大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶

128.蝶の誘い

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 急ぎ足で部屋へと戻り、荷物を掴んですぐに踵を返した。
 まっすぐに図書館の正面階段を降りて、玄関から外へと飛び出す。
 むわっとまだ暑い空気が纏わり付いてくるのを振り切るように。
 陽も落ちて、どんどん暗くなっていくあぜ道を、ずんずんと歩いていった。

「…………」

 後ろからトコトコと着いてきているアルトも、ずっと無言のままだ。
 やがて石畳の広場に差し掛かる頃には、村の家々に灯りが増えていた。
 すれ違った民家から子供の笑い声が聞こえてくると、何故か胸が痛む。
 逃げるみたいにさらに歩みを早めて、ほとんど駆け出すように村の入り口を走り抜けた。
 暗くなった森の道は、もう灯りなしで歩けるほどに行き慣れた道になっている。
 迷わず向かった道の先――ぽつんと佇む、リブラリカへと続く扉の前。
 軽く息を切らしながら、その前に立ち止まった。

「……はぁ……」

 足下ばかりが映る視界には、生い茂る緑の下草。
 帰りたくない、けど……帰らなくちゃいけない。
 焔さんに、ああ言われてしまったから。
 彼の部下でしかない私が、逆らうことなんてできない。
 のろのろとドアノブに手を掛ける背後から、アルトがぽつりと呟いた。

「リリー、あいつの言うことは気にすんなよ」
「え?」
「あれは、お前のことを心配しての言葉だ」
「……うん、わかってるよ」

 肩越しに振り返った私は、上手く笑えているだろうか。
 ――ちゃんと、わかっている。
 私が危険な目に合わないように……いつもいつも、彼は私を大切にしてくれる。
 ……わかっている、はずだ。
 本当なら、調査に一緒について行って……少しでも彼の役に立ちたかった。
 大切なときに傍に居られるような……彼にとっての私は、そんな立ち位置でいたいのに。
 悔しい。
 力のない自分が、とても悔しい。
 荷物を持つ手にぎゅっと力を込めて、そして力を抜いた。

「仕方ないよ。私、何も出来ないから」
「リリー……」
「私、帰るね。……ほら、アルトは焔さんの所に行かなくちゃ」
「ああ……」
「またね」

 紅い瞳を心配そうに揺らすアルト。
 本当に、いつも私を気遣ってくれて……まるで兄のようなアルトには、感謝している。
 アルトの視線を感じながら、私は扉を越えた。
 ぎいと、背後で扉が閉まれば、そこはもう、静寂に包まれたリブラリカの最奥禁書領域。
 すっかり染みついてしまった、慣れた匂いを胸いっぱいに吸い込んで、大きく息を吐き出した。
 傷ついた心にも、ちょっぴり沁みる……薬草と、古い紙、インクの匂いだ。

「はぁー……。ん?」

 そんなとき――ちら、と。
 視界の端にひらめいた翡翠色に、一瞬気を取られる。
 振り返った扉のドアノブに、蝶が1匹、とまっていた。
 驚くほど鮮やかに、淡く輝く翡翠色の羽をひらめかせる、優雅な姿。
 どこかで見覚えのあるそれに見とれていると――。

『本当に、帰ってしまうの?』
「え――」

 聞き覚えのある女性の声が、小さく聞こえた。

『あんなにヒントをあげたのに。このまま帰って、後悔しないのかしら?』

 声の主を探して辺りを見回すけれど、自分の他にはアルトさえいないのに。

「あの、その声……アイビーさん?」
『そう。ほら、ここよここ』
「まさか――」

 この場所で、アイビーの声が聞こえるとしたら、怪しいのはやっぱり……この蝶、だよね。
 身をかがめて蝶に顔を寄せると、まるで返事をするかのように蝶が大きく羽を揺らした。

『そうそう、あたり』

 ひらひらと、翡翠色の蝶が舞い上がる。
 ゆったりした動きで舞う蝶の周りには、翡翠色に輝くマナの粒子が煌めいていた。

『それで、本当にこのまま帰っちゃうの?リリーさん』
「……ええ。マスターに、そうしろと言われたので」
『まったく……あの頑固者ったら、本当に融通が利かなくて、臆病なんだから』

