紅蓮慕情

井海博人

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萌芽 十

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「水科、来客だぞ」

 それから二週間ほどたったゴールデンウィーク中日。

少し暑いくらいに晴れ上がった空の下、昼食をとって休憩所の周りに積んであるコンパネの上でメットを枕にして昼寝をしようとちょうど寝転がったところで、作業班の班長に声をかけられた。

「誰っすか?」

「何かお前と同じくらいの男の子だな。姉さんじゃなかったぞ」

 立ち上がって尋ねると、五十前後のその班長は至極残念そうにそう言った。

 俺がこの現場で働き始めた頃、千津流が菓子折りを持って挨拶に来たことがある。

本人は「運動も兼ねて来てみたの」と言っていたが、しっかり「弟をよろしくお願いします」と頭を下げて行った。

 もちろん「あの可愛い子誰?」とみんな騒然としてあっという間に男だらけの現場中の噂になり、せっかくだから冗談で「俺の彼女です」と言ってやろうと思ってたのに、やっぱりここでもあっさり「顔が似てるからお前の姉ちゃんか」と言われてしまった。

 しかも、「紹介しろ」と浮き足立った何人もの人間に詰め寄られ、「姉にはもうすぐ子供が産まれるんで」と牽制しておかなければならなかった。

心の中で「俺の子だ、ざまぁみろ」と付け加えておくのは忘れなかったが。

 それでも、いまだに「千津流ちゃん元気?」なんて話しかけられるし、「子持ちでもいいから紹介して」とまで言い出す奴もいる始末だ。

千津流はご丁寧に自分の名前まで名乗って行ったみたいだし、だからこういうとこに来て欲しくなかったんだよ。

 ちなみに、全くの余談だが、俺は現場で弁当屋の仕出し弁当を食べている。

千津流は「お弁当くらい作ってあげるのに」と言ってくれたが、千津流だって大変な時期なのにあんまり面倒をかけたくなかった。

それに、彼女すらいないさもしい現場の奴らにいちいち「愛妻弁当か」なんてからかわれるのはさすがにウザい。

「千津流ちゃんの手作り弁当なら俺も食いたい」なんて、サカリのついた男共に追いかけられるのもちょっとぞっとしない。

現場のベテランは「ここの弁当屋はまずい」とか文句を言っているが、労働のあとだからか俺には結構おいしく感じられる。

そんなことも俺のささやかな発見の一つだ。

 とりあえず現場の入り口まで歩いていくと、パネル付仮説ゲートの向こうの歩道に意外な人影を見つけた。

「悟志じゃん。久しぶりだな。どうしたんだよ、こんなとこに」

 驚いて笑顔で近づくと、悟志は何だか不機嫌な表情をしている。

「久しぶりじゃねぇーよ。何で連絡くれねぇんだよ」

 のっけから少し強い口調で責められて少々たじろいだ。

「携帯にも出ねぇし、メールしても『今度ちゃんと話す』って返事ばっかりだしさ。俺、お前がアメリカ行くなんて全然知らなかったぜ?」

 俺自身もそれを知ったのはつい最近のことだ。

 仕事中携帯はロッカーの中だし、悟志にはおざなりなことを言いたくなかったから、ちゃんと説明できるようになってから改めて連絡しようと思っていた。

それでも、毎日の忙しさについつい後回しになっていたのは事実だ。

「悪ぃ。家族のことでいろいろあったんだよ」

「大学行かないのもそのせい? 受かってたのにわざわざそっち蹴ってアメリカ行くなんて、なんかすげぇ突然だよなって思ってたけど」

「ああ。まぁ……そんなとこ」

 うまい言い訳を考えてる暇なんかなくて、結局言葉を濁すことになる。

いつも通りそれを察してくれたらしい悟志は、次に何と言葉をかければいいのかと考えるように黙り込んだ。

 そんな悟志を眺めて今度は俺の方から話しかけた。

「なんかお前すっかり大学生って感じだな。大学どうだよ。商学部って面白いのか?」

「別に……高校とあんま変わんねぇよ。お前もいねぇし、張り合いねぇ感じ」

 俺の質問につまらなそうに答えて悟志は視線を落とした。

「そういうカズは、すっかり土方のあんちゃんって感じだよな」

 七分袖の細身のTシャツにジーンズ、ブーツにキャンパスバックという大学生スタイルの悟志に比べ、白無地のTシャツにワークパンツ、足には安全靴を履いて首にタオルを巻いた俺は悟志の言う通り見るからに土木作業員という格好だ。

ポケットから軍手がはみ出してるし、おまけに、紫外線の強い時期に毎日外にいるせいでここ数日急に日焼けした気がする。

 そんな俺を長いこと眺めて悟志はポツリと言った。

「お前どっか変わったな。明るくなったっていうか……何かふっ切れたみたいにさっぱりした顔してるな。前はもっと冷めてたじゃん? 周りのことなんかどうでもいいって感じで。俺カズのそういうとこカッコイイって思ってたけど、でもなんか……なんか見てて不安だったんだよ」

