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過去に囚われる者
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らしくねぇ…
マジそれな…
部隊から少し離れ、夜風に当たりながら散歩して、頭を冷やした。
まだ初夏の夜風は緑の匂いが強かった。
この空気じゃ頭を冷やすにもぬるいだろう。
森と呼ぶには木の少ない木々の隙間から、梟の低く鳴く声が漏れた。その声が笑ってるようでむかっ腹が立った。
拾った石を投げ込むと、驚いた鳥が飛び立った。
ざまぁみろ…
俺らしく悪態ついてまた歩き始める。
らしくないのはお前も同じじゃねぇか?
あんな約束するなんて、スーが可哀想だ。
俺が口を出すことじゃねぇけどよ、人を殺すのは、獣を狩るのとは違う。スーはまだ何も分かっちゃいねぇ…
俺だってさすがに初めては心が揺れた。
でもだんだん普通になった。
もう今は息をしたり、飯を食うのとさして変わらない。なんの迷いもない。
向こうだって俺を殺す気で来てる。
俺だってまだこのつまらない生を諦める気は無い。
それでも、この生き方が人間として間違ってることは理解している。
矛盾を抱えたまま俺たちは生きている…
林の近くに川が流れてた。
平たい小石を拾って、回転をかけて水面に投げた。
水を跳ねながら向こう岸まで渡ると、石ころは砂利の上で跳ねて、仲間のところに戻った。
「なんだい?それ?」と後ろから声がした。
驚いて声の方に振り返ると、人懐っこい顔をしたガキがいた。
「バッ、バカ!一人でなにフラフラしてんだ!」
スーの姿しかない事に驚いて、咄嗟にそんな言葉が出た。
「だって、君の姿がなかったから」とスーは当たり前のように答えた。
軽く跳ねるような足取りで、俺の所に歩いてくる。
動く度に艶のある黒い髪に月明かりに跳ねた。
女より綺麗な顔で懐っこく笑う。
お前みたいなのが一人で歩いてたら危ないだろう?
「さっきの何してたの?」とスーは俺に訊ねた。
「子供の遊びだよ」と答えてまた適当な石を拾って投げた。
水面を駆けて行く石を見て、スーは歓声を上げた。
「どうやって俺を見つけたんだ?」と訊ねると、「精霊が教えてくれた」と答えた。便利だな。
スーも小石を拾って、俺の真似をして投げた。
でもそれじゃ飛ばねぇよ。丸い石はトプンッと音を立てて水底に沈んだ。
「おかしいな」と言いながらスーは首を傾げてまた石を拾った。今度は角張った違う形をしてたが、それも飛ばないやつだ。
「違う違う、平らなやつでするんだよ」と教えてやった。
「お前ほんとになんも知らねぇのな」と苦笑いが漏れた。身体をかがめて、砂利の中から平らな石を探して渡した。
そして、随分昔に同じやり取りをしたのを思い出す。
あの日も、同じセリフを口にして、自分より小さな手のひらに、平らな石を選んで乗せた。
そして、渡した石は無駄になって水面に沈んだ。
「…どうしたの?」
急に無口になった俺の顔を覗き込んで、スーは不思議そうに首を傾げた。
「別に…」と答えるのが精一杯で、スーから顔を逸らしてしまった。
「…エルマー、僕何かした?」とスーが困ったような、戸惑う声で俺に訊ねた。
「違う」
「じゃあ、何でそんな顔してるの?」
そう言われて、顔に触れた。頬が濡れていた。
今、自分がどんな顔してるかも分からず、感情が迷子になった。
悲しいのか、苦しいのか?それとも、怒っているのだろうか?嬉しいのだろうか?
「何かあったの?」と訊ねるスーの手が俺に触れた。
勝手に、似てもいない弟の姿を重ねて、気がつけばスーを抱き寄せていた。
「…エルマー?」
「何で傭兵なんか選んだんだ…」
苦い思いを吐き出した。らしくない…
「…エルマー?」腕の中でスーが身じろいだ。それを逃がすまいと強く抱いた。
「俺たちみたいになってどうすんだ?
こんな…胸張って生きられない、そんな生き方しなくていいだろう!」
吐き出すように叫んだ俺の腕の中で、小さな身体が震えた。
嫌われようが構わない。どうせ俺は嫌われ者だ、汚ぇ人間だ…
「帰れよ、スー…
お前はまだ、キレイなままだ…」
網にかかった小さな魚を逃がすよ感覚に似ていた。
まだお前には早ぇよ…帰ってくれ…
「エルマー、僕が嫌い?」とスーは簡潔に訊いた。
違う、と首を振った。
そういう事じゃない。追い出したいが、それとは違う。
言葉が出てこない。
俺は、他人に生き方を教える事ができるような人間じゃない…
でも、こいつの事は守ってやりたかった。
嫌いじゃないと知ってスーは「良かった」と笑った。
全く、調子狂うな…
「僕にとって、君たちは初めての仲間なんだ」
「エルフの仲間と暮らしてたんだろ?」と訊ねると、スーは首を横に振った。
「僕は父さんと二人だけで結界の中に住んでいた。
父さんは特別な一族の最後の一人らしい。
僕は半分人間だから、結界の出入りが許されていたけど、父さんは出られない。
その代わり、父さんは神様から選ばれてるから、役目が終わるまで寿命では死なないんだ。
結界を出て、役目から逃げ出したら死んでしまうと言っていた」
「なんだそりゃ?」呪いじゃないか?