 心底呆れたような声がして、蝶は一度瞬くと次の瞬間――半透明の女性へと姿を変えた。

『貴女も貴女よ。言われたからって、本当に帰っちゃうなんて。このままじゃ、イグニスは魔術書の封印を解くことはできないわ』
「え?」

 腕を組んで、これ見よがしに困った表情をする彼女に、私は首を傾げた。

「だって、ほ……イグニス様は、封印を解く方法見つけたって……」
『ええ、確かに教えたわ。封印を解く方法。……でもね、封印は二重に鍵が掛かっているの。彼に教えた鍵だけじゃ、封印を解くことはできないの』
「そんな……じゃあ、もうひとつの鍵って――」

 伸ばされた彼女の白い指先が、とん、と私の胸を軽く突いた。

『教えたでしょう?――貴女に必要な鍵よ、って』
「あ……!」

 その一言で、彼女が何のことを言ってるのか、ぴんと来た。
 やはり、あの宝石池にある何かが――あの魔術書には必要なんだ。

『わかったみたいね。なら……ほら、行きましょ?』

 彼女が差し出してくる手に、反射的に手を重ねそうになって――寸前で、引き戻した。
 ――もう二度と、あの場所に近づかないで。
 そう言われたのは、つい数時間前のこと。
 アイビーにも、もう関わるなと言われていたのに……。
 そんな罪悪感に、どうしていいのか分からなくなる。
 しかし、引き戻した私の手を、アイビーの透けた手に握られた。

「――っ!」

 とんでもなく冷たい感触に、全身が総毛立つ。
 彼女がもう生きていないということを、こんなことで実感するなんて。
 びくりと身を引く私に、しかし彼女は一歩こちらへ踏み出してきた。

『ほら、早くしないと。イグニスたちは封印を解きに行ったんでしょう?今頃困ってるかもしれないわ』
「ちょ、ちょっと待って――」

 ――怖い。
 振り払おうとしても、掴まれた腕はびくともしない。
 何これ、ものすごい力……!
 それでも精一杯抵抗しようとしながら、必死にもがいた。

「だめです!イグニス様に、もうあの場所へは、行くなって言われて――」
『貴女……イグニスの言うことなら何でも聞くの?』

 ぐさり、と彼女の言葉が胸に突き刺さる。
 今の私は……そう言われても、仕方ないのかもしれない。
 頭ではわかっていても、思わず彼女から顔を背けてしまった。

「そういう、わけじゃ……」
『ならいいじゃない。封印を解くために、必要なものを取ってくるだけだもの。あの人の為に、何かしたいんでしょ』
「でも……」
『貴女にしか、できないことよ』
「…………」

 私にしかできないこと――。
 その言葉に、どくんと全身に鼓動が響いた。
 だめだ……焔さんには、ああ言われて――。
 俯いて黙った私の腕を、アイビーが放した。
 今度はひやり、と。
 両肩に彼女の手が掛かる。

『これは、イグニスのためにやらなくちゃだめなの。やらなくちゃいけないことだって――貴女も、わかってるはず』

 ――目が。
 至近距離で覗いた、彼女の瞳。
 色褪せた彼女の全身の中で、その瞳だけが、やけに鮮やかな翡翠色に見える。
 ――あ、あ。
 ――――わたし、は。
 にい、と。
 彼女の唇が、優しい曲線を描く。

『さあ――戻りましょう』
「うん……私、行かなくちゃ」

 私は、宝石池に行って――鍵を、取らなくちゃ。
 私、にしかできない――焔さんの、ため、の――。
 一歩前に出した足が、ふわりと雲を踏むような感触になる。





 ――その感触を、知っていたはずなのに。
 力を失った指先から荷物が落ちて、中身が床に散らばった。
 焔とお揃いにしたマナペンも、カラカラと音を立てて床を滑って……本棚にぶつかって止まった。
 影から出てきた妖精フィイが、ふわりとマナペンに近づくけれど、梨里はそれに見向きもせず、ふらふらと前へ進む。
 翡翠色の蝶に導かれて、再びその古い扉をくぐった。
 むわりと蒸し暑い、夏の夜の森。
 すっかり宵の帳が降りた森の中を、蝶の後をついて走り出す。
 頭の中は、一つのことでいっぱいになっていた。




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