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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶
143.涙、青々<2>
しおりを挟む「私……ライオット王子殿下と、婚約いたしますの」
「……っ」
すでに知っていることのはずなのに、彼女の口から、彼女の言葉で直接聞くのはやはり、胸が痛んだ。
「私も驚きましたわ。陛下から是非に、と来たお話なのですって」
悲しそうな声で、それでも力なくふふ、と笑うシャーロット。
「ロイアーは、オルフィード国建国当初から続く名門。その長女で、決まった相手もいない、国立大図書館の副館長。歳も王子殿下とそこまで遠くはありませんし……家格も歳も、役職もちょうど良かったのでしょうね」
それは、事実なのだろう。
貴族なのだから、珍しいこともない……のだろうけど。
彼女の様子からも、この話を歓迎しているようには到底見えない。
「……でも、シャーロット。婚約、嫌なんじゃ……」
「いいえ。とても光栄なお話ですわ。王子妃なんて、私には恐れ多いようなこと、ですもの。ロイアー家にとっても、名誉なことでしょう?――なんて」
かち、と。
普段なら食事のマナーも完璧なはずの彼女が、小さな音を立てて食器を置いてしまった。
「……本当は、そう言わないといけないのですよね。わかっています。わかっていますけれど……」
「……シャーロット」
「リリーには、正直に言っても……許される、でしょう?」
ぽろり。
彼女の宝石みたいな青い瞳が、きらきらとした涙を一粒零して、それは彼女の白い頬を滑り落ちていった。
その一粒をきっかけにして、次から次へと、彼女の感情が溢れていく。
「私……っ。私、嫌です。婚約なんて……っ。王家に嫁ぐのなら、リブラリカの仕事を辞めなければいけませんわ。私、この仕事を辞めたくなんてないのに……っ」
親友の嗚咽混じりの声を聞きながら、黙って座ってなんか居られなかった。
食事中に席を立つのはマナー違反だとわかっていたけれど、テーブルを回り込んで彼女を背後から抱きしめる。
甘く爽やかな彼女の香りに、涙の匂いが混じっていた。
私の腕を、彼女の綺麗な指先がぎゅっと握りしめてくる。
「……どうしても、断れないの……?」
「……無理ですわ。お母様――ロイアー家当主ももう、決まったこととして受け入れていらっしゃるし。王命ですもの」
「そんな……」
「貴族に生まれた時から……わかっていましたもの」
「だからって……っ」
そんなの、悲しすぎる。
シャーロットにだって、意思があるのに。
貴族だからと、本人の心を無視して結婚を決めるなんて。
そう憤る気持ちとは別の場所で、それでも理性の部分ではわかっている。
そんなふうに結婚が決まって、家のため、国のため、といったことが、個人の心より重視される――それが貴族社会だ。
シャーロットと同じように、自由なく結婚する令嬢だって、山ほどいるのだろう。
この世界のこの王国は、そうやって回っている。
そうだとしても、この婚約話だけは――これだけは、どうしても納得できない。
だって、あの時シャーロットは言っていた。
みんなで城下街に行った日。
舞踏会用のアクセサリーを選びながら――。
『……それでも私、好きな人はおりますのよ』
彼女は囁き声で、確かにそう言ったのだ。
好きな人がいるのに、別の人と婚約して、好きな仕事まで辞めなくちゃいけないなんて――。
胸が痛い。
「だってシャーロット、好きな人がいるって……想うのは自由だって、言ってたのに……」
「あら、覚えてらしたの?……ならその時、一緒に言ったはずでしょう?『私には、恋をすることは許されません』――って」
「聞いた、けど……っ。でも!シャーロットの気持ちはどうなるの?」
「大丈夫ですわ。気持ちだけなら、何があっても私の自由でしょう?この気持ちまでなくなるわけじゃありませんわ」
――そんなの、切なすぎるよ。
言葉にならなくて、ただ彼女を抱きしめる腕に力を込める。
彼女はしばらくそのまま黙っていたけれど、やがてぽんぽん、と私の腕を優しく叩いた。
「ねえリリー。もしよろしければ、今夜私の家に泊まりませんこと?……最近、良く眠れなくて」
「……行ってもいいの?」
「むしろ、私が貴女に来て頂きたいの。だめかしら?」
「行く……」
