図を受けた鷹は背から飛び立ち、空中を一転すると俺の胸に飛び込んだ。

鈍い輝きを放つ鷹の姿は、水面に波紋を残して消える小石のように俺の中に溶けて消えた。

「もう《祝福》で凍えることは無いだろう。

彼女は《船》に乗せてあげなさい」

何が起きたのか理解できない俺に、雄鹿はそう告げた。《彼女》が誰を指しているのか分からずにまた混乱する。

「お嬢さん、彼はまだするべき使命が残っている。

我では不服かもしれぬが、《二クセ》の元に送ってあげよう」

夜空の瞳が、俺じゃない相手を見つめ、優しく諭すように語りかけた。

後ろを確認しようと身じろいだ俺に、後ろから誰かが抱き締めた。

暖かいこの腕に覚えがある。懐かしい髪の匂いがした…

「鈍い人」と彼女の声を聞いた。

後ろから抱きしめる手を握り返した。スーの言ってた暖かい腕の存在を知った。お前はずっと俺の傍に居たのか?

「暖かくしてね。ちゃんとご飯食べて、それから部屋も掃除して」と母親みたいなことを言う。その小言も懐かしく、目頭が熱を帯びた。

「愛してるわ、ワルター。

だから、私を忘れて。貴方は生きて、また誰かを愛して…」

寂しげに笑う声は俺の幸せを願い、彼女は背中に体温を残して離れた。

彼女の腕が解ける。慌てて離さないように手を伸ばしたが、空を掴んだ手は虚しさを募らせた。

俺の脇をすり抜けて、彼女は《冬の王》の隣に並んだ。

「エマ!」必死な思いで彼女を呼んだ。

言いたいことは山ほどあった。

何で死んだとか、待てなかったのかとか、守ってやれなくてごめんとか…

とにかくあり過ぎて言葉が出ない…

呼ばれた彼女は少しだけ振り返って、あの空色の瞳で笑った。全部分かってると言うように、最後に見たのと変わらない優しい暖かい笑顔がそこにあった。

「エマ…ありがとう」

震える唇で、やっとの思いで彼女に最後の言葉を贈った。

彼女は嬉しそうに笑って「どういたしまして」と満足気に頷くと、《冬の王》に付き添われ《二クセの船》に向かった。

✩.*˚

《顔剥ぎ》が瀕死の《烈火》を連れて川に逃げた。

二人が流される姿を目で追う事しか出来なかった。

「クライン隊長!連隊長が!」

「分かってる!」怒鳴って川辺りから離れて、慌ててワルターに駆け寄った。

立ったまま氷漬けになっているワルターは全く動かない。

それでも氷の侵食は止まらず、ワルターをじわじわと蝕んでいた。

持っていた剣で氷を切り付けたが、剣はそのまま氷塊の一部になった。

「くっそぅ!どうしろってんだ!」地団駄踏んだところでどうにもならない。相談できるような相手だって居なかった。

スーに頼ろうかと思ったが、あいつだってとっくに限界だ。

あいつはワルターのためなら絶対に無理をする。この姿を見たらあいつは何も考えずに行動するだろう。

そう思うとスーを呼び戻すのも気が引けた。

「ワルター!しっかりしろ!」

声をかけても気を失っているのか何の応答もない。

遂には氷が顔まで覆い、全身が氷塊に飲み込まれてしまった。

「馬鹿野郎!貝じゃねぇんだ!さっさと出て来い!」

「兄貴!兄貴まで巻き込まれますぜ!」

氷に殴りかかろうとした俺を手下が必死に止めた。

剣も飲み込まれた。拳なんかじゃどうにもならないと分かっていたが、考えんのは苦手だ!

