大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第3章 美しき華炎の使者

155.酒と男と、夜話を<2>

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「……取り乱して、悪かったよ」

「気にしなくていい」



 彼の涙は、すぐに収まった。

 オリバーは、何事もなかったような顔をして、グラスに残った酒をぐいと煽った。

 きっと、衝動的なものだったのだろう。

 何かを思い悩んでいる時には、一度涙を流すことが良いと記載されている本もあったな。

 彼の顔も、始めに見た時よりずっと明るくなったように見える。

 精神的に、良い効果があったのだろう。

 それにしても……ロイアーが婚約するという話だけで、ここまでショックを受けるとは。



「君は、それほどまでにロイアーの事が好きなのか?」

「ぶっ」



 問いかけた途端、オリバーは口に含んでいた酒を吹き出しかけた。

 そんなに驚くようなことを言っただろうか?

 彼の様子や先ほどの反応から、そう感じたというだけだったのだが。



「……げほ。イグニスさ……ほんと、時々すごいぶっとんでるよな……」

「そう?」

「ああ……。そんな直球で聞かれるとは思わなかったよ」



 オリバーは口元を拭いつつ、目線を下げたまま、思いがけないほど優しい声で言った。



「俺は……小さい頃から、あいつのことだけ見てきたからな」

「子供の頃からってこと?」

「うん。あいつ、小さい頃はいつも俺の後ろをちょこちょこついて回ってて……嬉しかったんだ、俺。でも、家柄が釣り合わないんだってわかってからは、俺の方から、距離を置いてた。最近になってまた、リリーのお陰であいつと食事したり、出掛けたりなんてことができるようになって、気持ちが大きくなってた……かもな」

「釣り合わないって分かった時点で、諦めることはなかったのかい?」



 俺の問いかけに、オリバーは目を丸くして軽く吹き出した。

 また、何かおかしなことを聞いてしまったのだろうか。



「そうだなぁ……。そんなふうに思ったこともあった気がするけど。俺は結局、諦めがつかなくて。こんな体たらくなわけだよ。まーそうやって、諦める人も居るんだろうけどさ、そんな理由で諦めきれるような想いなら、それは本気で好きじゃなかったんだろうって、俺は思うよ」

「……簡単に諦められるなら、本気じゃない。……ってこと?」

「そうじゃないか?」

「…………そう、だね」



 オリバーに同意を求められて、俺は、咄嗟に返す言葉が思い浮かばなかった。

 彼が言っていることは、わかる。

 恋愛に限った話でなくても、だ。

 どんなことでも、簡単に諦めがついてしまうようなことに、その人が本気だったのだ、とは言えないだろう。

 物事に対する、真剣な気持ちの強さ……とでも言うのか。

 理屈として理解はできても、恋愛という分野でのその気持ち、というのは、どうしても想像がつかない。



「とにかく、オリバーがロイアーのこと、諦められないくらい、本気で好きなんだってことはわかった」



 ごん、と音がして、見ればオリバーが机に突っ伏していた。

 先ほどから、吹き出したり額をテーブルに打ち付けたりと、奇行が多い男だ。

 酔いは覚めているように見えたけれど、実はまだまだ酔っているのかもしれない。



「……そうやってはっきり言葉にされると、さぁ……その……」

「うん?」



 何かもごもご呻いているが、よく聞こえない。



「悪い、よく聞こえなかった」

「いや……なんでもない」



 のろのろと顔を上げたオリバーは、額を少し赤くしながら、グラスの酒をまたぐいと煽った。

 そんな彼の様子を観察しながら、俺も残り少ないグラスを傾ける。

 ……本当に、おかしな男だ、と思う。

 それほどに本気だというのなら、なおのこと。

 今の状況で腐っているだけの彼の行動が、俺には理解できなかった。



「ねぇ、そんなに本気で好きだというなら、どうしてロイアーに想いを伝えないんだ?婚約の話だって、覆るかもしれないだろう?」

「そんなこと……できるわけないだろ。そもそも、家柄が釣り合ってないんだ。思いをつ……、その、伝えたところで、俺なんか門前払いだよ。ロイアーの当主が許すはずがない。それに……あいつだって、俺より王族に嫁いだ方が、幸せになれるだろうし」



 尻すぼみになりながらもそう言った彼の声音には、不服そうな響きがあった。

 なるほど、相手のことを想う気持ちから、身を引こうとして……でも、決心がつかなくて、というわけか。

 自分の気持ちよりも相手の気持ちを優先する、か……。

 うん……やっぱり、恋愛ごとというのは、面倒な考え方ばかりしてしまうもののようだ。



「じゃあ、問題は家柄ってことかな」

「そうだなぁ……。もしもブリックス家が、ロイアー家に釣り合うような家柄だったなら、ここまで悩むこともなかったんだろうけど。でも、生まれなんて変えられるものでもないしな」



