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第3章 美しき華炎の使者
169.虹は輝いて
しおりを挟む「そうそう。上手いよ。……そのまま集中して」
「はい――」
耳元に掛かる吐息。
背中に感じる、焔さんの低い体温。
前に伸ばした私の両手には、焔さんの手が添えられている。
手の平の間には、大きな水の塊が……液体が、ぽちゃぽちゃと音を立てながら漂っている。
午前中、人通りのないリブラリカの裏庭――薬草畑のある場所が、私たちの授業の場所だった。
ふわりと温かな熱を、手の平全体に感じている。
これが、マナらしい。
私は水のマナと相性が良いらしく、水を操る魔術について、焔さんから教えを受けていた。
この魔術教室は、ロランディアから帰ってきてから少しずつ、不定期に開催されている。
シャーロットが城に行ってしまってからも、自分にできることとして、仕事の合間に続けていた。
「梨里さんは、本当に魔術のセンスが良いみたいだね。普通の子が何年も掛けて覚える感覚を、すぐ覚えられてる」
「そう、ですか?」
「うん。水はね、とても穏やかな力だけれど、その内に、とてつもなく大きな力を持っている……天から降り注ぐ雨水が、草木の癒やしとなることもあれば、集まって濁流となり、町や人を、押し流してしまう事もある」
こうして、魔術を実際に扱いながら、焔さんは色々な講義をしてくれる。
教え方は、ロランディアに居たとき先生をしてくれていたリヒトー・レグルとは全く違い実践寄りだが、とてもわかりやすい。
そして何より、焔さんの低くて穏やかな……大好きな声が、至近距離で綺麗に響いて、私の耳に届く。
授業中、何度もこうして至近距離になったり、触れ合ったりすることがある。
――そう、今みたいに。
……いやいや。これで集中しろって……!
無理だと言いたいところだが、折角時間も手間も掛けて教えてもらっているのだ。
なんとか、授業中だけでも気にしないように……集中、できるように!
こんな調子で、毎回全力で挑んでいるからだろうか。
この授業……魔術の腕だけでなく、精神面がかなり鍛えられている、気がする。
「あっ」
集中が切れたから、だろうか。
大きな水の玉が、一瞬もよよんと大きく歪んだ。
「おっとっと」
焔さんの手が、私の手をぎゅ、と握る。
途端にじわりと、両手が私のマナとは違う温度の力に、包み込まれる。
揺らめいて崩れてしまいそうだった水の塊は、すぐにたぽんと綺麗な丸い形に戻った。
「ちょっと危なかったね」
少し楽しそうな、笑顔の見える声がした。
どくん、と鼓動が跳ねるのは、仕方ないと思う。
が……いけない、今は授業中。
「ごめんなさい」
「いや。ここまでよく出来ていたからね。最後の仕上げ、しようか」
そう言った焔さんの手に、ほんの少し力が籠もって……私の両腕が、ゆっくり持ち上がっていく。
ちゃぷん、と小さな水滴を生みながら、水の塊もゆっくりと高く登っていく。
己の手から遠くなるほどに、水の塊の感覚も遠くなっていって……制御するのが大変だ。
「うん、焦らなくていいから、ゆっくり。もう少しあげて」
「はい……」
「大丈夫だよ。魔術の基本は、呪文なんかじゃない。イメージすることだ。あの水が、もっと高く登っていくのを、どれだけ信じられるか。それがそのまま、力の大きさになる」
イメージが力になる。
それは、焔さんが先生になってから、何度も教わっていることだ。
レグルは、一番大切なのは呪文や魔術の意味を理解することだと言っていた。
それも大切なのだろうけれど……それでも、焔さんの言うように、イメージする力がそのまま魔術に影響すると、信じる力が大切だと。
そちらのほうが、胸にすとんと落ちてくるのはなぜなのだろう。
――きれい。
この薬草畑は、リブラリカの建物の影に作られているため、今の時間帯は陽が差さない。
しかしいつの間にか、高く登っていった水の塊は、リブラリカの屋根を越え、きらきらと陽の光を反射して輝いていた。
