大賢者様の聖図書館

櫻井綾

文字の大きさ
上 下
157 / 197
第3章 美しき華炎の使者

154.酒と男と、夜話を<1>

しおりを挟む



 もう、ここ数日……ずっとこうだ。

 寝て起きて、この店に来て、酔い潰れるまで強い酒を飲む。

 自分が、現実から逃避しているだけなんだって……嫌になるほどわかっている。

 それでも今は、他に何もする気力が沸かなくて……そんな自分からも、屋敷の使用人たちの視線からも逃げるように、今日もここに来て、何杯も酒を煽っていた。



「…………」



 時折、マスターからの心配そうな視線を感じるけれど、もう最初の時ほどうるさく言ってくることはなくなった。

 何を言われても同じことを続ける俺に、愛想を尽かしたんだろう。

 少し乱暴にテーブルに置いたグラスの中で、丸くカットされた氷が、場違いなほど涼やかな音を立てる。

 じっと見つめると、酒で濡れた氷がきらきらと店内の光を反射して……。

 酔いが回っていたというのもあるけれど、その光にあいつのことを思い出していたから、また新たにやってきた客が、まっすぐに俺の隣の席に腰掛けたのにも、気づくまでに数分かかった。



「やあマスター」

「あら?貴方、確かオリバーちゃんの……」

「うん。彼と同じもの、頂けるかな?」

「勿論よ、ちょっと待ってね!」



 そんな会話が聞こえてくる。

 マスターの声が嬉しそうなのが、気になった。

 なんだ、隣に座ったの……俺の知り合いか?

