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それぞれの戦場
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スー、お前はよくやったよ。
オーラフだって褒めてくれるはずだ…
「《氷鬼》…」青い炎に包まれた男は不気味な姿で俺を睥睨した。
氷の塊も《烈火》の炎の前では長くは持たなかった。
「その舐めたガキを殺させろ」
「勘弁してくれよ。多少イラッとする事もあるが、うちの期待の新人だ」
笑いながら、肩を竦めて奴の要求を却下した。
冷気を宿したツヴァイハンダーを構えて、《烈火》に代案を提案する。
「いい歳した大人がガキと鬼ごっこなんてつまらんだろ?俺と大人の喧嘩をしようぜ」
《烈火》は俺の誘いに不愉快そうに顔を歪めた。
「…どうせみんな死ぬ」と彼はネガティブに呟いた。
まぁ、真理だわな…否定はしない。
挨拶がわりの炎が俺を襲った。
「巻き込まれたくねえ奴は離れてろ!」と仲間に指示して剣を振るった。
冷気を帯びた剣と、熱を帯びた拳が切り結んで爆ぜた。《烈火》の火力は予想以上だ。
スーもこいつ相手に良く耐えた。後で褒めてやらにゃいかんな…
しかし、コイツはバケモンか?
「あんた、大丈夫かい?」とつい言葉をかけてしまった。
肉の焼けるような異臭が鼻につく。
明るい場所で見れば、体の至る所に火傷の痕がある。怨霊のような姿で拳を振るう《烈火》に同情した。
《祝福》は選べない。使い方も誰かが教えてくれるわけじゃない。
体に負担の大きいものから、小さいもの、簡単なもの、複雑なものと千差万別だ。
なぜそれが選ばれるのかも、なぜ俺たちじゃなきゃならんかったのかも、誰も答えを持ってない。
だから、神様に選ばれたなんて曖昧な答えで納得するしかないのだ…
「…死ね…さっさと死ね」
ブツブツと呪詛をつぶやく男は、俺の死を望んでいた。
悲しい奴だ…
誰かあんたを心配してくれる人は居なかったのかい?
その身を案じて、愛してくれる人は無かったのか?
自慢じゃないけど俺には居たんだぜ、昔だけどな…
『ご飯食べていきなさいよ』となんの前触れもなく少女は俺の手を握った。
まだ《祝福》を使いこなせてなかったし、ガキだった俺は恥ずかしくて指先が冷たくなった。
『何これ?冷たい!あなた大丈夫?!』と彼女は本気で心配してた。
こういう体質なんだと言うと、彼女はお湯を張った桶に俺の手を沈めて、毛布を用意してくれた。
『いい娘だろ』
フリッツは自慢げに俺に耳打ちした。
暖かくなった手を握って、彼女は『これでよし』と嬉しそうに笑った。空色の瞳に吸い込まれそうだった。
彼女の優しさが悴んでた心に熱を与えた。
あの日から俺は彼女に恋をしてたんだ。
エマが居たから、俺はこんな《祝福》を背負っても生きていられた。戦いに出ても、彼女に会いたくて生きて帰った。
忘れられるかよ!
凍えそうになる度にお前を想って、あの日握った手を思い出した。
あの日、お前が俺に生きる理由をくれたんだ。
まだ、俺はお前に恋してる…オッサンになったけどな…
「何笑ってる…」ふと昔を懐かしんだ俺に、《烈火》が不可解そうに訊ねた。
「さあ…なんでだろうな?」と彼に苦笑で答えた。
理由を話したところで、俺の女々しい思い出話だ。聞きたくなんてないだろう?
それに今は殺し合いの最中だ。
《烈火》には同情するが、俺はスーが用意してくれた勝ちを譲る気は無かった。
「《氷結》」
刃に乗せた冷気が空気を凍らせながら《烈火》に迫った。
炎の熱を奪いながら刃は《烈火》に肉薄した。
「おおぉぉ!」
雄叫びとも悲鳴ともつかない声が炎の中から溢れた。
凍えていた剣が、赤く色を変え、熱を帯びた。
「あっちぃな!」〝リカッソ〟が握れない。ツヴァイハンダーを手放した。
こうなりゃこれはお荷物だ、悪ぃな、相棒。
素手で《祝福》を使うしかないか…
死にたくないけど、死ぬ気でやらにゃ勝てそうにない。
凍るような冷気が全身を巡る。煙草の煙のような白い息が漏れた。
こっから先は人間を辞めた奴らの戦いだ…
意地を張るのは俺の悪い癖だ…
自嘲する笑みが口元に浮かんだ。
✩.*˚
「大丈夫か、スー!」
長い腕が僕を抱きしめた。
緊張してた身体から力が抜けた。もう立ってることすら億劫だ…
「…エルマー…ずぶ濡れだね」と少しだけ笑った。
あの川を渡ってきたのだろう。
自慢の戦闘服は水気と返り血に濡れて重そうだ。
「いいんだよ、そんなこと!
ワルターが、オーラフが死んだって…お前が勝手に敵陣に飛び込んで行ったって…聞いて…
…良かった…生きて…」
言葉に詰まりながら、痛いくらい抱き締める腕が震えていた。
何かに怯えるような彼の姿が意外だった。
重い腕を動かして彼の背に手を回した。
「僕は…生きてるよ」と彼に伝える。
「でも、もう動けないや」と彼の前で弱音を吐いた。
エルマーの顔を見てしまったから、力が抜けてしまった。
少し安心したようで、エルマーは僕を軽々と抱き上げて仲間に預けた。
「俺はまだ戻れないから、こいつらと戻れ」
「嫌だよ、君と一緒がいい」と我儘を言って彼を引き留めた。
「戻ったら一番に顔出てやるよ、約束だ」とエルマーは困ったように笑って手を握って離した。
「俺の弟だ、手ぇ出すなよ」と冗談交じりに言ってまた剣を握った。行ってしまう…
「兄貴、随分人が変わったよ」と僕を預かった男が口を開いた。彼は僕を背負ってエルマーと反対の方に歩き始めた。
「俺が言うのもなんだかよ、あの人昔はおっかなかったんだぜ。
笑いながら人を殺すような、悪魔みたいな人だったのによ…まるで別人みたいだ」
「エルマーは…いい人だよ」と彼に反論したが、彼は僕の反論を笑い飛ばした。
「だから、変わったんだって」と子供に物語でも聞かせるように言葉を続けた。
「悪魔が人間になるなんてな。聞いたことねぇよ。
でも、まぁ、あんたなら少しだけ納得するよ。
あんたなんか特別だ、そんな感じだもんな」
「君はエルマーの弟なの?」
「そういうことじゃねぇよ。
山賊やってた頃から弟分なんだよ」
「…山賊?」知らなかった。
「そう、山賊…聞いてなかったか?俺が言ったってバレたらヤバいやつか?」と彼は僕に「兄貴に言うなよ」と口止めした。
「君はエルマーと長いの?」
「まぁ、長いな」
「いいなぁ…」
「腐れ縁だよ」と彼の背中が笑った。
「俺ギートってんだ、よろしくな、スー」
ギートと名乗ったエルマーの弟は、僕を背負って対岸に通じる縄で出来た橋まで運んでくれた。
橋の前には負傷者が並んでいる。
もう亡くなってる人もいた…
名前も知らない彼らを悼んだ。
話す機会が無かっただけで、彼らはもしかしたら仲良くなれた人かもしれない…
やるせない思いが涙に変わった。
「悔しいよな、俺もだ」とギートが僕の頭を撫でた。
「俺も戻るよ、兄貴が待ってる」と彼は踵を返して走り去る。
「ギート!死ぬな!」
僕の声が届いたのか、彼は少しだけ振り向いて手を振った。もう戦えない僕は彼を見送ることしか出来なかった。
もう、誰もこの川原に並んで欲しくなかった。
✩.*˚
「アンドリュー、このまま後退を続けろ!あとはスペンサーのおっさんの指示に従え!」
現場の傭兵たちをアンドリューに預け、炎と氷の攻防に視線を向けた。
アルフィー!死ぬ気か?!あんなに青の炎使ったらあんただってタダじゃすまんだろう?
