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第3章 美しき華炎の使者
186.忙しない休日
しおりを挟む水の加護をもらってから、日常のなかでふと、気になることができた。
朝食のトーストをテーブルに置く時、ちら、とマグカップに視線をやる。
中に入っているのは、先ほど淹れたばかりの紅茶。
少し集中するだけで、その紅茶――というか、紅茶に使われている『水』が、とても濁っているのがわかった。
「…………」
バターを塗っただけの簡単なトーストを咀嚼しながら、紅い水面を見つめる。
毎朝飲んでいた、いつもと何も変わらないはずの紅茶や、飲み水。
こちらの世界の水が綺麗ではないことに気づくのに、そう時間は掛からなかった。
蛇口から出てくる水にも、キラキラしたマナの輝きはない。
空気も、汚れているように思える。
……まぁ、当然といえば当然か。
こちらの世界には、マナがないと聞いていたし。
黙々と身支度を済ませ、いつものようにブレスレットを付けた手で玄関を開ける。
ふわ、と嗅ぎ慣れた薬草とインク、紙の匂いがすると、心底ほっとした。
――こちらの世界が、好きだ。
空気も澄んでいるように思えるし、身近に微かなマナの気配を感じる。
肌に触れる空気に、ほっとするのだ。
世界を渡る玄関口として使っている小部屋の、クローゼット。
先日新しく買った若草色のワンピースに着替え、少し伸びた髪には、ミモレからもらった髪留めを飾る。
そしてひとり、最奥禁書領域へと足を踏み出した。
水の加護をもらってからの、一番大きな変化。
それが、これ――アルトが一緒でない時でも、ひとりで最奥禁書領域を歩けるようになったことだ。
この場所は、焔さんが自身の魔力で、空間をねじ曲げて作った領域だ。
力のない私は、その空間のつなぎ目がどこにあるのか分からず、ひとりで歩くと空間の隙間に落ちてしまう危険があったため、必ずアルトと一緒に歩くようにと焔さんから言われていた。
前科もあるため、私は大人しく言いつけを守り、必ずアルトと一緒に歩いていた……のだが。
加護を受け魔力が飛躍的に強くなった今、そのつなぎ目がどこなのか、容易にわかるようになったのだ。
焔さんからも許可をもらい、こうして、休日にアルトに付き添ってもらわなくても、自由にこちらの世界を出歩けるようになった。
慣れた静寂の中、衣擦れの音だけが絨毯に吸い込まれていく。
本棚の森を歩き、開けた場所にある自身の机から本を数冊抱えて、私はリブラリカ側へと移動した。
廊下を行き交う司書の皆と軽く挨拶を交わし、真っ直ぐに一般書架へと向かう。
いつもよりざわついた書架の空気に、そっと苦笑した。
私が休みの今日。
リブラリカでは、国賓である妖精の使節団を受け入れている。
先日、焔さんが王城に出向いて話し合いをした、妖精の使節団の、国内施設利用について。
国王陛下と大臣たちの話合いにより、まずはリブラリカの利用の様子を見てから、ということになったのだそうだ。
焔さんは今日、館内を利用するフェイン=ルファンたちに付きそうことになっていたはずだから、きっとこの辺りにいるはず……。
――あ、いた。
ぐるりと見渡したホールの中。
遠巻きに人垣が出来ている辺りに、遠目にも目立つ黒いローブの長身と、その隣に立つ、燃えるような赤い髪の妖精が見えた。
2人は何かを話しているようだが、ここからではどんな雰囲気なのかわからない。
……焔さん、妖精を嫌っているみたいだし、言い争いとかならないといいのだけど。
遠くからそっと見つめる焔さんは、全身を覆うローブ姿でも、凜としているように見えた。
その肩には、きらりと紅い瞳が光るアルトが乗っている。
しゃらりと揺れる、焔さんのローブの飾り宝石が、光を反射して輝いた。
……こんなに距離があるというのに。
昨日だって、笑顔で話したばかりだというのに。
その姿が見えるだけで、胸が小さく締め付けられる。
――ああ、好きだなって。
