燕の軌跡

猫絵師

文字の大きさ
上 下
4 / 207

遠征

しおりを挟む
歳の離れた弟は、懐っこい可愛い顔で『兄ちゃん』とまとわりつくように着いて回ってた。

俺も満更じゃなかった。

頼れる兄貴になろうって、そう勝手に思っていた。

フィーアの北東部は漁村の並ぶ田舎だ。

親父も漁師で、爺さんも、曾祖父さんもそのまた前の代も魚を捕って暮らしてた。

必然的に、俺も漁師になって、死ぬまで魚を捕って暮らすのだと思っていた。

別にそんな生活が嫌いだったわけじゃない。

むしろ何もないその生活がずっと続くと思ってた。

親父が病気になっても、お袋が倒れても、毎日小舟を出して魚を捕りに行った。

俺に出来ることはそれだけだったから…

でもそうなると、弟は病気の両親と家に残された。

病気が弟を蝕むのに時間はかかからなかった。

先に逝った両親と同じ斑点が、弟の背中に出た。

何故か病魔は俺の上を素通りして行った。

『兄ちゃん…魚捕ってきて』と、あの日も、当たり前のようにそう言った弟の、冷たい小さな手を手放した。

帰ったら俺は一人になってた…

一人寂しく、冷たく硬くなった弟の小さな痩せた身体を抱いて泣いた。

分かってたくせに、一人寂しく死なせてしまった。

ごめんな、って何度呟いたか分からない。

両親と同じ場所に埋めてやった。

気が付くと、小さな漁村には土饅頭が沢山並んでいた。そして小さな村には俺以外、誰も居なくなった…

一生分の涙を流して、干からびた心は麻痺してしまった。

僅かな荷物を持って村を出た。

家族の墓を置き去りにして、弟が宝物だと言った光る貝殻を持って逃げるように村を後にした。

風穴が空いたような空っぽの胸は寂しくて、背筋が曲がった。

胸を張って生きられるような人生じゃない。

強盗や賊の真似事もした。

悪魔みたいな所業を、麻痺した心で続けた。

幸せな人間を見る度に僻んで、いいなぁって思いながら、笑顔で俺の不幸を分けてやった。

お前ら幸せかい?俺はこんなに不幸なのに、と…

いつの間にか、俺は《嘲笑の悪魔》と呼ばれるお尋ね者になっていた。

ワルターに出会うまで、俺は自分が可哀想だと信じてたが、あいつの方がずっと可哀想だと知った。

あいつは、腐っても仕方ないような人生なのに、絶望せずに、真っ直ぐ生きてた。俺ではあいつに敵わないと思った。

ワルターは良い奴だ。

あいつのために、俺の残りの命をくれてやってもいい。あいつのために働きたいと思った。

フリッツの妹とは直接会ったことは無いが、話は聞いている。

悲劇というやつは、余程あの男が好きらしい。

未だに、ワルターはエマの亡霊を引きずっている。

俺と同じだ。

代わりになる何かが見つかればいいが、それは難しかった。

また、理不尽にギュンターに奪われるだけだ。

でも、あいつの真っ直ぐな背中が、俺のように曲がってしまうのは耐えられない。あいつが胸張って生きてる姿は俺の誇りだ。

あいつがこれ以上奪われないように、失わないように、俺たちは見守ることしか出来なかった。

馴染みの酒場で、スーを紹介したワルターは、良い顔をしていた。

スーの、子供みたいな純粋で綺麗な目と、青年と少年の間の姿に、初めは不安を覚えた。

それでも、ワルターが嬉しそうに話すのを見て、あいつの救いになるならと納得した。

多分他の奴らもそうだ。

俺を見上げるキラキラした瞳が、死んだ弟の目に似ていた。

俺もあいつに癒された。

勝手に兄貴になったような気でいた。

救われたい、満たされたいと願うのは、俺も同じなんだろう。

スーの食べてる姿も、楽しそうに笑う顔も、小走りで駆け寄ってくる様も、全部失ったものを彷彿させた。

あいつをギュンターなんぞに渡してなるものか。

あの時、スーを殴ろうとしたギュンターに、あと一歩踏み込んで刃を喉に突き立てればよかったと、今更後悔した。

どうせならやっちまえば良かった…

部屋の天井を見ながらそんな危ない事を考えていた。

「エルマー!居るかい?」

ドアをノックする音に、明るい声が重なった。

鍵を開けると、キラキラした視線が俺を見上げた。

「ワルターが、一緒に食事に行こうって。

君とソーリューの分も奢ってくれるって言ってたよ」

泣きそうだった顔は笑顔に変わっていた。

なんだよ、心配して損したじゃねぇか?