「あのチビに頼りやしょう!それしかねぇっすよ!」

「誰か呼んでこい!」

「お前ら兄貴抑えてろ!」

数人がかりで抑えられて、ワルターから引き剥がされた。手下共も俺を氷に取り込まれないように必死だ。

氷はどんどん厚みを増していく。

もう人にどうこうできるものじゃない。

自分の無力を呪った。

「エルマー…これって…」

諦めかけた俺の元に、さっき送り出したばかりのスーが手下に背負われて戻ってきた。

スーも、氷の柱になったワルターを見て言葉を失った。

「下ろして」と言ってスーは自分の足で氷の柱に歩み寄った。

聞いたことの無い言語で氷の柱に呼びかけて、スーは腕輪をはめた右手を伸ばした。

スーの手が伸びた先に、俺たちにも見えるように精霊が顕現した。

雪と氷の身体を持った鹿に似た生き物は、明らかにこの世のものではなかった。

氷の角を持った白い雄鹿は、鳥のような甲高い声で鳴いた。その声に氷の柱に亀裂が走る。

ミシミシと氷の擦れ合う音が不気味に響いて、あれほど邪魔だった氷が砕け、残骸が辺りに散らばった。

「ワルター!」スーが叫んで、氷の中に倒れた人影に駆け寄った。

精霊の姿はいつの間にか居なくなっていた。

「もういい!放せ!」

目の前の光景に固まっていた手下を振りほどいて、スーとワルターに駆け寄った。

スーが腕に抱いているワルターの姿を見て驚いた。

赤みががかっていた金髪は、鈍く光を反射する銀色に変わっていた。

手の甲に刺青のように刻まれた、魔法陣のような模様は俺の記憶には無いものだ。

ワルターが呻いて、ゆっくりと目を開けた。

スーも俺も言葉を失った。

どこにでもいるようなあの灰色の瞳は、夜空のような深い藍色に染まっていた。

もうここまで来れば別人だ。

「…ワルター?」スーが困惑したように、ワルター本人か確認するように声をかけた。

「…なんだよ?」俺たちの顔を見て、ワルターは不機嫌そうな声で返事をした。

手が動くのを確認したワルターが「なんだこれ?」と自分の手の甲を見て驚いた声を上げた。

「お前がしたのか?」とスーに訊ねるが、スーは違うと首を振った。

「お前、何があったんだ?髪も目の色も変わってんぞ?」

「髪?目?」俺の言葉に困惑しながら顔や髪を触って確認しようとしていた。

色の変わった髪を数本引き抜いて「げっ!」と悲鳴をあげると、スーを押し退け、慌てて水面に駆け寄って顔を覗き込んだ。

意外と元気そうだ…

「なんじゃこりゃ!」

「こっちが聞きてぇわ」と頭を抱えていると、座り込んで動けないままのスーが突然吹き出した。

「お爺さんみたいになっちゃったね」ケラケラ笑いながらワルターの髪の変化を子供みたいな言葉でいじった。

「ふざけんなよ!あの鹿!」とワルターは怒った様子だが、スーは相変わらず子供みたいに笑いながら「《冬の王》とおそろいだ」と言った。

「笑いすぎだ!口を凍らすぞ!」とワルターが大人気なくスーに凄んだので「やめろよ」とスーを庇った。

スーは俺の背に隠れてひとしきり笑って、ワルターに向かって、「やっぱり僕は君に出会う運命だったんだ」と噛み締めるように言った。

左手が右手の腕輪に触れた。

腕輪をなぞるように撫でて、スーは寂しそうに呟いた。

「運命だったなら、仕方ないよね…」

それが誰に向けられた言葉なのか分からないが、言い訳じみた響きを含んだ言葉を最後に、スーは眠るように気を失った。

✩.*˚

「…きろ…起きろ」アルフィーの声と拳で起こされた。もうちょっと優しくしてくれても良くない?せめてグーじゃなくてパーにしてよ…

「生きてるか?」と問いかける声はやっぱりアルフィーだ。

酷い火傷だったのに、意外と元気そうだ…

アルフィーの無事を確認しようと、重い瞼を開けた。

「生きてんじゃねぇか?さっさと起きろ、帰るぞ!」

「…はぇ?」

「なんだ、そのアホみたいな声は?」

俺の顔を覗き込んだ男は、アルフィーの声でそう言って眉をひそめた。

夢でも見てんのかな?

