大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶

146.答えと答え

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「焔さん、私、貴方のことが好きです」

 彼女の言葉を聞いたその瞬間――世界中が、呼吸を止めてしまったかのような。
 全ての刻が、止まってしまったような衝撃を、全身で感じた。

「――っ!」

 彼女の柔らかな声と、その幸せそうな表情に、一瞬にして身体中が満たされて……それから、ぶわりと溢れそうになった。
 溢れそうになっているのは、なんだ?
 身のうちから湧き出てくる、この温かな気持ちは?
 彼女からの「好き」の言葉なら、今まで何度か聞いているはずだ。
 それでも、今この時に告げられた、この「好き」は、何を意味しているのか……それがわからないほど、愚かではないつもりだ。
 今までのような、戯れとは違う彼女の告白に、感じたことのない感情――認識したことのない己の「何か」が溢れ、圧倒されそうになった瞬間。
 俺は、それが何なのかに気づき――。
 また次の瞬間には、全身に冷水でも浴びせられたかのように、さーっと足の先まで冷え切っていった。
 ――嗚呼。
 俺は今、何を。
 なにを、おもった。
 それ以上、目の前の梨里を見ていられなくて、目元を隠すように片手で覆って俯いた。
 ぎゅっと閉じた瞼の裏――ちらつくのは、梨里ではない、記憶の中の少女。
 俺は――俺には、こんな感情許されるはずがないのに。
 ……わかっている、はずだ。
 先ほど感じたこの気持ちの正体に、手が届きそうだった。
 だがその答えを、手に入れてはいけない。
 あの子に酷い仕打ちをした自分が……こんな感情を、持ってはいけない。
 ……危ないところだった。

「……焔さん?」

 顔を伏せたままでいる俺を心配してか、梨里が声を掛けてくる。
 このままでは、いられないな。
 ひと呼吸のうちに胸の中を整理して、体裁を取り繕う。
 ……こんなことばかり上手くなって。
 年なんて、無駄に取るようなものではない。

「あ、ごめん。その……どう答えたらいいか、と思って」

 顔を上げた俺は、いつものように笑えているだろうか。

「そうですよね。突然、すみません。驚きますよね」

 彼女はほんのり頬を赤らめて、頬に掛かる髪を掻き上げる。
 照れ隠しのようなその仕草も、普段通りのほわりとした微笑みも――本当に、手を伸ばしたい程、なのに。
 今すぐ、この腕の中に閉じ込めてしまいたいのに。
 胸が、痛い。
 そんな俺の心中など想像もしないだろう彼女は、「本当にすみません」と苦笑した。

「あの、お返事とか、その……急、ですし。今すぐじゃなくても――」
「――ごめん」

 彼女の言葉を、できる限り自然に、遮った。

「――ぇ」
「ごめん、梨里さん。……僕は、君の気持ちに応えることは、できないんだ」

 泣かせてしまうだろうか。
 そんなことはまったく望んでいないけれど。
 ――どうか、どうか傷つかないで。
 そうなることがわかっていて、矛盾した祈りを抱えながらの、精一杯の謝罪だった。
 長椅子の上、座ったままぐっと頭を下げる。
 ……この数百年、誰かに頭を下げたことなんかなかった。
 でも彼女には、地に這いつくばることさえ厭わないくらいの、申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。

「……僕は、君のことが好きだよ。でも、君が今、僕に告げてくれたのは……そういう意味の、好き、でしょう?」
「……はい」

 頭を下げたままだから、彼女の表情は見えない。
 帰ってきた言葉が、想像していたよりもしっかりとしていて、思わず頭を上げてしまった。
 真っ直ぐに合ってしまった視線。
 彼女は、泣いてしまうかと思っていたのに……予想に反して、真剣な眼差しに驚いた。
 驚いて、言葉を飲み込んでしまった俺に、梨里は再び、はっきりと頷いて同じ言葉を繰り返した。