「ワルターが僕に毛布をくれたんだ。

あの部屋に居ていいって」そう言いながら嬉しそうに笑う。

毛布貰って喜ぶとか…犬かよ?可愛すぎんだろ?

壁に持たれながら「良かったな」と笑った。

「行くよ、ちょっと待ってな」そう言ってスーを待たせて、上着を手にして肩にかけた。

首から提げた、紐に通した貝殻が揺れた。

剣を下げるベルトを腰に巻いて、身支度を整えると部屋を後にした。

「ソーリューはどこの部屋?」

「下の階の一番奥だよ」と答える。

ソーリューは物置のような狭い部屋を寝床にしていた。

帰国の資金を貯めるために、質素な生活をしてるので、一番安い部屋を選んだ結果そこになった。

ドアをノックすると、様子を伺うように開いたドアに、少しだけ隙間ができた。

「何だ?」と、ソーリューは部屋を訪ねた理由を問うた。

少し気を抜いていたのか、珍しく素顔を晒していた。

「飯食いに行くぞ、ワルターの奢りだ」

「ワルターの?」と怪訝そうに眉を顰めたが、ドアの隙間から、スーの姿を見て「あぁ」と納得したように呟いた。

「すぐ行く」と素っ気ない返事をして、ドアが閉めると、本当にすぐ戻ってきた。

顔にはいつもの、あの変な仮面を着けている。

ソーリューが部屋から出てくると、スーが口を開いた。

「今日は勝手なことしてごめん。

二人にも迷惑かけた、反省してる」

「…そうか」

ソーリューは素っ気ない返事を返して、すれ違いざまにスーの肩を軽く叩いた。

「己と向き合える奴は強くなれる。

お前は有望だ」

「何だよソーリュー?スーには随分甘いんじゃねぇの?」

「食費が一食浮いた、スーのおかげだ」と言って、ソーリューは仮面の下で笑った。

素直じゃねぇの…

「ほら、飯食いに行くぞ」

突っ立ったままのスーの肩に手をかけて歩き出した。

脚をもつれさせながら歩き出したスーは、肩に手をかけた俺の顔を見上げて「ありがとう」と懐っこく笑った。

『兄ちゃん』と笑う弟の声が聞こえた気がした。

✩.*˚

ソーリューは朝早くからスーを連れ出した。

邪魔が入らないように、郊外の開けた場所に行くと言って出て行った。

珍しく本気で教えるつもりらしい。

「何だ。今日はあのチビは一緒じゃないのか?」と親父が何故か残念がっていた。

「スーの顔が見たくて俺を呼んだのか?」と訊ねると親父は「いいや」と笑って手紙を出した。

「今朝早くに使いが来てな、南部侯からお前の指名だ」

「げっ」顔に出ちまった。嫌な顔をした俺に、親父は眉を顰めた。

「何だ、お得意様だぞ」

「いや、分かっちゃいるが…俺はあの若様が苦手で…」

フィーア王国の南部を預かる、ヴェルフェル侯爵の次期当主は、ギュンターとは別の意味で厄介な人間だ。

《祝福持ち》が大好きなのだ。蒐集家と呼んでも差し支えないだろう。

フィーア南部は、神聖オークランド王国の外戚であるウィンザー公国と面していたが、近年これを滅ぼした。

故ウィンザー公国の所領の七割はヴェルフェル侯爵の支配下にある。

残り三割は、オークランドの後ろ盾を持ってして、頑強な抵抗を続けていた。

「ウィンザーの残党の遊撃戦に苦戦してるそうだ」

「俺たちはケツ持ちか?」

「そう言うな。傭兵なんてそんなもんだろ?」と親父は仕事を押し付けた。

「上手くやれ、箔が付く」

どうせ断る当てもない。渋々承諾して、豪華に金箔の押された芸術品のような手紙を受け取った。

「お前の留守の間に、俺も整理せにゃならん事がある」そう言って親父は深いため息を吐いた。

何の話かは容易に想像がつく。

相手が相手なだけに不安が過ぎった。

「大丈夫なのか?」

「誰の心配してんだ?俺の事は気にするな。

お前は自分の仕事をしろ」

そう言って親父は笑って見せたが、どこか空元気な印象だった。

葉巻を取り出して咥えた親父の口から、紫煙と共に、ため息が漏れた。

「俺の撒いた種とはいえ、厄介な話だ…」とボヤく。

「お前は上手いことやって、南部侯を自分の味方につけておけ。

フィーアの七大貴族様だ。多少個性が強くとも、後ろ盾にするにはこれ以上ない相手だ」

ギュンターの母親の家は男爵家だ。

後ろ盾が何も無い俺を家長に据えるのは難しいが、南部侯から働きを認められ、《英雄》と認定されれば十分望みはある。

《祝福持ち》と《英雄》ではその知名度も重要度も全く違う。

どんなに有能でも《祝福持ち》じゃ、ちょっと強い奴程度で、一生分埋もれたままだ。

対して、大貴族を通じて、国から《英雄》と称号を受ければ、それに見合った爵位も与えられる。俺の場合なら《正騎士》になれる。曾祖父さんと同じだ。

そうなれば、《従騎士》のギュンターより確実に家督に近付く。

親父はそれを期待してるのだ。

「お前の隊は、どのくらい集まる?」

「ざっくり80人くらいだ。

まだ補充が終わってない」

先だっての派兵先で減った奴らの補填をしてるが、数は心元なかった。

「分かった。俺の私兵を50付けてやる」

「でも、それは…」ギュンターが黙ってないんじゃないか?