良い天気の本日、雲の少ない、美しい水色の空。
水の塊は、集めた光を乱反射して、いくつもの光の粒を地上へ降らせていた。
その輝きに、ふと「虹が見たい」と思った――その瞬間だ。
水の塊が突然ぎゅっと中心に圧縮されて……ぱんっと勢いよく弾けていた。
「っ!」
焔さんの、息を呑む音が聞こえる。
弾けた水は、細かな滴になって薬草畑全体に降り注ぎ――。
「虹……!」
先ほど思い描いたような、七色の虹が私たちの頭上に架かっていた。
どのくらい、その景色に見とれていただろう。
はっと我に返ると同時に、勝手なことをしてしまったこと、焔さんに謝ろうと慌てて振り向いて――。
「……あ」
頭上を見上げ、目を丸く……いや。
きらきらと目を輝かせていた焔さんの表情に、時が止まった。
私が彼の表情に見とれていた数秒で、虹は夢のように消えてしまって。
「……梨里さん」
「は、はい!」
「すごい……すごいよ!今の、見た?!」
子供のように、笑顔を輝かせる想い人の姿に、心臓がぎゅうっと締め付けられた。
「こう、きらきらーって!虹を見たかったのかな?すごいね、もうあんなことができるようになったんだ!やっぱり才能あるよ!」
楽しそうに言いながら、優しく頭を撫でられる。
「ありがとう、ございます……!」
ぎゅっとスカートを握り絞めて、目を閉じ俯く。
こんな真っ赤な顔……見せられない!
――嬉しい。
私が作った虹が、この人のこんな笑顔を引き出した。
そのことが、本当に嬉しい。
「梨里さんは穏やかで優しくて……だからこそ、水との相性がいいのかもしれないね。相性の良いマナは、その人の本質を表す、とも言うし」
「そうなんですか?」
「ああ。……僕の相性が良いマナは何か、知ってるよね?」
「……火、ですよね?」
「うん。そう。……全てを無に帰す、破壊の象徴――」
焔さんは、最後の方を呟くように言って、己の手の平を見つめていた。
それまでの笑顔が消えて、すっと冷たい表情になった焔さんに、ぎゅっと手を握りしめる。
彼が、建国の際の戦いで、それはそれは激しい炎の魔術を操り、オルフィードの大半を焦土にした……という話ならば、シャーロットから教わっている。
その歴史から、恐れられ、貴族たちからは「焔の大賢者」などと呼ばれている。
事実として、理解はしている。
だけど私は、他でもない彼に、そんな悲しい目をして欲しくなかった。
伸ばした手でそっと、焔さんが見つめていた手を握りしめる。
「梨里さん?」
「火は、温かいですよね。冷え切った心や身体を温めてくれるし、ほっとさせてくれるような、不思議な力がある……と、思いませんか?」
少なくとも私にとって、焔さんの遣う魔術はいつでも温かい、優しいものだった。
私のところへ駆けつけてくれた時も。
私を守ってくれた時も。
いつだって、あの綺麗な紅色のマナの粒子が、私を傷つけることなんてなかった。
だから、激しい一面があったとしても、焔さんの魔術を恐ろしいだなんて……破壊の象徴だなんて、思ったことはない。
「……そう、だね」
ぎゅ、と握り返された手が、温かい。
焔さんは、ほんの少し照れたような、柔らかい笑みを浮かべてくれた。
「それじゃあ、今日はそろそろ終わりにして、アルトのところに帰ろうか」
「待たせすぎちゃうと怒られちゃいますね」
焔さんと繋いだ手が放されて、代わりにそっと背を押される。
促されるまま、建物に入る扉に向き直った、その時だった。
「……!」
ぴたり、と焔さんが歩みを止める。
「焔さん……?」
私が首を傾げた時には、焔さんはもう、いつも通りに深くフードを被ってしまっていて。
「焔さん、どうかしました?」
「……招かれざる客、というやつかな」
焔さんが、低い声でそう呟いたすぐ後。
大きなどよめきと複数の悲鳴が、リブラリカのどこかから上がった。
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