「僕は父さんの隣で、僕だけ歳をとって死んでしまうのは耐えられなかった。
死ぬなら、外の世界を見て、世界と関わって、人として死にたい」
スーの瞳はキラキラしていた。夢を語る子供みたいな目だ。
「僕はもうあの森には帰らないよ」と宣言して、スーは少し寂しく笑った。
「帰れなんて言わないでよ。
僕がワルターに声をかけたのは偶然だけど、良かったと思ってる。
もしかしたら、僕たちは運命で出会ったのかもね」
そんないいもんじゃねぇよ、と言いかけて口を噤んだ。こいつの顔を見てたら言えなかった。
スーは腰に提げた矢筒から、白い矢を一本取り出して俺に見せた。
「みんなが応援してくれた。
僕はこの矢でワルターや君たちの役に立つよ」
誇らしげに宣言すると、スーはまた調子狂う笑顔を見せた。
何言っても、この笑顔ではぐらかされそうだ。
ワルターもそうだったのかもしれない。
「…きつい仕事だぜ」
「分かってるよ。だから頑張ってる」
スーは小さな身体で精一杯強がって見せていた。
その姿がガキっぽくって笑いを誘った。
頭を撫でて、今度は優しく抱き寄せた。
帰る場所を捨てたもの同士、同じ止まり木の仲間だ。
「無理すんなよ、死んだら終いだ…
辛かったら…ワルターにも言えないくらい、辛くなったら俺を頼れよ?
あいつが何言おうが、俺がお前の逃げ道になってやる」
「逃げたりしないよ」
「最初はみんなそう言うんだ」と苦笑いした。
無理に追い払っても、一度餌を貰った懐っこい犬みたいに、ずっと着いてきそうだ。
どうにも放っておけなかった。
「これやるよ、お守りみたいなもんだ」と、弟の形見をスーに譲った。夜光貝の殻が月の光を帯びて淡く輝いた。
「良いの?」と言ったスーに、「貰っときな」と笑って乱暴に頭を撫でた。
「ありがとう」の言葉に弟の影を見た。
この貝殻をやるのは二回目だ。
今度こそ、お前の良い兄ちゃんになってやるよ。
何だろうと守ってやる。
派手な上着を脱いで、スーの肩にかけた。
夜が更けて空気が少し冷たくなっていた。
「戻るぞ、明日も早いんだ。
馬車の中は揺れて寝た気がしないしな」
「うん」と子供みたいに頷いたスーの背を押して、元来た道を歩いた。
木々の隙間から、俺を笑う梟の声が漏れたが、石を投げるのはやめておいた。
✩.*˚
「パウル様、ドライファッハから呼び寄せた傭兵団が到着致しました」と報告を聞いた。
「《雷神の拳》か?」
「左様にございます」と報告した騎士の返事に、気持ちが高ぶった。
久しぶりの朗報だ。
しばらく損害報告ばかりで、伝令の顔を見るのも飽き飽きしているところだった。
「隊長は誰だ?」と高ぶる気持ちを抑えて訊ねた。
あの団長が、手紙通りの人物を寄越したか気になった。
四年前、引き止めきれなかった男だ。
「ワルター・クルーガーです。
副長がヘンリック・ヴィンクラー、ゲルト・ヴィンクラーと報告を受けております」
「クルーガー!やっと来たか!」
僥倖だ!再会を待ち望んだ男の名前に、喜びを隠しきれない。
「テレーゼを呼べ、クルーガーに会いに行く」
今度こそ、色良い返事を貰うつもりでいた。
それほどまでに、私はあの男を高く買っていた。
私が出向くと聞いた近侍のバルテルが、慌てて引き止めた。
「お待ちください!パウル様自ら出向くなど…」
「私が呼び寄せたのだ。
彼らの労を労って何が悪い?」
「ですが…」
「バルテル、彼は正当な評価を受けていない。
あの男をたかだか傭兵隊長なんかにしておくのは惜しい。
彼の《祝福》は《英雄》に相応しいものだ。他に渡すなんて考えられない」
私の喜びと反比例するように、バルテルは眉を顰めて険しい顔をした。この真面目な男には理解できないようだ。
しばらくして、娘のテレーゼが侍女を連れて現れた。
「お待たせして申し訳ございません」と言って、テレーゼは控えめな意匠のドレスを摘んでお辞儀した。
愛らしい姿に破顔する。
十人目の妾の子だ。
まだ13歳の娘は、淡い金色の髪に、薄い茶色の瞳の美少女だ。母親の身分が低いから、まだ許嫁も決まっていなかった。
《英雄》に与えるには丁度いい娘だ。手放さなくて良かったと思う。
「お前に紹介する相手がいる」と、娘を連れて馬車に乗った。
「私のために働く、将来を嘱望された優秀な男だ」とだけ伝えた。
どちらにせよ娘に選ぶ権利はない。
本当なら、もう一人の別の娘を与えるつもりだったが、四年前に『約束した相手がいる』と頑なに断られた。
その時は引き下がり、娘は別に嫁がせたが、団長の話ではクルーガーは未だに独り身だという。
事情は知らないが、私にとってはこれ程都合のいい事実はない。彼を引き抜くチャンスだ。
不安げに窓の外に視線を向けるテレーゼも、《英雄》に嫁ぐなら文句はないだろう。
馬車が止まり、御者が目的地に着いたと告げた。
「おいで、テレーゼ」と彼女の手を取って馬車を降りた。
私の手を取った、小さな細い指は不安で震えていた。
✩.*˚
聞いてねぇぞ!
そう出かけた言葉を何とか飲み込んだ。
だからこの男は苦手なんだ…
どうにか体裁を保って、彼の前で嫌な顔をするのを堪えた。
相手は次期侯爵様だ。粗相があっては親父の雷が落ちる。
娘だろうか?
