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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶
133.感傷
しおりを挟む――こぽこぽと、耳の奥で音がする。
この関係を続けて、もう何十年もが経っていた。
戦いの時代が終わり、人々がようやく地に足をつけて、流れた血の痛ましさから立ち直り、再び歩みを始めた、そんな頃。
いつも通りふらりとこの村に現われた彼は、これまたいつも通りのへらりとした、無駄に爽やかな笑顔を浮かべていた。
こんな腑抜けた男がこの国の新しい王だなんて、そこら辺の子供だって信用しないだろう。
しかし実際、こんなのが王なのだから、本当に人は見かけによらない、と言うか。
質素な魔道コンロを使って淹れたお茶を運び、彼の目の前にティーカップを置いた。
「……ん、ありがとう」
「どういたしまして」
どんなに集中しているときでも、きちんと相手への礼は忘れない。
それがまた、この男を憎めない存在にしている一因だ。
彼の手元をのぞき込むと、どうやら分厚い本にひたすら術式を書き込んでいるようだ。
じっと見ているのに気づいたのか、彼が顔を上げて、その薄紫の瞳と目が合う。
どくん、と己の鼓動が高鳴った。
「……それ、この前言っていたもの?」
動揺を隠したくて、何でもない事を口にする。
彼はにこにこと笑顔で頷いて、ティーカップに口を付けた。
「うん、そう」
優雅な動作でカップを煽る頬に、かつては艶のあるブロンドだった白髪が落ちかかっている。
無意識に手を伸ばして、その一房を耳にかけてやった。
途端、彼の瞳が愛しいというように柔らかく細められて、弾けるように手を引き戻した。
身体ごと彼から視線を剥がし、音のない滝を見つめる。
ぎい、と背後で椅子を引く音がして、次いで足音が聞こえた。
「……ああ、落ち着くな」
そう彼の声が、耳元に落ちる。
後ろからそっと回された彼の腕。
その体温に、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
――若い頃とは明らかに違う、痩せ細った彼の腕。
それでも、この温かさと感触だけは、変わらない。
「……もうすぐ、私は眠るけれどね」
「そう悲しいことを言うなよ」
「自分の寿命くらいはわかっているわ。……ロランディアの魔女、ですもの」
「…………」
「わかってる。あの約束は、忘れていないわ」
「…………ごめん」
ぎゅ、と私を抱く腕に、力が籠もる。
そんな、悲しい声を出さないで欲しい。
私は唯、貴方に託された願いの守人となるだけ。
生涯を――死んで尚その先を、愛しい人の為に使えるのなら、これほど嬉しいことはない。
「謝らないで。私も望んでのことだと言ったじゃない」
「……そう、だけどさ」
ことんと、彼の額が甘えるように私の肩に乗ってくる。
その白髪だけになった頭を、そっと撫でた。
「どうしても、あの2人の行く先を、見届けたいのでしょう?」
「――ああ」
応える声の強さに、ふっと笑みを零した。
これでこそ、この人だ。
「俺のせいでもあるんだ。当事者として、兄として――親友として、どうしても見届けたい」
「いいのよ。私は、貴方の望みを叶えてあげたいのだから」
「ありがとう。アイビー」
彼に感謝されるのは、とても気持ちがいい。
彼の役に立てているのが、嬉しい。
私は徒人だけれど、それでも……この命に、魂に、使い道があるのなら。
全て一欠片も残さず、貴方のために使いたいのだ。
――例えソレが、これから先何百年になるかも分からない時を、ただ彷徨うだけの孤独な存在になってしまったとしても。
「……約束するよ」
彼の強くて芯のある声が、耳の奥に響く。
――嗚呼、なんて心地良い。
「全てが終わったら、必ず君を迎えに行く。君がどんな姿になっていたとしても、必ず俺が、終わらせてあげるから」
「まぁ……。それは楽しみだわ」
「俺は本気だよ」
「わかってるわ」
「……わかってない」
「わかってるってば。もう」
拗ねた声を出す彼が、愛おしい。
くすくすと笑うと、さらに拗ねたような気配がした。
私たちは、一緒になれなかった。
こんなに想い合っているのに、互いに一度も、好きだと言葉にしたことはない。
それでも構わなかった。
この人の腕が、温もりが、言葉が、眼差しが。
その全てが、いつでも私に想いを伝えてくれていたから。
結婚することや、家庭を作ることだけが幸せの形ではない。
歪んでいるのだろうけれど……それでも私たちは幸せだった。
自信を持って、そう言える。
「――ごめん」
彼の謝罪が、土むき出しの天井に響いた。
何についての謝罪なのか、敢えて聞くことはしない。
きっと、わかりきったことだ。
私は応える代わりに、お腹の辺りに回されている彼の腕に、そっと自分の手を重ねた。
おそらく、その謝罪を受ける気は、私にはない。
だって、私は幸せだった。
そしてこの先も……いつか迎えに来てくれるという、愛しいこの人のことを待てるなんて、どれほどの幸せなのだろうか。
彼が頭を預けてくれている肩が、ほんのちょっぴり冷たいのは……気のせいではないのだろう。
本当に、繊細な人だ。
繊細で、優しくて、誰よりも適当で、どうしても憎めない人。
私の愛する彼だ。
大きな水のカーテン越しに、橙色の光が差し込んでくる。
「ほら見て、ザフィア。朝日ね」
「……ああ、綺麗だな」
嘘。
私の肩に、顔を押しつけたままのくせに。
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――それでも、いい。
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この人の隣に居る。
それだけで、いい。
――嗚呼どうか、今だけでいい。
時間が止まって欲しい。
私と彼のこの時間を、どうか永遠に。
ずっとずっと――。
――こぽこぽ。
何処かで水中のような音がする。
滝のカーテンに映った、老いた男女。
その女性の翡翠色の瞳が、何よりも鮮やかに見えた。
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