「エドガーの兄貴はどうするんで?」
「アルフィーのところに行く!」
「《氷鬼》と交戦中ですぜ!あんた死ぬ気ですかい?」
「うるせぇ!邪魔したら殺すぞ!さっさと言う通りにしやがれ!」
アルフィー!
全て捨てて青い炎に向かって駆け出した。
あんただけが俺を見てくれた、俺を認めて、必要としてくれた。
『あの子、母親の死体とずっと暮らしてたんですって…』
死を理解できない子供は、母親の肉が腐り落ちて骨になるのを毎日眺めていた。そのうち起きるって信じてた…
ヒソヒソと話す声だけが俺についてまわった。
誰も目を合わすことも、触れてくれることもなかった…
別に、貧民街で、親のいない子供なんて珍しくもなかったのだろう。
そうなりゃ野垂れ死ぬか、はたまた、悪党として生きるか…だいたい二つに一つだ。
『気狂いね』と罵る声が容赦なく俺をなじり、いつの間にか俺は名前を忘れて《気狂い》になった。
でも、俺よりヤバい奴が俺を拾った。
『《気狂い》でも名前があるだろ?』
アルフィーに出会って、母親を思い出した。
アルフィーは生きてるし、腐ってる訳でもないし、男だ。
それでも母親と同じ匂いがして、俺に向き合って、口を利いて、傍に置いてくれた。
あんたのことが好きなんだ!あんたの全部が好きなんだ!
俺に道を譲らなかったヤツらはみんな斬り捨てた。
「退けエェ!」狂気で頭がおかしくなってるのに、何故か剣の腕だけは妙に冴えていた。
アルフィーまであと少しのところで、俺の剣を止める奴が現れた。
「また会ったな」と男は笑って、俺の剣を止めた双剣を振るった。
「邪魔すんな!お前なんかに用はねぇんだ!退け!邪魔!邪魔だァ!」
「ワルターの邪魔はさせねえよ。
それにお前にゃ迷惑かけられっぱなしだからな、ここらでひとつシメてやる」
《嘲笑》の二つ名を持つ傭兵が行く手を遮った。
二つの刃が長い腕から繰り出される。避けるのが精一杯で、後ろに下がってしまった。
アルフィーとの距離がまた少し遠くなる。
「チィッ!」
こんな奴に構ってる場合じゃない。
「アルフィィィィ!!」
炎に向かって必死に叫んだ。届け、俺に気付け!
《嘲笑のエルマー》が驚いて少し身を引いた。
「…何を…?」
「アルフィー!俺だ!エドガーだよォ!」
青い炎が揺らめいた。
「あとはあんただけだ!俺と来い!」
必死に呼んで、前に出た。
目の前の《嘲笑》が、嘲るように俺の前に立って邪魔をする。
「逃がさねぇよ!お前も《烈火》もここで死んでもらう!」
しなる腕が剣撃を放ち、重い一撃に腕が下がった。
他の奴らとは明らかに違う!クソ強ぇ!
「俺も兄貴として負けられねぇんだ」と語る口元には《嘲笑》の二つ名には似合わない清々しい笑みがあった。
なんだよ、それ?あんたも俺と同じ、気狂いかと思ってたのに…
互いに引かず、剣が火花を散らして、刃が欠けるほどの応酬が続いた。
周りは敵だらけになっていた。
俺とアルフィーだけが残るのみだ。
それならそれでいい…あんたの相棒として死ねるなら、文句はない。
あんたを置いていくくらいなら、あんたと《二クセの船》に乗る。嫌な顔は容易に想像できるが、俺も一緒に連れてってくれ…
相変わらずアルフィーの青い炎は《氷鬼》の氷と一進一退の攻防を続けている。
あんたがそんなに苦戦するなんて信じられねえよ。
俺も苦戦するわけだわ…コイツら強ぇよ…
ちらりと視界に納めた炎が揺らめくのが見えた。
炎と氷がいきなり向きを変えて俺たちの方に乱入した。
「何だ!」
「チィッ!」
間に割って入るように乱入した炎と氷は人の姿をしていた。
「後退しろって…言った…」
焦げたボロボロの姿でふらつくアルフィーが立っていた。青い炎の残滓が燻って、目の前の男との間に境界を作っている。
「あっぶねぇな…エルマー、もうちょっと離れてやれよ…」
「おまっ!なんて無茶苦茶な…」
あっちはあっちで悲惨な様相だ。
《氷鬼》は半分氷漬けみたいな姿で、死人みたいに青い顔をしていた。吐く息は白く、周りの空気がキラキラと凍って輝きを含んでいた。
ふらつくアルフィーの身体を支えようと手を伸ばしたが、アルフィーは俺の手を拒んだ。
「火傷じゃすまんぞ」
アルフィーの腕から黒く焦げた皮膚がボロボロと剥がれ落ちた。
「行け…残れとは言ってない」
アルフィーはそう言ってまた目の前の男を睨んだ。
「煩いお前と|《二クセの船》に乗るなんて御免だ」とアルフィーは俺に背中を向けたまま言った。
逃げろとか、生きろとか、そんなに優しい言葉はあんたには似合わないもんな…
「…分かった」とアルフィーの背中に返事した。
乗船拒否されるなら、お前も船には乗せてやらねぇよ!俺は気狂いだ!
アルフィーの熱い身体を抱き寄せて抱えた。
案の定、熱を持ったアルフィーの身体に触れた瞬間から激痛が走った。
「馬鹿野郎!何する!」とアルフィーが吠えたが、もう遅せぇよ!大火傷は確定だ!
「逃げんぞ!相棒!」
川辺で戦ってて良かったじゃねえか?
アルフィーを抱いたまま川に飛び込んだ。
流石、渡河しにくい場所を選んだだけの事はある。
いきなり深くなる川底に、足を取られて流された。
腕を焼く、熱い身体を手放さないように強く抱き、流れと運に身を任せた。
✩.*˚
「ヴュスト様、傭兵部隊が対岸の陣地を制圧したそうです」と報告があった。
多少時間はかかったが、流石名うての傭兵団だ。
「スペンサーは陣を下げ、未だ交戦の構えとのこと。《顔》はまだ取り返せておりません」と伝令が伝えた。
「我が陣を焼いた、炎を操る《祝福持ち》はどうなってる?」
「傭兵隊長の《氷鬼》が追い詰めましたが、川に飛び込んで逃げられたと報告がありました」
「成程、退けたのなら良い。
ウィンザーの残党だけなら恐るるに足らぬ!スペンサーは倒せずとも、《顔》だけは必ず奪還せよ!
急ぎ橋を用意して対岸に馬を渡せ!騎兵で追撃する!」
「はっ!」
伝令が馬を返して走り去った。
工兵の部隊が、用意していた橋を架けるための材木を移動させ、川に橋を渡す用意を始めた。
水はけの悪い足元の草地は、馬の脚を鈍らせていた。
このままでは馬の蹄がふやけて脆くなる。
重装騎兵にとって厄介な場所から早く抜け出さねば、残った馬も長くは持たない。
歩兵も泥濘に嵌り、足を取られる者が出ていたし、何より行軍するだけで体力を奪われる。
地面からジワジワと染み出る水が、不快にも靴の中に流れ込んで士気は低下していた。
橋をかけ終えたとの報告に、頷いて馬に跨った。
「騎乗!これより前進を開始する!