 そう言って、オリバーは肩を竦めた。

 彼の言葉に、ふむ、と考え込む。

 正直なところ、ロイアーやオリバーが誰と結婚しようが、特に関心はない。

 家柄や貴族社会の構造を考えれば、ロイアーが猪王子と婚約するのは妥当な流れだと思う。

 でもまぁ、ほんのわずかとはいえ、親しくなったこの男がしょぼくれているのなら、ちょっとくらい手を貸してやってもいい、と思わなくもないのだが……。

 迷う俺の脳裏に思い浮かぶのは、王宮からの招待状を手に俯いていた、梨里の姿だ。

 親しくしているロイアーの婚約話が決まってからというもの、彼女はずっと、何処か浮かない様子で気落ちしてしまっている。

 梨里の憂いが払えるというのなら、あの婚約話を破談にしてしまって、ロイアーはオリバーと結婚するようにしてやるのもいい。

 自分から望んだ訳ではないが、都合良く、俺には「大賢者」という肩書きがある。

 梨里のためなら、どれだけ面倒なことでもしてやろうと思える。

 だから俺は、今ある情報から、最善だと思える提案をすることにした。



「なぁオリバー」

「ん?」

「それなら、俺が国王に言おうか?ロイアーの婚約話を破談にして、オリバーと結婚させるようにって」

「は……?」



 ぽかん、と、オリバーが再び、ぽっかりと口を開けて呆けた顔になった。



「俺は大賢者だからさ。俺がそうしろと言えば、婚約話なんて、すぐになくなるよ?家柄なんて関係ない。結婚だって、好きに出来る」



 オリバーは数秒間、間の抜けた顔で固まっていた。

 ――が。

 大きく吹き出したと思ったら、今度は腹を抱えて笑い出したのだ。

 さすがにこれは、俺も面食らってしまった。

 今の会話の何処に、笑うような部分があっただろうか。

 オリバーは、笑いすぎで息も絶え絶えになりながら、目尻を手の平で拭っていた。



「ははは、は……悪い、その、笑って……。つい」

「いや……何か、面白かったか?」

「うん、あー……はは、面白かった、というか、さ。あまりにも力業すぎる提案で。驚いて」



 まぁ、確かに力業と言われても仕方ないような提案ではあるが。

 そこまで大笑いするような会話の流れでも、なかったように思う。

 ……本当に、何を考えているのかわからない男だ。



「いやほんと、俺のこと思って言ってくれたのに、笑うとか……悪い。悪かったよ」

「別に構わないけど……」



 笑っているのは構わないが、俺には理由がさっぱりわからない。

 オリバーはその後もひとしきり笑って、やっと落ち着いた頃には、元々の彼の、明るい笑顔が戻っているようだった。



「ありがとうな、イグニス。でもその提案は、気持ちだけもらっておくよ」

「……いいのか?お前がしたいようにできるのに」



 俺がひとこと、国王に言うだけ。

 それだけで、オリバーは彼の望む未来を手に入れられるというのに。

 首を傾げる俺に、オリバーは笑顔で首を振った。



「いいんだ。そんなことしたら、一生後悔すると思うから。あいつの気持ちを、大切にしてやらないと」

「…………」

「わからない、って顔してるな。……これはさ、多分、本気になったヤツにしか、わかんない気持ちなんだと思うよ」



 恋愛経験がなければ、理解できない気持ち……か。

 オリバーは、その場で居住まいを正すと、ぐっと深くこちらへ頭を下げた。



「イグニス。今日は本当にありがとう。俺、イグニスと話せたお陰で、自分がやらなきゃいけないこと……何となく見えてきた気がする」

「俺は結局、何もしてないよ」



 ただ会いに来て、一緒に酒を飲んで、話しただけだ。

 提案も断られてしまったし、本当に何もしていない。



「いいや。そんなことないさ。会いに来てくれたのがイグニスで、ぶっ飛んだ話とか聞いてたら、気持ちの整理がついたんだから。イグニスじゃなきゃ、こんなふうに立ち直ってなかったろうし」

「……そうか。それならよかった」

「ああ。本当にありがとう。……あ、そうだ!料理奢ってくれるんだろ?話してたら腹減ったな、持ってきてもらおうぜ!」

「そうだね。そうしようか」



 やつれた見た目ではあるものの、すっかり元の快活さを取り戻し始めたオリバーは、そのまま「マスターに声を掛けてくる」、と個室を出て行った。

 1人になった個室で、グラスに残っていた最後の酒を、喉へ流し込む。

 やがて、大量に運ばれてきた料理と酒をオリバーと共に楽しみ、日付が変わる頃に、店の前で彼と別れた。

 別れ際、オリバーは俺の肩を軽く叩いて言った。



「イグニスも、本気で誰かを想うこの気持ち……いつかわかるといいな」



 俺が、オリバーの気持ちを理解できないことを気にしていたのに、どうやら気づいていたらしい。

 夜に沈む城下街を、オリバーは軽い足取りで去って行く。

 痩せて細くなったその背から、夜空へと視線を移すと、綺麗な月が視界に輝いた。







 ――誰かを本気で好きになんて、なることはないだろうけれど。

 だってほら、この傷は、こんなに冷たく、深い。

 ねぇ、梨里――。



 誰も好きにはならないと、誰にも思いを寄せたりはしないと……あの時決めた覚悟には、何百年も経つうちに分厚い埃が積もっていて。

 知らないうちに脆くなっていたその覚悟は、あと少しのきっかけがあれば簡単に崩れてしまうのだということにも――この時の俺は、気づかないでいたのだった。









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