彼は、スーより幼い見た目の美少女を連れていた。
こんなところに似つかわしくないが、何か訳ありで連れているのだろう。彼女の存在は無視した。
頭を下げて挨拶した俺に、次期ヴェルフェル侯爵は気さくな様子で、「久しいな、クルーガー」と笑った。
「卿の到着を待っていた。
ドライファッハから長旅ご苦労。
此度も私のために存分に働いて欲しい」と、俺に労いの言葉をかけて、右手を差し出した。
上品な印象の男だが、ヴェルフェル侯嫡男とだけあって武勇の優れた武人だ。
年齢は俺より幾つかの年上だったはずだ。
握った手のひらは、貴族にしては硬く力強かった。
「四年前、卿がドライファッハに帰ってしまった時は残念だった」
「申し訳ありません。仕事が終われば、我々は荒くれ揃いの厄介者ですので」
「まあ、いい。こうして再会できたことを喜ぶべきだな。
今回も卿の働きに期待している。
十分な褒美も用意している」
「俺たちは給料分の仕事をするだけです。
金で揉めたくないんでね、そこんところお互い約束致しましょうや」
結局、傭兵が信じてるのは金だけだ。
命かけてタダ働きなんて、名誉という霞を食うような騎士とは違う。
金さえ貰えれば文句はない。俺も部下たちもそれだけだ。
報酬を確約させるのも俺の仕事だ。
パウル様は俺の提案を快諾した。
「もちろんだ。
私は、命を懸けて、最前線で勇敢に戦う者への敬意を忘れはしないよ」
そう言ってパウル様は爽やかに笑った。
「また後ほど、軍議に顔を出して欲しい。
恥ずかしい話だが、元ウィンザー公国の遊撃隊に苦戦を強いられている。
遊撃戦に詳しい者が居れば、その者の意見も入れよう。身分は問わない」
なるほど、随分困ってる様子だ。
「あと僅かで組織的な抵抗を封じることができる。
抵抗を続けているのは、元ウィンザー大公の甥のスペンサー男爵だ。
なかなか優秀な指揮官で、オークランドとも通じている。侮れない相手だ」
その名前は四年前にも聞いた気がする。
確かあの時は騎士団長だったはずだ。
臣従を誓う相手がいなくなっても戦うなど、酔狂な奴だ…
俺たちには理解に苦しむ。
「また後ほど声をかける」と、パウル様はこの話を打ち切って、新しい話題を振った。
「ところで、聞いたところによると、卿はまだ独り身らしいな?」
親父が話したのか?苦い記憶が蘇る。
「まぁ、少しばかり事情がありまして…」と言葉を濁した。
「事実か?
誓った相手がいるからと、私の娘を振ったくせに酷いじゃないか?」
あの時は本当にそうだったんだから、仕方ないだろう?と思ったが、相手が相手で、事情が事情なだけに詳しくは語らなかった。
身内の恥を晒して、女ひとり守れない自分の汚点を晒す気にはならなかった。
パウル様は釈然としない様子で、「まぁ、いいだろう」と俺の無礼を許した。
そして振り返ると、少女を呼んだ。
「私の14人目の娘のテレーゼだ」と娘を紹介した。
一体何人子供がいるんだ?と思ったが口には出さなかった。
相手は侯爵を約束された人物だ。妾だって取り放題だし、言い方は悪いが、彼らにとって子供は政治の道具だ。
特に娘は外戚関係を保つために必要不可欠だ。
「夫になる者の職場を見せようと思ってな」とパウル様が説明した。
どこぞの騎士にでも下賜するのだろう。
まだ幼い少女に同情した。
「テレーゼ、彼はお前の旦那様になる男だ。ご挨拶しなさい」
そう言って、パウル様は娘の背を押して、俺の前に立たせた。
言葉を飲み込むのに一瞬間が空いた。
は?今なんて?
耳を疑ったのは目の前の少女も同じだった。
父の顔を見上げて俺と見比べた。
意味を理解して、大きな薄い茶色の瞳が潤んだ。
「…テ…テレーゼ・フォン・ロンメルと申します」
震える声で小さく呟くと、彼女は泣きそうな顔でお辞儀した。スカートを持つ手が震えている。
そりゃそうだろうよ…俺もう40だぞ…
親子の方がしっくりするだろうよ…
「ちょ…ちょっとお待ちを…
いくらなんでもそりゃ無いでしょう?」
「なに、心配するな。13だが、もう月のものも来ている。立派な女だ」
13?
年齢を聞いて目眩がした…
ガキじゃねぇか!これ以上子守りはゴメンだぞ!
テレーゼ嬢は、気丈にも泣き出すことだけは堪えているが、こんな小汚いおっさんに嫁がされると知って、ショックを隠しきれないようだ。
侍女に支えられた少女は今にもぶっ倒れそうだが、父親は涼しい顔をしている。
「四年前は断られたが、今度は断る理由も無いはずだ。
今度こそ、南部に定住してもらおう」と満足気だ。
鬼か?
正妻の子でないにしても、この仕打ちはないだろう?
しかし、質の悪いことに、俺にもあの少女にも拒否権がないのが事実だ…
悲惨…その一言に尽きる…
「今日は顔を見せに来ただけだ。
父親の私が言うと、親の贔屓目だと言われそうだが、なかなかの器量よしだ。気に入ったか?」
「はは…」愛想笑いしか出来ないが、それとは対照的に嫌な汗が出る。
パウル様はご機嫌な様子で笑いながら俺の肩を叩いた。
俺の反応を肯定的に捉えたようだ。
満足した様子で娘を連れて帰って行った。
「なんとまあ…あれが俺らの《姐さん》になんのか?」
「悲惨…」
俺の側で、最初から最後まで話を聞いていた、フリッツとヨナタンが正直な感想を述べた。
「俺のセリフだわ」とボヤいたがどうにもならない。
「まぁ…気丈なお嬢様だ」とフリッツはテレーゼ嬢を褒めた。
「泣かなかったしな」とヨナタンが頷く。
ヨナタンは心底どうでも良いと言った様子で、「俺は忙しい」と呟いて立ち去った。
残されたフリッツと二人、煙草を咥えた。
先に口を開いたのはフリッツの方だ。
「で?どうすんだ?ほんとに嫁を貰うのか?」
「馬鹿言え!ガキに毛が生えた程度だろ!」
「でも断れないだろ?」
「親父に手紙を出す」
親父に頼るのは気が乗らないが、背に腹はかえられない。
忌々しく煙草の煙を吸い込んだ。
この様子ではビッテンフェルトを継がざるを得ない。
それとも、もういっそ、全く知らない土地に逃げてやろうか?