卑怯なウィンザーの残党共を蹴散らせ!」
やっと発せられた前進の命令に、待っていたとばかりに兵士たちが鬨の声を上げ、行軍が開始される。
前進し、最前列が橋に足を踏み入れた時だった。
「敵襲!」の声が後方から上がった。
「何事だ!」
「後方より敵襲です!ウィンザーの騎獣隊が後方の重騎兵の部隊に急襲しました!交戦中!敵はおよそ百騎!損害不明です!」
「一体どこから…」
「伝令!」と叫ぶ声とともに新たな凶報がもたらされた。
「ウィンザーの主力部隊が反転して攻勢に転じた模様!前衛の傭兵部隊が押されています!」
「閣下!このままではすり潰されます!」
このままでは川を挟んで前衛と後衛が各個撃破される。
動きの鈍った重騎兵と、泥濘に足を取られた歩兵では、ウィンザーの騎獣隊に翻弄されるばかりだ。
重騎兵がその数を一気に減らした。
騎獣に怯えた馬がパニックを起こし、戦列が乱れる。
騎士らに反転を命じたが、その頃にはウィンザーの騎獣隊は駆け抜けて別の箇所から戦列を食い破った。
騎獣の機動力を駆使したウィンザー流の波状攻撃に騎士たちは苦戦を強いられた。
最初からこれを狙っていた?
スペンサーめ!小賢しい!
「渡河は中止!弓隊で牽制しつつ騎兵で迎え撃て!」
混乱が指示の伝達を遅らせた。
この間にも駆け抜けた騎獣隊が反転して、襲いかかってくる。
「ビィィ!」
騎獣に怯えた馬が悲鳴を上げ、馬首を返すのを嫌がった。一頭が足並みを乱すと、逃げ腰の馬に他の馬が従った。
騎手を捨てて逃げる馬が混乱に拍車をかけた。
「歩兵部隊を後ろに回せ!弓と槍衾で牽制しつつ騎兵を立て直せ!」
指示を出したが、騎馬が暴れて歩兵の行く手を阻んだ。蹴られて負傷者まで出る始末だ。
「何と無様なことか…」呻く声が漏れた。
精強を誇る重装騎兵隊が、狼に追われる羊の群れのように無様を晒している。
ヘルゲン子爵閣下はパウル公子様から軍を預かってからというもの、ウィンザーの残党との直接の戦闘を避け続けていた。
『我々の優位は変わらぬ。ウィンザーの挑発に応じる必要は無い。
スペンサーは怖いぞ。目を離すな。
あれは追ってはならぬが、見失うこともあってはならん。付かず離れず、根気よく付き合ってやらねばな』
『それでは戦況は膠着します。兵の不満も溜まり、士気が下がる一方ではありませんか?』
『罠を知ってて飛び込むのは勇敢ではなく無謀だ。あの男が用意した戦場で戦うことは私が許さん。
あの男はパウル公子様とも互角に渡り合う男だ。数の劣勢をものともせず、未だ戦いを続けていられるのは何故だと思う?
凡夫が優秀な敵に敬意を払うのは当然ではないかね?』
ヘルゲン子爵閣下はそう言って布陣した平野から動こうとしなかった。
今思えば正しい対処だったのだろう。
私は奴らの罠に嵌った愚者だ…
「ヴュスト様!」
一人、悲嘆に昏れる私に側近が声を上げた。
「こちら側に残っていた傭兵部隊から弓の援護が!ウィンザー勢の攻撃が緩みました!」
「指揮してるのは誰だ?」
《氷鬼》と、ほとんどの中隊長たちは川を渡ったはずだが…
「ゲルト・ヴィンクラー中隊長との事です」
あの隻眼の白髪の老人か?
驚きを隠せずに、鬨の声が上がった方に視線を向けた。
顔を上げたその目に映ったのは、傭兵部隊が騎獣隊に旗を掲げて突撃する姿だった。
✩.*˚
「親父さん、変なの出てきたぜ」と本陣の動きに対応できるよう、見張っていたヤーコプが俺に報告した。
猟師とだけあって彼は目が良い。
「マジか?騎士さんらボコボコにされてるじゃん」
ヤーコプの双子の弟のヨハンが本陣を眺めながら呑気に笑った。
南部侯の重騎兵を蹴散らすように駆け抜けたのは、大きな獣に乗った見たことの無い兵種だ。
「ウィンザーの騎獣隊か?」
レーツェルという竜の一種に乗った騎兵だ。
長い鉤爪の付いた鳥のような足と、長い口吻に並んだ牙は、明らかに馬とは異なった姿だ。
ぬかるんだ地面を蹴って走る姿は、鈍重な重騎兵を圧倒していた。
「援護しやすか?」とカミルが弓の用意を始めた。
ヤーコプとヨハンも背丈ほどあるロングボウを出して矢を地面に突き立てて並べた。
「何時でもやれますぜ!親父さん!」
「ふん!さっさと始めろ!」
腕に自信のある射手が三人揃って弓弦を引いて、獣の群れに矢を放つ。
彼らに習って、他の弓を持った傭兵たちも矢を放った。
矢を送り出す弓弦が、楽器のように鋭い音を奏でた。
強弓から放たれた矢が、獣の群れに吸い込まれて、矢の数だけ騎手を襲った。
矢に警戒した獣の群れに、続けて矢が放たれる。矢を受けた獣がもんどりうって泥濘に転がった。
獣の群れは、魚群のように不規則な軌道を描きながら、再び向きを変え、混乱する重装騎兵の隊列に突っ込んだ。
「クソッ!」ヨハンが悪態を吐いて弓を下ろした。
これでは味方に当たる。
「ゲオルグ!《雷神の拳》の旗を掲げろ!」
「おっしゃァ!」歓喜の声を上げて旗手が旗を掲げた。旗印が高く風になびいて旗に刻まれた意匠が顕になる。
「待たせたなお前ら!突撃だ!」
傭兵部隊がの中でも最も名誉のある役を拝命した男は、雄叫びを上げながら旗を手に先陣を切った。
泥濘の中、旗を目印に、命知らずな傭兵たちが泥を跳ね上げてウィンザーの騎獣隊に突撃を開始した。
随分ガキが増えたもんだ…
『女なんてなぁ、信用ならねぇんだよ…』
昔、ワルターの親父相手に、酔った勢いでそんなことを口走った。
付き合いの長いグスタフは苦笑いしながら俺に『呑みすぎだ』と言ったが、酔っ払いの愚痴に付き合ってくれた。
戦に出てる間に、嫁は他の男と家を出て行ってしまった。
おまけに、実の姉貴は十にも満たないヘンリックを置いてどこかに蒸発してしまっていた。
『ヘンリックはどうすんだ?』とグスタフは甥っ子の行き先を訊ねた。俺以外の行先なんて孤児院くらいのもんだ。
『引き取るさ、あいつだって俺と同じ被害者だ』
そう言って酒を煽った。
『女は信用ならねぇが、ガキは嫌いじゃねぇよ。
むしろ俺は男の子が欲しかったからよ、ちょうどいい』
『そうなのか?』とグスタフは意外そうな顔をした。
『そうさ。俺の剣を譲るんだ。
グスタフ、ギュンターも大事かもしれんがな、ワルターにだって親父が必要なんじゃないか?』と酔った勢いで余計な世話を焼いた。
グスタフは元恋人と息子を捨てちゃいなかった。俺を間に挟んで、隠れて世話を焼いていた。
それでも、立場上、ワルターを抱くことも、愛することも、息子と呼ぶことさえできずにいた。
本当は愛した女と一緒になりたかったはずだ。
それでもあいつにその自由はなかった…
『俺に親父なんて名乗る資格は無い。
お前が親父になってやってくれ』と都合のいいことを言ってグスタフは空になったグラスに酒を注いだ。
『自分のじゃないガキばかり押し付けられる…』と愚痴を零すと、グスタフは『男の子が増えるぞ』と笑った。
あれからもう三十年以上経つのか…
自分のじゃないガキばかりが増えた…
先に逝ったガキもいる。
それでも、グスタフと、この碌でもないガキ共の居場所を守り続けたつもりだ。
どいつもこいつも、俺よりでかくなりやがって…
ガキ共を沢山背負った背は、少し縮んでしまった気がする。
そろそろ俺も潮時だ。
後は俺の自慢のガキ共が継いでくれるはずだ。
糞ガキ共、こんなところでくたばったりしねぇだろ?