「南部侯に無礼が無いようにお目付け役としてだ、ギュンターとは話が違う。

あと、ゲルトとヘンリックの隊も同行させろ。

あとから別の奴も補填に送る。

俺の名代だ。励め」

親父は父親のように俺に檄を飛ばした。

押し付けられたようで、少し嫌な気がした。

親父は、空白だった時間を埋めるように、俺に期待を詰め込んだ。

過剰な期待に押しつぶされそうな感覚を覚え、また足が重くなる。

俺はあんたに認められたかったんじゃねぇよ…

あんたに後悔させてやりたくて、頑張ったんだ。

俺とお袋を捨てたあんたが、やっぱり間違ってたと、そう思って苦しめばいいと思ってた。

でもいざそうなっても、まだ俺は満たされないガキのままだ…

一つ二つ言葉を交わして、親父の部屋を後にした。

✩.*˚

「よォ?」

正門で煙草を咥えていたエルマーが、俺の姿を見て声をかけてきた。

「スーは?」

「ソーリューが連れて行った」と答えると、エルマーは不服そうに煙草の煙を吐き出した。

「何だよ?つまんねぇの…」

「それより、仕事だ。

新南部侯領でウィンザー公国の残党狩りだ」

「おやまぁ…」エルマーが間の抜けた声で応じた。

嫌そうな顔は、休暇が短かったからだけではないだろう。

「スーは…連れてくのか?」

「当たり前だ。そのために雇ったんだからな」

「まぁ、そうだわな…あいつもついてねぇな…」

エルマーの言葉に苦笑した頷いた。

仕事なんて無い時は本当に無い。

商人の護衛とか、そんな小さな仕事から経験させるのが一番だが、運悪く一番質の悪い仕事からスタートだ…

「遊撃戦で苦戦してるらしい」

「なるほど…俺たちの出番か?」

南部の兵士は屈強だが、騎士道というやつが邪魔してくそ真面目だ。どうにも柔軟性を欠く。

ご自慢の重装騎兵で構成された部隊では、装備が邪魔をして、神出鬼没な遊撃隊に柔軟に対応することは出来ない。

正規兵だけでは手が足らないので、足らない部分は傭兵で補うのが一般的だ。

場合によっちゃ、傭兵の方が多い戦場だってある。

おかげで、俺たちは食うに困らない生活を送れる訳だが…

「お前も用意しておけ。

スーは他の新人共と一緒に俺から話す」

「へいへい、わかりましたよ」

「道中、別の拠点の奴らとも合流する。

お前は思う存分暴れろ」

俺の言葉にエルマーの口端がニィっと釣り上がる。

「楽しみだ」と言って長い腕が得物を触れた。

エルマーの一番の武器はこの長い腕だ。

鞭のようにしなる腕の斬撃は距離感が掴めず、下手に近付くと首を刎ねられる。

山賊みたいなことをしてたから、遊撃戦は得意だ。

敵でなければ頼もしい。

「俺も手下集めてくるわ」と言って彼はふらっと立ち去った。

立ち去る、猫のように曲がった背中を見送って、また歩き出した。

研ぎに出していた剣を貰いに行かなきゃならん。

武器だけじゃなく、馬や馬車の手配もある。

ヨナタンを探しに、彼の居そうな場所に立ち寄った。

あいつは暇な時は錠前職人の所か、古書店に入り浸ってる。

頭がいいのに、変わり者だからと、気味悪く思った親に家から追い出されたらしい。

それはそれで酷いと思うが、親は本気でヨナタンを悪魔の子と信じてたらしい。田舎ではままある事だ。

商人に拾われたそうだが、頭の良さからトラブルになり、刃傷沙汰を起こして追われたらしい。不器用な男だ。

酒場で知り合って、俺の所に来ないかと誘ったら、行くところもないからと着いてきた。

頭の出来が違うから、弁も立つし、交渉役にもなる。

うちの隊の金の管理や色々な物の手配を任せてる。あいつのおかげで俺は苦手な金勘定をしなくて済む。

戦うのは得意じゃなくても、補佐役としてヨナタンを重宝していた。

預けてた剣を受け取って、近くの錠前屋を覗いた。

クロスボウを手に、ヨナタンは店の主人と話し込んでいた。

「何してんだ?」と声をかけると、ヨナタンは眉間に皺を寄せたまま答えた。

「装填の早いクロスボウ作れないか話してる」

「はあ?」

「威力は高くて練度も弓程は必要ないが、やはり装填に時間がかかる。

異国には連弩というものがあるらしい。

構造が分からないが、試しに作れないか交渉中だ」

「分からんのに作れんのか?」

「ようには、これに連続して矢を装填する機構を備えて、弓を簡単に引ける構造をつけてやればいい」

「でもあまり構造を増やせば、重くて扱いにくくなりますよ。それに強度も落ちます」と店の主人はあまり乗り気じゃない。

まぁ、二人とも言いたいことは分かる。

「言う通りに部品を作ってくれるだけでいい。

あとは俺の方で勝手にやる」

「そんな中途半端な仕事できませんよ!