煙草の先に点った火が、チリチリと音を立てて灰になって落ちた。
「だからあの男は苦手なんだ」と苦い言葉を吐き出した。貴族なんて合わねぇんだよ…
燃え尽きた煙草を捨てて、怒りをぶつけるように踏みにじった。
そんな俺の様子を見て、フリッツが苦笑いした。
「もう、そろそろ、忘れても良いだろう?」と彼は言った。
何とは言わないが、それがまた悲しかった。
「忘れられるかよ」と吐き捨てて、フリッツを睨んだ。
兄貴なら、嘘でも「忘れるな」って言えよ…
エマを、未練がましく引きずってる俺の方が女々しいじゃねぇか…
フリッツはそんな俺を見て、肩をすくめるとハルバードを手に立ち去った。
俺は何も言わず、結ばれなかった恋人の兄貴を見送った。
✩.*˚
なかなか面白い見世物だったがな…
そう思いながら、手に馴染んだハルバードを担いで、仲間の様子を見て回った。
これから、この前線基地である、旧ウィンザー大公の居城だったユニコーン城を後にして前線に向かう。
俺のような凡夫が、こんな場所で偉そうにしているのはワルターのおかげだ。
子供の頃は、力自慢の悪ガキで、いつも妹を困らせた。
俺をことある事に殴る親父は傭兵だった。
その親父もいつの間にか死じまった。それからしばらくして、母親も蒸発した。
親父の残したハルバードを手に、傭兵団の門を叩いたのは15の頃だ。
使い方もろくに知らなかったが、俺の体躯を気に入った団長が、俺を仲間に迎えてくれた。
ハルバードもツヴァイハンダーも最前列で、敵の隊列を切り崩す役目の得物だ。
非常に死亡率の高い場所で戦うことになる、損な役回りだ。
ツヴァイハンダーを使うワルターとは、いつも顔を合わせる顔馴染みになった。
同輩で、同じ隊で競い合って戦いに身を投じた。
その頃、俺たちの直属の上司だったのがゲルトで、甥のヘンリックも後から同じ隊に加わった。
20歳になる頃には、俺たちは、隊の中では少しばかりだけ名の知れる存在になっていた。
ゲルトが他所に拠点を構えると、ヘンリックとワルターも彼について行った。
正確には、ゲルトがワルターの境遇を気に病んで、連れて行ったのだが、団長は引き止めなかった。
彼らが去った後も、俺は団長の元でハルバードを振るい続けた。
俺もヘンリックやワルターと行きたかったが、団長には世話になっていたし、妹を置いていくのは気が引けた。
俺がいなくなったら、妹は一人になる。
せめて伴侶ができてから、ワルターの後を追っても遅くはないと思った。
そうこうしてるうちに、幾つかの年月が俺の上を通り過ぎて行った頃、ワルターは、突然ドライファッハに呼び戻された。
『久しぶりだな』と帰ってきたワルターは、 数年のうちに随分様変わりしていた。
俺より頼りない印象だった彼は、無駄のない、引き締まった筋肉質な身体を手に入れ、精悍な顔立ちの凛々しい隊長になっていた。
彼は異母弟の邪魔が入らない場所で、強さと知識を手に入れて、元より持っていた《祝福》を使いこなせるようになって帰ってきたのだ。
団長も、ワルターの存在を無視できなくなった。
『俺の息子』と呼ぶようになったのもこの頃だ。
ゲルト直伝のツヴァイハンダーの剣術と格闘術を納め、《祝福》で氷を意のままに操るワルターは、《雷神の拳》の中で確固たる地位を得た。
あいつは自分の力で、自分の存在を親父に認めさせた。すげぇ奴だ…素直に尊敬した。
俺はワルターの部下になった。
あいつのために働けることを、友として、部下として誇りに思った。
そして、あいつは俺の兄弟になるはずだった…
エマもワルターも、俺も、幸せになるはずだったのに…
ワルターに嫉妬したギュンターが全部ぶち壊した。
証拠は何一つない。
ただ、酔った勢いで奴が話した事が真実なら、黒幕はギュンターだ。
新居は墓に、結婚式は葬式に代わった。
全てを知った団長が、俺たちの代わりにギュンターを罰したが、火に油を注ぐようなものだ。
あいつのワルターへの憎しみは強くなる一方だ。
『俺のせいでお前ら兄妹巻き込んだ』と謝ったあいつの悲しい背中を忘れない。
俺の代わりに建てた、白い立派な墓。
その墓に備えた花は、花嫁に持たせるような綺麗な花束だった。
お前は十分してくれたじゃねぇか?
それを見て、こいつがもし、他の女と一緒になっても、責めないと心に誓った。
エマの代わりに幸せにさえしてくれれば、それだけで満足だ。
あのお嬢様じゃ、ちょっと釣り合いが悪いが、さすがの気狂いも、次期南部侯の娘にまで手を出すことは無いだろう。
ワルターはいい男だ。
それは俺が誰よりもよく知っている。
娘ほど年の離れた相手でも、ぞんざいに扱ったりはしないはずだ。
ふと見上げた空に、初夏を告げる燕の姿が見えた。
空を不規則に踊るように飛ぶ渡り鳥は、エマのお気に入りだった。
必ず同じ時期に、同じ場所に、同じ伴侶と訪れる鳥は約束の意味を持つらしい。
『住むなら、毎年燕の来る家がいいわ』とワルターに言っていた。
あいつもそれを覚えているのだろうか?