「ああよかった。それならほら、お食事を頂いてしまいましょう?」
「うん……」
優しく促されて、のろのろと腕を解いて、席へと戻った。
気を利かせてくれているのか、アルトは店に入ってすぐの頃から、席の足下で丸くなったまま、身じろぎもせずこちらを見もしない。
その後、味がしないような食事を終えた私たちは、迎えに来たロイアー家の馬車に乗り込んだ。
「あれ、アルト?」
何故かアルトは、馬車には乗らずお座りをしたまま、尻尾をひょいと振った。
「ロイアーの家に行くなら、危ないこともないだろう。お前が泊まりにいくこと、イグニスに伝えてくる。朝までにはそっちに行くから、それまでロイアーの言うこと良く聞くんだぞ」
「リリーの事は、私が責任を持っておもてなしいたしますと、お伝えくださいませ」
「ああ」
「……わかったけど、そんな、子供みたいに言わなくても……」
私の不満たっぷりの返事にも、アルトは「はいはい」、と尻尾を振って、するりと夜の闇に溶けていってしまった。
こんな時、アルトが普通の猫じゃなくて使い魔なんだということを再認識する。
「さあ、参りましょう」
「うん」
ロイアー家の馬車は、まっすぐにシャーロットの屋敷へと向かった。
相変わらずの豪奢で大きすぎる屋敷に到着すると、侍従に案内されたのは客間ではなく、シャーロット本人の部屋だった。
貴族の令嬢同士でお泊まり会をするとしても、普通宿泊する部屋は別々のはずなのだが……。
ほんの少し困惑しながら部屋を見渡す私の手を、シャーロットはぎゅっと握った。
「リリーが嫌でなければ、私のベッドでよろしい?」
どうやら、本気で同じベッドに寝るつもりらしい。
勿論、断る理由なんて何もなくて。
「うん、一緒に寝ようか」
「……ありがとう、ございますわ」
小さな声でお礼を言った彼女が、今まで見たことのないほど小さく見えた。
広い浴場で湯浴みを済ませ、シャーロットのものだという上質な生地の寝間着を貸してもらい、二人揃ってベッドに潜り混んだのは、時計の針が頂上を少し、過ぎたくらいの頃になっていた。
シャーロットは、私の隣で静かな寝息を零しながら深く眠っている。
最近眠れていなかったと言っていたのは、本当のことだったのだろう。
彼女の寝顔には、染みついたクマがくっきり出ているのが月明かりでもわかった。
「…………」
少しだけ身じろぎをして、仰向けになるとベッドの天蓋を睨み付ける。
私がどれだけ悩んだところで、どうにか出来るような話ではないと、わかってはいるのだけれど……。
どうしても、納得がいかない。
――本当に、どうすることもできないのだろうか。
シャーロットの恋する気持ちを、応援したい。
ああでも、そうなると……シャーロットのことを好きなオリバーが可哀想なことになってしまう、かも?
……いっそのこと、シャーロットの想い人が、オリバーだったなら。
なんてことをぼんやり思った。
いやー、そんな都合のいい話なんて、あるわけないけれど。
でも……もしそうだったらいいのにな、と思った気持ちは、本物だ。
ふわふわでさわり心地の良い夏用のブランケットを、ぐっと頭の上まで引き上げた。
シャーロットのことだってどうしていいのかわからないのに、目を閉じれば……眠る直前、シャーロットに言われた言葉が、耳の奥にまた響いた。
――『ねえリリー。貴女は、きちんと告白してくださいましね』
『え?!』
並んでベッドに横になりながら、シャーロットは微笑んでいた。
『人生、何があるかわからないでしょう?イグニス様だって、最近はよく外出されるようになりましたし……あれだけのお方ですから、女性は皆放っておかなくてよ?』
『シャーロット……』
『――貴女は、私のように後悔しないで』
……祈るように囁いた彼女の声が、こびりついて消えない。
ロランディアでも、沢山背中を押してもらったけれど……私は――。
ぎゅ、とブランケットを握りしめて、身体を丸める。
一晩、眠るシャーロットの隣で、悶々と物思いに耽っていたけれど……。
結局朝日が昇る時間まで、解決策も、自分のことも……何一つ、良い案は考えつかなかった。
大賢者イグニスの秘書――だなんて名乗っているくせに、私はただただ、無力。
悲しむ親友の隣で、寄り添って眠るしかできない、情けない自分に――少しだけ泣き出してしまいそうだった。
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