両手剣やハルバードを手にした前衛が獣の群れとぶつかった。
徒歩で戦う傭兵は、ハルバードや長鉈を伸ばして騎獣の背から騎兵を引き剥がしにかかる。
騎獣が暴れて、押し寄せる傭兵を振り払った。
暴れる獣の群れに思いのほか苦戦を強いられた。
止まらずに駆け抜ける群れを足止めできず、踏み抜かれた傭兵が血を流しながら泥に沈んだ。
鋭い爪が肉を抉り、牙が並んだ顎が大きく開いて傭兵を牽制した。
あの獣が咥えて引きずってるのは俺の息子だ!
「犬っころが!」と獣に罵声を浴びせて前に出た。
「親父さん!下がっててくれ!」
静止するヤーコプの声を無視して、突進して来る獣の一頭を素手で掴んで拳を構えた。
「《毒手》」
《祝福》とはとても呼べない、《呪い》の一撃を受けて獣が悲鳴をあげて、狂ったように跳ねると騎手を放り出した。
「ギャオ!バオォ!」血反吐を吐いて転がった獣が動かなくなるまでそう時間はかからなかった。
「次に俺の《黒腕》を食らうのは誰だ?!」
肘の辺りまで黒く染った毒の腕がよく見えるように袖を捲った。
「おっかねぇ」とガキ共が笑った。
黒い腕からは毒が染み出し、滴り落ちた黒い雫は土に染み込み草を枯らせた。
直接触れさえすれば、どんな相手だろうと猛毒で死に至る。問題は直接触れねば効果がない事だ。
《黒腕のゲルト》なんて何のひねりも面白みもない二つ名より、《親父さん》と呼ばれる方が好きだった。
そして呼んでくれるガキ共は俺の宝だ…
崩れた戦列に檄を飛ばした。
「糞ガキ共!まだ終わっちゃいねぇぞ!立て!」
「おお!」ガキ共が元気な声で返事する。
この程度で弱音を吐くような奴はここには居ない。
再び闘志を燃やして立ち上がった息子らの熱に、獣の群れが怯んだ。
「騎獣の足を止めるな!歩兵に囲まれるぞ!」
相手の指揮官が兵を叱咤し、騎獣に鞭を入れてまた群れが移動を始めた。
「チッ!」やりにくい相手だ。
旋回する軌道を描きながら、騎獣隊は微妙な距離を保って攻撃を再開した。
「投擲!」の合図と共に、駆け抜ける騎獣隊から無数の投槍が放たれた。
槍が弧を描きながら降り注ぎ、立て直しつつあった本隊の騎兵や歩兵を無差別に襲った。避けきれなかった死傷者が串刺しになって地面に倒れ込んだ。
駆け抜けた騎獣隊は旋回すると、また得物を手に舞い戻ってくる。
「舐めやがって!」
双子が矢を放ったが、止めれるのはせいぜい数騎の脚のみだ。
ウィンザー勢が投槍の射程に到達すると、また離れた場所から投槍の雨が放たれた。
流れてきた投槍が、すぐ目の前に落ちて地面に突き刺さった。
「親父さん!」
すぐ側に付いていたカミルが声を上げた。
「大丈夫だ」と応えて、投槍を地面から引き抜き、毒を含ませた槍を騎獣隊目掛けて投げたが、騎獣の群れから離脱者はなかった。
騎獣隊は先頭の騎士に続いて、また旋回して進路を変えた。
「ヤーコプ!ヨハン!先導の騎手に当てられるか?」
俺の問いに弓弦を引き絞ったままヨハンが答えた。
「ずっと追っかけてるけど、動きが騎馬と違うから、なかなか当たらねぇよ」
「ヨハン!親父さんへの返事がなってねぇぞ!」
ヨハンの返事に、すかさずヤーコプが反応した。
「俺たちの親父さんへの答えは『承知』のみ!四の五の言うな!」
鋭い音と共に弾かれたヤーコプの矢が風を切って放たれる。
しかし、当たったのはすぐ後ろを走る騎手だ。
迫る騎獣隊に矢が次々放たれるが、どの矢も先頭の騎士を避けて左右に逸れる。
騎獣隊から「構え!」と声を張る隊長の号令が聞こえた。
「畜生!もう少しなのに!」
もしかすると隊長の防具には、矢避けの魔法が付与されているのかもしれない。
もはや歩兵では打つ手がない。
やはり騎馬で無ければ、あの獣の群れに接近することも不可能だ。
「親父さん、槍が来る!離れてくれ!」
カミルが俺を気遣って下がるように勧めた。
他の奴らも俺の前に出て盾になろうとする。
馬鹿野郎、ガキを置いて自分だけ助かろうとする奴が、親父なんて名乗れねぇよ…
それでも俺の《祝福》では、あの飛んでくる槍を止めることは不可能だ。
打つ手無しかと思われた時に、いきなり騎獣隊が進路を変えた。
「…何だ?」
不可解な動きに首を傾げていると、遠くから別の旗印を掲げた騎兵隊が姿を現した。
「新手だ!」と声が上がり、その声は「ヴェルフェル侯爵とヘルゲン子爵の旗だ!」と朗報に変わった。
新手の軽装騎兵の出現で、騎獣隊が驚くほどあっさりと引いていく。
騎獣隊を追わず、軽装の騎兵たちは本陣と合流した。
「大ヴィンクラー殿ではありませんか?」と先頭を行く騎手が馬を寄せた。
数日前に知り合ったばかりだったが、この人の良い男を間違えるはずはなかった。
「侯爵閣下よりお預かりした軽装騎兵百騎、確かにお届け致しました」
「随分早くないか?」と言う俺にシュミットの表情が暗くなる。
「侯爵閣下はヘルゲン子爵閣下の訃報に心を痛めておいでです。
私も…主命とはいえ、主の側を離れたことを後悔しております」
シュミットは主の訃報に無念を滲ませた。
「後続も本日中に到着予定ですが、ここは陣を張るには些か問題が多いようですな。
侯爵閣下が到着するまでに、元の位置まで陣を下げて頂きたい」
「川の向こう側にうちの奴らが残ってる」
「川を挟んで戦うなど、愚策ではありませんか?一体何事です?」
「対岸にヘルゲン子爵の顔が晒されている」と教えるとシュミットの顔色が変わった。
簡単に状況を説明してやると、シュミットは「承知した」と短く答えて、軽装騎兵に対岸に渡るように指示した。
「何するつもりだ?」
「もちろん、傭兵部隊の撤退の援護に当たります」と当たり前のように答えた。
冷静を装う一方で、隠しようのない怒りの炎が彼から立ち上っていた。
「私は私のケジメをつけさせて頂く」と宣言し、数騎引き連れて木でできた橋に足を向けた。
「あの男を死なすな」
対岸に向かうシュミットの背を指して、カミルに後を追うように命令した。
カミルは「承知」と答えて弓と剣を手にシュミットの背を追った。
「ヤーコプ、ヨハン、親父さんを頼んだぜ」
「おう!」「死ぬなよ、カミル!」
双子と一緒にカミルを見送る。
「…さて」周りを見てため息が漏れた。
「とりあえず負傷者の手当を急げ。対岸に残された奴らも回収しろ」と指示を出した。
《烈火》と派手にやり合ってたワルターは無事だろうか?
あのチビ助はどうなった?
ガキ共は?