目の前の男は多分アルフィーだが、俺の知ってるアルフィーじゃなかった。

「…火傷は?」と尋ねた俺に、目の前の男は無愛想に「知らん」と答えた。

「てめぇのせいで変な夢を見た。

《祝福》を使いすぎたから《英雄》に叙すると、夢の中で獅子のような変な獣に言われた。正直言って意味がわからん」

俺のせいっていうのもよく分からんけど…

「へえ…あんたって、ホントはそんな顔してたんだ…」そう言って小さく笑った。

アルフィーはやっぱり男前だった。

涼し気な目元には、綺麗な青緑の瞳が両の眼で光を放っていた。

火傷で引きつっていた顔の肌は、滑らかな陶器みたいな綺麗な肌になっていた。笑わない口元は、薄いが形の良い唇を厳しく引き結んでいる。

もう、俺が《顔剥ぎ》である必要は無くなったようだ…

「良かったな…アルフィー…」

ボロボロの身体で、唯一自由に動かせる口で賛辞を贈った。

アルフィーは俺を睨んで「いいもんか」と毒づいた。

忌々しげに、自分の顔指さして、いつもみたいに不機嫌に吠えた。

「これじゃぁまるで別人だ!お前がいなきゃ、誰が俺だって分かる?!

さっさと立て!帰るぞ!」

アルフィーは俺を急かすように足先で軽く蹴飛ばした。優しいんだか意地悪なんだかよく分からん。

「無理ィ…重傷だよォ…」と困った顔で笑った。

正直な話、火傷はかなり重かった。

胸から腕にかけての火傷が特に酷くて、筋肉まで損傷してるのか、全く動かない。

むしろ生きてるのが不思議なくらいだ。

どうせこの命も長くない…

「もう、無理みたい…あんたが無事ならいいやぁ…置いてってよ」

「置いて行けるかよ…相棒なんだろ?」とアルフィーが意外な言葉を口にした。

俺が勝手にあんたを相棒って呼んで、一方的についてまわってただけだと思ってた。

構うのが面倒くさいから、追い払わずにいたと思ってた…

事ある毎に『相棒だろぉ?』と言う俺に、アルフィーは『足手まといにならずに、俺の役に立つなら相棒にしてやる』と言った。


相棒契約は一個の林檎から始まった。

あん時、俺は幾つだったかな?まだガキだった…

路上で座り込んで通りを眺めてた俺の目の前に、あんたが落とした林檎が転がってきた。

深い青緑の瞳と視線が合った。

出会った時からあんたは既に酷い火傷で、包帯だらけの姿で素顔も分からなかった。

『見てないで拾うなりしたらどうだ?』と言いながらアルフィーは俺に返せと手を出した。

火傷で引き攣った傷跡で、手が不自由だと知った。

拾って返してやると、アルフィーは俺を嫌がらずに林檎を袋にしまった。

『俺の触ったもの嫌じゃないの?』と訊ねた。

俺は嫌われ者で、汚物と大して変わらないような存在の気狂いだ。

『お前が何だろうと俺には関係ない事だ。

拾うのが面倒だったから拾わせた、それだけだ』

そう言って立ち去るアルフィーの身体から、膿んだ傷の匂いがした。

それが酷く懐かしくて、彼の背中を目で追った。

通りを歩く人の影が邪魔をして、彼を見失いそうになった。消えそうになる背中を慌てて追いかけた。

しばらく後ろを歩いていると、アルフィーの方から口をきいた。

『何だ?』

『あんた、怪我してるの?』と訊ねると、包帯を巻いた顔の下が少しだけ嫌な顔をした。

『…それを訊いて何になる?』と突き放してまた歩き出す。急に動いたので、バランスを崩した荷物からまた林檎が転がり落ちた。

『チッ!』苛立たしげに舌打ちしたが、彼は林檎を拾わなかった。

引き攣った傷口が痛むから拾えなかったんだ…