 こんな酒の飲み方をしているうちは、友人たちはみんなそっとしておいてくれたってのに……。

 かなり億劫に感じたが、顔を上げて隣が誰なのか見てやろう、と思った。

 ゆっくりと上がっていく視界の中で、隣のやつは足下からずっと、黒い上質なローブが続いていて……。

 ……ん?あの装飾、見覚えがあるような。

 ったく、こんな大衆居酒屋に、こんなずるっずるのローブなんか着て来るやつなんて――。

 と。

 ついにその人物と正面から目と目が合って、次の瞬間に俺は、ぽかんと阿呆のように口を開けてしまった。



「やあ、オリバー。聞いてはいたけど、随分とやつれたんだね」

「え……あ……」



 男の顔は見えない。

 いつも通り目深に被ったフードから、にこやかな口元だけが覗いている。

 でもこの声を、このローブ姿を、どれだけ酔っていても見間違えるはずなんてなかった。



「だめだろ、ちゃんとご飯も食べなくちゃ。……あ、ありがとう」

「どういたしまして」



 俺に小言を言いながら、マスターからグラスを受け取るローブの男。



「あ……ちょ、ちょっと……」



 彼は俺の言葉をスルーして、カウンターの上に無造作に金貨を置いた。



「マスター、ちょっと奥の部屋、借りれるかな?しばらくふたりきりにしてほしいんだ」

「もちろんよ。でもこれじゃあ貰いすぎだわ」

「構わないよ。気が引けるなら、後で声掛けるから、また美味しい料理頂いてもいいかな?」

「まぁ!そういうことなら喜んで。そっちの通路、一番奥の部屋を使って頂戴。隣も開けておくようにするわ」

「ありがとう。……ほら、行こうオリバー」

「え、え」



 さっさと話を付けてしまって、そのまま俺の腕を引いて席を立たせようとする男に、俺はずるずるとついていくしかない。



「あの、ちょっと……い、いぐに」

「相当酔ってるみたいだな。まったく……僕より若いんだから、ほら、しゃきっとするんだよ」

「……はい」



 酔いなんて、さすがに醒め始めてしまっている。

 いつになく強引な彼に逆らう元気もなく、何故彼がここにいるのか、と、混乱する頭のまま、俺は奥の個室へと連れて行かれたのだった。









 個室に腰を据えて、向かい合って座ること数分。

 イグニスはいつものように優雅に足を組んで座ると、酒のグラスを軽く煽った。

 顔を隠しているのに、そんな仕草が様になる……本当に、格好いいやつだなと、男の俺でも思う。

「あ、これ美味しいね。お酒は久しぶりに飲んだ気がするけど」

 呑気にそんなことを言う彼に、俺はのろのろと口を開いた。



「……それ、結構強いお酒だけど。イグニスって、割とお酒、飲めるんだな」

「んー……よくわからないけど。お酒で酔うって経験は、今までしたことないかな」



 ……それって、相当強いんじゃ。

 俺の前に置かれたグラスは、溶けかけた氷がゆらゆらしている。

 くい、と一口飲むと、混乱で固まっていた口がまた、少し緩んだ気がした。



「それで?……なんでこんなとこに来たんだよ」

「たまたま、って答える所なんだろうけど。君は馬鹿じゃないからね。正直に言うよ」



 イグニスの置いたグラスは、飲み始めたばかりだというのに、もう中身が半分ほどなくなっていた。



「ロイアーに頼まれたんだ。君が急に仕事に来なくなったから、心配だって」

「……シャーロットが」

「うん。それでこう、ちょちょっと魔術で探して、会いに来た」

「……そう」



 ぎゅうと胸が痛んだのは、きっと気のせいだ。

 ……あいつが、心配している、なんて。



「それで、どうしたんだ?何か用事があって休んでいるみたいじゃなさそうだけど」

「…………」

「僕には、言いづらい?」

「……いや……」



 本音を言えば、言いづらい。

 こんな気持ちを吐露なんてしたくない。

 だが……心の何処かで、多分。

 誰かに話を聞いて欲しいとも、思っていた。

 黙り込んだまま、ちらり、と彼の様子を盗み見る。

 彼は沈黙に焦れるでもなく、自分のグラスを手にまた酒を楽しんでいるようだった。

 彼のグラスはもう、空になりそうだ。

 ……これ、本当に強い酒、なんだけど。

 どうなってんだ大賢者。

 そんなことを思って――そこでハッとした。

 目の前にいる彼は、大賢者イグニスだ。

 普段から他者と関わることなく、リリーだけを傍に置いて、最奥禁書領域に引きこもっている男。

 何百年も生きているという……。

 この、苦しい痛みも、気持ちも……もしかしたら、彼ならば受け止めてくれるんじゃないだろうか。



「別に、言いたくないならいいんだ。無理に聞こうなんて思ってないから」

「あ……」



 彼は、優しく口元を緩めてそう言った。

 淡泊な物言いから、本当に俺のことなどどうでもいいと思っているのが伝わってくる。

 だから、かもしれない。



「話しないならさ、さっき言ってた食事。持ってきて貰って一緒に食べようか?」

「あの、さ……イグニス」

「ん?」



 かり、と爪の先で、グラスの表面を撫でる。

 今まで誰にも話したことがなかったこの気持ちを、この相手になら、話してもいいと思ったのは。



「聞いて、もらえないか……?お、俺……」

「うん」

「俺さ……その、シャーロットの婚約話が……その、ショック、で……」

「うん」



 ひく、と喉が鳴ったのは、不可抗力だ。



「俺……おれ……」

「うん」



 優しい相づちは、俺の返答を柔らかく促してきて。



「おれ……っ、もう……くそ……」

「……うん」



 その後はもう、嗚咽ばかりが口から漏れて、言葉が出てこなかった。

 向かいから伸ばされたイグニスの手が、ぽんぽんと俺の肩を叩く。

 ――俺の淡い想いを、そういえばこいつは知ってるんだった。

 会いに来てくれたのがイグニスで良かったと、心からそう思った。









しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約者が王子に加担してザマァ婚約破棄したので父親の騎士団長様に責任をとって結婚してもらうことにしました