「全く…」残される親父の気持ちを考えろ、と腹の中で忌々しげに呟くと、必要なくなった《黒腕》を袖の下に隠した。
オーラフだって褒めてくれるはずだ…
「《氷鬼》…」青い炎に包まれた男は不気味な姿で俺を睥睨した。
氷の塊も《烈火》の炎の前では長くは持たなかった。
「その舐めたガキを殺させろ」
「勘弁してくれよ。多少イラッとする事もあるが、うちの期待の新人だ」
笑いながら、肩を竦めて奴の要求を却下した。
冷気を宿したツヴァイハンダーを構えて、《烈火》に代案を提案する。
「いい歳した大人がガキと鬼ごっこなんてつまらんだろ?俺と大人の喧嘩をしようぜ」
《烈火》は俺の誘いに不愉快そうに顔を歪めた。
「…どうせみんな死ぬ」と彼はネガティブに呟いた。
まぁ、真理だわな…否定はしない。
挨拶がわりの炎が俺を襲った。
「巻き込まれたくねえ奴は離れてろ!」と仲間に指示して剣を振るった。
冷気を帯びた剣と、熱を帯びた拳が切り結んで爆ぜた。《烈火》の火力は予想以上だ。
スーもこいつ相手に良く耐えた。後で褒めてやらにゃいかんな…
しかし、コイツはバケモンか?
「あんた、大丈夫かい?」とつい言葉をかけてしまった。
肉の焼けるような異臭が鼻につく。
明るい場所で見れば、体の至る所に火傷の痕がある。怨霊のような姿で拳を振るう《烈火》に同情した。
《祝福》は選べない。使い方も誰かが教えてくれるわけじゃない。
体に負担の大きいものから、小さいもの、簡単なもの、複雑なものと千差万別だ。
なぜそれが選ばれるのかも、なぜ俺たちじゃなきゃならんかったのかも、誰も答えを持ってない。
だから、神様に選ばれたなんて曖昧な答えで納得するしかないのだ…
「…死ね…さっさと死ね」
ブツブツと呪詛をつぶやく男は、俺の死を望んでいた。
悲しい奴だ…
誰かあんたを心配してくれる人は居なかったのかい?
その身を案じて、愛してくれる人は無かったのか?
自慢じゃないけど俺には居たんだぜ、昔だけどな…
『ご飯食べていきなさいよ』となんの前触れもなく少女は俺の手を握った。
まだ《祝福》を使いこなせてなかったし、ガキだった俺は恥ずかしくて指先が冷たくなった。
『何これ?冷たい!あなた大丈夫?!』と彼女は本気で心配してた。
こういう体質なんだと言うと、彼女はお湯を張った桶に俺の手を沈めて、毛布を用意してくれた。
『いい娘だろ』
フリッツは自慢げに俺に耳打ちした。
暖かくなった手を握って、彼女は『これでよし』と嬉しそうに笑った。空色の瞳に吸い込まれそうだった。
彼女の優しさが悴んでた心に熱を与えた。
あの日から俺は彼女に恋をしてたんだ。
エマが居たから、俺はこんな《祝福》を背負っても生きていられた。戦いに出ても、彼女に会いたくて生きて帰った。
忘れられるかよ!
凍えそうになる度にお前を想って、あの日握った手を思い出した。
あの日、お前が俺に生きる理由をくれたんだ。
まだ、俺はお前に恋してる…オッサンになったけどな…
「何笑ってる…」ふと昔を懐かしんだ俺に、《烈火》が不可解そうに訊ねた。
「さあ…なんでだろうな?」と彼に苦笑で答えた。
理由を話したところで、俺の女々しい思い出話だ。聞きたくなんてないだろう?
それに今は殺し合いの最中だ。
《烈火》には同情するが、俺はスーが用意してくれた勝ちを譲る気は無かった。
「《氷結》」
刃に乗せた冷気が空気を凍らせながら《烈火》に迫った。
炎の熱を奪いながら刃は《烈火》に肉薄した。
「おおぉぉ!」
雄叫びとも悲鳴ともつかない声が炎の中から溢れた。
凍えていた剣が、赤く色を変え、熱を帯びた。
「あっちぃな!」〝リカッソ〟が握れない。ツヴァイハンダーを手放した。
こうなりゃこれはお荷物だ、悪ぃな、相棒。
素手で《祝福》を使うしかないか…
死にたくないけど、死ぬ気でやらにゃ勝てそうにない。
凍るような冷気が全身を巡る。煙草の煙のような白い息が漏れた。
こっから先は人間を辞めた奴らの戦いだ…
意地を張るのは俺の悪い癖だ…
自嘲する笑みが口元に浮かんだ。
✩.*˚
「大丈夫か、スー!」
長い腕が僕を抱きしめた。
緊張してた身体から力が抜けた。もう立ってることすら億劫だ…
「…エルマー…ずぶ濡れだね」と少しだけ笑った。
あの川を渡ってきたのだろう。
自慢の戦闘服は水気と返り血に濡れて重そうだ。
「いいんだよ、そんなこと!
ワルターが、オーラフが死んだって…お前が勝手に敵陣に飛び込んで行ったって…聞いて…
…良かった…生きて…」
言葉に詰まりながら、痛いくらい抱き締める腕が震えていた。
何かに怯えるような彼の姿が意外だった。
重い腕を動かして彼の背に手を回した。
「僕は…生きてるよ」と彼に伝える。
「でも、もう動けないや」と彼の前で弱音を吐いた。
エルマーの顔を見てしまったから、力が抜けてしまった。
少し安心したようで、エルマーは僕を軽々と抱き上げて仲間に預けた。
「俺はまだ戻れないから、こいつらと戻れ」
「嫌だよ、君と一緒がいい」と我儘を言って彼を引き留めた。
「戻ったら一番に顔出てやるよ、約束だ」とエルマーは困ったように笑って手を握って離した。
「俺の弟だ、手ぇ出すなよ」と冗談交じりに言ってまた剣を握った。行ってしまう…
「兄貴、随分人が変わったよ」と僕を預かった男が口を開いた。彼は僕を背負ってエルマーと反対の方に歩き始めた。
「俺が言うのもなんだかよ、あの人昔はおっかなかったんだぜ。
笑いながら人を殺すような、悪魔みたいな人だったのによ…まるで別人みたいだ」
「エルマーは…いい人だよ」と彼に反論したが、彼は僕の反論を笑い飛ばした。
「だから、変わったんだって」と子供に物語でも聞かせるように言葉を続けた。
「悪魔が人間になるなんてな。聞いたことねぇよ。
でも、まぁ、あんたなら少しだけ納得するよ。
あんたなんか特別だ、そんな感じだもんな」
「君はエルマーの弟なの?」
「そういうことじゃねぇよ。
山賊やってた頃から弟分なんだよ」
「…山賊?」知らなかった。
「そう、山賊…聞いてなかったか?俺が言ったってバレたらヤバいやつか?」と彼は僕に「兄貴に言うなよ」と口止めした。
「君はエルマーと長いの?」
「まぁ、長いな」
「いいなぁ…」
「腐れ縁だよ」と彼の背中が笑った。
「俺ギートってんだ、よろしくな、スー」
ギートと名乗ったエルマーの弟は、僕を背負って対岸に通じる縄で出来た橋まで運んでくれた。
橋の前には負傷者が並んでいる。
もう亡くなってる人もいた…
名前も知らない彼らを悼んだ。
話す機会が無かっただけで、彼らはもしかしたら仲良くなれた人かもしれない…
やるせない思いが涙に変わった。
「悔しいよな、俺もだ」とギートが僕の頭を撫でた。
「俺も戻るよ、兄貴が待ってる」と彼は踵を返して走り去る。
「ギート!死ぬな!」
僕の声が届いたのか、彼は少しだけ振り向いて手を振った。もう戦えない僕は彼を見送ることしか出来なかった。
もう、誰もこの川原に並んで欲しくなかった。
✩.*˚
「アンドリュー、このまま後退を続けろ!あとはスペンサーのおっさんの指示に従え!」
現場の傭兵たちをアンドリューに預け、炎と氷の攻防に視線を向けた。
アルフィー!死ぬ気か?!あんなに青の炎使ったらあんただってタダじゃすまんだろう?