するならあたしだってちゃんとやりますよ!」

付き合いのいい主人だ。俺にはさっぱり分からん世界だ。

「ヨナタン、弓の話は後にしろ。仕事だ」

「…早くないか?まだ戻って二週間も経ってないぞ。

部隊の補充だってまだ間に合ってないだろう?」

「仕方ねぇだろ?南部行きだ、準備しろ」

「南部だと?」とあからさまに嫌な顔をする。

「遠い、面倒だ!」

はっきり言うな、お前は…

「期限は?」

「準備に一週間、移動に4、5日ってとこか?」

俺の返事にヨナタンは忌々しげに舌打ちして、錠前屋の主人に視線を向けた。

「悪いな、ホラー。

また時間のある時に話をしよう。

図面はあんたが持っててくれ」

「あたしの店は暇だからいつでも構わないよ」と主人は愛想良く笑った。

「また面白い話持ってきてくれ」とヨナタンを見送った。

「全く、お前も、お前の親父も人使いが荒い」

「悪いな」

「思ってないだろう?」と楽しみを邪魔されたヨナタンは機嫌が悪そうだ。

ヨナタンは「何人分だ?」と数を確認した。

「ざっくり130、途中の拠点で200合流する」

「多いな、何事だ?」

「ウィンザー公国の残党狩りと聞いてる。

ヴェルフェル侯爵の依頼だ」

「なるほど、金には困らなさそうだ」

ヨナタンの中ではもう金勘定に入っているのだろう。

親父から預かった侯爵からの手紙を差し出すと、すぐにその場で開いて読んだ。

「了解した」と手紙を返す。

「悪くない条件だ」と満足そうだ。

「俺はこのまま馬と馬車の手配に行く。

食い物と飼葉の用意は明日手配する」

「ありがとよ、頼りにしてる」

「ふん、お前らがすると金も時間も無駄にする。

俺がやった方が早い」そう言ってヨナタンは一度立ち去ろうとしたが、何か思って振り返った。

「そういえば、あのチビはどうした?」

みんな同じ事を訊く。

「ソーリューに預けた」

「連れていくのか?」とヨナタンも同じように訊いた。なんだかんだで気にしているらしい。

「当たり前だろ?何のために雇ったと思ってんだ?」

「…観賞用かと」

「はあ?」

「女は諦めたのかと思った」

「バカか!」大真面目な顔で何言ってやがる!

「違うのか?」と驚いていた。

そりゃ、スーはあの見た目だが、男を抱くなんて気持ち悪い真似できるか!

「まぁ、あんたはそういう男だったな。悪かった、忘れてくれ」

ヨナタンは珍しく笑うと「またな」と手を挙げて立ち去った。

全く、冗談じゃない。行くあてがないから置いてやってるだけだ。

