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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶
90.アイスブルーの来襲
しおりを挟むシャーロットから完成していたマナブックを受け取って、上機嫌でロランディア村へやってきた朝方のこと。
「……?何?」
村の入り口を過ぎて、中心部の広場に近づいていくにつれて、いつもとは違う村の雰囲気に首を傾げた。
いつも自宅の庭で作業をしている村人たちの姿が見えず、行く先の村の広場から、いつも以上の人のざわめきが聞こえてきているのだ。
広場には、村中の人が集まっているのではないかと疑うほど、村人たちが集まってきている。
「アルト、なんだろこれ……」
「俺様にもわからん。だが――あんまり良い感じでもなさそうだな」
「どういうこと?」
「人混みの中心から、強力なマナを感じる。なんかとんでもないやつがいるぞ」
肩の上で、アルトが警戒して毛を逆立てているのがわかる。
到着した広場は、朝市以上の賑わいで……一際大きな人だかりの中心に何があるのか、ここからでは見えない。
……何より、アルトがこんなにも警戒している。
あまり、近づかないほうがいいかもしれない。
何となく嫌な予感もするし……と、できるだけ広場の端を歩いて、人だかりを避けてぐるりと迂回しようとした――のだけれど。
ようやっと広場を抜けられる、という頃に、背後でざわっと大きなざわめきが起こった。
「――おおーう!その制服!ちょっと!」
嫌な予感、というのは、どうしても当たってしまうものなのだろうか。
制服、という単語に自分のことだろうかと足を止めかけたけれど、何となく関わり合いになりたくなくて、耳に届いた女性の声を無視したまま歩き続ける。
「おーい!そこの!上品な赤の制服のお嬢さん!黒猫と一緒のー!」
「…………」
ここまで具体的に呼びかけられてしまっては、人目もあることだし……ちょっともう、無視するわけにはいかない。
ぱたぱたと軽い足音が近づいてくるのに観念して、私はそろりと広場を振り返った。
「ええと……」
「やっと振り返ったか!そうそう、お前じゃ!」
明るいというか、軽いというか……そんな口調で叫びながらこちらに駆け寄ってきたのは、水色のローブを羽織った同い年くらいの少女だ。
ローブに映える銀色の長い髪を陽に煌めかせて、華奢な身体に上質でシンプルな動きやすい丈のワンピースを揺らして駆けてきた彼女は、私の目の前までくると、綺麗な顔をずいと鼻が触れそうになるほど近づけてくる。
思いきりのけぞる私の鼻を、涼やかな花のような香りがくすぐった。
少女のアイスブルーのぱっちりした瞳が、まっすぐにこちらをのぞき込んでくる。
眼前に迫る陶器のようななめらかな白い肌。
間違いなく、美少女だ。
「お前からイグニスの匂いがするんじゃが、お前、噂の秘書とやらじゃろ?」
「……え?」
……焔さんの匂い、って何?
唐突な言葉に驚いて、ぽかんとしてしまう私に、少女はさらにふんふんと鼻を鳴らしてようやく身を引いてくれた。
「うむ、間違いなくあやつの匂いがするのう。そこの黒いのはイグニスの使い魔じゃろ?」
「え、えと……」
焔さんのことを、イグニスと呼び捨てにするような人には、この世界で初めて会った。
どういう反応をしたらいいのか分からずに、戸惑ってアルトを見る。
「……お前、何モンだ」
アルトが、紅い瞳を鋭くしながら少女を睨み付ける。
そんな視線すら軽く受け流して、少女は儚げな美しさに似合わない、ちょっと悪そうな笑みを見せた。
「なぁに、イグニスの古い友人じゃよ。あいつのとこまで案内しておくれ」
ものすごく不本意ながら、鼻歌を歌いながら後ろをついてくるその少女を連れて、ロランディア図書館へと来る羽目になってしまった。
アルトはずっと警戒した様子で少女を睨み付けたままで、本当に居心地が悪い。
そもそもこの少女は誰なのか。
――なぁに、イグニスの古い友人じゃよ。
先ほど、この少女はこう言っていた。
見た目には私とそう変わらない年齢に見える……のだけど。
焔さんの古い友人、という言葉が本当ならば、彼女も800年以上の時を生きる賢者……もしくはその類いの人、ということになる。
焔さんだって一見そうは見えない外見年齢なわけで……この少女も、もしかしたら外見の年齢が止まっているとか、そういうことなのだろうか。
図書館の玄関をくぐると、背後で少女が「ほう」と声を上げた。