「エドガーの兄貴はどうするんで?」
「アルフィーのところに行く!」
「《氷鬼》と交戦中ですぜ!あんた死ぬ気ですかい?」
「うるせぇ!邪魔したら殺すぞ!さっさと言う通りにしやがれ!」
アルフィー!
全て捨てて青い炎に向かって駆け出した。
あんただけが俺を見てくれた、俺を認めて、必要としてくれた。
『あの子、母親の死体とずっと暮らしてたんですって…』
死を理解できない子供は、母親の肉が腐り落ちて骨になるのを毎日眺めていた。そのうち起きるって信じてた…
ヒソヒソと話す声だけが俺についてまわった。
誰も目を合わすことも、触れてくれることもなかった…
別に、貧民街で、親のいない子供なんて珍しくもなかったのだろう。
そうなりゃ野垂れ死ぬか、はたまた、悪党として生きるか…だいたい二つに一つだ。
『気狂いね』と罵る声が容赦なく俺をなじり、いつの間にか俺は名前を忘れて《気狂い》になった。
でも、俺よりヤバい奴が俺を拾った。
『《気狂い》でも名前があるだろ?』
アルフィーに出会って、母親を思い出した。
アルフィーは生きてるし、腐ってる訳でもないし、男だ。
それでも母親と同じ匂いがして、俺に向き合って、口を利いて、傍に置いてくれた。
あんたのことが好きなんだ!あんたの全部が好きなんだ!
俺に道を譲らなかったヤツらはみんな斬り捨てた。
「退けエェ!」狂気で頭がおかしくなってるのに、何故か剣の腕だけは妙に冴えていた。
アルフィーまであと少しのところで、俺の剣を止める奴が現れた。
「また会ったな」と男は笑って、俺の剣を止めた双剣を振るった。
「邪魔すんな!お前なんかに用はねぇんだ!退け!邪魔!邪魔だァ!」
「ワルターの邪魔はさせねえよ。
それにお前にゃ迷惑かけられっぱなしだからな、ここらでひとつシメてやる」
《嘲笑》の二つ名を持つ傭兵が行く手を遮った。
二つの刃が長い腕から繰り出される。避けるのが精一杯で、後ろに下がってしまった。
アルフィーとの距離がまた少し遠くなる。
「チィッ!」
こんな奴に構ってる場合じゃない。
「アルフィィィィ!!」
炎に向かって必死に叫んだ。届け、俺に気付け!
《嘲笑のエルマー》が驚いて少し身を引いた。
「…何を…?」
「アルフィー!俺だ!エドガーだよォ!」
青い炎が揺らめいた。
「あとはあんただけだ!俺と来い!」
必死に呼んで、前に出た。
目の前の《嘲笑》が、嘲るように俺の前に立って邪魔をする。
「逃がさねぇよ!お前も《烈火》もここで死んでもらう!」
しなる腕が剣撃を放ち、重い一撃に腕が下がった。
他の奴らとは明らかに違う!クソ強ぇ!
「俺も兄貴として負けられねぇんだ」と語る口元には《嘲笑》の二つ名には似合わない清々しい笑みがあった。
なんだよ、それ?あんたも俺と同じ、気狂いかと思ってたのに…
互いに引かず、剣が火花を散らして、刃が欠けるほどの応酬が続いた。
周りは敵だらけになっていた。
俺とアルフィーだけが残るのみだ。
それならそれでいい…あんたの相棒として死ねるなら、文句はない。
あんたを置いていくくらいなら、あんたと《二クセの船》に乗る。嫌な顔は容易に想像できるが、俺も一緒に連れてってくれ…
相変わらずアルフィーの青い炎は《氷鬼》の氷と一進一退の攻防を続けている。
あんたがそんなに苦戦するなんて信じられねえよ。
俺も苦戦するわけだわ…コイツら強ぇよ…
ちらりと視界に納めた炎が揺らめくのが見えた。
炎と氷がいきなり向きを変えて俺たちの方に乱入した。
「何だ!」
「チィッ!」
間に割って入るように乱入した炎と氷は人の姿をしていた。
「後退しろって…言った…」
焦げたボロボロの姿でふらつくアルフィーが立っていた。青い炎の残滓が燻って、目の前の男との間に境界を作っている。
「あっぶねぇな…エルマー、もうちょっと離れてやれよ…」
「おまっ!なんて無茶苦茶な…」
あっちはあっちで悲惨な様相だ。
《氷鬼》は半分氷漬けみたいな姿で、死人みたいに青い顔をしていた。吐く息は白く、周りの空気がキラキラと凍って輝きを含んでいた。
ふらつくアルフィーの身体を支えようと手を伸ばしたが、アルフィーは俺の手を拒んだ。
「火傷じゃすまんぞ」
アルフィーの腕から黒く焦げた皮膚がボロボロと剥がれ落ちた。
「行け…残れとは言ってない」
アルフィーはそう言ってまた目の前の男を睨んだ。
「煩いお前と|《二クセの船》に乗るなんて御免だ」とアルフィーは俺に背中を向けたまま言った。
逃げろとか、生きろとか、そんなに優しい言葉はあんたには似合わないもんな…
「…分かった」とアルフィーの背中に返事した。
乗船拒否されるなら、お前も船には乗せてやらねぇよ!俺は気狂いだ!
アルフィーの熱い身体を抱き寄せて抱えた。
案の定、熱を持ったアルフィーの身体に触れた瞬間から激痛が走った。
「馬鹿野郎!何する!」とアルフィーが吠えたが、もう遅せぇよ!大火傷は確定だ!
「逃げんぞ!相棒!」
川辺で戦ってて良かったじゃねえか?
アルフィーを抱いたまま川に飛び込んだ。
流石、渡河しにくい場所を選んだだけの事はある。
いきなり深くなる川底に、足を取られて流された。
腕を焼く、熱い身体を手放さないように強く抱き、流れと運に身を任せた。
✩.*˚
「ヴュスト様、傭兵部隊が対岸の陣地を制圧したそうです」と報告があった。
多少時間はかかったが、流石名うての傭兵団だ。
「スペンサーは陣を下げ、未だ交戦の構えとのこと。《顔》はまだ取り返せておりません」と伝令が伝えた。
「我が陣を焼いた、炎を操る《祝福持ち》はどうなってる?」
「傭兵隊長の《氷鬼》が追い詰めましたが、川に飛び込んで逃げられたと報告がありました」
「成程、退けたのなら良い。
ウィンザーの残党だけなら恐るるに足らぬ!スペンサーは倒せずとも、《顔》だけは必ず奪還せよ!
急ぎ橋を用意して対岸に馬を渡せ!騎兵で追撃する!」
「はっ!」
伝令が馬を返して走り去った。
工兵の部隊が、用意していた橋を架けるための材木を移動させ、川に橋を渡す用意を始めた。
水はけの悪い足元の草地は、馬の脚を鈍らせていた。
このままでは馬の蹄がふやけて脆くなる。
重装騎兵にとって厄介な場所から早く抜け出さねば、残った馬も長くは持たない。
歩兵も泥濘に嵌り、足を取られる者が出ていたし、何より行軍するだけで体力を奪われる。
地面からジワジワと染み出る水が、不快にも靴の中に流れ込んで士気は低下していた。
橋をかけ終えたとの報告に、頷いて馬に跨った。
「騎乗!これより前進を開始する!
