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10 記憶の痕跡

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「これでよし、と。こまめに掃除をしていても、結構汚れってたまるものなのね」


 アナリーズは掃除の手を止めて、額の汗を拭った。

 商会が休みの週末。どうせやるなら徹底的に掃除をしよう! ……と思い立ち、アナリーズは自宅で忙しく動き回っていた。やり始めたらきりがないのは解っていたが、元々アナリーズは凝り性なのだ。

 結婚する前などは何かにハマり込むと、一日中そのことだけに費やすことも多かった。

 掃除だったり。勉強だったり。

 商会に入りたての頃は異なった価値観を持つ獣人商会員とのやり取りを円滑に進める為だけに、一日中王都にある図書館に籠って獣人に関する書籍を読み漁っていたこともある。

 真面目と言えば真面目だが、それだけ他者との関わりが少なかった、とも言える。



 アナリーズは田舎町の出身だ。近所にはたまたま年老いた獣人の学者が一人で住んでいて、小さい頃はよくその人に勉強を見てもらっていた。

 田舎町。しかも今より更に獣人が珍しい時代ではあったが、特に変なことを言う者もおらず、穏やかな老獣人は自然と町に溶け込んでいた。かなりの高齢で、現在の王都で言われているような獣人の力強さばかりを強調した恐怖の対象というよりは、『陽だまりの中でお昼寝している老猫』といった印象の方が強く、そのお陰もあったのかもしれない。

 彼が何の研究をしているのかはよく解らなかったが、気のいい老獣人は近所の子供達を集めて勉強を教えてくれていた。アナリーズもそんな中の一人だ。

 老獣人から遊びの延長のように教えられる勉強はとても面白くて、その後両親を早くに亡くしたアナリーズが奨学金を貰いながらも勉強を続けられたのは彼のお陰と言っていい。

 獣人に対してそんな印象が強かったせいだろうか。 

 就職の為、王都に在る商会で面接試験を受けた時に『この先ウチの商会は獣人国との取引に力を入れていく予定なんだ』と面接官に言われて満面の笑みになったのはアナリーズただ一人だったらしい。そのお陰もあって、アナリーズは無事に今の商会で雇ってもらえることになったのだ。
 そう言った意味ではアナリーズは恩師である獣人学者に就職先まで面倒を見てもらったことになる。

 残念ながら進学のため地元を離れている間に老学者はどこかへ引っ越してしまったらしく、お礼を言えず仕舞いになってしまったが、彼の存在は今もアナリーズの胸の中にしっかりと残っている。


「……そう言えば先生っていったい何の獣人だったのかしら?」

 可愛い耳がついていて獣人なのは間違いないが、そもそも獣人に種族があることすら理解していなかった頃の事なので正直よく判らない。しっぽでも覚えていれば少しは違ったのだろうが、あいにく教科書や黒板を見るのに忙しくてしっぽの記憶はまったくない。

 散々お世話になっておいて薄情な事この上ないが、アナリーズにとって恩師である先生はあくまでも『先生』であって、彼が獣人であることは彼を構成する要素の一つでしかなかったのだ。

 恩師のお陰もあり多種多様な獣人達が働く王都の商会で毎日楽しく働いていたが、残念ながらキラキラした都会育ちの人間の同僚とは話が合わないせいかあまり交流がなく、それもあって休みの日は家で過ごしていることが多かった。

 せっかくの休日。こうして一人で掃除をして過ごしていると、王都に馴染めず少し寂しかったあの頃のことを思い出す。

 けれど――あの頃とは違い、部屋のあちこちには確実に『夫』の痕跡が残っているのだ。


 駄目だと言っているのに夫はアナリーズの気に入っているテーブルで爪を研ぐから傷だらけだし。
 棚の上の飾りを勝手に動かすから、すぐにぐちゃぐちゃになってしまうし。


 そうした何気ない日常の痕跡が、アナリーズの沈みそうになる気持ちを慰めてくれる。


「これは……傷を隠しても無駄かしら。ううん、とりあえずやるだけはやってみよう。ふふ……爪とぎあとが全部無くなっていたら驚くかしら? あらやだ、このぬいぐるみこんなところにあったのね。もー…ボロボロじゃない。私、この子のことすごく気に入っていたのに……キレイに直るかしら?」


 そうやってアナリーズが部屋に残った夫の痕跡と格闘しているうちに、あっという間に夫不在の一カ月が過ぎていった。




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