俺の頭の上を泳ぐ鳥を見送って、愛着のあるハルバードを担ぎ直すと、また歩き出した。
また、俺たちの、ろくでもない血腥い日々が始まる。
マジそれな…
部隊から少し離れ、夜風に当たりながら散歩して、頭を冷やした。
まだ初夏の夜風は緑の匂いが強かった。
この空気じゃ頭を冷やすにもぬるいだろう。
森と呼ぶには木の少ない木々の隙間から、梟の低く鳴く声が漏れた。その声が笑ってるようでむかっ腹が立った。
拾った石を投げ込むと、驚いた鳥が飛び立った。
ざまぁみろ…
俺らしく悪態ついてまた歩き始める。
らしくないのはお前も同じじゃねぇか?
あんな約束するなんて、スーが可哀想だ。
俺が口を出すことじゃねぇけどよ、人を殺すのは、獣を狩るのとは違う。スーはまだ何も分かっちゃいねぇ…
俺だってさすがに初めては心が揺れた。
でもだんだん普通になった。
もう今は息をしたり、飯を食うのとさして変わらない。なんの迷いもない。
向こうだって俺を殺す気で来てる。
俺だってまだこのつまらない生を諦める気は無い。
それでも、この生き方が人間として間違ってることは理解している。
矛盾を抱えたまま俺たちは生きている…
林の近くに川が流れてた。
平たい小石を拾って、回転をかけて水面に投げた。
水を跳ねながら向こう岸まで渡ると、石ころは砂利の上で跳ねて、仲間のところに戻った。
「なんだい?それ?」と後ろから声がした。
驚いて声の方に振り返ると、人懐っこい顔をしたガキがいた。
「バッ、バカ!一人でなにフラフラしてんだ!」
スーの姿しかない事に驚いて、咄嗟にそんな言葉が出た。
「だって、君の姿がなかったから」とスーは当たり前のように答えた。
軽く跳ねるような足取りで、俺の所に歩いてくる。
動く度に艶のある黒い髪に月明かりに跳ねた。
女より綺麗な顔で懐っこく笑う。
お前みたいなのが一人で歩いてたら危ないだろう?
「さっきの何してたの?」とスーは俺に訊ねた。
「子供の遊びだよ」と答えてまた適当な石を拾って投げた。
水面を駆けて行く石を見て、スーは歓声を上げた。
「どうやって俺を見つけたんだ?」と訊ねると、「精霊が教えてくれた」と答えた。便利だな。
スーも小石を拾って、俺の真似をして投げた。
でもそれじゃ飛ばねぇよ。丸い石はトプンッと音を立てて水底に沈んだ。
「おかしいな」と言いながらスーは首を傾げてまた石を拾った。今度は角張った違う形をしてたが、それも飛ばないやつだ。
「違う違う、平らなやつでするんだよ」と教えてやった。
「お前ほんとになんも知らねぇのな」と苦笑いが漏れた。身体をかがめて、砂利の中から平らな石を探して渡した。
そして、随分昔に同じやり取りをしたのを思い出す。
あの日も、同じセリフを口にして、自分より小さな手のひらに、平らな石を選んで乗せた。
そして、渡した石は無駄になって水面に沈んだ。
「…どうしたの?」
急に無口になった俺の顔を覗き込んで、スーは不思議そうに首を傾げた。
「別に…」と答えるのが精一杯で、スーから顔を逸らしてしまった。
「…エルマー、僕何かした?」とスーが困ったような、戸惑う声で俺に訊ねた。
「違う」
「じゃあ、何でそんな顔してるの?」
そう言われて、顔に触れた。頬が濡れていた。
今、自分がどんな顔してるかも分からず、感情が迷子になった。
悲しいのか、苦しいのか?それとも、怒っているのだろうか?嬉しいのだろうか?
「何かあったの?」と訊ねるスーの手が俺に触れた。
勝手に、似てもいない弟の姿を重ねて、気がつけばスーを抱き寄せていた。
「…エルマー?」
「何で傭兵なんか選んだんだ…」
苦い思いを吐き出した。らしくない…
「…エルマー?」腕の中でスーが身じろいだ。それを逃がすまいと強く抱いた。
「俺たちみたいになってどうすんだ?
こんな…胸張って生きられない、そんな生き方しなくていいだろう!」
吐き出すように叫んだ俺の腕の中で、小さな身体が震えた。
嫌われようが構わない。どうせ俺は嫌われ者だ、汚ぇ人間だ…
「帰れよ、スー…
お前はまだ、キレイなままだ…」
網にかかった小さな魚を逃がすよ感覚に似ていた。
まだお前には早ぇよ…帰ってくれ…
「エルマー、僕が嫌い?」とスーは簡潔に訊いた。
違う、と首を振った。
そういう事じゃない。追い出したいが、それとは違う。
言葉が出てこない。
俺は、他人に生き方を教える事ができるような人間じゃない…
でも、こいつの事は守ってやりたかった。
嫌いじゃないと知ってスーは「良かった」と笑った。
全く、調子狂うな…
「僕にとって、君たちは初めての仲間なんだ」
「エルフの仲間と暮らしてたんだろ?」と訊ねると、スーは首を横に振った。
「僕は父さんと二人だけで結界の中に住んでいた。
父さんは特別な一族の最後の一人らしい。
僕は半分人間だから、結界の出入りが許されていたけど、父さんは出られない。
その代わり、父さんは神様から選ばれてるから、役目が終わるまで寿命では死なないんだ。
結界を出て、役目から逃げ出したら死んでしまうと言っていた」
「なんだそりゃ?」呪いじゃないか?