寝床だって、一つしかないから仕方ないだろうが?

好きで一緒に寝てねぇよ!

自分に言い聞かせるように、そう腹の中で悪態ついたが、ふと脳裏に、嬉しそうに毛布にくるまったスーの姿が過ぎった。

「あぁ!もう…クソ!」頭をぐしゃぐしゃと掻きむしって、頭の中からあいつの顔を追い出した。

✩.*˚

なんとまぁ…

「随分男前になって帰ってきたな…」

そう感想を述べてソーリューを睨んだ。

しれっと「手加減はしてる」と言うソーリューは綺麗なもんだ。

「ソーリューが強すぎるんだ」と言いながらスーは髪を結んでいた紐を解いた。

髪に挟まっていた砂がパラパラと床に落ちて音を立てる。

顔も服も土埃で煤けている。

肌の出てる場所には擦り傷ができていた。

「こいつは負けん気が強いから、どれだけ投げても向かってくる。

なかなか根性がある」

「だからってむちゃくちゃすんなよ?

スー、外で水浴びて砂落としてこい」

「分かったよ」と素直に答えて部屋を後にした。

部屋を出ていくスーを見送ってソーリューが俺に訊ねた。

「…一人で行かせて大丈夫か?」

「何が?」と答えながら煙草を咥えた。

「そこの井戸に行くくらい大丈夫だろ?

それより、南部に遠征だ。

お前も準備しろ」

「…随分急だな?」とソーリューも驚いた様子だった。

「ウィンザー公国は分かるか?あそこの残党狩りだ」

「ふむ…」

「何だ?気が乗らんのか?」

ソーリューは考え込むような仕草を見せた。

「国の興亡に関わるとは感慨深い」と呟くと窓に歩み寄って外を覗いた。ここからだと裏の井戸が見える。

月明かりが裏庭を照らしていた。

「スーは、連れていくのか?」

「何だよ?お前たちは揃いも揃って同じ事言うんだな?」

「お前の心配をしてる」とソーリューは外を眺めながら答えた。

「連れていくなら幾分か安心だ」と言って、ソーリューは俺を窓辺に呼んだ。

「悪い虫が飛んでる」と仮面の下で笑った。

何かと思って覗くと、井戸で水を汲んでいるスーに、ちょっかいをかけてる男が居た。

話してる内容までは分からないが、ろくな事じゃないだろう。一人で行かせない方が良かったか?

迎えに行こうとした俺に、ソーリューは「見てろ」と引き止めた。

スーは自分より大きな相手に腕を掴まれたが、割と簡単に解いたので驚いた。

そのままどうするのか見ていると、スーはしつこく構おうとする相手の襟と袖を掴んで、身体を縮めると投げ捨てた。

「飲み込みがいい」とソーリューは満足そうに笑った。

一体、どういうしごき方をしたんだ?