やはり、こういうのは惚れたほうが負け、というやつなのだろうか。
ぼんやりと彼らを眺めていると、近くにいた利用者の囁き声が耳に届いた。
「……あれが噂の妖精なの?本当に人型をしてるのね……怖い」
「一緒にいるのは、大賢者様だろう?ならきっと平気さ」
話しているのは、貴族ほどではないが身なりの良い、市民の夫婦のようだ。
初老の男性が妻を宥めているようだが、女性は男性の影で縮こまって震えている。
「それでも、今日は早く帰りましょう。人型の妖精だなんて、何がきっかけで不興を買うか、わからないわ……私、まだ死にたくない」
「そんな大袈裟な……。でもそうだな。妖精もひとりふたりじゃないみたいだし、さっさと帰ろうか」
……やはり、大賢者が一緒だとしても、利用者の人たちは怖いんだな。
危惧されていたような、利用者と司書たちの混乱は起きていないようだが、それでも館内で読書をする利用者は少ないように見えるし、司書たちもちらちらと妖精たちのほうを窺っている。
まあ、仕方ないか……。
「おや、リリー」
ふと、聞き慣れた声がした。
「あ……」
焔さんがこちらに気づいたようで、歩み寄ってくる。
目深に被ったフードから覗く口元が、柔らかく微笑んでいた。
「マスター、お仕事を邪魔してしまい申し訳ありません」
「気にしないで。会えて嬉しいよ。今日は休みだよね?本を借りにきたの?」
「はい、借りていたものもありましたので」
抱えていた本を少し、持ち上げて見せる。
焔さんはひとつ頷くと、顔を寄せてきて、声を落として囁いた。
「あまり長居しないようにね。彼らに関わらないように気を付けなさい」
耳に触れた彼の吐息に、びくりと飛び上がる。
体温が急激に上がった気がした。
「……はい」
「いい子だね」
そういう、甘い声を出すのをやめてもらえないだろうか。
焔さんは去り際、追い打ちのようにするりと私の髪を撫でると、フェイン=ルファンの隣へと戻っていった。
どきどきと騒ぐ心臓をなだめようと、震える息を吐き出す。
そんな私を見つめて、フェイン=ルファンがにこりと笑顔を向けてきた。
咄嗟に軽く会釈をして、すぐに踵を返す。
焔さんからああ言われた直後に、彼から話しかけられるわけにはいかない。
カウンターへ早足で移動して、本の返却を済ませる。
急いで、でも走らず、慌てずに。
マナー違反にならない程度の早足で書架を歩き、読み終わった本の続きが置いてある本棚の所へと向かう。
この隣……。
――と、最後の角を曲がった時。
ちょうど目当ての本棚の前に、鮮やかな青が見えて足を止めた。
「――あ」
驚いて声を上げると、向こうもこちらを見てぎょっとしたように後退った。
「お前……」
――『彼らに関わらないように気を付けなさい』
瞬間、焔さんの声を思い出す。
身のうちで、水のマナがとぷん、と大きく揺れる感覚がして、びくりと肩が揺れた。
見れば、借りていこうと思っていた本は、彼の立っている目の前に置かれている。
しかし、休日だからといって、こうして出くわしてしまった彼を前に、無言でその本だけを持って行くというのはいかがなものかとも思う。
一応、大変に貴重な妖精の加護石なんてものをもらってしまった、という事実もあるわけで――。
……もう、こうなったら勢いでなんとかするしかない。
私はそう決意して、その場でがばっと頭を下げた。
「あの……!先日は、貴重な贈り物をありがとうございました!本日は非番のため、これで失礼いたします!」
「え、あ、おい――」
彼の言葉を聞かないうちに、と、言うことだけ言った後は、素早く目的の本を書棚から引き抜いて、素早くその場から逃げ出した。
もう、さっさとあちらの世界へ戻ってしまおう。
……アルトがいないうちに、やりたいこともあるし。
私の今回の休日は、忙しないものになってしまったようだ。
帰り際、ちょっとだけ肩を落とした梨里の背中を、焔が静かに見送っていた。
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