「僕は父さんの隣で、僕だけ歳をとって死んでしまうのは耐えられなかった。
死ぬなら、外の世界を見て、世界と関わって、人として死にたい」
スーの瞳はキラキラしていた。夢を語る子供みたいな目だ。
「僕はもうあの森には帰らないよ」と宣言して、スーは少し寂しく笑った。
「帰れなんて言わないでよ。
僕がワルターに声をかけたのは偶然だけど、良かったと思ってる。
もしかしたら、僕たちは運命で出会ったのかもね」
そんないいもんじゃねぇよ、と言いかけて口を噤んだ。こいつの顔を見てたら言えなかった。
スーは腰に提げた矢筒から、白い矢を一本取り出して俺に見せた。
「みんなが応援してくれた。
僕はこの矢でワルターや君たちの役に立つよ」
誇らしげに宣言すると、スーはまた調子狂う笑顔を見せた。
何言っても、この笑顔ではぐらかされそうだ。
ワルターもそうだったのかもしれない。
「…きつい仕事だぜ」
「分かってるよ。だから頑張ってる」
スーは小さな身体で精一杯強がって見せていた。
その姿がガキっぽくって笑いを誘った。
頭を撫でて、今度は優しく抱き寄せた。
帰る場所を捨てたもの同士、同じ止まり木の仲間だ。
「無理すんなよ、死んだら終いだ…
辛かったら…ワルターにも言えないくらい、辛くなったら俺を頼れよ?
あいつが何言おうが、俺がお前の逃げ道になってやる」
「逃げたりしないよ」
「最初はみんなそう言うんだ」と苦笑いした。
無理に追い払っても、一度餌を貰った懐っこい犬みたいに、ずっと着いてきそうだ。
どうにも放っておけなかった。
「これやるよ、お守りみたいなもんだ」と、弟の形見をスーに譲った。夜光貝の殻が月の光を帯びて淡く輝いた。
「良いの?」と言ったスーに、「貰っときな」と笑って乱暴に頭を撫でた。
「ありがとう」の言葉に弟の影を見た。
この貝殻をやるのは二回目だ。
今度こそ、お前の良い兄ちゃんになってやるよ。
何だろうと守ってやる。
派手な上着を脱いで、スーの肩にかけた。
夜が更けて空気が少し冷たくなっていた。
「戻るぞ、明日も早いんだ。
馬車の中は揺れて寝た気がしないしな」
「うん」と子供みたいに頷いたスーの背を押して、元来た道を歩いた。
木々の隙間から、俺を笑う梟の声が漏れたが、石を投げるのはやめておいた。
✩.*˚
「パウル様、ドライファッハから呼び寄せた傭兵団が到着致しました」と報告を聞いた。
「《雷神の拳》か?」
「左様にございます」と報告した騎士の返事に、気持ちが高ぶった。
久しぶりの朗報だ。
しばらく損害報告ばかりで、伝令の顔を見るのも飽き飽きしているところだった。
「隊長は誰だ?」と高ぶる気持ちを抑えて訊ねた。
あの団長が、手紙通りの人物を寄越したか気になった。
四年前、引き止めきれなかった男だ。
「ワルター・クルーガーです。
副長がヘンリック・ヴィンクラー、ゲルト・ヴィンクラーと報告を受けております」
「クルーガー!やっと来たか!」
僥倖だ!再会を待ち望んだ男の名前に、喜びを隠しきれない。
「テレーゼを呼べ、クルーガーに会いに行く」
今度こそ、色良い返事を貰うつもりでいた。
それほどまでに、私はあの男を高く買っていた。
私が出向くと聞いた近侍のバルテルが、慌てて引き止めた。
「お待ちください!パウル様自ら出向くなど…」
「私が呼び寄せたのだ。
彼らの労を労って何が悪い?」
「ですが…」
「バルテル、彼は正当な評価を受けていない。
あの男をたかだか傭兵隊長なんかにしておくのは惜しい。
彼の《祝福》は《英雄》に相応しいものだ。他に渡すなんて考えられない」
私の喜びと反比例するように、バルテルは眉を顰めて険しい顔をした。この真面目な男には理解できないようだ。
しばらくして、娘のテレーゼが侍女を連れて現れた。
「お待たせして申し訳ございません」と言って、テレーゼは控えめな意匠のドレスを摘んでお辞儀した。
愛らしい姿に破顔する。
十人目の妾の子だ。
まだ13歳の娘は、淡い金色の髪に、薄い茶色の瞳の美少女だ。母親の身分が低いから、まだ許嫁も決まっていなかった。
《英雄》に与えるには丁度いい娘だ。手放さなくて良かったと思う。
「お前に紹介する相手がいる」と、娘を連れて馬車に乗った。
「私のために働く、将来を嘱望された優秀な男だ」とだけ伝えた。
どちらにせよ娘に選ぶ権利はない。
本当なら、もう一人の別の娘を与えるつもりだったが、四年前に『約束した相手がいる』と頑なに断られた。
その時は引き下がり、娘は別に嫁がせたが、団長の話ではクルーガーは未だに独り身だという。
事情は知らないが、私にとってはこれ程都合のいい事実はない。彼を引き抜くチャンスだ。
不安げに窓の外に視線を向けるテレーゼも、《英雄》に嫁ぐなら文句はないだろう。
馬車が止まり、御者が目的地に着いたと告げた。
「おいで、テレーゼ」と彼女の手を取って馬車を降りた。
私の手を取った、小さな細い指は不安で震えていた。
✩.*˚
聞いてねぇぞ!
そう出かけた言葉を何とか飲み込んだ。
だからこの男は苦手なんだ…
どうにか体裁を保って、彼の前で嫌な顔をするのを堪えた。
相手は次期侯爵様だ。粗相があっては親父の雷が落ちる。
娘だろうか?