 俺は悟志のそんな洞察力に心底驚かされる。

 周りのことがどうでもいいのは今だって同じだ。

だけど、俺が変わったのならそれはやっぱり千津流がいたからだ。

その変化がいいのか悪いのかなんて俺には分からない。

心から大事な誰かの存在に影響されて自分が変わる――月並みで単純すぎてちょっと笑える。

でも、それは決して自分が特別じゃないってことだ。

俺の思いは世間的に考えれば歪んで捻じ曲がったいびつなものかもしれない。

だけど、「人を好きになる」っていうのはそういうことだ。

誰かを切実に思うその気持ちは、多分俺もそこいらの連中と変わりはない。

「また、こんな肉体労働で汗を流すお前を見て、キャーキャーいう女がいっぱいいるんだろうけどなぁ」

 重くなりかける雰囲気を振り払うように、悟志はそこで突然声の調子を変えてそんなことを言い出した。

「もういいよ。そういうのは」

 気持ちは分かるが言葉の内容には苦笑するしかない。

「それより、悟志ここがよく分かったな。俺お前にどこで働いてるかなんて連絡しなかったよな?」

「あー、それはお前に連絡つかないから自宅の方に電話したんだよ。そしたらお姉さんが出て、ここ教えてくれた」

 千津流か。悟志になんか余計なこと言わなかったろうな。

「お前のお姉さんさ、今度子供が産まれるんだって?」

 やっぱり。

「しかも、シングルマザーだって言ってたけど……」

 そんなことまで教えたのか。

どうせ悟志に「おめでとうございます」とか言われて「それがあんまりおめでたくないの」とか答えたんだろうな。

「お前の言ってた家族の事情ってそれ?」

「……ああ」

 あまり立ち入られたくないという意図を込めて俺は短く答えておく。

悟志はどう解釈したのか、納得したように何度かうなずいた。

そのあと何故かしばらくの間目を伏せて何かを考え込むようにジッと黙っていた。

まだ何か話でもあるのかと思い、俺が何も言わずに次の言葉を待っていると、悟志はやがて何かを決意したように顔を上げる。

「あのさ。こんなこと言って怒られるかもしれないけど……。俺お前に対してすごい飛躍的で失礼なこと考えてるのかもしれないけど……。だから、間違ってたら言ってくれよ」

「何の話してんだよ」

「カズ、ちょっと前に何回か『本当に好きな奴がいたら』って話してたじゃん? あれ本当はお前自分のこと言ってて、でも俺お前がまた誰かと付き合い始めたなんて聞いてなかったし、本来は別に隠すことでもねぇよな? ここしばらくお前家族のことでゴタゴタしてたみたいだし、情緒不安定っぽいところもあったし、お前の女の好みがずっと一緒だったのも俺知ってるし、だからもしかしてその相手って……」

「ちょっと待った」

 悟志の口からどんな内容が出てくるにしろ、止めておいた方が無難な気がして、俺は軽く手を上げて制止した。

「お前が何言おうとしてるのか知らないけど、内容が正しくても間違ってても、俺肯定も否定もしねぇよ?」

 悟志の目を見つめて、俺がキッパリと言い切ると、悟志は一瞬驚いた表情になり、それからマジマジと俺の顔を見つめたあと、一度だけ溜め息をついて微かに笑った。

「そっか……。そんなに相手のことが大事なんだ」

 俺は少しおどけて肩を竦めてみせる。

「もしかして……カズがアメリカ行くのって、その相手のため?」

 認めるわけにもいかなくて、俺はただ黙って苦笑した。

だけど、悟志はそれで全部理解したみたいだ。

――どこからどこまでかは知らないが。

「なんつーか。お前らしいな。責任感ゼロの俺と違って、お前にはそういうのが合ってるって思ったよ。心からたった一人を大事にする、みたいなさ」

 俺としては買いかぶられている感の方がデカイ気がするが、そう思われていたんなら悪い気はしない。

「俺さ、今まで女にはいい加減なことばっか言ってしょっちゅう信用なくしてたけど、お前のことは親友だって思ってたし、カズには本当のことしか言ったことねぇよ? だからお前にも本当のこと言ってほしかったけど……」

 言いかけて、悟志は少し寂しげに笑った。

「親友」なんてまさしく俺の嫌いな“友情ごっこ”のような気がして吹き出したくなる。

だけど、悟志が真剣に言ってくれているのは分かった。

もし仮にその真剣さが例え今限りの刹那的なものだったとしても、それはそれで受け止めようと思える自分がいた。

でも、もちろんいかに親友であっても俺の事情を全て話して聞かせるわけにはいかない。
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