山田ジギタリス
恋愛
女騎士マリーゴールドには幼馴染で姉弟のように育った婚約者のマックスが居た。  でも、彼は王子の婚約破棄劇の当事者の一人となってしまい、婚約は解消されてしまう。  そこで息子のやらかしは親の責任と婚約者の父親で騎士団長のアレックスに妻にしてくれと頼む。  長いこと男やもめで女っ気のなかったアレックスはぐいぐい来るマリーゴールドに推されっぱなしだけど、先輩騎士でもあるマリーゴールドの母親は一筋縄でいかなくて。 脳筋イノシシ娘の猪突猛進劇です、 「ザマァされるはずのヒロインに転生してしまった」 「なりすましヒロインの娘」 と同じ世界です。 このお話は小説家になろうにも投稿しています

【完結】身を引いたつもりが逆効果でした

風見ゆうみ
恋愛
6年前に別れの言葉もなく、あたしの前から姿を消した彼と再会したのは、王子の婚約パレードの時だった。 一緒に遊んでいた頃には知らなかったけれど、彼は実は王子だったらしい。しかもあたしの親友と彼の弟も幼い頃に将来の約束をしていたようで・・・・・。 平民と王族ではつりあわない、そう思い、身を引こうとしたのだけど、なぜか逃してくれません! というか、婚約者にされそうです!

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

陛下から一年以内に世継ぎが生まれなければ王子と離縁するように言い渡されました

夢見 歩
恋愛
「そなたが1年以内に懐妊しない場合、 そなたとサミュエルは離縁をし サミュエルは新しい妃を迎えて 世継ぎを作ることとする。」 陛下が夫に出すという条件を 事前に聞かされた事により わたくしの心は粉々に砕けました。 わたくしを愛していないあなたに対して わたくしが出来ることは〇〇だけです…

冷宮の人形姫

りーさん
ファンタジー
冷宮に閉じ込められて育てられた姫がいた。父親である皇帝には関心を持たれず、少しの使用人と母親と共に育ってきた。 幼少の頃からの虐待により、感情を表に出せなくなった姫は、5歳になった時に母親が亡くなった。そんな時、皇帝が姫を迎えに来た。 ※すみません、完全にファンタジーになりそうなので、ファンタジーにしますね。 ※皇帝のミドルネームを、イント→レントに変えます。(第一皇妃のミドルネームと被りそうなので) そして、レンド→レクトに変えます。(皇帝のミドルネームと似てしまうため)変わってないよというところがあれば教えてください。

「白い結婚最高!」と喜んでいたのに、花の香りを纏った美形旦那様がなぜか私を溺愛してくる【完結】

清澄 セイ
恋愛
フィリア・マグシフォンは子爵令嬢らしからぬのんびりやの自由人。自然の中でぐうたらすることと、美味しいものを食べることが大好きな恋を知らないお子様。 そんな彼女も18歳となり、強烈な母親に婚約相手を選べと毎日のようにせっつかれるが、選び方など分からない。 「どちらにしようかな、天の神様の言う通り。はい、決めた!」 こんな具合に決めた相手が、なんと偶然にもフィリアより先に結婚の申し込みをしてきたのだ。相手は王都から遠く離れた場所に膨大な領地を有する辺境伯の一人息子で、顔を合わせる前からフィリアに「これは白い結婚だ」と失礼な手紙を送りつけてくる癖者。 けれど、彼女にとってはこの上ない条件の相手だった。 「白い結婚?王都から離れた田舎?全部全部、最高だわ!」 夫となるオズベルトにはある秘密があり、それゆえ女性不信で態度も酷い。しかも彼は「結婚相手はサイコロで適当に決めただけ」と、面と向かってフィリアに言い放つが。 「まぁ、偶然!私も、そんな感じで選びました!」 彼女には、まったく通用しなかった。 「なぁ、フィリア。僕は君をもっと知りたいと……」 「好きなお肉の種類ですか?やっぱり牛でしょうか!」 「い、いや。そうではなく……」 呆気なくフィリアに初恋(?)をしてしまった拗らせ男は、鈍感な妻に不器用ながらも愛を伝えるが、彼女はそんなことは夢にも思わず。 ──旦那様が真実の愛を見つけたらさくっと離婚すればいい。それまでは田舎ライフをエンジョイするのよ! と、呑気に蟻の巣をつついて暮らしているのだった。 ※他サイトにも掲載中。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

処理中です...