彼は、スーより幼い見た目の美少女を連れていた。
こんなところに似つかわしくないが、何か訳ありで連れているのだろう。彼女の存在は無視した。
頭を下げて挨拶した俺に、次期ヴェルフェル侯爵は気さくな様子で、「久しいな、クルーガー」と笑った。
「卿の到着を待っていた。
ドライファッハから長旅ご苦労。
此度も私のために存分に働いて欲しい」と、俺に労いの言葉をかけて、右手を差し出した。
上品な印象の男だが、ヴェルフェル侯嫡男とだけあって武勇の優れた武人だ。
年齢は俺より幾つかの年上だったはずだ。
握った手のひらは、貴族にしては硬く力強かった。
「四年前、卿がドライファッハに帰ってしまった時は残念だった」
「申し訳ありません。仕事が終われば、我々は荒くれ揃いの厄介者ですので」
「まあ、いい。こうして再会できたことを喜ぶべきだな。
今回も卿の働きに期待している。
十分な褒美も用意している」
「俺たちは給料分の仕事をするだけです。
金で揉めたくないんでね、そこんところお互い約束致しましょうや」
結局、傭兵が信じてるのは金だけだ。
命かけてタダ働きなんて、名誉という霞を食うような騎士とは違う。
金さえ貰えれば文句はない。俺も部下たちもそれだけだ。
報酬を確約させるのも俺の仕事だ。
パウル様は俺の提案を快諾した。
「もちろんだ。
私は、命を懸けて、最前線で勇敢に戦う者への敬意を忘れはしないよ」
そう言ってパウル様は爽やかに笑った。
「また後ほど、軍議に顔を出して欲しい。
恥ずかしい話だが、元ウィンザー公国の遊撃隊に苦戦を強いられている。
遊撃戦に詳しい者が居れば、その者の意見も入れよう。身分は問わない」
なるほど、随分困ってる様子だ。
「あと僅かで組織的な抵抗を封じることができる。
抵抗を続けているのは、元ウィンザー大公の甥のスペンサー男爵だ。
なかなか優秀な指揮官で、オークランドとも通じている。侮れない相手だ」
その名前は四年前にも聞いた気がする。
確かあの時は騎士団長だったはずだ。
臣従を誓う相手がいなくなっても戦うなど、酔狂な奴だ…
俺たちには理解に苦しむ。
「また後ほど声をかける」と、パウル様はこの話を打ち切って、新しい話題を振った。
「ところで、聞いたところによると、卿はまだ独り身らしいな?」
親父が話したのか?苦い記憶が蘇る。
「まぁ、少しばかり事情がありまして…」と言葉を濁した。
「事実か?
誓った相手がいるからと、私の娘を振ったくせに酷いじゃないか?」
あの時は本当にそうだったんだから、仕方ないだろう?と思ったが、相手が相手で、事情が事情なだけに詳しくは語らなかった。
身内の恥を晒して、女ひとり守れない自分の汚点を晒す気にはならなかった。
パウル様は釈然としない様子で、「まぁ、いいだろう」と俺の無礼を許した。
そして振り返ると、少女を呼んだ。
「私の14人目の娘のテレーゼだ」と娘を紹介した。
一体何人子供がいるんだ?と思ったが口には出さなかった。
相手は侯爵を約束された人物だ。妾だって取り放題だし、言い方は悪いが、彼らにとって子供は政治の道具だ。
特に娘は外戚関係を保つために必要不可欠だ。
「夫になる者の職場を見せようと思ってな」とパウル様が説明した。
どこぞの騎士にでも下賜するのだろう。
まだ幼い少女に同情した。
「テレーゼ、彼はお前の旦那様になる男だ。ご挨拶しなさい」
そう言って、パウル様は娘の背を押して、俺の前に立たせた。
言葉を飲み込むのに一瞬間が空いた。
は?今なんて?
耳を疑ったのは目の前の少女も同じだった。
父の顔を見上げて俺と見比べた。
意味を理解して、大きな薄い茶色の瞳が潤んだ。
「…テ…テレーゼ・フォン・ロンメルと申します」
震える声で小さく呟くと、彼女は泣きそうな顔でお辞儀した。スカートを持つ手が震えている。
そりゃそうだろうよ…俺もう40だぞ…
親子の方がしっくりするだろうよ…
「ちょ…ちょっとお待ちを…
いくらなんでもそりゃ無いでしょう?」
「なに、心配するな。13だが、もう月のものも来ている。立派な女だ」
13?
年齢を聞いて目眩がした…
ガキじゃねぇか!これ以上子守りはゴメンだぞ!
テレーゼ嬢は、気丈にも泣き出すことだけは堪えているが、こんな小汚いおっさんに嫁がされると知って、ショックを隠しきれないようだ。
侍女に支えられた少女は今にもぶっ倒れそうだが、父親は涼しい顔をしている。
「四年前は断られたが、今度は断る理由も無いはずだ。
今度こそ、南部に定住してもらおう」と満足気だ。
鬼か?
正妻の子でないにしても、この仕打ちはないだろう?
しかし、質の悪いことに、俺にもあの少女にも拒否権がないのが事実だ…
悲惨…その一言に尽きる…
「今日は顔を見せに来ただけだ。
父親の私が言うと、親の贔屓目だと言われそうだが、なかなかの器量よしだ。気に入ったか?」
「はは…」愛想笑いしか出来ないが、それとは対照的に嫌な汗が出る。
パウル様はご機嫌な様子で笑いながら俺の肩を叩いた。
俺の反応を肯定的に捉えたようだ。
満足した様子で娘を連れて帰って行った。
「なんとまあ…あれが俺らの《姐さん》になんのか?」
「悲惨…」
俺の側で、最初から最後まで話を聞いていた、フリッツとヨナタンが正直な感想を述べた。
「俺のセリフだわ」とボヤいたがどうにもならない。
「まぁ…気丈なお嬢様だ」とフリッツはテレーゼ嬢を褒めた。
「泣かなかったしな」とヨナタンが頷く。
ヨナタンは心底どうでも良いと言った様子で、「俺は忙しい」と呟いて立ち去った。
残されたフリッツと二人、煙草を咥えた。
先に口を開いたのはフリッツの方だ。
「で?どうすんだ?ほんとに嫁を貰うのか?」
「馬鹿言え!ガキに毛が生えた程度だろ!」
「でも断れないだろ?」
「親父に手紙を出す」
親父に頼るのは気が乗らないが、背に腹はかえられない。
忌々しく煙草の煙を吸い込んだ。
この様子ではビッテンフェルトを継がざるを得ない。
それとも、もういっそ、全く知らない土地に逃げてやろうか?