投げられた男は逃げるように立ち去って行った。

「身体の使い方を教えた。

明日は急所の狙い方を教えてやる」

ソーリューはそう言って、任せろといった風に、俺の肩を叩いて部屋を出て行った。

しばらくして戻ってきたスーは不機嫌そうな顔をしていた。

「僕はそんなに女の子みたいかい?」と膨れている。

「何があった?」と知らないフリをして訊ねた。

スーは服を着替えながら「男に、幾らで抱けるって言われた」と答えた。

「どうしたら男らしくなる?髪を短くした方が良いのかな?」と困ったように濡れた髪を弄った。

まぁ、それもあるが、短くしても容姿がそれじゃあまり意味が無いな…

「お前は見た目がまだガキだからな…

そのうち背も伸びるだろうし、筋肉も付くだろ?

まずはちゃんと食って身体を鍛えることだな」

「そうしたら君やエルマーみたいになれるかな?」とスーは期待したような目で俺に訊ねた。

「まぁ、伸び代はあるわな」と煙草を咥えながら笑った。

ガキみたいな事を言う。

あんだけ飲み込みが良いんだ、強くもなるさ。

背だってまだ伸びるだろうよ。

「飯食いに行くか?」とスーを誘った。

「行く!」と即答して、スーは目を輝かせた。

「明日もソーリューと訓練するから沢山食べるよ!」

幼い顔で眩しく笑って宣言する。

「人間の訓練は厳しいけど、僕は強くなりたいから頑張らないとね!君の役に立ってみせるよ!」

「あー…まぁ、そうだな、頑張れ」

ソーリューのは多分普通じゃないぞ、とも言えずに苦笑いした。

ソーリュー相手に泣いて逃げ出さないのは偉いな。

人間の基準が分からないからなのか、純粋に意気込んでいる。まぁ、良いことだろう…

部屋を出る時に、「お前に話しておかなきゃならんことがある」と遠征の件を伝えた。

スーは黙って話を聞いていたが、表情は硬かった。

「急遽決まったことだ」と言う俺に、スーは「僕は?」と恐る恐るといった様子で訊ねた。

戦闘に参加するのに気後れしたのかと思ったが、そうでは無かった。

「僕も連れて行ってくれる?」と置いていかれることを危惧していたようだ。

「そのつもりだ」と答えると「良かった」と胸をなで下ろした。

「戦いに行くんだぞ」

「うん、分かってる」とスーは応えた。

紫の瞳が決意の色を含んで俺を見返した。

「君の役に立てるんだ、僕だって戦えるよ」と一端の口を利いた。まぁ、気の強いこった…

「途中で逃げ出すなよ?」

「逃げたりするもんか!君たちがびっくりするくらい活躍して、名前を残すんだ!」

「へえ…お前の夢か?」

名前を残すなんて、大層なことを言うんだな。

「せっかく生まれたのに、何も無い世界でひっそりと生きて、誰にも知られずに、世界も知らずに死ぬのは嫌だ。

それなら母さんから聞いた、物語の人間たちみたいに、煌めいて生きて死にたい。

僕は僕にしかできないことをするために出てきたんだ!」

なんだそりゃ?それこそガキの発想だ。

「そんな考え方じゃ長生きできねぇぞ」と警告した。

「生きながら死んでるよりマシだ」とスーは顔を上げて宙を睨んだ。

「あそこに居たら、僕はただ死ぬまで世界を知らずに生きていた。

心を失うほど長い時間を、ただ無駄にするだけだ。

父さんみたいになりたくない」

スーは「僕は人間になりたい」と言った。

どういう気持ちで言っているのか、俺には分からなかった。

ただ、真剣に言っているのは確かなようだ。

人間なんてそんな良いもんじゃねぇよ…

そう思ったが、口にはしなかった。

こいつはこれから人間の醜さを知るんだ。

俺が何を言ったところで納得などしないだろう。

そんな事で納得するならこんなところには居ない。

人間がどんなもんか知って、そして自分の決断が間違っていたと悟ったら、親父の所に帰るのだろう。

そうなるまで、少しの間見守ってやるよ。

「好きにすればいいさ」と言って、煙草を咥えた。

吐いた煙は夜の闇に溶けて消えた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

兄になった姉

廣瀬純一
大衆娯楽
催眠術で自分の事を男だと思っている姉の話

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)

チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。 主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。 ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。 しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。 その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。 「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」 これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。

処理中です...