屈むことが出来なくて、彼は林檎を諦めて歩き出した。

林檎を手にして後を追った。

何故だか分からないが、追わずにはいられなかった。あの時はもう既に、アルフィーの不思議な魅力に取り憑かれていたのだろう。

『何なんだ、お前は』とまた足を止めて彼は俺を睨んだ。目は怒っていたが、蔑むような色は無かった。

『気狂い』と答えた。名前は誰も呼んでくれないから忘れていた。

アルフィーは眉を寄せて『《気狂い》でも名前があるだろ?』と訊ねた。

首を振った俺の手から林檎を受け取って、礼の代わりに名前をくれた。

俺は《エドガー》になった。

アルフィーは火傷が治るまで俺を傍において世話をさせた。ほとんどタダ働きみたいなもんだったけど、名前を貰ったことで全部報われた。

怪我が治るとアルフィーは俺が要らなくなった。

『傭兵だからな』と宿を引き払って、別の町に向かった。戦える場所に行くらしい。

『俺も行く』とアルフィーの後を追った。

『あんたができないことをするよ、だから…』

『俺は傭兵だ。人を殺しに行くんだぞ』アルフィーはそう言ってガキの俺を追い払おうとした。

《祝福》を見せて怖がらせようとしたが、俺は《気狂い》だったから上手くいかなかった。結局アルフィーは俺を追い払えなかった。

それからずっとアルフィーの隣が俺の居場所になった。

蹴られても殴られても、炎に焼かれても、アルフィーの背を追い続けて今ここでこうしてる…

『相棒?』

『そ!俺たち相棒だよな!』俺の言葉にアルフィーは迷惑そうな顔をして、苦々しく口を開いた。

『だったらもっと役に立て、俺ばかり働かせるな』

『分かってるよォ!俺があんたの出来ないこと、全部引き受けるからさ!最強の二人になろうぜ!』勝手に約束した。

アルフィー…

あんたの無いもの全部、俺が埋めるはずだったんだ…

それなのに、そんな完璧な姿になったらもう俺は必要ないじゃんか…そうなったら…

「アルフィ…捨てないで…」

涙が零れた。

気狂いでも、まだ心はあるんだ…あんたが俺の心の最後の一欠片を拾ってくれたから、倫理も道徳もクソ喰らえだが、心までは失わなかった。

あんたのことが好きだ、大好きだ!

名前を呼んで欲しい。またいつものように怒りながら俺の名前を呼んでくれ。

背中に手が届かないとか、飯の用意とか、あれはどこにしまったとか、そんな話…

ナイフも握れないから、林檎だって丸かじりしかしてなかったじゃんか。あんたすっげぇ不器用だ。

服のボタンだってイライラしてダメにするから、ほとんど俺が留めてやったろ?

ダメじゃん!俺がいなきゃ、あんたはなんにもできないじゃんか!

「…エドガー」アルフィーの声が耳に届いた。俺を呼ぶ声は震えてた…

「帰るって言ってるだろう…」

珍しい、殴らねぇのな…優しく手のひらで顔に触れて、頭を撫でてくれた。

また雨降ってくるよ、そんなことしたら…

そう思ってると、水滴が顔に落ちた。

雨が降ってきたんだ…そう思った。

強くてクールでかっこいいアルフィーが、涙なんて見せたりしないもんな…

死にそうだから、目までおかしくなってんだ。

この目の前で泣いてる男は俺の知らないアルフィーだ…

「死ぬな、エドガー…俺一人じゃ…戻れない…」

そんなバカな。迷子じゃあるまいし、帰れるだろ?

少しだけ笑ったが、口元が少しだけ動いただけだった。視界がぼやけるのは涙のせいじゃない…声もだんだん遠くなる。

「ア…ルフィ」声が出なくなる前に、あんたに伝えたかった…

「大好きだ」って上手く言えたかな?