卑怯なウィンザーの残党共を蹴散らせ!」
やっと発せられた前進の命令に、待っていたとばかりに兵士たちが鬨の声を上げ、行軍が開始される。
前進し、最前列が橋に足を踏み入れた時だった。
「敵襲!」の声が後方から上がった。
「何事だ!」
「後方より敵襲です!ウィンザーの騎獣隊が後方の重騎兵の部隊に急襲しました!交戦中!敵はおよそ百騎!損害不明です!」
「一体どこから…」
「伝令!」と叫ぶ声とともに新たな凶報がもたらされた。
「ウィンザーの主力部隊が反転して攻勢に転じた模様!前衛の傭兵部隊が押されています!」
「閣下!このままではすり潰されます!」
このままでは川を挟んで前衛と後衛が各個撃破される。
動きの鈍った重騎兵と、泥濘に足を取られた歩兵では、ウィンザーの騎獣隊に翻弄されるばかりだ。
重騎兵がその数を一気に減らした。
騎獣に怯えた馬がパニックを起こし、戦列が乱れる。
騎士らに反転を命じたが、その頃にはウィンザーの騎獣隊は駆け抜けて別の箇所から戦列を食い破った。
騎獣の機動力を駆使したウィンザー流の波状攻撃に騎士たちは苦戦を強いられた。
最初からこれを狙っていた?
スペンサーめ!小賢しい!
「渡河は中止!弓隊で牽制しつつ騎兵で迎え撃て!」
混乱が指示の伝達を遅らせた。
この間にも駆け抜けた騎獣隊が反転して、襲いかかってくる。
「ビィィ!」
騎獣に怯えた馬が悲鳴を上げ、馬首を返すのを嫌がった。一頭が足並みを乱すと、逃げ腰の馬に他の馬が従った。
騎手を捨てて逃げる馬が混乱に拍車をかけた。
「歩兵部隊を後ろに回せ!弓と槍衾で牽制しつつ騎兵を立て直せ!」
指示を出したが、騎馬が暴れて歩兵の行く手を阻んだ。蹴られて負傷者まで出る始末だ。
「何と無様なことか…」呻く声が漏れた。
精強を誇る重装騎兵隊が、狼に追われる羊の群れのように無様を晒している。
ヘルゲン子爵閣下はパウル公子様から軍を預かってからというもの、ウィンザーの残党との直接の戦闘を避け続けていた。
『我々の優位は変わらぬ。ウィンザーの挑発に応じる必要は無い。
スペンサーは怖いぞ。目を離すな。
あれは追ってはならぬが、見失うこともあってはならん。付かず離れず、根気よく付き合ってやらねばな』
『それでは戦況は膠着します。兵の不満も溜まり、士気が下がる一方ではありませんか?』
『罠を知ってて飛び込むのは勇敢ではなく無謀だ。あの男が用意した戦場で戦うことは私が許さん。
あの男はパウル公子様とも互角に渡り合う男だ。数の劣勢をものともせず、未だ戦いを続けていられるのは何故だと思う?
凡夫が優秀な敵に敬意を払うのは当然ではないかね?』
ヘルゲン子爵閣下はそう言って布陣した平野から動こうとしなかった。
今思えば正しい対処だったのだろう。
私は奴らの罠に嵌った愚者だ…
「ヴュスト様!」
一人、悲嘆に昏れる私に側近が声を上げた。
「こちら側に残っていた傭兵部隊から弓の援護が!ウィンザー勢の攻撃が緩みました!」
「指揮してるのは誰だ?」
《氷鬼》と、ほとんどの中隊長たちは川を渡ったはずだが…
「ゲルト・ヴィンクラー中隊長との事です」
あの隻眼の白髪の老人か?
驚きを隠せずに、鬨の声が上がった方に視線を向けた。
顔を上げたその目に映ったのは、傭兵部隊が騎獣隊に旗を掲げて突撃する姿だった。
✩.*˚
「親父さん、変なの出てきたぜ」と本陣の動きに対応できるよう、見張っていたヤーコプが俺に報告した。
猟師とだけあって彼は目が良い。
「マジか?騎士さんらボコボコにされてるじゃん」
ヤーコプの双子の弟のヨハンが本陣を眺めながら呑気に笑った。
南部侯の重騎兵を蹴散らすように駆け抜けたのは、大きな獣に乗った見たことの無い兵種だ。
「ウィンザーの騎獣隊か?」
レーツェルという竜の一種に乗った騎兵だ。
長い鉤爪の付いた鳥のような足と、長い口吻に並んだ牙は、明らかに馬とは異なった姿だ。
ぬかるんだ地面を蹴って走る姿は、鈍重な重騎兵を圧倒していた。
「援護しやすか?」とカミルが弓の用意を始めた。
ヤーコプとヨハンも背丈ほどあるロングボウを出して矢を地面に突き立てて並べた。
「何時でもやれますぜ!親父さん!」
「ふん!さっさと始めろ!」
腕に自信のある射手が三人揃って弓弦を引いて、獣の群れに矢を放つ。
彼らに習って、他の弓を持った傭兵たちも矢を放った。
矢を送り出す弓弦が、楽器のように鋭い音を奏でた。
強弓から放たれた矢が、獣の群れに吸い込まれて、矢の数だけ騎手を襲った。
矢に警戒した獣の群れに、続けて矢が放たれる。矢を受けた獣がもんどりうって泥濘に転がった。
獣の群れは、魚群のように不規則な軌道を描きながら、再び向きを変え、混乱する重装騎兵の隊列に突っ込んだ。
「クソッ!」ヨハンが悪態を吐いて弓を下ろした。
これでは味方に当たる。
「ゲオルグ!《雷神の拳》の旗を掲げろ!」
「おっしゃァ!」歓喜の声を上げて旗手が旗を掲げた。旗印が高く風になびいて旗に刻まれた意匠が顕になる。
「待たせたなお前ら!突撃だ!」
傭兵部隊がの中でも最も名誉のある役を拝命した男は、雄叫びを上げながら旗を手に先陣を切った。
泥濘の中、旗を目印に、命知らずな傭兵たちが泥を跳ね上げてウィンザーの騎獣隊に突撃を開始した。
随分ガキが増えたもんだ…
『女なんてなぁ、信用ならねぇんだよ…』
昔、ワルターの親父相手に、酔った勢いでそんなことを口走った。
付き合いの長いグスタフは苦笑いしながら俺に『呑みすぎだ』と言ったが、酔っ払いの愚痴に付き合ってくれた。
戦に出てる間に、嫁は他の男と家を出て行ってしまった。
おまけに、実の姉貴は十にも満たないヘンリックを置いてどこかに蒸発してしまっていた。
『ヘンリックはどうすんだ?』とグスタフは甥っ子の行き先を訊ねた。俺以外の行先なんて孤児院くらいのもんだ。
『引き取るさ、あいつだって俺と同じ被害者だ』
そう言って酒を煽った。
『女は信用ならねぇが、ガキは嫌いじゃねぇよ。
むしろ俺は男の子が欲しかったからよ、ちょうどいい』
『そうなのか?』とグスタフは意外そうな顔をした。
『そうさ。俺の剣を譲るんだ。
グスタフ、ギュンターも大事かもしれんがな、ワルターにだって親父が必要なんじゃないか?』と酔った勢いで余計な世話を焼いた。
グスタフは元恋人と息子を捨てちゃいなかった。俺を間に挟んで、隠れて世話を焼いていた。
それでも、立場上、ワルターを抱くことも、愛することも、息子と呼ぶことさえできずにいた。
本当は愛した女と一緒になりたかったはずだ。
それでもあいつにその自由はなかった…
『俺に親父なんて名乗る資格は無い。
お前が親父になってやってくれ』と都合のいいことを言ってグスタフは空になったグラスに酒を注いだ。
『自分のじゃないガキばかり押し付けられる…』と愚痴を零すと、グスタフは『男の子が増えるぞ』と笑った。
あれからもう三十年以上経つのか…
自分のじゃないガキばかりが増えた…
先に逝ったガキもいる。
それでも、グスタフと、この碌でもないガキ共の居場所を守り続けたつもりだ。
どいつもこいつも、俺よりでかくなりやがって…
ガキ共を沢山背負った背は、少し縮んでしまった気がする。
そろそろ俺も潮時だ。
後は俺の自慢のガキ共が継いでくれるはずだ。
糞ガキ共、こんなところでくたばったりしねぇだろ?