「うんうん、案内ご苦労。確かにイグニスがおるなぁ」
「あ、あの……」
「ん?ああもうよい。あとは勝手にさせてもらうわ」
「え?ちょっと……!」
ひらっと華奢で真っ白な手をひらひら降って、少女は勝手に歩き出してしまう。
しかもその向かう先は、本当に焔さんがいるはずの保管書庫の方角だ。
……本当に、なんなの、この人。
「おい、追いかけなくていいのか?」
「え?あ……っ」
アルトのぶすっとした声に我に返って、慌てて彼女が消えていった廊下を早足に駆けていく。
よく分からない人に、館内で勝手に歩き回られるわけにはいかない。
急いで追いかけたのだけれど、保管書庫のある廊下が見えてきた時にはもう、その扉が開きっぱなしになっているのが見えた。
「イグニスー!!ひっさしぶりじゃのう!」
「はっ?!うわっ」
その扉から聞こえてきた少女の声と、焦ったような焔さんの声に、最後の距離を慌てて走り保管書庫の中へと飛び込む。
「――焔さんっ!」
「おいっ!おま――やめろヴィオラ!!」
焔さんの焦ったような声がして、同時に目の前に広がった景色に、はたと思考が停止した。
さっきの少女が、べったりぎゅーっと焔さんに抱きついていた。
「…………」
その日のロランディア図書館の朝食の席は、この夏真っ盛りの中、氷点下のような緊張に包まれていた。
私は無言のまま、よく冷えたランジェを喉に流し込み、モニカ特製の具沢山サンドイッチにかぶりつく。
うん、今日もとっても美味しい。
各々が戸惑った様子で黙ったまま食事をすすめる中、脳天気に明るい声が響いた。
「んー!なんじゃこれは!こんなに美味しいサンドイッチは何十年ぶりかのう!」
ぴく、と私の手が小さく反応する。
焔さんに「ヴィオラ」と呼ばれていたあの謎の少女は、あの後なんだかんだと騒いで焔さんにべったりと、食堂まで着いてきて……いつの間にか、ちゃっかり朝食の席についていた。
しかも座ったのは、焔さんの隣の席。
……いつもは、私が座っているはずの場所だ。
「……おい、うるさい」
「なんじゃイグニスー相変わらずつれないのう。お、ランジェもよく冷えておって……うーん!最高じゃ!」
咎めるような焔さんの言葉も気にせず、今度は冷えたランジェを飲んでぷはーっと上機嫌の少女。
「…………」
私のサンドイッチが、手の中でぎゅっと少し凹んだ。
保管書庫であの光景を見て、一瞬思考が停止した私だったけれど、今はある程度、頭の回転が回復してきている……はずだ。
色々気になる点はありすぎるほど、なのだけど……。
何より一番気になるのは。
「おいってば。いい加減にしろよヴィオラ」
「なんじゃイグニスー。歳取ってからそんなにイライラするものではないぞ?」
焔さんの、彼女に対する口調だ。
私に対してはいつも、紳士的で丁寧な口調の焔さんが、彼女に対しては随分と砕けたような……素の反応をしているように見える。
焔さんの古い友人。
それは勿論、あり得ることなのだろう。
だって彼はもう、800年以上生きているのだから、私の知らない過去や知り合いがいたっておかしくはない。
……古い友人、という言葉が本当ならば、この彼女も相当の年月を生きているということになるし。
問題なのは……というか、やっぱりそれ以上に気になって仕方ないのは。
「あ、イグニスよ、そっちのそれ、取ってくれんかの?」
「自分で取れよ」
「もー、相変わらずつれんのう。そこもいいんじゃが」
「わっ……やめろひっつくな!」
べたべたしすぎではありませんかね……?!
何だかんだと理由をつけて、べったりと焔さんにくっついている、それだ。
焔さんは本気で嫌がっている様子だし、即座にべりべりと容赦なく引き剥がしてはいる……のだけど。
それでもやはり、視界に入って気持ちのいいものではない。
そんなぴりぴりした雰囲気に、こほんとひとつ咳払いが響いた。
向かいに顔を向ければ、困り切った顔のレディ・オリビアとレグルがいる。
「……あの、大賢者様。それで……その、そちらの方を、紹介頂いても……?」
ああ、レグルさんありがとう。
中々誰も言い出しづらかったことを言ってくれたことに、内心で感謝する。
焔さんはめちゃくちゃに重たい溜息をひとつ零すと、ティーカップを置いて心底嫌そうに頬杖をついた。
「ああ……本当に、迷惑を掛けていてすまない。こいつはヴィオラ。隣国に根を張っているはずの女賢者で……不本意ながら、一応、古い知り合いだ」
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