暗くなる視界に、あんたの綺麗な顔を焼き付けた…

いい土産だ…

あんたの相棒になれて、俺はめちゃくちゃ幸せだったよ…

あんたは迷惑だって、怒るんだろうな…

でも、その方があんたらしいよ、アルフィー…

✩.*˚

馬はもう疲弊していた。

当然だ。ユニコーン城を出て、中継地点で一度乗り換えたとはいえここまでずっと走ってくれた。

それでいて、ふらつく脚で一騎打ちを支えてくれる馬に感謝した。

スペンサーは強かった。

彼は武人として名を馳せた男だ。

従者と名乗った騎士でもない私が、ヘルゲン子爵閣下の無念を雪ぐ機会を手にできたのは、彼が一騎打ちに応じてくれたおかげだ。

殺し合いの最中だが、素直に感謝した。

剣撃の応酬が続いた。

ふらつく馬を何度も立て直し、剣を振るった。

もう少しだけ、もう少しだけ頑張ってくれ!

祈るように馬の手綱を握った。

負けられないのだ!

大恩ある主のため、親友との約束を守れなかった己へのケジメとして、決して負けられないのだ!

「馬を替えなくて良いのか?」とスペンサーが口を開いた。

私の馬が限界だということに気づいていたのだろう。

馬ははみを咥える口から泡を吹いていた。頭は下がり、脚は震えて今にも倒れそうだ。

「私に負けたのが、馬のせいと言われては困る」

「馬が倒れても、私の闘志は揺るがない!我が主に誓って、貴殿はここで倒す!」

「それは亡きヘルゲン子爵の事か?」

「そうだ!」

「ならば私も、今は亡き大公様のため、滅んだウィンザーの誇りをかけての戦わねばなるまい」

スペンサーは馬の腹を蹴って前に出た。

お互いの馬がぶつかって、遂に騎馬が悲鳴をあげて脚を折った。馬の背から投げ出されて地面に転がった。

騎士と歩兵では分が悪い。

圧倒的不利な状況に唇を噛み締めたが、驚いたことに、スペンサーは馬の背から降りた。

「スペンサー様!」周りの兵士が悲鳴を上げた。

私も目を疑った。

騎士が馬を降りるなど、有り得ない、あってはならない事だ。自分から優位を捨て、スペンサーは歩兵の姿になった。

「さあ、一騎打ちの続きをしよう」とスペンサーは剣を振るった。

剣が触れ合う度に激しい火花が散った。

「シュミットよ、さっきまでの威勢はどうした?」とスペンサーは私を挑発した。

雄を奮って彼を迎え撃った。

一撃一撃がお互いの魂を削るような強烈な剣撃で、周りも固唾を飲んで見守っている。

騎士の姿に憧れて、若かった私は見様見真似で棒を剣に見立てて振るっていた。

馬房の裏で、騎士の真似事をする私を見かけて、ヘルゲン子爵は叱ることなく、『なかなか筋が良いではないか』と褒めてくださった。

『馬の世話係で終わらすには惜しい男だ』と私に剣を与え、自身の従者として引き立て、更なる高みを目指すようにと命じた。

ロンメルともその頃知り合った。

『卿の剣は重いな』と私の剣の腕を称え、顔を合わせる度に手合わせをするようになった。

綺麗な顔に似合わず、気性の荒い苛烈な男は情も深かった。

親友となった彼と私は誓いを交わした。

お互い、ヘルゲン子爵への忠誠を誓い、どちらか倒れてもその約束を守るとその魂に誓約として刻んだ。

それなのになんとも不甲斐ない!

このまま死んでは、恩人に、親友に合わせる顔がない!

「おおぉ!」

獣のような雄叫びを上げて、剣を打ち込んだ。

男を見せろ!死ぬのはその後でいい!