「はい。……私は、そういう意味の好き、ということを、お伝えしました」

 その眼差しの強さに、今まで知らなかった、彼女の新たな一面を見つけたような気がした。
 梨里は、こんなに強く、綺麗な女性だっただろうか。
 俺がそんなことを考えている間にも、彼女はこちらを見つめたまま、ふっと僅かに瞳を揺らして言葉を続ける。

「……焔さんに、受け入れて頂けないかもしれないということも、なんとなく、予想……していました」
「え」
「聞いても、いいですか?……そのごめんの理由は、その……ザフィア様の、妹姫様……なんでしょうか」
「なっ……!」

 再び、鼓動が跳ね上がった。
 ――どうして梨里が、そのことを?
 声を上げかけた俺に、がばっと勢いよく頭を下げたのは、今度は梨里のほうだった。

「ごめんなさいっ!聞かれたくないような話を、知ってしまって……っ」
「…………」

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。
 目の前で、うなじが見えるほど頭を下げた彼女の肩は、小さく震えていた。
 すう、と息を吸い込んで、心臓を宥める。

「……それ、誰から聞いたの?」

 俺の問いかけに、びく、と彼女が小さく震えた。

「……ロランディアで、ヴィオラさんから……」
「ああ……」

 全く、あの厄介魔女は、相変わらずろくな事をしない。
 恐らく、聞く気もない梨里に、無理矢理話して聞かせでもしたのだろう。

「顔、あげて。大体わかったから。どうせ無理矢理聞かされたんでしょう?」
「……はい」
「話、聞いたなら聞いたでいいよ。本当のことだから」
「…………っ」

 梨里さんは傷ついた顔をして、開き掛けた口をぎゅっと結んでしまった。
 自嘲気味に、ふっと笑みが漏れる。

「僕は、君が聞いたとおり、酷いことをしたんだ。だから……僕が誰かを好きになることは、ないよ。僕だけ幸せになんて、なっちゃいけないんだ」

 しん、と静寂が落ちる。
 黙り込んだ俺たちの傍で、アルトさえも身じろぎしない。
 たっぷり数分間は経っただろうか。
 先に動いたのは、梨里だった。

「……わかり、ました」

 小さく肩を上下させて、大きく息を吸って、吐く。
 小声で、でもはっきりとそう言った彼女は、身体を俺の方に向けると、意外にもすっきりしたような笑顔を浮かべていた。

「焔さんが、そのつもりだということはわかりました。でもだったら、私、諦めなくてもいいですよね?」
「……え、っと?」
「他に誰か、想ってらっしゃる方がいる、とか。そういうわけじゃないなら、私が焔さんを好きなままでも、問題はないですよね?」
「……あー、えっと、うん……。うん?」

 俺の理解が追いつかないうちに、梨里はうんうん、と何かを納得しているようだ。
 確かに、俺が誰かを好きにならない、と決めているだけで、梨里が俺を好きなのは別に、諦めろという話ではない……?
 のだろうか?
 困惑するまま彷徨わせた視線の先、たまたまアルトと目が合った。
 呆れきったような半眼に、これ見よがしな溜息まで吐かれる。

「はい、それじゃあ、お話は終わりです。残りのお茶、飲んじゃってください。片付けますから」
「あ、うん……」

 梨里さんはそう言って、立ち上がると後片付けを始めてしまう。
 しばらくその背を見つめながら、残りのお茶を飲んだけれど……普段と何も違わない彼女の様子に、俺はそれ以上何も言えず。
 様々な感情を持て余した俺を残して、梨里はいつも通り、執務室から仕事に出掛けていってしまった。

「では、焔さん。いってきます」
「ああ、いってらっしゃい」

 ぱたん、と閉じる扉の隙間から、彼女の肩に乗ったアルトが、最後までじと目を向けてきていた、ような。

「…………はぁー」

 再びひとりに戻った部屋の中。
 俺は再び、長椅子へと身を投げ出したのだった。





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