両手剣やハルバードを手にした前衛が獣の群れとぶつかった。
徒歩で戦う傭兵は、ハルバードや長鉈を伸ばして騎獣の背から騎兵を引き剥がしにかかる。
騎獣が暴れて、押し寄せる傭兵を振り払った。
暴れる獣の群れに思いのほか苦戦を強いられた。
止まらずに駆け抜ける群れを足止めできず、踏み抜かれた傭兵が血を流しながら泥に沈んだ。
鋭い爪が肉を抉り、牙が並んだ顎が大きく開いて傭兵を牽制した。
あの獣が咥えて引きずってるのは俺の息子だ!
「犬っころが!」と獣に罵声を浴びせて前に出た。
「親父さん!下がっててくれ!」
静止するヤーコプの声を無視して、突進して来る獣の一頭を素手で掴んで拳を構えた。
「《毒手》」
《祝福》とはとても呼べない、《呪い》の一撃を受けて獣が悲鳴をあげて、狂ったように跳ねると騎手を放り出した。
「ギャオ!バオォ!」血反吐を吐いて転がった獣が動かなくなるまでそう時間はかからなかった。
「次に俺の《黒腕》を食らうのは誰だ?!」
肘の辺りまで黒く染った毒の腕がよく見えるように袖を捲った。
「おっかねぇ」とガキ共が笑った。
黒い腕からは毒が染み出し、滴り落ちた黒い雫は土に染み込み草を枯らせた。
直接触れさえすれば、どんな相手だろうと猛毒で死に至る。問題は直接触れねば効果がない事だ。
《黒腕のゲルト》なんて何のひねりも面白みもない二つ名より、《親父さん》と呼ばれる方が好きだった。
そして呼んでくれるガキ共は俺の宝だ…
崩れた戦列に檄を飛ばした。
「糞ガキ共!まだ終わっちゃいねぇぞ!立て!」
「おお!」ガキ共が元気な声で返事する。
この程度で弱音を吐くような奴はここには居ない。
再び闘志を燃やして立ち上がった息子らの熱に、獣の群れが怯んだ。
「騎獣の足を止めるな!歩兵に囲まれるぞ!」
相手の指揮官が兵を叱咤し、騎獣に鞭を入れてまた群れが移動を始めた。
「チッ!」やりにくい相手だ。
旋回する軌道を描きながら、騎獣隊は微妙な距離を保って攻撃を再開した。
「投擲!」の合図と共に、駆け抜ける騎獣隊から無数の投槍が放たれた。
槍が弧を描きながら降り注ぎ、立て直しつつあった本隊の騎兵や歩兵を無差別に襲った。避けきれなかった死傷者が串刺しになって地面に倒れ込んだ。
駆け抜けた騎獣隊は旋回すると、また得物を手に舞い戻ってくる。
「舐めやがって!」
双子が矢を放ったが、止めれるのはせいぜい数騎の脚のみだ。
ウィンザー勢が投槍の射程に到達すると、また離れた場所から投槍の雨が放たれた。
流れてきた投槍が、すぐ目の前に落ちて地面に突き刺さった。
「親父さん!」
すぐ側に付いていたカミルが声を上げた。
「大丈夫だ」と応えて、投槍を地面から引き抜き、毒を含ませた槍を騎獣隊目掛けて投げたが、騎獣の群れから離脱者はなかった。
騎獣隊は先頭の騎士に続いて、また旋回して進路を変えた。
「ヤーコプ!ヨハン!先導の騎手に当てられるか?」
俺の問いに弓弦を引き絞ったままヨハンが答えた。
「ずっと追っかけてるけど、動きが騎馬と違うから、なかなか当たらねぇよ」
「ヨハン!親父さんへの返事がなってねぇぞ!」
ヨハンの返事に、すかさずヤーコプが反応した。
「俺たちの親父さんへの答えは『承知』のみ!四の五の言うな!」
鋭い音と共に弾かれたヤーコプの矢が風を切って放たれる。
しかし、当たったのはすぐ後ろを走る騎手だ。
迫る騎獣隊に矢が次々放たれるが、どの矢も先頭の騎士を避けて左右に逸れる。
騎獣隊から「構え!」と声を張る隊長の号令が聞こえた。
「畜生!もう少しなのに!」
もしかすると隊長の防具には、矢避けの魔法が付与されているのかもしれない。
もはや歩兵では打つ手がない。
やはり騎馬で無ければ、あの獣の群れに接近することも不可能だ。
「親父さん、槍が来る!離れてくれ!」
カミルが俺を気遣って下がるように勧めた。
他の奴らも俺の前に出て盾になろうとする。
馬鹿野郎、ガキを置いて自分だけ助かろうとする奴が、親父なんて名乗れねぇよ…
それでも俺の《祝福》では、あの飛んでくる槍を止めることは不可能だ。
打つ手無しかと思われた時に、いきなり騎獣隊が進路を変えた。
「…何だ?」
不可解な動きに首を傾げていると、遠くから別の旗印を掲げた騎兵隊が姿を現した。
「新手だ!」と声が上がり、その声は「ヴェルフェル侯爵とヘルゲン子爵の旗だ!」と朗報に変わった。
新手の軽装騎兵の出現で、騎獣隊が驚くほどあっさりと引いていく。
騎獣隊を追わず、軽装の騎兵たちは本陣と合流した。
「大ヴィンクラー殿ではありませんか?」と先頭を行く騎手が馬を寄せた。
数日前に知り合ったばかりだったが、この人の良い男を間違えるはずはなかった。
「侯爵閣下よりお預かりした軽装騎兵百騎、確かにお届け致しました」
「随分早くないか?」と言う俺にシュミットの表情が暗くなる。
「侯爵閣下はヘルゲン子爵閣下の訃報に心を痛めておいでです。
私も…主命とはいえ、主の側を離れたことを後悔しております」
シュミットは主の訃報に無念を滲ませた。
「後続も本日中に到着予定ですが、ここは陣を張るには些か問題が多いようですな。
侯爵閣下が到着するまでに、元の位置まで陣を下げて頂きたい」
「川の向こう側にうちの奴らが残ってる」
「川を挟んで戦うなど、愚策ではありませんか?一体何事です?」
「対岸にヘルゲン子爵の顔が晒されている」と教えるとシュミットの顔色が変わった。
簡単に状況を説明してやると、シュミットは「承知した」と短く答えて、軽装騎兵に対岸に渡るように指示した。
「何するつもりだ?」
「もちろん、傭兵部隊の撤退の援護に当たります」と当たり前のように答えた。
冷静を装う一方で、隠しようのない怒りの炎が彼から立ち上っていた。
「私は私のケジメをつけさせて頂く」と宣言し、数騎引き連れて木でできた橋に足を向けた。
「あの男を死なすな」
対岸に向かうシュミットの背を指して、カミルに後を追うように命令した。
カミルは「承知」と答えて弓と剣を手にシュミットの背を追った。
「ヤーコプ、ヨハン、親父さんを頼んだぜ」
「おう!」「死ぬなよ、カミル!」
双子と一緒にカミルを見送る。
「…さて」周りを見てため息が漏れた。
「とりあえず負傷者の手当を急げ。対岸に残された奴らも回収しろ」と指示を出した。
《烈火》と派手にやり合ってたワルターは無事だろうか?
あのチビ助はどうなった?
ガキ共は?
「全く…」残される親父の気持ちを考えろ、と腹の中で忌々しげに呟くと、必要なくなった《黒腕》を袖の下に隠した。
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