騎士より騎士らしく、誇れる父として、武人として、南部の男として生きて散るのが私の理想だ。

ヘルゲン子爵から頂戴した剣を振るい続けた。

怒りを乗せた剣は徐々に相手を圧倒し、スペンサーは気迫に押されて徐々に後ろに退いた。

それでも相手はウィンザー公国で最も優れた騎士だ。

引くことはあっても、倒れることは無かった。

彼は私の隙を見ては剣を振るい、傷を増やした。

軽装の防具は、騎士の全身鎧の様には私を守ってはくれなかった。

それでも…傷は増えても、私の誓いが消える訳では無い。私にはこれしかないのだ。友も主も失った。残ったものはこの剣だけだ。

この腕がもげるまで、この腕が動かなくなるまで…

魂の消えるその瞬間までこの剣と共にありたい…

刃は届かなくとも、鎧を歪めるほどの剣撃にスペンサーがよろめいた。

疲労で重くなる腕に全霊を傾けて、重い一撃を振るった。

「ぬう!」

剣を受け止めきれずに、低い呻き声を上げてスペンサーは腕を痛めたようだった。

私の剣を握る掌も血が滲んでいた。皮の剥けるような、刺すような痛みに怯みそうになる。

お互いの視線が交差した。

獣のように吼えて互いに前に出た。

スペンサー!感謝する!

もしここで死んだとしても、私は《馬丁の子》でなく、《ヘルゲン子爵の従者》として誇りを墓に刻むことが出来る!

痛みすら力に変えて、振るった剣はスペンサーの剣を弾いた。

跳ね上げられた剣は、スペンサーの手を離れ、後方にその姿を消した。

「見事だ、《ヘルゲン子爵の従者》よ」とスペンサーは私の健闘を称えた。

潔い武人の姿に畏敬の念を抱いた。

「我が最後にふさわしい男よ」と彼は私に最上級の賛辞を送った。

その騎士の姿に見惚れて手を止めた私の腹に、鋭い熱が走った。

スペンサーも驚いた視線で、私の腹から生えた矢を見ていた。

「何をする!一騎打ちぞ!」と彼は自陣に視線を向けて怒鳴った。矢を放った兵士は青い顔で、震える手で弓を握っていた。まだ若い男だった…

彼は彼なりに主を守ろうとしたのだろう…

スペンサーが彼を叱ろうとした次の瞬間、一陣の風と共に放たれた矢が、鋭く彼の身を襲った。鏃が鎧を貫通して胸に矢を穿った。

慌てて視線をめぐらすと、私の後方から、身の丈ほどある長弓を握った傭兵がさらに矢を番える姿を見た。

「やめ…」私が静止するより早く、第二矢が放たれた。

鎧を貫通する不気味なズドンと響く音が、亡国の騎士の身体から響いた。

「スペンサー!」気が付くと私は彼の名を呼んでいた。二本目の矢を受けた身体は力を失って地面に倒れた。

反射的に駆け寄ろうとした私に、双方の兵士らが壁となって立ち塞がった。

「やめろ、私は負けたのだ」倒れた男の声がした。

彼は私を呼んだ。兵士らが身を引いた。

「やっと…終われる…」と彼は幕を引くように呟いた。

その言葉に、彼はずっと、終焉を望んでいたのだと知った。自分では終わらせることが出来ないから、代わりに終わらせる誰かを求めていたのだろう。

いつの間にか雲が割れ、夕日が赤と紫に空を染めようとしていた。

赤に染るのは空だけでなかった。鎧から流れ出る赤い湧き水がしたたり落ちて血の沢を作った。

「ウィンザーの民を…」と口にして彼は苦しげに咳き込んだ。矢が肺に達しているのだろう。鮮血が喉から溢れた。

死を目前に、その目は驚くほど穏やかで、やりきったような満足な表情だった。

「侯爵様は…全ての領民を愛すると誓われた」

彼の不安を拭うように、彼の望む言葉を伝えた。

「フィーアもウィンザーも、これ以上血を流す理由はない」と告げると、ウィンザーの最後の旗印となった男は感謝を口にした。

「ヴェルフェル侯爵に降れ、供は許さん」と側近に最後の命令を伝えた。

「…終わったのだな」と噛み締めるように呟いて、彼は目を閉じた。

彼の魂はそれを最後に、愛したウィンザーの地を去った。

ウィンザーの最後の忠臣は誇り高く、その生涯に幕を引いた。

啜り泣く声が一人二人とその数を増やし、彼の魂を見送った。

西の空が赤く染まり、深い藍が東から駆け上がってくる。

悲しみと共に日が暮れる…

ウィンザーの第二の太陽は沈んだ…
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