煙草の先に点った火が、チリチリと音を立てて灰になって落ちた。
「だからあの男は苦手なんだ」と苦い言葉を吐き出した。貴族なんて合わねぇんだよ…
燃え尽きた煙草を捨てて、怒りをぶつけるように踏みにじった。
そんな俺の様子を見て、フリッツが苦笑いした。
「もう、そろそろ、忘れても良いだろう?」と彼は言った。
何とは言わないが、それがまた悲しかった。
「忘れられるかよ」と吐き捨てて、フリッツを睨んだ。
兄貴なら、嘘でも「忘れるな」って言えよ…
エマを、未練がましく引きずってる俺の方が女々しいじゃねぇか…
フリッツはそんな俺を見て、肩をすくめるとハルバードを手に立ち去った。
俺は何も言わず、結ばれなかった恋人の兄貴を見送った。
✩.*˚
なかなか面白い見世物だったがな…
そう思いながら、手に馴染んだハルバードを担いで、仲間の様子を見て回った。
これから、この前線基地である、旧ウィンザー大公の居城だったユニコーン城を後にして前線に向かう。
俺のような凡夫が、こんな場所で偉そうにしているのはワルターのおかげだ。
子供の頃は、力自慢の悪ガキで、いつも妹を困らせた。
俺をことある事に殴る親父は傭兵だった。
その親父もいつの間にか死じまった。それからしばらくして、母親も蒸発した。
親父の残したハルバードを手に、傭兵団の門を叩いたのは15の頃だ。
使い方もろくに知らなかったが、俺の体躯を気に入った団長が、俺を仲間に迎えてくれた。
ハルバードもツヴァイハンダーも最前列で、敵の隊列を切り崩す役目の得物だ。
非常に死亡率の高い場所で戦うことになる、損な役回りだ。
ツヴァイハンダーを使うワルターとは、いつも顔を合わせる顔馴染みになった。
同輩で、同じ隊で競い合って戦いに身を投じた。
その頃、俺たちの直属の上司だったのがゲルトで、甥のヘンリックも後から同じ隊に加わった。
20歳になる頃には、俺たちは、隊の中では少しばかりだけ名の知れる存在になっていた。
ゲルトが他所に拠点を構えると、ヘンリックとワルターも彼について行った。
正確には、ゲルトがワルターの境遇を気に病んで、連れて行ったのだが、団長は引き止めなかった。
彼らが去った後も、俺は団長の元でハルバードを振るい続けた。
俺もヘンリックやワルターと行きたかったが、団長には世話になっていたし、妹を置いていくのは気が引けた。
俺がいなくなったら、妹は一人になる。
せめて伴侶ができてから、ワルターの後を追っても遅くはないと思った。
そうこうしてるうちに、幾つかの年月が俺の上を通り過ぎて行った頃、ワルターは、突然ドライファッハに呼び戻された。
『久しぶりだな』と帰ってきたワルターは、 数年のうちに随分様変わりしていた。
俺より頼りない印象だった彼は、無駄のない、引き締まった筋肉質な身体を手に入れ、精悍な顔立ちの凛々しい隊長になっていた。
彼は異母弟の邪魔が入らない場所で、強さと知識を手に入れて、元より持っていた《祝福》を使いこなせるようになって帰ってきたのだ。
団長も、ワルターの存在を無視できなくなった。
『俺の息子』と呼ぶようになったのもこの頃だ。
ゲルト直伝のツヴァイハンダーの剣術と格闘術を納め、《祝福》で氷を意のままに操るワルターは、《雷神の拳》の中で確固たる地位を得た。
あいつは自分の力で、自分の存在を親父に認めさせた。すげぇ奴だ…素直に尊敬した。
俺はワルターの部下になった。
あいつのために働けることを、友として、部下として誇りに思った。
そして、あいつは俺の兄弟になるはずだった…
エマもワルターも、俺も、幸せになるはずだったのに…
ワルターに嫉妬したギュンターが全部ぶち壊した。
証拠は何一つない。
ただ、酔った勢いで奴が話した事が真実なら、黒幕はギュンターだ。
新居は墓に、結婚式は葬式に代わった。
全てを知った団長が、俺たちの代わりにギュンターを罰したが、火に油を注ぐようなものだ。
あいつのワルターへの憎しみは強くなる一方だ。
『俺のせいでお前ら兄妹巻き込んだ』と謝ったあいつの悲しい背中を忘れない。
俺の代わりに建てた、白い立派な墓。
その墓に備えた花は、花嫁に持たせるような綺麗な花束だった。
お前は十分してくれたじゃねぇか?
それを見て、こいつがもし、他の女と一緒になっても、責めないと心に誓った。
エマの代わりに幸せにさえしてくれれば、それだけで満足だ。
あのお嬢様じゃ、ちょっと釣り合いが悪いが、さすがの気狂いも、次期南部侯の娘にまで手を出すことは無いだろう。
ワルターはいい男だ。
それは俺が誰よりもよく知っている。
娘ほど年の離れた相手でも、ぞんざいに扱ったりはしないはずだ。
ふと見上げた空に、初夏を告げる燕の姿が見えた。
空を不規則に踊るように飛ぶ渡り鳥は、エマのお気に入りだった。
必ず同じ時期に、同じ場所に、同じ伴侶と訪れる鳥は約束の意味を持つらしい。
『住むなら、毎年燕の来る家がいいわ』とワルターに言っていた。
あいつもそれを覚えているのだろうか?
俺の頭の上を泳ぐ鳥を見送って、愛着のあるハルバードを担ぎ直すと、また歩き出した。
また、俺たちの、ろくでもない血腥い日々が始まる。
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